ちくちくの記
2007年: 8月
2007年8月30日 お祝い用のステッチを刺し始めたものの、中々進まない。サイズ的には余り大きくないから楽勝と思った のはどうやら甘かったようである。 まずは使う糸数がかなり多い。ということは結構頻繁に色換えがあるということ。次は1/2ステッチの 多さ。チャートを見た時点では余り気がつかなかったのだけれど、刺してみたらあちこちに出てくる。そ れも半端ではない。更にバックステッチ。これまたてんこ盛り。 刺し始めて2週間。まだ半分に届かない。9月の半ばまでには仕上げたいのに果たして間に合うのであろ うか。心配になってきてしまった。本人に直接あげたいと思っているんだけど、間に合わなかったら送る しかないかなあ。 実は一ヵ月後の10月にも、もうひとつお祝いごとがある。これまた同じようにお祝いステッチを進呈す るつもりでいる。既にチャートも決めたし、材料もぼちぼち準備中。サイズは今刺してるものと同じくら い。こちらは使っている色数もそんなに多くないし、1/2ステッチも余りない。ただ、チャームをつけ るようになっているのだけれどすぐには手に入りそうもない。仕方がないのでそこの部分はステッチで補 おうと思っている。 これも同じように見通しが甘いかなあ。何とか間に合わせたいんだけどなあ。
2007年8月29日 本屋さんの手芸本コーナーに編み物関連の本が並び始めた。今年は出足が早いし、数も多いような気がす る。それも比較的簡単なものが多い気がする。更に鉤針編みが多いようにも思える。去年からぼちぼち出 ていたモチーフつなぎは一番種類が多い。様々な糸で編む小物が多いような気もする。とは言うもののこ こしばらくほとんど見かけなかったアラン模様も出ている。また編み物ブームなのだろうか? 新しく出たものをぱらぱらと拾い読みをすると、イメージ先行のつくりだなあと思う本が結構ある。これ までの編み物本はどちらかというとハウツウもので、編み方が丁寧に載っているのが主流だったような気 がするのだけれど、今の本はそれだけでもない気がする。もっとも、編み方を丁寧に載せなくとも済むよ うな至極簡単な編み方のものが増えているからかもしれない。 実を言うと、編み物本は技術偏重に過ぎていて余り好きにはなれないでいた。技術的に追いついてないと いうのもあるのだけれど、どちらかというと色で遊んで形や編地はとってもシンプルというのが基本のわ たしには、あまりにごてっとしていてついていけないと思うものが大半だった。編み物本を持ってはいる けれど、編目記号の見方とか、基本的な編み方とか、出来上がりサイズや配色や模様などを参考にするこ とはあっても、そのまま編むということはほとんどなかった。今出ている本に載っているような単純な編 地、単純な形のもの、小物などは編み物本にはあまり載っていなくて、自分でそれなりに工夫して編んで いた。 だからなのか、あれこれ自分で試行錯誤して編んでいたようなものが、きれいな写真で素敵なイメージで 載っているのを見ると、何だか変な気がしてしまう。ぐるぐる丸を編むだけだったり、編み方練習のよう なひとつの編み方で編んだ四角をつなぎ合わせてあったり、こんなの本にすることもないんじゃないの? と思ってしまう。 これまでの凝り過ぎていた(と思える)分の反動なのだろうか。 編み物はとっても大変なものという思い込みをぶち壊してくれるような記述は、編み物に対する垣根を低 くしてくれるようで何だかうれしい気がする反面、うーん何だかなあと思わなくもない。だって、余りに イメージ先行で絵本としか思えないものや、肝心の作り方が余りに大雑把過ぎて初心者にはわからないだ ろうなと思うものが結構ある。簡単な編み方のものの方がその傾向が強いような気がしてしまう。 どの本も結構なお値段なんだから、せめて編目記号の見方や基本の編み方くらいはきっちり載せて欲しい なと思うのだけど、どうなんだろう。じゃないと、入り口で躓いてまた編み物は面倒なものとのイメージ が増幅されてしまうような気がしてならない。昔のように周りに一人や二人は編み物をする人がいてちょ っと聞けば教えてもらえるという環境ではなくなってきているのだから。
2007年8月27日 手の感覚ってどの程度敏感なものなのだろうか? なぜこんなことを言うかといえば、つい最近、あれっと思うことがあったから。何かといえば、見掛け上 は太さも素材も同じに見えた夏糸でモチーフを編もうと糸を指にかけた時点で何だか違うと感じてしまっ たこと。 糸整理に伴って発掘した大量の綿アクリル混紡の糸。ラベルのないものや、解いたものも混じっていたの で目と手触りで多分同じ糸であろうと見当をつけて集めておいた。何しろ頂き物なので解き糸などは詳細 がわからない。たまたま未使用のラベル付の糸が何個か同じ袋に入っていたので、色も手触りも同じに思 えるから多分同じ糸であろうと見当をつけた次第。 洗濯機でガラガラ洗えるひざ掛けが欲しいなと思っていたところだったので、モチーフつなぎで作ってみ ようかなと編み始めてみた。同じ糸であろうと見当をつけて集めた糸は推測が正しかったようで大半は違 和感なく編むことが出来るのだけれど、中のふたつの玉だけが何だか違う。 見た目では太さも色も変わらないしちょっと触っただけでは同じように思えるのに、手にとって編み始め るとどこか変な感じがする。指の間を滑る糸の感触も、針にかけたときの引っ張り具合も、編めば編むほ ど微妙に違う感じがする。でもまあとにかく一枚編んでみようとモチーフを一枚完成させた。 出来上がったモチーフのサイズは同じ様に見えるから多分糸の太さは大差ないのであろう。でも手触りが まったく違う。糸だけではそんなに硬く感じないのに、出来上がったものは妙に硬い感じがする。 たまたま同じ混紡率で太さの違う糸があったのでそれでも編んでみた。片や2本取り、こなた1本取りで ある。出来上がったモチーフは予測したとおり大きさは大体同じになった。手触りも大して違いを感じな い。ということは、違和感を覚えた糸はやっぱり素材が違うってことなのだろうか。 毛糸と違って夏糸は感触が違うとなるとその差は大きいことが多いなあ、と何となく思っていたけど、ど うやらそれが実証されたようである。
2007年8月22日 次はこの糸でと心積もりをしていた毛糸でセーターを編み始めてみたらつなぎ目だらけ。他の毛糸玉もそ うなのかなと解いてみたら、どれも同じ状況でとてもセーターを編むどころではない。帽子を編むのすら 何回か糸をつなぎ合わせなければいけない状況。手触りも色もいい感じの毛糸なのにとても残念。頂き物 なのだけれど一体何に使った毛糸なのであろうかと不思議。 仕方がないので別の糸を捜す。整理したおかげで捜すのはとても楽。あれこれ候補はあるけれど、途中ま で編んでみたもののどうも意に染まずほどいてしまいこんであった毛糸を使うことにした。編みながらこ の毛糸いつ買ったんだっけと思う。考えてみたらかなり以前であることに思い至る。早く使ってあげない と毛糸も風邪をひいてしまう。 そう考えて、毛糸が風邪をひくという言い回しは標準的なのだろうかと思う。毛糸や布が古くなって何と なく張りやつやを失ってくる状態を布や糸が風邪をひいたと小さいころから言い習わしてきた。でも今の 場所に住むようになって、この言い回しを聴いた記憶が余りない。そもそもそういった話を余りしたこと がない。うーん、皆どういう言葉で表すのであろうか。疑問である。 まあそんなことはさておき、つなぎ目だらけとわかった毛糸は何に使おうか。取り敢えず比較的長そうな 糸をかき集めて二つほど帽子を編んでみた。縞や模様を編みこんだのもあって、つなぎ目の始末にうんざ り。帽子そのものは結構いい感じに出来上がったんだけどねえ。 残っているのは更に短いものばかり。とてもつなぎ合わせて使う気になれない。モチーフでも編むかなあ と思うけれど、編んだモチーフは何に使おうかと考えるといまひとつ食指が動かない。どうしたものであ ろうか。
2007年8月20日 このところ続いている編み物熱。一体全体どうしたことであろうか。などと思いながらまた次のセーター 用毛糸を物色していたら、目に付くのはモヘアや変り糸、綿や麻、合成繊維などの夏糸が多い。あれ?毛 糸をそんなに沢山消費したのだっけ?と不思議な気分。気になったので毛糸入れの箱を引っ張り出してチ ェックしてみた。 大雑把ではあるけれど糸の素材ごとに分けて入れてあるはずなのに、整理をしたようなしてないような状 態の箱が幾つか。仕方がないのでもう一度見直してみたら、毛糸以外の素材が思っていたより多い。そう いえば、去年から今年にかけて頂いた半端毛糸の半分はモヘアや変り糸そして毛以外の素材だったこと、 それを分類もせず適当に隙間に突っ込んだことを思い出す。 整理してみたらモヘアだけで大袋一杯、ループヤーンやブークレーなどの変わり糸だけで箱ひとつ、綿や 麻などの天然素材の夏糸だけで箱と籠がそれぞれひとつ、素材不明の夏糸と合成繊維の夏糸で箱ひとつ、 超極太毛糸が箱ひとつ、残りがストレートヤーンの毛糸だった。何とストレートヤーンの毛糸以外の糸が 小さいとはいえ箱二つ分も増えている。 全体量で言えば、毛糸入れは増やしてないけどあちこちはみ出していた毛糸は何とか納まるようになった し、毛糸入れそのものはパンパンぎちぎち状態を脱して、何とか素直に蓋が閉まる状態にまでなっている から、量が減っているのは確か。 ということで毛糸は、特にストレートヤーンは、確実に減っているけれど、他のものは減るどころか増え ており、その量も半端じゃないことが判明。これでは目に付くようになって当たり前か。 結果として、毛糸入れの整理も済み、わたしの疑問も解決されたけれど、大量の様々な糸をどう使うかの 問題が残ってしまった。あれこれ頭の中では色んな案が渦巻いてはいるけれど、どれもこれもいまひとつ 決め手に欠ける。というか、これはいい!と手を叩き膝を打つものがない。すぐ編んでみようという気分 になるものがない。しばらく頭を悩ませて見るしかないのだろうか。 まあねえ、いくらアイディアがあっても手を動かして使わなければ材料は減らない。四の五の考えてる間 に、前々から欲しいと思っている綿素材のひざ掛けを半端糸を集めて作ってみようかなあ。でも、毛糸と 違って夏糸は太さが実にまちまち。太さを揃えるのが大変かもしれない。そんなことを考え始めると二の 足を踏んでしまう。
2007年8月18日 今日は朝から薄曇。昨日までの暑さはどこへやら。何だかとても涼しい。 このまま、涼しくなってくれたらいいのだけどなあ。
2007年8月16日 今年の夏は暑い。この一言に過ぎる今日この頃。じっとしていても汗がぽたりと落ちる。大半は団扇の みで過ごすのが当たり前であった我が家でも、今年は扇風機の稼働率が高い。午前中は風が入って何と か凌げても、午後になると風が止まって耐えられなくなるのだもの。 そのせいなのかこの夏季休暇中は麺類を良く食べた。それも蕎麦だの素麺だのという夏の定番品ばかり。 毎日同じようなメニューでも飽きることなく食べていた。 そんな暑い日が続くのに、手仕事は相変わらず毛糸編み。この暑いのに酔狂なことと自分でも思うのだ けれどやめられない止まらない状況。さすがに手に汗をかくから毛糸がスムーズに進んでくれず、編む 速度は遅いのだけれど、気がつけば汗を拭き拭き毛糸をいじっている。 その上、在庫毛糸を引っ張り出して整理してみたり、次はどれを使おうかなと毛糸入れを物色したり、 あれこれ配色や模様を考えていたりする。毛糸に触るより布や刺繍糸のほうがまだ暑さを感じないよう な気がするのだけれど、手が伸びるのは毛糸ばかり。一体なんでかねえ。 わたしの作るつづくろいは設計図があって無きが如し、というのが常。頭の中に大体のイメージはある けれど、そのために布を誂えるのではなく何となく溜まってきたものを使うので、途中で方針変更とい うのは良くあること。その上、裁ち落としの端切れが出るたびに一定の形に切り溜めておいて、そこそ この量になったから形にしてみようかな、などという極めてアバウトな作り方だったりする。 それでもまあ何とかイメージどおりのものができているのだからよしとしている。 そんな作り方をしていて困るのが所定のサイズに切ったけど使わなかった布。頭の中のイメージではこ の色と思って裁断してみたものの実際あわせてみたらどうもうまくないとか、予定したサイズでは大き すぎるので小さくしたとか、切り溜めておいた布が思ったより多くて使いきれなかったとか、途中まで 作ってみたけどどうもイメージが違うので作るのをやめちゃったとか、布が残る理由は様々。残ったも のは箱や袋に入れて何となく整理した形で一箇所に集めてあるのだけれど、余りにも溜まりすぎた。 そんな布を眺めていて思いついたのが小物を作ること。でもねえ作ったって使わなければ意味が無い。 今欲しいのは何かなあと考えて見たけれどこれといって思いつかない。結局出しては見たものの何を作 るでもなく元の場所にしまいこんでしまった。 これからも、こういった形の布が溜まるであろうことは火を見るよりも明らか。溜めておくのはいいけ れど、そのまましまいこんでおくのも癪の種。せっかく一定の形に切り溜めてあるのだし、何とか生か す道はないものであろうか。
2007年8月10日 居間に広げた手仕事を見て、足の踏み場もないとはこのことだなとつれあいが言う。言われてみれば確 かにそうで、ちっと片付けねばと思う。思い立ったが吉日で、出勤前に目に付くところを片付ける。 サイズを見るために床に広げたままの編みかけセーターとあちこちに転がっている毛糸を籠に入れる。 編み物のメモや鉛筆、編み針なども同じように片付ける。そして刺しかけのステッチを刺しかけ籠に入 れたら何だか妙にすっきり。途中仕事を入れる場所を決めてるんだからその都度片付ければ散らかった 感じはなくなるのに、全くいい加減なこと。これも放っておいてもいたずらする人がいないせいなので あろう。 更に読み終えた本や雑誌を本棚に納め、後で見ようとその辺に放り出してあるチラシや気になる新聞記 事を順に見終えて処分したら、あの狼藉振りはなんだったんだろうと思うくらいすっきりしてしまった。 ひとつひとつは大した作業ではないのに、その都度処理しないと散らかってしまうものなのね、と再認 識したことであった。
2007年8月9日 暑くなったせいか水の事故の報道が増えたような気がする。ちょっと前には、我が家のすぐ近くの海岸 で中学生が流されなくなったらしい。場所を聞いてさもありなんと思う。近所のサーフィンをやってる 人が風が無くてもある程度の流れがあるから練習しやすいといっていた場所なのだもの。 遊泳禁止区域だとも言っていたけれど、あれだけサーファーがいれば遊泳禁止区域なんて思わないかも しれない。遠くから海岸を眺めると、沢山浮いてる黒いものは何?と思うくらい波を待って浮いてる サーファーが一杯なのだから。混みあった状態を指して芋の子を洗うようなという表現があるけれど、 波の上に沢山の人がぷかぷか浮いてる様はまさにそのものずばりである。 一度、どのくらいの人が浮いているのかと散歩しながら数えたことがあった。その時はほんの数メート ル歩く間に三桁を超えてしまい、とても数えられる人数ではないわと数えるのをやめてしまった。それ くらい沢山のサーファーがいる海岸なのである。 それに、ボードを抱えて海に向かう人達は、どんな季節でもどんな天候でも結構いる。さすがに台風の 日には見かけたことがないけれど、えっ?こんな天候なのに?と思うような日でも自転車に乗ってボー ドを抱えて海へ向かう姿を何人か見かける。 それだけいつも人が沢山いる海岸なのに助けることができなかったなんて、海とは恐ろしいと思う。川 のように流れが見えないから、沖へ向かえば仕切るものなく広がってしまうから、尚更恐ろしい気がする。
2007年8月7日 暑いとはいえ夜になると涼しい風が吹く。長時間編んでいると多少手に汗をかくものの、毛糸に触るの は大して苦痛ではない。そのせいなのか編み物熱は上がったままで、自分でも呆れるほどのペースで編 み進んでいる。自分でもこんなに編み物好きだったっけ?と訝しく思うほどである。 昨夜も編み始めたら止まらなくなり、糸を引くテンションが変わるのが嫌だからと編みこみ模様の部分 が終わるまで編んでしまう始末。色を変えながら単純な三角模様を編みこんでいくだけだから、時間を 置いたからといってそうそう糸を引くテンションが変わるわけも無いのに。 そんなことはさておき、色の組合せって面白い。単色で見ると派手だったり地味すぎたりでどうやって 使おうかなあと思うような色が、編みこんでみるととっても素敵な色に見えたりする。隣に来る色が少 し違うだけで、同じ色が素敵にも野暮にも見える。似たような色でもほんの少し色目が違うだけで、同 じ色を組み合わせてるのにイメージが違う。絵の具箱をひっくり返して、何を描くでもないのに色を並 べて遊んでいる感じかなあ。 わたしが編み物に精を出すのは、編むことの楽しさや面白さもあるけれど、色あわせを楽しんでいるか らかもしれないという気がしてくる。考えたら、単色で地模様をつけて編むより単純な縞を編むほうが 気に入ってる感がある。つづくろいもキルティング作業よりもピースを縫い合わせてトップを作る作業 のほうを楽しんでいる気がする。特に使う当ても無いのに、色のバリエーションが気に入って刺繍糸や 縫い糸を買ってしまったりすることもある。 うーん、やっぱり色あわせを楽しんでいるというのが一番的を射ているのかなあ。
2007年8月6日 第一弾のセーターと帽子を送ったので、しばらくは毛糸とおさらばと思っていたはずなのに、気がつけ ばまたもごそごそと毛糸を引っ張り出して編み始めてしまった。何を編み始めたかといえば、相も変わ らず帽子とセーター。それも至極シンプルな糸でシンプルなもの。 実を言うと少し手の込んだものを編んでみようかなという気が無いわけではないのだけれど、プレゼン ト用はそうもいかない。模様を入れるのならば縞か単純な繰り返し模様程度、地模様もせいぜいで縄編 み程度、凝った編地や特に目立つような可愛い編み込みは避けてくださいとの指定があるのだ。これは、 貰ってくれる子供たちの間で、不要なけんかが起きないようにとの配慮。 初めてそのくだりを読んだときは目からうろこが落ちる思いだった。物が潤沢な日本では、どうせなら 可愛いものや凝った編地のもの、他の人と違うものなどと考えてしまうけれど、それがけんかの種にな ってしまう世界があるということに思い至らなかった自分が妙に恥ずかしい気がした。 他にもできれば濃い目の色のものをとか、サイズが小さなものよりは大き目のものをとのくだりがある。 これも、毎日洗濯をして着る世界ではないこと、大は小を兼ねることはできても小は大を兼ねられない ことがその理由。 考えたら、自分たちの幼いころも同じであった。今のようにしょっちゅう洗濯するわけではないし、沢 山持つわけではないからできれば何年か着られるようにと最初は大きめで少し濃い目の色というのが至 極当たり前であった。白いセーターなんてとっても贅沢品だった。そう古いことではないのに、そんな ことはすっかりどこかへ忘れ去ってしまっている。 うーん、贅沢に慣れるってこういうことなのか。今の自分がそんなに贅沢をしているとは思っていない けれど、見方を変えたらかなり贅沢な世界に住んでいるってことになるんだなあ、と改めて思う。