| 戦争体験 |
| 僕の知らない戦争があった ―ナガセからの伝言― | 永瀬 隆 | 泰緬鉄道/和解 |
| 生かされて生きる歓び ―ビルマ戦線の日本軍兵士と英軍兵士との和解につくす― |
平久保正夫 | ビルマ戦線/和解 |
| 無残な“死出の穴”づくり ―海軍機一式陸攻の人間爆弾「桜花」― |
山本正夫 | 「桜花」/徴用 |
| 一兵士のみた戦争の素顔 ―岡山歩兵第110連隊従軍記― |
上田和夫 | 中国華北戦線 /三光作戦 |
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| 講演記録 僕の知らない戦争があった ―ナガセからの伝言― 永瀬 隆 『岡山の記憶』、第6号、2004年、64頁〜71頁 |
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1.「僕の知らない戦争があった ―ナガセからの伝言―」 2000年に「TO END ALL WARS」、日本語で「エンド・オブ・オール・ウォーズ」という映画が撮影されました。これは元捕虜だったアーネスト・ゴートンの著書『クワイの谷間を越えて』の映画化です。原作は本当に彼が捕虜の1人として苦労しながら何を学んだかという人生哲学の本です。捕虜たちが日本軍の虐待によって利己的になり、自分の食うことしか考えられなくなったときに、彼が何に目覚めたかという人生哲学、そして最後にはキリスト教の神髄である「汝の敵を愛せよ」という、そういうところまで突き詰めていっている。彼はイギリス人ですが、戦後アメリカの国籍を取りまして、プリンストン大学の教会長までなった立派な人です。私も撮影のときにも会いましたし、その前にも会って、立派な人だと思っていました。今年2003年2月に亡くなられました。映画の撮影のときはもうヨロヨロしていまして、私が傘をさしかけて1緒に連合軍の墓地なんかも歩きました(写真)。
同じ年の12月に瀬戸内海放送からドキュメンタリー「僕の知らない戦争があった―ナガセからの伝言―」が放映されました。その内容は映画の1種の案内ということになりますが、映画の中でナガセ役を演じた青年、佐生有語(さそう ゆうご)という人と、彼は滋賀県の出身で高校を卒業したあとカナダで演劇と英語を習った人ですが、彼と私が泰緬鉄道を渡り歩くところが瀬戸内海放送のドキュメンタリーになっています。 さきにこのドキュメンタリーのビデオをみてもらいますが、私が特に見てほしいのは、連合軍の墓地は非常にきれいに整地され、いわゆる墓地公園になっていることです。イギリス人はバラが好きだから、お墓のそばにバラをおいて、きれいになっている。 ナレーション:永瀬さんは青山学院を卒業後、陸軍通訳に志願、1943年にタイ国の憲兵隊に配属され、泰緬鉄道にかかわりました。泰緬鉄道は、太平洋戦争中、日本軍がタイからビルマ方面への補給路として建設された軍用鉄道です。建設にはシンガポールなどで投降したイギリス・オランダ・オーストラリアなどの連合軍捕虜68000人やアジア人労務者約30万人を動員。全長415キロの鉄道は1943年10月、着工からわずか1年3か月で完成しました。しかし悪条件のなかの突貫工事は捕虜13000人以上、労務者推定数十万人以上の犠牲者を出しました。 連合軍捕虜:日本はわれわれを死ぬまで働かせようとしていました。決して忘れないし、許すこともできません。それは死ぬまで変わらないでしょう。 ナレーション:バンコクから130キロ、列車はカンチャナブリーのクワイ河鉄橋につきます。カンチャナブリーはタイ側の鉄道建設の基地でした。永瀬さんはこの町の憲兵隊付きの通訳として勤務していました。 永瀬:捕虜から情報をとったり、スパイが入ってくるからね、そういう防諜作戦いうんですか、そういうことをやっていましたからね。 ナレーション:捕虜の拷問に立ち会ったこともあります。 永瀬:いやー、あれは人間のすることじゃないね。とにかくこのちょっとすぐ後ろのところでやってたけどね、もうはっきり、永久に忘れられないような衝撃をうけるようなですね、拷問でした。 ナレーション:終戦後、連合軍は3週間にわたって沿線の墓地を捜索し、犠牲者の遺骨を確認しました。永瀬さんはこれに通訳として駆り出されました。 永瀬:やはり日本軍の1員としてね、泰緬鉄道に関係して、たくさんの犠牲者を出したことについてはね、やはりね、罪の意識は持っていました。とくに私は3週間にわたって墓地捜索やってね、朝から晩までね、捕虜の遺骨を見ているんですよ。戦争から帰ってきたときにはもう心身ともにボロボロね。心身ともにボロボロになった自分を立て直すための1つの努力ですよ。その努力そのものが、外から見れば反戦運動になり、個人的な戦後処理になってここまで来たんだと思います。 佐生のナレーション:オーディションのあと、僕は永瀬さんの書いた本を読んだ。そこには永瀬さんの戦後の人生が書かれていた。戦後、郷里の岡山県で英語塾を経営しながら、妻の佳子さんと慰霊の旅を100回以上も重ねてきたこと。1976年、元捕虜との和解の再会を企画したこと、慰霊のためのタイ式の寺院を建てたこと、タイの学生に奨学金を送りつづけていること、驚きと衝撃、尊敬の念にかられ、俳優として以前に、人間としてとても惹かれた。 元捕虜:永瀬さんは戦争の罪を感じて旧日本軍のもとで被害にあった人たちに対し個人的に償いをしようとしている。だから彼は握手をしたいと思ったたった1人の日本人なのです。 佐生:永瀬さんの話を聞いたときは、ああ当然こうした人もいたはずやろなあ、というのがわかって、日本人として救われたところがあります。映画の配役が決まったときは、もううれしいてうれしいて、何か知らんけど吐気がするんですよね。あの感覚はびっくりしました。 ナレーション:1957年のアカデミー賞をえた「戦場に架ける橋」、泰緬鉄道をモチーフにしたこの映画は、しかしフィクションが多すぎるとして捕虜にも日本軍関係者にも評判がよくありません。佐生さんが出演した映画、ツー・エンド・オブ・ウォーズはスコットランド出身の元捕虜、アーネスト・ゴートン氏の実話が元になっています。テーマは敵・味方を越えた和解。日本人の主な出演者は4人。それぞれのキャラクターに意味があります。戦争中、ゴートンさんと永瀬さんは面識がありませんでしたが、日本軍と捕虜との間で活躍する役として脚本に追加されました。 佐生:戦場□□□□(聞き取り不能)なところがあるんですよ。多分見ている人も永瀬を見るとちょっと安心する、この子がいたら悪いことがおきんような、僕がいないところで伊藤が出てくるとみんなああ何か絶対あるないうところがあるんやけど、そういうイメージがあって、そのへんに関しては・・・。 佐生のナレーション:その夜、僕は遅くまで永瀬さんと語り合った。 ナレーション:クワイ河鉄橋のたもとで待っていたのはオーストラリア人ジャーナリストのミクールさん。この鉄道の記事を書くためにシドニーから移住した彼は永瀬さんのことをたびたび取り上げてきました。 ミクール:日本政府のやっていることを見ていると誤解を生ずるが、永瀬さんによって日本は救われている(英語)。 佐生のナレーション:それにしても驚いたのは、観光客の数だ。国籍は見た目ではわからないが、タイだけでなくアメリカ、ヨーロッパ、とにかく世界各地から集まっている。みな「戦場に架ける橋」の面影を求めてやってきたのだろうか。橋のまわりにはたくさんの土産物屋。死の鉄道の面影はここにはない。しかしそんな浮き浮きした観光気分はすぐに吹き飛んでしまった。 ナレーション:カンチャナブリー市内にある戦争博物館。鉄道建設に関わった捕虜収容所を再現した薄暗い小屋の中では、写真や捕虜が残したスケッチなどが展示されています。 佐生:写真とかも、当時僕が見たセットとかがあまりによく似ているから、ちょっとビックリした。胸が痛いですねえ。ここにいること事態が日本人として恥ずかしいんやないけど、なんか居づらいなあというのがでてきて・・・。 ミクール:僕は広島へも行ったことがあるけど、ここも戦争のシンボルだよね。悲惨さがよく伝わってくるよ。僕はオーストラリア人だけど、日本人に対して悪意は持っていないよ。2度と戦争は御免だってことだね。 ナレーション:タイ国鉄南北線をカンチャナブリーからさらに奥地へ進むと、やがて山岳地帯にさしかかります。このアルヒル桟道橋は当時の面影を残しています。戦後補強はしていますが、列車はスピードを10キロ以下に落さなければなりません。クワイ河沿いに進むルートが当時最も効率が良いとされたのです。 佐生:今みたいに重機で作るんじゃなくて、しょうもない道具で、人間の力と手だけであれだけのものを作ったのいうのはちょっと信じられない。それなりの犠牲があらわれたなと、1目瞭然やなと。 ナレーション:カンチャナブリーから60キロあまり、現在の終点ナムトクに着きます。泰緬鉄道は戦後タイ政府に払い下げられましたが、ビルマ国境の区間を廃止しました。ここから先はジャングルに戻っています。終点ナムトクから20キロ、ここにも悲惨な歴史を物語る場所があります。名付けてヘルファイアー・パス。夜間の突貫工事を照らすたいまつが地獄の業火のように見えたことから、捕虜たちはここをこう呼びました。およそ130メートルの切り通しをつくるのに、捕虜400人が犠牲になりました。 佐生:やっぱり来てみて触ってみると、こんなもんガチガチの岩で、これを手で、あとその枕木1本に1人の方が犠牲になったというのもあるから、ほんまに1歩2歩で1人、1歩2歩で1人というのを考えると、けっこう効くんですよ。 永瀬:このへんじゃったな。このへんで気がついたんじゃ、やつらが居るいうことがな。 ナレーション:6年前、この場所を訪れた永瀬さんは冷たい洗礼にあいました。彼らは元捕虜のイギリス人。永瀬さんの挨拶に目を合わせようともしませんでした。 永瀬:僕はそう感じる。冷たい目いう感じじゃ。 ナレーション:今回、元捕虜の姿はありませんでした。 永瀬:今日はチェッコの人たちが、我々が日本人だと分ったときに我々を見た目は非常に冷たかったよ。僕は確かにそう感じたな。なんともいえない目付きしとるなと。僕は捕虜に見られたよりはちょっと怖かったな。捕虜が恨むの当り前でしょ。だけど第3者の国がそういう目で日本人を見る。 ナレーション:2年前オーストラリア政府はここに博物館を作りました。ヘルファイアー・パスで亡くなった捕虜の大半がオーストラリア人だったからです。戦後生れの退役軍人のリトー館長は観光客の案内役をつとめています。「私はここにくる人たちに映画ではなくて鉄道の真実の歴史を話しています」 永瀬:それで毎日毎日こうやって、とくに外人さんがきて、いかに日本人がひどいことをしたということがね、毎日知らされているわけでしょ。だからそれに対する何かを日本はしないとだめだと思うなあ。 佐生のナレーション:30度近い暑さの中で、しかし僕の心はやり場のない怒りとむなしさと、1抹の悲しみに冷えきっていた。 ナレーション:連合軍の戦争墓地、かつて永瀬さんの同行した墓地捜索隊の結果がここにあります。 佐生のナレーション:墓は花で美しく飾られ、55年以上たった今も、彼らは慈しまれているようで、少し心が和らいだ。 永瀬:私はね、こういう問題はねえ、勝ち負けの問題じゃないと思うんだよな。日本は負けたということをいいことにして何もしないんだ。だから本当に負けているんだ。 ナレーション:タイ北西部、ミャンマーとの国境に接するメー・ホーン・ソーン県。今回の旅に合わせて永瀬さんによる慰霊搭の建立式典が行なわれました。日本兵の慰霊のためのものです。何故、永瀬さんはここに慰霊搭を建てたのでしょうか。インド・ビルマ方面での戦闘に破れた日本軍の1部は国境を越えてタイ西北部へ退却しました。しかしその撤退は悲惨なものでした。 元日本兵:何日歩きましたかねえ。ひとつき、私の場合はひとつきもあるように思いませんねえ。普通の兵隊も靴がこわれて裸足ですもん。それにそのへんを、布を巻きつけて歩きよるでしょ。それで足がダメになる。それに加えてマラリアがくる、食糧がないときたらね、もう生きる気力がなくなってね。それで谷間入って、ドンですよ。 ナレーション:日本政府は22年前、メー・ホーン・ソーン県で遺骨収集をおこないました。しかし地元の人たちの話では、まだこの周辺には約7千名の遺骨が放置されたままだというのです。 永瀬:本当に「海ゆかば 水漬くかばね」で、兵隊さんが水の底に浸かっている。こっちの山へ行けば、草むす屍になって草の下へ埋もれたままになっている。日本の人はそれを何とも思っていない。だからねえ、自分の国の兵隊さんの遺骨でも放っておくような国柄でしょ。やはりねえ、加害者として与えた向こうの犠牲者にたいしても、そういう点がね、戦後処理ができていないですよ。 ナレーション:近くのクンユアムという町に日本兵と結婚していた女性がいるというので、永瀬さんたちは訪ねてみることにしました。 女性:私の夫は病気で痩せ衰えていたので、ここに残ったのです。 ナレーション:2人の子どもが産まれましたが、5年ほどで夫は強制送還されることになり、家族のもとを去りました。今はこの日本刀だけが唯1の形見です。 女性:別れたときが悲しくて、今も泣いています。 佐生のナレーション:戦争を未だに引きずっている生身の人と出会って、僕は涙が止まらなかった。戦争で不幸になるのは結局1人ひとりの個人で、その傷は決して癒えることはない。日本軍の旧飛行場跡を歩きながら、僕はそんなことを考えていた。 永瀬:本当にこのままいったら21世紀ではねえ、このままに放置して戦後処理をしなかったら、本当に日本人はねえ、精神的にはもうすでにそうかもしれんけど、葬りさられてしまいますよ。私のように年とった人間としてはそれが非常に残念です。若い人たちも、もうちょっとそのことに気づいてもらいたい。まあ私の遺言ですな、これが。 佐生:来て見てよかったな、といおうか、来て見んと分らんことがいっぱいあって、実際来て見て橋渡ってみて、ああ、本の中だけの話やった、ではなくて、実際、橋もあるし、そんないろんなものが残っとったりして、ほんまに何か、実感できたというか。 ナレーション:毎年11月から12月にかけてクワイ河祭りが2週間にわたって繰り広げられます。連合軍による鉄橋の爆撃を中心に、戦争の歴史を音と光のショウで紹介するものです。 ショウは、最後に鉄橋が崩れ落ち、日本が敗戦を迎えるところで幕を閉じます。 永瀬:いや、最後にね、花火があがって、(「サワツテイ」というアナウンスがあって)、あれは「さようなら」いう意味で、僕は「戦争よ、さようなら」ともいう意味にとった。だから素晴らしかった。本当に21世紀はねえ、「戦争をさようなら」にしてもらいたい。 ナレーション:2人の長くなった影は1つになって歩みました。 2.酷使された捕虜と「労務者」 泰麺鉄道を建設した理由を申し上げておきます。泰麺鉄道というのは1942年5月、つまり戦争が始まって半年くらいになるとき、日本軍の輸送路は、台湾のほうから、ずうとシンガポールのほうを通りました。ビルマにも相当数の日本軍がおりましたが、それ以上にインドに進行したかったわけです。そのための輸送路を確保するためです。その当時南シナ海にはアメリカの潜水艦が、インド洋には連合軍の航空機が来て日本軍の輸送路を遮断し始めたので、あわてて大本営が、タイのバンコックとビルマ(今のミャンマー)の首都ラングーンとをつなぐために、タイのノンプラドックとビルマのタンピュザヤとを結ぶ415キロの単線軌道をつくったわけです。 それは戦前に、すでにイギリス政府がベルギーかどっかの鉄道技師をつうじて測量しているんです。その結果、鉄道はつくれないことはないが、その建設と維持のためにはあまりにも人間が消耗されるだろう。そういう結論が出たもんで、そのままになっていたんです。なぜかと言いますと、南シナ海とインド洋の両方からモンスーン、日本では季節風というんですがね、季節風というとロマンチックですが、そんなもんじゃない、ものすごい。そしてこのビルマとタイの間にテナセリューム山系という山脈があり、そこへ両側からモンスーンがぶち当たる。それにここは世界で3つの中に入る悪疫猖獗の、あらゆる病気が蔓延している所なんです。そこを突き抜けて行くわけです。 だからはじめからそういう悲劇が起こることは分かっていたわけです。それをあえて日本軍がビルマを押さえインドへ進行するために鉄道をつくらせたんです。415キロといいますと東京から関ヶ原まで、そして単線軌道で、我々が今日本で乗っている新幹線でなしに在来線の1メートル15センチよりももっと狭いくらいですかね、幅がね。そこへ日本軍は何百という機関車、車両を持ってきたわけです。そしてC56という、鉄道マニアの人はご存じと思いますが、それを走らすためには1メートル間隔くらいで枕木を敷かなければいけない。 日本軍は戦争をしたあと占領地で連合軍捕虜をシンガポールへ集めていたんです。相当の数です。シンガポールで捕虜になった人だけでも15万人ですからね、おそらく2、30万はいたでしょうね。その中の捕虜をただ飯を食わすのはもったいないというので、この鉄道建設のための労務者として使うことにしたんです。実はジュネーヴ捕虜条約というのがありまして、1926年だったかな、そこで捕虜というのは、生殺与奪の権利と云う、すべてのものを敵方にゆだねるわけでしょう。ですからどうしても捕虜の悲劇が起きるわけですね。そういう捕虜を守るためにジュネーブで捕虜条約を作ったわけです。日本からも外務省の役人が3人ほど行きましてサインして帰った。ところが、捕虜をそんなに優遇する必要はないという陸軍、海軍、軍部の意向がありまして、議会では批准しないでそのままになってしまっている。日本の議会では承認されなかったんです。つまり宙ぶらりんになっていたんです。 ところが日本は日露戦争と第1次大戦のとき、非常に捕虜を優遇したわけです。たとえば徳島県の板東収容所ではドイツの捕虜が自由自在に出入りができて、村人と1緒になって音楽会をしたりいろんなことをやってる。そういう話が、ロシア人やドイツ人が国へかえって、ヨーロッパ全体で、日本人くらい捕虜を優遇してくれる国はないんだという噂が広まっていたわけです。 そういうことでシンガポールが陥落したときも、日本軍は捕虜を優遇するんだというので案外簡単に日本軍の捕虜になった。ところが捕虜になってみると、昔の日本軍と違っていました。たとえば泰麺鉄道をつくるのにどうやって捕虜を送ったかといいますと、私も通訳でシンガポールの駅で捕虜を送るときに通訳したことがあります。捕虜に食べ物を日本軍以下のものを食べさせた。彼らはパン食でしょ、だから脚気になったり、腹を下したりして非常に体調をくずしていた。そのときに「タイ国の保養地に連れていってやる。志願したい者はおるか」というのですね。そうするとみんな保養地があるんならと、志願したんです。それで連れて行った数が68000人。 どういう状況で連れていったかというと、私は目撃しているけど、有蓋貨車ね、貨車の屋根があるでしょ。あの中にワラが敷いてあるんです。そこへ1貨車に30人くらい入れる。どのくらいの混み方かといいますと、自分が用便をたしにいって帰ってくると自分の場所がなくなっている、というような状態です。そしてね,有蓋貨車で両側に鉄の扉が開いているでしょ。ところがあれは風が中に入らないんですよ。1週間かかってマレイ半島に送ったわけです。だからフラフラになってしまった。飯もまずい。 そして見せしめのために、日本軍は歩かせたんです、鉄道がひいてあったのに。タイ人にたいする見せしめもあって、白人は全部歩かせたんです。だから現場に行くまでにたくさん倒れてしまった。 そしてそれ以上に、この占領地のビルマは地続きですからね、ビルマから18万人、マラヤから8万5千人くらい、シンガポール含めて。そしてこのインドネシアから4万5千人。つまり30万人ぐらいの労務者を連れていったわけです。それに日本軍が1万2千人ですから、全部で約40万人の人間がこの悪疫猖獗の山系にいたわけです。ペストさえもありましたし、米食だから脚気になるんです。それからアメーバー赤痢、マラリア。私も罹ったことがあるんですけど、ひどい病気ですよ。そういう病気によってどんどん倒れていったんです。とくに労務者の人はあまり衛生思想がなかったからバタバタ倒れていった。 30万のうち半数はこの泰緬鉄道に埋没されています。それはここにも書いてあるんですが、1人のインドネシア人が残ってたので、その人をインドネシアに連れていったときに、そこの村長が、うちの部落からは10人出て行ったが、帰ってきたのは5人だったと言っていた。だいたいそれが平均なんです。ビルマもみなそうです。でもビルマは地続きだから逃げちゃうんですね。仕事は苦しいし、敵の爆撃があったりするから。そこで脱走して逃げて帰ると、あくる日、その家に日本の兵隊と部落長さんが来て、「夕べよく眠ったか、ご苦労さんやった。また行ってくれ」いうて連れて帰るわけです。だから2度目に脱走するときは自分の家に帰れないんです。帰ったらまた行かなきゃならないから。だいたい労務者として連れていかれる人は1家の働き手でしょう。そういうふうにしてビルマの18万人の家族は全部破壊されてしまった。 みなさん方にとって戦争というと戦闘のことですね。アメリカがイラクを攻撃した。あれが戦闘ですよ。戦争というのは、戦闘が済んだ後でジワーっとくるわけです。たとえば私がタイのバンコックへ行ったときは1943年でした。そのとき、タイの人たちはみんな小綺麗な衣服を着ていた。あそこの国はランド オブ スマイルといって、「微笑みの国」というんです。とくに女性は、ニコッと笑って、とても愛想が良かった。やっぱり仏教が浸透していますからね。私がタイ国に駐屯して3年たって終戦直前になってくると、タイの人たちの着てるものがみん な洗い晒しで、破れて、継(つ)ぎ接(は)ぎだらけです。 そういうふうにだんだん生活が逼迫してきました。なぜかと言いますと、タイはバーツというのがお金の単位なんですね。はじめのうちはバーツを日本の円と交換していましたが、そのうち日本軍は、東京の造幣局でバーツを刷っちゃって、どんどんタイ国へ運んでくるんです。その結果、どうなりますか。支えのないバーツでしょ。それでもってバーツをどんどん発行すれば物価はどんどんあがっていく。当たり前の話です。私は憲兵隊におりましたからね、うちの憲兵が、バーツ紙幣を入れた大きな箱をマレイからタイ国へ持って行く護衛をしていたのをよく知っています。戦争というものは、物心両面からジワジワ、ジワジワと来るわけです。そういうことを日本の兵隊さんは知らない。日本の国民はどれだけ戦争のために東南アジアの人たちを圧迫したかということをわかっていない。 野中という政治家は、僕は嫌いなんだけど、あの人も1ついいところある。戦争に反対してますよ。なぜ彼が戦争に反対するかと言いますと、彼は高知県でアメリカ軍の上陸を防ぐのために防空壕を必死で掘ってる。戦争の苦しみというものをある程度まで知っている。同じ徳島県で後藤田という政治家も戦争に反対している。東京の政府におって、戦争の中心におって、日本の兵隊が、あるいは占領地の外国人がどれだけ苦しんだかよく知っているからです。今の政治家は戦争のことを何にも知らない。 私はバンコクの軍の司令部の3謀部2課で情報関係の仕事をしておりまして、そこから憲兵隊へ今の言葉でいえば出向勤務していたわけです。毎日憲兵と1緒に捕虜収容所をパトロールして、スパイが何か仕掛けてこないか調べたりしていました。月夜にブルーの落下傘で1組5人ほどのスパイが降りてくる。月夜といっても新聞が読めるほど明るいんです。そうするとタイの警察から連絡が入りますからね、ジャングルのなかに降りたスパイを夜通し探して歩いたりしていました。 憲兵隊というのは、みなさんご存知ないと思いますが、陸軍の警察なんです。日本の憲兵隊は世界でも有数の乱暴で有能な部隊でした。だから終戦になったときには尻からでた虫のように嫌われて悪態をつかれたものです。 終戦になって私はバンコクの司令部に帰ってきたんです。軍司令部は終戦処理司令部に変わっておりました。そこで私は、タイへ入り日本軍をおさえた英印軍のもとで泰緬鉄道の調査に行かされました。最初のうちは屈辱ですね、昨日まで敵だった連中に、「ヘイ、通訳」って使われるでしょ。コンチクショウと思っておりました。2週目は忍耐ですね、これは我慢せんにゃいけんと。3週間目には反省ですよ。こんな大変なことをしたんだ、と。どうか穏やかに、という思いがあって。それに墓地へ行く路でハイビスカスの花を摘んで持って3って、ゲートに捧げる。こうしていると、それを向こうの捕虜は見ているわけですよ。最初のうちは「ヘイ、通訳」と偉そうに言っていたけど、その次は「ナガセ」と英語で呼んでくれて、終わりごろになって、3週間目のときには、だいぶ僕のやっていることが分かったのかもしれない、1生懸命やっていることが分かっていたからね、「ミスター ナガセ」って、ミスターを敵のほうから付けてもらい、私の努力も認められたかなと思ったのを覚えています。そうやって終戦処理司令部に帰ってきたわけです。それからいろんな通訳業務をやって、1年近く抑留され、1946年7月に日本へ帰ってきました。 3.どうしてタイに関わるか 私がこうしていかに日本軍が残酷なことをしたかということを話す訳ですが、じゃ、なぜお前はいつまでもタイ国に関わっているんか、といわれますと、2つ理由があります。 1つは、先ほども申し上げましたように、捕虜の冥福を祈らないといけないということと、もう1つは、インパール作戦で30万の日本軍がインドに攻め込こみ、そして負けて、東へ東へ逃げ、タイ国へ入った。タイ国へ入れば、あそこは戦闘地域でないから。それどころか日泰共同防衛でもって安全です。日タイで世界中を相手に戦争したわけでしょう。希望をもってタイへ逃げて帰ったんです。それまでに日本軍はタイ国に2万人いた。10万人逃げて帰った。だから私たちが終戦になって日本へ帰るときには、12万人の日本軍がおったわけです。それで私は司令部で終戦処理業務をしていたり、学生時代に演劇をしていたので、反戦活動みたいな芝居をやったりしていた。終戦で、陸軍も海軍も1緒になって捕虜になっとったわけですね。捕虜というか、むしろ投降兵なんですが。捕虜というのは戦争中に捕まった者が捕虜で、戦争が終わって捕まった者は投降兵といわれていました。 そしてね、海軍の人たちと1緒に反戦芝居をやっていたとき、海軍に永井少佐という人がおられまして、端正な顔立でした。その人に目をつけられたわけです。終戦処理司令部で私たちが1946年にここからアメリカのリバシティ号に乗って日本へ帰還することになったときに、ニューライフ(新生)キャンプに各地から集まった兵隊が1万人ずつくらい居て、各1隻に3000人ずつくらいを日本へ送り返したわけですね。そのときにニューライフキャンプの薄暗い廊下で永井海軍少佐が「永瀬君、ちょっとおいで」というんで、「どうしたんですか」というと、「じつは日本軍が12万人帰ることになったんだが、タイ政府は12万の兵隊1人づつに飯盒1杯のお米と、キイザラってご存知? 白い砂糖にする前の、サトウキビから採ったキイザラというんですがね(「ザラメ」ともいう。黄色の4角の砂糖)。日本はその当時焼けただれてしまって、砂糖は宝石みたいに貴重だったわけです。それを日本の兵隊1人1人に支給するというんです。永井海軍少佐がね、「永瀬通訳、このご恩は決して忘れてはいかんぞ」と訓戒してくださった。なんでそんなことを私に言うんかなと、そのときは奇異な感じはしました。 日本へ帰って3年ほどたって、司令部で終戦処理指令を打った岡山出身の人に岡山駅で会ったんです。そして「あなたは海軍の永井少佐と仲がよかったですねえ」というので、「ぜひお会いしてお礼が申し上げたい、今どこにおられますか」と聞いたんです。そしたら、「なんだ、君は知らないのか」というので、聞いた話はね、永井海軍少佐は12万の日本軍を全部日本に送り帰して、1番最後の、「敷島」という古い武装解除した軍艦で、輸送に使われていた船に乗られた。そして台湾とフィリピンとの間のバシー海峡で行方不明になられた。それを聞いた瞬間に僕は、「あっ、これは入水自殺された」と、パッと分かりました。なぜ私があの薄暗いキャンプの中で、「永瀬君、このご恩は絶対忘れるな」と言われたかが、このときはっきりと分りました。 バシー海峡といえば、因縁があるんです。輸送船の通路だったわけです。日本からきた何百隻という輸送船が、あそこの海峡で、アメリカの潜水艦にやられたんです。バシー海峡には55万人もの日本の兵隊が戦争に行く途中で水没してるんです。船団を組んでいくわけです、5、6隻でね。自分の知っている学友が乗っている前の船が「ドーン」という音がしたから見ると、ほんと1分間で船尾がワーッと上がったらそのまま沈んだ。55万といえば岡山の人口と同じですよ。それを日本の政府は未だ放ったらかしていますよ。 話は戻りますが、タイ国の人は仏教を信じている。まだ仏教が生きているんです。日泰共同防衛で1緒に戦争したことになっていますが、これは占領ですよ。日本軍が駐屯していたんですから。そして日本軍が駐屯したため随分たくさんの人民が苦労した。それでも彼らは、日本軍が負けて帰るときに、気の毒だという気持ちになるんですよ。「今、日本は焼け野原になっている。港について自分の家に帰るときに、おそらく腹が減るだろう」。これは彼らの考えですよ。飯盒1杯の米と中盒1杯のザラメ砂糖を、12万の日本の兵隊にくれた。たいへんな量でしょう。 僕はそのことが忘れられない。それに永井中佐、亡くなられたから中佐になりましたけど、永井中佐の遺言もある。僕はこの恩義を返さないといけないと思った。人間はねえ、自分のやったことに責任をとらなければなりません。同時にお世話になった方にはお返しをする。この2つは人間の根本だと思う。 (テープ起こし:真田紀子・成田宣子、文責:上羽 修) 注:この記録は、2003年7月26日岡山県高校生社会問題研究連絡協議会定時制通信制ブロック主催の講演会による。本誌への掲載に同意しテープ起しを校正してくださった永瀬隆氏および本誌への掲載を了承していただいた主催者の方々に深謝いたします。(年報編集フォーラム) |
| 講演記録 生かされて生きる歓び ―ビルマ戦線の日本軍兵士と英軍兵士との和解につくす― 平久保 正夫 『岡山の記憶』、第6号、2004年、72頁〜78頁 |
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(1)日本は負ける! 1941年12月8日のパールハーバーのとき、私は大学2年生でした。朝6時半か7時ごろ、ちょうどラジオ体操をやっていたとき、ラジオ放送で「大本営発表、今未明、帝国海軍は米国真珠湾を攻撃せり」という発表があったんです。それまでの「満州事変」から「支那事変」にかけては、あちこちで勝ったときに提灯行列したりして、平和な世の中でしたね。
大本営発表で日本軍が真珠湾を攻撃したことを知って、私は「しまった」と思ったんです。その意味はね、私たち同年の若者はみんな喜んで「勝った」と思ったんです。私は大学へ入る前から毎晩親父と時局の対談をしていたんです。親父は貿易商ですから「日本は貿易で食っていく国であって、貿易をやっておれば鉄鉱石がないとか石炭がないとかいって嘆かなくても、何でも買えるんだ」、「貿易をやって日本は社会帝国になる。そのためには決して武器を使ってはいけない。持っていることはいいけど、決して戦争に訴えることは1切あってはならない」。親父はそういう固い信念を持っていました。 私は当時の軍国主義であおられていたから、親父に「何言ってんだ」という調子で日本の軍国主義を礼賛していたんですが、やっぱり何年も親父と話していると、私の心の中では親父の言う意味がよくわかってきていたんですよ。ただ話をする都合上、僕は反対のことを言っていただけで。だからパールハーバーのことを聞いたとき、私ももう大学2年生ですから、日本の経済力、アメリカの経済力、英国の経済力というのはみんな知ってたわけです、調べて。日本は絶対勝てない。ようするに戦争というものは、心の戦闘で勝ったり負けたりするのではなくて、全体としては国力の差じゃないですか。日本は絶対勝てないわけでしょ、アメリカと戦争しても。「それをやっちゃいけない」と親父は言っていた。それが大本営発表という調子よいのが出てきたもんだから、僕は「しまった」と思ったんです。これで日本は終わりだという意味です。このパールハーバーを、みんな喜んでいるけどもね。これが戦争の始まりで終わりだと。ようするに日本は負けると思ったんです。そこが私の話の始まりなんです。 1942年9月に私たちは大学を半年繰り上げ卒業しました。会社に入ったと思ったら、会社には2週間いっただけで、10月1日は兵隊のキャンプへ、兵営に向かってるんですね。当時は志願兵じゃなく、国民皆兵。すべての男子は20歳になると兵役の義務があった。大学へ行った人は卒業までは免除されたが、卒業したとたんに行かなきゃならない。私は大学を出て約1か月も経たないうちに初年兵として、星1つの兵隊になって甲府の歩兵第149連隊に入りました。甲府の兵営はなかなか寒いところでね、激しい気候のところでした。そこで3か月間鍛えられました。毎晩毎晩スリッパで両頬ビンタくらって、ときには釘のついたスリッパで殴られ、頬っぺたから血が出て止まらなかったりして、鍛えられたんです。これはいじめられたというよりも、いじめた人は「鍛えてやる」と言って鍛えてくれたんです。「ありがたく思え。おまえたちはあと数か月したら将校になって、俺たちより上になるんだ。日本の軍隊は強い将校をつくらなきゃいかん。俺が鍛えてやる。ありがたく思え」といった調子でいじめられたんです。 そのあと幹部候補生の試験に私はうかり、さらに経理部の試験にもうかって陸軍経理学校に入りました。卒業したのが1943年11月でした。そして1週間以内に広島の港に集合し、船に乗ってシンガポールへ行きました。そのとき私は24歳、見習士官でした。 (2)補給のないインパール作戦 シンガポールへ行ってはじめて私たちの任地が決まったのです。これからインパール作戦に3加するという第31師団でした。赴任するため将校行李を担ぎながらシンガポールから約50日かかりました。軍は任地を命令しても、そこへ行くための交通機関の手配を全然やってくれないんです。「勝手に見つけて行け」といった調子です。だからトラックを見つけてその荷台の上に乗っかって行くわけです。ときどきは英軍が破壊した鉄道のまだ動いている部分があれば汽車に乗って、切られているところは歩いて、また次ぎのところからは汽車に乗って、というふうにして行きました。 先ほどの映画を観ておわかりと思いますが、ジャングルのすごいところに師団司令部があるんです。1個師団というのは1万5千人の兵力ですね。その司令部がジャングルの中の、隣の家に行くんだってどっちへ行ったらいいかわからないようなところにぽつんぽつんと宿舎があって。これが私が赴任してきた師団かとびっくりしましたね。私たち7人1緒に師団に赴任したんですけど、師団の経理部長から「これから2週間後に始まるインパール作戦に、君たちはよく間に合ってくれた」と言って喜んでくれ、取って置きの日本酒をついで1杯ずつみんなに飲ませてくれました。「これから始まるインパール作戦というのはどういうものか説明する」といって話してくれたんです。 簡単に言いますと、インパール作戦というのはそこの地図でおわかりのように、1番上のところに東西にわたってヒマラヤ山脈がある。ネパールがでていると思いますが。左の上に黄色くなっているところから斜めにベンガル湾まで伸びているのがアラカン山脈です。正確にはパトカイ山脈とかナガ高地とかいうんです。我々の第31師団はその山脈を越えてコヒマ、インパールというところへ行くのに、富士山の高さが海抜がたしか3700mでしたが、そこにある山は海抜3000mから5000mの山が重なり合っているんです。そこを我々の師団は越えて行ったわけです。これを越えるのに20日間かかる。人間は通れるけど牛も馬も通れない。みんな崖から落ちてしまう。そういう地形ですから、この作戦は成立しないといって、3個師団(第31師団と第33師団、第15師団)の師団長が「できません」という答えを上の軍司令官に出したんです。15軍の牟田口軍司令官に。ところが軍司令官は別の政治的な思いがありました。ちょうどそのころ東条さんが大東亜会議を東京で開いていたんですね。それにはビルマとかインドとかタイとか東南アジアの元首をみんな呼んで。そのときインドからチャンドラ・ボースが3加していて、東条さんに「私はインドのベンガル湾に攻め込もうと思う。そして英軍を追い出す。そのために日本軍は私をサポートしてくれ」と頼んだ。それを東条さんが、ちょうどそのころ太平洋の戦局が1日1日と悪くなって、日本はもう負けに近づいていたんです。だから1つたて直しのギャンブルをやろうとしていたところへ、私たちの15軍の司令官がインパール作戦というものを申請した。誰が考えても、実際に3個の師団長が「できません」というのにね、大本営は許可したんです。30万の兵隊を出して、米も弾薬も送れないところへ追い込んでね、「インドを取れ」というわけです。こんな作戦は今考えたらね、気が狂っているんじゃないかと思います。東条さんとしたら、当時日本はアメリカの海軍に1日1日と押されて本土にも近づいてきた。ここでひとつたて直してインドを取れば、英軍が退却して、英軍のほうがアメリカに「もう戦争をやめようじゃないか」というだろうという思惑があったんですね。 (3)食糧の牛が谷底へ ですから、「できないことがわっていても大本営が認可したことだから、我々は従わなければならないんだ。だから米1粒もお前たちの部隊には送れない。だからお前たちはこれから、(コヒマまでは各自25キロずつ米を背負っていきますから)コヒマへ着くまではあるが着いたころから後はない。それから後はおまえたち(私たちは主計将校ですから、兵隊たちに食わす責任者です)、おまえたちの腕1つによって、おまえたちの部隊が何週間戦えるか決まってくるんだ。おまえたちの責任は重大だ」と言われたんです。 私はそれまで親父に対して忠君愛国とか軍国主義とか言ってきたのですが、それが私の中でガラガラと音を立てて崩れたんです。何を言っているんだ、大東亜戦争とか聖戦とか言ってるけど、人間だけ送って食べ物も兵器・弾薬も医療品も送らない。こんな戦争があるかと、僕はこのとき日本の政府と軍に対して完全に不信感を持ったんです。だけど、おまえの部隊の千人の命はおまえの双肩にかかっていると言われ、これは私の命を捨てても達成しようと誓ったんです。 それから行軍が始まりましてね。みんな背中に背負っているものは25キロの米のほかに弾薬もある。僕なんか主計ですから、途中の部落で食べ物を徴発するときに使うため、軍票ではまさかこの山の中ですから通用しないから、インドのコインであるルピーコインという重い銀貨を持っていきましたからね、たくさん。自分の体重がだいたい70キロで、荷物が80キロあったんですよ。150キロの体重になったのがね、1時間に5分休憩するときには背嚢を背負ったまま道路の上に寝ますね。5分経って自分1人では起き上がれないんです。兵隊が2人両方の手を持ってガァーと引っ張らないと。そんな状態で富士山より高いか低いかという山を何か所も何か所も越えてコヒマへ向かうんです。牟田口将軍(第15軍司令官)が自分で発案し申請したんだけど、できないことは彼にもわかっているんです。だから各人が背負って行く20日分のほかに、あともう20日分をビルマの牛を徴発してその背に20日分ずつ乗せて連れて行ったんです。徴発した牛の数は兵隊の数と同じですよ。だから1個師団1万5千人ですから、牛も1万5千頭を1個師団用にかき集めて、それに20日分ずつ背中に積んで、部隊と1緒に行かせたんですよ。ところが牛も馬も通れない道ですから、毎晩、夜の行軍になると、ガラガラといってね、谷底に牛が落っこちるんですよ。それが僕らによく聞こえるんです。初めのうちはその都度兵隊が谷底へ降りて行って荷物だけ拾ってくるんです。兵隊は150キロの上にまた積んで運び出したんですが。1日か2日の問題でね、その後はやる気もしない。谷底に落ちたのはそのままほったらかしにしました。 そのうち私自身が谷底に落っこちちゃったんですよ。3日3晩、飯を炊く時間もくれない。休憩は1時間に5分ずつという山の行軍ですから、みんな眠って歩いているようなもんです。ただジャングルの中ですから、月の明かりもささない真っ暗ですよ、夜はね。だから前の人の背嚢のところからロープを付けてね、片方の手に結わえ付けて、真っ暗でも前の人について行くという行軍でしたね。1個大隊は千人ですけど、千人と千頭が1列になって歩く。その列の長いこと。 僕は夜の2時ごろ左足を断崖に踏みこんで150キロの荷物とともにガラガラと・・・。木や蔦をつかんで止めようと思うんだけど、バリバリバリといくらつかんでも止まらない。だいたい3分の2くらい落ちたところに大きな岩があったんです。そこへ私の足がつかえて、今度は頭が下になったんです、背嚢背負ったまま。「これで終わった」と思った、その瞬間に意識を失ったんです。気がついたら川の中でした。ところが頭は打たなかったんですね。それぐらい深かった。苦し紛れで無意識に這い出して川岸まで行ったんですよ。そこで正気に戻ったんです。川の幅がそれほど狭かったということですね。落ちるとき身体中傷だらけになっていましてね。それでふっと気がついたら、上のほうに部隊が止まっている。3日3晩も止まらずに歩いていた部隊が僕が落っこちたというんで止まって、懐中電灯がいたるところでピカピカしている。 こちらから「おーい」と声をかけたら、急にザワザワーと声がして、「生きていた」と。僕の前にいた大隊副官、宮路中尉というオリンピックの選手だった人ですけど、その人が僕のほうに向かって「これから軍医さんが4人連れて降りて行くから、そこで待ってろ」と言う。「こんなところに落っこちて、まだお前は生きているんだから、この作戦中お前の命は保障されたようなもんだ。後からゆっくりついて来い」といって部隊は動いていったんです。その宮路中尉がね、その次のサンシャックという戦場で迫撃砲の直撃を受けて飛散しちゃったんです。跡形もなくね。そういう偶然の事件もありましてね。 僕のほうは、軍医さんとあと4名が30分以上かかって下りてきてくれて、薪火を炊いて、あちこちを治療してくれたり、マッサージをやってくれたり、濡れた着物を乾かしたりして、夜明けまでいたんです。 それで後は、近くの部落へ「土人」を雇いに行った兵隊が8人連れてきて、4人でタンカを持って。私はそこからタンカに乗っかって、部隊を追求していったんです。そういうこともありましたしね。 (4)食糧確保に奔走 コヒマについたら米はないわけですから、コヒマに着く1日前のところで、ちょうど山の上にガジフェマという部落があったんです。だいたいあそこのナガ族というのは山の上に部落を作るんです。それでお互いに部落が敵味方で首狩り族といわれていたんです。敵の酋長の首を切って、自分の門にたてる。そういう風習のあるナガ族という種族です。そこへ米を集めにいったんです。部隊はあと1日したらコヒマにつくんですが、隊長に言ってね、「向こうに行っても(食料を調達する)自信がないから、ここへ6人で残って、米を1週間分買ってきます」といって残ったんです。翌朝そこの部落に行って村長さんに、・・・あそこの部落は籾を大きなカゴに貯蔵しているんですね。それを毎日出してきて、夫婦で並んで向かい合ってキネでついて、お米にして食べているんです・・・、「夕方の4時までに、これこれの数量を出してください」と村長に頼んだ。それで村長が部落民に命令して(米が)集まってきたんです。ところがお昼頃に英軍の飛行機がこの部落を2、3周して帰っていったんです。「あ、大丈夫だ」と、僕らは隠れていたから見つからなかったんだろうと思ったんですが、4時頃、米が集まって、銀貨を払った頃になって、英軍の飛行機が4機やってきて、僕らを銃撃しはじめたんですよ。僕ら部落の家の中に隠れていたんですけど、そこらじゅうでダダーッと弾が突き刺さったりするじゃないですか。こんな怖かったことないですね。普段僕ら外におれば飛行機が来ても少しも怖くない。でも家の中にいて撃たれるのはそりゃ怖かったね。いくら身体を小さくしても、もっと小さくならんかなぁってことがありましたね。そりゃ怖かった。 それで結局、焼夷弾を落としたから部落がみんな燃えちゃったんですよ。だから部落民は泣き叫びながら山から下りていっちゃったので人間がいなくなり、米が集まっても運べないじゃないですか。しかたなくそこからさらに次の山の部落に行きまして、人間集めて来ましてね。その労力で運んだんです。ま、そういうこともありましたね、途中。いろんな体験がコヒマへ行くまであったんですけど。で、私たちは午後2時半頃にコヒマの部落のそばまで行ったんです。 ところが、私たちの大隊長は普通の士官学校出の将校じゃなくて 下士官から鍛え上げの将校なんです。陸軍少佐が歴戦の士ですから、2時半に行っても、鉄砲撃ちながら部隊がワーッと行けば勝つんだけど、それをやると必ず損害が出るじゃないですか。部落民も死ぬし、兵隊も死ぬ。英軍の守備隊もそこにいるんですから。だからその日は「このあたりでおまえたち眠れ」といってジャングルの中に眠らして、夜の2時まで待ったんです。で、夜の2時になって50人ずつ部落の中に入れたんです。そのときは足から何から絶対音を立てないように準備して、もちろんタバコも吸わない。それで静かあに 50人ずつ配置し、1000人になったところで、いっぺんに歓声をあげる。部落民は起きて来てみたら日本人じゃないですか。前から日本人が来てくれないかと思っていたらしいんです。ですから、ナガ族には喜ばれたんですが。英軍のほうもやっぱり夜中に起こされて、「日本軍だ」というのでワーッと逃げていったんです、自分たちの陣地に向かって。その後を我々が追っかけて部落から下りたすぐのところに見上げるほど大きな倉庫が20棟続いてあったんです。 20棟というと、だいたい100メートルありますよ、長さが。高さは10メートル以上。全部布でできた倉庫です。その中に入ってみたら、お米と塩だけがあるんですよ。 それで私たちは1個大隊1000人ですけど、後ろから1個師団がついてくるわけですから、師団は1万5000人です。で、私の計算では15000人の師団の3年分はあった、お米と塩だけですけど。それで、これはまあ、天の恵みだと思いましたねえ。でも考えてみたら、私たちの大隊長の歴戦の知恵から出たもので、無血占領ですから、誰も死んでない。あれでドンドンやっていたら、だいぶ死んだはずですからね。それに米を日本軍に渡らないように倉庫に火をつける間もなく逃げちゃったから、無傷のまま残ったんですよ。それで私は大隊長のところにいって、「寝てる1000人全部起こして、私の下につけてくれ」と。そして「倉庫の米を全部運び出す。そうしないと後3時間して夜が明けると英軍の空軍がやってきて、みんな爆撃でやられちゃう。だから1000人貸してください」といったんですが、副官が反対して、「そんなんできますかいな。みんな眠っとんのに」と。それでも僕はしつこく大隊長に「あと2時間したら全部なくなっちゃうんですよ」と言って、やっと50人だけくれたんです。50人の手で運び出したお米が、我々大隊の3か月分の食料になった。これで私の任務はだいたい果たせたんです。だけど後ろから来る部隊には何も残せなかったという結果だったんです。で、私はこれを昨年からあちこちで講演するときに、「ミッション インポシブル ウオズ アチーブド バイ ザ ヘルプ オブ ゴット」という表現で言ってるんですが、本当はゴッドではなくて、大隊長の指揮によってそれができたんですね。 コヒマでははじめは勝ち戦でしたが、これは相手がインド陸軍だったからです。5月の中旬になって本当の英軍だけの師団がコヒマにやってきました。我々の部隊が1個連隊でせいぜい10門の大砲しかないなかで、英軍のほうは450門もあって、10マイルも離れた所から撃ってくる。だから相手は日本兵の顔なんか見てないですよ。上から飛行機が着弾点をレポートしてますから、あと2センチ右とかいって。だから正確に英軍の15門の砲から発射される砲弾が1塊になってバーンとここへ落ちてくる。英軍が来てからは、日本の兵隊は地面の上におれなかった。ずっと谷底の岩に隠れて、後は食料がなくなったら、下がるだけです。 (5)戦友の白骨を残し、帰国 牟田口軍司令官は「最後の1兵まで死守せよ」と命令していたんですが、私たちの佐藤師団長は「何を言うか、米も弾薬も送らないで死守するわけにいかない」、「6月1日までに米が来なければ、米のあるところまで下る」と電話で宣言して、電話線切っちゃった。日本陸軍の歴史上、上官の命令に従わなかったこの話は有名なものです。牟田口軍司令官に軍法会議にかけるぞと脅かされたけれども、佐藤中将が「かけるんならかけて見ろ。おまえのやったことをそこで暴露してやる」と言ったもんだから、牟田口さんも軍法会議にはかけられないで、軍医さんを派遣して「師団長は狂っている」ということにして、結局フィリピンのほうに島流しにしちゃった。 インパール作戦失敗の原因は、補給と航空機が皆無だったためです。英軍ウインゲート旅団が2度に亘って日本軍の間(上)を通って日本軍の後方を撹乱したのも終始航空補給に依ったからです。いわんや15軍司令官がインパール作戦を大本営に申請したとき「航空機は不要」としていたんです。 こういうことで1番損をしたのは兵隊です。30万人の兵隊のうち生き残ったのは11万人。19万人が現地で死んだ、インド、ビルマで。こういう戦争です。だからあの戦争の犠牲者は1般の兵隊。そのことにたいして誰も責任をとらない。作戦を起こした東条も天皇陛下も牟田口将軍も、誰も責任をとってない。戦後みんな栄転して、牟田口将軍なんかは陸軍幼年学校の校長になった。やられたのは私たちの師団長がフィリピンに島流しにあった。そういう戦争ですね。 私たちはそれからは下がる(コヒマから「転戦」=撤退、敗走する)1方ですから。下がるときには我々は「白骨街道」という名前を付けましたけど、山をあがると少なくとも10人の兵隊が同じところで死んでいる。それは、白骨になっているのもいるし、蝿がたかってウジがわいているのもいるし、今そこへいって腰掛けて休憩してるんだなというのもいる。それが同じところで死んでいる。休憩してるんじゃなく死んでるんです。だけども洋服もちゃんとしているしね。休んでるんだなと思う人がみな死んでいる。そういうふうに同じところで死んでいる。同病相哀れむといいますか。そういうところを僕たちは「こういう仲間には入らないぞ」と思いながら通り過ぎたわけです。 逆に言うと、ビルマで戦った戦友は俺たちと同じ仲間ですよ。そんな仲間の死んだのを、俺はその仲間に入らないぞといって通り過ぎて、地面の下に埋めてないんです。自分の仲間をね。飢えで死んだまま、我々は船へ乗っちゃって日本へ帰った。だからビルマで生き残った連中はね、1刻も早く返って戦友たちの骨を拾らうんだということを船に乗ったときに誓った。その精神が、あのビルマの竪琴の上等兵ですね。上等兵は「私がこれを埋めるまでは帰れない」と言って、部隊が日本へ帰るときに、その兵は1緒に帰らずビルマに残った。あれと同じ気持ちですね。僕たちは逆に、そういう気持ちはあったけども、1年間捕虜生活をしているうちに日本の実情がだんだん分ってきて、早く帰って日本を復興させなきゃならない、そのほうが先だ、骨を拾いにくるのはその後だ、という結論になった。だから我々は帰ったんです。 (6)ビルマ復興のために、まず元日英軍兵士の和解を それからもう1つ。船に乗ったときに、これは私だけの問題かもしれないけど、ビルマの戦争を振り返ってみるとね、4年間に日本の軍隊は東南から西北に向けて30万の部隊が動いて英軍を追い出した。その後今度は英軍に追われて、日本軍が同じ所を30万の人間が移動した。それが全部ビルマのお米を食ったんです。日本から(米が)全然来ないから。そのうえビルマのあの貧しい農家から1頭しかいない牛を徴発して食べたり荷物を運ばせたりした。 船に乗って日本へ帰る段階になって振り返ってみると、まるで日本軍がビルマの経済を根こそぎダメにしてしまったことになるでしょう。同時に、考えてみると、敗走する日本軍を英軍が追いかけてくるとき、決してチャンチャンバラバラで日本軍と戦うのじゃないんですよ。砲撃と空襲でビルマの家を焼くんです。日本軍はだいたいその頃になるとビルマ人の家に潜んでいましたからね。家を焼けば日本軍は逃げ出すからというんで、英軍はビルマの農家を全部焼き払ったということです。だから僕は日本軍と英軍の両方が戦後まず和解して、その上で両国の政府に働きかけて、両国政府がビルマの経済を復興させる責任がありますよ、そうことをやろうというのが船に乗ったときの決意であり、戦友に対する誓いでもあったのです。 戦後、私は丸紅の社員でしたから貿易の復興に尽し、会社を辞めた83年からは、今言った決意を実現しようと思って、和解のための活動を始めました。 私の和解という言葉の始まりは、会社で僕はボールベアリングの販売をやっていたことがあるんです。3万種の違う型番を並べて倉庫に入れてそこから出すんですけど、毎月決算のときに倉庫が出してくる在庫表と経理部がつくる在庫表と付き合わせると、必ずどこかが食い違うんです。どうして食い違うのかということを発見して、どっちかをアジャストして直す、これがリコンサイルといいます。リコンサイルというのは両方が譲歩して1つのものにするという、それがリコンシリエイション、ようするに和解です。僕が始めて聞いたのは、そういうところからの言葉です。和解ということは、いわゆる元の敵味方がお互いに相手の事情を理解して仲直りするということです。それで今、僕がやってきたのは英国の戦友と日本の戦友とがお互いに戦争のことを話し合って、ようするに私たちは何十万という兵隊が死んだおかげで生きているっていうか、死んだ兵隊の意思によって生かされているんだ、という感じ。生かされて生きている、自分の意志で生きているのではなくて戦友の意思によって生かされているんだと。だから彼らの分まで私は仕事を続けなければいけない、という視点ですね。これがだんだん英国の兵隊にも分ってきたんです。それで合同慰霊祭というのができたんです。教会の前で、あるいはお寺で、敵味方が並んで、教会の場合は2つの花輪を両国の元兵士2人が並んで持って、仏教の場合はお焼香をして、黙祷をして、両方の戦没者の慰霊をする。それで2、3歩下がって両方が向き合って握手をする。これが合同慰霊祭というんです。合同慰霊祭が和解の頂点です。そういうところまで私はやったんです。今でも毎年やっています。これが僕のいう和解です。 91年には英国で、誰かが女王様のところへレポートしたために、僕はOBEという勲章をもらいました。これはOfficer
of The Most Excellent Order of The British Empireという勲章ですが。それから99年には瑞宝章というのを日本からもらいました。これらは両方とも和解に尽力したためです。 平久保正男氏のプロフィール:戦後、イギリス側のビルマ戦線退役軍人とともに、「ビルマ作戦同士会」を結成し、和解と相互理解の運動を始める。日英元軍人のビルマ慰霊旅行・ビルマとの交流など、日英の掛け橋を務める。現在、英国日本人会会長。 83歳。 講演のテープ起しに目をとおし本誌への掲載に同意してくださった平久保正男氏および本誌への掲載にご協力いただいた中尾知代氏に深謝いたします。(年報編集フォーラム) |
| 回 想 記 無残な“死出の穴”づくり ―海軍機一式陸攻の人間爆弾「桜花」― 山本 正夫 『岡山の記憶』、第5号、2003年、118頁〜119頁 |
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昭和18年11月華北より帰還し翌19年2月に私は現倉敷市水島にあった3菱重工業水島航空機製作所に入所して海軍機の1式陸攻(G4M1〜3)を作っていました。私は第2組立に属して胴体組立のうち爆弾倉を作り、いわゆる鋲打ち作業をやっていました。 戦争は次第に熾烈となり、学徒動員の生徒や女子挺身隊を相棒に懸命に鋲打ち1筋に励み、毎日が残業々々の連続で、定時の5時から3時間半の残業を強いられていました。 いつからだったか爆弾倉に設計の変更があり、機内の床より直接爆弾倉内に降りる穴を作ることになりました(注:爆弾倉内の爆弾を吊るす天井の上は機内の床になっています)。後にいわれた桜花装備=i会社ではマルダイ装備)というもので、爆弾倉の中に特攻兵器の爆弾「桜花」を積み、この中に人が乗り込んで操縦し体当りをする人間爆弾に乗り込む穴です。この桜花は大きく、1式陸攻に取り付けると弾扉(だんぴ)を締めることができないので初めから取り付けられず、下から見ると弾倉は丸見えの状態でした。 この桜花に乗り込むための死出の花道は、1辺500ミリの正方形、厚さ12、3ミリぐらいの穴でした。この500ミリの穴を作るために、誠に手数がかかりました。でも作りながら、この穴の中をいつかは若者が降りて、ふたたび帰って来ない旅に出るのだと思いながら胸をしめつけられるような気持で作っておりました。 ほんとうに特攻とは無残なことをするものだと、自分が大陸の戦線より無傷で帰って来ているだけに、余計に思えてなりませんでした。私の作ったあの穴からも、幾人かの若者の尊い生命が消えていったことであろうにもかかわらず、戦果は上がらなかったようにみえました。ほんとうに残念でした。 その後工場もB29の爆撃によって大半が被害を受け、やがて終戦となり1式陸攻の製作も終わりました。思えば「増産!増産!」と尻をひっぱたかれながら、何号機まで作ったであろうか。最初のG4M1の1号機から数えて、私の作った爆弾倉の号数は6百あるいは7百何十機分であったと思う。完成機は、とてもそれまでは出来てはいない。1機分の爆弾倉が出来れば、それに白墨で番号を書き込んでいたのでそのように思われる。 マル大装備も中途からなので何機分を作ったか記憶はないが、完成されたものは何十機と言うくらいではなかったかと思われます。 最近のテレビで、当時のニュース映画を見ていて1式陸攻の姿を見るにつけ、在りし日の勇姿をしのび、またマル大装備といわれた死出の花道のことを忘れることができません。撃たれるとすぐに発火するので、「ライター」と仇名がつけられたとかですが、燃料タンクの組立ての人々の苦労を思えば、ほんとうに腹がたってなりません。 * 当時、従業員は男性が兵役で少なかったのか、女子挺身隊や学徒動員の女の子がたくさん入っていた。私のところにも岡山女子師範の生徒さんで津山出身の人が入ってきて1緒に鋲打ちをやった。この女性は本当によく働いてくださって、よい相棒だった。現在はもう先生を辞められていることと思う。できることなら、もう1度逢いたいものだ。 20年6月22日、水島の工場はアメリカ軍の爆撃を受けた。当日は工場が休みだったので出勤していなかったが、岡山の家でも「ドロドロ」という爆発の音が聞こえてきた。翌日出勤してみると、私が仕事をしていた爆弾倉の治具のあたりに大型爆弾が落ちたのか、直径十数メートルくらいの大穴があき、深さ5メートルくらいの底には水がたまっていた。 こんな大型の爆弾を落とされては、休日でなければ相当の人がやられていることだろうと思った。それまで空襲警報が出るたびに、職場の電気ドリルだけ持って1目散に工場を飛び出し、北の亀島山のトンネルの中にあった機械工場の中へ逃げ込んでいたが、大儀なときは逃げずに治具の下にもぐって隠れていることがあった。こんなことをしているときだったら、ひとたまりもなく死んでいたことであろう。 以後は、工場の片づけばかりだった。1週間後の29日未明、今度は岡山市が大空襲をうけ、私は身重の妻と2人で逃げた。 付記 人間爆弾「桜花」
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| 回 想 記 一兵士のみた戦争の素顔 ―岡山歩兵第110連隊従軍記― 上田 和夫(仮名) 『岡山の記憶』、第5号、2003年、80頁〜93頁 |
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入隊:顎をだした行軍 昭和14年(1939年)8月1日、私にも臨時召集が来た。お前のようなチビに兵隊に来いと言う前に小牧さんの奥さんの克子さんの方が早く来るぞ、とからかわれていたが、本当に来たのだ。8月10日の入営だ。岡山の歩兵第10連隊補充隊という所だそうだ。7月末西宮市役所まで行って赤襷をもらって、市からも餞別の金1封をもらい、大井手町でも町内より歓送式をして頂いた。そして岡山の家へ帰ってまた歓送式をしてもらい岡山へ入隊した。満21才の8月だった。現役兵と大差なく、だいたい同じくらいの年齢での入営だった。村の境まで送ってもらって万歳3唱でお別れだった。 昭和14年8月10日、臨時召集により入隊のために兵庫県西宮市を出発して故郷岡山県邑久郡に帰郷し、故郷の皆様多数の見送りを受け、炎暑の中を岡山市津島、岡山歩兵第10連隊補充隊に入隊。簡単な身体検査を受けたあと、各中隊に配属され、自分は第2中隊に配属になった。 中隊長西村中尉、第1大隊長時末少佐であった。そして第1班に入った。初年兵教育の教官は森見習士官で、1、2班は軽機関銃班で、軽機班の初年兵係上等兵は馬場、光森の両上等兵だった。3か月の速成教育で営庭を、練兵場(津島運動公園)を、騎兵隊跡を、また葦の繁った福島の埋立地をはいずり廻ってだいたいの教育を終わり、1期の検閲といわず査閲ということで、真庭郡蒜山原に向かって岡山駅を伯備線で江尾駅まで乗車。ここから蒜山原まで東へ東へと行軍し、重い軍装に教練用の軽機をにない、顎を出しながら蒜山原に到着。10月頃のそろそろ寒さに向かう頃だった。蒜山原廠舎に入り、蒜山原野の黒ボコ土に真っ黒になりながら、査閲官第1大隊長時末少佐の査閲を受けた。10月下旬に蒜山より帰隊したが、岡山市の暖かいのには驚いた。10月25日、中支より第10連隊(毛利部隊)が軍旗と共に帰還して、歩兵第10連隊となり、補充隊の名は消えた。当日紅白の蒸し万頭が配られた。隣の5中隊に知人の那須君(1級下)も帰って来ていた。 査閲から帰隊した我々初年兵は、入隊以来1月に入隊していた現役兵の古兵殿より大いに油を絞られていたが、毛利部隊が帰って来た途端古兵殿は初年兵となり、我々は補充兵となり、我々より1月の初年兵が野戦下番より油をしぼられた。「初年兵のくせに補充兵を顎で使って2年兵面をするな。補充兵は動かなくてよろしい、初年兵がやれ」とコキ使われることになった。 我々は除隊、いや野戦行き、など色々の噂が飛んだが、結局11月10日付で一同1つ星の2等兵から2つ星の1等兵に進級し、同日東廊下に集合、野戦行きの氏名を読み上げられ、病弱の者を除いてほとんどの者は野戦行きと決定した。 中国戦線へ:楽しみは風呂番 昭和14年11月14日早朝、岡山駅まで行き、列車に乗り博多に到着。1泊し、11月15日に歩兵第110連隊、通称鷺第3911部隊に交代要員として門司港を出発。11月16日釜山上陸。どこかの兵舎に1泊。夜は劇場にて芸者衆の踊りの慰問があった。 釜山から鉄道により朝鮮半島を縦断し、11月18日朝満国境通過、列車は軍用列車のため止まらぬ駅は多くても、止まると1時間も2時間も止まるので時間は相当にかかる。自分は2中隊だったが、前から4、5輌くらい客車があったので、序列順に乗ったので2中隊は客車だった。客車はトイレがあって良かったが、夜になって寝るには一寸不便だった。腰掛けには1人しか寝られないので、通路に寝たり網棚に上がって寝たりしていた。貨車に入った者は藁が敷いてあり、寝るのには都合よかったがトイレには困ったとか。列車が止まるとすぐ駅員に何分停車かを聞いてから駅のトイレに行くか野糞をしなければならないのだ。停車時間を聞いていないと用便中に発車されてはたいへん、置いてき放りになってしまうから、どちらが良いともいえない。ともあれ列車は新幕、沙里院等で湯茶の接待を受けながらも、11月19日山海関を通過して北支に入る、 11月21日京漢線高碑店より支線を西進し、河北省易県駅に到着、北支での第1歩を印す。易県城内にあった歩兵第110連隊本部に到着。雪の降りしきる本部内の広場に集合整列、5列縦隊となり、前から1中隊、2中隊、3中隊と分けられ、自分達は後ろの方だったので第11中隊に配属となった。早速各中隊の駐屯地へ向けてトラックで出発した。第2大隊に配属された者は易県駅よりまた列車により京漢線を南下して「邯鄲夢の枕」で有名な邯鄲駅まで乗車。そこから東の平地、河北省大名県城内にあった第2大隊本部(武信部隊)まで行った。第2大隊はなぜか連隊本部より遠く離れて他の部隊の隷下にいて、大名付近に駐屯していた。第1、第3大隊は連隊本部の近くの各県に駐屯していたようであった。自分の配属された第11中隊は連隊本部付きで易県城内にあり、連隊本部より道路を隔てた東の家の酒保の少し東に兵舎があったので、そのまま歩いてすぐに中隊の兵舎に入った。自分は軽機修業だったので、同じ修業の内田と小銃修業の森、本位田の5名は第1分隊に配属された。 第11中隊長劒持中尉、第2小隊長川合少尉、第1分隊長吉永軍曹であったが、自分たちが配属されたときは連隊本部も中隊主力も大行山脈中の阜平作戦中で留守中だった。少数の残留者のみで古年次兵も少なく、討伐隊の帰隊までは我が世の春を謳歌しつつ、間部見習士官の元にて初年兵教育をもう1度野戦向きにと易県城内広場や城壁上で受けながら、夜は連隊本部の酒保に行き内地の不自由な酒保と違ってのびのびとパイカンやビールを飲みながら、ここが戦場かと疑うほどの、のどかな毎日を過ごしていた。 まもなく討伐隊が疲れきった体で帰って来た。トタンに我々初年兵の苦行が始まった。以来1年以上自分達の初年兵は1向に来てくれなかった。我々の前の古兵殿は3か月で我々を迎えて古兵となり、頂好(ティンハオ、中国語でたいへん良いこと)の甲であるわいと、我々は羨んだものであった。 唯一の楽しみは風呂水を汲んで沸かす風呂番で、1番良かった。風呂番をしていれば叱られることもなく、戦友と自由にだべることが出来たから、奉還町の映画館の用心棒をしていたとかのFと言う眉毛に入れ墨をした男と1諸によく風呂番をしていた。彼は大モサクレで小隊長、中隊長に逆らい、とうとう中隊を放り出されてしまって、どこへ行ったか知れなくなってしまった。戦後になってこの男はどこかで自転車屋をやっていたと聞いていたが、のちに原尾島の方で借家持ちになっているとかで、捜して行って逢って話しをしたことがあった。 初めての討伐:最初で最後の突撃 その年昭和14年(1939年)12月、北支に来てから1か月、初の討伐作戦に参加。いわゆるシュ号作戦といい、新城、雄県方面の作戦である。この作戦中、12月27日新城県佐各荘附近の新(沈)堂の戦闘においては、自分達は従軍中、最初で最後の突撃を敢行した。新(沈)堂部落に通じる濠の中より1斉に外の畑の中に散開し、川合少尉の「突撃に前へー」の号令1下、着剣した銃にてワアッと喊声を上げながら部落めがけて突撃を敢行。敵弾のピュンピュンと飛んで来る凸凹の畑の中を、前の部落を目指して我武者らに走った。弾丸に当たって死なば諸共と覚悟を決めて部落入り口の壕に突入。この突撃中、同年兵小松原君は横腹に軍衣のみを貫通する銃創を受けて倒れたが、身体には何の異常もなく、それでも裸で横腹を細い棒で殴ぐられたような痛みを感じたそうだ。 どうにか部落入口にたどり着いた。敵は民家にたてこもり頑強に抵抗。これと交戦中、我々の小隊長川合義夫少尉は軍刀を持った右腕に敵弾を受け、鮮血したたる腕を、本荘・小倉・有吉等の古年次兵が仮包帯をして、揚柳の木を銃剣で切って副木にしてまた包帯を巻き後退された。のちに右腕切断という大きな犠牲を出した。夜に入り同部落に入った。軍隊に入り最初に参加した討伐作戦で小隊長を失い、壕の中にはゴロゴロと敵兵の死体が転がっていて、恐ろしさを通り越して鬼になってしまったようであった。夜の歩哨に立っても、周辺の壕内で敵兵が多数死んでいるのだ、と思えば鬼気の迫るものがあった。 翌朝は部落の中の掃蕩である。戦友の仇とばかり、死んでいる敵兵に「この野郎ッ」と銃剣でブツブツ突き刺して鬱憤を晴らし、死んで転がっている女の陰部にも「この野郎ツ」と棒を突っ込んでうさ晴らしをやった。このような残虐なことを平気でやったものだ。これが戦場というものだろう。この戦闘は周囲をかこみ袋の中の鼠が猫に歯向かって来たもので、夜になって1方を開けて退路を作ったので敵はその開けた所から逃走したとのことであった。逃げられないようにして殲滅すればよいが、それをやるとこちらの犠牲も大きくなるので、取り止めたものと解す。 年の瀬もせまった30日ごろだったか、雄県の八溝河鎮に終結しトラック輸送で警備地易県城内に帰隊し、鹵獲(ろかく)した黒砂糖で作った甘い甘いぜんざいを食べた。このぜんざいがたいへんうまかった。いまでもこの味を忘れることが出来ない。 この年も暮れて始めての戦地で迎える昭和15年(1940年)の正月だ。31日夜は衛兵勤務もなく、ゆっくり休んでここ易県城内で迎えることが出来た。私は仕事柄、年末は寝る間も無いくらいこき使われ正月を迎えるのであるが、軍隊の正月は何とゆっくりしたものかと、つくずく感じながら正月を迎えた。 中国では我々が考えていたほど雪が降らない。在支4年の間、河北省で積もるほど降ったことは数えるほどしかなかった、と思っている。易県城内にいたころ5センチくらい積もったことがあった。大陸の雪は湿気がなく、たいへんサラサラした風が吹けば飛んで行くような雪で、とても雪合戦用の団子など出来ない。雪達磨などももちろん出来ない。だからむろん雪吊りも出来ない。道の端の谷の吹き溜まりの所は1メートル以上も溜っている所もあった。1夜明けて太陽に当たって少し融けると湿気が多くなり、団子や雪達磨や雪吊りも出来るようになる。岡山市附近に降る雪とは大分違うようだ。気温がたいへん寒く湿度が少ないと、このようなサラサラとした雪になるようで、岡山で降る里雪とは大違い。 張登鎮での警備:砂塵と少年 昭和15年(1940年)1月のはじめごろだった。まだ寒さの残っていたころ、連隊本部は易県城内から河北省の省都清苑県の保定城内へと移駐した。第11中隊はトラックにてライ水、高碑店にいたり、京漢線に沿い南下し、定興、北河店、古城鎮、徐水、漕河をすぎ保定にいたり、保定より更に南へ約30キロくらいの張登鎮に向かう。途中保定と張登鎮の中間の北大再(ペーターロン)に第1小隊(光枝少尉指揮)が駐屯することになった。第2、第3小隊は張登鎮の兵舎に入る。ここでの思い出は兵舎の附近1帯は砂っ原が多く、この砂原に鉄条網を張るために杭を打とうとしても5センチくらいはサラサラした乾いた砂だが、その下はカチンカチンに凍りついた砂で岩のようになっていて一向に入らず、十字鍬でも歯が立たず困った経験がある。 また春になると毎日午後から東の強風が吹いて砂煙を巻き上げ、周囲は霧のように見えなくなり、頭の上の空だけ青空で太陽も眩しくないくらい砂塵が起きるのだ。行動は午前中には帰って来なければどうにもならない。1メートル先も見えないくらいの嵐となり、銃は撃つことはできない。軽機関銃などはもっての外である。機関の中が砂まみれになって動かなくなる。こんなになると戦争は1時停止だ。 この砂塵の中を歩いて兵舎に帰って服から兵器の手入れをしてみると、銃も服のポケットの隅々も、腹の中の臍の中まで小さな砂の粉が入っており、包み込んだ御守りの中も砂だらけというようである。何とも話しにならないことである。 ここ張登鎮で警備中、わが分隊長Y軍曹は「支那ピー」を囲い、その弟を連れてきてわが分隊の苦力として使っていた。徐春芳(シーチュンファン)という名だった。日本名を五郎と言って、何か月か使っているうちに日本語も覚えて便利に使っていた。彼は班長が帰ったあとも使っていたが、自分達が帰ったあとには敵の八路軍の兵隊になったとか聞いたが可愛い奴だった。 新安での討伐:雷魚・スッポン 昭和15年3月2日、保定に集結、天津に通じる運河を工兵隊のダイハツのディーゼル艇によって安新県城(現、安新鎮)より安新県新安鎮(現、安新)に終結して、東南方に広がる湖、白洋淀内の討伐を行なった。工兵隊の運転する九五式軽操舟に乗って、毎日毎日新安の軍用舟着場を出発し、淀内の島々を掃蕩してまわった。敵さんさえいなければ、まことに楽な討伐であったといえよう。 討伐は暑い夏まで続けられたが、敵さんに遭遇したのは、ただの1回のみであったと記憶する。ただ1回の敵と遭ったのだが、何もないときにはダラダラしている兵隊も、その動作の機敏さには工兵も舌を巻いて驚いたとのことであった。この白洋淀討伐中、淀で取れる雷魚を魚屋の内田君が刺身にして皆で食べた思い出もあり、またどこかの島で敵の隠していた多くの糧秣を鹵獲して帰ったこともあったが、それは全部粟だった。 昭和15年(1940年)夏の終りごろだったか、長かった新安討伐も終えた。当時新安鎮に常駐していたのは第12中隊(松浦隊)だったと思う。この討伐に集結の際、運河の濁った水中にたくさんのスッポンが首だけ水面上に出して浮いているのを見掛けたが、運河には多数のスッポンがいるのだ、と思った。また舟で討伐するので舟は風を切って進むために寒く、タオルで頬かむりをしていて、皇軍兵士のすることではない、と叱られた思い出もまた懐かしいことである。 旧城鎮の警備:敵に包囲されて 昭和15年6月3日、白洋淀討伐より帰隊した所は出発した張登鎮ではなく、討伐中に留守隊が荷物と共に警備地を移動していた。そこは中隊本部は高陽県城内、我々土井小隊(川合少尉のあと、土井少尉指揮)は少し東の高陽県旧城鎮という所であった。ここは部落はずれの1軒家が兵舎で、附近に猪流河という川があった。この川の堤防を補修していた多くの苦力の監視である。何百人と言う苦力を見ているが、この苦力が一斉に蜂起したらどうなるか、など思いながら監視をしていたが、銃を持っているので没法子(メイファーズ、しかたない)というところかなと思っていた。 泥水が流れているのか止まってるのか分からないほどの流れの川である、紙切れを投げこんで流れを見ると1分間に10センチも流れないくらいであった。それだけ土地の高低がないということである。苦力はその泥水の中で泳いでいたが、よくも病気にならぬことだと感心していた。 この川の橋の所で検問していると、朝早く両方の村から百姓が野菜を持って出るのに会うが、このとき中国で始めて西瓜とまくわ瓜を見た。西瓜はシーグヮといい、まくわ瓜は緑色の大きなもので、肉は薄い橙色をした味の良いもので甜瓜(テングヮ)と言っていた。これを食べるのも始めてだった。百姓は通行手形のように思って西瓜や瓜を置いて行くのだ。こうしておかないと通してもらえないと困るから、良く知っているのだ。 この地方は平地で、太陽は畠から出て畠へ入るのだが、広い土地は周囲に山は見えず、真っ赤な太陽が出て、また入る時はたいへん美しい。 またこの地方に限らず中国の土は1様にキメの細かい粉のような土で出来ていて、乾いている時はプワプワとメリケン粉の如く、少し寄せて靴でパッとその上に踏み下ろせば、土はパッと周囲に飛び散るような土である。雨が降れば上の方のみが湿ってドロドロの泥になり、厚さ5センチくらいの泥を取ると下は乾いた土で、下にしみ込まないのが特長である。土のキメが誠に小さいわけである。だからこの土が水に溶けるとなかなか沈澱しないのだ。泥水はなかなか澄まないのだ。黄河の水も同じことがいえるのである。そして海に出ては黄海のように水は黄色だ。 畠の潅水も、畠の中の井戸水を汲み上げて溝を作って流すと、こちらを少し高くして置けばその溝の続く限りどこまでも?土にしみ込まず流れて行く。大きなポンプで汲み出すのではなく、ロバが廻って汲み上げるエレベーター式の水汲みでも、またつるべで汲み上げても同じことである、結構遠くまで送ることが出来るので感心した。 この土を水で練って型に入れて土煉瓦を作り、それを積んで家の壁にして屋根を作れば家が出来るのだ。たいへん簡単なことだ。でもこの土煉瓦を積むには、瓦匠(ワージャン、いわゆる左官)でないと出来ない。家の中の部屋の床になる板の代りに土煉瓦を作るが、これは泥の中に柳の細い枝を入れて木筋コンクリートのようにして、厚さ7、8センチの40センチ四方くらいの物を作り、いずれも天日によく乾かして作る。これでオンドルの座板にすれば下を火が通ってもよいわけだ。屋根は垂木くらいの木を側の煉瓦に乗せて、その上に高梁がらを敷き、その上に麦藁のスサを入れた泥を20センチくらいの厚さに塗っておくと、雨は漏らず、なかなか雨に溶けて落ちない。別に糊など入れるわけではないが、屋根から落ちてくる雨水はきれいな雫である。決して濁ってはいない。だから家を作ることは簡単だが、それでも大工、左官の賃金が高いのか、なかなか家も作れないようであった。 旧城鎮駐屯中に雨期に大雨が降り、どこから流れて来たのか、北の方から大出水。たいてい白洋淀から来たのだろうが、平地は1面の大海原のようになった。部落はたいてい少し高い所にあるので、浸水は免れてはいるものの、周囲の畠は水没してしまった。そら、水が来るぞ、というので、高さ1メートルくらいの土手を急造して堰を作ると、結構それで水が止まるのだから不思議だ。何せ水深が1メートルも上がるには、物凄く広い範囲を水で浸すことになる。土地の高低がほとんどないというような所だから、このときの出水は泥水ではなく、わりに澄んだきれいな水だった。 昭和15年10月1日、この大出水で島になった警備地の隣部落に、土手伝いに討伐に出たことがあった。隣村といっても兵舎から4、5キロくらい離れた部落だ。行く道は1本の土手しかない。その部落から向こうはだいぶ陸が続いていたようだった。近くの部落とて軽装で出て行った。弾丸も少ししか持って行っていなかった。弁当も昼食1食分のみ。その部落を過ぎて村の外れに出たとき、敵が撃って来た。撃ち合っていたとき門田上等兵と小倉上等兵が負傷した。弾丸は少ないので引き返して部落を抜けて警備地に続く土手に出た。1本道の土手を帰っていると、曲がったところで敵兵につき当たった。アッと思って双方ともに下がったが、行く手をふさがれてどうにもならず、また部落に引き返して、部落の入口にあった1軒の民家に立て籠った。敵は相当大部隊のようであった。どうやら敵に包囲されたらしく、夜になってしまったが夕食もなく、屋根に上がって対戦し、接近して来た敵のみを撃つくらいにして弾丸の節約をしないとたいへん心もとない。たしか軽機は弾匣1個のみ(120発入りで普通携行は600発)だったと思う。通訳の太郎の話では、この地方の者ではない。話している言葉が違う、と言っていた。どうも南の方の言葉のようだとのこと。敵の話していることが分かるくらい接近して来ているのだ。1晩中守り続けた。家の下まで来た敵にのみ撃つか手榴弾を落とすくらいが関の山だった。家の中では森が、その家の中にいた鶏と兎を殺して料理をして屋上へ持って上がって来て、対敵しながらその肉のみを食うありさまだ。4キロくらい先の警備隊への連絡も出来ない。 あとで聞いたことであるが、留守隊では、日帰りの討伐なのに帰らず、時折銃声も聞こえてくるので、心配して高陽の中隊本部に連絡し救援を頼み、中隊は連隊本部に連絡し、野砲1門を廻してもらい翌朝救援に出て来た。救援隊は我々を包囲している敵と交戦し、同年兵相賀君は戦死した。野砲を撃ってようやく敵を追い払って籠城していた我々を助けに到着。家から出て堅い握手を交わして無事を祝福し、ようやく警備地の旧城鎮に帰った翌日、高陽県城内の東門の南の城壁上で、昨日我々の救援に来て戦死した相賀君を茶毘に附し、木と竹の箸により、箸から箸への箸渡しによって骨を1った。我々のために犠牲となったので我々により茶毘に附したのだった。相賀君の遺族は不明だが、岡山市1宮の方で親父さんは植木屋をしていたとかであったが、どうしてもわからない。 昭和15年5月7日、ライ水県城北方の山の中の部落、車廠附近の山の頂上の戦闘において、頂上に掘った濠に立て籠った敵と対峙して袋の中の鼠のようにして攻めると、敵も死にもの狂いで頑強に抵抗、彼我の距離は3メートルくらい。互いに手榴弾の投げ合いという近接戦において、2分隊の同年兵の広瀬君が負傷、後送され、我々の戦列より離れた。彼は平成6年3月1日死亡した。 大名附近の討伐:馬の小便のような風呂水 昭和15年(1940年)2月27日よりの作戦の討伐に参加。第2大隊武信部隊の警備地である。大名附近の討伐に3加。京漢線により南下、夢の枕で有名な邯鄲にて下車、肥郷、広平、永年の各県城附近を掃蕩し、大名県城内に入る。この討伐中に、永年県城は忘れることは出来ない。四囲を水で囲まれ島となっていた。永年県城はせまい堤防上の道路が1本だけ城門についているのみで、大きく迂回した道路を長蛇の列を作って入城した。城内に1泊、水の中の島である城内での食事の用意に、水を買って炊事をした思い出もある。また行軍中、凍りつく水中を膝まで浸かって渡河し、渡った川岸で焚火をして衣服を乾かして食事をしていると、敵が撃ってきて、早々に食事も中止で応戦したこともあった。 討伐も1段落して大名県城内で休養中、久し振りに入浴が出来るということで、街の風呂屋に出掛けた。保定附近の風呂屋と違って、浴槽はあっても洗い場のない風呂だ。掛け湯をする場所とてもないのだ。中の湯を見てニ度びっくり。湯の色は馬の小便同様の茶色い水だ。いやそれよりももっと濃い色だったように思えた。洗い場もないのだから、湯の中で石鹸を使っているので泡がたくさん浮いている。まことに汚い湯だ。でも顔を洗うことは1寸はばかられるが、汗と垢を水の中で落とすだけでも良いだろうと入る。4年間の在支中、このような汚い風呂に入ったのはここだけだった。これも思い出の1つで忘れることは出来ない。 南の方は良い水がない、と聞いてはいたものの、このようなことは思いもよらぬことである。北の方に多くいたが、北の山の近くになるほど水は良く、南に行くほど水質は悪く、塩分と石灰分をたくさん含んでおり、生水は絶対に飲めない。湯に沸かしても鍋の底には石灰分が白く厚く焦げ付くように着いていた。沸いた湯を冷まして上澄みの水を静かに汲んで飲むのだ。水のことで思い出すのが前に書いた広瀬君が負傷した車厰の附近の山の戦闘で、敵を皆殺しにして下山の際に、戦闘中は何とも思っていなかった喉の乾きが1度に出た。山の中途まで下りて来たときに、小さな水溜まりがあって水が湧き出ていた。6、70センチ平方くらいの大きさの溜まりであった。水深は3センチくらいだったろうか。兵隊は我先にと先を争って少さな溜まり水に口をつけて飲んだ。よく見れば先に馬が通ったと見えて足跡があり、水は少し濁っていたがそんなことも問題ではない。水筒は空っぽなのだ。またよく見ると水の中にはオタマジャクシが何匹か泳いでいた。そんなことも問題外で遂に水はなくなってしまった。あとは中国の警備隊が湯呑みで湧き出て来るチョロチョロと流れ出す水を貯めて飲んでいたが、これとてだいぶん回りの土が入り濁った水を飲んでいた。このような汚い水を飲んだことも始めてである。平地の討伐に行き井戸水を汲んでも上には塵がたくさん浮いている。この塵を口をとがらせてプーッと吹いて塵を向こうの方に寄せておいて素早くこちらに桶を倒して飲むのが方法である。山の中に入ると、川の水も日本の水と変らず奇麗な水が流れていた。泉の水も冷たくて良い水だった。平地の方へ出ると必ず内地の奇麗な水の流れている川の水を腹1杯飲みたいなあ、と思っていた。 紫荊関での駐屯:凍結した軽機関銃 昭和15年10月より11月。その頃連隊の警備地の北西の最前線は易県西方の金波鎮が最前線であった。その金波鎮より北方に連なる山の討伐に参加。拒馬河に沿って奥へ進み、蓬頭にいたり駐蒙軍と連絡を取って中隊は紫荊関まで帰り、第3大隊本部と共に紫荊関に駐留して、長城の1角の大きな煉瓦をもって兵舎を建て、ここを足場として附近の討伐を行なった。 昭和16年12月10日、紫荊関より出て行き、北の部落へ払暁攻撃をかけたことがあった。雪の少し降っていたたいへん寒い朝だった。おそらく零下20度くらいだったと思う。敵を追って山へ登って軽機を撃とうと思っても凍ってしまって活塞が動かない。槓桿を引いても引鉄を引いても活塞はソローッと前に進むので、撃茎先頭が弾丸の雷管を突かないので弾丸は撃てない。仕方なく枯草を燃やして銃を暖めてようやく3、4発発射して、休むと撃てなくなる。重機のみは景気よく撃っている。我々の銃はダメでただ1挺のみ第2分隊の掘田上等兵の持っている鹵獲した自動小銃が勢い良く撃たれたのみ。あとから聞いた話だが、重機はどうして撃てたのかと聞いたら、前の夜手入れをして、スピンドル油を奇麗に拭き取って石油を塗って組んでいたと聞いた。我が軽機はいつものようにスピンドル油で手入れをしたままだった。スピンドル油は凍るので駄目だとのことだった。 敵は逃げて高い山へ登り上から撃って来るので恐ろしいこと。引き返すに引き返せない状態となった。山崎大隊長は連隊長より「山崎どうするのだ」と問い掛けられたそうだ。ほうほうの体で川まで下りて、退がるときに中隊の黒川虎1軍曹と木村正平1等兵は戦死した。昭和16年(1941年)2月10日となっている。また附近の夜の潜伏にて宮山中尉は腹部に銃創を受け後送され、第3大隊付軍医川崎中尉の手術を受け命は取り止められ、内地送還となった。川崎軍医は姫路市にご健在であり、宮山中尉は送還後全治、昭和44年(1959年)3月2日病死されたと聞く。 井ケイ炭鉱附近の討伐 昭和16年(1943年)夏頃だったか、石門(現、石家庄市)に1時駐留して附近の討伐を行なう。石門東方の平地討伐中、1部落で宿営していたときに水上連隊長のフンドシ姿を見た。たいへん平民的な連隊長であった。水上さんは後に少将に昇進され歩兵団長として南方に派遣され、ビルマのミートキーナにおいて軍旗を守って自決されたと聞く。靖国神社の遺品室には、紫荊関で写された我々が持っている写真と同じものが飾ってあるのを見た。また石門より西の正太線沿線の井?炭鉱にも1時駐留して附近の討伐を行なった。井ケイでは行動のない日は山へ行って単旗通信の練習をやっていた。モールス信号を1本の大きな旗でやる通信だ。奥への行動で黒水坪を攻撃した討伐には敵は逃げてしまっていた。黒水坪で1泊して井ケイへ引き揚げる途中で山の上から撃たれ、恐ろしい思いで帰って来たこともあった。黒水坪に入る前にも前方の山から撃たれ、第2大隊長河原中佐は「機関銃前へ」と号令し、自分も前方へ飛び出して勇敢なる指揮振りに我々は目を見張った。河原大隊は槍部隊として有名だった。また他の隊は正太線の有名な娘子関方面の討伐にも出動したと聞く。この頃は恐らく八路軍の百団大戦のあったころと思っている。 茶窩口での分駐:分哨の火事 昭和15年(1940年)から昭和17年(1942年)頃まで第3大隊本部と一諸に紫荊関に駐屯していたときに、兵舎が出来上がり、南の茶窩口より上がる道路も工兵隊により修理拡張され、自動車が上がれるようになった。我々土井小隊は1個小隊で紫荊関への登り口の茶窩口(現、ポーシァツン)に分遣隊として分駐していた。この茶窩口では、東の川の中の島の廟を除く2つの分哨は高梁ガラで小屋を建てて分哨としていた。北の山の中腹の分哨に出ていたときのことである。自分は立哨中であった。控えの2年兵が控えをせずに寝てしまっていたらしく、中で焚火をしていたが、その火が小屋の高梁ガラに燃え移って火事となった。 自分は後ろが明るくなったので振り返ると、分哨小屋が焼けているのでどうすることも出来ない。中にいた控えと仮眠中の古年兵が逃げ出してきた。その人たちは装具を外してしまって寝ていたので何ももかも放ったらかして出てしまったので、これを取りに入ろうと思っても火は大きくなって中の兵器・弾薬も取りには入れない。やがて弾薬が破裂し始めたので近寄ることも出来ず、附近に伏せてじっとしていた。燃え尽きるまで待つより他ないのだ。手榴弾、擲弾筒の榴弾、小銃弾等が次々に破裂して景気のよい音を立てる。山の上の紫荊関の中隊本部は茶窩口が敵襲を受けていると救援を出そうかと電話で尋ねてきたそうだ。敵襲ではなく火事だと伝え、救援隊は取り止めとなったそうだ。 この火事で八九式重擲弾筒を焼いた。以後この擲弾筒は兵器検査には1回も出さなかった。検査に来る師団の兵器係の警戒に、山の上へ警戒に出る分隊が持って出ていた。その後この擲弾筒が使えるかどうかを調べないと、いざというとき困るので、試射をしてみなければ無用の長物ではどうにもならないので、試射をするために川原に近い畠の中に杭を打ち込んで、この杭に擲弾筒をくくりつけて弾丸を込めて、引鉄に長い紐を付け、離れた小屋の中から隠れて引鉄を引くことにした。筒が破裂したらたいへんだから。そして発射、榴弾はこともなく最長680メートル飛んで谷の中で炸烈した。ようやくこれで大丈夫と言うことが判明した。この試射をしたのは坂本上等兵だったと思う。 晋察冀辺区作戦:狼牙山の記念碑 昭和16年8月14日より9月4日まで、紫荊関より討伐に出て南西の方の晋察冀辺区作戦と称する大行山脈の中を1か月くらいも歩き回ったことがある。金波鎮を出発して南西の山へ入り、黄土嶺を越えて連隊本部を南管頭に置き、自分達の隊は近くの北管頭を根拠地として、敵の本拠地の狼牙山にも登った。この山の頂上には立派な戦勝記念碑が建ててあった。この高い山の頂上によくもこんな物を造ったものだと驚きだった。石灰と煉瓦を積み上げた堂堂たるものであった。この高い山の頂上に水を、石灰を、煉瓦を、どうして運んだのだろうか、たいへんなことであったろうと感心した。おそらく人海戦術で1人1人が蟻の行列の如くになって運んで建てたのだろうと思われた。何のことはなく工兵隊によって爆薬を仕掛けられ1発でブッ壊してしまった。そして山を下りた。 また口頭附近では敵の大部隊の行軍を発見したものの4キロくらい向こうの山を行列して登っているのでどうすることも出来ず、地団太を踏むいわゆる鉄砲届きもせぬとはこのことかと……山砲前への号令で、山砲は敵の行軍が見える山の稜線まで上がるために、馬は転落して死亡、仕方なく分解搬送して上げたが据え付ける場所もなく、撃つことが出来ず逃がしてしまった。丁度連絡に来た友軍機に合図したが、爆弾の所持がなかったのか、撃ちも落としもせずに帰ってしまった。ただ口惜しい思いをしたのみだった。翌日敵が越えた山の向こうの川へ攻撃を掛けたが、もはや敵さんはいなかった。 山奥の方の部落でリンゴの山積みを発見、部屋の中に1杯積んであるリンゴをロバの背中に乗せて持ち帰り、1時泊まっている部落まで帰って、毎日毎日腹1杯リンゴを食べたが、リンゴはいくら食べても腹は下げないことが分かった。このリンゴを食べた部落で何日か泊まっていた際、初年兵で女遊びを1回もしたことがないのに(多分風呂場だと思う)どこでもらったか毛虱がわき、痒くて困り、島田同年兵に頼み陰毛を尻の前まで剃ってもらったことがあった。今でも戦友会に行くと島田君が笑い話で話す材料となっている。 また黄土嶺附近では見事に鈴なりに実った洋梨をちぎって食べると、30分ほどすると便意を催し、仕方なく列を外れて野糞をすれば、見事な下痢便で、小便の如くシャーと飛び出すありさま。洋梨はアクが多いせいでこうなるのかわからない。 またある峠を越えるとき急に大夕立となって何もかもビショ濡れになってしまい、峠の向こうの宿舎に入り、夕食のために炊飯の準備をと米を出して洗おうにも、どこもかしこも泥水だらけで米を洗うことが出来ず、水筒の水を集めて洗わずに炊いた分隊もあった。少したってやや水が澄んで来たので洗って炊いた飯の中に、暗くてよく分からなかったが馬糞の藁らしきものが入っていた飯が出来たが、藁を摘み出して食べた思い出もある。 またこの大雨で兵器も無論濡れていた。自分は飯の用意で手入れもならず放っておいて翌朝錆びが出ていて大叱られ、他分隊の古兵殿は飯の準備もしないので、すぐ手入れをしたので錆びもせず、古兵はいいなあと思ったこともあった。山の奥の方の狭い谷川を通って奥へ進み、山の頂上で後続部隊の援護に当たり、帰隊してみると山頂に撃ち殻薬夾を取り出す道具を首から外していたために忘れて帰り、敵地へ取りに行くこともならず、大叱られ、2分隊のものを借りて針金で似たものを作ったこともあった。小さい物でも兵器なのでたいへんなことになるところだ。 また行軍中1人の子どもを見つけて連れて歩き、自分の雑嚢を持たせていた。宿営となり、その子どもを衛兵所に預けずに自分達の所に寝かせていた。朝になると彼は逃げてしまっていなかった。自分の雑嚢も持って行かれてしまった。お前が楽をしようと思って雑嚢を持たせたのが悪いと、雑嚢をなくしてまた叱られてしまった思い出もある。 山の中を歩きに歩いて遂に万里の長城の1角の挿前嶺も踏み越えて駐蒙軍と連絡をとり、北管頭に帰ってきた。長いこの山の討伐中に土井中尉は帰還し、後任の小隊長に生田少尉が着任された。 小龍華トーチカでの分駐:弾丸の出ない軽機 山の中より大王荘、満城県を経て中隊はライ水県城内に駐留した。昭和16年9月、ライ水より池上兵長を長として1個分隊は廂紅旗と金波鎮の間の小龍華トーチカを建設のために3機より大工の松下上等兵と亀田1等兵が来て苦力の指揮をしてトーチカを作り、出来上がってここに分駐した。 ある夜電話線を切りに来ているような音がするので、トーチカの外に出て、暗闇の中で音のする方に向けて威嚇射撃のために3発点射を行なった。次ぎの点射のために引鉄を引いても弾丸は出ない。どうしたのだろう?おかしいな、と思い、突っ込みかな、とも思いつつ槓桿を引いた。すぐに引鉄を引いた瞬間爆音と同時に肩付けをしていた床尾板が離れて機銃は軽くなった。おかしいな、と思ってそのままの形で空に向けて銃口を上げたが、たいへん軽く上がり闇夜の空に向けてジーッと見れば放熱筒部分がない。前を手探りで捜すと脚と放熱筒部分が転がっていた。放熱筒と銃尾機関をつなぐ部分から折損してしまっていた。恐れ入った次第である。機銃が折れたのではどうにもならず、連隊の兵器係りへ持って行った。 兵器係には、転んで放り投げて折ったんだろうと疑われた。撃った時に爆音と共に折れたと言うと、どんな弾丸を撃ったかと聞くので、別に変わった弾丸ではない、そこらにある弾丸を撃ったと言うと、軽機にはG弾を使えと言ってある、何故にG弾を使わぬか、G弾はシュカン(15発入り紙箱)に丸Gと書いてある、注意せよ、とこっぴどく叱られた。G弾は小銃弾より火薬がすこし少ないとのことであった。でもGとはガンの意味ではないのか、だったら軽機はMGだ。いわゆるマシンガンだ。どうしてGの小銃弾を、と思っても、これは戦後の話で、当時はGの意味も何だか分からなかったことは当然のことであり、また軍隊ではそのような文句は絶対に通らない。上の者の言うことは大元帥陛下の言葉であるから絶対服従だ。 その後連隊本部からは軽機の支給がなく、長い間鹵獲のチェッコの軽機を担いで歩いたものだ。チェッコ軽機の分解結合もよくやった。1年くらいたってようやく九六式軽機の支給があった。当時我々の110連隊内でも九六式の軽機はあまりなく、数えるほどしか支給はなかったので、中隊でも6挺の内5梃は11年式で、自分だけが九六を持ち歩いていた。しかも新品を支給され、自分が始めて使ったのだった。新安の白洋淀討伐には九六を持って行った。今は焼いてないが、宿舎の前で九六の軽機を構えて写した写真があったことを覚えている。 楼村鎮での分駐:纏足と恵民壕 昭和16年(1941年)9月からライ水県内に中隊が駐屯していたときには、第1小隊は石亭鎮に、第3小隊は西洛平に分駐していた。我が第2小隊は中隊本部と一諸に城内に駐屯していた。中隊は第2小隊を主力に1、3小隊の協力で車廠附近の楼村鎮に兵舎を建てるべく準備をして土台の地行をしていた。 まだ浅い地行の穴のときに、ある夜敵襲を受けた。ある程度の予想はしていたので大した混乱はなかった。今夜は来るぞと言っていたのに、間違いなくやってきた。小田中隊長以下全員浅い穴の中に伏せて応戦した。何分か戦闘をして敵は引き揚げて行った。兵舎の敷地の外周に多数の地雷を埋めて帰ったらしく、翌朝苦力がやって来て被爆し足がブラブラになっていたのを有賀衛生兵が包帯を巻いていた。また、表の井戸に1杯に家の材木を投げ込んで帰っていたので、これを引き揚げるために鳶職の森岡君が井戸の中に入り大奮闘してこの材木を引き揚げた。兵舎の完成後、わが2小隊が分駐した。その時に1個分隊を池上伍長を長として、石亭鎮と楼村鎮の中間点の老龍崗(ラオロンカン)のトーチカに分屯させた。自分も行ったがトーチカの上で悠々過ごした1時もあった。また小泉兵長を長として1個分隊でライ水駅の警備に当たっていた。ここでは多少なりとも沙婆の風を吸うことも出来た。でも駅の東を敵が通ったのか、撃って来たことが1回あった。 中国人の駅長の奥さんとも心安くなり、よく話をしていた。1人息子の小学校1年生ぐらいの男の子がいたが、これも友達となってよく遊んだ。中国においては婦人の纏足はなかなか見られるものではない。女は強姦されるより恥ずかしいことだと聞いて、足を見られたら死んでしまうと言っていたが、駅長の奥さんは自分にただ1回、足に巻いている包帯を取り換える際に見せてくれたことがある。足の親指を1番先に出して、他の指は下に曲げて足の裏にくっつけて布をグルグル巻きにしているので、そのため足が痛くて踵で歩くようになるのだ。どうしてこのような纒足をするのかと言うと、結婚したら他の男のところへ走れなくするためにこのようなことが始まったとか。またこの纒足は足の小さいほど美人とされていたとのことだったが、現在の中国ではほとんど纒足はなくなっているということだ。開いた足を見た者は恐らくあまりないと思う。しかもこの纒足を開くのを見せる者は、身体を許した者すなわち夫か恋人だけとか聞いたが、これは後の話でその時は知らなかった。この奥さんはなかなかの発展家だったそうで、分隊の兵舎によく来ていたのは兵隊を誘いに来ていたのだろう。駅長は相当の年で奥さんとあまり関係がなかったのかも知れないが、奥さんは肥った大きな女で精力があまり、主人1人では足りなかったのかも知れない。何はともあれ自分はそんなこととは露知らず、据え膳を食わなかった者である。今思えばたいへん残念だったと思う。聞くところによれば兵隊の中には大分お世話になった人もいた、と聞いた。名前を言って悪いようだが、N同年兵もお世話になったとのことを聞いた。 昭和16年3月より18年2月頃までに、恵民壕といって山地と平地の境に大きな壕を掘っていた。万里の長城の如く多数の苦力を使って、深さ5メートルくらいの壕を掘った。ライ水県内でも拒馬河畔から西へ石亭鎮より老龍崗―楼村鎮―西洛平と南へ下がって続いていた。易県の南の方はまだ出来ていなかったので、姥村の南の樊村へ1時駐留して壕を掘るために村から出て苦力の監督と警戒をしていた。樊村の中の空井戸の中の薩摩芋を取ってきて食べたこともある。寒い時から暖かくなって小川の水も温まり、オタマジャクシがたくさん泳いでいた。5月頃だったろう、中国人はこのオタマジャクシを生きたままツルツルと吸い込んで飲んでしまうのだ。何かの薬になるとか言っていたようだった。 ライ水県城と共に石亭と楼村、西洛平の警備をしていた昭和17年(1942年)春頃だったか、まだ寒かった頃だったと思う。東北及び北陸の混成旅団の大岩部隊に警備を譲り討伐に出た。大岩部隊は毎晩軍歌演習をやっていたので知らぬ間に部隊歌の1番を覚えてしまった。その歌は「昭和13大陸に、創立されし光栄の、大岩部隊旗の下、東北及び北陸の、健児ぞ雲と集まれる」という文句であった。 昭和17年5月27日、警備を大岩部隊に譲りライ水より出た討伐は、京漢線東方の平地で定県、安国県、蠡県、博野県方面であった。中隊は安国県城内に宿営して毎日出動した。安国県は漢方薬の集散地で、薬の臭いの強いのには閉口した。この方面の作戦でわが小田中隊は地下壕内に立て籠る敵をア筒作戦、いわゆる赤筒(クシャミ性ガス)を用いて地下濠の敵を殱滅して大きな戦果を上げ、小田中隊長は北京の方面軍に呼ばれて状況を報告して賞されたとのことであった。この作戦中高陽県城の警備の援護にも行った。自分達のいたことのある高陽だ。自分達がいた所と違って、兵舎は城内の西北隅に建てた新しい兵舎であった。我々は中国の民家に入っていた。東門の衛兵に行ったが、この東門の中の池のほとりに中隊がいて、我々は東門を出て東へ4、5キロの旧城鎮にいたが、よく通った門である。またこの門の南の城壁上で、相賀君の遺体を茶毘に附した所である。そして木と竹の箸で骨箱へ手渡しにしたことを思い出した。 新城の警備:悪徳上官を殴る 昭和17年(1942年)11月30日、中隊本部は新城県城内に、各小隊は附近に分散駐屯した。我が小隊は生田中尉を長として八津庄(別名八洋庄)へ駐屯す。兵舎(民家)前の池は凍ってしまって、スケートをした思い出がある。 中隊長は平野中尉であった昭和18年(1943年)5月22日、新城附近の戦闘により中隊長は戦死された。かわって大隊長潮大尉は11中隊長を兼任となった。その後、海江田大尉が11中隊長として任ぜられた。八津庄駐屯中この地方の状況はたいへん良く、2、3人自転車で新城まで連絡に行ったり、また南の○崗(ツアンカン)方面へも県警との連絡等に5、6人で行くくらいであった。天津行きのバスが兵舎の前の道路を通っていた。八津庄とツァンカンとの中間のツァンカン寄りに、川合中尉の負傷された神堂(沈堂)があった。そのあたりには小さな部落があり、三神堂四馬許(サンシンタン、スマホウ)という部落の集まりがあった。この3つの神堂の内どこかの部落であろうが、いくら捜してもその場所は分からなかった。三神堂は張家神堂、〇〇神堂等が3つあり、四馬許は関馬許、張馬許等4部落あった。暇なときに行って見たがどうしても分からなかった。 八津庄駐屯中S軍曹は先任下士官として出納係をしていた。自分はその下で帳簿をしていた。その関係でS軍曹は現地調弁と称して金は帳簿で落とし、実は附近の村長より豚肉、野菜、薪等を持ってこさせて金は支払わず、浮かした金で高梁酒を買って飲む、隊内に囲っていた「朝鮮ピー」を買うなどの悪業をやるので黙っておれず、1杯呑んだ時に喧嘩となり、自分はS軍曹をなぐったのでそのために1諸にいては具合が悪く(上官をなぐったので)、小隊長は自分の心情を知っていたので、昭和17年11月、自分を長として1個分隊を中隊から編成し、廂紅旗にあった第3機関銃中隊長赤沢中尉の指揮下に入り、小龍華トーチカに分遣された。 小龍華トーチカは池上兵長と共にいた所とは違って、前のトーチカより東の部落の北の小山の上に新しく造られたトーチカだった。そこで警備していた。同年兵笹井、森岡と共に初年兵を連れていた。ここでしばらくほとぼりを冷まし、気楽に過ごさせてもらって、18年の正月はここで迎えた。正月といえども休みなく屋上に歩哨を立てなければならないが、正月で立てずにいた。 1日だったか2日だったか忘れたが、隊長の赤沢中尉が馬に乗ってただ1人でトーチカに登って来て、「おーい、歩哨はどうした、居らんのか」と怒鳴られ、あわてて歩哨を立てるという1幕もあったが、正月のことでもあり、それ以上怒られなかった。隊長は正月の挨拶に来た、とのことで全員の写真を撮って帰っていったので、やれやれと胸をなで下ろした。赤沢中尉の温情は忘れられない。中尉は帰還の後再度の招集で南方で戦死されたと聞く。ご冥福を祈る次第である。 順徳に移動:コレラと蝗軍 昭和18年(1943年)6月4日、連隊本部は保定より南の順徳に移動し、第11中隊は相当に遠い南宮県垂陽村に移駐した。南宮県城には第9中隊が駐屯していた。我々三宅小隊は(生田中尉は帰還)北候貫に分駐し、1個分隊(長、美甘兵長)は薫家廟に分駐する。この地方の水質はとても悪く、生水は絶対に飲めなかった。また我々が移駐したころは大飢饉のときで、百姓は食べる物がなく、村に生えている楡の木の葉を食べていたので楡の木はほとんど葉はなかった。この葉を取って来て、鉢の中で何かの粉をほんの少し入れつなぎにし、水を少し入れて混ぜ、鉄板の上で焼いて食べていたのを見た。我々が戦中戦後の貧しい物のなかった時代に、ジャガイモを小麦でつずって飯に炊いて食べていたのと大同小異だったと後になって思ったのであった。この夏に住民の間に赤痢とコレラが大流行し、死者が毎日出ていた。毎日毎日アンペラに包んだ死体を担いで埋めに行くのを見た。兵舎の前を通らないと村の外には出られないのでよくわかるのだ。兵隊の中にも赤痢やコレラに罹る者も出た。薫家廟にいた美甘兵長等の年長組の同年兵は1足先に帰還したので、その後自分が薫家廟分遣隊長として行った。 初年兵福尾1等兵がコレラに罹り、手当ても受けられずに死亡してしまった。他の者に伝染するため隔離していたために死亡の時期も分からず、オンドルの下に落ちて死んでいた。誰にも看取られず1人で淋しく死んだのだ。昭和18年9月28日のことだった。すぐ皆でその家の庭に焼き場を作り、火葬にして骨を1った。可愛そうに彼にも慈しんで育てた両親もあったろう。親が知ったらどんなに思うだろうと思った。でも小さな分遣隊のこととて軍医もなかなか来ず、伝染の危険もあるため仕方なかった。笠岡の人で自分が知った時はもう両親共死亡していた。自分は梱包の板を削って、故陸軍兵長福尾の霊と書いて、位牌を作ってやった思い出がある。 昭和18年7月18日北候貫から出動し、河北省威県チュイローの戦闘で、擲弾筒の射手の小畑は榴弾を込めて引鉄を引いたとき、筒内で榴弾が爆発して戦死した。大阪で写真屋をやっていたと聞いている。弾薬手でそばにいた泉は負傷したと聞く。無論擲弾筒も破裂したのであった。泉も死亡した今日、このことを語る人もないだろう。三宅隊長はご存知であろうか。このときの話しでは榴弾には何万発に1発かはこのような弾丸があるとか言っていたことを覚えている。 北候貫警備をしていた際に附近に無数のバッタが飛んで来たことがあった。映画の「黄色い大地」にあったように空が暗くなるくらいに飛んで来るのだ。このような数のバッタを見たことはない。吉井川の川原などにいたが追うと5、6メ−トルくらい飛んで逃げるくらいで、このように多くの群れが、それも空を覆う如く高い空を飛ぶとういうことは考えられないことだ。この大群が地上に下りて来て何でも食べ尽くし通りすぎると、あとは高梁もトウモロコシも丸裸になってしまうのである。老百姓(ロウバイシン、百姓のこと)は自分の畠の中だけ追い払うだけで、次ぎから次ぎに何ぼでもやってくるバッタにはお手上げだった。畠の向こう端に溝を掘って、その溝の中にバッタを追いこみ、早くこれを埋めてしまう。このような姑息なことしかしない。中国の警備隊の兵隊はこのバッタを捕って来て、腹の部分だけを油でいためて食べるとうまいと言っていた。日本でも昔、稲田にいたイナゴを同じようにして食べていたが、カルシウムが多くて良い食べ物だったとか聞いている。 内地帰還:送別会で厭戦歌 昭和18年(1943年)10月、我々同年兵は下士官に任官した者を除き内地帰還と決定。その少し前、もう満期は近いとの噂は出ていた。 昭和18年(1943年)10月16日に我々は岡山歩兵第154連隊に転属を命ぜられ、第3大隊のうち9、10、11、12の各中隊の帰還者で1個小隊を編成し、先任兵長であった自分が小隊長を命ぜられ、皆の世話をしながら、途中9中隊の駐屯地、南宮県城内に1泊し、そこからトラックに乗り、順徳の連隊本部まで出る間に、出水のために道路はなくなって川となっている中を裸で渡って、トラックを乗り継いで順徳に終結し1泊、翌日連隊で送別の宴をやってもらった。この宴会で自分は兵隊が何時も歌っていた「厭戦歌」の「のぞき歌」を歌った。その始めを少し書いてみると「明治大正たぁこと違い、昭和の御世の今日に、軍隊生活知らないか、知らなきゃ私が教えましょう」で始まる有名な厭軍歌だ。居並ぶ将校連はどう思っただろう。今日はこの部隊からお別れである。アバヨ、さよならだ。 京漢線順徳駅から列車により北へ走る。列車は旧警備地だった保定、高碑店を通る。高碑店で停車中、駅前の朝鮮人の店主は自分達の白釦を見つけて懐かそうに話した。「今はあんた達のいたときと違って状況は悪く、県城にでも撃って来る」と言っていた。大岩部隊は混成部隊だから敵さんになめられているのだろう。こんなことを聞きながらも、あとは野となれ山となれ、の気分で列車は北京、天津、山海関、錦州、安東経由で鴨緑江を渡り朝鮮に入る。朝鮮を縦断して釜山に到着、釜山で検疫を行ない装具も消毒。ここにも1泊して釜山港より乗船し、米潜水艦の横行する玄海灘をどうにか無事に渡り、10月22日博多港に上陸。列車は関門海底トンネルを抜けた。行きは連絡船で渡ったのにたいへん変わったものだと感心しながら10月23日岡山歩兵第154連隊に転属、下山隊に配属され、10月27日召集解除と除隊された。皆で1諸に西川畔の写真屋で記念写真を写して離別した。 以来昭和47年(1972年)1月3日の第1回戦友会まで30年あまり逢う機会もなく過ごして来た。以上が召集入隊より帰還除隊までの思い出であるが、何にしても30年も前の思い出でもあり、また1兵卒としては記録とてもなく、間違っていることもあると思われる。また自分に関することしか書けないのは当然のことでもある。(昭和48年1月記) 中国少年を使用人に 私が北支在隊中に忘れられないもう1つのことがある。それは中国人の使用人のことである、11中隊に配属され、阜平討伐から帰って来ると、隊と一諸に行っていた苦力というか使用人というか小孩(子ども)が2人帰って来た。軍服を着た少年2人だ。隊においては我々より先輩である。何事も良く知っていた。兄を太郎といい、本名を孔憲勝という。弟を次郎、孔憲臣といい、12、3才と10才くらいの2人であった。日本語はまことに岡山弁が達者で驚いた。 京漢線沿線警備に来るまで津浦線沿線の濟南附近の警備をしていた昭和13年(1938年)ごろ、11中隊は徳県に駐屯していた際に、わが小隊は徳県禹城駅の警備中、石炭車の中に真っ黒になった少年を発見。これを貨車より降ろして風呂に入れて洗ってやり、中隊で苦力として使ってやることにしたそうである。わが小隊の先任下士官の武鑓軍曹や宮本軍曹、吉永軍曹らに可愛がられていた。自分は吉永分隊であり、彼等との交流は深かったように思う。兄の太郎は文字が読めるために成長して通訳の試験を受けて正式に通訳となった(それまでは私設の通訳として良く働いた)。弟の次郎は文字を知らないために日本語訳は分かっても、部落の名前・氏名など日本字に訳すことが出来ず、通訳として採用されることもなく、自分達が帰るまで11中隊に苦力として使われていた。太郎は早く通訳として他の隊へ行ってしまった。第133旅団長津田少将はたいへん太郎と次郎を可愛がり、中隊に巡視にこられたときには、何時でもお土産を持ってきておられたようで、自分達が?水県楼村鎮にいたときも、こんな田舎にまで巡視され、太郎・次郎に毛皮のオーバーコートなどを持って来られたことを覚えている。 終戦になって彼等はどのようになっただろうかと思っているが、敵方に通じた者として漢奸として国軍の長になった朱徳{以前第18集団軍(八路軍)総司令}によって処刑されただろうか、と思われるが、吉永軍曹は彼等を岡山に連れて帰って日本の教育を受けさせてやりたいと常々思っていたが叶わなかったようだった。 太郎が通訳として他の隊に出て行ったあと、吉永軍曹(宝伝の人)は張登鎮駐屯中ここの「支那ピー」の弟の徐春芳を日本名五郎として使っていた。自分達が帰るまで次郎も五郎も部隊と共にいたが、五郎は後には共産八路軍に走ったとか聞いたが、五郎の方は運が良ければ生き長らえているかも分からない。駐屯地においては附近の住民を炊事場の苦力として使用することは常であったが、帰還する少し前、新城県八津庄にいたときも部落の若者で張宝糖という気の良い若者を使っていたが、気が良いといってもそれは分からないことで、裏では部隊の内情を敵八路軍に通じていたのかも知れない。このような中国人との交流もあった半面には、戦争という悲惨な行為も平気で行なう心の荒れた人間になっていたことも確かである。 食うか食われるかの闘争の中で、極限状況下においては、人間は何をやるかも分からない。通常では考えられないことを平気でやってしまうのだ。今になって考えれば無茶なことをしたものだと思うが、これも戦争のせいで、戦争というものは出来得れば避けなければならないことだと思うことは、自分ばかりではないと思う。最近また次第に日本もキナ臭さが強まってきているように感じる。現代の若者たちは戦争を知らないのだ。戦争をゲームのように思っているのだ。もう少し戦争の悲惨さを知るべきだと思う。昭和58年(1983年)4月記 戦場の罪悪について 戦場においては、殺し合うことは当然のことながら、人間の罪悪の全てをやって当然というように思っていて、誰しもがそのような行動をとる。戦友を殺した憎い敵国の奴ら、という観念があるからだろうか、殺人はもちろん強盗、強姦、放火、暴行等のあらゆる罪悪を平気でやってのけるのが戦争だ。 昭和18年(1943年)頃からは多少方面軍の方からのお達しで「焼くな、犯すな、殺すな、受けず与えよ」というような通達があって、だいぶん軍紀が喧しくなってきた。けれどもそれはたいした問題ではなく、それ以前はまだまだ戦場は治安どころではない状態で、討伐に出て敵地区に入ると悪の限りを尽くしてきたものだ。自分史である故、公表をはばかるようなことも書いてみようと思う。 年月日等は不明であるが、警備地に於ては以下のようなことは絶対に出来ない。敵地区にのみに限った行為であることを言っておく。 まず女のことについて。敵地区に入る前に、各村落には見張りがいて、隣村から日本軍が今どこの方向に向かっているからそちらの村にも入るだろう、との情報が伝わっているはずで、その情報が入るとまず1番はじめに娘の子を逃がす。次ぎに女、子どもと若い男の順に村を出て逃げる。残っているのは年寄りの爺さん婆さんのみだ。そんな中を部落の検索をやる。1軒1軒入念に検索をやって、敵の兵器弾薬等はないかと探すが、なかなかそんなものはない。それらを探すついでに金票、卵、小麦粉等をも探すのだ。そんなものがあれば持って帰る。何でも敵を利するものと解して持って帰るが、金はたとえ敵の八路軍の軍票であっても闇で交換ができ、自分達の使う聯銀券(中国聯合準備銀行券)と交換して使うのだ。交換レートは低いがもとがただだから関係なし。住民も敵地区の者と売買をするときは8路票も必要なのだ。だから警備地区においても隠れてこの八路票も使われているようだ。卵・小麦粉は帰って食料とした。 探しているとまれに女が逃げおくれて隠れていることがある、何等かの事情で逃げられなかった者だろう。若い女は滅多にいないが、30くらいの太太(タイタイ、人妻)だ。中国では娘(姑娘)はたいへん貞操観念が強く、たとえ殺されても身は許さないといわれていた。日本と反対に人妻はもう終わっているからというのか、身が危ないというときはたやすく前を開けるようだった。 どこかの粛正に行ったとき(高碑店の東の方)部落に入り検索後、隊は大休止をしていたとき、自分ともう1人で(誰だったか忘れたが)附近の家を探していたら、1人の女がいた。30くらいの女であった。これをやろうと相談して、いわゆる着剣ボボと言うやつだ。女に「脱袴子(トゥクーズ、ズボンを脱げ)」と言うと、もう諦めて観念してズボンを降ろして上がり框に腰を掛けて後ろに寝る。その状態で傍らに銃を置き、軍袴を素早く降ろして息子を出して挿入、射精後、知らん顔で表で警戒していた友と交代でやって帰ってきた。他の者は誰も知らない。隊が近くに休んでいるとはいえどこに敵が潜んでいるかも分からない土地で、よくも危ないことをやったものだ。表で見張っているとはいうものの、着剣して実包込みの態勢でやるから着剣ボボと言うのだ。またあるときは、Y軍曹と2人で部落の中を1軒1軒検索中、女と見れば「脱袴子」を連発してズボンを脱がせ、局部をさわり、毛を引っ張り、遊びながら廻ったことがあった。Yさんは絶対にしない、ただ見たり、さわったりするだけだということは知られていたが、まさにその通りだった。ある女は外陰部の小陰唇が長く垂れ下がっていた。「何だこれは」といいながら引っ張ったこともあり、その日は3、4人くらい「看看」出来た。帰途、K隊長に話すと、隊長は「今日はYさんと上田が1番いいことをしたなあ」と言って笑っていた。 放火は、討伐中に部落に敵が来ても泊まれぬように「焼け」との命令が出て、家を焼いたことがあるが、中国の家は土と煉瓦で出来ており、なかなか燃えない。アンペラを巻いて、中に燃える物を入れて火を付け、天井に燃え移らせないと駄目である。燃えるものは天井と窓の障子くらいと家具くらいだ。天井が焼け落ち、家は丸焼けでも、外壁は残っているので、外から見れば変わらない。敵を泊めないために焼くのも良いが、我々が後でこの部落に来たときに泊ろうと思っても泊まれないことは当然で、困ったこともあった。あとには「焼くな、犯すな、殺すな」が浸透して焼かなくなった。 従軍して、1応ありとあらゆる罪悪を犯して来たということだ。けれどこれも戦争がさせるもので、平和なときは絶対に出来ないことである。戦記ものなどには良いことのみ書いてあることが多いけれど、実際はもっと悪いことの連続である。やらねばやられるのが戦争だ。「殺すか殺されるか」、「食うか食われるか」の瀬戸際の争いだから、2次的にこのようなことが起きるのは致し方のないことかも知れない。 警備地においては従軍慰安婦なる者もいた所もあるが、前線にはそんな者はいない。現地の街で春を売っている女を連れて来るくらいのもので、これは金がいる。着剣ボボは少々危険だが無料だから、少々の危険はスリルがあってよかったのかも知れない。保定、石門等の大きな街に行くと、公娼、私娼等たくさんの女がいて春を売ってはいるが、相当高価なのでそれを買うことはなかなか出来ず、またそんな街に行くこともなかったのが実状であった。いずれにしても戦争に負けた国民の惨めさを如実に見てきている自分は、大東亜戦争に発展したこの戦争に絶対に負けられない、と思ってはいたが、アメリカの物量にはお手上げだった。敗戦国の国民として見れば、アメリカ兵は日本兵と違ってたいへん軍紀が厳正で、とても紳士的な兵隊(紳士)だったといえよう。 この回想記は、上田和夫(仮名)氏が「自分史の中の従軍時代(その1)」として書かれたものであり、岡山編成部隊の1資料として同氏から編集委員の1人、上羽に提供されたものである。上田氏は、中国河北省石家庄に司令部をおき中国共産党軍にたいする「掃蕩」・「治安」を任務とした第110師団下の歩兵部隊に所属していた。編集フォーラムではこの回想記が、こうした任務を持つ部隊での兵士の行動と意識の一側面を知るうえで貴重な資料であると考え、本誌に掲載させてもらった。編集の過程で、原文に記載された軍関係者の氏名は苗字だけにするかまたは仮名に、「聯隊」は「連隊」に、「支那」は「中国」に、「勿論」・「迄」などは平仮名に変更し、また「戦場の罪悪について」以外の見出し・小見出しは編集フォーラムにおいてつけさせてもらった。同氏のご協力に深謝いたします。(年報編集フォーラム) |