エッセイ


有事関連法案は国家総動員体制復活の第一歩
       平和憲法の危機に直面して

  ゆきゆきて止まらざる心がりんりんと高鳴る
「無告の民」の語り部として
 「改憲」発言横行するなかで

光る、コスタリカと「小国主義」


紹介:田中彰著『小国主義―日本の近代を読みなおす』
 エジプト雑感
        「悲しみ」をいかに分有するか

  ―日比精錬所(玉野市)に強制連行された中国人を訪ねて―


      有事関連法案は国家総動員体制復活の第一歩


                     上羽 修

 

「皆押し黙って頭を上げる者は誰一人としてなく悲壮なものでしたよ。なかには顔を伏せてすすり泣く人もいた。肉親を戦場に送ったつもりで我々の血と汗のしみ込んだこの土地を御国のために差し出しましょうと、最後に拍手して散会した」(『倉子城』二一号)

 これは、倉敷海軍航空隊建設用地を接収するための説明会の様子です。軍関係者や憲兵、特高警察も同席していました。

倉敷市水島は、現在では全国屈指の工業地帯ですが、アジア・太平洋戦争のとき、「水島軍都整備計画」のもとに三菱重工業水島航空機製作所や倉敷海軍航空隊を建設するため、膨大な土地と家屋が強制的に接収されたのです。そのおおもとに「国家総動員法」がありました。

こんな理不尽なことは昔のことで、これからの日本で起きるはずがない、と思われるかもしれません。しかし今国会で審議されている有事関連七法案は、「国家総動員法」と水脈を同じにしていると思えるのです。

「国家総動員法」(1938年公布)は、労務統制、土地・家屋の収用など、国民生活全般に網をかぶせ、違反者には懲役・罰金を科し、国民のすべてを戦争へ駆り出した人権侵害もはなはだしい悪法です。この法律は敗戦で廃止されましたが、1963年になって自衛隊幹部が、これを手本とした「非常事態措置諸法令」を秘密裏に作成しました(「三矢研究」)。これがその後の有事法制研究の基礎になったとされています。今回の有事関連法案も、「国家総動員法」を手本にしたと思える個所が少なからずあります。

たとえば米軍支援法案では、「内閣総理大臣は、武力攻撃事態において、合衆国軍隊の用に供するため土地又は家屋を・・・使用することができる」、「立入検査を拒み、妨げ、又は忌避した者は、20万円以下の罰金に処する」(国民保護法 案では30万円以下の罰金)。

「国家総動員法」では、「政府は戦時に際し・・・土地若しくは家屋その他の工作物を管理・・・使用若しくは収用せしむることができる」、「収用又は従業者の供用を拒み、妨げ又は忌避したる者」(現代かなづかいに変換)は3年以下の懲役または5000円以下の罰金。

このように土地使用の条文の一部を比較しただけでも、両者はこんなに類似しています。もちろん今回の法案には多くの留意事項がつけられ、国民に受け入れられやすいようにカムフラージュされてはいますが。

当時「国家総動員法」が成立したあと、この法律を補強し具体化するため、「国民徴用令」などの法令が矢継ぎ早に発せられ、日本国民ばかりか、アジアの人たちにたいへんな苦難を強いたことも、歴史の教訓として思い起こす必要があります。

有事関連法案は、アジア太平洋戦争時の国家総動員体制を復活させる第一歩になりかねません。こんな法案の成立を許してはなりません。


            平和憲法の危機に直面して
     ゆきゆきて 止まらざる心が りんりんと高鳴る

                    実盛 和子

ただいま総選挙の真最中である。1分1秒を争う煩瑣のなかにいる。あと1週間すれば審判はくだる。この原稿を書いているいまも背筋の寒くなるような不安と焦燥のなかに身を置きながら、期待に胸を震わせながら、ゆきゆきて止まらざる心がりんりんと高鳴る。

今度の選挙をどう闘い、情勢を有利に転換させるか。毎日毎日が研ぎ澄まされた刃の上を渡るような緊張で日を送っている。争点は明らかだ。迷いはない。ただ行動あるのみ。

わたしの武器は練りに練って作り上げられた憲法問題特集のビラ。今日は娘と中学2年生と小学5年生の男の孫。それにわたしを加えて4人づれで二つの集落へゆき、約200枚のビラを配った。空はうららかに晴れ気温22度、歩くと汗ばむほどの陽気だ。田舎の道は家から家までの距離が長いので時間がかかる。もうお昼はとっくに過ぎているのにまだ終わらない。2人の孫はビラを持って田舎道を走り、しっかりとポストのなかに収めて、意気揚々とまた走って帰る。わたしはふと涙ぐましい気分になった。

「このビラはあんたらが大きくなって戦争にゆくことのないように、憲法を大切にというビラよ。しっかり配ろうな」。
母親であるわたしの娘が言い聞かせ、納得させての上の行動であるらしい。消費税反対ビラもそうだった。下の孫は買い物をするのが好きなので、母親から金をあずかって買い物にゆく。だから消費税の痛みは身を持って知っている。
「消費税10パーセントぜったい反対。だからビラを配る」
と言ったそうだ。子どもは直接的に反応するものだと改めて感心しながら
「よし、帰りは婆ちゃんが奢る。食事にゆこう」
と見栄を切ってしまった。ばば馬鹿と笑えば笑え。  

 
わたしはこの子らをほめてやりたいのだ。山陽町のショッピングセンターの食堂で思い思いの肉料理を食べている孫たちの顔を見ているとまたしても胸が熱くなる。この子たちの未来についての不安がふと胸をよぎる。それは自分の少女期の忌まわしい戦時下のイメージと重なるからだ。

昭和12年7月から昭和20年8月15日の敗戦の日まで、満9歳から17歳まで、わたしの青春は丸ごと戦時下だった。極端な窮乏生活を強いられていたので、家族そろって食堂で会食なんてしたこともない。家が農家なので、物心がついたときから田圃で育った。母が麦畑の草取りをする傍らでまだ学齢にも達していないわたしは母の真似をして、同じように麦の畦間にしゃがんで草を抜いていた。かすかに残る記憶を辿れば、それは幼いわたしが母と接触できる唯一の場所だったような気がする。

着るものも食べるものも不自由な戦時下の生活のなかで、松根掘りの奉仕作業に動員されて背骨を痛めカリエスで寝たきりの父を介護し、一町歩の耕作をする母との接触はいつも農作業のなかだった。信心深い母はものを粗末にせず、人には優しく、実意を込めて丁寧に接した。古い日本の伝統と文化をまもり、常に相手の立場を優先する母の背中を見ながら育ったことに、わたしは感謝している。母の何分の一にも足りないが、わたしが娘に残してやれるものは平和だろうと思っている。戦争のない、ほんのささやかな庶民の暮らしが脅かされることのないように、常に考え学習し行動してきた。誰からも要請されていない行動だった。いま娘は母になり、今度は自分の子らにそれを伝えようとしている。ビラ配りは、働いている彼女にとって、親子がふれあう貴重な時間にもなっているようだ。前途は多難で厳しい道かもしれないが、いまわたしは人生のなかで一番輝いている。(03、11、3記)
     (『岡山の記憶』、第6号、2004年、103頁)



              「無告の民」の語り部として
            中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟の支援を!

                       小林 軍治

はじめに
 2002年12月20日、首都圏を中心に中国「残留孤児」637人が、国を相手に「普通の日本人として人間らしく生きる」ことを求めて裁判を起こした。
 この訴訟は、総額約210億円の慰謝料を求めているが、そのねらいは、次の2点である。 1.国に長年の「孤児」政策の誤りを認めさせ、謝罪を求めたい。
 2.国に「孤児」の残された人生を普通の日本人並に生きられる生活保障制度の確立を求めたい。
 退職を約3ヵ月後に控えて、その後の生き方を考えていた私は、このニュースに接し、身体の芯が疼いた。

 旧「満州」からの引き揚げ体験
 
私は、1942年9月旧「満州国」東安省林口県竜爪村岡山日の出郷(竜爪開拓団)で生まれた。この開拓団は、1937年に拓務省の技師が軍の飛行機上から調査し、もっとも良い土地を牧場と開拓団用地に選定した。



 ここでは、中国人たちの農耕地を関東軍の力を背景に、ただ同然で買収し、働き場所を奪われた中国人を苦力(クーリー)として雇い耕作した。この植民地支配者の生活は、1945年8月9日、旧ソ連の対日参戦を境に大きく変わった。このとき開拓団を守るべき関東軍は「北満」を作戦放棄地区とし、精鋭100万の主力は1944年ごろから比島など南方戦線に移動し、兵舎は「ぬけがら」同然の無防備状態であった。その上、1945年の春から夏にかけて開拓団に「赤紙」が大量に届き、18歳から45歳の男子は「根こそぎ動員」され、兵隊にとられた。父も7月25日に徴兵された。大部分が女、子供と老人となった私たちの開拓団は、8月12日に「ソ連が参戦して北から攻めてくるらしく、この辺も危ない」と避難を始めた。30人程の集団で最初は林口から一路牡丹江目指して線路に沿って歩いていたが、途中から人に見つからないように山道に入った。

 この間、日本の敗戦を知らなかった。「どうも周囲の様子がおかしい」と捕虜を覚悟で下山し、ソ連軍に捕らえられて初めてそれを知った。その後、日本人収容所を転々とし、最後にハルビンの花園小学校に収容された。
 収容所での生活は、寒さと飢えに加えて、ハシカや発疹チフスの流行で毎日子供や老人が死に、異様なにおいがする悲惨な生き地獄であった。餓死を逃れるために、中国人に子供を預ける(時には売る)母親も現れた。こうして預けられた子供たちが、中国残留孤児なのである。

 当時5歳以下の幼児が生きて日本に帰ることは非常に困難であった。ましてや3歳の私が無事日本に引き揚げることができたのは、ハシカに対する免疫ができていたこともあるが、餓死寸前に父親と再会できたからである。後10日遅かったら、餓死していたか、中国人に預けられていたと思う。しかし、この再会は、その後の父と母の間に大きな影を落とした。  

父が現地で召集された時に母は妊娠しており、再会時には当然、母と私と生まれたばかりの子供の3人に会えると思っていた。じっさいに逃避行中に山の中で子供は生まれた。しかし2人を連れて避難したいという母は、産後の身体で1人でも大変なのに無茶だ「赤ん坊を殺すか、軍ちゃんを殺すか」と同行の人に詰め寄られた。結局乳児は、ミルクもなく母の乳も栄養不足で出ない状態だったので10日余りの命で餓死してしまった。父はこの事実を理解し受け入れることができなかったらしい。このことを話すとき母の顔は苦渋に満ちている。この私の弟にあたる、なんの遺品もない赤ん坊は光静と名付けられ、現在は父母と一緒に東山の墓地に眠っている。私はこのような多くの犠牲を払い生きて帰りつけたのである。

今日、こうした引き揚げ道中の話を聞いたり読んだりするたびに、2003年3月30日に私の退職を見届けるように亡くなった母の顔が思い浮かぶ。そして3歳以下の幼児の多くが死亡するか置き去りにされ、まさに地獄と化した「満州」から痩せ細った体で、よくぞ生きて日本へ連れ帰ってくれたと、感謝の気持ちでいっぱいになる。

私は、この引き揚げ体験のなかでどうしても怒りを押さえきれず、かつ、断じて許せないことがある。それは、開拓団の日本人が苦渋に満ちた「引き揚げ行」を強いられていたのに、関東軍、政府、満鉄関係者の多くの家族は、8月10日ごろ用意された避難列車で、私たちをいけにえにまっ先に逃げたことである。まさに開拓団は軍と政府に、ソ連の戦車の進行を妨げる「石ころ」として見捨てられたのである。このことは、1945年8月当時の在中国日本人は約195万人、その内27万人(14%)が開拓団であったにもかかわらず、敗戦時の在中国日本人の死者数17.6万人のうち開拓団関係者は8万人以上で、約50%近くを占めていることや、中国残留日本人孤児は大部分が開拓団関係者の子供であるという事実によっても明らかである。
 私は、非常に無念な思いをして現在中国で日本人孤児として生活している人々、あるいは殺され、捨てられた人々、何の意思表示もできな

 いまま餓死した幼児の思い、自分の存在証明を得たいと願っている人たちのために、こうした事実が日本の歴史に存在したことを忘れてはならないと思っている。
 私は生きて日本に帰ってきた者の責任として、中国大陸で死んでいった人々(無告の民)の無念の思いを語り継ぐ「語り部」として、頑張らなければと決意を新たにしている。

おわりに
 私は、7月17日に東京地裁での第3回公判を傍聴し、夜は中国「残留孤児」国家賠償訴訟の勝利をめざす集いに参加した。

原告団の代表が中国語で、敗戦時に養父母に引き取られたいきさつ、中国での生活とりわけ文化大革命時に「日本鬼子」といじめられたこと、日本へ帰国後は日本語が取得できず、望む仕事に就けず苦労していることなどを一生懸命訴え、通訳が日本語に訳し伝える。まさに人生を懸けて訴えている時に、被告の厚生労働省中国残留孤児対策室の若いメンバーが居眠りをしていた姿を見て、怒りと情けなさが入り混じりなんとも言えない気持ちになった。同時に、この中国「残留孤児」問題を多くの日本人に正しく理解してもらうことの大切さを感じた。

私は、東京から裁判関係の資料を持ち帰り、岡山での支援活動を日中友好協会岡山支部の仲間とともに取り組んだ。8月10日に17人の孤児が参加し「岡山県原告団結成準備会」を開き、原告団の役員との申し合わせを決定した。現在は、弁護団結成の準備と中国「残留孤児」訴訟の支援組織づくりのために活動している。

残留孤児は58歳から70歳までの年齢である。残り少ない人生を日本に帰ってきて本当によかったと思ってもらいたい。同じ時代を生きてきた者の思いでもある。今後とも「無告の民」の語り部として頑張っていきたい。

             (『岡山の記憶』、第6号、2004年、43〜47頁)

 

 


                「改憲」発言横行するなかで
           光る、コスタリカと「小国主義」
     
        紹介:田中彰著『小国主義―日本の近代を読みなおす』

                      上羽 修

 “じっと見つめると、ほら、他の豆とは表情が違うでしょ。平和の香りが、とても強いんです”



こんな商魂たくましい特集を組んだのは『通販生活』(2003、秋号)。超大国アメリカの“お膝元”で、しかも政情不安つづきの中南米にあって、50年以上も前から軍隊を放棄し、非武装中立をつらぬいている国として今話題のコスタリカにあやかった。

特集では、1980年に「コスタリカの永世的、積極的、非武装中立に関する大統領宣言」をしたモンヘ元大統領にインタビューし、「民主主義の国、平和主義の国、軍隊のない国が軍事的危機において何ができるかを考えた結果、私たちは積極的中立を選んだ」という経緯を載せている。

今年8月下旬、小泉首相は結党五十周年にあたる2005年11月までに自民党としての「改憲」案をまとめることを指示した。もちろん日本が公然と軍隊を保有し、専守防衛から海外派兵へ転換できるようにするための「改憲」である。

こうした日本の政権党の動向にたいする対抗軸上に、軍隊を捨てた国、コスタリカが注目されている。ただ私が気になったのは、日本では近現代を通して軍隊のない国家像が提唱されたことがなかったのか、ということである。そうしたとき田中彰著『小国主義 ―日本の近代を読みなおす―』(岩波新書、1999年)に出会った。

この本によって、明治初期の自由民権期や大正デモクラシー期に、大国主義・覇権主義・軍国主義を批判し対置させた「小国主義」「小日本主義」という思想があったこと、そうした歴史的水脈をもつ「小国主義」の理念が現在の日本国憲法に結実したこと、「押しつけ」憲法論による「改憲」の潮流は、小国主義の理念を否定し、大国主義への回帰をめざすものであること、を切に教えられた。

門外漢の筆者にとってははなはだ重荷ではあるが、あえて本書を、私の印象の強かったところを中心に紹介したい。 

T.近代国家の選択肢を求めて ―岩倉使節団のめざしたもの―

岩倉使節団は、欧米中心の国際社会のなかで東アジアの後発国日本がいかに近代国家を創出するか、その選択肢を米欧近代諸国のなかに探るという国家プロジェクトを担い、1871年12月(明治4年)から1年10か月のあいだ、米欧12か国を歴訪した。そして、その報告書が『特命全権大使米欧回覧実記』全百巻として公刊された。

アメリカで見聞したものは物力=総生産力を背景とした人民の「自主自治の精神」とその限界であり、イギリスでは資本主義国家と立君政治のあり様を、ドイツ帝国(プロシア)ではビスマルクから「万国公法」にたいする小国と大国との関わり方の違い、すなわち「小国は一生懸命努力して『万国公法』を守ろうとするが、これに対し、大国はみずからに利のあるときは『万国公法』に固執するけれども、ひとたび自国が不利となるや、兵威をもってそれを踏みにじる」という、1小国だったプロシアがドイツ帝国へと大国化するプロセスを聞いた。

使節団は大国ばかりか小国にも強い関心をよせた。ベルギーとオランダの国土は「我筑紫一島に較すべし」広さだが、「人びとは努力を重ね、大国の間にあって自主の権利を貫いている。そして、総生産力は大国をはるかに凌ぐ」。「それほどの力を発揮しえるのは、人民がよく勉め、よく励み、よく協力一致して力を尽しているからにほかならない」と。小国の中立の保持と独立を全うする典型スイスは、「自国の権利を達し、他国の権利を妨げず、他国の妨げを防ぐ、是なり」と明言する。そして「小国たるスイスやオランダは、小国としての体制と精神に徹して大国の侮りも受けず、信義をもって国威を発揚しており、日本としてはもっとも見習いたい国だ」と記した。

「結局日本は、プロシアからドイツ帝国への道、つまり小国から大国への道を、アジアのなかで選んでいく」が、岩倉使節団の時点では、大国主義も小国主義もまだ「未発の可能性」としての選択肢以上のものではなかった、という。

U.自由民権期の高揚と伏流化―植木枝盛・中江兆民の位置―

民権運動の実践的理論的指導者であった植木枝盛による憲法草案「日本国々憲案」は、@人権保障、A人民主権、B地方自治を特徴としている。その人権規定は限定付きでなく、国家において「人民」と「政府」とは対等な構成要素として位置づけている。さらに、「万国共議政府」と「無上憲法」があれば各国は外患の憂いが少なくなり、「天下の各国皆自由に其国を小分けするを得べし」という。「それは小国化のすすめであると同時に、それとセット化された『万国共議政府』の創設の主張であった」。このように植木の小国主義は、「内には徹底した基本的人権の規定のうえに自由・平等を認め、外には『万国共議政府』の創設と『宇内無上憲法』を制定することによって平和を保持し、軍備の縮小ないし廃止を指向する国のかたちを考えていた」のである。

中江兆民の小国主義については、「『信義』『道義』の上に立って、大国といえども畏れず小国たりとも侮らない」と述べ、欧米文明に心酔した使節団と違い、「西欧の価値基準で他地域を序列化して視るということはなかった。(略)」(松永1993)という文明観を背景にもっていた。

1889年(明治22)2月、大日本帝国憲法が発布された。「兆民や植木の小国主義は、つぎにみる明治政府の大国主義路線におさえ込まれて伏流化し、やがて時と所と色合いを変えて頭をもたげる」。日清・日露戦争を経て、大陸侵略=大国主義へと助走するなかでも、「この間、小国主義が窒息したわけではない。ひとつは社会主義思想の流れ、もうひとつはキリスト教の思想のなかで、それぞれの主義や宗教観の色彩をもちながらも小国主義は主張された」。幸徳秋水や内村鑑三である。

V.「小日本主義」の登場―大正デモクラシーの中で―

東洋経済新報社の主幹(のち会長)三浦銕太郎は、領土拡大や保護政策に反対し、内治の改善、個人の自由と活動力との増進によって、国利民福をはかるなどの「小日本主義」の主張のもとで満州放棄をとなえる。それは三浦の後継者石橋湛山に引き継がれる。「三浦や湛山の『小日本主義』は、大正デモクラシーの潮流のなかにあっての小国主義のひとつの形として主張されたのである。この『未発の可能性』としての小国主義は、その上におおいかぶされた侵略的軍国主義によってふたたび伏流化せしめられ、昭和時代へと滑り込む」。

W.日本国憲法をめぐって―小国主義の理念の結実

1945年10月、内大臣府と政府がそれぞれ憲法調査にとりかかったことから、政党その他の民間の個人や研究団体が憲法改正の検討をはじめた。そのなかでも「わずかに高野岩三郎が主導し、鈴木安蔵が作業の中心となった憲法研究会によってなされた私擬憲法の提示がGHQの指令とは別の地点からなされる自主的自律的な憲法改正作業となっていた」(高橋1997)。
 鈴木は日本憲法史の研究過程で、自由民権期の植木枝盛による「日本国々憲案」に留意し、「植木の自由と平等の基本的人権の主張や抵抗権ないし革命権についての条項が、彼の念頭にあったことは明らかである」。
 憲法研究会が日本政府・GHQに提出した鈴木執筆の「憲法草案要綱」と植木の「日本国々憲案」の条項とを対比している。

「憲法草案要綱」→「国民ハ法律ノ前ニ平等ニシテ」
「日本国々憲案」→「日本ノ人民ハ法律上ニ於テ平等トナス」

「憲法草案要綱」→「国民ハ拷問ヲ加ヘラルルコトナシ」
「日本国々憲案」→「日本人民ハ拷問ヲ加ヘラルゝコトナシ」

このような例をあげ、「『憲法草案要綱』の作成過程に、明治十年代の自由民権期における植木の憲法草案をはじめとする私擬憲法案が流れ込んでいることは誰しも否定しえないだろう」。これを「私なりに」言い直すと、「この『憲法草案要綱』には植木枝盛の小国主義がそのまま流れ込み、また中江兆民にみられる民権期の小国主義が反映している」と指摘する。

 1945年12月26日に発表された「憲法草案要綱」は、総司令部(GHQ)参謀二部と国務省政治顧問事務所とで別々に翻訳され、GHQ民生局のマイロ・E・ラウエル陸軍中佐が「民主主義的で、賛成できるものである」と賛意を表した覚え書きを幕僚長に提出した。「憲法研究会案が総司令部案に与えた影響は動かすことのできない事実だった」。 

 日本国憲法(A)と植木枝盛の「日本国々憲案」(B)との対比:
A:「すべての国民は、法の下に平等であって・・・」
B:「日本ノ人民ハ法律上ニ於テ平等トナス」

A:「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
B:「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」

A:「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
B:「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」

このように「自由民権期の植木や兆民にみられる小国主義が、日本の大国主義の破産した敗戦後の状況のなかで、憲法研究会案を通してマッカーサー(GHQ)草案に流れ込み、それが日本国憲法へと結実した、ということになる」。

 一方で、政府の憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)の「憲法改正要綱」にみられる認識は「国家主権について明治憲法とまったく変わらない発想を根底に持っていた」ため、「松本(=日本政府)の認識からすれば、マッカーサー草案はGHQからの『押しつけ』以外の何ものでもないということになる。憲法研究会草案など歴史的背景をもった民間の憲法草案に注目する目も、傾ける耳もいっさい持たなかったのは当然といえよう」。

こうした「内実の歴史的水脈をみることなく、『押しつけ』憲法論によって日本国憲法の小国主義の理念を否定しようとすることは、いかなる理由を付そうとも、大国主義への回帰をめざす以外の何ものでもない」。

 最後に、21世紀に小国主義を選択することは、日本近代史の苦闘の歴史の教訓を生かす道であり、「小国主義は、国民の自主・自立のエネルギーの横溢と国家の禁欲を求め、道義と信頼に基づく国際的な連帯と共生を必要とする。そこには大国主義とのたゆまざる闘いがある」と結んでいる。

 9.11以降、世界中が軋むなかで、有事法制やイラク特別特措法が成立して国民の戦時動員や自衛隊の海外派兵が現実化しようとし、専守防衛の見直しや改憲があけすけに言われはじめた現在、明治から昭和にかけ大国主義・軍国主義と対峙し日本国憲法の理念として結実したという「小国主義」は、軍隊を捨てた国コスタリカと同様に、いやそれ以上に新鮮で魅力的に思えてならない。

      (『岡山・十五年戦争資料センターニュース 秋季号』、No.17、2003.9.25、11〜13頁)





            エジプト雑感

                                          真田 紀子

3月7日から16日までエジプトへ行ってきました。近畿ツーリストの団体旅行ですが、何と40名もの人が参加していました。当日、関西空港で添乗員が「直前に何人かの方からキャンセルが入るかと思っていましたのに、全員参加で驚いています」と言っていました。

 実は私もこの時期にとも思ったのですが、2001年の12月にエジプト旅行に申し込みをしていて、9月に同時多発テロが発生し、さすがにその時はあきらめた経緯がありましたので、今回はチャンスがある時に行っておこうと思ったわけです。

 イスラム圏に出かけたのは、中国の新疆ウイグル自治区、ウズベキスタン、トルコと経験はありましたが、本場の西アジアは初めてでした。たいした予備知識もなく訪れたわけですから、その国の雰囲気というか、人々の暮らしぶりをかいま見るだけでも驚きの連続でした。まず、ほとんどの女性がチャドルを身につけていました。先にあげた三国では、チャドルを身につけている女性を見つけると写真を撮っていましたから、いかに少なかったかということです。

 イスラム圏の国では、笑顔に出合うことが多くありました。こちらが東洋人であるということがいいのでしょうか。特に日本人であることがわかれば大変友好的な態度で接してくれました。今はどうでしょうか、イラク攻撃のあとでも日本人に対して今までのように友好的な感情を持っているのでしょうか。今回、エジプトで触れ合った人々は大変友好的でした。道を歩いていても、笑顔で「ウェルカム」と言ってくれます。こういう時期に観光旅行に来てくれた外国人に対しての気持なのでしょう。また、各観光地で小学生や高校生の団体によく遭遇しました。恥ずかしそうに、でも興味津々と我々を見ています。なかに積極的に英語で話しかけてくる子どもたちもいます。観光地で外国人にあったら英語を使うように日ごろからいわれているようです。やはり、共通語は英語なんですね。

 観光客を連れて行くのは、名所・旧跡と相場は決まっていますので、今のカイロ、経済の中心地としての首都を見るチャンスはほとんどありません。空港またはホテルなどでその国の経済力を推し測るしかありませんが、一度だけ、ホテルの近くの市場(といっても7,8メートルの道の両側に地元の人が買い物をする店が雑多に並んでいるところで、我々が買いたい、また買える土産物があるわけではありません。)へ歩いていくチャンスがありました。そこへ行き着くまでが大変で、ウロウロしていると、若い男性が英語で「メイアイ、ヘルプユウ?」と声をかけてくれ、場所を教えてくれました。7,8人で行ったのですが、珍しいのでしょう、周り中の人が我々を眺めていました。その帰り道、1軒のパン屋さんでエジプトのパンを買おうとしていましたら、店の前に男の子が1人裸足で立っていて、店の人にパンを欲しいと言っているようでした。でもお金を持っていないようで、店の人にあっちへ行くように追い払われていました。私はその時、食事の残りを袋に入れて猫か犬にやろうと持っていましたが、とてもその子に渡すことはできませんでした。最後の日の夕食で、屋外のレストランで食事をしたあと、たくさんのパンが余っていたので、お土産に2,3枚持って帰ろうとしているところをレストランの人に見つかってしまいました。レストランの人が笑いながら大きな袋に余ったパンを15,6枚いれて渡してくれ、断れなくて持って帰るはめになってしまいました。その帰り道、10歳ぐらいの男の子が数人、我々に花を売ろうとまとわりついてきました。これはチャンスと、その大きな袋を彼に渡すと、ビックリしながらも「ショコラン(ありがとう)」と受け取ってくれました。

 トルコでもウズベキスタンでも同じでしたが、学校は2部制になっていて午前の部と午後の部に分かれていて、その他の時間は子どもたちも立派な労働力として働いています。絨毯工場でも織手として働いていますので、我々日本人から見ると、こんな小さな子どもを働かせて児童虐待になるのではないかと思ってしまいます。彼らは我々の気持を知っていて、写真のモデルを勤めてはしっかりチップを要求していました。

 私たちのツアーのガイドはアブドルモネイム・アブゾイド〔略してアブド〕という30歳ぐらいの男性でした。我々がカイロにいる間は彼の会社の上司がいつもホテルに来て車の手配や何かと面倒をみてくれていました。その上司の奥さんは日本人だそうです。また、8日間移動に使っていたバスの運転手は妻が2人いて、現在3人目を募集中だとのことでした。そして、移動した町々では必ずシークレットサービス(軍人のようです)が我々のバスに同乗してドアの前のシートに座っていましたし、バスを下りて歩く時にも同行していました。各観光地には肩に武器をかけた軍の兵士が必ずいます。アレクサンドリアのシークレットサービスが同行の若い日本人女性に頼まれて、上着の中につるしている機関銃のようなものを我々に見せてくれました。ピストルではなくて、かなり大きな銃でした。

 ここからは、アブドの話ですが、「イスラム過激派の行動は今のエジプトでは支持されていない。観光収入で成り立っている国なので観光客の安全は守られている。エジプトの若者がつきたい職業は、医者・コンピューター関係の仕事、それと観光業に関係する仕事が人気です。教育が行き渡るようになり教育を受けられない人は少なくなってきている。しかし、政治についてはどうしようもない、ムバラク体制が今後も続く。シリアの大統領が変わったのをご存知ですか。前アサド大統領が突然亡くなったんだけど、憲法の規定に年齢制限があって息子が大統領になれない。だから急遽憲法を変えたんです。そして息子が大統領になったんですよ」と。

帰国してから調べてみました。確かに20006月にハーフェズ・アサド大統領が亡くなり、次男バッシャールに政権が委譲されていました。長男は事故死していました。ヨルダンの元首はフセイン国王、エジプトはムバラク大統領、イランは最高指導者ハネメイ師、クウェートはシャビル首長、それでも憲法を持ち選挙により議会が選ばれています。サウジアラビアはファハド国王による絶対王制です。議会は立法権をもたない諮問評議会だそうです。改めてイスラムの国々の現在の状況を考えさせられました。アメリカは民主主義という基準を何をもってはかるのでしょう。        2003.6

        (『岡山・十五年戦争資料センターニュース 夏季号』、No.16、2003.6.25


              
              「悲しみ」をいかに分有するか

            ― 日比精錬所(岡山県玉野市)に強制連行された中国人を訪ねて

                             上羽 修

 それは、突然、感じとった瞬間だった。連行された人や遺族は、尊厳や名誉を回復していない! 生還者の一人、楚方利さんの「恥ずかしい」と漏らした一言。それは、楚さんが家族の目前で両手を縛られ拉致されてから現在までつづく胸の奥の澱を、そして私を含めこれまで放置してきたものたちの責任を、私に気づかせた。

今年9月、日比精錬所へ連行された人たちのうち氏名・住所のわかった34名分の名簿を持って、河北省通県、現在の北京市通州区を訪ねた。やはり直接現地に行き、探してみるものだ。今もご健在の方が2名(楚方利さん=写真上、龍徳慶さん=写真下)、日比精錬所で死亡した人の遺族4名、生還後に死亡した人の遺族10名と会うことができ、さらに遺族と思われる5名分の消息がわかった。

 なかには連行後まったく行方がわからず、今回私の訪問ではじめて日本へ連行されたことを知った遺族もあった。

 働き手を突然奪われた家族は極貧に突き落とされていた。当時十二歳だった何慶仁さんは少年時代の惨めな記憶が蘇ってきたのか、声をあげて泣いた。

生還者の楚方利さん(八○歳)によると、日本傀儡の中国人武装集団によって自宅で両手を縛られ拉致された。日比精錬所では食事が少なく、空腹での重労働が辛かったという。仲間が死亡したとき、日本のお坊さんが読経をあげ、それに中国人全員が参列したことをおぼえていた。この点は正善寺の前住職の妻の回想と一致する。

遺族の方々には、玉野市の観音院常光寺で供養がつづけられ、毎年慰霊祭を開催していることを知らせておいた。遺族のなかには、病気で動けなくなると生きたまま焼き殺された、と思っておられる人もおり、こうした誤解が私の説明で払拭でき、少しは安堵されたのではないかと思う。

とはいえ、生還者の楚さんや遺族の方々は、人間としての尊厳を汚され名誉を傷つけられたときの思いが今もつづいている。被連行者の尊厳と名誉を回復させるには、まず連行を計画した日本政府と使役した企業が謝罪し補償することである。その一方で、被連行者や遺族の悲しみを私たちが分有するにはどうすればいいのだろうか。

       (『岡山・十五年戦争資料センターニュース 秋季号』、No.13、2002.10.1