私の心に残る人物伝

ジョルジュ・シムノン(1903〜89)



1903年 2月13日午前12時10分、ベルギーのリェージュ市レオポルトにて、保険会社の会計人デジレ・シムノンと、元デパートの店員アンリエット・ブリュルの間に生まれる。
しかし、あいにく、13日の金曜日だったために、翌日、役所には、12日と偽り、父は、出生届をだした。
アンリエットの実家は裕福な商家だったが、アンコール中毒の父が家をつぶし、一家は、一文無しになって、この街にながれてきた。
そのため、彼女には、つねに、貧乏への恐怖心があり、また、非常に信心深かった。
このことは、シムノンに大きな影響をあたえ、彼は、吝嗇で、厳格な母を憎んでいたらしい。

1906年 サン・ヴァンサン・ド・ポール幼稚園に通園。

1908年 サン・アンドレ小学校に入学。パピエール病院付属礼拝堂のミサ侍者を務める。夢遊病が見られた。

1911年 2月ロワ通り53番地に転居。母アンリエット下宿屋開業。

1914年 11月5日サン・ルイ中学校入学。家族は彼を司祭にさせようとしたらしい。

1915年 9月サン・セルペ中学校に転校。仏語の宿題に、「ジョルジュ・シム」署名。
19世紀のロシア文学をはじめ、各国のものを濫読。
彼の好んだものは、チェーホフ・ドストエフスキー・プーシキン・ゴーリキ・ゴーゴリ・コンラッド・ディケンズ・スティーブンソン・デュマ・バルザック・スタンダール・メルヴィル・ヘミングウェイ・フォークナーなどである。
童貞喪失する。

1919年 医師から父の余命をつげられる。菓子屋の奉公(2週間)、ついで書店員(6週間)になる。
3月 「ガゼット・ド・リエージュ」紙の記者となる。そのころ、「ラ・カック」に参加。「ラ・カック」トハ、リェージュの若き芸術家たち(作家、画家、音楽家、哲学者の卵)のサークルである。

そこで、画学生レジンヌ・ランション(ティジー)と出会う。

1921年 9月処女作「アルシェ橋にて」出版。
11月 父デジレ死亡。翌日、兵役(期間16ヶ月)につく。

1922年 12月 フランスの作家になるためには、最初はパリで物を書かなければならないからと、パリに行く。退役軍人会(通俗作家ピネ・ヴァルメール会長)のメッセンジャー・ボーイとなる。

1923年 3月 ティジーと結婚。5月 ド・トランシー侯爵秘書となる。侯爵の城館のあるロワール河沿いのパレー・ル・フレジル村に滞在。この村がメグレ警視の出生地のモデルになる。

1924年 春、侯爵のもとを辞す。大衆小説を盛んに書き始める。アンリエット・リベルジュ(プール)を、女中として雇う。

1927年 画家ヴラマルクと出会う。アメリカ生まれの黒人ダンサー、ジョゼフィーヌ・ベーカーと恋愛する。

1928年 1本マストの帆船「ジネット号」購入。フランス国中の運河を巡る。

1929年 オストロゴト号建造。 9月オランダのデルフザイルに寄港。
「怪盗ルトン」を、4日間で書き上げる。これが、メグレ警視がはじめて登場する小説である。
、ガリマール社の週刊誌「デテクティブ」に「十三の謎」「十三の神秘」「十三の犯罪人」を掲載。この成功で犯罪小説に自信を抱く。

1930年 このころから、フロイト、ユング、アドラーを読み始める。

1931年 2月「怪盗ルトン」出版。(メグレシリーズ開始)
10月ジャン・ルノワールに出会う。「深夜の十字路」の映画権を5万フランで売却する。

1938年 11月31日 アンドレ・ジッドから、初めて手紙をもらう。

1939年 4月 長男マルク誕生。

1940年 12月放射線専門医に、狭心症で2、3年の余命といわれる。

1941年 6月「我が思い出」の草稿をジッドに見せる。小説仕立てにすることを、忠告され、「家系」を書き始める。これは、余命わずかだと思って、自分の両親、祖父母のことを、書いたのであった。

1944年 2月 パリで心臓の専門医にかかり、誤診と判明。
4月 バルザック、ゾラ、プルースト全巻、「聖書」再読。

1945年 10月5日 ニューヨークに到着。秘書としてやとったデニーズと恋愛

1946年 以後メグレ物、立て続けに出版する。いずれもベスト・セラーになる。

1947年 、シムノン一家はアメリカのアリゾナ州トゥーソンに居をかまえる。
このとき、シムノンは「メグレの休暇」「雪は汚れていた」とかいった作品を発表し、作家として脂ののりきったときを迎えていたが、それと期せずして、女中のプールをよびよせ、三人の女たちが、ひとつ屋根の下で彼と暮らすことになる。

つまり、ひとりは、正妻のティジー。しかし、随分前から、ふたりの間に性生活はなかった。もうひとりは、実質上の妻である、秘書のデニーズ。
最後は、シムノンが21歳のときに雇いいれて、長男のマルクが生まれてからは、ずっと彼の守りをしていた女中のプール。もちろん、シムノンと、肉体関係があった。

1949年 9月 次男ジョニー(実母デニーズ)が誕生する。

1950年 6月ティジーと離婚が成立。翌日デニーズと再婚する。

1952年 5月10日ペルギー王立アカデミー仏語および、仏文学会員に選ばれる。12月MWA会長に選ばれる。

1953年 2月 長女マリー・ジョルジュ誕生。

1959年 5月 三男ピエール誕生。

1960年 5月カンヌ映画祭主催者。フェデリコ・フェリーニとの親交が始まる。
デニーズ アルコール中毒になる。

1961年 12月テレザが使用人として同居。その後、内縁関係になる。

1963年 デニーズ、アルコール解毒治療院入院。

1964年 ローザンヌ市近郊のエバランジェに大邸宅を建設。

1965年 4月娘の、マリー・ジョーとイタリアのフローレンスに旅行。

1966年 9月 オランダ、デルフザイル市で、メグレ警視像の落成式。

1967年 5月 母来訪。10月メグレ・シリーズ(メグレ役ジャン・リシャール)のテレビ放送始まる。

1971年 1月 母死亡。

1972年 2月11日「メグレ最後の事件」出版。メグレシリーズの最終本。

1973年 2月ローザンヌ市内のバラ色の小さな家に転居。大腿骨骨折。テープレコーダーを買い口述筆記を開始する。

1976年 11月3日 「シムノンコレクション」「ジョルジュ・シムノン研究センター」「リエージュ大学」創設。

1977年 2月 「レクスプレス」誌で、フェデリコ・フェリーニと対談。カサノバがテーマで、シムノンは、生涯1万人の女と肉体関係をもち、その内8千人は売春婦だったと証言した。

1978年 前妻デニーズが、「猫に狙われた小鳥」という、回想録を、出版する。シムノンは、精神科医には好資料だと反論する。

5月 マリー・ジョー自殺。シムノンは、デニーズの書いた回想録を読んで深く悲しんだことも、自殺の一因だとし、デニーズのことを、憎む。

1981年 「私的回想」を発表する。これは、彼にとって、自殺した娘のマリー・ジョーに対する自分の遺書のようなつもりで書いた作品である。
この作品の中で、彼は、デニーズが、娘を死においやったと、けっして、名前でよばず、終始Dと、書いている。

この回想録は、裁判ざたにもなり、一部、削除をよぎなくされる。

1989年 9月4日 ローザンヌ市の自宅にて死亡。死因は不明。

ジョジュ・シムノンは、メグレ警視シリーズで有名ですが、その作品でさえ、102冊も書かれたとされています。その他の作品もあわせると、いったい何冊になることか・・

メグレシリーズでは、メグレ夫人という男性にとっては、理想像ともいえる女性を、登場させ、メグレ警視との静かで、しあわせな家庭を描いたシムノンです。

私にとって、メグレシリーズの魅力は、そのメグレ夫人との家庭生活の雰囲気も、大いに関係しているのですが・・・・しかしながら、彼自身の実際の家庭生活、そして、女性関係は、とんでもないものーーというのが、私の感想です。

ですが、彼にとって、創作熱と性欲は比例してたみたいで、自ら、次のようにインタビューに答えています。

「朝、6時に起床、8時にスタート、それで12時まで、1分間九十六語のスピードでたたく。20ページは行くね。その間は部屋にはだれも近づけないし、コーヒーも自分でいれるんだ。もう、フラフラになってしまうよ。そのあと、どうするかって?シャワーをあびて、セックスだ。十二歳のとき、はじめて経験してから、女性がそばにいれば、私は何もいらんのだよ。」




参考資料 ミステリマガジン 1990年3月号 早川書房
       EQ 1988年3月号 5月号 光文社

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