悦子の場合


 私は、仕事が嫌いだ。

 その事実を、今、私は痛いほど思い知らされた。

 最後の仕事を終えた今、時計の針が最も美しく見えるとされる、十時十分を指し示している。現在、このフロアに残っている社員が私以外に存在している、などと言うことは、間違っても有り得ない。皆が皆、先を争うようにして帰宅してしまった。私だって、もちろん好き好んで、こんな時間まで仕事をしている訳じゃない。ただ、どうしたって片付けなくちゃいけないクレームが、タイミング悪く発生しちゃったのよ!

 まったく、どういうことなのかしら? この、年末も押しに押し迫ったこの時期に、契約の解約だなんて。それがただの一般人の解約なら、こっちだってこれだけ騒ぎはしないわよ。よりにもよって、アップル共済の社長、小橋健三の生命保険を、担当者との相談もなしにいきなり決められれば、こちらも資金にゆとりのある、全盛期の日本企業でもないんだから、そんな大口の解約を求められても、対処のしようがないじゃない! たいていの上役は、三時近くには帰っちまうし、私より下っ端は見事なまでに使えなくて、仕方無しにこの私が泣く泣くこの大役を仰せつかった、とそんな感じ。

 最近の若いのが使えない、なんて嘆くのは年寄り臭くって嫌なんだけれど、それでも本当にマシな部下(オトコ)がいないのは情けないわ。何をするにも私の指示を仰いで、『工藤課長、どうしましょう?』って、私はおまえらのママじゃないんだよ! もう少し自主的に機能することは出来ないのかしら? 組織のなかでふられた役割だけを、適当にこなしていればいい時代なんて、とうの昔に過ぎ去ったじゃない。いくら入社したのがバブル全盛期とは言え、今後の自分の人生設計を少しでも考えて見れば、どうしたら会社に残っていられるか、そう言う大局的な視野を持っていなければ、すぐに自分たちがリストラ世代に追いやられる、ってことをまるで理解していないのよね。自分たちだけは、いつまでも若いままでいられる、とでも思っているのかしら。そうやって大した考えもない連中に限って、返す見込みもないような借金抱えて、マイホームを建設してみたり、愛さえあれば、とか言って無茶で無理で無謀な結婚をしたりするのよ! ハッ! 笑わせないでよね、この三無主義世代がっ!

 ……別に、結婚したい訳じゃないわよ。自分のこと、売れ残りだなんて、思ったこともないし。現に今抱えているオトコだって、結構多いんだから。今日だって、本当はいくつも予定があったんだけれど、どうしたって外せない仕事が出来ちゃったから、ゴメンナサイ! って言って断ったんだから。

 ……あれ、そう言えば、つい最近も似たようなことがあったわよね。……そう、あれはあの小憎たらしい『クリスマス・イブ』。何がメリークリスマスよ! 何が聖なる夜よ! 性なる夜の間違いでしょ! 『さあ、僕からのプレゼントだよ』『まあ、ティファニーのティアーズ・ドロップ!』『このペンダントを付けたら、もう君は僕の事で涙することはないんだ』『まあ、どうして?』『君の流した最後の涙は、こうして僕が固めてしまったから……』『まあ、ステキ……』って、おまえらバッカじゃねえの! いつまでそんな青臭いことしてんだよ! おまえらいくつだよ。年考えて物言えよな。おい、男。おまえ年は幾つだ。学歴は? 収入は? 背の高さは? もちろん、長男じゃないんだろうな>

 ……ハッ、思わず立ち上がってしまったわ。誰も見ている人がいなかったから良しとしておこう。こんな無様なところ、部下には決して見せられないわよね。

 どうも、グチが多くなってしまったわ。それもこれも、年末だと言うのに、一人で居残って残業なんてしているからだ。仕事のし過ぎは身体に悪いだけじゃなくて、精神までも蝕んでいくのね。ああ、私、自分が恐いわ……。

 そんなこと言ってる間に、さっさと帰ろう。こういう疲れた日には、おいしいゴハン食べて、お酒をちょっと戴いて、好きなモノ買って、綺麗な洋服着て、アタシの魅力を振りまいて、お家に帰って、化粧落として、シャワーを浴びて、お酒いっぱい飲んで、テレビ見て笑って、それからぐっすり寝よう。それがいい。そうすりゃ、明日はお正月よ。

 

 

 何なのよ、あれ。

 『ビリング・ピザ』のあの混みようわ!

 女独りでゴハン食べちゃいけないってわけ?

『お客様、混んでまいりましたので、あちらのカウンターにお移りしていただけますか?』ですって! 丁寧に言えばいいってもんじゃないでしょう。あの時のウェイターの顔! 思い出すだけで腹が立つ! もう二度と行ってやらないからね!

 あーあ、今日の私ってちょっとヒステリーかしらね。それもこれも仕事が悪いのよ。何もかも仕事のせい。あと遅れている生理のせいもあるわね。多分、明日くらいに来るのよ、お月様が。

 独り身の私は、近所のコンビニで弁当でも買って、家で寂しく食べますよ。せっかくおいしいものでも食べて、今年の嫌なことなんて全部忘れてやろうと思ったのに! 嫌なことが増えちゃったじゃない。

 そんな日に限って、電車って混んでるのよね。

 遊びに行く奴らと、仕事帰りの人が同じ車両に乗るなんて、理不尽だわ。私は疲れているのよ、お退きなさい!

 ……何て、言えればいいんだけど、社会人になって十数年も経つと、いろんな人の立場とか見えてきちゃって、それぞれの抱え込んでいるものが目に付いて、言いたいことも飲み込んじゃうようになるのよ。あーあ、人生ってなに?

 このまま行くと私、とことんネクラな正月を迎えそう。

 ようやく最寄りの駅に到着。こんな日はお酒飲んで寝ちゃうのが一番。早く帰りたい。

 そう思って家路に急ぐんだけれど、そうそう、帰る前にコンビニ寄って帰らなくちゃ。家の冷蔵庫には硬ーいチーズと、だいぶ前の生卵が在るきりで、ろくな食料もない。もちろん、在ったところで今から料理する気にもなれないんだけどね。

 家の近所にあるのは『ローソン』。『行かなくちゃ』って高嶋の弟が言ってる、例のコンビニ。

 最近は毎日のように通っている。別に通いたくて通っている訳じゃないんだけど、どうしたって帰りが遅くなると、ここで食料を買って帰らなくちゃならない。別段、寂しいから寄っている訳じゃないんだからね。

 店に入ると、バイトの子の眠そうな声で迎えられる。そんな声を出されると、こちらの疲れも倍増される気分。若いんだから、もう少しシャキッと出来ないものかしら。それにどうしてこういう時間帯の子って、どこもろくな子がいないの? もう少し若くてかわいらしい子がいれば、お姉さんも通い甲斐があるってものなのに……。

 明日からの三連休に備えて、食料を買い漁って行こう、と思っていたのだけれど、時間帯が悪かったのか、お弁当の類がほとんど残っていない。残念だけれどしょうがないわ。三が日の間、ずーっと家から出ないのもアレだから、食料を買いに散歩がてらここに寄るのも悪くないわね。……散歩がてら、だって私っていつからこんな年寄り臭い言葉、平気で使うようになったのかしら。ショック。

 ああー! 何て下らないことを考えている間に、私の狙っていた『豪華幕の内弁当』が、単身赴任サラリーマン風の男に盗られちゃったじゃない! ガーン! ダブルショックだわ。

 ……『ダブルショック』って言うのも、カナリやばいわね。今時の女子高生は間違っても、ダブルショック、なんて使わなそうだもの。『超ダブルショック!』はどうかしら? ……ダメね。何言ってるのかしら私。

 仕方がないので、明らかに売れ残り風の『焼き豚ポーク弁当』を手に取る。どうでもいいけど、この『焼き豚ポーク弁当』っておかしくない? 焼き豚も、ポークも同じ『豚』何だから、無駄な重複しているわよ。まっ、本当にどうでもいいんだけど。

 店内を当て所もなく彷徨う私。

 年末だと言うのに、忙しくて部屋の掃除も、生活用品の買い出しもしていなかったことに気が付いた。掃除の方は、そのうち、男が来る前の日にでもするとして、家に買い置きがなかったような気がする物を、取り敢えず片っ端から買い物かごに入れて行った。

 歯磨き粉、歯ブラシ、ティッシュにトイレットペーパー。トイレの消臭剤に半透明のゴミ袋。珈琲フィルターとクレンジングクリーム。ああ、雑誌も買っておこう。『クレア』に『オレンジページ』それと『週刊テレビガイド』共に新年特大号。年を取ると、ファッション誌も『クレア』だもんね。昔は私も、『ジュノン』とか『JJ』とか買ってたのに。

 そうそう、忘れちゃいけない、生理ナプキン。それと、見たい番組が重なった時のために、ビデオテープも買っておこう。……そうだ、ビデオ借りてくれば良かった。でもビデオ屋は駅の反対側だし、今の私にはこれから駅前に戻る気力はない。

 ふと、フロアの隅に置かれているゲームのコーナーにも気が行ったが、すでに買い物かごの中は満杯だし、反対側の手には六ロール入りのトイレットペーパーも持っている。……見送りね。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの上に、ドサリとかごを置くと、大量の品物に店員の子が嫌そうな顔をした。まったく、いちいちカンに障るわ! さっさとレジ打てばいいのよ!

 積み上げられた品物が、二人の店員によってドンドンとビニール袋の中へと消えて行き、それに比例してレジが提示する金額も上昇して行く。手際が悪いその様子を、苛立ちながら見ていた私も、金額の提示とともに、少し顔が蒼くなった気がする。

「八千二百六十二円です」

 端的に告げられた金額に、私は大人の余裕を持って財布の中を覗き込む。……やっ、やばい。万札がないわ。五千円札もない。あるのは千円札ばかり。下手をすると、金足りないかも……。

 それでも私は落ち着いた、ように見える仕草で、お札を数えながらカウンターに置いていった。千円札は、ピッタリ八枚で終わりを告げる。私は慌てて小銭入れを開けた。開けてすぐに絶望しなくても済んだけれど……、それでも、これは微妙なラインね……。

 私の焦りに同調して、店員のイライラが伝わって来る気がした。被害妄想かな、とも思ったけれど、チラリと覗いた店員はやはり露骨に迷惑そうな顔をしている。後ろに並んだ学生風のカップルやサラリーマンも、明らかに迷惑そうだった。

 どうしよう、店内は敵だらけだわ。

 これで、もし足りなかったりでもしたら……。

 走って逃げようかとも思った。

 それでも最後まで諦めずに数え続けた小銭は、どうにか四百八十円あった。私はそこから三百円を取り出すと、八千円の上に置いた。

「……八千三百円お預かりします。……三十八円のお返しです」

 私は小銭を受け取ると、すぐ横にあった募金箱の中に入れた。なんか、こうでもしないと、私の誠意が伝わらない気がして。これでも待たせて悪かった、とは思っているのよ。

 カウンターの上に置かれた、パンパンに張った特大のビニール袋二つを右手に、左手にはトイレットペーパーを持って、私は急ぎ足でコンビニを後にした。

 ……あっ、しまった。

 お弁当を温めてもらうの忘れたわ……。

 

 

 部屋に戻るとようやく落ち着いた気分になれた。

 当たり前よね、自分の部屋なんだもの。

 部屋に戻るまでの予定では、お弁当温めて、お風呂湧かして、熱燗の用意して、着替えて、化粧落として、それから居間のコタツに入る予定だったんだけど、帰って来るとそのままコタツに入り込んでしまった。……ああ、私って駄目なオンナ。

 誰もいない部屋が寂しいのは、自然なこと。私は見るつもりもないテレビを付けた。画面の中じゃ、今年何を歌ったかも知らないような演歌歌手が、大物で御座い、と言った風貌で偉そうにしている。他のチャンネルに変えようか、とも思ったけれど、結局そのままにしていた。

 ……コタツが暖かくなると、自然と瞼が重くなる。

 疲れが溜まっているのね。化粧も落とさず、お風呂にも入らず、剰(あまつさ)え、着替えも済ましていない。それなのに私ときたら、ダラダラとコタツの中で夢心地。ああ、ずっとこうしていたいわ。もう仕事もしたくない、満員電車も乗りたくない、謝りたくない、怒りたくない、フラれたくない……。男欲しい、お金欲しい、旅行行きたい、カニ食べたい……。

 はぁー、私の欲望って、こんなものなのね……。

 だあー!

 気合い入れたわよ。さあ、コタツから出るの!

 ほら、モタモタしない! まずはお風呂湧かすの。それから着替え、お弁当と熱燗、冷たいお水で化粧を落とーす!

 

 ほーら、やれば出来るんだから。

 私も案外、捨てたもんじゃないわよ。

 こうしてパジャマに着替えた方が動き易いし、楽じゃない。お弁当も温まったし、熱燗もいい感じ。お風呂は時間が来れば湧くわ。さあ、ゴハンにしましょう。お昼から何も食べてないから、こんなお弁当でも『吉兆』の料理より、おいしく感じるわ。……食べたことないんだけれどね。

 ゴハンを食べ終わって、お酒を戴くと、ようやく気持ちも落ち着いて来た。それにしても、さっきはヤバかったわね。まさかあんなに買い物するとは思わなかったし、財布にあれしかないとも思わなかったわ。明日は休みだから、銀行行ってお金下ろして来なくちゃ。

 ピーピーピー!

 あら、お風呂も湧いたのね。

 それじゃ、一っ風呂浴びて、今年の垢を落としてしまおう。

 嫌なことあったら、お風呂でチャポン、ね。

 シャワーのコックを回す。熱い湯が勢い良く流れ出す。その熱い湯に身を委ねると、まさに夢見心地だわ。あー、私って結構シアワセなオンナね。

 かなり熱いはずの湯を浴びているのに、私は少しづつ、寒気を感じていた。熱湯が身体に浴びせ掛かり、噎(む)せ返るほどの湯気を出している。お風呂場は、白い湯気に満たされている。寒いはずがない。にもかかわらず、私の背中を流れる汗は、熱さからではない。

 何かがおかしい、自分の中で何か、形にならない不安の波が渦巻いている。こう言った時は、ろくでもないことが起こるのよ。今日の帰り際にも、こんな感じがして、そこへ一本の電話。私は残業する羽目になった。その時の感じ。まさに悪夢の予兆。とんでもないことを、私は見落としている。このアタシが? 有り得ないわよ。才気煥発、才色兼備なこのアタシが?

「アシタ、銀行休ミダ……」

 私の抱いていた悪夢の予兆、

 漠然とした不安の種子、

 それはこれだった……。

 


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