五十七億六千万年後の未来
著:岡部・MG・導彦
世界に存在するのは闇。
漆黒に濡れた深淵は、如何なる者の存在すら認めない。
闇が、その全てである。
例えば人間が、その世界にいるとしよう。
周囲は闇。闇とは無である。太陽が隠れて訪れる夜とは異なる。たとえ微かな光すら、その存在を認められない。人は自らの身体、腕、足、そのいずれをも視認することが叶わない。況や、周囲をや。自らの存在を確認することすら難しい。周囲の闇と、自らの身体と。その境界が見えないのだ。通常のレベルでは肉体は外界と接触している。しかしナノレベルの世界になれば、周囲と自身を分ける境界は存在しない。それならば闇こそが、自らの身体であり、存在はすなわち無である。
『思考する自我は存在する』
そんな世迷い事が、圧倒的なまでの無の中で、果たして通用するだろうか?
自我とは外界との接触により発露する、第二生誕のことである。ならば接触するべく存在なくして、それを確立することが出来るだろうか。答えは見えている。全ては闇に呑み込まれ、自我も、身体も、全て消えるのだ。
そうして、闇は増長する。
膨れ上がった闇に質量などが存在するのだろうか? 闇とは無である。無であるものに、そのものの量が存在するとは思えない。ならば増長する闇とは、矛盾である。それでも闇は殊更に浸食する。
闇の自己同一性とは何か?
それは光が有する生産性とは明らかに異なる、非生産性。輝きに対する漆黒。燃焼に対する沈静。肯定に対する反肯定。否、それらはただ、有と無を背反する言葉に並べ替えたに過ぎない。闇の自己同一性とは一切の拒絶、あるいは融合。無とは存在亡き者の全て。遍くすべての生物が辿ったであろう、死。それらが淘汰されるべきもの、それが闇であり、無である。存在したものは、全て無に帰る。ならば、存在しなかった者も、生まれる以前の存在は無である。無とは有するためにあり、有とは無に帰るための存在である。
全てのものは、無より出でて無へと帰るのだ。
世界は、無より出でた。ならば人の子が神と呼ばしめる絶対者は、無である。絶対的な無、それこそが神の正体だ。有するためには、無が必要不可欠である以上、その存在は絶対だ。存在を現せない無と言うものが、存在を生み出す唯一の事象である。
無こそ、生物の最終形態である。
「それが、新山教授のお話かい?」
増山は、少し伸びた顎髭を指でしごきながら、話の後を引き継いだ。
「なに? 無こそが、生への存在である、か。何か仏教めいた話じゃないか。無数は空空であって、空空は空を生む。空は化有の根であって、化有は有の根元である。まんま、仏教思想だよ。教授、どっかの宗教にでも入ったんじゃないか?」
増山の揶揄するような言葉に、だが話をした野田聡子は到って真面目に応じる。
「宗教のことはわからないケド、新山はそんな話をしてたわよ。なんか、いきなりされたからほとんど質問とか出来なかったわ。でも考えてみると、なかなか面白い話をしてるなあ、って思って覚えていたの」
野田は増山の飲んだコーヒーの空き缶を拾うと、自分の缶と一緒にくずかごへ捨てた。増山は納得がいかない様子で、しきりと顎のラインをさすっている。増山が思考を繰り返す時にする癖なのだ。
「ここんとこ学校に来ないと思っていたら、そんな話にのめり込んでいたのか。アイツ、考え出すとなかなか出られなくなるタイプだからなあ」
「そうそう。根詰めちゃうタイプじゃない、彼って。だからもう少し時間があったら、話をしたかったんだけど、新山ったらそれだけ言うとスーっとどっかに行っちゃうんだもん。私もいきなりそんな話をされて、理解しづらかったから、声をかけそびれちゃったの」
「そりゃあなあ。でもいかにも教授らしいお話ではあるな」
「ホント。何を考えてるんでしょ」
学校からの帰り道である。校内でも無類の才媛と呼ばれる野田と、学校創立以来の秀才と呼ばれる増山のコンビには近寄りがたい空気が渦巻いていた。平素より話す内容がこれだから、皆も声を掛けづらいのであろう。そんな二人が付き合うことになったとしても、それは必然的なことであった。
「……教授の考える話は面白いからなあ。あんまし学校とか休まないで欲しいんだけど。塾には行ってるの?」
「あの新山が塾に行く訳ないじゃない。だいたい偏差値にだって興味がないって顔だわ。頭は良いはずなのに、模試とか受ける気がないみたいだし」
「そうだよなあ。あの頭脳をフル動員させて勉強やられたら、俺だって敵わないかもしれないしなあ」
「そうそう。万年一位の秀才も、一目置く男だもの」
増山は、ぐるりと周囲を見渡すとに意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
「そう言えば、今日は原田くんの姿が見えないね」
「ちょっと、ヤダ止めてよ。噂をすれば、なんてことになったらどうするの」
「歓迎されないのかい? あれでも君を想う情熱は立派なものだよ」
「そう言う言葉。アイツを怒らせるから止めた方がいいわよ。怒らせたって恐くはないけど、ギャーギャー口喧しいんだから。良い迷惑だわ」
近くを通る生徒たちの会話とは、明らかに一線を画した様子の二人だったが、それでも彼らが普通の高校生であることには変わりない。野田に横恋慕する原田の名前は、二人のそれまでの会話の流れからは妙に浮いてしまうが、それこそが本来の学生の姿に近いと言えないこともない。
「――でもなんで教授は急にそんな話をし始めたのかなあ」
「さあ、受験に参っている普通の高校三年生には思えないし。きっと増山が言う通り、仏教関係の思想書の類を読んで、かぶれちゃったんじゃないの?」
「そんな単純な理由とも思えないけど。そうだ。これから教授のバイト先にまで足を伸ばしてみないか? 会って直に話をしたい気分だ」
「なんで? 今日は図書館へ行って『ゲーデル論理学』の話をするんじゃなかったの?」
「図書館に行かなくても『ゲーデル論理学』の話は出来るさ。それよりも教授の新しい思想を拝聴する方が、ボクには興味深いね」
新山哲平と言う男に、似合わないものを幾つか上げよ、と言われれば野田は真っ先にクレープと言う単語を思い浮かべるだろう。あの鬱々と積もる独特の気配。近くにいるだけで、暗黒の闇に落とされそうになる恐怖心。終始無言を語る彼の口は、おおよそ今時の高校生とは思えない様相を醸し出している。そして時々口を吐いて漏れる言葉と言えば、やれ『存在と時間』だ、イリアだ、先駆けする死だ、とハイデガーじみており、とてもじゃないがその傍らに半刻も居られまい。
そうした男がバイトと称して働いている先が「街のクレープ屋さん『シャルロッテ』」なる店だとしたら、通常人はどう考えるのだろうか。野田は良くそのことを考えている。これほど理不尽な組み合わせもあるまい。一方でナチス思想の残滓とも言えるハイデガーを信奉する若者、そして一方は年若い婦女子に人気の、お洒落な洋菓子。不釣り合いと言えばこれほど不釣り合いな組み合わせを、たとえ意図したところで作り出せる物でもあるまい。野田はどう考えても、この組み合わせを容認することが出来ないでいる。
だから野田は、この新山がクレープ屋の店先で、女子高生相手にクレープを作っている姿を見ると、滑稽を通り越し薄ら寒いものすら感じてしまうのである。本来、存在してはならないもの。すべきでないもの。だがそれに気付かずに、それをやり過ごしてしまう他の人間は、或いは幸せなのかも知れない。
その幸せな人々の行列を後目に、新山哲平は今日も黙々とクレープを焼いていた。
野田と増山がその行列の最後尾に並んだことに、新山が気付いた様子はない。野田は以前に聞いた覚えがあるのだが、どうやら新山はクレープを焼く際に、究極の円を求めながら焼いているのだそうだ。円周率の最後の一滴まで出尽くすような、真に丸い円を求めて、新山は卵を広げているらしい。だから彼はバイト中に他のことに気を配ることをしない。ひたすらに、その円の丸さを極めようと粉骨砕身しているようだ。仕事を見ればわかるのだが、接客は他のバイトがやっている。その美しい円が生み出すクレープは、見た目も美しく店長は新山の態度に異を唱えないらしい。
野田と増山が来店していることになど、委細構わず新山は黙々とクレープを焼き続けている。究極を目指そうとする新山の卵焼きは、本人の意思とは裏腹に、中にクリームを入れられ丸められて客に手渡されていく。それでも新山は、クレープを焼く手を止めない。
「おい、教授!」
増山がそう声をかけた。新山を教授と呼ぶのは、世界でもたぶん増山唯一人だろう。あだ名と言うほど一般化してはいないが、増山はその呼び名が気に入っているようだし、新山は特別文句を言う素振りも見せない。
増山の声が届いたのか、僅かに新山の視線が前方へと向けられた。すだれのように垂れた前髪から覗く新山の視線は、剣先の鋭いナイフのようで抑制された狂気のようなものが含まれていた。名を呼ぶ度に、そんな視線を送られるのだから、新山に友人が出来ないのも仕方がないと、野田は思っている。
「バイト終わるの何時?」
増山のそう訊ねる声に、新山は面倒そうに六時と答えた。実に味気ない返答ではあったが、返事をしないことも多い新山のことだから、突然の来訪にもさほどの不機嫌は生じていないのかも知れない。高校で唯一、仲の良い増山が来てもこの調子だから、他の同級生が声をかけたところで、これ以上の返答は望めないだろう。もっとも、同級生がクレープを焼いている新山を見て、声を掛けようなどと思うとは野田には考えられない。
ようやくクレープを買い終わると、増山と野田は並んで近くにあるベンチに腰掛けた。買ったばかりのクレープはまだ熱い。増山はチョコレートがたっぷり入った『チョコスクランブル』。野田が手にしているのは、バナナやイチゴを入れた『ハワイアンスペシャル』だった。バナナもイチゴも、まったくハワイと関係がないと、野田はこのクレープを食べる度に思うのだが、その味は絶品に尽きる。それ以上の文句が口を吐くこともないので、野田は論理的な矛盾を指摘することなく、クレープを食べることにしている。
「六時上がりってことは、今日は昼間から入っていた、ってことかな」
「なにが?」
「いや、バイトだよ」
「ああ、そうよね。夕方から働いて、六時で終わりじゃ仕事した内に入らないものね。それじゃ新山の今日の欠席は、計画的な犯行と言える訳ね」
「犯行ってことはないけど。まあ、ある程度計画的だったんだろうなあ」
「高校三年で、進学も決まっているなら、そう言う行動も取れるんだろうけど」
「アイツの進路が決まったなんて話は聞かないよ」
「でも決まってそう。ってゆーか、勝手に決めてそう。何か決めていたとしても、別に他人には話さないでしょ、あの人」
「そりゃあ言えてる。でも俺だってまだ、決めていないんだけどなあ」
「どうせ、東大とか京大でしょ。この前の模試はどうだったの?」
「まあ、どちらも合格圏内だけどさ。他にもまだ道はあると思うし」
「ちょっと悩んでみたりしてるの? 止めなよ、似合わない」
「留学の話とかもあるし、奨学金を総なめ、とかやってみたい気もチラホラと」
「どれにしろ、エリート街道まっしぐらよね。ちょっとつまらない気もするけど」
「だろ? だから考えているんだよ。たぶん、教授もそこらへんのこと、いろいろ考えてるんじゃないかなあ」
増山は口の周りにチョコの汚れを付けて、勝手な解釈に更けていた。だが野田は、新山の思考がそんな当たり前の悩みの末に導き出されたものだとは思えなかった。
「どちらにしろ、大変よね。三年生は」
「いい気なもんだよ。一年なんてさ」
「あら、時は平等に与えられているんじゃないの? あなたが一年生を経験せずに三年になっていたとは知らなかったわ」
「……飛び級があったんだよ、去年までね」
「ホント? 今年まで残っていたら、あなたと一緒に進路の相談が出来たのに。残念だわ」
「いい性格してるぜ」
「よく言われる」
三年と一年の異色カップルが、それなりに楽しい時間を過ごしながらクレープを食べている景色は、少なくともこの一帯を占める景観を崩すものではない。それがたとえ、どんな思想を持った者が焼いたクレープと言えど、そこは確かに恋人たちが集う街の一角で、そこを彩るのは、年若い男女に他ならなかった。
だが野田の目は、その幅広い道路の脇に、見慣れぬ風貌の男を見留めた。
つばの広い帽子をかぶっている。だが最近流行っているテンガロンハットとは違う。丸みを帯びたつばは円形である。頭部を覆う部分は深い感じで、男の目元までをすっぽりと隠してしまっていた。服装もやはり窺えない。男は上に羽織ったコート、いやコートと呼ぶよりはマントと言う方が相応しいような衣服で、身体全体を包み隠していた。様相が窺えないことに、野田は不快感を覚えていたのだろうか? いや、その男はやはり異質な感じがした。そしてそれに誰も気付かないよう、自然に振る舞っているような男の存在に、底知れぬ気味の悪さを感じるのだ。それは野田が常に感じている、新山とクレープのアンバランスさと同質のものであった。
「どうかした?」
「何かあの人、変じゃない?」
「新山?」
「違う。アレ」
そう言って、野田は顎でその異様な風体の男を差した。
増山の視線がゆっくりと伸び、例の不審な男の姿を見据えるまで、野田はじっとその両目の動きを見つめていた。しかし伸びた増山の視線は、少し周囲を巡ると、次第に困惑の色を露わにする。
「いたでしょ、変な帽子かぶった男」
「……で、いたとして、その男がどうしたって言うんだ」
「どうしたって、何か怪しい感じじゃない」
「残念だけど、君の言う男の姿を、俺は見つけられないな」
野田はそれまで、視線が集中することで相手に気取られるのを恐れ、増山の目だけを見ていたのだったが、今度は正面切って疑惑の男の姿を探し求めた。だがしかし、先ほどまで確かな存在感を示していた、不自然なほどに自然な男の姿は、すでにこの通りからは消えていた。野田は目を皿のようにして、周囲三百六十度を隈無く見渡したが、男の姿はまるで霧か霞のように、忽然と消えていたのだ。
「そんな驚いた顔をしなくてもいいだろう。その男に用事があってどこかへ行ったとしても、それを責める訳にはいかないだろう? 全てが君の望むまま、って訳じゃないんだし」
「それは、そうだけど……。でもさっきまであそこの端に立っていたの。ホントよ、変につばの広い帽子をかぶって、マントを付けて何かこう……。ああ、うまく言えないケド、とにかく不自然なのに、自然に振る舞っているような男だったの」
「不自然なのに自然、ねえ。無矛盾を起こしているなあ。まあいいけど」
野田は変な男を捜すのを諦め、再びクレープ屋へと視線を戻した。依然として、新山はクレープ作りに余念が無い。あれほど真摯に何かに打ち込んでいる姿は、たとえそれが新山であろうと、作っているのがクレープと言えど、それなりに立派に見えるものだとも思える。相変わらず、その不気味さと言うのは消えはしないのだが。だが新山の抱える不気味さと言うのは、やはり先ほどの変な男のそれとははっきりと違っている。クレープを焼く新山を見れば、少なくても彼を知っている人なら皆、気味の悪さを感じることだろう。その確立はかなり高い。しかし先ほどの男は、その風貌からして不気味であった。それでいて日常的に街角に佇み、周囲に溶け込んでしまっていた。辺りを歩く市民が、その奇異な姿を見ても、気にしていた様子はない。或いは、その不気味さは野田にのみ訪れた感覚だったのだろうか? 野田はあの不自然な男を思い返し、目の前の新山の姿を比較していた。不自然さと言うのなら、あの男の方が数段上だ。しかし、両者とも周囲の人間には何の感慨も抱かせないらしい。これはただの感覚の違いなのだろうか?
「そう言えば、文化祭の方はどうなってる。君は各部活の申請を受理したかい? 特に文化系で体育館を使いたがるところは、早めに提出させて場所を確保しておかないと、後で面倒な話になるから気を付けた方がいいよ。毎年、体育館は場所取りで揉めるんだ」
増山は、桂林高校の生徒会長を務めていた。当然と言えば当然のような振り分けをされているのだが、野田自身も一年生ながら副生徒会長を務めている。三年の増山は、すでに引退して生徒会長は二年生の生徒が務めているのだが、その雑務に関する経験は副会長を務める野田に取っても、良き示唆を含んでおり無視できないものであった。実際、野田にとっては始めての文化祭だから、勝手が分からず右往左往としているのだ。
「わかってるわ。会長もそれなりに私の仕事を手伝ってはくれているし、あんまり心配はしていないけど。……体育館ね、わかったわ。文化系の部活には申請の催促をしておく。確かに、各部活で使いたい場所とかを勝手気ままに申請して来るから、ダブルブッキングしないように、いろいろと調整は必要よね」
「確かに調整である程度のまとめは出来るんだけど、例えば一つの部活が先に舞台の使用権を確保していたとする。でも他の二つの部活が、半分ずつ使いたがっている。順番としては、先に舞台全面を確保した方が優先権を持っているけど、もし舞台を分けて使わせてあげられれば、二つの部活がそこで展示やら披露などを出来る訳だ。生徒会は、そこらへんも細かにサポートしてあげないと」
「それじゃ、そう言う場合はどうするのよ?」
「だいたい、舞台を全面使いたがるのは演劇部くらいなものさ。後は自分たちでバンド組んでいる奴らとかさ。舞台を分けて使いたい、ってのは展示だよな。芸術系だけど、美術部を使えないモグリのサークルだ。だから舞台の使用は、時間を決めて行う。演劇にしろ、バンドにしろ、一日中舞台を使うワケじゃないだろう? だからタイムスケジュールを作って、何時から何時は演劇、何時から何時は演奏、って決めるんだ。展示のために舞台を使うのはもったいないから、早めに特別室の使用許可を取らせる。何も他の部活が使用権を持っている場所じゃなくても、会議室とか視聴覚室とか開いている部屋はあるんだから、申請さえ先に出せば使えるんだ」
「成る程ねえ。参考になった。さすが、元生徒会長の言葉はためになるわね」
「これで少しは俺の株も上がった?」
「まあ少しなら。それよりも新山の仕事、終わったみたいよ」
視線をクレープ屋に向けると、仕事を終えたらしい新山が、店の制服を脱いで私服で出て来たところだった。増山は立ち上がってこっちだ、と新山に手を振る。チラリと声のする方に振り返った新山は、何の感情の起伏も現さない、例の鉄面皮のような表情のまま、野田の座るベンチの方へと歩み寄って来る。
「早かったな、今日は昼間から働いていたのか?」
増山の声に耳を貸す様子もなく、新山はベンチの端にまで歩み寄り、野田の隣にもう一人ほど腰掛けられるくらいのスペースを空けて腰を下ろした。
「――何か、用か?」
まるで増山の方を向く気配すら感じさせずに、新山は前面を向いたままぼそりと呟いた。通常、こんな態度をとられれば誰だって相手の機嫌が悪いと思わずにはいられないのだが、相手が新山である場合は話が違って来る。これで案外、新山の機嫌は悪くないと言うことを、野田はその短い付き合いで習得していた。機嫌の悪い時の新山は、他人と接触しようとしない。バイトをするなどもってのほかで、たいていは家に閉じこもったまま、誰とも話をしないで何日も過ごしてしまう。だから少なくても話をする素振りを見せていると言うことは、さほど機嫌が悪い訳ではない。いや、多少なりとも機嫌がいいと言ってもよいのではないだろうか。
「特に用ってほどの話でもないわ。この間の話を増山にしたら、変に面白がってね。それで話が聞きたい、とか言ってここまで押し掛けて来たってワケ」
「この間の話?」
「そう。アンタは忘れているかもしれないけど。前に公園で会った時、無の存在が……、何だっけ生物の最終形態? だっけ? そんな話よ。したでしょ、私に。それとも独り言の延長だったから覚えてない?」
「イヤ、確かに、そんな話をしたかもしれない……」
「無から出でて、無へと帰する、ってのは仏教思想だろ?」少し離れている増山が、身を乗り出して新山に話しかける。「そして新山の話だと、生物は最終的に『無』へと進化を遂げるってことになる。無は空空ってことだろ? 空空は空を生み。空は化有の……」
「絶対的な無とは存在しないものとして存在しているんだ。だから無は空空を生まない。無は無でしかなく、そこには何もない」
「でも教授は無が有するためにある、と言ったじゃないか。無が真に無でしかないのなら、そこからは決して何物も生まれることはないだろう? 存在しないものとして存在している、と言うのは論理矛盾だ。もし無が、決して何物をも生み出さないのなら、世界に無は存在しないじゃないか。この世界が存在していることが、逆に無が存在しないことの証明になる」
「いや、無は明らかに存在している。そしてそれは日夜膨張を繰り返しているんだ。有するものが進化を遂げる時代は終焉を迎える。末法はすでに訪れているんだ」
「ホラ、やっぱり仏教だ。末法と言うのは確か、釈迦入滅の期限から遡れば永承七年(一〇五二年)から始まっているんだろ? 末法と言えば自然災害が多発して、世の中は乱れ、仏法は消滅する、ってわけだったよな。確かに末法は訪れているよ、時代的にも内容的にもそれは符合している。ノストラダムスの予言よりも、曖昧としているから、それが当たったと言っても間違いじゃないだろ。でもそれと無と、いや無の拡大かな? それがどう関係しているんだ。無の証明も明かではないのに、それは膨張を進めているのか?」
増山の意見を、野田はもっともな話だと聞いていた。新山の話は、正直なところ理解の範疇を越えている。確かに内容は深淵であり、面白いのだが、如何せん現実離れの過ぎる話であった。特に増山のような現実主義的な理解者の傍らで、その話を聞いていると、そうした感はなおさら強くなっていた。
「仏教的な解釈で行けば、教授の好きなハイデガーだって危ういじゃないか? まあ、これは無とは関係ないだろうけど」
増山は話題を転換した。それが意図的なものであるか否かは、野田にもわからなかったが、もし新山の話を総合的に解釈しようとするのなら、彼の信奉するハイデガーの論理と合わせて考えた方が、或いは理解しやすいのかも知れない。
「……別にハイデガーの提唱する先駆けする死は、仏教思想と対峙するものではない。究極的な死を命題とし、そこをターニングポイントとして現実に立ち戻ることこそ、先駆けする死の本来的な姿だ。中道を見出し、涅槃へと到る道とする仏教の思想とは、とても近いものと言えるだろう。中道とは、快楽に耽溺するのではなく、そして苦行に明け暮れるのでもない。この苦楽の二辺から離れたところに中道はあるんだ。日常的な生活から、非日常的な死を巡るハイデガーの思想は、その中道を目指すものとも取れる」
「ほう。そうするとハイデガーはキリスト教徒ではなく、仏教徒であったと言うのか?」
「実際の信心は関係ない。ハイデガーの思想が、キリスト的なものより、仏教的なものに近かったと言うだけだ。それを知らなかったとしても、ハイデガーを責める理由にはならないだろう」
「成る程ね。それではハイデガーも無を求めていた、と考えてもいいのか?」
「無に帰することを意識すること、それこそが生きると言うことだ。ハイデガーはそう説いている。それは無がどういう存在であるか、十分に認識していたのだと、俺は思っているが」
「だが結局の所、教授の言う『存在しない存在としての無』ってのは理解できないよ。教授の言う無が、先に言った仏教的なものでないのなら、それを理解するのは困難だ。だって何物をも生産しないなら、無が膨張するはずもないし、ひいては存在もしないということじゃないのか?」
新山は、話をするのが面倒なのではないかと、他人に心配させるような話し方をする。イヤなら話をするな、と野田あたりは思うのだが、どうやらそうでもないらしい。
「――宇宙が膨張を続けているのは知っているか?」
唐突に新山はそう語りだした。明らかに今までの話と関係が無い。脈絡のない話題の転換だ。しかし先ほどの増山の転換が、より理解を深めようとの思惑があったのだろうことは、傍らで聞く野田にも窺えた。それならば、この新山の唐突な話題の転換にも、何らかの思惑が潜んでいるのではないか、と彼女が思うのも無理からぬことであった。
「ハッブルの法則ね」
「ハッブルの法則と言うのは、『遠い銀河ほど早い速度で遠ざかっている』と言われるあれだろう? 膨張理論の元になった説ではあるけど、近年の学者の話ではビッグバン以来、膨張を続ける宇宙は次第に密度が低下して、膨張速度にブレーキをかけているらしいよ」
増山がすぐに野田の意見に若干の修正を加える。
「でも、それを言うなら私はビッグバン理論そのものに否定的よ」
「ビッグバンはなかった、と言うのかい? 確かもう一つそれに対抗する理論があったような気がするが……」
「――ホイルやナリカなどが提唱する、定常宇宙論」
「そう、それよ。ビッグバンなんて言う『無の状態から極微の粒子の存在を仮定して』考えられる、いかにも曖昧な基盤の上に成り立つ理論は、どれだけその上に見事な理論を構築しようとも、発祥事態の疑問感が拭えないわよ」
「しかしルメートルのビッグバン理論を否定すると、今まで行われている宇宙理論などに支障が出るじゃないか。ビッグバンはあったと仮定した方が、据わりはいいだろう。なあ、教授?」
新山は少し顔を伏せて、物思いに耽っている。少なくても宇宙の膨張と言う口火を切ったのは新山なのだし、それに二人は乗ったのだから、もう少し興味深そうな表情は出来ないのか、野田は新山の顔を見ながら苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「ビッグバン理論が完璧でないように、定常宇宙論にも補いがたい矛盾は存在している。今現在、二つの理論を上回る理論が構築されていないだけで、これからもっと据わりの良い理論が研究されることだろう」
「答えになってないじゃない。あなたはどちらを支持しているの?」
野田が詰め寄ると、新山は露骨に厭そうな顔を浮かべた。
「……一九九八年のハッブル宇宙望遠鏡を使った、重力レンズによるクエーサーの観測により、我々の宇宙が“ゆっくりと膨張”していることは確認済みだ。宇宙の膨張速度を決定することは、すなわち宇宙の年齢を決定することにほかならない。推定だが、現在の宇宙年齢はおよそ百五十億光年と言われている。これまで宇宙の年齢には大きな幅があり、短いものでは宇宙の年齢より年老いた星が存在すること(宇宙年齢パラドックス)になり、天文学者たちを悩ませていた。ハッブル宇宙望遠鏡の観測結果は、年老いた恒星が十分に存在できる長さで、さらに以前のハッブル・キー・プロジェクトにおける結果と一致していることにより天文学者らは胸を撫で下ろしているようだ。
しかし、宇宙論学者にとっては悩みの種になりそうな結果も含んでいる。宇宙論研究においては、宇宙の膨張速度と密度が重要な要素となってくる。最近の観測によると宇宙の密度は従来考えられてきたものより低く、物質の相互に作用する重力が弱いという説が有力になっている。しかし、ハッブル望遠鏡のデータのように宇宙の膨張速度が遅く密度の低い宇宙であるためには、現在のビックバン宇宙モデルになんらかの修正を加える必要があるだろう、としている……」
「それは、ビッグバン理論よりも定常宇宙理論の方が見直されている、と言う意味か?」
「いや、そこまで決定的な問題点ではない。未だ世界の宇宙論学者の多くが、ビッグバン理論の信奉者で埋め尽くされている」
「それで、教授の意見としては、結局どっちなんだよ」
「ビッグバン理論なら、納得する」
新山はそう言うと、どこか釈然としない表情を浮かべる。納得する、と言いながらその表情には少しの納得も見られなかった。
「ビッグバン論者の宇宙の創造、進化、変化といった概念を退け、宇宙は常に不変であり、この宇宙では膨張して密度が下がった分だけ、宇宙全体から物質が湧き出してくる、と言うのが定常宇宙論よね? でもそれは、さっきから新山が言っている『存在しない存在としての無』と言うのを後押しするんじゃない?」
「そんなことはないよ。ビッグバン理論の『原子の原子』の存在こそ、教授の言葉を後押しするものじゃないか。無より有の存在を認め、宇宙粒子は放射性元素の自然崩壊のような事態から、ビッグバンは生まれた。そう考えると『存在しない存在としての無』と言うのも頷ける思いだ。つまり存在を認識するには、そこに観察者の視点が要求される。だが始源の誕生、天地開闢においてそれが認識されることは有り得ない。存在しない存在として、そこは無であったんだよ。なあ教授?」
「そうかしら。そんな何にも無いところから、ポコポコと何でも生まれてくるような理論、怪しいわよ。不変的な宇宙を説いて、膨張はしても内在する密度の変化によって、新たな物質がわき出す定常宇宙論の方が、有の限定と無の輪廻を現しているとは思わない? それにハッブル宇宙望遠鏡の観測結果にある、膨張速度の低下と密度の低い宇宙というのも、同時に証明されるじゃない」
だが、野田と増山の白熱する議論にも、その自説を唱えた本人はあまり関心の無い表情で、二人の説に異を唱えるでも、賛同を示すでも無く、ただ暗闇に沈んで行く町並みに、漂うような視線を投げかけ続けるだけだった。その態度が、またぞろ野田の神経に触れる。
「――つまり教授は、ビッグバン理論にしろ定常宇宙論にしろ、存在しない存在としての無を立証するのには、関係ない、と言いたいワケね。本当は何を論証したいの?」
増山の目が依然として教授に興味を持って光っていることに、野田はそろそろうんざりして来ていた。野田の本心としてはもう不毛な論議に決着を付けて、帰宅の途に着きたいのだが、増山の興味が継続中である以上、未だ帰れそうにはなかった。だから野田は、論争の首謀者である新山から、早く結論を喋らせたかったのだ。
「――では、なぜ宇宙は膨張を続けるんだ?」
「それは……。さっき教授も言っていたじゃないか。ハッブルの観測からも宇宙の密度は低く、重力も低いと。だから宇宙はゆっくりと……。イヤ、これは膨張を続ける理由じゃないよな。……膨張を続ける宇宙を明言したのは、ハッブルじゃないか。ビッグバン理論を否定する学者はいても、ハッブルの法則を否定する学者はいないよ」
「遠い銀河ほど早い速度で遠離っている、この法則はすでに望遠鏡で確認済みよ、何年も前にね。確かアインシュタインが『定常宇宙』と言う説を唱えていたけど、ハッブルの望遠鏡がそれを退けたのよね。アインシュタインはハッブルの天文台にまで足を運んで、その望遠鏡を覗いたんじゃなかったかしら?」
「ハッブルの法則は、膨張している事実を確定したに過ぎない。なぜ膨張したのか、その理由を考えてはいない」
「じゃあ新山は、なぜ宇宙は膨張していると考えるの?」
周囲はすでに宵闇に包まれ、晩秋の空に三日月を映し出していた。うっすらと冷気も忍び寄って来る。野田は出口の見えない議論に疲れていたが、二人の口からは終了の合図は出そうもない。
夜空に浮かぶ三日月を見ながら、野田はその地球に唯一存在する衛星へと思いを馳せた。なぜこの衛星は、まるで気持ちが悪いほど正確な位置で、地球の頭上を回転しているのだろうか? あと僅かでも地球に近ければ、月は地表に衝突していただろうし、あと少しでも地球の外側にあれば、無軌道を描く彗星としてどこかへ飛んで行ってしまったはずなのだ。それがこうも都合良く、地球の頭上に存在しているのは、何か明確な意味があるのではないだろうか。
月を巡る論争は今までにいくつもの珍答、奇答を生み出している。中には月こそが宇宙人の操る巨大な宇宙基地ではないか、などと言う説もあり、野田はその根拠の無い暴論に呆れるより先に感心してしまったこともあった。
口を開いた新山は、再び脈絡のない話を切り出し、野田を困惑させた。
「仏教の倶舎論、と言うのを知っているか?」
さすがの増山も口を噤んでしまう。だがそれを知らなかったとしても責められまい。天文学なら、現在でも立派に通用する学問だが、仏教の話を通常の学問として捉える輩は少ない。受験を控えた高校生ならなおさらだ。
「――インド五世紀の仏僧ヴァスバンドゥの記した、仏教的宇宙観を記した書物だ」
「仏教的宇宙観? 仏教って、そんな昔から天文学的なものを扱っていたの?」
「そうじゃない。ここで言われる宇宙観とは、大まかに言えば世界観と言ってもよいものだ。もちろん、宇宙について触れる記述もあるが、殆どが仏教が持ち得ているその世界観を記したものに過ぎない。内容の多くは、地獄について書かれたものだ」
「地獄か、それなら少しはわかる。仏教では確か八つの地獄があったはずだ。キリスト教では九個だったっけ?」
「……仏教の地獄は八つで終わりではない。どの熱地獄も四壁面に一つずつ門をもっていて、一つの門ごとに四種の副地獄がついている。 八熱地獄全体では結局百二十八の副地獄をもつことになる」
「へー。キリスト教の地獄がチャちく聞こえるわね」
「そんなことはないだろう。確かダンテ描くところの地獄も、九個の地獄にはそれぞれ四つの層がある、って話だったぞ。だから全部で三十六の地獄だ」
「桁が違うじゃない」
「――それで教授、その倶舎論がどうしたんんだよ」
引き込まれている。否、抜け出せないのか。すでに教授は言葉数こそ少ないのだが、それでいて全体を掌握してしまっている。増山や野田がどれだけ反論めいた言葉を投げかけても、それが新山への抑止力となる様子はない。
「倶舎論自体が問題ではないのだが……。今、野田も言ったようにキリスト教と仏教を対比して考えると、そのスケールの違いに愕然とする思いだ。例えば、キリスト教で言われる絶対的な悪の象徴『サタン』或いは『ルシフェル』としても良いが、その全長は実に四万フィートだと言われている」
「四万フィートと言うと、一フィートは確か約三十センチよね……」
「一万二千メートルだ」暗算は、さすがに増山が速かった。「でかいな。成層圏すら突き抜けるくらいの大きさだ。サタンは確かエデンでイヴを唆した蛇とも言われてる。そこにリヴァイアサン伝説などが融合して、こうした大きさになったんじゃないか?」
「世界を支えると言われる大蛇ね」
だが増山と野田の感嘆の声にもまるきり反応を示さず、新山は淡々と語る。
「……一方で、極楽浄土を支配する阿弥陀如来は、その全長が六十万億那由多恒河沙由旬もある。これはまさしく天文学的数値だ」
「ちょ、ちょっと待てよ。なんだその、なゆたごうがしゃゆじゅん、ってのは。それはインドか何かの単位か?」
「一由旬は、古代インドの単位で、約七マイルに相当する。今の阿弥陀如来の全長を、敢えて判りやすい数字に換算すると、約六十兆光年」
「六十兆光年! それじゃおまえ、さっきの話の……」
「そう。ビッグバン宇宙を丸ごと飲み込んでも、まだ存在できない大きさだ。サタンなど、阿弥陀如来の毛ほどもない、と言うことだ」
「そりゃあ……。凄い数字だな。キリスト教がチャちく見えるのも当たり前、って気になってきたよ」
「――じゃ、なに。極楽は存在しない、ってこと?」
野田の声に、不意を付かれた増山の動きが一瞬止まる。正常な判断を下すのに、僅かばかりの時間を必要としたが、それでも刹那的に増山は我に返ると、再び口を開いた。
「そうか。そうだよな。そんなでかい神様が治めている極楽じゃ、この世界、宇宙を総合しても存在できない大きさなんだから、それは存在しないってことになるよ。仏教は嘘を吐いたってことなのか?」
「……仏教は、キリスト教が言うところの地獄に対する天国、と言う図式は描いていない」
再び、新山の言葉は議論からずれて行く。だがもはや二人は議論の軌道修正を行おうとはしなかった。
「どういう意味だ。それは天国と極楽って言葉の違いを指しているのか?」
「そうじゃない。極楽は、元々仏教思想ではないと言うことだ。釈迦は地獄の存在を示唆したが、極楽があるなんて一度も言っていない。極楽は日本で誕生した。平安時代に源信と言う仏僧がいて、彼が書いた『往生要集』で初めて極楽は正史に登場したんだ。極めて新しい思想だよ」
「じゃあやっぱり存在しないのね」
野田が念を押すように確認するが、新山の口はまたもするりとその間を抜ける。
「――どうして宇宙が膨張するか」
「またその話? わからないわよ。でも確かに宇宙は膨張を続けている。それは事実よ。科学の力がそれを証明しているじゃない!」
「膨張する事実を否定しているんじゃない。なぜ膨張しなければいけないのか、俺はその理由を探っている……」
「『存在しない存在としての無』って言うのは……」
増山が一言呟いた。この話し合いの間一度として交わらなかった、新山と増山の視線が対峙する。――そして、新山は頷いた。
「成る程。ありがとう」
増山は立ち上がると、そのまま歩み去ろうとする。野田が慌ててその後を追うために立ち上がった。野田が振り返ってベンチに座ったままの新山の姿を確認すると、再び新山は眼前に『無』があるのではないかと言うほど、真摯な表情を浮かべて前方の闇を睨み付けていた。すでに野田や増山の存在を忘れている様子だ。
「ちょっと、どういうこと?」
「えっ、何が?」
「新山の話。途中で遮って帰るんだもん」
「ああ、その話か」増山は先ほどまでの会話を、まるで忘れてしまったかのような素っ気なさでそう答えた。「それならもうわかったからいいんだ」
「わかったって何が?」
「決まってるだろ。『存在しない存在としての無』だよ。君だって聞いてただろ?」
「聞いていたけど……」
わからなかった、とは野田は言えなかった。二人の会話に付いて行っているものだと思っていた野田には、それは屈辱的でもあったし、何より今まで増山と同等に付き合っていた関係を、根底から覆すようで悔しかったのだ。
「……教授は、無こそ生物の最終形態だと言ったろ?」
「えっ、ああ、そうだったわね」
「『存在しない存在としての無』ってのは、要するに論理矛盾なんだけど、その矛盾を取り払った存在と言うのが、教授がさっき言っていた……」
「存在できない存在である『極楽』のこと?」
「そうだよ。極楽浄土を支配する阿弥陀如来が、この世界に存在できないほどの存在として位置付けられているんだ。その極楽の広さは、言うに及ばず。存在はしていても、決して存在できないと言うパラドックスを生み出してしまったんだ。その無である極楽こそが、人類が求める最終形態なのさ」
増山は、見事に教授の見解を理解しているようだった。だが野田には納得がいかなかった。少なくても、新山の意見が真に納得のいくものとして片付けられるとは、野田自身が思っていなかったのだ。だからこそ、納得できなかった。
「飛躍しすぎじゃない? じゃあ宇宙の膨張が云々って言う話はどうなの? ハッブルの法則を否定するようなことを、教授は言っていたじゃない」
「宇宙の膨張自体を、教授は否定していたんじゃない。膨張する原因こそ、教授が求めていた問題さ。つまり教授は、膨張する理由として……」
「――膨張するのは、この世界に極楽浄土を顕現させるためだって言うの!」
「そう言うこと。膨張を続けるには何らかの理由がある。教授はそう考えたんだ。その答えとして、遠い未来に顕現するであろう、神々の浄土としての極楽をイメージしたのさ。今のところ、どうして膨張を続けるのか、その原理はわかっていても、その理由を求めた学者はいない。仮説としたところで、非常にユニークなものだよ」
「でも待ってよ。膨張する宇宙のスピードは、たとえビッグバンが本当にあったとしても、それ以降、速度は非常に緩やかなものになってしまっているのよ。阿弥陀如来の全長は、六十兆光年もあるのよ! それが存在できる極楽は、それよりも遙かに広いはずでしょ。宇宙がそこまで膨張するのに、いったいどれくらいの時間がかかると思っているのよ!」
だが、野田のその言葉を受けると、増山はなおさらおかしそうな顔を浮かべた。あくまでも仮説である。それは野田自身も十分に理解していたはずの話だったのに、いつの間にか自分でも意識していないうちに声を荒げてしまっていた。
増山との差を見せつけられた気がしていた。納得できないで、その矛盾を認めようとしない野田に対して、仮説を仮説として、その発想の愉快さを楽しめる増山との間に、野田は決定的な溝を見出していた。
野田は、自分が子供だと思えた。
「――宇宙が、極楽を顕現させるのに必要な時間は……」
野田はようやっと、その先の言葉が思い付いた。末法の世を経た遙か彼方。時空列の常識をも打ち破るかのような遠い未来。そこではハルマゲドンも既に終わり、キリストと唯一神の救済も終えているのであろう、未来のこと。人々を救うために、弥勒菩薩が降臨すると言う……。
「五十七億六千万年後の未来に、きっと極楽は現れるよ」
増山はそう言って、微かに笑った。
1999/9/18
注:弥勒菩薩降臨に関しては<阿毘達磨大毘婆沙論>を採用しました。
よって巷間で広く知られている「五十六億七千万年」と言う数字とは異なりますが、ミスではありません。
参考文献
著者:明石散人 「鳥玄坊 ゼロから零へ」 講談社
宇宙開発事業団ホームページ