安達論文 前書き [神様は、おわします] この世に、神様というようなものが存在するかどうか?……そうした問いに対して、現代人の殆ど……科学的・理性的な判断力を保持していることを自負している人達……は、多分「この世に神など存在しない」とお答えになるだろう。だが、表面では、そのように言い切っていても、その実、誰もが、内心(インサイド)には「やはり神のようなもの……自分の生死や幸不幸の決定権を握っている存在……が在るのではないか」と思っておられるに違いあるまい。他人様のことを「違いない」などと断言的に言って申し訳ない。しかし、それには、断言的にそう言える根拠があるのである。
人類には神のようなものを夢想する本能(渇仰本能)が備わっている。そうした本能が、どのような具合で、人類に備わったか?。それは、動物時代のどういう本能から進化して来た本能なのか?。そうしたことに付いては、本論で、科学的に説明してあるので、そこをお読み頂きたい(第1章,第3節,2の(4))
確かに、この世で、現実に経験されるもの、存在することが確認出来るものは、物的なものだけである。生物などに見られる精神的な活動……動物の脳などの活動……も、詳細に検討すれば、そのどれもが、物的なものの相互作用によって起こっている物象的な現象である。その意味では、観念論(Idealism)より唯物論(Materialism)の方が、より真理に近い哲理であることは間違いない。
世間には、神様に実際にお目に掛かった……神の存在を実体験した……ことがあるような話をする人がいる。人間の大脳は、物事を空想する特技を備えている。夢もその一つである。夢は、睡眠中に大脳が行った空想活動のうちの、記憶に残された部分に過ぎない。人間は起きている時でも盛んに空想を巡(めぐ)らす。大脳の健全な人は、空想が事実とは違う自分の大脳の中にだけ構築されたロマンであることを認識している。しかし、空想を事実だと思い込んでしまう精神病がある。神様にお目にかかった話は、多分、そうしたタイプの病気を持っている人が、空想や夢の記憶と事実の記憶を混同してしまってのものであるに違いあるまい。
世間には、数多(あまた)の宗教が存在している。そうした宗教が人々に教える神に関する情報の殆どは、かって、預言者(神からの啓示を受けて、それを一般人に伝える超能力を有するとされた人達、予言者とは違う)と称する者が、定言命法的(Kategorishe)に口舌し、人々が、それを無批判に、そのまま真の情報として信じてしまっているものが殆どである。なお、そうした預言者は、古(いにしえ)の場合は、前掲の、空想や夢の記憶と事実の記憶を混同してしまう精神病の持ち主が多かったようである……シャーマニズムの巫女(みこ)などは、精神分裂病の若い婦人の場合が多かったと言う……だが、近代以降では、巧みに神に関する偽(にせ)の情報を創作し、人々を誑(たぶら)かして、金儲けを企(くわだ)てる詐欺者が殆どであるように思われる。
中世のヨーロッパでは、《ヘブライズム(キリスト教)》も「論理的に証明出来るもののみが真理である」とする《ヘレニズム(ギリシア哲学)》の影響を強く受けて、神の存在を、ギリシア的形式論理で証明することが盛んに行われた。スコラ哲学がそれである。『世界の創造者は神である。世界は厳然と存在する。だから、神も確実に存在する』と言うような形式論理が、その最たるものであった。
この『世界の創造者は神である。云々』のセンテンスは、間違いなく三段論法になっており、いわゆる定言命法的(Kategorishe)なものではなく、論理的なものになっている。だが、形式論理で、演繹的に真理の証明を行う場合は、その一番最初の二つの前提が、現実存在として、経験できるもの(実験証明出来るもの)である必要があり、その前提に、定言命法的(Kategorishe)なものが使用されている場合は、例え、論理が整っていても、定言命法的(Kategorishe)な一言的情報と何等変わることはないのである。そうした、定言命法的(Kategorishe)な概念が前提に使用されている形式論理を、近代哲学では《定言的形式論理》と呼んでいる。なお、デカルトが、中世のスコラ哲学のそうした形式論理を、その著『方法序説』で厳しく批判している。真理の探求に関しては、本論の第2章,第1節,3の(1)及び(2)に詳述したので、そこを参照されたい。
いずれにせよ、そうしたことで、多分、現代人には「神様などいない」と考えている人が多いことと思う。
ところで、そのように《神様》の存在を、一旦否定し切って見ると、改めて今度は「本当にこの世に神様はいないのだろうか」という疑問が湧いてくる。神様の存在の明晰且つ確実な証明は、今のところ出来そうにない。だが、同様に、神様が存在しないということの確実な証明も、やはり出来そうにないのである。
宇宙の様相は、ビッグバンを最初とした場合、それから以降今日まで、変化をし続けて来ている。ところで、その変化だが……ただ物が、ランダム(確立統計的)に物象的離合集散を繰り返しているだけのことなら、宇宙は、最初も、そして現在も、ただ混沌とした乱雑な状態(エントロピー∞)のままの筈である。だが、現実の宇宙の歴史は、決してそうではなかった。宇宙は、誕生(ビッグバン)以来、極めて合理的な道程を辿った変化の仕方をして来ている。それは、何かその変化を操作し続けている主体のようなものが存在していて、それが、ある一定の方向を目指して着々と価値的により高度な物を創造し続けて来たというような変化である。生物が進化して来たことは、誰も否定はなさるまい。そして、生物誕生以前の宇宙も、やはりそれによく似た、ただひたすら価値的に高度化して行く進化経過を辿って来ている。なお、唯物論的な自然科学的理論によれば、この宇宙には、エントロピーが増大し続ける一般的性向があるだけで、その逆の、ネゲントロピー(ポテンシャル)が増加する性向は、持っていないことが証明されている(クラウジュース(=クラウジウス)のエントロピー増大の法則)。それが真理なら、この宇宙には、進化など起こるはずが無いのである。
ところで、そのエントロピー原理の支配するこの宇宙でも、人類は、意志を持っているので、道具などを、着々と高度化し続けて来た。そして、この宇宙の事物も、丁度人類が創り出した道具等のように、今日まで着々と進化し続けて来ているのである。そのことから類推すると、どう考えても、この宇宙には、人類とは別の、その人類さえをも創(つく)り出して来たところの、事物を創造し、それを進化させて来た《意志主体》のよなものが存在しているように思えてならないのである。
そういうことで、私は、逆に、その《意志主体》のようなものが存在することを仮定して、この宇宙の進化を《神様》のなさった所作として検討を進めてみた。その結果、どうしても《神様》というような《意志主体》があって、その《神様》による意図的な(先に目的を定め、その方向へ進化を誘導するような)価値選択が行われなければ、起こりようのない進化の実際例が数多く見出されて来たのである。即ち、どうやら、間違いなく《神様(宇宙の意志主体)》はおわしますらしいのである。この論文の、始めの部分は、そうしたことの証明が中心になった記述になっている。
[生き甲斐について] 何方(どなた)もきっと、この世に生を受けて、ただ、生きるだけでは満足せず、何か《生き甲斐ある生き方》をしたいと思っておられるに違いあるまい。ところで、我が国では、昔は、天皇陛下に忠義を尽くすことが《生き甲斐有る生き方》だと洗脳的に教育され、私などは、全くその通りに思って青年期を過ごしてしまった。ところが、太平洋戦争の敗戦で、その忠義という功徳(こうとく)の価値が瞬時にして無価値なものに化してしまい、我々は、一時完全に生き甲斐を失って、腑抜けのようになって生きた時期もあった。……実際は、戦後間もなくの頃は、ただ動物的に生きるだけで精一杯で、生き甲斐などと言うことを考えている余裕はなかった。
戦後暫くして、若者にとっての、新しい生き甲斐が出現して来た。大学に入り、大学教授達から「次の時代は、社会主義の時代だ」というマルクスの予言を、絶対的真理のように教えられ、若者達は、その「理想の時代」の実現に貢献することが、生き甲斐有る生き方だというように思うようになって行った。実際問題として、戦後間もなく(1950年)の頃から、ベルリンの壁崩壊(1989年)の頃までは、次の時代である社会主義時代を一刻も早く到来させるべく、それに貢献することこそ《生き甲斐ある生き方》だと考えた人は、大変多かったと思う。ところで、ベルリンの壁崩壊と共に、その生き甲斐の対象も、悪夢と化して消え失せて行ってしまった。
いずれにしても、かっては、どの時代にも、人には、生き甲斐の対象になるようなものが存在していたようである。だが、最後の生き甲斐の対象だったイデオロギー(マルキシズム)の陳腐化によって、現代人は、生き甲斐の対象を見失い、今は途方に暮れているに違いあるまい。賢(さか)しらな、インチキゲンチャーは、今でもまだ若者達に対し、ただ抽象的に「生き甲斐有る生活をしろ」と教える。だが、彼等は、どういうことに尽力すれば、生き甲斐有る人生になるかを、一向に教えてはくれない。
人類は、これまで一体、どういう事柄への貢献を生き甲斐と感じて来たのであろうか?……それについて、ヒントが一つ有る……「生き甲斐」という概念は、日本人独特のものであって、欧米には「生き甲斐」に該当する言葉がないそうである。ヨーロッパに「生き甲斐」と言う語が無いとすると、ヨーロッパ人は、ただ生きるだけで満足し、生存以上の何か意義(価値)有る生き方をしたいとは思わないのだろうか?……とんでもない。新約聖書の「人は、パンのみにて生くるにあらず」というイェスの言葉から見ても分かるように、欧米人は、ただ生きるだけで満足などは決してしてはいない。寧ろ、欧米人は「ただ生きているだけでは、動物に過ぎず、生きることを超え、何か意義(価値)有ることを行う者、それこそが人類だ」という考えを持って生きているのである。即ち、我が国の場合には、生き甲斐(意義ある生き方)は、生きることのプラス・アルファーでしかないわけだが、欧米人の場合は、意義(価値)あることを行うことの方が主で、生きることは、そのためのテクネ(手段)に過ぎないのである。だから、欧米には「生き甲斐」の語がないわけである。それが主であるかプラス・アルファーであるかは別にして、そのイェスの「人は、パンのみにて生くるにあらず」の語からも推測出来るように、これまで欧米人は、ただ生きることを超えた意義(価値)有る生活を、キリスト教的な《信仰生活》の中に見出していたらしいことが分かる。そして、それから類推すると、人間は、神様の御期待に貢献したと感じた時に、生き甲斐というようなものを覚(おぼ)えるらしいことも分かってくる。
我が国の「天皇陛下への忠義」という生き甲斐も、日本人は、それを神様(日本人の民族神)が期待していることだと思ったから、それに生き甲斐を覚(おぼ)えたのであろう。「次は社会主義時代だ」というマルクスの予言も、唯物論を唱(とな)えながら、マルクスは《唯物弁証法的必然》という語を使用して、恰(あたか)も、宇宙神が、そうなることを期待しているかの如くに教宣した。その結果、マルキシズムが、20世紀最大の生き甲斐の対象になったのである。即ち、生き甲斐というものが、神様の御期待に応(こた)える生き方が行えたと思ったときに感じられる情感であることは、ほぼ間違いなさそうである。そして、実は、人類には、神様の御期待に応(こた)えたい、という本能が備わっているのである。前述した《渇仰本能》がそれである(第1章,第3節,2の(4))。そして、人類に、そうした《渇仰本能》のようなものが備わったということも、蓋然的ではあるが、神様の存在を証する現証(=現実面に現われる神の存在を証する証拠。佛教用語である)的事象の一つでもあるのである。
これまでは、誰も、真の神様を知らなかった。だから、生き甲斐についても、迷いに迷って来た。しかし、今は、この宇宙に、真の神様が御一神のみおわしますことが分かっている。そうだとすれば、その真の神様の御意向に沿い、御期待に応(こた)える生き方をすることが、生き甲斐有る一生を送る最良の方法であることは間違い有るまい。この論文の本論は、その御一神のみおわします神様が、どういう存在か?……そして、どういう御意向を持って、この宇宙を進化させて来られたか?……その真の神様は、人類に、何を期待しておられるか等々を詳細に検討し、国としては、どういう国家になって行ったら、神様の御期待に沿う国家集団になるか?……貴方個人は、どのように生活し、どの様に振舞って行けば、その神様の御期待に沿った人生を踏んで行けるか?……を検討した論文なのである。
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