ファックスと臍とビオレクール


 連絡手段としてのファックスの存在は、作家である近藤松三郎に取って欠くことの出来ない非常に重要なものであった。

 人付き合いの嫌いな近藤にとって、原稿の督促に来る編集者が、いかに仕事上の義務が有るとは言え、不愉快な存在であったのには違いなく、傍らで原稿を待たれたりするのは、彼にとって苦痛でしかなかった。

 どうしても、間に合わないとなる場合以外には、彼は書き上げた原稿を郵送するのが常であった。だから編集者の間には、近藤松三郎はまず原稿を落とすことはない、と大いに噂になるほどであった。また、その編集者連中の期待を裏切るようなことを、近藤松三郎は未だかつてしたことがなかった。

 それなら、どうして近藤松三郎はファックスなどと言うものを購入したのか?

 それが編集者、青柳達彦にはわからなかった。

「近藤先生の原稿、そろそろ督促に行った方がいいでしょうか?」

「いや、まだ三日もある」

 編集長の里村耕作は、パソコンの画面から顔を上げずにそう言う。

「それに先生、最近ファックスを導入したらしいから、ぎりぎりまで待った方が得策だろう。下手に刺激すると、あの先生を怒らせかねない。まったく、作家には変わり者が多いけど、あの人もなかなかの変わり者だよ」

 編集長は溜息を吐くようにそう続けた。

 青柳は話を聞きながらも、今一つ納得できない顔で俯いた。

 ――どうして近藤先生はファックスを……。

 しかしその疑問は、青柳ばかりではない、幾多の編集人の思うところでもあった。

「心配するな。近藤先生は今までうちの依頼を落としたことはない」

 青柳の俯いた様子を見て、編集長はそう声をかけた。

 しかし、青柳の思いは別のところにあった。

 

「お仕事中に申し訳ありません。パヤパヤ文庫の青柳ですが……」

「ああ、青柳くんか……」

 電話に出た近藤の声は、妙に張りが無い。

「あの先生、原稿の締切が明日に迫ったんですけど、筆の進み具合はいかがでしょうか?」

「ああ、取りに来なさい。そろそろ出来るから……」

「そうですか。それでは午後から伺わせていただきます」

「わかった」

 そう近藤は答えると、素早く受話器を置いた。

 ――何か変だ……。

 青柳は漠然とした不安を、近藤に対して抱いていた。

 

 

 それから三時間後、青柳は近藤の自宅を訪問した。

 青柳はインターホンを押して、中の近藤を呼び出す。暫くして、先程同様の覇気のない近藤の声が、インターホンから聞こえてくる。

「先生、原稿をいただきにまいりました青柳です」

「ああ……」

 インターホンは一方的に切られ、青柳は多少面食らったが、扉を押すと何の反応もなく開かれたので、彼はそのまま部屋に押し入った。近藤が玄関に立っていたが、青柳が来ると、扉を閉め、すぐに部屋に入る。

「先生、原稿の方は……」

 青柳はそう言いながら扉を開けた。

 部屋では近藤松三郎が大の字に横たわっており、とても原稿を書いているようには、青柳には見えなかった。見ようによれば、何か考えている風にも見えるが、原稿の閉め切りが迫った今、このような状態ではとても明日の締め切りには間に合うまい。

「先生、原稿は……」

「そこにある」

 机の上を指差しながら、近藤はそう答えた。

 時折暇そうに、近藤は腹の辺りを掻いたり、さすったりしている。青柳はその仕草を訝しげに横目で見ながら、机の上に乗っているB五サイズの封筒を取り中身を確認する。パヤパヤ文庫側の依頼通り、ミステリー短篇、原稿用紙三〇枚がきっちりと納められている。

「確かに」

 青柳は中身を確認すると、封を止め、持って来ていたアタッシュケースの中に原稿をしまい込んだ。

「・・・・・・・・」

 青柳は近藤を見ている。

 近藤は依然、寝転んだまま、しきりに腹の辺りをさすっている。その仕草が青柳にはとても奇異に映り、なかなか目が離せずにいた。

「あの、どうかしま……」

「君は臍(へそ)があるかね?」

 意を決して質問しようとした青柳の言葉が言い終わらないうちに、近藤はかぶせるように質問を繰り出して来た。この質問に、青柳はだいぶ度肝を抜かれた。

「はぁ?」

「君には臍があるか、と聞いているんだ」

「一応、ありますけど……」

「どれ、見せてみたまえ」

 近藤はそこまで言うと、ようやく体を起こし、青柳と向き合う姿勢をとった。

「見せろと言われましても……」

 青柳が躊躇しているのにもお構いなしで、近藤は青柳のシャツを剥ぎにかかる。驚いた青柳ではあったが、どうやら先生が本気らしい、と思うと強引に脱がされるよりは自分で脱いだ方がましだ、と思ったのか、近藤の手を押し戻し、自分でシャツを脱いでしまう。

「ほう。これが君の臍か」

「ここについているのに、人の臍だったら嫌ですよ」

 近藤はしげしげと臍を見る。何やら青柳は臍の辺りがくすぐったく感じられた。

「どうも、少し出臍(でべそ)のような雰囲気があるが……」

「はあ、確かに幼い頃はでべそと言われ、からかわれましたが」

 なおも注意深く観察する近藤に、青柳は少し気味の悪さを覚えた。

「一つ、この出臍を、私にくれないか?」

「何ですって?」

「私は生まれながら、臍がなかったものでね。昔から質のいい臍を見ると欲しくなってしまうのだ。君の出臍は実に素晴らしい。どうだろうか、私に譲って貰えないか?」

「譲れ、と言われましても……」

 青柳はサッとシャツを羽織ると、臍を隠す。雷様から臍を隠す子供のように。

 ――だいたい、臍がない人間など、いるはずがない……。

 そんな青柳の心を見透かしたように、近藤は自分のシャツをはだけると、見せつけるように腹を突き出した。

 その動作に驚き、青柳は思わず数歩後ずさったが、その差し出された腹の異様さに気付き、今度は顔を腹に近付けてまじまじと腹を眺めた。

 そこには本来あるべき“臍”と呼ばれるものがない。

「なんですか、これはっ!」

 青柳は顔を腹から上げると、近藤の顔を見ながら叫んだ。

 近藤は不気味に笑う。

「なっ。ないだろう、臍が」

 青柳はその異様な光景に、軽い目眩を覚え、少し蹌踉(よろ)めいた。

 ――臍と言うのは、まだ母親の胎内にいる間、母親から栄養を受け取るための管の通っていた痕だ。それが無いなどと言うのは、自分が人間ではない、と宣言していることではないか……。

「僕には、臍がないんだ。君のその、立派な出臍を譲ってくれ。お願いだ。金ならいくらでも払う」

「譲れるはずがないじゃありませんか! どうやったら、臍を他人に譲れるんです。不可能ですよ、そんなことは」

「では、譲れる方法があれば、譲ってくれる、と言うのだな」

「いや、それは……」

 近寄って来る近藤の、常軌を逸した雰囲気に押されるように、じりじりと青柳は後退をしていく。しかし、いくらも進まぬうちに、青柳の背中は部屋の壁にぶつかった。

「くれたまえ、その出臍を私に」

「いやだ、いやだ……」

「その見事な臍を、私の腹に埋め込むのだ」

「そんなことが出来るはずがない……」

 近寄って来る近藤は、青柳には凶悪な怪物のように思え、後ろ手に触れた物を、近付こうとする近藤に投げ付ける。すでに彼の頭の中には、彼が先生と呼ばれる人物であったことなど、微塵も残されていなかった。

 いくつかの物をぶつけられても、近藤は少しも怯むことなく、返って狩りを楽しむ猟師のような、悪質な笑みを洩らしていた。

「やめろ、来るな……」

「恐がる必要はない。臍を貰うだけだ」

 青柳はだいぶ混乱していたが、理性を失ってはいなかった。

 彼はトランクで近藤を押しやると、その隙に部屋を出る。廊下を抜けて玄関へ急ぐ、そこで味わった絶望感は青柳は二度と経験することがないだろう。

 ガチャガチャ……。

「あっ、開かない! なぜだっ!」

「両面シリンダー錠と言うのを知らんのか?」

 追いすがって来た近藤がそう言ったのを、もはや青柳は聞いている余裕などなかった。ひきつった顔には明かな恐怖が、彼を襲っているのがわかった。目は大きく開き、近藤の口元に浮かんだ、悪辣な笑みを見つめていた。

「こいつで、ちょいとほじれば簡単だ」

 近藤は手に柄の長いホォークのような物を持って青柳に迫った。

「あーらぁーわー<<<<

 とにかく青柳は叫んだ。

 声にならない声で。

 それはまるで空から降って来る隕石に対抗できなかった、ティラノザウルスの咆吼のように。

 まあ、そこまで恰好のよいものではないが、彼は絶望の限りを、その叫びで現した。

 そして、ふっと意識を失った。

 

 

 

 青柳が気が付くと、そこはまだ玄関であった。

 ――失神してから、どれくらい経ったのだろう……。

 少し身を起こすと、青柳は思い出したように、自分のシャツを捲り上げ、そこにある臍を見た。

 あった。

 そこには彼が長年連れ添って来た出臍が、きちんと付いていた。

 取り敢えず青柳はほっとすると、次に近藤の姿を探し出した。しかし今、青柳に見えている玄関の廊下にはその姿がない。その奥の部屋からも何の音も聞こえない。それ以外には、左右に付いている扉が、それぞれ浴室とトイレにつながっている。青柳は立ち上がって、トイレの扉へ耳を押しつけた。中から、人の気配が感じられる。

 ――近藤先生はこの中だ……。

 青柳は焦っていた。

 近藤がここから出てくれば、また再びさきほどの繰り返しになるだろう、と。近藤も、彼が失神したのを見て安心してトイレに入ったのであろう。

 ――何とか……。そうだ。何とか、ここに閉じこめられないだろうか……。

 しかし青柳の考えに合うような、扉を塞ぐ家具などは何も廊下には出てなかった。

 今彼の目の前にあるのは、玄関にある自分のものを含めた数足の靴と、手に持っているトランクのみである。部屋に戻って何かを画策するほどの時間が残っているとは、青柳には思えなかった。

 ――早くしなければ……。近藤先生が出てきてしまう……。扉に楔(くさび)を打ち込む、しかしここにはそんなものはない。

 青柳はトイレの扉に近寄って観察をする。扉は外側に開くタイプで、取っ手は一度押し下げてから、外側に引くものだった。青柳は隣の浴室の扉を開け閉めしながら、何か方法はないかと考える。

 青柳は扉の前にトランクを置いた。長さは四十センチほど。さらに青柳は靴を持って来て、その後ろに並べた。爪先の固い革靴だ。これなら大丈夫そうに思えた。しかし、廊下の幅にはまだ少し足りない。ほんの五センチほど。

 青柳は何か栓になるものがないかと、懐を探った。出て来たのは昔の彼女から貰ったジッポだった。青柳はそれを最後に並べた。一センチほど残ったが、ほぼ完璧に廊下の幅を埋め尽くす事が出来た。

 ジャー

 トイレからは水を流す音が聞こえた。

 いよいよだ、と青柳は思った。

 トイレの取っ手が押し下げられ、中の近藤が出て来ようとする。しかし、扉は外側にあるトランク、靴、ジッポを押すだけで、一向に開くことが出来ない。

「ん? なんだ?」

 中から確かに近藤の声が漏れた。

「どうしたんだっ! おい、こら。青柳くんの仕業か!」

 青柳はこれで一安心とすると、ここから抜け出すために玄関の扉を開けようとする。しかし先程同様、扉は開かない。青柳が屈み込んで、鍵の部分を見ると、室内側だと言うのに鍵穴がある。

 青柳は扉の鍵を見付けるために部屋に戻った。

 近藤の机をひっくり返し、部屋の隅々まで探したが、結局鍵は見付からなかった。青柳は仕方なく、最悪の結論を見出した。

 彼は部屋から出ると、トイレの前に戻る。

「先生」

「ん? 青柳くんか。どういうつもりだ。早くここを開けたまえ」

「この玄関の鍵は、先生が持っているのですか?」

「その通りだ。私が持っている。私をここから出さない限り、君はこの家から出ることはできないんだよ」

 青柳はそれだけ聞くと、その場に座り込んだ。扉からは依然として、近藤の必死の呼び掛けが続いている。

 青柳はトランクを開いた。開いたトランクの中から、先程近藤から渡された原稿用紙の入った封筒を取り出すと、再びトランクを閉め、部屋に戻った。

 部屋に入ると青柳は封筒から原稿用紙を取り出し、ファックスの前に立つ。一枚一枚をそれに滑り込ませ、プッシュホンを押した。その番号は、彼の押し慣れた会社の番号だった。

 ――こうしておけば、原稿が締切に遅れる心配はあるまい。後は近藤先生が、トイレから出て来ても、僕に抵抗できないくらい弱るのを待てばいい。食料なら、ここには十分にあるだろうから。

 すっかり安心した青柳は、トイレの向かいにある浴室に入った。そこの洗面所で顔を洗いたかったのだ。トイレから聞こえてくる怒鳴り声をBGMに、彼は顔を洗い出した。洗面所に出ていた、多分近藤のものと思われるビオレクールを使った。

 青柳は顔を洗い終えると、今度は風呂に入りたくなった。幸い浴室は空いている。彼は風呂を沸かすと、服を脱いで湯船に浸かった。しばらく浸かってから、彼は体を洗うために浴槽から出た。シャワーから、少し温めの湯を出してそれを全身に浴びた。

 体を洗うためのタオルは、そこにあるものを使う。青柳とて、人のタオルを使うのは多少嫌だったが、近藤の持ち物だと言うことははっきりしていたし、他にないのだから仕方がない。

 石鹸を付けて青柳は体を洗った。

 ゴシゴシゴシゴシ

 首筋から、肩、腕、そして腹。

 先程、近藤に取られそうになった臍の辺りに近付くと、青柳は自然と力を抜いて優しく愛撫するように洗った。

 ふと、青柳はその手を止める。

 臍の上をなぞる指の感覚に、どこか不可思議なものを彼は感じた。

 恐る恐る、その臍を強く押して見る。

 その時、不意に何かが落ちた。

 ……?

 それが、作り物の“臍”だと言うことに気が付いた時、青柳はひどい眩暈を感じ、タイル張りの床に片膝を付いてしまった。

 ――僕の、僕の臍は……。僕の出臍は、いったいどこへ……。

 その、作り物が取れた場所には、ぽっかりと暗い穴がただ空いているだけだった。

 そこには、何もなかった。

「うわぁー!」

 青柳は絶叫を迸(ほとばし)らせると、緩い湯の降り注ぐ浴室に倒れ込んだ。

 

 

「それにしても、良い臍だ」

 その頃出臍は、トイレの近藤の腹に収まっていた。


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