93年夏、私は絵の仲間達と、軟座特快の列車で北京より承徳の旅をしていました。中国茶のサービスもあり、車窓から見える郊外の風景はゆるやかに流れ、4時間の快適な旅でした。承徳という地名は、一般には清朝の夏の離宮が置かれた所として、現在は中国の避暑地として有名な観光地です。しかし、私にとっては別の想いが浮かんできます。かって、三枝朝四郎氏の「窓花様子」という本で、承徳の剪紙が紹介されていたからです。中国の剪紙のイメージから大きく離れ、ソフトで軽やかな色彩と切り口に魅力があり、一度実物をみてみたいものと思ったものでした。さて、承徳の駅に到着し、剪紙の村まで車で行く予定が、前日までの大雨で、道路が土砂崩れで「通行止」。さてここまで来たのに、残念無念です。しかし、中国の添乗員の尽力もあり村に連絡がとれ、たまたま、北京のテレビに出演した剪紙の作家達がまもなく、承徳まで戻ってくるから、ホテルまで行ってもらいましょうということになりました。剪紙の村へは行きませんでしたが、その作家達と交流は出来ることになりました。ロビーに、恰幅の良い白髪白髭の富新民さんと、精悍そうな若い冷萬平さん達が、にこやかにあらわれました。通訳をはさんで、作品の数々や、紙のこと、題材、道具等をみせてもらいながらの2時間は、あっという間に過ぎていきました。
中国の少女
冷萬平さんは、その場で、西遊記の一場面を実際に切って下さいました。約40分、真剣な眼差しで、刀を動かしてみえる様子は、5歳から父親に技術を習ったと言われることが納得できました。切り終わって、ホッとされた冷さんの視線に私達もエールを送りました。
「さすがですね」と。
私は自分がきりえをしていたことが、ご縁で、国も違い、年齢も違う人達と、承徳の町で、共通のきりえについての熱い想いだけで結びついた時間をもてたことに深い感慨を覚えました。「再見!」「再見!」とお互いに約束してお別れしました。握手した手は、皆大きな暖かい手でした。
この旅を企画して熱心に誘って下さった画家鈴木坂治先生は、翌年2月のご自身の個展の折、私に「今年も中国に行けよ」といわれ楽しみにしていたところ、その二ヶ月後、岡崎城の桜が満開の日、「えっ」という言葉しかない急逝でした。享年76歳、私に承徳のきりえと万里の長城の雄大さを贈り物にして、旅立たれてしまわれました。人の出逢いは喜びとはかなさ。明日があって、明日がない。その日その時を大切に過していこうと実感した次第です。
あれから3年。今、私はアジアに魅せられています。中国、インド、タイ、ネパールを旅し、感じたことをきりえの作品に表現したいと考えています。これからも、いろいろな出逢いを夢みて、一層きりえに励んでいきたいと心新たにしています。
第20回愛知きりえ展記念画集より抜粋
私の好きな画家、中川一政さんの「随筆八十八」の中に、
青蔵の娘
「美術だから美しくなければならないという。
美という字にとらわれることなかれ。
生きていることが大事だ。
美術は生術だと思うべし。」
「画かきが画をかくのか。
人間がかくのか。」
という文章があります。私のすきなことばで、読むたびに心があらわれる気がします。
私が愛知から岡山に移り住んだ頃のことです。群馬のTさんより、「岡山にはWさんがいるから逢ってごらん」というワープロのたよりをいただきました。このTさんは、私がきりえを始めた頃、群馬で中心になってきりえの普及をされていた方です。早速お会いすることになりました。そして、話が弾み、後日、県北の観光を兼ねて、津山にスケッチに出かけることになりました。
Wさんにとって、戸外のスケッチは初めてとのことでした。森家居城の津山城の石垣に坐って、描き始めました。
城跡の風景を、Wさんは新鮮な眼で素直にとらえていました。石垣を描くとき、「あれはどうなっているの」と鋭い質問もあり、じっくりと観察されていた様子でした。仕上ったスケッチを見ると、石垣の組み方の変化もはっきりと描かれ、近くの木々の逞しい根の様子もよく表現されていました。ものを見る眼の深さや、確かさを日々の生活の中から掴んでみえる姿を感じました。私も新しい土地に変り、“初心に戻りスタート”と思っていた時の、この出会いは、ものをよく見、よく考えることを私に教えてくれました。これは、心豊かに生きていくことにつながると思います。
さて、きりえづくりにも、このものを見る眼の深さや確かさということが大切だと考えられます。常に自分の周囲の出来事や世の中の動きに関心を払って、「どうして」、「なぜ」と疑問をもち、生活の中で考えることです。その結果が、きりえの中に自然に表現されてくるではないかと思います。
しかし、実際のきりえづくりに、生かせないのが私の現状で、毎回、四苦八苦しているのです。
また、「ものの見方や考え方を深めるためにも」、「ひとりよがりにならないためにも」、「井の中の蛙にならないためにも」他人のきりえをよく見ることが大事だと思います。自分が見落としているものや、気がつかなかったことをいろいろ教えてくれます。ああなるほど、そうかこういう見方もあったのかと、視点の置き方や構成の仕方によって、同じものも個性様々にきりえの表現されます。
そういう意味で、きりえの仲間が、お互いに刺激し合っていくのがよいことだと思います。
きりえの仲間は北は北海道から、南は沖縄まで、全国にいます。
数年前、大阪での全国きりえ交流会の折、『上方芸能』編集長の木津川計さんが、「一輪文化と草の根文化」の講演の中で、「大きく花開く文化は、それが生活の中に根づき、いかに多くの人がその文化を知り、また、文化に携わる活動をするかによって、決定される」と話されました。
全国各地に、ますますきりえの美術運動が広がり、生活の中に息づいていくことを願う一人です。
今まで、私もきりえに関わり、その中で多くの人と出会い、育てられ生きてきました。
住みにくい現代を、どのように精一杯生きていくかが問われる時だと思います。そんな時、きりえの仲間がいるという喜びが心豊かにしてくれると信じます。
仲間や出会いを大切にして、“これから”という思いで生きていきたいと思います。
第12回 日本きりえ美術展作品集(1989年12月)
ー序にかえてーより抜粋
多様な広がりを見せている現在の「きりえ」。今回、きりえのテーマとその表現を中心に、これまでの経験と考え方をまとめました。
ミャンマーの人形
きりえを始めて、25年が過ぎました。まず取り組んだテーマは、日本の郷愁を誘うものが多くみられた中、私自身が新鮮に感じた、身近な洋風な対象や、動きのある世界、「ブティック」「サーカス」「オーケストラ」「ヨットハーバー」等をきりえで表現しました。以降「瀬戸大橋」「変わる街」シリーズがあります。
又、近年はアジア紀行(中国・インド・タイ・ネパール・ミャンマー・ブータン・チベット)がテーマの主体です。このテーマは、その中で感じた自然の素晴らしさ。生き生きと働く人の姿や魅力的なその瞳、身近な生活の中の祈りに強く印象づけられ、これをきりえに表現しています。このアジア紀行が、作品づくりに大きな変化となりました。
こうしたテーマの変遷に伴い、きりえの表現が変わってきました。切った線が、全てつながっていることにこだわった時期もありました。その後、バラバラに部分を分けて、表現するきりえも作りました。現在は、これにとらわれないで、テーマの追求に心掛けております。
素材としての紙は、黒の和紙やキャンソン紙の初期の白黒の世界、次のバラバラの時はキャンソンの多色紙でした。近年のアジア紀行シリーズでは、テーマを表現するためには、市販の紙では表わすことが出来ないので、自分で紙を染めて、作品づくりをしています。又、その風土を表現するため、ネパール・タイ・ブータンでは、その地の紙工房を訪ねて、紙を求めてきています。これからも、更にいろいろと刺激をうけ、変化していくと思います。
一方、創作した作品をいろいろな方法で発表し、皆様からの批評、批判を仰いでいます。その主なものは、20年前からの年一回の画廊での個展です。又、中日新聞PR版、地元経済誌テレビのCM等も発表しています。
これらにより、他分野―日本画・洋画・染色・写真・陶芸の人達とのスケッチ旅行や合同展での交流と研鑚で新しい発見と収穫があり、大きな喜びとなっています。
「きりえ」が美術の一ジャンルとして、確立する為には、きりえ創成期の熱気溢れる初心に戻り、より一層の「質の向上」への努力が必須であると強く思います。
それには、@日々の新鮮な創作活動、A心に響く作品への追求、B他分野との交流による視野の拡大、が重要な3点だと考えます。
私自身も、今後の創作について、感動したテーマをどう表現するか、自分の思いが一人よがりでなく、見る人の心まで届くであろうか、今一度真摯に考えてみたいと思います。
日本きりえ協会会報
第74号(10)より抜粋
ラオスとの出会い
私の手元に1枚の布地があります。 96年に、タイ・チェンマイの市場で購入したものです。赤の地に白と紫と 緑の不思議な姿をした動物とその空間に、黄、橙の幾何学模様の絣柄の織物の布で何とも美しいものです。 これが「ラオスの織物」でした。私とラオスとの出会いが始まったのです。私が布好きで知り合った岡崎のKさんから、この地球隊の旅のことを教えていただき、はじめは、、ご夫妻と共に参加する予定でしたが、急に用ができ私一人が参加することになりました。 私は、93年よりアジアを旅し、きりえの作品作りをしています。ラオスは初めての国、好奇心を募らせて空の旅人となりました。ビエンチャン上空までの深い緑の山並みやメコン河の流れ、ジャール平原のベトナム戦争での傷跡など、飛行機の窓からのパノラマも興味深いものでした。市内観光は、タートルアンやパトゥーサイなど思いの他スケールの小ささに驚きましたが、凱旋門の展望台から、メコン河の対岸はもうタイという光景をみて陸続きの国境というものを実感しました。 チャンタソンさんの指導されている織物センターに出かけ、草木染めを皆様がされている間、私は縫い子さんや織り子さんの所へ行き、スケッチをさせてもらいました。真剣に仕事をしている姿は、どの国とも共通で、とても美しいと思いました。 その部屋では、ラオスではなくタイの流行歌が流れていて、乗りのよい楽しいリズムでした。織り機にかかっている図柄は、複雑で根気の要る仕事ばかり。この若い女性達が自立できるように集中力をつけ、ラオスの織物が大きく発展していく事を祈りました。
染付けの娘
また、民泊した、「ソップマー村」「ゲォバトゥー村」での3泊は、私にとって興味深いものでした。大歓迎を受けての、村長をはじめ村中の祭りのようなバーシーの行事。口々に皆の幸せを真剣に願ってくださっているおじさん達のいい顔。一人一人に「ありがとう」とお礼を云いたかった。手に糸を結びつけ、幸せを願ってくれ、私達が一人も怪我もなく旅を続けられたのも、この村民の人達のお陰と心から思いました。 ソップマー村の高床式の生活は、最初に見た時、頼りなげな家であったが、環境に一番合致した住居で、1泊して、すっかり気にいってしまった。風の通りも良く、快適そのもであり、朝一番鶏の元気な鳴き声を聞きながら、村が活気付いていく様子は、私が幼いころの祖母の家で体験した朝と重なり、気持ちの良い目覚めであった。女性達の甲斐甲斐しい働きの中、生活が流れていく様子は、モン族での1泊も同様であった。朝早くから働き始め、村中の人がそれぞれの役割で動いていることをこの家でも実感した。 こうして民泊して、ラオスの家庭生活をほんの少しでも体験できたは良かったと思いました。また、小学校見学などは、夏休みの時と重なってしまい、実際の姿を見ることができなく残念でした。村だけでなく、都会の小学校も訪問し、対比することも興味がありました。
最後の日に3時間ほど自由な時間ができ、ビエンチャンの絵本の家できりえのレクチャーができたことが嬉しい事でした。4人の大学生も協力してくれ、子供達ときりえを通じて交流ができ、瞳を輝かせて真剣に取り組む姿は、感動でした。 特に6人の子供達は3枚も続けて切ってくれました。今後も子供達がきりえを楽しんでくれることを願い、ラオスでの思い出が一つ増えました。
地球市民の会かながわ 「地球隊2001 夏 報告書」より抜粋
信州大鹿村 (84年度個展案内状) 信州大鹿村 2002年 (スケッチ)
きりえの仲間達と夏の信州をスケッチ旅行をしました。 南信州の大鹿村です。
役場発行の観光マップには、次のことばで紹介されています。
「夕映えの染まる赤石岳・ 小渋川が刻む渓谷・ 古を偲ぶ紅葉路・ 南アルプスの麓・ ここに懐かしい人と自然が息づいている」
誰もが、大鹿村とはどんな村かしら、ロマンが拡がり、行ってみたくなります。
1984年の春、この村をスケッチ旅行しました。 その頃は南アルプスの登山口としては有名でしたが、村への訪れる人も少なく、南信州の秘境といわれていた場所でした。
中央自動車道の松川インターから、大鹿村へは、くねくねした山道を、天竜川の支流に造られた小渋ダムから更にトンネルをいくつかくぐり抜け、約40分で到着します。 以前に比べて本当に早く着き驚きました。 18年ぶりの大鹿村の印象は思いの外、変わっていませんでした。
福徳寺の重要文化財の本堂、その横に立つ大銀杏、大河原上蔵(わぞ)の村の雰囲気はそのまま残っていました。
あー、良かった!・・・ ー最近の日本の観光地は再訪するとがっかりすることが多々あります。ー
この村は、午後3時有線より「ラジオ体操」、午後5時「夕焼け小焼」の曲が流れます。 子供の頃が懐かしく想い出されてしまいました。
この地は民宿とはいわず民泊といいます。民泊「宮ノ腰」は、野々宮神宮の脇にありました。入り口の栗の木が実を落としていて、それを掃いていたのがこの宿の女主人のようでした。物腰のやわらかな落ちついた雰囲気の人でした。
「よーみえた」と暖かく迎えて下さいました。 ゆっくりとお湯に入り、早めの夕食をいただきました。
観光ガイドには田舎料理とありましたが、一品一品、心をこめた実に美味しい料理で、皆すっかり大満足です。
民泊「宮ノ腰」のご夫妻に大鹿村の歴史や村おこしの話、大鹿歌舞伎などの話を夜の更けるのを忘れて聞かせていただきました。
後醍醐天皇の第8皇子 宗良親王が乱を遁れてこの地へ隠棲し30年、この村で亡くなったこと、その遺跡もあります。
又、江戸時代より地芝居「大鹿歌舞伎」の伝わっている村で、近年脚光を浴びています。 五月、十月に村人により上演されます。
信濃毎日新聞社発行の写真集「大鹿歌舞伎」から、大鹿村の活き活きとした生活や姿が感じられ、この時期にも来てみたいという思いがしました。
翌朝は、民泊の窓から上蔵の村が一望でき、朝日のあたった山肌に朝もやが流れ美しいものでした。 早速、皆で朝の様子をスケッチしました。
朝食もとても美味しく、空気良し、料理も良し、信州のさわやかな朝でした。
すばらしい眺望があるという夕立神パノラマ台への道を教えていただき、皆でなごりのお礼をいいながらお別れし、パノラマ台へと車をスタートしました。
村より山に登り30分、台風一過の天候で、夏には珍しく、パノラマ台から、美しい山並、南アルプス・中央アルプスが展望できました。
ここで1枚、2枚とスケッチし、お昼まで過ごしました。
帰りは、鹿塩温泉の「塩の湯」で、塩からい温泉に入り、短いですがとても中身の濃い夏のスケッチ旅行を終えました。 2002年 盛夏