ジョルダン・ハシェミット王国史
(世界史の他、地理、現代社会、政治経済に活用可能)
小賀野 勝芳
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パレスチナの東部に位置するジョルダン・ハシェミット王国は、パレスチナ地域の歴史と密接なつながりがある。
現在のジョルダン・ハシェミット王国の地域は、様々な民族により占領されてきた場所である。アッシリア人、バビロニア人、ヒッタイト人、ギリシャ人、エジプト人、ペルシャ人、ローマ人、アラブ人、ヨーロッパ人、トルコ人などにより支配されてきた。
紀元前2000年ころには、大勢のセム族の人々がメソポタミア北部(北東シリア)からユーフラテス川をこえ南下しだし、ジョルダン川の肥沃な流域に定住していった。 紀元前1200年ころのジョルダン川流域には、主としてエドム人、モアブ人、アンモン人、アモル人の4つのセム族グループが住んでいた。イスラエル人と呼ばれたセム族の一部もこの流域に住んでいた。現在のイラク(メソポタミア南部)の地域におこったバビロニア帝国が、紀元前586年、エルサレムを占領し、住民多数を捕囚として連れ去った。紀元前539年、ペルシャ(現在のイラン)がこの地域を支配した。紀元前2世紀、ローマ帝国の支配になった。さまざまな軍勢がジョルダンへ侵入した。しかし、遊牧民であったナバテア人というアラブ人の1種族は、ジョルダン南部の
ペトラ に何世紀ものあいだ敵を寄せつけずにいた。ナバテア人は、隊商貿易とその税金で繁栄していた。しかし、5世紀になると隊商路の変更により収入が減り、7世紀には廃墟となった。636年、イスラム教徒により編成された軍隊が、ジョルダン地域を征服した。イスラム教徒が支配する領域は、ウマイヤ朝(661〜750年)時代には、西ヨーロッパからインドまで拡大した。11世紀末には、フランク人(西ヨーロッパ人)の十字軍がやってきて、その支配下に入った。十字軍は、キリスト教の教会や聖堂を建てた。100年の間イスラム教徒と十字軍がエルサレムなど聖地をめぐり戦った。最終的にはイスラム教徒側が勝った。ジョルダンは一時、エジプト統治者であったマムルーク朝サルタン達の支配下におかれた。1516年になるとオスマン=トルコの領土に編入された。
1914〜1918年の第一次世界大戦で連合国側が勝利し、トルコは敗退した。
1919年に結ばれたヴェルサイユ条約でイギリスの委任統治領となり、イギリス委任統治領パレスチナとしてジョルダン川西岸はイギリスが完全に支配した。しかし、トルコに敢然と戦ったアラブ人達に独立の約束履行を迫られていたため、イギリスはパレスチナの一部(ジョルダン川東岸)にアラブの自治を認めた。そこは、 トランスジョルダン(ジョルダン川の向こう側) と呼ばれた。但し、イギリスは軍事支配権を握ったままだった。ベドウィンら大勢がフセイン一族を支持していたので、1921年、イギリスはフセインの子アブドッラーをトランスジョルダンの首長に任命した。そして、1927年にトランスジョルダン国は立憲君主国として認められたが、依然としてイギリスの委任統治の下にあった。
第2次世界大戦後の1946年、イギリスの委任統治から解放され独立した。 1948年、イギリスのパレスチナ統治が終了し、パレスチナ戦争が勃発した。ジョルダン軍は、エジプト、シリア、レバノン、イラク軍とともに戦った。イスラエル建国を阻止できなかったが、1950年、ジョルダン川西岸地域を正式に自国の領土とした。そして、国名を 「ジョルダン=ハシェミット王国」 と改名した。1967年の第3次中東戦争勃発によって、イスラエルはジョルダン川の西岸地域を併合した。ジョルダンはこの戦争により、20万人にのぼる新しい難民をかかえ、最も肥沃な土地の三分の一を失った。難民の増加やジョルダンに拠点をもつパレスチナゲリラのハシェミット家打倒の動きなどにより、政治不安が増大した。そして、1970年には治安維持法が公布された。1973年に始まった第4次中東戦争では、ジョルダンも参戦したが、ジョルダン川西岸への出兵は行わなかった。なお、ジョルダン川西岸地区については、パレスチナ人は未来のパレスチナ独立国の一部と考えている。
最近のジョルダンは日本との友好関係にも力を入れ、 ジョルダン日本友好道路 (写真参照) という標識のついた道路もできている。なお、この標識は
JICA(国際協力事業団) から派遣された日本人が交通事故で即死した場所のすぐそばにある。