遺稿集の後へ 山川柳子
これは、本のあとがきです。弥千枝さんの、おかあさまが、お書きになりました。、まあ、あとがきは、最後にのせるべきかもしれませんが、弥千枝さんのことを、より深く知っていただくために、先にのせることにしました。やっぱり、あとがきは、最後にお読みなりたい方は、どうか、今は、とばしてくださいませ。
すでに五十日の日を経た。私は何を書いたら良いのかわからない。
私の頭は未だ茫然として、やちえが死んだという事をかくしかりとは、
肯定していないらしい。
私は、毎日祈りつつ目覚める。これは、悲しいくせなのだ。
永い間の病気の子のために、祈りつづけた母心が、眠りの中に習慣性
を持って、昨日も、今日も、祈りつつ目が覚めた。悲しい事だと思う。
そして私は朝、床にいて、涙を流す。やがてはこれが、習慣性となるで
あろう。
やちえは、父のない子として育った。五つの年、父を亡い−その前年の
夏、母方の祖父を亡くなった時、護国寺は当時の住居、大塚とごく近い
所だったので、女中におぶされて祖父の墓所へいってみた。
すると、其の所には、深い穴が掘られ、祖父はその中に永遠の眠を、
納めるという事を女中から聞かされた。−父が土を深く掘り下げた穴の
中に入れられる事を限りなく恐れた。
やちえは父のない代わりに、多くの兄や姉やを持っていた、末っ子とし
ての寵愛を一身にあつめて、幼時は淋しさを知らずに育ったと思う。
私は、十年を病みつづけた夫を送って、さらに、九人の子を世に送り出
すべき大きな責任のもとにあけくれ、子のことにかかりきった。
私の喜びは子の事であり、私の悲しみは子の事であり、心配も不安も、
また希望も光もすべては子によったものである。
その子たちは、まず無事に育ち3人の兄は学校を出、3人の姉は人に
嫁した。
そして、末っ子の幼い時から父を知らずに育ったやちえは、病床になぢ
む子となった。すべては、母の不注意から起った事である。
愚かな母は、兄や、姉やが育つ如くどの子もどの子も、皆健やかに成育
するものと思い込んでいた。何という傲慢さだ。
生来かぼそい質のやちえは、その快活さから、弱弱しい感じを消して
いた。いつも、元気いっぱいな目の輝きは、この子に病気などという影を
もたなかった。
だのに、やちえは十二歳の夏、北條の海水浴場で病み始めた。
船にのって初めての海岸生活をなすべく北條に到着した時の手紙は、
実に愉快そうに、有頂天にさえ見えるほどの喜びを書いて送ってきた。
そして、その三日目に電話で発熱を通知された。これが、やちえの病
初めであった。
いったん、快復した病気を、あれほど細心な注意をして快復した病気
を、すらすらと薄紙をはがすように、一日一日体力をまし、一日一日健
康にもどっていった子を、私は子の望むままに女学校へ送ったのは、
十四歳の春であった。明星学園は、吉祥寺の清澄な空気の中に開放
された、天国の如き学校である。
やちえは、朝々どんなに喜び勇んで出かけた事か、毎朝、毎朝、お荷物
をととのえる事の楽しさ、おべんとうを持つ事のたのしさ、ランドセルの
ほどよい重さを肩におう楽しさ、実にさっそうとして出かけていった。
そして元気に「ただいま、」の声を玄関に響かしては帰ってきたもので
あった。
5月17日、学校のバザーは、やちえの短い生涯におけるもっとも、
楽しかった一日といえる。
私はあの大きな目を輝かせて、学校の校庭に私をむかえたやちえを
忘れない。種々の買い物をして私たちは食堂に入った。
やちえが食堂の係りであった事はそのときは、知らなかった。
私はやちえに働く事はまだ早い、先生にお断りしてじっとしていらっ
しゃいよと、言っておいたが、やちえはやはり働きたかったらしい。
そして、同じ机で、お寿司や、カルピスや、みつ豆などを食べた。
その帰りにあの子は、また発熱してしまったのだ!
ただ假初の熱だと思ったのは大きなあやまりで、とうとうずっと、寝つ
づけて二年に近くついに、3月31日に逝ってしまったのである。
昨年の夏、腹膜炎を併発してから、めっきり食事がとれなくなった、
あれが悪かったのだ。やせにやせて、青白んでいった。
その時分から精神的にも疲労が来た。常に楽しげに、希望をもち続
けていたやちえが、不安を持ちはじめた。もっとも、母を悲しませる
事を恐れて、ついに日記は母に見せなかった。母は、愚かなる母は、
やちえの表面のみを眺めて、やちえは朗らかだと喜んでいた。−
昨年の暮れ頃から淋しがり初めて「誰か来ればいい」「佐々木さん
こないかな」「お友達が来たらどんなに嬉しいでしょ」
「今日はこんな好いお天気だから、百合さん子ども連れて来るかしら」
「みやちゃん、ちっとも来ないわねえ」こうした言葉が、頻々に出た。
そして、一月、二月と、やせていき、いらいらと神経は過敏になってい
き、人をなつかしがった。毎夜毎夜、眠る前に「淋しい」と言った。
あの淋しいといった声は、私の耳の底にこびりついている。
あけひろげた、やちえの部屋は、零下何度いう冷気である。
私はすぐと咽喉を痛めるがゆえにこの部屋に寝る事は出来なかった。
が、なぜ寝てやらなかったかと今日後悔の苦しみを味わっている。
「淋しい、いつちゃあいやあ」首を右へまげて甘えていたやちえは、
とうとう死んでいってしまった。たった一人・・・・
桃のつぼみがふくらんだ。空が霞み始めた。春雨だ。−ああ、そんな言
葉が死に直進している子の耳に何と響いたであろうか。
死ぬる日の朝、「もういや」と言った言葉は、たえにたえてきたやちえが、
初めてさらけ出した本音であったのだ。実に実に愚かしい母ではある。
私は、二、三日うるさがって、櫛も入れさせなかった髪をとかしてやり、
お化粧をし、頬紅をさしてやった。やわらかい皮膚は色を失ったまま
私の自由になった。長いまつ毛が頬に翳をもった。
私は、白い手を胸の上に組み合わせてやった。私の末子のやちえ、
父無しに育ったやちえ、あんなにも母をしたっていたやちえは、恐ろし
がった墓石の下にたった一人ではいっていった。
今はメロンの季節である。私はやちえの好物をやちえの写真に供える。
充分薬を飲むことも出来ぬ人たちを思って、遠慮がちであったやちえ
は、私のこの愚かしさを苦笑いしてはいないだろうか。
火の鳥同人の好意によって、やちよの遺稿を公にすることになった。
私は生前不充分であったものを、補うせめてもの心遣りと、同人たちの
好意にすがりついた。
が、!やちえは苦笑いをしてはいないだろうか・・・
愚かなる母はあくまで、愚かなる母である。
−−昭和八年五月−−(山川柳子)