小田原城八幡山遺構群の保存問題の取りあえずの進展についてのご報告

八幡山における学校建設と遺跡保存に関する問題の要点

八幡山における北条早雲遺跡と県立高校の共存もしくは競合問題についての再整理

八幡山に「北条早雲公園」を創る市民協議会
平成14年10月14日

八幡山における学校建設と遺跡保存に関する問題の要点

八幡山の遺跡と遺構あるいは埋蔵保存や遺跡の評価といったものについて、いろいろご見解もございました。これらの問題の整理という面も含めて、実情について改めて説明させていただくことにします。

◆ 事実上の史跡・北条早雲の遺跡と遺構の意義

小田原城八幡山一体は、本来国指定史跡であるべき重要度を備えた遺跡ですが、小田高の存在により指定が遅れてきました。昭和55年の『小田原城跡保存管理計画策定報告書(二)』において、速やかに史跡指定すべきものと再確認されています。文化庁も小田原市も事実上の国史跡であると認識していますが、神奈川県だけが、かなり意図的にその認識を避けてきました。

史跡の保存は、遺構の保全が何らかの理由で特に困難な場合を除き、基本的に公開を目的とします。復元公開を最終目標としますが、遺構の表出状態がよい場合は、必ずしも発掘調査による復元にこだわらない場合があります。

曲輪、堀、土塁、門(出入口)、建物跡、井戸等の遺構は遺跡の一部で、遺構の集中する範囲が遺跡とされています。市教委の調査報告書では、八幡山一帯がすでに「八幡山古郭群」、すなわち、北条早雲古城とこれを拡充した北条時代の遺跡と認定されています。またこれを構成する諸々の遺構は、日本の築城技術を解明する上で不可欠の、第1級の学術価値を備えています。小田高は、その中心部の大半を占めています。

◆埋蔵保存の実態とその意味

神奈川県は校舎を堀遺構から3mほどずらして遺跡を保存したといっていますが、これは直接の遺構破壊を避けただけのこと(それにしても近すぎますが)で、堀とセットになる土塁の範囲は無視しており、全体として、相変わらず遺跡全体の上に陣取る態勢は、小田高時代と本質的に変わることはありません。

県の言う「遺構の埋蔵保存」は、遺構を現在の状態より壊さないようにするが、調査後は埋め戻して学校用地として使用するというもので、基本的には小田高時代と同じだということです。このような埋蔵保存では、遺跡の現場においてどなたも遺構を認識することはできません。史跡の遺構表示の役割というものを度外視した、最低ランクの保存策です。これまで百年埋蔵、そして今日、またも埋蔵という扱いを「一歩前進」だと宣言して全国民に誇れるのでしょうか。

開発対象地が、通常の埋蔵文化財包蔵地の場合、調査による判定後、貴重遺跡とされたものについては、緊急の処置として、可能な限り遺構破壊を回避して、埋蔵保存に協力を求めるという場合も少なくありません。それでも、吉野ヶ里、山内丸山遺跡などのように、そのレベルから一気に史跡に引き上げられて全域保存、復元公開に進み、日本史に画期的な貢献をなしたというプラス事例は記憶に新しいことです。

八幡山古城跡のような事実上の史跡、もしくは史跡同等の価値をもつ遺跡については、緊急処置以前のハイレベルで扱われるべき課題でした。小田原市当局との事前協議もなく、単なる埋蔵文化財レベルで、発掘調査、報告書記録、史跡指定せず埋め戻して従来通りの使用、という神奈川県当局の処理計画は、今日の遺跡取扱の水準ではほとんど考えられないほどの、無神経かつ高圧的な対処です。

◆ いずこの県市町も、史跡に知性と良識を反映している

尾張の織田信長、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、奥羽の伊達政宗、陸奥の南部氏等、いずれも北条氏同様、戦国期に数国を領した大大名ですが、その遺跡はいずれも国指定史跡であり、複数に及ぶ場合もあります。それらについては史跡域の追加拡大、整備のための調査、公開の話題こそあれ、そこに改めて県立高校を建てようなどという途方もない話など、聞いたことがありません。

史跡の中に学校その他の建造物がある場合、建替えの時期には撤去、転出することが原則となっています。城趾公園内にあった城内高校や県立青少年センター、城内小学校が転出、撤去されたのはそのためです。数年前、北条時代小田原城の支城、埼玉県寄居町の国史跡鉢形城では、史跡外にあった城南中学が、調査の結果そこが城内であることが確認され、敷地は史跡に追加指定され、学校は転出しました。

◆神奈川県のやり方は事実上の遺跡潰し

その本拠である小田原城の核心部において、遺跡の保存公開の手立てすらも検討されず、史跡指定の遅れにつけ込むかのように、学校建設だけを先行させて省みない県行政なんて、いまどきどこにあるでしょうか?「なに?本当にまた同じところに学校を建てるの?神奈川県ともあろうものが、そりゃないでしょ」というのが、大方の識者の偽りのない感想です。今年になって市民の指摘を受けて、県はようやく一部復元のポーズを見せていますが、その内容は遺跡の構造を理解できる状態には程遠いもので、大方は地下に葬られた状態になります。

小田高時代とあまり変わらない埋蔵状態を、史跡指定勧告を承知でさらに百年繰り返すという選択をすれば、今日の歴史認識に基づく感覚では、'遺跡の踏み潰し'という印象を残す恐れがあります。このような認識を平成16年で閉校となる小田高関係者に対する「圧迫」とか「いやがらせ」と見るのは全くの筋違いです。新統合高校が、事実上の史跡に強引に建てられれば、前世紀の小田高がそうであったような周囲からの寛容な視線を期待する、というわけにはいかなくなるでしょう。

もちろん全責任は県行政にありますが、担当の役人は次々交代ですから、責任感は雲散霧消です。遺跡の上に残された統合高校だけは身動きもならず、不条理のもとにつらい当事者となることは避けられないでしょう。そんな地元高校の負の翳を共有し続けることは、市民として、決して心穏やかではありません。

◆ 行政、とりわけ神奈川県の高度の良識と英断こそ、未来の光

この問題の解決当事者はあくまでも行政です。地権者である神奈川県は当然その中心にありますが、国指定史跡小田原城という存在が現実にあり、史跡としての不備とその補完という課題もこれに付随しています。その取扱と整備責任という問題については、文化庁の指導のもとに県と市が前向きに取り組み、国民に納得してもらえるように明快に説明する責任があります。

私たちはその事実関係を確かめながら、学校と史跡がそれぞれより適した環境を確保できるような方向で、意見交換をさせていただければと願っております。最終的に将来の神奈川県民、小田原市民、ひいては国史跡を共有する全国民にとってどのような選択が最適であるのか、大局的に勘案する必要があります。しかし、その選択にあたって、市民同士がむやみに対立しなければならないほどの問題点があろうとは思われません。今日の社会が共有している、できるだけ高い水準の良識の適用と実施努力を、行政に期待し、要請していくことが私たち市民の基本であるように思われます。

八幡山における北条早雲城跡と県立高校の共存

もしくは競合問題についての再整理


小田原城八幡山の北条早雲城跡の保存公開と新統合高校建設をめぐる問題につきまして、多くの方々からご意見をよせていただいておりましてありがとうございます。参考になるご見解も少なからずいただいておりますが、その一方で事実関係や社会通念、問題見解の共通基盤等があいまい、まちまちのままで、議論もやや錯綜気味の感があることも否めません。この辺りで、市民協議会の見解も含めて問題を再整理させていただくことにしましょう。

■ 「建設的議論」をすべきということについて。
当然のことです。この問題に関わる場合その基準として、@遺跡も学校もそれぞれの価値を最大限に認め、活かすことを目標とすること。Aより確かな情報、認識に基く分析、思考を心がけること。Bそれぞれ自由の立場で市民論議の可能性は大いに生かし、またその限界をわきまえること。C言葉尻にとらわれ過ぎたり、過剰反応によって短絡に相手の思考を決めつけたり、人格を損なうような言辞は慎むこと等々。いわずもがなのことですが、お互いに心がけたいものです。

■ 「新統合高校」は'小田高'ではないということについて。
新統合校校は県立小田原高校と城内高校を廃し、両校を母体として新設される単位制高校のはずです。すでに小田高でも城内高でもありません。このことは厳然たる事実です。それにもかかわらず、これまでの議論において「小田高には多少デメリットは生じてしまうけど遺跡は100%確保する〜」「代替地に移ることは100%小田原高校が被害をこうむることになります」「県とあなたたちの被害にあっているのは小田原高校であることをわすれないでほしいですね」といった発言があるのは、不思議な現象です。まるで小田原高校の再建を前提にしているかのようです。これは単に言葉尻の問題ではなく、ルール違反の類です。小田高再建を前提にした、あるいは新設高校を小田高関係者が専有するかのような議論は、納税者である県市民の納得外のことであり、また城内高校関係者の立場をないがしろにすることにもなりましょう。ありえない前提での議論は無意味です。新設高校は決して小田高ではないということを再確認しておきましょう。


■  県が八幡山へ建設を予定している新高校の、遺跡との共存とその適否について。

A 「学校施設と遺跡の共存」の現実

 @ 八幡山での公平な共存を期すれば、どちら側も相当の我慢を強いられることを覚悟しなければなりません。
 A 従って、裏を返せばどちらかが優位性をもって他を圧迫する方向で、事態が進む可能性が濃厚です。
 B 八幡山の場合、地権者である県が優位性を堅持して、学校施設をあくまでも当初原案に近い形で実現しようとしています。
 C 国史跡にふさわしい遺跡の最低限の復元公開を確保する場合、小田高敷地だけに限定して共存を実現することは、決定的な無理があります。隣接の市有地を援用して解決することが大きな鍵となりますが、県の対応は柔軟性にきわめて乏しく、それがネックのひとつになっています。

B 誤解されやすい「遺跡」と「遺構」の意味、そして新高校との関わりについて。

 @ 遺構とは堀、土塁、それらに囲まれた曲輪など、遺跡の個々の構築物を指し、遺跡はそれらの総体及び範囲についての認識となります。
 A 新高校は、小田原高校の敷地であった北条早雲古城の本丸の一部、二の丸にあたる西曲 輪、それに隣接する「藤原平」と呼ばれている曲輪全体を従来通り占有します。校舎もグラウンドも遺跡のど真ん中に存在し続けることにかわりはありません。
 B 県は、新高校の校舎は堀遺構だけを避けて設計し、「遺跡を回避した」かのような説明をしていますが、これは誤認もしくは欺瞞です。堀遺構の直接破壊だけは回避されますが、校舎は、曲輪のまん中にあって、遺跡核心部の大半を占拠し、これまで通り大部分の遺構を地中に踏み潰したままの利用となります。これが現在の県の計画の実態です。

C 協議会からの八幡山における共存提案について

 @ 協議会は、堀遺構の全面史跡指定と遺跡の一定のつぼどころが最低限復元公開されるように、上庭のグラウンドはほぼこれまで通りの利用、校舎は主要棟を隣接の小田原市有地(テニスコートと競輪駐車場)に集中し、若干の不足分は現校舎のある西曲輪を、堀遺構と景観に配慮してその一部を使う、というものです。
 A 八幡山共存案は、学校、遺跡の双方にとってそれなりの不満、窮屈感は免れません。この市有地利用案は、八幡山の地理条件のもとに、お互いがそこそこ機能存立できるぎりぎりの妥協線ではありましょう。
 B 市有地は第1種風致地区で建物の高さ8m制限があり(因みに小田高敷地内だけは第4種で15mという変則処置)、また都市計画公園「中央公園」となっているため学校は建てられませんが(同じく小田高敷地は都市計画公園から変則的に除外)、いずれも県条例ですから変更のための行政手続は可能です。県ははじめそれらを理由に取り合う姿勢を見せませんでしたが、最近になって、仮に風致地区第4種に格下げしても、校舎は単位制高校として機能するために1万5千平米必要であり、市有地利用では5千平米足りないからこの提案は飲めないとしています。
 C そこで協議会は県に対し、次のことを申し入れてあります。イ.)5千平米の不足分のため、小田原城にとって最重要の遺構を、半永久的に踏み潰したままでよいとするような理屈にはなりえない。特に市町村の文化財保護に指導的立場にある県行政が悪しき前例を残すべきことではない。ロ.)単位制高校が従来より規模の大きい施設が必要なら、八幡山は当初から手狭であることはわかっていたはずだ。この計画は事実上の国史跡の存在を度外視して始まったところに問題の要因がある。ハ.)どうしても八幡山にこだわるなら、5千平米をできるだけ縮小して西曲輪で充当するか、単位制をやめ従来通りの高校として校舎の規模を縮小するか、何らかの譲歩案を示すべきである。二.)あくまで単位制による現在計画中の規模の施設を遂行するなら、八幡山を選地して無理やり史跡と競合させるようなことはやめ、新たな土地を求めて建設すべきである。

D 八幡山以外の土地利用について

 @ 協議会として城内高校活用案と新規選地案を提案しています。県当局は城内高校について は平地面積が少なく使い勝手がよくないとし、また新規選地は議会の承認を得たものではないとして拒否しています。新規選地は政治決着の手立てが必要でしょう。
 A 小田高の立地条件は、事実上の国史跡の存在を考えれば、'城内高校より使い勝手がよい などと決して言えたものではありません。使い勝手がよいというのは、遺跡を事実上踏み潰すことを前提にしての話です。
 B 新規選地につき候補地、代替地を提示せよという話がよく出ます。素人目には一見まことし やかに聞こえますが要注意です。理由は次の通りです。イ.)市民運動は原則的に事の是非、基本方針、方向性を論ずることまでを限界とし、具体的な方策や代替地の場所まで立ち入ることは慎むべきものです。代替地が公共の場でむやみに話題になったら、利権活動に利用され、市民活動が陰で悪用されることになります。ロ.)したがって代替地の候補地はいくつかありますが、よほどのことがなければ民間側からは公表できません。本来公共用地の選地は役人の仕事です。私たちはそのために税金を納めており、政治家や役人に報酬を払っているのです。 ハ.)また、今時公共用地が探せないほど役人は無能ではありません。トップの方針さえ出ればさっさと仕事はします。土地が探せずに公立学校がつぶれた、などという馬鹿げた話は聞いたことがありません。市民としては、必要があれば必要な筋へそっと情報提供してあげればよいので、仕事として責任を持つ立場にない民間人が、公共の場であれこれ候補地をあげつらうことは控えたいものです。
 C 問題点は単純です。トップと役所当局がやる気になるかならないか、それだけです。やる気 がなければどんなに良い代替案を持っていっても、あれこれけちをつけて不可能だと言い張るだけのことです。県は単位制高校の堂々たる理想的な校舎の設計図まで作らせています。そのこと自体には惜しみなく拍手を送りましょう。しかし、それにふさわしい学校用地を探しもせず、遺跡つぶしによってしかそれを実現できないと言う、そんな間が抜けた話はあるでしょうか。


■ 八幡山の遺跡、小田原城の価値について。
さて、「小田原城って、学校を出さなきゃならないほどお偉い遺跡なのかね」という問いについて。小田原城の文化財としての価値について、責任ある議論をしていただけるなら、ご参考までに、基本的にふまえていただきたい要点を箇条書きにしてみましょう。

A 歴史記念物として

 @ 小田原城は、城郭文化最盛期の戦国時代、江戸時代の城郭を代表する、中近世の複合遺 跡です。
 A 東日本の戦国時代は北条早雲によって小田原で開幕し、豊臣秀吉の軍勢を迎えて小田原 でその終幕を飾りました。小田原城は戦国時代の、日本史レベルで記録される多くの重要な事跡を刻んだ舞台です。
 B 小田原は、源頼朝の石橋山旗揚げによる中世幕開けと、秀吉来攻の小田原合戦による中世終焉の舞台でした。因みに神奈川県は鎌倉期幕府、室町期関東府、戦国・江戸期小田原城と、中近世を通じて日本史に大きな影響をもたらした'相模武士、ものの夫の里'でした。小田原市は県内で最も重要な歴史軸を持つ都市です。すなわち、中世という時代は、相模国と鎌倉・小田原を抜きにして歴史書のページをめくることはできません。

B 小田原及び小田原城は、その知名度においても、文化財としての質においても、日本史上のメジャーリーグクラスの城郭遺跡です。

 @ 小田原北条氏の築城術は、関東のみならず全国の超トップクラスです。
 A 小田原城は、日本で最初に城下町を完全包含した城郭都市としても、特筆されるべき存在です。
 B 小田原城は周囲9キロに及ぶ堀土塁を廻らせた総構(そうがまえ)をもつ、戦国時代最大の城郭です。これも日本史上の特筆事項です。
 C 北条早雲は小田原八幡山築城によって東国の戦国時代の幕を開きました。武田信玄、上杉謙信、織田信長の活躍に先立ってその先陣を切ったトップクラスの戦国大名です。八幡山古城  は戦国時代を象徴する重要な歴史記念物です。
 D 小田原には、戦国期の小田原城、東国近世の開幕を告げる秀吉の石垣山一夜城、江戸時 代の幕閣クラスの品格を備えた小田原城と、各時代を代表する一級の城跡があります。この三  点セットによって、小田原は居ながらにして学べる城郭博物館です。これほど恵まれた城郭遺跡を包含している都市は、全国でも小田原市だけです。現時点ではその特色が見えるような整備がされていないので、一般市民の理解を得るには至らず、宝の持ち腐れ状態にあるのは少なからず残念なことです。

C 史跡整備のために他の施設が転出した事例について
関東中部地方の代表的な事例を紹介します。

 @ 栃木県足利市の国史跡足利学校跡にあった東小学校が転出し、発掘調査の上、今は、立  派な足利学校が復元され、足利市文化財観光の主役となっています。
 A 小学校としては、小田原市の城内小学校の例が身近にあります。
 B 松本城二の丸にあった文化財建造物・明治時代の裁判所が、松本城整備のため解体され、城外に移転再建されました。
 C 金沢城内にあった国立金沢大学が、城跡整備のため城外に転出しました。
 D 戦国時代小田原城の支城であった埼玉県寄居町の鉢形城では、史跡外にあった城南中学校が、調査の結果「外曲輪」の中にあったことが判明して城外に転出、その跡地は史跡に追加指定されました。この事例は小田高同様、史跡未指定地でしたが、あまりごたつきもなく整備が進みました。支城でもこの通り、ご本家小田原城の、しかも核心部に立ちはだかって、県立高校がこれを占拠してはばからないなどとは、「大神奈川県よ、恥を知るべし!」ではないでしょうか。

いずこにおいても、堀(遺構)から3メートル離して校舎を建てる計画を立て、それで「遺跡を守った」かのような次元の低い発言を、得意気にしているような行政体はありませんでした。


■ 遺跡・文化財を観光資源とすることへの反発感について。

@ 貴重な遺跡や文化財が俗悪な観光の対象となることへの反発や批判があります。同感ですが、俗悪にするか否かの問題は、行政を含むその管理者と関係市民の意識と対応に責任の大半があります。私たち市民も「観光=俗悪」にならないよう心がけたいですね。
A 遺跡文化財は自然景観と並ぶ良質かつ最大の観光資源であることは、世界の優れた観光地が立証済みです。また、遺跡の維持、補修の財源確保のため、さらに地域の活性化の一助としても、遺跡や文化財の観光資源としての活用は必要条件といえます。前向きに取り組む価値はありましょう。
B 観光はいまや国際社会において経済活性化になくてはならない存在です。一見観光とは全く 関係なく世界経済を動かしてきたかのように見える、あのニューヨーク・マンハッタンにとっても、観光は重要な経済資源でした。昨年の9.11テロ事件後、当時のジュリアーニ市長の、安全宣言による観光客誘致のメッセージは印象的でしたね。


■まとめとして

@ 小田原城は昭和13年に、城址公園を中心に、小峰に及ぶ総構え一帯の要所は国史跡の指 を受けました。北条時代初期小田原城の中心部として知られていた八幡山は、小田高の存在により指定は後日にゆだねられました。その意味で、そこは指定もれの一部です。昭和55年の小田原市教委刊行の「八幡山遺構群」の調査報告書においても、可及的速やかに史跡指定を受けるよう指摘されており、文化庁も史跡指定を県教委に促しております。関係者、識者の間では、八幡山は「事実上の国指定史跡である」と明確に認識されています。
A そのような八幡山において学校建設を計画する場合、県はあらかじめ文化庁、小田原市教委と誠実に相談し、小田高の敷地を全面発掘し、遺構の実態を確かめ、県市民にその成果を公表してから、識者・県民の声を聞いて計画の可否を判断する、ということが本来の筋です。その間、鎌倉市立御成小学校の埋蔵文化財調査時の前例通り、あらかじめ仮校舎とグラウンドを用意して、学校生活に支障を来たさないよう段取りをつけることが、行政のなすべき仕事です。市民協議会はあくまでその原則に立ち返って、調査を徹底するよう、県に申し入れています。
B しかし神奈川県は、必ずしも現物保存の対象たりえないものに適用する最低限の調査記録の制度、文化財保護法第57条2項のみを適用し、遺構は、記録した後、埋め戻して学校用地として使用するという前提のもとに、計画を進めています。文化財消滅を容認したかのようなこの法律のもとでも、見識ある運用によって吉野ヶ里や三内丸山遺跡のように救済され、社会の脚光を浴びて一挙にスーパー遺跡に浮上した事例も少なくありません。そのようなプラス成果の事実には目をそむけ、県当局は事実上の国史跡である北条早雲の遺跡をなんとか過小評価し、同時に小田高の先住権感覚に便乗して、新設高校に遺跡占拠を継続させようとしています。いかにもさもしい所業ではありませんか。これでも市町村の文化財保護指導の任にあたる県教委行政と言えるのでしょうか?
C また、城址公園と八幡山一帯は、小田原城郭をベースとした県の都市計画公園「中央公園」に指定されています。しかし、その中にある元城内小跡地と小田高敷地は公園には含まれず異常な空白域として残されており、都市計画公園が未完成の状態にあることを物語っています。  このまま県立高校が建てば、また100年以上、都市計画公園の是正が阻まれます。県の施設が県の条例による都市計画公園の完成を阻害し、地元小田原中心部の「中央公園」構想の虫食い状態を強制するという矛盾は、まさに手落ちずさん行政の最たるものではないでしょうか。
D 文部科学省は、小中高校の新たな「学習指導要領」に、地元文化財の保存の重要性と生きた教材としての活用とを明記し、その実践を促しています。県教委の高校施設による事実上の 「国史跡の埋め潰し」という行為は、明らかに国の指導を裏切るものであり、また現場の教師、通学生徒に対しても、今後半永久的に、「遺跡潰し」という取り返しのつかない重圧を押しつけ続けることになります。
E これらの事柄について、県は上級官庁の立場を威圧的に利して、小田原市に相談らしい相談もなく計画を進め、県民に対する説明責任も果たしていません。地元の立場のみならず、文部科学省の指導をも無視した明らかな欠陥起案です。私たち県市民は、こんな欠陥商品を、高い税金を払ってまで買い続ける必要があるのでしょうか。
F 遺跡や遺構に対する認識の乏しかった20世紀の、小田高時代のことはあえて問いません。し かし、21世紀においても事実上の国指定遺跡が、そして都市計画公園の完遂が、地方行政を指導する立場にある公権力の手によって、引き続き闇に葬られるという事態は、明らかに暴挙です。行政間の事前検討、折衝、相談もない八幡山への新高校設置計画は、神奈川県の強権横着行政といった感触は否めません。
G 埋蔵文化財の取り扱いを見る限り、神奈川県には理念をふまえた文化財保護行政というもの は、「皆無」に等しい状態にあるようです。

以上、長くなりましたが、ご通覧、感謝申し上げます。

八幡山に「北条早雲公園」を創る市民協議会
平成14年9月30日

八幡山に「北条早雲公園」を創る市民協議会
平成14年12月23日

11月12日付の神奈川新聞に、神奈川県知事が西湘地区市町首長との懇談会において、八幡山の新統合高校の校舎建設位置をテニスコート側に移すことを考慮するという発言が報道されました。県当局は校舎建設問題については、当面は、期限を定めず再検討するとしています。とりあえずは、最低限の遺構保存の糸口が見えてきたようで、その限りにおいては大きな前進といえましょう。

しかし、県教委が必要としている校舎面積が大変大きいので、八幡山での遺跡との共存は大変無理があることは、これまでの話し合いの過程で明らかになっています。学校施設と遺跡の将来を考えると、学校は八幡山にこだわらず、新たな用地に建設されるべきでありましょう。

また、12月7日の神奈川新聞では、小田高と同じく統合計画が進められていた県立茅ケ崎北陵高校においても、古代の高座郡郡家(役所)跡が発掘され、校地は国指定史跡として保存される方向が決定し、統合高校計画は白紙に戻して再検討されることになったということが報じられています。八幡山も当然同等の扱いをもって解決されるべきものであることは、言うまでもありません。

私たちは今後も、八幡山からの校舎転出の明言を求めて、対応していく必要があります。引き続き、皆様のご理解とご支援をお願い致します。

なお、この問題は、私たちが期待する遺跡保存の方向へ進んだとしても、学校建設を如何にするかという大きな問題を抱えていくことになります。従って、県民市民としては、この状況をいたずらに「勝った負けた」などという次元でとらえることは、決して好ましいことではありません。学校建設も、遺跡活用も、私たちはこれからも自分たちの問題として共有し続けていかなければならないものです。どうかそのような理解のもとに、これからはさまざまな苦労が付きまとうであろう行政や高校関係者諸氏の取り組みに対しても、尊敬の念を持って見守ってくださるようお願い致します。

小田原城八幡山遺構群の保存問題のとりあえずの進展についてのご報告