月曜日の雨
「ねえ、どうする?」
外に面した窓を開け、上空を見上げながら妙子が言った。
どんよりとした鉛色の雲が、広範囲にわたって重くのしかかっていた。とても数時間待てば止む、と言った程度の空模様ではなく、激しい降り方ではないのだが、じっとりと確実に雨は大地を濡らしていた。
妙子は窓から手を差し出す。
その掌(てのひら)に、しとしとと滴がたれる。
「雨の方がいい、って言うだろう」
「何が?」
振り返って妙子が聞いた。
ソファーに腰掛けた直己は竿を仕舞いながら、妙子の方も見ず、黙々と準備を進めている。妙子は振り返って直己を見つめたまま、彼の答えを待った。
「……魚がさ、良く釣れるって」
「そうなの?」
「らしい、よ」
淡々と作業を続ける直己を見ながら、妙子はふーん、と曖昧な答え方をした。妙子は空を見上げ溜息を吐くことこそしなかったが、上機嫌と言うにはほど遠い状態であったのは確かなようだ。
「手伝おう、とは思わないわけだね」
「何を?」
「僕が一人で釣りに行くのか?」
「私が、あなたを伴って釣りに行くのよ」
直己が、ソファーの脇にあるクーラーボックスを見て、これは明らかにそれとわかる溜息を吐いた。
「じゃあ、手伝ってくれてもいいんじゃない?」
「私、釣り初めてだから」
「支度するのに、初めては関係ないだろう!」
直己の声を、外人のように肩を竦めるジェスチャーで躱すと、妙子はさっさと部屋を出て行ってしまった。直己は、放って置いても勝手に車のトランクに乗り込んではくれないクーラーボックスを右肩に、竿や釣り用具を納めたバックを左肩に下げると、その妙子の後を追うように部屋を出た。
妙子は先に車に乗り込んでいた。
直己はトランクを開けるとクーラーボックスと、竿やバックを中に押し込んで助手席に回り込む。
「出して」
シートベルトを締めながら直己は言う。妙子は膨らませたチューインガムを、バフッと出来損ないのおならのような音をさせて割ると、それを合図にするかのように車を発進させた。
二人の行き先は市内にある海岸。まだシーズンにはほど遠いので、混雑しているとは思えなかったが、それでも二人は休日を避け、月曜日に二人合わせて休みを取っていた。
ハンドルを握る妙子の横顔を見ながら、直己が口火を切った。
「いやなものだね」
「なに、私の運転?」
「そうじゃないよ。月曜日の雨」
「……そう?」
「だって、週の始めがいきなり雨だなんて、何だか幸先が悪いような気がするだろう」
「雨の日が嫌いなの?」
「好きな人って、あんましいないんじゃないかな」
「いるわよ。いくらでも」
「じゃあ、妙子は雨が好き?」
「……嫌い」
「ほら、みてみろ」
「でも、好きな人とかはいるわよ」
「例えば?」
「例えば……。そう、傘屋さん」
「傘屋ぁ? 江戸時代の傘張り浪人みたいなこと言うなよ」
「でも傘屋だってあるでしょう」
「ここで重要なのは傘屋があるか、ないかじゃなくて、雨が好きか嫌いかだ。傘屋が必ずしも雨が好きとは限らないじゃないか」
「……そう言われれば、そうかもね」
「おいおい、前を見て運転しろよ」
「大丈夫よ、道ガラガラじゃない」
「ここで問題なのは、道がガラガラであるとか、ないとか……」
「あー! わかったわよ。前を見て運転すれば、いいんでしょ!」
「わかれば、よろしい」
「……もうあんたの顔なんて、見てやらないから」
「何か言ったかい?」
「いーえ! 何でも」
「だがまあ、釣りをするには雨の日がいいと、モノの本には書いてあった。確か、三平もそんなことを言っていた気がする」
「三平? 林家三平?」
「違う。釣りキチ三平だ」
「……あんたいくつ?」
「三平と聞いて、林家三平を思い出す人の方が、確実に古いと僕は思うけどな」
「林家こぶ平の父親じゃない」
「こぶ平の父親だからといって、三平が生きているわけじゃない。三平と言えば、ここは今の状況から鑑(かんが)みても、釣りキチ三平を思い起こすのが、標準的な思考回路の持ち主だと思うよ」
「釣りキチ三平だって、とっくに連載はしてないでしょう。テレビで放送だってしていないわ。死んだも同然じゃない」
「だから僕は、今の状況を鑑みて、と言ったんだ。この場合死んだ、死んでいないは、さほど重要なことでは……」
「ああー! もう、わかったわよ。直己、ちょっと理屈っぽくなってきてるわよ。これ以上話を論理的(ロジック)にすると、スピード上げちゃうから」
「あっ、おい! よせ!」
「一般道で、夢の百キロ代突入ぅ〜」
「バカ! 止めろよ!」
「じゃあ、もうロジックは無しね」
「わかったから!」
「はーい、夢の百キロおしまい」
「まだ八十もあるぞ!」
「もう、直己は気が小さいんだから。……これでいい?」
「そう。これくらいがちょうどいいのさ。……窓、開けていい?」
「なに? 煙草でも吸うの?」
「吸えないの知ってるだろう?」
「じゃあ、なんで」
「理由がなければ、どんな行動も起こしてはならないのかい? 人間と言うのは感情の生き物だ。時には説明の付かない、突拍子もない行動を取ることだってあるさ。全ての行動に説明を付けなきゃならないなら、そのうち人間は何もしなくなってしまうよ」
「……論理的」
「いや、違う。感情論だ」
「……まあ、いいわよ。開けて」
「……ふう、やっぱり涼しくていいね。……と言うか、まだ寒いかもしれないな」
「自分で開けたがったくせに」
「結果がわかっていて行動を起こした訳じゃないから」
「あっ、隣の車の長髪。かっこいい」
「……人の話を聞いているのか」
「えっ? なに?」
「……何でもない。まだかな、海は」
「そろそろよ。三つ目の信号を左折して、十分くらい」
「曲、かけていい?」
「いいわよ。……なに、自分で持って来てたの?」
「これが最高なんだよ。ボリューム上げるよ」
「……どうして、これから釣りに行こうか、って言うのに『二十二の別れ』なの?」
「いや、好きだからさ」
「私のこと?」
「違うよ。曲が」
「……暗いわ、暗すぎる!」
「わかったよ、今度はご機嫌で、ノリノリのやつをかけるからさ」
「……死語の世界だわ」
「これがいいんだ。ボリューム上げるよ」
「……」
「やっぱり、最高だよね」
「……今、何月?」
「ん? 四月」
「どうして今頃、『第九』なのよ!」
「第九に、季節なんか関係ないだろう!」
「もういいわ。あなたの選曲にはついてけない。そこのカッセトにして、その青いやつ」
「これ?」
「そう、それ。……やっぱ、こうでなきゃ」
「誰、これ?」
「パリス・ブルー」
「……」
「ほら、もうそろそろ着くわ」
「ああ、あっちに駐車場あるじゃん。そっちに止めなよ」
「言われなくてもそうします、と。はい、オッケー」
妙子が車を止める。直己が扉を開けて外に出ると雨がしっかりと降っている。直己はパーカーのフードをかぶると、車のトランクへと向かう。妙子は頃合いを見計らってトランクを開けた。
「これ、下ろしちゃうから、先に海岸の方へ下りてて」
直己が両肩に荷物をぶら下げながら言った。妙子はその言葉に頷くと、やはり直己と同じようにフードを目深にかぶって歩き出した。
妙子が海岸に降り立つと、人っ子一人いないだろうとたかを括(くく)っていた彼女の出鼻を思いきり挫(くじ)くように、一組の親子連れが波から少し離れたところで遊んでいた。
もっとも、遊んでいたのはもっぱら子供の方で、水色のレインコートを着た子供は、雨に濡れるのもかまわず、キャッキャッと騒ぎながら、潮の溜まった窪みに足を突っ込んだりしている。母親は傘をさしながら、にこやかに笑みを浮かべその子供の様子を眺めていた。
「何しているの? こんなところでさ」
「……いたわよ、雨が好きな人」
「えっ? なに?」
「ほら、あそこに……」
妙子が子供を指差す。
直己も荷物を持ったまま、子供の姿を捕らえた。
「……楽しそうだね」
「ええ」
「雨って、結構いいものかも」
「本当、そうね」
二人はそう言って笑った。
落ちてくる滴たちも、何だか楽しげに、二人の目には映っていた。