安達論文「神様は、貴方に何を期待しておられるか」
第2章、価値論
第3節 美について
1 生存欲求本能関連の《快感》

(4) 《恋》の際のメンタルな《快感》
[情報吸引力=恋] 生殖活動に関連する《快感》で、フィジカルに体感されるものは、性交渉の際の《快感》一つだけである。だが、メンタルな《情感》に関する《快感》の方は幾つかある。その内の最も基本的なものは、《恋》または《愛》の情感に関連する《快感》であろう。
 動物は雌雄異体になってからは、生殖のチャンスを高めるために、神経中枢の中に、雌雄が互いに相手を求め合う心(欲求本能)が備わった。宇宙の三つの吸引力(重力,電磁力,核力)に、生物時代になって、新たに、第4の吸引力として《情報吸引力》が加わったことを前述した(第1章,第4節,1の(2)の『第4の吸引力』参照)。そして、動物の雌雄が互いに相手を求め合う心(欲求本能)こそは、その《情報吸引力》の最も典型例である。雌雄の求め合いは、既に魚類の頃からあったようである。テレビの科学番組が、魚が雌雄並列して排卵と放精を同時に行なっている場面をよく見せてくれる……釣師達は通常それを「のっこみ」と呼んでいる……。動物は、上陸して、体内受精のために交尾式有性生殖を行なわなければならなくなり、雌雄の引合いは、一層重要なものになった。《恋》とか《愛》とかという情感は、多分その頃から発達を開始したものであろう。
[プラトニック・ラブの快感] この相手を求め合う《情感》も、生殖欲求の段階的欲求心の一つで、当然、その欲求心を基にして、一つの欲求充当活動が形成されている。多くの方は、この相手を求め合う欲求で始まる欲求充当活動のフィニッシュは、性交を果たすことだとお考えのことと思う。だが、実はそうではないのである。生殖活動も、栄養摂取活動と同様、かなり迂遠な過程を持っている。だから、生殖活動の場合も、その欲求充当活動に複数の段階制が採(と)られている。
 性愛的活動を2分して考えたのは、プラトンであった。彼の著書『饗宴』におけるエロス論がそれである。いずれにせよ、性愛の活動は《プラトニック・ラブの段階》と《フィジカルな性交渉の段階》の2つの段階に分れているのである。そして、異性を求める欲求心によって行われる欲求充当活動(プラトニック・ラブ)の段階の方は、《恋》で始まり、伴侶獲得により完了し、フィジカルな性交渉の段階の方は、性交を求める欲求心によって始まり、オルガスムスをもって完了する欲求充当活動なのである。そういうことで、生殖関連活動には、性交を行った際の《オルガスムスの快感》とは別に、伴侶を獲得したときに感受するもう一つの《快感》が存在する分けである。
 英語では、《恋》も《愛》もどちらも《love》の一語で呼ばれている。だから、この辺りの理論を英語等で論述するときは、《恋》を《platonic love》とし、《愛》を《sexual love》として説明して頂きたい。
[人恋うは悲しきもの] 前項で「《恋》または《愛》の情感」という語を使用したが、伴侶獲得の欲求充当活動における欲求心は、《愛》ではなく《恋》である。《恋》は大和言葉では《乞う》《請う》とおなじ意味の語である。また、中国でも《恋》は《乞,請》と同義である。即ち、《恋》は正に欲求心そのものなのである。《恋》は《苦痛》か《快感》かについては色々と議論があると思うが、《恋》が《欲求心》であるならば、やはりそれは《苦痛》であるはず。北見志保子は詩の『平城山(ならやま)』で「人恋うは 悲しきものと 平城山(ならやま)に 廻(もとお)り来つつ たえ難(がた)かりき」と歌っている。この歌が、今でも人々に親しまれてよく歌われるのは、誰にとっても《恋》は堪え難き苦痛であり、そこに共感が湧くからに違いあるまい。
[雌(めす)の選択] 《恋》が請(こ)うているものは、《愛》の伴侶である。《愛》については、この後で分析することにして……求め合う雌雄なのだから、両者が遭遇するだけで、《恋》は簡単に成就しそうに思える。だが、実際はそれは、動物の頃からそう楽なものではなかった。前述したように、高等な動物の殆どが、一雄多雌の優性選択のシステムを構築して生殖活動を行なっている。そして、その場合に、選択の主体が雌(めす)になり、雄(おす)は選択の客体になることについても前述した(第1章,第2節,1の(3)参照)。そうした関係から、《恋の情感》は、雌雄でかなり違ったものになっている。遺伝子淘汰論の提唱者であるR・ドーキンズは「雄(おす)は、己の遺伝子を後世に沢山残すべく、多数の雌(めす)に我が子を生ませようと努めており、雌(めす)は、弱い雄(おす)の遺伝子を受けたりしていると、自分の遺伝子も諸共に淘汰されてしまう虞れがあるので、なるべく強い雄(おす)の遺伝子を受けて、我が遺伝子が淘汰世界を勝ち抜いて行ってくれるように、雄(おす)を選ぶのだ」と言っている。そういうことで、雄(おす)の心には、求める本能しか備わっておらず、雌(めす)の心には、求める本能だけではなく、逆に拒否する本能も、それと同居して備わっているのである。選択の基本システムが《イエスかノウか(Y/N)》であることはいうまでもあるまい。よく「女心は不可解だ」という。女性の神経中枢には、一つの事柄について《拒・諾》の心が同時に働いているのだから、女心が不可解なのも当然である。女性には、自分自身にさえ、自分の心が分らなくなるときがあるという。
 動物には、発情期がある。発情期は、分娩が育児に適した季節の最初の頃になるように定まっているようである。ところで、発情期は、雄(おす)の場合も雌(めす)の場合も同じで、生殖に関する欲求が亢進することによって起こり、発情期でない時期(非発情期)は、逆に、それが減退することによって起こっている。雌(めす)の場合は、ポジ・ネガ双方の心理機能があるので、うっかりすると、発情期は、欲求本能のみが亢進してそれが起こり、非発情期は、忌避本能が亢進して、それが起こっているように思われてしまう虞(おそ)れがある。だが、実際はそうではなく、雌(めす)の場合も、発情期には、ポジ・ネガ双方とも亢進し、非発情期には、ポジ・ネガ双方とも、減退しているのである。
 発情期になると、雌(めす)の心には、まず、求める心の方だけが燃えて来、拒否の心の方は沈静した状態のままである(チンパンジーの雌(めす)などは、この時期に「芋の煮えたの御存知ないか」的なプレゼンティング行動に出る)。そして、雄(おす)が、雌(めす)の発情を知り、生殖を求めて雌(めす)に近寄ると、それに触発されて、雌(めす)の心には、拒否の心が沸き起こる。即ち、雌(めす)の、忌避本能の方は、欲求本能とは若干性質が違っており、何等かの刺激があって、それに対応して発生する情緒なのである。なお、その忌避反応は、雌(めす)は、雄(おす)の肉体が、視覚で間近に見えたときに起こるようである。もちろん、皮膚等が接触した場合も同様であろう。いずれにせよ、雌(めす)は、その忌避本能で、一旦、性交を拒否する行動を取り、雄(おす)の品定めを始める。そして、その品定めの結果、OKなら、忌避本能を沈静化して、求める本能を亢進させ、その雄(おす)に性交を許す。しかし、その雄(おす)がNOなら、雌(めす)は、忌避本能の発動を持続し、その雄(おす)を、拒否し果(おお)せる。その辺の行動は、動物によって、細(こま)かい点では様々だと思うが、凡そ、そのような具合のものだと思って差し支えなかろう。なお、私は、動物の雄(おす)なので、雌(めす)の心を経験的に把握することは絶対不可能である。だからこれは、飽くまでも蓋然的な推測に過ぎないので、その点ご了承置き願いたい。
 ここで、一つコメントを加えておく。拒否反応は、通常視覚で起こる場合が多いようである。だから、男性は、女性のヌードを見たいと思い、又それを見て美しいと感じるが、女性は、そこが全く違って、男性の下半身の肉体が視覚に入ると、不快感を感じ、それが美しく見えるようなことはないのである。この場合は「わが身を抓(つね)って人の痛さを知れ」という、経験法則的推論判断は、全く妥当しない。「男も女も同じさ」という巷(ちまた)の小父さん方のご意見は、全く当たらないのである。動物の場合は、NOの場合には、視覚の段階で遠ざかって、接触の段階に至ることなしに、拒否し果(おお)せるのだと思う。だから、接触状態まで雄(おす)の近接を許すのは、OKの雄(おす)の場合だけで、雌(めす)としては、後は、雄(おす)の求め具合の強弱の調査段階に入るのである。だから、雌(めす)は、最初拒否的に逃げようとしたりはするが、執拗に求める雄(おす)のスキンシップなどを受けると、こころを反転させて、急に欲求の方を亢進させ、寧ろ雌(めす)の方が、より強くそれを求め始める。ところで、人間の場合は、都市的生活をするようになって、視覚による品定めの段階を一気に飛び越えて、接触の段階になってしまうようなことが起こり始めた。ラッシュアワーの電車の中や、男女同居の集団などでのことである。そのため、人間の女性には、NOである男性に、肉体を触(さわ)られるような羽目になることがしばしば起こり始めたのである。女性は、NOの男性の接触には、多分、強烈な忌避感を覚えるに違いない。そういうことで、痴漢とかセクシャル・ハラースメントといったような犯罪は、人間が、都市生活を営むようになって、視覚段階を飛び越した接触というようなことが起こるようになってからのものなのである。そして「男女、七歳にして席を同じゅうせず」という時代には、そんなことは起こらなかったのであろう。
 先日、東京都の労働局雇用均等室長の一杉一子女史の「セクシュアル・ハラースメント」に関する講演を聞いた。そのとき女史は「女性は、嫌な男性に触(さわ)られたりすると、不快な気持ちになるが、キム拓に触(さわ)られても、決して不快な気持ちにはなりません。女性を、不快な気持ちにさせたときだけ、セクシュアル・ハラースメントになるわけですから、普通の男性の、行為はセクシュアル・ハラースメントになっても、キム拓の行為は、セクシュア・ルハラースメントにはならないのです。平等性を欠くように思われる方も多いと思いますが、やはり、そうなのだと知っておいて頂きたい」と言われた。そして、正にその通りなのであって、それに対して、我々あぶれ雄(おす)水準の男性は、何の文句も言えないらしい。
[雌(めす)の恋も大変] 減数分裂で、一個の細胞が雌(めす)の精子と雄(おす)の精子を一個ずつ作るのだから、雌雄の個体数は、必ず同数である。だが、雌(めす)は雄(おす)を選ぶ関係で、雌(めす)が《恋》することの出来る雄(おす)は、その中の一部しかいないことになる。動物行動学では、動物のハーレムは、1対6(半ダース)が平均的だと言っている。そういうことで、雌(めす)の伴侶探し(恋)も、そう楽なものではないのである。
 島崎藤村の詩『おきく』の後半を書いておこう「小春は恋に血をながし 梅川恋のために死ぬ お七は恋のために焼け 高尾は恋のために果つ 悲しからずや清姫は 蛇となれるも恋ゆえに やさしからずや佐容姫は 石となれるも恋ゆえに 恋するなかれ乙女ごよ 悲しむなかれ吾が友よ 恋するときと悲しみと いずれか長きいずれ短き」。
 雌雄同数なのだから、藤村のこの詩のようなことは、起こりそうには思えないのだが……実は、雌(めす)が満足出来る雄(おす)は、雄(おす)全体の中の6分の1しか居ないのである。だから、雌(めす)の《恋》の苦痛も、藤村の詩の様に熾烈なものになるのである。私のような並雄で我慢してさえくれれば、蛇になったり石になったりしないでも済むものを……
[涙ぐましい雄(おす)の努力] このハーレム制による苦悩は、雄(おす)の場合の方が一層過酷である。雌(めす)の苦悩は、伴侶が独占出来ず、ライバルと同居しなければならない程度のものである。それに対して、雄(おす)の8割以上が《あぶれ雄》になって、伴侶を得ることなく、未使用廃棄処分にされて、この世を去って行くのである。だから、雄(おす)の伴侶獲得(恋)の努力は、それはそれは大変なものである。雄(おす)の努力としては、オットセイなどの行なう雄(おす)どうしの闘争、孔雀や鴬などの美しい姿や声で雌(めす)を誘うもの、カワセミなどが行なう獲物(えもの)のプレゼント、巣を建造して雌(めす)を招(まね)くもの、中には巣の用を果たさない豪華な閨房(けいぼう)を建造して雌(めす)を呼ぶものもいる。雄(おす)の場合には、そうした涙ぐましい努力の末、一部の優れたものだけが《(恋)伴侶獲得》の栄に浴する分けである。
[《恋》の下位の部分活動] 生殖活動の中に《恋(伴侶獲得)》と《性交渉》という部分的活動がある。そしてその部分的活動の夫々に、欲求が充当され目的が達成されたときに感受される《快感》がある。ところで、生殖活動の部分的活動である《恋(伴侶獲得)》の活動の中にも、更に下位の部分的活動があるのである。雄(おす)どうしの闘争,建造物作り,プレゼントのための狩猟などがそれである。そして、それ等の活動も、やはり一つの独立した《欲求充当活動》になっており、その夫々に、欲求が充当され目的が達成されたときに感受される《快感》がある。