あとがき
やちえさんの、おかあさまご本人が、本にのせられた一番最後にな
るあとがきだと思います。
やちえが生れたのは、小石川大塚町、現在は文京区となっていますが、
その跡見女学校の隣接地で、広い庭のある家でした。兄四人姉四人の
末っ子で、父は病気で寝ていました、が大勢の中でワイワイと賑やかに
広い庭を駆けずり廻って育ちました。
ヤンチャで、駄々っ子で甘えっ子でした。末っ子なるが故にいつまでも私
の寝床の中へ這って来て、強い愛情をもってギュツと抱きついたりしまし
た。
父が亡くなり、大塚から中野桃園の富士山の見える家に移りました。学校
でも別に優れて出来るというでもなく普通にやってましたが、仕合せなこと
に良い先生が担当して下さって、やちえのたどたどしい作文や絵を取りあ
げて下さいました。
父のない九人もの子をもつ主婦というものは相当に忙しいもので、私はい
つもいろいろの事に追いまくられ、どの子も充分に見てはやらぬままに、
子供はぐんぐん成長しました。
そしてやちえは取り返しのつかぬ病気になり、可哀想によく辛抱してくれ
ました。
一度快くなった時は、片瀬や追分へ行き、のんびりと本を読み、絵を
かき、当時の女学校への入学準備などもしていました。絵をかく事は非常
に好きでしたが、この時以後はずっと寝ながらかくので、思うようにかけぬ
ことを嘆いていました。
明星学園へ通ったのはまる1月位のものでしたが、この短い期間は、
やちえは死ぬまで心の支えとなった良き友を得たのでありました。
さしも大家内であった家の中も、三人の姉が縁付き、長兄は家を
離れて、次兄は船員となって南洋航海をしていて、家には三番目と四番
目の兄、女子大生の姉が一人ということになりました。
しかしその頃の家造りは用もないのにむやみと広く、やちえの病室は
洋館の二階で東南に面した見晴らしのよあ部屋でした。隣りは兄達の
居間。
私達は階下の廊下でつながっている日本間の奥の方にいるので、
やたらに長い家は立居につけて見てやる、声をかけてやるという事は出
来ませんでした。
今、私は狭い家に住み、ああ、この家であったら、朝から夜まで一しょに
いて何もかも私がしてやれたものをと甚だ残念でなりません。
戦争以来身につけたこうした簡単な生活というものを知らなかった事は、
実に実に心残りの限りです。
歌は佐々木先生の御好意で折々「心の花」にのせていただきました。
余り気を入れたとは思いませんでしたが種々の帳面に書きちらしてあっ
たものをまとめました。
文章や日記も、その時その時の気分によって、書いたもので、正確な
順序はわかりませんが、姉の春子と、勉強をしばらく見ていただいた
辻村とも子さん(この方も亡くなられました)に見ていただきました。
幼い幼いと思っていたやちえが、病みつつもずんずん成長を見せ、
少女らしい表情もするようになり、ただもう大きな眼といってみんなが
びっくりしていた眼、長い眉のしたで素真面目に物を見つめるようで
あったキラキラした眼が、くろぐろと活き活きと盛り上がるような感情を
たたえる眼となり、頬や手も少女らしい柔らかさを見せて来ました。
私は吾が子を何と美しいとながめたものでした。
死が近づくままに、がっくりと痩せ、やつれ、黒ずみ、生気がすっと引
いてしまい、全くしなびた花の様な力ない面変わりをしてしまいました。
「先生、寝てると私が私でない人になったり、手が他人になったりする
の」
「心臓が弱ったと見えて浣腸するドキドキしてくるの」また「先生達、
やっと今、胸が苦しいのわかったのね」
「言わなくても先生だからわかってるんだと思った」
こんな事をいうかと思うと
「巻毛の、オーガンデーの、パッとした洋服で、後に帯のついた、頭に
リボンが帽子みたいなの、欲しいな」小さく息をはずませていうのです。
これはお人形のことです。
そして、三一日の朝、やつれはてて「もういやっ」といって顔をそむけたの
でした。
ざんざんざんざん雨が降り、チンドン屋が囃したてて行ったのが、臨終の
別れ際の耳に流れ込み、いまも苦く忘れられません。
雑誌「火の鳥」六月号に『薔薇は生きてる』の表題で出てから、石塚友二
さんの好意で、単行本として出版、次ぎは甲鳥書林、ひまわり社、
能楽書林と何度か出版され、内容は極く少しずつの増減があった筈です。
今度四季社から出るのは絵がだいぶ変わることになりました。
この厭な病気が世界から消え失せ、一体この少女は本当にこんなに
苦しんで死んだのかと不思議に思われるようになる時代が、何とか早く
来ないものでしょうか。
もう、やちえが逝って二十年余の歳月が経ちました。
(昭和三十年五月、四季社刊『薔薇は生きてる』あとがき)