戻り橋
橋の欄干に足をかけ、私は下を覗き込んだ。
真っ暗闇だった。底が見えない。
微かに聞こえるのは、遙か橋の下で流れている川のせせらぎである。そこに川が流れているらしいことはわかっても、その姿は見えない。見えなければ、この下に飛び込むのも恐くない気がした。どちらにしろ、私の運命は決まっているのだ。ここを落ちるしか、道は残されていない。
もう私は疲れた。生きていくことにも、考えることにも。
死んでしまえば全ては楽になる、それだけが私に残された唯一の希望だった。
欄干の上に、私は立ち上がった。
僅かな加減の上に、私の生死は存在している。今、生と死は等価値となって私の前に存在しているのだ。この欄干から一歩前へ進めば私は死ぬ。そして後ろへと下がれば私は再び、橋の上に戻ることが出来る。どちらでも良かった。だから私は欄干の上に立ち、しばし呆然としていた。
「死ぬの?」
不意に背後から声をかけられた。驚きはしなかった。驚くほど、私は人生を平穏としたものとは捉えてはいなかったのだ。
「さあ、わからない」
私は答えた。その声は背後から聞こえてくる。年若い男の声のような気がする。敢えて私は振り返らなかった。もし少年が、今から死ぬであろう私の顔を見てしまうと、何やら夢見が悪いのではないか、そんな心配が私の頭を過ぎったのだ。
「死ぬのは、恐い?」
「いや、そうでもない」
それは本心だった。死ぬからと言って、恐怖を感じる必要はないような気がしていた。生きているのが辛いのだ。ならば死への恐怖も揺らぐ。両者の価値は均一なのだ。
「どうして死ぬの?」
「さあ、どうしてだろう」
考えてみると不思議な気がした。たとえ同じ状況に百人の人間を同時においたとして、その内の何人が死を選ぶだろうか? 私は死を選ぼうとしているが、あるいは死を選ばない人間もいるだろう。そうなると、理由などどうでもいいものなのかも知れない。死ぬ気があるかないか、その程度の差なのだ。おおよそ死ぬと言うのは、それが自殺などと言う無粋なものならなおさら、ひどく個人的な解釈の範疇による問題なのだ。死ぬきっかけが掴めれば、人は幸福の中ででも死を選ぶのではないか、そんな気もしてきた。
「わからないの?」
「……ああ、わからないな」
「じゃあ――」
少年の声が急に近付いて来た。ドカドカと言う足音とともに、欄干が揺れた。 ふと横を見ると、いつの間にか欄干の上に少年の姿があった。じっと私の顔を見つめている。紅顔の美しい少年だ。
今、少年は生と死の境界線上にいる。私と共に。
幽界の狭間に紛れ込んだ少年は、何を思うのだろうか。その真っ直ぐな視線は、全てを見透かすかのように私の元へと及んでいる。いや、何を恐れる? 私には見透かされて困るようなことは何もない。そう、何もないのだ。本心を謀っていることなどない。ならば、恐れることはないではないか。
「――ボクも死ぬ」
「どうして?」
私は慌てて訊ねた。どうしてこの少年が死ななければならないのだ?
そんな理由はないはずだ。
「さあ、わからない」
そう言うと少年は、瞬時に身を翻し、深遠なる闇へと墜落して行った。
ボチャンと言う、ひどく滑稽な音が水面から届いた。私はその音を聞くと何だか無性におかしさを感じた。呆気ないものだ、人が死ぬと言うことは。たかがボチャンと言う音が、死との同義だなんて……。
私は欄干の後方へ飛び降りると、来た道を戻り始めた。
1999/9/19