激昂
「結婚しようか」
と、俺はサラリと言ってのけた。
彼女が驚いて顔を上げた。
そして微笑む。
彼女はグラスを包み込むように持ち、それを左右にユラユラと揺らしている。ときおり波が立ち、グラスの縁(ふち)を舐める。
俺はグラスを拭く手を止めもしない。ただ黙々と仕事を続ける間に、目の前の彼女にそう言った。
「私と?」
「他に、女はいないだろう」
店内を見渡す彼女。だが俺には店内に女が他にいないことなど、先刻承知のことだった。いるのは、ときおり胴間声を張り上げる、うだつの上がらぬオヤジどもだけだ。
「酔ったんじゃない?」
「いや、酒を飲むとだんだん正気になる」
俺はマーロウの粋なセリフを吐くと、チラリと彼女の顔色を窺った。彼女の顔は室内の薄暗い照明に照らされながらも、ほんのりと頬を染めていたように思えた。
「からかってるんでしょ。どうせ」
俺は答えずに、グラスを拭く。すでにグラスはピカピカになり、にぶい輝きを放っている。これ以上をどこを拭くと言うのか。
「いいわよ、私は。ちょうど、今日から結婚が出来るんだから」
「じゃあ明日、婚姻届を取って来る」
「本気?」
「ああ」
「まだ、付き合ってもいないのに」
「知ってる」
「年下は嫌い、何でしょ」
「年下は、じゃない。ガキは嫌いなんだ」
「ガキじゃないの、私は?」
俺は煙草に火を点けた。
濃い煙とともに、言葉を吐き出す。
「『私は子供じゃない!』んだろ?」
俺は彼女の口癖を真似て言った。
彼女の瞳に悲しみの彩が浮かぶ。
そして吹き出すように笑いを上げた。
「やっぱり、私って子供ね」
俺は答えずに煙草を飲んだ。
「一瞬、本気にしちゃった」
「本気、だったんだがな」
「もういいわよ。これでいい?」
彼女は財布から、たぶん今月のこずかいの全部であろう、一万円札を出す。俺はそれをそのまま彼女の方に押し返す。
「今日はおごりだ。誕生日、だろ」
「……ありがと」
彼女は少し悩んだ様子だったが、戻された一万円札をそのまま財布にしまい込んだ。
「もう、来ないかも」
「それがいい」
彼女は寂しそうに笑った。
俺は煙草を揉み消して、再びグラスを磨き始めた。