[ 目 次 ]      月刊・お好み書き 2004年11月号


がんばれ奈良ドリームランド


ドリームランドの入り口。ディズニーランドをイメージした門構えだ

 関西の遊園地の中でも特にゴージャスな奈良ドリームランド。約10万坪の敷地内にはアトラクションや巨大な木製コースターなど35の施設がそろう。
 だが、親会社のダイエーが経営不振から産業再生機構入りすることにともない、同ランドの今後も不透明になってきた!?

(取材・写真/庄村有治)




 子供の頃、奈良ドリームランドは宝塚ファミリーランドに以上の「夢の国」だった。広い敷地にはお城があったり滝があったり、小さな海には潜水艦もあったりと、子供ながらに驚くべき光景がそこには広がっていた。
 いまなら高速道路で大阪市内からさほどの時間はかからないが、当時は奈良へ行くには生駒の山道を超えて行かねばならず、しかも渋滞がひどくドリームランドへたどり着くまでには相当の時間がかかった記憶がある。
 筆者がドリームランドへ行ったのは小学生と中学生、大学生時代の頃、各1回づつ。随分古い体験なので、しかも通った経験が少ないためドリームランドの記憶はいまでも肥大化している。ディズニーランド並みの華やかさがいまの筆者の頭の中に残っているのだ。

★日曜だというのに客足は★

 その奈良ドリームランドへ26年ぶりに足を運んでみた。阪神高速と第二阪奈道路を使えば大阪市内からでも1時間弱。近くなったものである。
 入場料1300円を支払って園内へ。が、日曜日だというのに客はさほどいない。
 2500台入る駐車場にも余裕がある。
 当時と比べてアトラクションにも変化が見えてきた。かつては入り口に馬車があったが、いまは誘導用の線路道が残っているだけ。古い西洋の屋敷を模した一角があった記憶があるが、新しい遊具施設を置いたのか、そこも取り壊されていた。
 乗り物チケットを買う売店も自動販売機に変更された。人件費を押さえるためだろう、人が売っていたチケット店は閉じられている。
 しかし幼い子供をつれた若い夫婦は大喜びだ。はしゃぐ子供の手をつなぎ、「次はあれに乗ろう」と父親が回転木馬を指差している。その様子をビデオカメラに収める母親。子供に人気のある「仮面ライダーショー」も盛況だ。
   遊園地こそ誰もが童心に返り、家族が喜べる空間だろう。その奈良ドリームランド、いったいどうなるのか。

★親会社の経営危機★

 同ランドの運営会社である株式会社ドリームパークはダイエーが資本。そのダイエーは経営不振から産業再生機構の支援で経営再建に入ることが決まっている。だが再建されるといってもメスを振るって血を流す作業は避けられない。そこには大リストラが待っている。ホークスは身売りされるだろうし、ダイエーグループのうち赤字企業は売却や合併、閉鎖の危機に見舞われるだろう。果たしてドリームランドも同じ運命を辿るのか。
  運営会社がダイエーグループである以上、リストラのメスが入る可能性は大であるが、ダイエー広報は本紙の取材に対して「奈良ドリームランドについては売却は考えていません」というコメントをくれた。
 ドリームランドはこのまま営業を続けるようだが、客のレジャー志向が変化する中で集客をいかに増やすか、課題は山積している。

★和製ディズニーランド★


スクリュージェットコースターはどこの遊園地でも人気がある

 奈良ドリームランドを運営する日本ドリームパークはかつて日本ドリーム観光と呼ばれ、「昭和の興行師」と呼ばれた故・松尾國三氏が経営にあたった総合観光企業である。松尾の死後、経営権争奪が起こったが1993年、ダイエー創業者の中内功が同社を引き取り、日本ドリームパークと名称を変更。現在はダイエーの子会社に なっている。
 その松尾が米国に渡った際、アメリカのディズニーランドに興味をおぼえ、それを日本に持ち込んだのがドリームランドである。
 「観光立国」を目指していた松尾は和製ディズニーランドを東京近郊に建設する事を計画。が、奈良ドリームランドが61年、最初にスタートした。その後は毎日新聞社の後援もあり64年、横浜に念願の横浜ドリームランドを開園。しかし立地条件や国内のレジャー趣向にも陰りがみえはじめ苦戦の連続となる。決定的だったのは、本 家ディズニーランドが83年、千葉に開園したことだ。これが決定打となり、横浜ドリームランドは経営が悪化。2002年、惜しまれながらの閉鎖となった。
 脇道にそれるが、この日本ドリームパークの前身、日本ドリーム観光のルーツにもう少し触れておく。

★上方落語界とも縁が深く★

 1913年4月、南海鉄道が資本を出し「千日土地建物株式会社」という会社を設立したが、ここが日本ドリーム観光のルーツとなる。21年10月、同社は松竹株式会社に買収された。その後、大阪歌舞伎座を開場。大阪新歌舞伎座も千日土地建物が経営にあたった。また火災事故で118人もの犠牲者を出した千日デパートも同社が 生みの親である。
 松尾は遊園地事業だけではなく、演芸興行にも力を入れた。歌舞伎座がそうであるが、あの大阪松竹歌劇団(OSK)にも深く関わっている。
 松竹は宝塚少女歌劇の成功に刺激され、自社も「松竹楽劇部」を結成。23年に落成した道頓堀・大阪松竹座を本拠に活動を開始した。大阪での成功を皮切りに、28年、東京・浅草松竹座に進出。34年には松竹楽劇部の運営は千日土地の関連会社に委託され、「大阪松竹少女歌劇」(OSSK)と改称された。
   当時、千日前にあった東洋劇場を大阪劇場(通称・大劇)と改称しOSSKの本拠地とした。OSSKのレビューも有名だが、歌謡ショーも好調だったようで、同劇団は笠置シズ子や京マチ子といったスターも生み出している。
 上方落語とも縁が深いようで、千日土地建物の映画館だった戎橋松竹を演芸場に改装して、演芸興行を開始。ここで多くの上方落語が演じられている。ほかにもキャバレーや商業ビルを経営するなど、同社の興隆は続いた。

★内部紛争★

 だが、華やかな一面ばかりではない。千日前デパートの火災と創業者の松尾の死を契機に、同社の暗い時代が続いていく(なお、千日土地建物は63年に日本ドリーム観光に名称変更)。
 同社にまつわる代表的な事件としては「コスモポリタン事件」がある。
 84年、松尾國三が亡くなったが、創業者の死をきっかけに夫人の松尾波濤江(故人)と経営陣との間で経営権を巡る争いが起こる。経営陣が手を結んだのは、仕手集団として名を轟かせていた「コスモポリタン」。そこを率いる池田保次なる人物と結託して自社株を買い占め、松尾一族を追い出そうとした。ちなみに池田は企業舎弟と呼ばれる暴力団組員である。
 結局、松尾一族は引き続き日本ドリーム観光を経営し、対立した経営陣は同社の関連企業だった雅叙園観光を引き継ぐことで決着。経営陣と松尾一族の関係はここで完全に切れた。
 その雅叙園観光はコスモポリタンの手に落ちたが、88年、仕手戦に敗れて破綻。池田は雅叙園観光の融通手形を乱発して自身の資金繰りに充当するが、結局池田は失踪。いまだに行方は分からない。
 その後、「闇の紳士」と呼ばれた許永中や伊藤寿永光が雅叙園観光の経営権を握るが、経営は逆に悪化。彼らは雅叙園観光の経営を商社イトマンに面倒を見させようとし、これを契機に戦後最大の経済事件「イトマン事件」が起こるのである。
 松尾死後の経営紛争には、じつはダイエー創業者の中内功が松尾一族に手を貸している。松尾と中内は盟友と呼ばれる仲で、結局これが縁となり日本ドリーム観光はダイエーの傘下に入った。
 現在、松尾一族と日本ドリーム観光の関係は完全に途絶え、一族は松尾が興した松尾芸能振興財団を通じて芸能活動の振興を支援している。

★消えていく遊園地★

 かつて本紙は閉園間際の宝塚ファミリーランドの姿を追ったが、世代を超えて親しまれた遊園が姿を消すのは寂しい限りである。
 現段階で奈良ドリームランドは経営を続けるというが、未来永劫存在するかどうかは神のみぞ知るである。むろん本紙が同ランドの存続を願うのはいうまでもない。


馬車が通っていた線路道のなごり

 


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