読書するのがいいことか?
岡部MG導彦
アパートに戻ると、タケシが本を読んでいた。
背表紙には『楽しい園芸』と書かれている。
テーブルには他にも、『初めてのガーデニング』とか『趣味百科・園芸編』とかが乱雑に置かれている。タケシは楽しい園芸とやらを、難解な哲学書でも読むかのように、眉間に深い皺を寄せながら、一心不乱に読み耽っていた。
とても、楽しい風には見えなかった。
「……ただいま」
当然のように応えは無い。
こちらとしてもことさら返事を期待している訳でもなかったので、そのまま部屋に上がると冷蔵庫を開け、買って来た食材を中に詰め込んで行く。殆ど空席だった庫内が、そこそこ見られた顔になった。大貧民から、貧民くらいには格上げになっただろう。
冷蔵庫に買って来た物をしまい終えると、自分の部屋へと引き込んだ。
タケシは本を寝ながら読んだりすることが出来ない。本を読む時は、きちんと机に座って姿勢を正さなければ、読書に集中することが出来ないのだそうだ。また彼の考えでは、寝転がって本を読む、などと言う行為は本に対する冒涜行為、なのだそうだ。どんな本にも無駄なことなど記されてはいないらしい。その貴き書籍を、姿勢を正して読むのは当たり前のことなのだそうだ。僕などは寝る前にしか読書しない、と言う不道徳な輩なので、そんな格好の僕を見ると、タケシはたいてい眉根を寄せて嫌悪感を顕わにする。しかし僕はこれでも読書家なので、長時間、長い本を読む時にはやはり寝ながら読むに限ると思っている。姿勢を正して読めば、それはまあ著作に対しての礼儀は守れるのであろうが、いっかな自身の体には不自由を強いる事となる。特に背中、肩などへの負担は一塩だ。そこまでして読書するのも、僕には面倒に思えてしまう。
まあ、そんな訳で、タケシは本を読まない。
尊大な目標を掲げ過ぎて、結局長続きしないタイプなのだ。そもそもタケシの部屋には机が無い。机が無ければいろいろと困ることが多いと思うのだが、そもそもタケシはあまり部屋にいない。自室で読書に耽る、など年に一、二度あれば良い方なのだ。
だからタケシは、台所のテーブルに座って読書する。
自室に机は無い訳だし、彼は寝ながら読書することなど許さない訳だから、これは当然の帰結だ。
僕が自室でしばらくテレビを見た後、お腹が空いたので部屋を出ると、タケシはまだテーブルで本を読んでいた。さっきの『楽しい園芸』は読み終わったのか、今読んでいるのは『趣味百科・園芸編』であった。顔付きはやはり真剣そのもの、下手に声をかけると怒られそうだ。どうせ声をかけても、聞こえないか、聞こえていても無視するので、僕はそのまま夕飯の支度にかかった。
二人の共有スペースで読書をされると、こちらとしては物音を立てたりするとかわいそうかな、などと心配するのだが、そもそも声をかけても聞かないくらいだから、そこまで気を回すことも無い。僕は野菜を適当に切って、下味を付けた豚肉と炒め、大雑把な野菜炒め風なものをこしらえると、炊いてあるご飯と一緒にテーブルに置いた。タケシの向かいに座りながら、僕は黙々と食事をこなして行く。
「――この時期の花と言うと、何かな?」
唐突に、タケシが口を開いた。
「さあ、何かな。あまりそう言うのには明るく無いからなあ」
僕は食べる手を止め、答えた。
「夏だったら、ヒマワリだよなあ」
タケシが本を置いて言った。
「そうだね。まあ安直な気もするし、花屋でならいつでも手に入るんだろうけど」
「秋、って言うと、何になるんだ?」
タケシはしつこく、そう繰り返した。
「……そうだなあ。秋の七草、とかあるねえ」
「七草? それって草じゃないのか?」
「まあ、草かもな」
「じゃ、ダメじゃん」
「なあ?」
「んー」
「当てに行っていいか?」
僕の言葉に、タケシはフンと鼻で笑った。
タケシが読書をする時は、決まっていた。
好きな女が、出来た時――。
タケシはその女を口説く時の話題集めの為に、本を読むと言う、ある意味、本を冒涜するかのような、不純満載な動機で読書に勤しむ男なのだ。相手がアイドルのファンなら、アイドル関係の書籍を当たりまくるし、サーフィンが好きな娘ならサーフィンの、パチンコが好きな娘ならパチンコ、お金儲けが好きな娘の時は、証券関係の本を読んでいた。
タケシの読書癖は、そういう単純な思考によって支えられているのである。
そして、今回タケシが読んでいるのは『園芸』関連の本。
僕は結構、自信があった。
「花屋のお姉ちゃん」
「……単純だなあ」
タケシはそう言って、再度僕を鼻で笑った。
「外した?」
「OBだな」
「じゃ、何してる人?」
「さあ」
「どこで見かけたの?」
「そこのコンビニ行く途中で」
「ご近所さんかよ?」
「そうなるなあ」
「誰? 俺の知ってる人?」
「知ってるかもね」
「何だよ、もったい付けるな」
「別に、そう言う訳では無いけど」
「誰?」
「ホラ、そこの角んとこ、ゴミ捨て場の、あそこ家建ててただろ?」
「ああ、あそこ」
「そこ、新しい人たち入って来て」
「ああ、そうだったね」
「そこの奥さん」
「……人妻じゃん」
「俺がガッコ行く頃にな、庭の鉢植えに水やってんだよ。すげえ美人」
「俺も見たよ。でもなあ、人妻だよ。途ならぬ恋だぞ」
「恋の極意は、忍ぶ恋と申し侯う」
「お、葉隠か」
「宮本武蔵先生だ」
「いや、山本常朝だろ……」
「え、そうなの?」
「知らないのに使うなよ、みっともないなあ」
「まあ、そんなことはどうでもいいんだよ」
「そりゃそうだけど」
「大事なのはさ、彼女と共通の趣味を持つ、と言うことじゃないか。俺もなんか、鉢植えでも買ってさ、ガーデニングでも始めようか、ってとこなのさ」
「ガーデニングねえ。ベランダで出来るのなんて、たかが知れてるけどなあ」
「いいんだよ、用はさ、庭いじりしているあの人に、話しかける口実があれば」
「そんなもんかねえ」
「そんなもんさ」
それから数日が過ぎたと思う。
九月の中頃、あれは木曜日頃だったと記憶している。
大学は未だに休みだけれど、僕はサークルの都合でいろいろと学校へ行く用事があった。長い休みが開ければすぐに学祭のシーズンだ。うちのミス研でも学祭の準備を進めていた。もっともミス研で出し物と言っても、地味な同人誌作成だから目立つことではないけど。
その日は三年生の先輩と一緒に、装丁のラフなどを書いていた。
同人誌に載るのは殆どが三年生の作品で、僕らの作品はよほどいい物で無い限り載せては貰えない。だからと言って僻んでいる訳では無く、やはりその一年間の差と言うのは作品のレベルに大きな影響を与えるものだな、と感心すると言うのが正直なところだ。たまたま僕は、フォトショップの扱いに慣れていたりするもので、装丁の準備を手伝わされていた。もちろん、作成の意向は殆どが先輩方のもので僕の自由に出来ると言う代物では無い。そうは言っても、デザイン的な部分で僕が口を挟んだ方が良かったりすることもあって、なかなか発言には気を遣った。
そんな訳で、ちょっとした打ち合わせの予定が、思いの外時間がかかり、終わった頃には外は夕暮れに染まっていた。時刻にして六時頃だったか。
先輩達に夕飯に誘われはしたが、夏休みと言うのにバイトもしないでいた僕は、当然のように懐も寂しく、おごってくれると言う人もいたが、それを丁重に断り家路に着いた。
電車を降り、駅前の商店街で夕飯の買い物をした。
持ち合わせは少なく、贅沢な買い物は不可能だ。家には玉葱とキャベツ、卵が二、三個、トマトがあったかどうか、と言う案配だった。野菜はそこそこあったから、肉が食べたかった。駅前の商店街には肉屋が二軒あったが、その内の一件にはうまいコロッケを置いている店があった。一個六十円のコロッケ。これが非常にウマイのだ。僕は二十年程人生を歩んで来たが、これほどうまいコロッケは食べた事が無かった。
当然、今日のおかずはコロッケに決まりだ。お金の無い時は、このコロッケが僕の生命線だった。何しろこのコロッケ一つで、ご飯三杯はいけると言う優れものなのだ。とにかく今日の夕飯はコロッケに決まった。
肉屋に行くと、先客がいたので僕は驚いてしまった。
時刻は夕餉の買い出しには少し遅いとは言え、まだまだ買い出し客で賑わう時間帯だ。当然、お客がいるからと言って驚くには値しない。もちろん、この店が平素から客の来ない寂れた店だ、と言うことも当然ない。そもそも、先客がいたから驚いたのでは無い。僕が驚いたのは、その先客に対してなのであった。
例の、若奥様なのだ。
先日、タケシから聞いた恋のお相手。もちろんそれは、未だタケシの片思いでしか無いはずなのだが、その相手の奥様が僕の目の前で買い物をしていた。両手に大きなビニール袋を提げながら、それでも懸命に手を振っている。肉屋の親父と親しげに話し、何やらオマケをしてもらって恐縮している様子だ。僕はいつもコロッケ一個くらいしか買わないから、オマケしてもらったことなんて無いのだが。しかし肉屋の親父がオマケしたくなるのもわからなくもない。タケシが惚れるのも無理からぬ、と言うのが僕の正直な感想だった。
年は僕らより上で、おそらく二十五、六。肩口まで伸ばした髪の毛を軽く内側にウェーブさせている。小さめの鼻と理知的な瞳。年上のお姉さま、と言う雰囲気が満載だ。大学で見る同級生や先輩と違って、大人の色気と言うものを感じる。思わず、恋したくなる、そんな人だった。
彼女が買い物を終えて立ち去る際、目が合った。
彼女は後ろで待っていた僕に義理でしたのか、それともご近所さんだと気付いてくれたのか、真意の程はわからなかったが、取り敢えず僕に会釈をしてからその場を離れた。僕は一瞬ボーっと見とれてしまった。
「コロッケかい?」
「え、ああ、そうです。一個です。すいません」
コロッケを買って、僕は彼女の背中を探した。
――その時だった。
僕の十メートル程先で彼女が誰かにぶつかって、荷物を落としてしまったようだ。慌てて僕は駆け寄ろうとしたが、僕より早くその奥さんにぶつかった奴が急いで彼女を抱え起こした。そのぶつかった奴が、タケシだった。
タケシは、策士だ。
いろいろな手を使って相手に接近しようとする。セコイ手を使ってバカみたいな真似をするのだが、今回もその一端なのだろう。そう思うと僕は少し可笑しくなって、タケシと奥さんの様子を見つめていた。
タケシはぶつかった非礼を詫びながら、急いで奥さんを起こすと落とした袋や散らばった品物を拾い始めた。いえいえ構いません、とか、そんな訳にはいきません、とかそんなタケシの大仰な声がこちらにまで聞こえて来る。タケシのでかい声に、あたりはちょっとした騒動になってしまい、奥さんは少し赤面しているように見える。
怪我は無いですか? 壊れたり無くした物は?
タケシの声が良く聞こえる。
「なんか、あったの?」
肉屋の前で立ち尽くして僕に、店の親父がそう聞いて来た。
僕は苦笑しながら、大したことじゃ無いですよ、と返した。
タケシはそのまま、彼女の荷物を持って一緒に歩き出した。どうやら荷物持ちを務める気のようだ。
僕がいるとやり辛いだろうと思った僕は、違う道を通って家に帰った。
その日のコロッケは、何だか甘酸っぱかった……、なんてね。
その日を境に、タケシの姿を見なくなった。
どういう理由で見ないのかは知らないけど、とにかく顔を会わす機会が無くなった。大学は一緒で住む家も一緒。それでも顔を合わせまいとすれば、そんなことは容易く出来た。タケシの帰宅時間はまた遅くなり、僕は用も無いのにタケシの顔を見に隣の部屋へ行くことも無かった。
僕は僕で、忙しかったのだ。
同人誌の作成はどんどん進んでいた。
原稿の締切は九月の二十四日。その日までに、掲載する者は作品を仕上げなければならなかった。サークルの同人誌とは言え、部数も枚数もある程度決まっているので、一人の持ち分量も決められている。その決められた中で作品を仕上げる必要があった。掲載の決まっている三年生以外は、その日より二、三日前に部長に見せて掲載するかどうか決める必要がある。つまり僕のような一年生はそれまでに原稿を仕上げなければいけなかった。そして部長は、僕の作品を掲載すると伝えて来たのだ。
そんなことがあったので、はっきり言って僕は忙しかった。自分の原稿は、すでに仕上げて部長に見せているとは言え、赤いペンで散々直されている。つまりそれは、新しいものを書き直すのより、ある意味難しいのだ。完成と思っていた作品の、悪いところをいくつも告げられ、それについて、『どう直すのか』は知らされずに、とにかく直せ、と言われて返されるのである。もっともこれは、部長たちと言えども編集の仕事をした人間では無いので、誤字脱字を直せと言うのは出来るだろうが、作品をどう昇華させるか、と言うのは他人の忠告をするのも難しい事だろう。もとより、彼らもまた自らの作品の制作に忙しいのである。そんな中、僕の作品を見て意見を貰えただけでも有り難い。そもそも、載せて貰えることが異例なのだ。その名誉を汚さない作品にしなければ、と僕は意気込んでキーボードを叩いていた。
ここ数日、タケシの姿を見ていないのは事実であったが、遅いとは言え帰宅した気配もあったし、生活していることだけはわかっていたので、あまり心配はしていなかった。夜遊びが過ぎることは、タケシには良くあることなのだ。互いの生活に干渉しないと言うのは、暗黙の了解のようなものだ。子供じゃ無い互いに、いらぬ心配はありがた迷惑なものである。いざとなれば、互いの携帯電話もあることだし、連絡を取り合うことも出来る。そんな訳で、僕はタケシのことを微塵も心配してはいなかったし、本当のところ、自分のことが忙しくタケシのことなど、眼中に無かったと言うのが偽らざるところだ。
しかし一本の電話がその思いを変えた。
その電話は、タケシと仲のいい、渡辺と言う女の子からだった。
彼女の話だと、ここ数日、携帯に連絡が付かず、留守電にメッセージを入れても、一向に梨の礫だ、と言うことだった。家には帰っているのか、と聞かれたので昨夜は確かに帰った、と伝えた。少なくても自宅には帰っていた、と言うことで安心したのか、彼女は取り敢えず帰って来たら自分に連絡して欲しい、と言い置いて電話を終えた。
渡辺さんと言うのは、確かタケシが遊び歩く時に連んでいた中の一人だ。
彼女たちが、タケシの行方を心配すると言う事は、ここ数日の夜遊びの相手はいつもの連中ではなかった、と言うことだ。そして僕の心にイヤな気分が広がり、その予感は翌日の朝を迎え確信に変わった。結局その日、タケシは家には戻らなかったのだ。
それから数日、タケシは行方不明となった。
文字通り、行方がわからない。携帯は繋がらない。最後に見たと言う人は、一週間くらい遡らなければならなかった。タケシの友人からの連絡が増え、僕の安閑とした様子をなじる連中も多くなった。
周りが騒げば騒ぐほど、こちらとしては冷静になる。
元より、タケシとは知った仲だったし、彼が家を空ける事はあまり珍しい事ではなかった。フラッと二、三日いなくなったと思ったら、箱根の温泉に行っていた、と言うこともあった。そう言う場合、たいていは大学の友達と一緒に行っていて、彼らと交友の無かった僕にはまったく連絡が入らず、初めの頃は酷く心配して彼の家族に連絡したこともあった。要するに、彼はそう言う人なのだ。何か有れば、ふらっといなくなる。そう言う性分なのだ。今回は、その原因にも心当たりがあった。
今騒いでいるのは、いつもなら一緒にタケシの気紛れに付き合っていた連中で、今回初めて、置いてけ堀を喰らった連中なのである。自分らをおいて行くなんてことは、今までには無かった、とそう言っているのだが、僕にしてみれば何を今更、と言う感じだった。
まったく心配していないか、と言われると嘘になる。
これでもタケシとは仲がいい。こういうことが過去にあったとは言え、今回もそうだとは限らない。そんなことは良く分かっている。それでも過去の事例に合わせればそれは杞憂であったし、こちらが連絡出来るところは限られている。却って、心配していると称す輩の方が心当たりも多かろう。
「――これ以上、連絡が無ければ警察に届け出ます」
渡辺さんから連絡が入ったのは、九月も終わろうかと言う頃合いだった。
こちらは制作の追い込みに入っていた同人誌の作成で忙しく、諸先輩方の意見が侃々諤々と部室を飛び交い、作業は遅々として進まず、僕自身もかなり参っていた。だから人を責めるような口調でそう告げられた電話に、思いの外、強く反応してしまった。
「届けてどうすんの?」
「探して貰うに決まってるでしょ!」
「でもさ、家族の人も放って置けばいい、って言ってるんだよ。他人が口出すことでも無いだろ」
「心配じゃないの?」
「心配はしているさ。でも良くある事だし、携帯は意図的に留守電にしてあるみたいだし、事件や事故に巻き込まれてるとも思えないし」
「――冷たいんだね、君は」
「そう言う問題かな? って言うか、僕は僕なりに、アイツを信用しているってことなんだけどな」
うるせえな、外でしてこい!
先輩の怒号に、俺は声を抑えた。
「とにかく、あまり勝手な真似はしない方がいいよ」
「そう言う訳には……」
僕はそれだけ言って電話を切った。
まだ、装丁は決まらない……。
先輩達の言い争いを聞きながら、僕は一人呟いた。
「――恋の極意は、忍ぶ恋と申し候う」
葉隠れも、大概にしてくれよ……。
僕は声に出さずに、そう続けた。
アパートに戻ると、タケシが本を読んでいた。
背表紙には『楽しいお菓子作り』と書かれている。
テーブルには他にも、『菓子業界最先端』とか『パテシエへの道』とかが乱雑に置かれている。タケシは楽しいお菓子作りとやらを、難解な哲学書でも読むかのように、眉間に深い皺を寄せながら、一心不乱に読み耽っていた。
とても、楽しい風には見えなかった。
「ただいま……」
当然のように応えは無い。
いつもと変わらない様子だったが、さすがに今回は少し頭に来ていた。毎度の事とは言え、周囲に迷惑をかけた結果と言うのをもう少し自覚して欲しい。さっきの電話の件もあったし、どうにも腹が立って仕方がなかった。
「おい、君の知り合いの渡辺さんが随分と心配していたようだよ。早く連絡した方がいい。彼女、今日戻らなかったら警察に届ける、とか言っていたから」
聞こえている様子は無い。
こちらの心配を余所に、そこにはいつも通りのタケシの姿があった。
あまりのことに、僕は呆れたり、怒ったり、で何だか良く分からなくなって来て、思わず苦笑してしまった。結局、心配は杞憂に終わったのだ。
「……通好みのお菓子、ってなんだろう?」
「なに?」
唐突にタケシは切り出した。
「お、この人お菓子作りに精通してる! って思わせることが出来るお菓子だよ」
「――ポッキー、とかか?」
「バカ、そりゃ既製品じゃねえかよ。趣味でお菓子作りするのに、ポッキー作る奴がいるかよ。真面目に考えてくれ」
「いや、そもそも話が良く見えない」
「だからさ、お菓子作りだよ、お菓子。おまえ甘い物好きだろ?」
「まあ、そうかな?」
「じゃあさ、いろいろ知ってるだろ、お菓子。ちょっと言ってみろよ」
「『じゃがりこ』とか、『オレオ』とか」
「だからさ、既製品じゃダメなんだよ!」
話にならない、とでも言いたげにタケシは大仰に肩をすくめて見せた。
話の飲み込めない俺は、思わず声に出して聞いて見た。
「……おまえ、なにしてんの?」
「何って、決まってるだろ。恋してんだよ!」
――なんか、恥ずかしい奴。
『ジェシカ叔母さんはミルフィーユを焼いていたな!』
などと大声で叫ぶと、一人合点がいったのかタケシは大きく頷いている。
しばらくはこの部屋に、甘い香りが漂いそうだ。
2002/9/12
原稿用紙換算:三十一枚