ちくちくの記

2003年: 1月

2003.1.19

久々に本屋さんをあてもなくうろうろしてみた。
しばらく前に棚の配置が変わって、何がどこにあるか見ておこうという気もあって、この
頃は素通りしてしまうようなジャンルの本も丹念に見て歩く。それにしても、文庫本が増
えたなあ、知らない雑誌も結構増えてるなあ、などと一人ぶつぶつ言いながら見て歩いて
いた。
何気なく見た平台に気になる著者名発見。城戸崎 愛さん。料理家である。
我が家には、この人の書かれたラブおばさんシリーズの子供向けの料理書がある。小学生
時代に、工作と折り紙関連の本と漫画と絵本以外にほとんど本を欲しがった事のない子供
が、唯一欲しがった別のジャンルの本である。
お菓子から普通のおかずまで、写真で材料やら手順が載っている。合間には楽しいイラス
トやコメント。子供だけでなく大人が見ても楽しくて料理しようかなとの気にさせてくれ
る本だった。この本に刺激されて、小学四年生の子供が毎週一日だけ一人で夕飯を作ると
自ら宣言し、半年以上続いたのである。
おかずは暖かいけど味噌汁が冷めていたり、時間がかかりすぎて食事が始まるのが九時過
ぎていたり、手も口も出したくなるのを押さえるのに苦労したりと、いろいろあったけど、
子供にはとても大きな経験だったらしい。何よりも、料理は楽しい、自分でおいしいもの
を作るって楽しいと思えたことが一番大きかったようである。
それに、この本に載っていた料理はどれもおいしかった。中でも、本を見ながら丁寧に作
ったハンバーグは家族全員でおいしいおいしいといいながらあっという間に食べてしまっ
た記憶がある。
そんなことをふっと思い出しながら手にとって読み始めたら、買わずにはいられなくなっ
てしまった。帰って読み始めたら止まらなくなって一気に読み終えてしまう。料理の話を
しながらこの人の越し方も語られている。よく読めばもう喜寿を過ぎたとある。喜んでも
らう料理をしたいとの言葉にはっとする。このごろ、半ば義務感に縛られながら作ってる
ことの多い自分に対して、ぴしりと鞭を入れられた気分である。
その上、若い頃には結核をわずらい、結婚したばかりで子宮ガンになり、壮年期を過ぎて
からは忙しさの付けが回って糖尿病になり、と色々あったようなのに、語り口はどこまで
も前向きで明るい。こんな風に齢を重ねることができたらいいなあと思う。
これとは別に見つけた本がもう一冊。柳 宗民の雑草ノオト。
ノオトの言葉と表紙に書かれたてんとう虫やモンシロチョウ、見慣れたねこじゃらしやは
こべに妙に心惹かれてしまう。ぱらぱらと開いてみたら、幼い頃から慣れ親しんだ雑草が
次々に飛び出してくる。それも写真ではなくスケッチで。
そしてタンポポが描かれたページで手が止まってしまった。なんとベングドソンのステッ
チの図案そっくり。根っこが書いてないから違うといえば違うんだけど、綿毛の位置、葉
の傾き方など、あまりに良く似ている。なんだか妙にうれしくなってこれまたお買い上げ。
家でゆっくり眺めて読んで、いいもの買っちゃったと思う。ひとつひとつの草につけられ
た趣のある文章。長すぎず短すぎず読んでて心地いい。
じっと眺めていてふっと幼い頃大切にしていた幼年植物図鑑を思い出した。スケッチで描
かれた草花に簡単な説明がついた本。表紙が千切れて何度も補修してもらって、私の宝物
のひとつだった。というか、今も捨てられずに手元にある本。それと共通したものがある
ような気がする。
なんだか何度も繰り返し引っ張り出してみてしまいそうな予感。
そして、著者の柳 宗民さんは、私の好きな柳 宗悦さんの息子さんだった。

書名 :台所好きは老い上手 「七十代の台所」
著者 :城戸崎 愛
発行所:海竜社

書名 :柳 宗民の雑草ノオト
著者 :柳 宗民
発行所:毎日新聞社


2003.1.13

やっと着物の整理終了。気にはなりつつ、伸ばし伸ばしにしてきたことをやっと片付けて、
ほっと一息というところか。
母が持たせてくれたたくさんの着物。着る機会は少ないからいいよというのを、「手が残る
から」とすべて自分で縫ってくれたものである。お前なら大切にしてくれるからと、新し
い生地で縫ったもの以外に、古い着物を洗い張りして縫い直したものや、母の着物を仕立
て直したものもある。私の曾祖母が自らお蚕様を育てて繭を取り自分で紡いで織り上げて
染めた紬のコートも入っている。
久々に広げた着物を見て触ってると、なぜか妙にほっとする。懐かしい箪笥のにおい、柔
らかな絹の感触、しゃらしゃらとした衣擦れの音、たとうに包まれた中から飛び出す鮮や
かな色。どれもこれも気持ちがふんわりしてくる。
最も、そう感傷にばかり浸ってはいられない。今回、着物の整理を始めたのにはわけがあ
る。実を言うと、頂き物の着物や絹物の布地があちこちに積み上がって、整理しないとい
けない状況に陥ってしまったのだ。
細工物にでも使ってと叔母さんや母の知り合いのおばさんたちから頂いた古い着物、押入
れや箪笥の整理をしたら出てきたからと折々に母から送られてくる古い着物や絹物の端切
れ、どうもあんたのサイズに仕立ててあるみたいだよと妹から送られてきた着物、等々。
よくまあこれだけと思うほど集まってしまった。
自分がとっておく分をまずお片づけ。思っている以上にたくさんあって少々困惑気味。お
次は染みや傷みがひどくて着るにはちょっとねえと思うものを別にする。新旧取り混ぜた
布地も別に仕分ける。残ったのは、できれば切り刻まないで着物として生かしてやりたい
ものばかり。
着物が好きでしょっちゅう着てる知人に電話して、着てもらえないか打診。たまたま家に
いた彼女、早速すっ飛んできてくれる。お気に入りのものを引き取ってくれることになっ
たのだけど、こんなにたくさんいいの?と遠慮気味。切り刻まれるより着物として生きて
出るほうがうれしいのだからと、無理にお願いする形でもらっていただく。着ないままし
まいこんでおくよりも、好きな人に好きなだけ着てもらうほうが着物も本望のはず。
他にも何枚か、知人の娘さんに着てもらえることになって、少々ほっとする。
そんなこんなで、あちこちにおいてあった着物や布地が片付いて、宿題を片付けたような
気分。さて、取っておいた着物、いつ着ようかなあ。


2003.1.4

ここ数年、頂き物が多くて毛糸の在庫が増加するばかりである。
加齢とともに編み物から遠ざかった人達が、私がいなくなったら捨てられるだけだから気
に入ったのだけでも使ってくれる、と処分できずに抱え込んでいた毛糸をくださることが
多い。
袋に入ったままの新しい毛糸があったり、ほどいて洗ってきれいに巻いてある毛糸もあれ
ば、編み残りの半端毛糸もあるし、自分では買ったことも無い様な高級品も混じってたり
する。色も材質も形状も様々で、見ていて飽きない。
わたしの編み物は、最初に材料ありきで始まってるので、集まった毛糸の山を見ていると
わくわくとしてくる。頭の中では、毛糸をあれこれ組み合わせ、いくつもの作品が出来上
がっていく。でも、いかんせん時間と技術が追いつかない。
とはいえ、積み上がっていくだけの毛糸を眺めていても事は進まない。手を動かして編ま
ない限り糸は糸のままである。てなわけで、ここの所、寒くなると編み物にいそしんでい
る自分がいる。掛け声は毛糸在庫減らしキャンペーン。
古毛糸は適当に処分してといわれたけれど、玉に巻かれるまでの過程を考えると無碍に処
分できない。何にするのが一番いいかと考えて思いついたのが靴下。寒い場所で仕事をす
る人たちがあったかくて手放せないって言ってたことを思い出す。
これはヒットであった。編んだ端から羽が生えたように飛んでいく。欲しいという人は次々
に出てくる。編みたい気持ちも満足できるし、積み上がってる古毛糸や半端毛糸もなくな
るし、いうことなし。
他にも帽子やマフラー、思いつくままの編み込みセーターなど、結構色々編んで楽しんで
いる。もっとも、編み上がった物の大半は、誰かに貰って頂くのだけど、、、。だって、
ひとつしかない体では、とても使いきれない。家族に編むのも限度がある。
てなわけで、振り返ってみると毎年数キロの毛糸が形になってる計算である。
でも、こうやって毎年かなりの量の毛糸を消費してるのに、毛糸の入れ物は中々空になら
ない。減ったと思えばまた増えて、の繰り返し。
わたしも誰かに、良かったら使って、と毛糸のまま進呈することになるのかなあ。


2003.1.3

箱根駅伝終了。今年もまた、往路復路ともに沿道へ出て応援。
ただ走るだけの姿がなんであんなにすがすがしいのだろうかと見るたびに思う。
それに反して、見る側は、、、。
何度注意されても車道に飛び出し、応援旗を選手すれすれに振る。
一人が前に出れば、隣の人が見えないからとまた前に出る。ぐわんと膨れ上がった人垣が
走る選手の邪魔になる。膨れ上がった状態で旗を振るから、見ていてひやひやしてしまう。
事故がおきてからでは遅いのにと思うけれど、毎年のこと。何とかならないもんかなあ。

年末に、ここ三年分の手仕事関連のノートを整理した。なんとなくばたばたしてて後回し
になっていたものである。ノートといっても大したものではない。作ったものと材料、用
具、費用、所要時間、それにちょっとした覚書。
一年ごとに作ったものを書き出し、年間の手仕事にかけた時間の集計をし、メモを一緒に
綴じこんでおく。たったそれだけの作業。それができなかったんだから、気持ちに余裕が
なかったんだろうな。
三年分の集計を眺めていたら、良くこれだけ作るなあと呆れてしまった。
強いて作らなくとも何も困ることがあるわけでもないのに、様々なものを作っている。手
仕事はストレス解消の意味合いもあるから、気持ちがくさくさするときほど進む傾向はあ
るけれど、これほどやってるとは自分でも思わなかった。
メモを眺めていると、作っていたときの状況が浮かんでくる。作っていてどんな感じだっ
たとか、前後に何があったとか、誰のために作ったとか、出来上がりはどんな具合だった
とか、まるで日記のようである。
古い記録を見たらどんな感じだろうと、ノートをつけ始めたときからの分を全部引っ張り
出して眺めてみた。一番古い、子供がまだ2、3歳頃の記録を見ても、同じように様々な
ことが鮮明に浮かんでくる。これにはびっくりであった。
元々は何かを作るのにどれくらいの時間がかかるのか知りたくて始めたメモだった。付け
始めたら面白くなって、材料や用具、費用、覚書などが追加されて現在の形式になった。
ただそれだけの用途の為と思ってつけていたメモが、こんなに様々なことを物語ってくれ
るとは予想だにしていなかったから、なんだかとっても不思議な気分。
この記録、大切にしないといけないかな。


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