評論――――――創作家としての岡部瑞稀への告発
生稲賢司
岡部瑞稀と言う創作家を論ずるに当たって、まず言及しておかなければならないのは、彼の創作能力についてである。処女長編『極力、避けるべきだ』はハードボイルドの対局に位置し、体裁はそのパロディとも言うべきソフトボイルドであったが、第二作に比べ独りよがりの部分の見え隠れが極端であり、その潔さに好印象を抱きさえしたものだ。しかし暇瑾をあげつらえば枚挙に遑がないのも確かで、中には作品の核とも言うべき部分に決定的なミスがあり、私がそこに言を及ぼした際に著者は耳を塞いだので、どうやら出過ぎた真似はよせと言う意志表示らしく、従ってここでつまびらかにするようなことは極力避けた方が無難なのであろうが、あえて婆心ながら言わせてもらえば、作品の性格が推理小説を目指している限り、読者に推理の余地が与えられて然るべきであり、つまり、そうせざるを得ない何らかの必然性なり、結果を完璧に予測しうる説得力のある材料がないかぎり、事件の核を偶然などに委ねるべきではないし、またそうあってはならない筈である。それとも著者は読者全員に「これは運命の悪戯ですので」と説いてふせる根気があるのだろうか。
評論家がミステリを評する際、常套句になっている「人間を描く」と言う課題はクリアしていると思われるので、私があらためて口を出す領域ではない。だが所々、実名が用いられているところから察するに、性格もそれなりに似通っているのだろうから、描くのに苦労はなかっただろう。だが私に言わせれば、まったくの創作人物で印象に残っているのは、実は一人か二人しかいないのだ。登場人物の性格が終始安定しているのは間違いないにしても、エンターテイメントたらんとするならば不器用でも強烈な印象のレッド・ヘリングでもちらつかせなければ、外連味に欠けるのは避けられないし、また、犯人に意外性のないのもそれ故の必然でさえあり、もし読者がそこへ思いをいたらせたとしたら、はなはだしい興醒めを嘗めさせる結果になることは必至なのである。蓋し、この手の作品には驚嘆すべき大トリックがあるわけでもなく、人間関係や犯罪に到る動機やらへ興味の対象が絞られていくものだろうから、前述の事柄を著者が意図してプロットから除外したのかどうかは、私の想像を超えてしまうので、敢えて考慮はしなかったが――。
文体の話へ移ろう。二作共に共通して言えるのは、軽快なテンポで軽妙な会話のやり取りがされ、ご都合主義の感をまぬがれぬ、いささか強引な展開を救けているのだが、はっきり言えば、一般の読者にはやや疲れを与える種の文体であると、私は思うのだ。
主人公の岡部瑞稀に読者が興味、あるいは好感を抱いていれば良いのだが、そうでもない読者には、全編に亘り執拗に繰り出される彼の独白に、サテいったいどう言う反応を顕わすのか、なかなか興味深いものがある。
すると私の貧弱な頭脳からでも、前述の解答が導き出されるのに、たいした時間は必要ではなかった。不快の念ほど極端ではなくとも、全編あのテンションで通されては、著者の日記帳を読まされているような気分に陥る読者が出て来るだろうことは想像に難くない。
さらに、『極力〜』は一人称で語られているため、視点の問題はないのかと言えば、これがそうでもない。詳しくは思い出せないが、例えば、「彼は憤慨して」と言う一文があったとしよう。一人称である限り語り部の主観が入るのはやむを得ないことではあるが、ある程度読書に慣れた人間が読めば、この一文は「彼は憤慨したように」が正しいことに気付く筈だ。なぜなら「彼」が憤慨しているかどうかは「彼」にしかわからないことであり、従っていくら一人称であるとはいえ「彼が憤慨して」いるとは断言できないからだ。
実は、プロの小説家の文章を読んでいても、このミスを犯している文章は少なくない(こういうことを書くと、あとで述べる文字使いの件同様、岡部瑞稀に逃げ道を与える結果になるのだろうが)。『極力〜』を校閲すれば、恐らくは同様の現象が見受けられるに違いないだろう。第二長編『レディ〜』は三人称多視点なので、読み書き共に不慣れなこともあろうが、職業作家を目指しているのなら、ある程度の勉強をしてから執筆に取りかかるべきであり、また、それがほかならぬ読者への最低限の礼儀であることくらいは自覚しても罰はあたらぬと思うのだ。まあ、「僕は一人称でしか書きません」とでも宣言すれば、それに呼応する(著者にとって)よい読者にも恵まれもするだろうから、そう言うことならば、これ以上、愚見を述べるようなことは控えさせて戴く。
ところで『レディ〜』では、その大部分にサスペンス色が濃厚に漂っているが、後半、女性ディーラーと準主役が対決する辺りなどは、どう考えても前半の緊張感を殺いでいるとしか思えない。二人の勝負には対して鬼気迫るものがあった訳ではないし、あの雰囲気に興味のない読者には退屈なだけの描写が延々と続いて、だらけた終焉になってしまったのは、前半の出来を思えば、やはり残念と言わねばならない。
尻窄みの破綻ほど見苦しく、読後感の悪いものはないのだ。『レディ〜』は都会的なサスペンスへの否定的命題でもなければ、ギャンブル小説を標榜していたわけでもない。結局、ナニがドウなったのかは著者にしか判らない小説なのか、私などは後半を読んでいて「?」が浮かばないページはなかった。
かといって鵺型と評されるほどの高尚な暗喩が含まれている作品とも思えず、私はいまだにどういう全体評価を下したらよいのか、戸惑っていると言うのが本音ではあるのだが。
どうやら今のところ『レディ〜』の破綻は、著者の意向とは無縁のところで、読者側のみに生ずる奇怪な現象であると捕らえるしかないようだ。
なにやら作品を腐すような発言が多いようだが、著者の過去の二作品が、私の頭に様々な疑問を湧かせたのは確かであり、それにより、この評論を書く気を起こさせてくれたことには感謝すべきであろう(と言うのも、あるいは皮肉と取られてしまうだろうか)。尤も、私が著者の創作家としての能力に疑問を感じ始めたのは、別の契機があってのことなのだが。
正確に言えば、私のうちに湧いた疑問は、小説に対する著者の態度と言うことになろうか。
自画自賛、大いに結構だが、そのために盲目になり、欠点を客観的に見られず、結果、自作を愛するが故にその傷をも許容してしまうという、ありえべからざる悲劇を、著者は生んでしまった(以下、これをOの悲劇と呼ぶ)。
Oの悲劇には、先に挙げた「運命の悪戯」や、小説作法の不勉強も含まれる。そこには一貫して著者の「逃げ」の姿勢が窺え、私は腹が立つよりも先に、少々の胸焼けと嘔吐感を催した。
また、文字使いについても以前に少々触れたのだが、ユーメイな作家などが判りやすい文字や文体を用いるのは、飽くまで彼独自の雰囲気を出すためであり、あるいは多くの人々に読んで貰うためであり、また、作品の性質による場合も多いであろう。
だが、著者はその理由を安直に流用して「逃げ」てはいけないのだ。彼らがやさしい文字や文章を使うのは、難しいものを「使えない」からではなく、敢えて「使わない」からだと言うことを、知らなかったとは言わせない。
誤解をまねきかねないので注釈がわりに付けておくが、私は凝った文字を使えというのでは、断じてない。私が文字使いや文体を捻くるのは、視覚的にその方が美しかったり、読んだ時の調子を鑑みてのことであるので、畢竟、著者が一番良いと思われる文字を場合(作品)によって使い分ければいいのだ(あるいは、その必要さえない)。
つまり私が糾弾したいのは著者の「逃げ」の姿勢であり、文字使いそのものではないことをご理解戴けたであろうか。
推理小説とは狭義の意味において、読者を欺くために書かれる小説であり、またいっぽう、種明かしの段では読者を欺いてはならないと言う厳然たる約束があるのだ。
従って、『レディ〜』はともかく、『極力〜』の方は、取り敢えずその形態を採っている以上、偶然の入り込む余地など最小限に留めるべきだ。でなければ、結末でのカタルシスの半減、著者への懐疑などは避けられないことであり、それはとりもなおさず、読者への裏切り行為、ひいては推理小説への冒涜とさえ見なされうるに十分な要素となるのだから。
またこういった岡部瑞稀の推理小説への姿勢は、平成の本格ミステリの旗手たちによる競作アンソロジー『奇想の復活』に収められている、綾辻行人の短編『どんどん橋、落ちた』が、彼の趣味にそぐわなかったと言う事実が、端的に証明しているのではないだろうか。
これでもかとそいこかしこにばら撒かれる手がかりの嵐。文句の付けようがない伏線の数々(少なくても私はそう思う)。それでもあの解決を「アンフェアだ」と言い切ってしまうのは、推理小説を愉しむ素養がないと言ってしまって差し支えあるまい。私が岡部瑞稀と言う創作家に推理モノを書かせるには何か決定的なものが欠けているのではないかと言う疑問を抱いた一端は、ここにあると言ってもいい。
つまり〈遊び心〉の欠落である。――と言うところで、またぞろOの悲劇(から発生する二次的なOの悲劇)が発動されると予想するので、ここで注釈をば。ここで言う〈遊び心〉とは、岡部作品に見られる〈おフザケ〉を指すのでは、決してない――。
フェアプレイ漲る手がかり、巧妙にして大胆な伏線、隙のない論理性による解決、以上の全てを認識できていたのなら、犯人が動物だろうと赤ん坊だろうと宇宙人だろうと登場人物に名のない人物だろうと、伏線などの数に正比例するカタルシスを感じてしかるべきだと思うのだ。それを「アンフェアだ」と言うのなら「アンフェア」と言う単語を、辞書で調べてみるがいい。『どんどん橋』を腐した言葉とは正反対の意味が載っている筈だ。
あの作品を綾辻行人一流の〈遊び心〉と解し得ないのは、その人物に〈遊び心〉がないことを示す。そしてそれは本格推理小説、あるいは本格ミステリを著す上で必要不可欠である要素であるとも言えるのである。
結局これも、地に足のついているものにだけ安心感を見出す傾向のある人物は、やはり本格ミステリには向いていないという証左になるだろう。
私はなにも啓蒙書を書こうと言う気はない。ノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則など、推理小説を書く、あるいは読む際、今さら何の役にも立ちはしないのだ。推理小説は常に自己破壊を繰り返す文学形態であり、それ故に発展、継続し得たものなのである。私がここで岡部作品をいくら腐そうが、本人にその気が起こらなければ、所詮は狂人の繰り言としか成り得ないのだ。
著者との推理談義などにも、私はもはや興味がない。
書物の趣味も、それを理解する能力も、理解しようと努める気持ちも、目指している方向も、うちに秘めている志も、それを実現させる能力も違うのだ。
だからこれまで書いて来た事柄も、敢えて告発と言う形態を採ったのであり、まったく私の独白と受け取って戴いて結構である。
ただ表題にあるように岡部瑞稀を作家、或いは小説家とはせず、敢えて創作家としたところに、この評論の意図を感じて戴けることを、私は願って止まない。
最後に、この評論に異論、反論を唱える意志が岡部瑞稀にあるのなら、こちらにはそれを素直に受け止める余地があることを明言しておく。根底には老婆心によるものが流れてはいるのだが、表面において、ある意味では暴言の羅列とも言える無礼に付き合って戴いたことへの、最低限の礼儀だと心得るからである。
1995/8