--青木 和子
□心斎橋
--青木さんの生まれた帯屋の屋号は「丸佐をびや」。「小売りでは心斎橋一儲かっていた」といい、多い時は店員さんが30人も働く3階建ての大きな商家だったが、戦時中の企業整備で贅沢品とされた帯等が売れなくなり、商売の縮小を余儀なくされる。昭和17年6月、女学校2年生のときに兵庫県芦屋市に父と3歳下の弟、女中さん2人の5人で移り住んだ。
昭和20年3月13日。私の生まれ故郷、大阪のまんまんなかの心斎橋筋は一夜にして焼けてしまいました。芦屋の家の2階から家族で黙ったまま、大阪湾の向こうのまるで仕掛け花火が燃え広がってゆく様な紅蓮(ぐれん)の炎を見つめていました。大人になってからあの時の父(当時46)は断腸の思いであったろうと、今も時折思い返しています。
焼け跡の火もおさまり、交通機関も復旧して我が家(店)の跡を訪ねました。
焼け跡には大きな鴨居や大黒柱くらい焼け残っていると思っていたのに、90坪余りの敷地には焼け瓦ばかりが積み重なっていました。後日、大丸、そごう、高島屋その他の鉄筋コンクリートのビルと土蔵だけが点々と焼け残った様子を焼け跡写真で見て、唖然とするばかりでした。
終戦後 帰還された商店主とまだ若かった後継者、商店街の方々が助け合ってひとまず、戸板に日用品等とりあえず並べ、焼け残った蔵からも出して売った商人魂のいじらしさを思う日頃です。
心斎橋とその周辺での商いは大変ですが、それだけにまた、日本一と誇れる街なのです。
現在では戦災の事、戦争の事は殆どの方々は忘れておられます。戦後の復興に苦難を耐え抜き、今の心斎橋の繁栄の基を築かれた方々がいらしてこそ、戦争も、戦後も語れると私は思います。
□学徒動員のころ
--「勉強なんか一つもしてへん。教科書なんかあらへんし」。青木さんの女学校は仕上工、接続工の職場だった。
昭和20年6月9日。私の母校、兵庫県西宮市の武庫川学院高等女学校も罹災しました。近くの川西航空機鳴尾工場の何度目かの爆撃のお相伴ではと思ってみたのですが、講堂(体育館)と西校舎は全焼、防火壁のおかげて本館は類焼を免れました。全焼した校舎・講堂では一年三、四カ月の職場(検査、仕上げ、板金工場)でした。焼けてしまったあとの仕事は、炎暑の中、天秤棒を二人でかついで瓦礫や土、瓦を運ぶもので、今では言葉にならない程きつうございました。
焼け跡を整地後、鳴尾中学校と鳴尾北小学校の学校工場に移りました。私は前の仕上工から配電盤の接続工に替わりました。少し難しい仕事なので緊張の連続でしたが、やっと慣れて来た頃、警報が頻発するようになりました。
米軍はもう、日本の南海上の島(硫黄島、サイパン島、グアム島等)を基地にグラマンという艦載機で来襲するようになりました。今までのB29四発爆撃機(一トン爆弾・焼夷弾)に加え、艦載機グラマンは主に低空飛行による機銃掃射でした。
鳴尾中学は校庭が広く、防空壕まで走ってもグラマンの速さには勝てず、手が届きそうな低空で「キーン」と音がした瞬間、「バリバリ」と弾が飛んで来ます。ある時は防空壕めがけての爆撃で、操縦士の顔まで確認出来そうでした。
 |
心斎橋と空襲のことを語る青木さん
=今年2月、大丸心斎橋店内の喫茶店で |
□20年8月5〜6日
--戦争と我を忘れるかのように穏やかな波に揺られた海水浴。その夜青木さんは、昼間のあまりの静かさに「もしや」ともんぺのまま眠りに就いた。
この日は公休日。真夏なのにまだ一度も水泳せずにいたのと、警報(警戒警報、空襲警報)が間遠(まどお)に判断出来たので、芦屋浜へ行きました。真白い砂に打ち寄せる波は穏やかで、まさに水泳日和でした。一時、全く戦争を忘れて、否、忘我の心境でした。 家族そろっての夕食は代用食で、小麦粉ときな粉の蒸しパンと、裏庭栽培のトマトくらいだったと覚えている。その日は昼間あまりに敵機襲来の沙汰がなかったので、「ちょっと怪しい」と寝間着に着替えず就寝。翌6日、蚊帳の中で警戒警報を聞いたが、寸時経て解除。うたた寝に入るや、突如空襲警報。ラジオで紀州沖より大阪方面にB29の編隊が向かうと聞いて、父が前栽の防空壕に急ぐよう命令した。
四発機特有の「ウォン、ウォン」という重苦しい爆音が響く。「伏せろ」という父の声とともに轟音。「ここも危ない!」と壕の戸を開けたとたん見たものは、家がそのまま火の玉になった光景でした。熱風が襲い、今にも自分自身も火の玉になりそうな中、父の声に従って壕を出て、貝塚の生け垣と板塀を怪力で壊して道路に出た時、弟がいない事に気づきました。しかし上空は波状攻撃の爆音が響き、今にも焼夷弾が…。
弟は父のとっさの判断ですぐ向かいの洋館(医院)へ避難していました。「医院に駆け込んだから大丈夫だよ」と父は私を抱えて阪神国道へ向かったのですが、私は尚続く焼夷弾攻撃に怯えながら「たかし(喬)、たかしー」と弟の名前を声の限り呼び続けていました。
道には焼夷弾が火を噴きながらころがって、まるで火の河の様子。国道まで2度も他所の防空壕に入れていただき、弟とはぐれた事も心配して下さって、「お互いご無事で」と言い合って別れ、私達はまた、火の河を走り続けました。家族皆、靴も履いていませんでした。省線(JR)芦屋駅を西へ迂回して崇信幼稚園に辿り着き、やっと腰を下ろし左右を見ると避難して来た人ばかり。園舎は満員でした。
真向かいの平田町の立派な洋館が焼け崩れていく様子を、皆黙って見ていました。やがて東の空から明るくなって来ましたのに、私達の頭上から黒い雨が降って来ました。大火の後に必ず降る雨だそうです。
弟が気になるので我が家へ帰る事にして外に出た途端、雨ならぬ敵機が低空で飛んでいました。家に帰ると弟が迎えてくれ、思わず抱きついて言葉が出ない安心感に包まれました。家は柱まで焼き尽くされ、大きな靴脱ぎ石、縁側の手洗い石、庭の飛び石と石だけが残り、風呂のタイルと井戸枠が屋内と屋外の二つとも蓋をなくし、所在なさそうに我が家であるアカシとして居座っていました。庭で飼っていた鶏、裏庭のシェパード、屋内の猫とスピッツ犬、皆貧しい食料を分け合って永年一緒に暮らしていたのに死骸すらなく、涙が頬を流れました。
 |
心斎橋筋2丁目の自宅、帯屋前に止めたダットサンと
カメラに納まる小学校5年生当時の青木さん
=昭和15年(1940年)ごろ、弟の喬さん撮影 |
□終戦
--焼け跡の庭に小屋を建て、庭の防空壕にしまってあった靴や布団を運んで10日ほど暮らした後、「女、子どもは進駐軍に連れ去られる」とのうわさもあって、青木さんは父の郷里へ移り住む。
8月15日。敗戦の詔勅が出されたことを父から聞いて知りました。「これで電気はつけられるし、勤労奉仕も行かなくて済む。学校にも行けるし、やっと普通の生活が出来る。よかったなあ」と心底思いました。
私達はひとまず、父の郷里である香川県に腰を落ち着ける事になり、祖父母も「安心だ、安心だ」と喜んで下さり、先祖の持ち山から木を伐り、十坪あまりの家を造り、田畑を与えて下さいました。
都会ではまだ食料も住む家もないのに、私達は大きな自然に抱かれての日々で、体の弱かった私も丈夫になり、好きな山遊び、楽しい田畑での野菜栽培やお花つくり等の日々でした。都会のニュースや本は母方の祖母から、衣服などと一緒に送ってもらいました。今思い返すと六年間の田舎暮らしは、人情の有り難さ、自然の恵みに浴し、正直言って幸福でした。
戦争では伯父が二人、従兄弟が一人、店の番頭さんも五、六人戦死していました。生まれ育った心斎橋も焼けてしまい、今ごろどんな生活をしているかと、父と一緒にいつも案じていました。
田舎暮らしが平和で楽しかっただけに、もう戦争はごめんだ、二度とあんな時代には戻りたくないと、思う毎日でした。
--青木さん一家が焼け出されたのは「阪神大空襲」と言われている。1945年(昭和20年)8月6日未明、兵庫県の西宮、神戸・御影、芦屋を中心とした阪神地区は、B29二百数十機による焼夷弾攻撃を受け、壊滅的な被害を受けた。芦屋地区での被害は、死者89人、行方不明2人、重軽傷者129人を数え、全焼・全壊は2743戸に及び、1万6379人が罹災したという。(芦屋市・芦屋市教育委員会「芦屋への空襲記録」=92年=から)