日本マンドリン小史(私家版)
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私が最初に手に入れたマンドリンは、大学の先輩から譲り受けたグレコで、たしかF4というモデル名が付いていたと思う。完璧コピーと言うにはほど遠かったものの、とりあえずギブソンのF-5を意識しているとおぼしき製品だった。 あとでわかったことだが、このモデルは、当初はアリア・ブランドで発売されていたという。これはおそらく、最も初期の日本製F-5コピーモデルであるはずだ。製作に当たったのは、ご存知、富士弦楽器製造(現フジゲン)。発売元は荒井貿易で、主に海外への輸出向けだったらしい。 このアリアのマンドリンを、荒井貿易のショールームで偶然見かけた石橋楽器店のスタッフが、これを元に新たなモデルを作って、自社の店舗で販売するという企画を思いつく。1から新しい楽器を開発するとなると、当時でも500万円くらいの費用がかかった。しかし、すでに製品が作られていて、その型が残っているとなれば、話は別だ。石橋楽器と神田商会が、富士弦楽器に依頼する形で、再びマンドリンの製作が始まった。こうして生まれたのが私が手に入れたグレコF4ということになる。 すでに現物が手元にはないため、記憶を元に書かざるを得ないが、このグレコF4にはかなり問題があった。まず表と裏の板は、まったくアーチのないフラットな構造になっていて、F-5とは似ても似つかない。スクロールの部分も、もちろん削り出しではなく、のっぺりとした異様なデザインだった。ネックもゴツゴツしていて、やけに弾きにくい。そして、何よりも問題なのは、これが全然鳴らない楽器だったことだ。 それでも、スクロールの付いた安価なマンドリン(希望小売価格は4万円)を求めていたユーザーは多かったようで、製作したマンドリン(1ロッド・40本くらい?)は、あっという間に売れてしまったという。この好評に気を良くした石橋楽器では、より本格的な製品を投入することを決意するのだった。 |
頭が切れていて申し訳ないが、これが私が所有していたグレコF4だ。インチキスクロールの様子がご覧になれるだろうか。裏板にはわりとはっきりしたトラ目が出ていたものの、材はメイプルではなくてシカモアだったような気もする。後の韓国製アリアにも、同デザインのモデルが見うけられるのは、なかなか感慨深い。 |
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グレコF4のセールスが好調だったため、石橋楽器店では、より本格的なギブソンコピーのマンドリンを開発することになる。これがザ・グレコのシリーズだ。当時の音楽雑誌の広告を見ると、「石橋オリジナルGrecoフラットマンドリン」「当モデルは石橋楽器店とグレコの共同開発により製作され石橋楽器店でのみ販売されます」となっている。ラインアップも増え、70年代のギブソンF-5風のF-10(定価=10万円)、60年代F-5風のF-8(同8万円)、オーバルホール2本角のフロレンタイン風A-6(同6万円)、ティアドロップタイプのA-5風A-5(同5万円)の4つのモデルが用意された。 ザ・グレコは、グレコF4から大幅に改善された。トップ&バックには削り出しのアーチがついたし、スクロールのデザインもそれっぽい。ネックのジョイント部分の構造が、オリジナルと異なるなどの違いはあったものの、かなりの水準の楽器に仕上がった。 ザ・グレコの製作を担当したのは、富士弦楽器製造(現フジゲン)のベテランクラフトマンだった小坂部安雄さんである。よい製品を作るにはよいクラフトマンが必要だというわけで、同社の研究所でオーダーメイドのギターを作っていた小坂部さんに声がかかった。これが1973年5月のこと。すでにこの時点で、ジャンボ製のギブソンAタイプ(A−50?)風マンドリンは存在したし、小坂部さん自身もAタイプのマンドリンを何本か製作したことはあったらしいが、Fタイプに関しては実物を見たどころか音を聴いたこともなかったという。「とにかくモノが見たい」と会社に掛け合うと、新品のギブソンF-5を1本買ってくれた(−−ということは、初期のアリアやグレコF4は、実物なしで写真かなにかを参考にして製作したんだ!?)。 このF-5を唯一の手がかりに、1人で試行錯誤を繰り返した結果、1973年の10月に最初の10本が完成した。会社の命令で、否応なしにマンドリンの製作にたずさわることになった小坂部さんだったが、この頃にはすっかりマンドリンの魅力にとりつかれ、納得がいく楽器を作るまで、とことんやる気になっていたという。 小坂部さんによれば、ザ・グレコは手探り状態で作ったため、決して満足するできではなかったらしい。そこで、会社に買ってもらったギブソンを完全に分解して、すみずみまで徹底的に調べ上げることにした。見本の構造をそっくり再現するために、工具も新たに開発し直した。マンドリン・プレイヤーの意見も聴いた。こうした苦労の末に誕生したのが、ブルーベルF15だ。ギブソンの徹底的な研究から生まれたF15は、奇妙なことにオリジナリティを強く感じさせるモデルだったが、ネックのジョイント構造といい、スクロールといい、本格派のマンドリンだったことは間違いない。 |
当時の音楽雑誌に掲載された、THE GRECOブランドのマンドリンの広告(ヤングギター 1974年3月号・新興楽譜出版社)
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こうしてザ・グレコは、ブルーベルという新しいブランドに生まれ変わった。ちなみにブルーベルは国内向けのブランドで、海外向けにはIBANEZ(現アイバニーズ、当時の読み方ではイバニーズ)ブランドで販売された。初期のラインアップは、ザ・グレコを踏襲したA5、A6、F8、F10など。これに最上位機種としてF15が加わった。後年には、F25、F35といった、さらに高級なモデルも開発されている。 ブルーベルは、ギブソンを意識しながらも、一貫してオリジナリティの強いモデルを作り続けたというイメージがある。海外販売をするときにギブソンのフルコピーでは支障があったという事情もあるのだろうが、コピーにとどまらない独自のマンドリンを作ろうとする小坂部さんの心意気も大きかったのではないかと思う。そんなこんなで、小坂部さんは「日本のフラットマンドリンの父」と呼ぶにふさわしい人物だと、私は思っている。 ところで、1つ気になるのは、最初にお手本として用意されたギブソンが、70年代のあまりできのよくないF-5だったことだ。その後たくさんのマンドリンを分解して研究しているうちに、最初に買ってもらったマンドリンはギブソンの失敗作ではないか、と気づいたそうで、後に「非常に驚いた。理屈どおりに作られていないんですよ」(ブルーグラスリバイバル誌1982年12月号)と語っている。
小坂部さんは、定年退職後も富士弦楽器の工場の1画を借りて、マンドリンを作り続けたようだ。したがって、この時期のブルーベルはライン生産品ではなくて、ほぼ個人の手工品ということになる。もちろん荒削りにはNCルーターも使われていたようだが。 |
ブルーベル・マンドリンの最高級モデルとして開発されたF15(ブルーベルのカタログより) |
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ブルーベルの小坂部さんがそうだったように、一から新しい楽器を作ろうと思ったら、お手本となる楽器を徹底的に研究するのが常道だろう。どうせお手本にするなら、できればよい楽器を選びたい。−−というわけで、ブルーグラスの父、ビル・モンローのマンドリンをリサーチしようという話が出てくるのは、ある意味当然だ。実際に、国産マンドリンの開発が盛んになってきた1970年代半ばには、ビル・モンローの所有する(ロイド・ロアーのサイン入り)ギブソンF-5を、実際に手にとって研究するという試みが、複数の楽器メーカーによって実施されている。 このリサーチが行なわれたのは、主にビル・モンローの2回目の来日−−すなわち1975年12月のブルーグラス・ボーイズ日本ツアー−−の時点だったのではないかと思われる。75年12月11日から13日にかけて、ちょうど上田、松本、長野と、信州でのコンサートが続いた。地元の楽器メーカーとしては、千載一遇のチャンスである。このため、ビル・モンロー一行が宿泊していたホテルをたずねた関係者は、多かったようだ。ちなみに、ブルーベルブランドを抱えていた富士弦楽器製造では、ビル・モンローのF-5以外にも、他のメンバーのギター(マーチンD-28・ヘリンボーン)やバンジョーのリサーチも行なったらしい。 ネックのスケールや弦高はもちろん、木の材質、塗装の状態、ヘッドのインレイ、バインディング……、さらに、使用弦、ピックのタイプまで、この世界で一番有名なマンドリンを対象に、およそ考えられる限りの計測や聞き取り調査が行なわれたという。一方、研究熱心のあまり、ちょっとしたトラブルも生まれた。以下は、私の師匠に当たるSさんからうかがった話。 松本でのコンサートが終わったあと、バンドのメンバーといっしょにホテルに戻る。ビル・モンローの部屋で、2人きりでいると、某楽器メーカーの人たちが訪ねてきた。おそらく、お付きの人と勘違いしたのだろう。ドア口でSさんに手招きをすると、その手に万札を握らせて、「モンローさんと話がしたい」なんてことを言い出した。その一部始終を見ていたビル・モンローは、「なんだ、お前、金もらったのか? OK、OK」と1人で納得して、訪問者を招き入れたそうな。 楽器メーカーの人たちが持参したお土産は、自社製のジョン・ダフィ・モデル・コピー。カントリー・ジェントルメン、セルダム・シーンのマンドリニストとして知られるジョン・ダフィは、愛用していたF-5を盗まれたために、これが見つかるまでの間、自作の奇妙な形をしたマンドリンを使っていた時期がある。これが問題のジョン・ダフィ・モデルだ。好意的に解釈すれば、れっきとしたオリジナルF-5を持っているビル・モンローに、いまさらF-5コピーでもあるまいと気をきかせたつもりだったのかもしれないが、これがいけなかった。プライドの高いお人だけに、ジョン・ダフィ・モデルを見せられたとたんに、「わしゃ、ビル・モンローじゃい!」とカチン。ところが、知らぬが仏のご当人は、平気な顔で「あなたのマンドリンを見せて」なんてことを言い出す。しかもこれを受け取るやいなや、ノギスを取り出してfホールの中につっこみ、表板の厚みを測り出したというからおそろしい……。 見る見る顔色の変わっていくビル・モンローを見たSさんは、「もういいかげんにしましょうよ」と、先ほど渡された現金を突き返したそうな。この事件のあとで、ビル・モンローいわく。「お前があの金を返したのはよかった。お前のために私はがまんしていたのだ」。あのモンロー翁の短気な性格を考えると、これはなかなか泣かせるエピソードではないかと思う。 このような勇み足はあったものの、当時の楽器メーカーが、国産のマンドリン開発に真剣に取り組んでいたことは、認めなければなるまい。こうした努力の甲斐あってか、国産マンドリンのレベルは、格段の進歩を遂げることになる。
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1923年製ギブソンF-5(ロイド・ロアー)は、ビル・モンローの生涯のパートナーだった(FRETS 1979 No.3 GPI Publications) |
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東京・神田にある老舗の楽器店といえば、言わずと知れたカワセ楽器。このカワセ楽器のオリジナルブランドとして開発されたマンドリンが、グラスランドだ。グラスランドが登場したのは、1978年のことだった。この頃には、すでに、ジャンボ、ブルーベル、カスガ、サム、テトマス、カンサス……など、さまざまなブランドの国産マンドリンが発売されていたから、満を持しての登場と言えるかもしれない。 カワセ楽器がグラスランドの製作を依頼したのは、田原楽器だった。田原楽器は、すでにジャンボ・ブランドのマンドリンで実績があった。また、後にケンタッキーのマンドリン作りも行なうなど、国産マンドリンの歴史を考える上で、注目すべき工房の1つである。 グラスランドのスタート時のラインアップは、GL-130(F-5コピー・ファーンパターンインレイ)、GL-85(F-5コピー・フラワーポットインレイ)、GL-75(Fタイプ)、GL-50(Aタイプ)、GL-35(Aタイプ)の5つのモデルだった。GL-130とGL-85のスペックの違いは、後のケンタッキーKM-1500とKM-1000に、そのまま受け継がれたと考えていいだろう。 海外でも評価の高いケンタッキー・マンドリンは、サンフランシスコのサガ・ミュージカル・インストルメンツのブランドだ。楽器の内側に張られたラベルには、SO. SAN FRANCISCO, CAとしか書かれていないため、自国製のマンドリンだと信じているアメリカ人も、少なくないという。日本に生産拠点を作るに当たって、サガは、共和貿易との共同出資の形でサガ・ジャパンという会社を設立した。基本的にアメリカ向けに生産されたケンタッキーではあるが、このサガ・ジャパンを通じて日本国内向けの販売も行なわれた。 サガ・ジャパンの設立にからんで、日本のマンドリン製作史の中でも特筆すべき出来事が起こった。それは、世界的なマンドリン製作家、ジョン・モンテレオーネの来日だ。モンテレオーネは、F-5コピーのマンドリンも製作していたが、一般的にはデビッド・グリスマンの使用によって有名になったオリジナルデザインのマンドリンで知られている。 1983年1月に、名古屋のホテルで行なわれたサガ・ジャパンの設立発表会には、サガ本社の社長であるリチャード・ケルセンに加えて、モンテレオーネも出席した。このときの来日の主な目的は、日本の工場でケンタッキーのドーグ(グリスマン)モデル−−すなわちモンテレオーネ・スタイルのマンドリン−−を制作するにあたっての技術指導、ということだったようだ。 何を隠そう、このときの記者会見には、私もブルーグラスリバイバルの関係で出席して、取材の手伝いをしている。 会場に用意されていたケンタッキーのマンドリンを試奏してみると、それまでの国産マンドリンとは、明らかに音が違っているような気がした。これには出席者一同唖然。「向こうのクラフトマンが来てちょっとアドバイスしただけで、こんなに音が変わっちゃうなんて、いったい日本の楽器製作って何なんだ?」というような声も聞かれた。残念ながら、この時点でも、まだ彼我の実力の差はあったのかもしれない。いずれにしても、このときのモンテレオーネのアドバイスは大きかったようで、この頃のケンタッキーのマンドリンは、本当にいい音をしている。
これが証拠写真(デカくてすみません)。まるで七五三みたいっしょ? ちなみに私が手にしているのは、マンドラのKH-DAWG ここまでは順調だったケンタッキーだが、それから何年も経たない86年の8月末に田原楽器の解散という事態が起こる。それ以降の生産は、春日楽器製造(カスガ)が受け継いだ。つまり、田原楽器製のケンタッキーは、ほんの短い期間しか生産されていなかったことになる。あとを引き継いだカスガも、マンドリン作りには定評のあるメーカーだけあって、すぐれた製品を作り続けていたが、こちらも1996年に生産ストップしてしまった。現在でもケンタッキーブランドのマンドリンは存在するようだが、以前のものとは、まったく別の製品だと考えるべきだろう。 田原楽器でマンドリンを製作していた鷲見英一さんは、その後自分の工房を立ち上げ、SUMIブランドのマンドリンを作り続けている。モンテレオーネのアドバイスは、こういう形で現在も活かされているのかもしれない。日本のメーカーは、いまではマンドリンの生産から完全に撤退してしまったけれど、幸いなことに、個人の優れたビルダーは、たくさん育っている。国産マンドリンの未来は、こうしたクラフトマンのみなさんの活躍にかかっていると言えそうだ。おおいに期待しよう。
*参考資料 ジューンアップル1976年12号、1977年19号 ブルーグラス・リバイバル1982年12月号 |
グラスランドが発表された当時のカワセ楽器の雑誌広告(ジューンアップル1978年24号)
サガ・ジャパンの設立発表会でのリチャード・ケルセン(左)とジョン・モンテレオーネ(中)。右側でボケーッと立っているのは私です
ケンタッキーのカタログに登場したデビッド・グリスマン。モンテレオーネ・スタイルのグリスマンモデルKM-DAWG(マンドリン)、KH-DAWG(マンドラ)と共に。グリスマンモデルはケンタッキーのトップラインに当たる。このほか、F-5コピーのKM-1500、KM-1000、A-5コピーのKM-600、そのマンドラ版KH-600、さらに低価格の普及モデルなども用意されていた |