夏の夜の梦現<なつのよのゆめうつつ>

 著 岡部・MG・導彦


 1

 

 眠気の残る目をこすりながら、簡易ベッドから身を起こす。

 ズキズキと頭の奥から疼くような痛みがこみ上げて来たが、金堂周作はその痛みを、頭を振って追い払い、ベッドの下に転がっていた薄汚れたスニーカーを探り当て、よたよたと立ち上がった。

 徹夜が身に応えていた。

 最近、徹夜明けはいつもこんな状態だった。若い頃は仮眠など取らずに、そのままぶっ通しで働いたものだったが、今の金堂にとってそれは自殺行為でしかない。僅かの睡眠でも取らなければ、とても働くことは出来なかった。もう若くはない。そんな言葉を、金堂は身をもって実感していた。

 部屋を出ようと扉の前に立つと、外から喧噪が聞こえてくる。何人もの人間が忙しなく走り回る足音、狭い室内を飛び交う怒声。カチャカチャとキーボードを叩く音が、それらの音の間を縫うように聞こえて来る。

 仮眠室の扉を開けると、目映いばかりの光が金堂の目を射抜く。

 ――顰める顔、眉間に寄る皺。

 ゆっくりと光に慣れていくにつれ、網膜は現状を在るがままに映し出した。

「デスク! 三番に電話です!」

 まるで、金堂の出てくるのを待ち構えていたかのように、声がかかった。眠い目を声の方へと向けると、電話を持ってこちらを見ている立花の姿が見えた。金堂は曖昧な頷きを返すと、近くにあった電話を取り、三番を押した。

「もしもし……」

「金堂か?」

 受話器から聞こえた声は、編集長の村上のものだった。

「……どうしたんですか? わざわざ電話で」

 そう言いながら、金堂は編集長の机にその姿が無いのを確認すると、室内に視線を巡らせ、常時ならその机からまんじりともしないはずの編集長の姿を探した。しかし室内にその姿は見出せず、眠気の醒めない金堂の頭にはいくつものクエッションマークが浮かんでは消えていた。

「今、広報部の方に来てるんだよ。下の喫茶店で会おう」

「何ですか? 何かあったんですか?」

「まあな。『噂の掲示板』に寄せられた、苦情の内訳を発表してやるよ」

「ああ、またですか……」

 溜息交じりの金堂の答えに、んじゃ三十分以内に来い、と編集長は告げて電話を切った。

 金堂は受話器を置くと、部屋から出ようとして出口の方へ向かう。狭いフロアにはデスクが整然と並べられており、その約半数のデスクで編集者が仕事をしている。残った席の半数は取材に出ている記者で、残りの半数の席には、仮眠室に入れない新人、家に帰ることが出来ない新人――取材・張り込みなどが連続で行われると、労働基準法などあって無いような仕事であった――などが空いた席を利用して、椅子の上で眠りこけていた。金堂も若い頃は『椅子ネリ』をしたものだったが、身体がコチコチに堅くなってしまい、今の腰痛の元凶を作る結果となっていた。

 ビルの廊下にあるユニマットの自販機は、金堂の小銭を十年間貯め続けている。すでに金堂はこの自販機ごと買えるくらいの金額を、コーヒーに投資しているだろう。そして今日も又、新たなコーヒーのために小銭が自販機へと吸い込まれて行く。

 どうせ下の喫茶店に行ってコーヒーを飲むことになるのだろうが、そんなに急いで行く必要も無い。起きたばかりの金堂には、今日の仕事が山積みになっているはずだ。まずはデスクに戻って、仕事の確認をする必要があった。

 紙コップに入ったコーヒーを手に自分のデスクへと戻ると、金堂は騒然としたデスクの上を見て欠伸を一つ噛み殺す。これだけ乱雑としたデスクで仕事が出来るはずがない、と編集長には何度も叱責を受けているのだが、金堂にはこの方がやりやすかった。乱雑に積み上げられている書類の山も、金堂はある種の規則性を持って積み上げており、欲しい資料がどこにあるのかわからない、と言う事態に陥ることはまずなかった。ただし、デスクにもなって自分一人の資料ではないようなものも扱い、そうした場合に他人がこの山から目当ての資料を探し出すのはまず困難な仕事となるであろう。赤城山で徳川埋蔵金を探すようなものなのだ。もっとも、資料はこの山のどこかに必ずあるのだが、埋蔵金の方はそれすらも怪しい……、と金堂は一人口の端に笑みを浮かべる。

 コーヒーを飲みながら、金堂は煙草に火を点けた。自分のデスクに灰皿を置けない金堂は、隣の山本の机に灰皿を置いていた。煙草を吸わない山本は、いつも迷惑そうにしているのだが、煙草嫌い故か、常に灰皿の掃除をしてくれるので、金堂には使い勝手が良い相手であった。

『部下ですから、仕方がないです』

 と、山本は憎々しげに良く言う。明らかに嫌われているのは金堂にもわかっていたが、相手を懐柔しようとも思わない。山本は良い記者である。それは金堂にも良くわかっていた。そのうちこの会社からは消える類の人間だ。そう長く顔を突き合わすこともあるまい、そう思っているが故の行動なのかもしれない。

 ゴシップ週刊誌を発行している『駿馬社』では、大した仕事はさせて貰えない。どこぞのタレントが浮気をしたとか、新人アイドルのパンチラを撮ったりとか、そんなジャーナリズムなどとは無縁のことを、この編集部では要求されているのだ。確かに金堂にも若い頃には熱意があった。今は無理でも、いつかは自分もジャーナリストとして大成したい、そう思っていた。だがスキャンダルを追って三年、ゴシップを書いて五年、そうしていくうちにそんなことは無理なのだ、と悟るようになっていた。まず自分には才能が無いことを気付かされた。与えられた仕事をこなすことはそこそこ出来た。タレントの家の前に張り込んで、現場写真を撮る。取るに足らない噂をかき集め、まことしやかな醜聞として書き連ねる。だがそんなものはジャーナリストには不必要な要素であり、自分を向上させる何の経験にも成り得なかった。

 だが皮肉にも、そうした仕事を何年もこなして行くうちに、金堂もデスクへと昇進していた。それは会社内での自分の実力が評価された故の昇進である。喜んでいいはずだったが、金堂には素直に喜べない、釈然としない思いが渦巻いていた。入社当初、同じようにジャーナリストを夢見て、いつかは『自分の記事』を書きたい。そう言い合っていた同期も、今はいない。金堂は会社に残った編集者の一人だった。その選択が正しかったのか、金堂には未だにわからなかったが、それでも金堂は今でも記者をしていた。

 パソコンのディスプレイに、メールの発着を知らせるマークが出ているのに気付くと、金堂は煙草を灰皿の上でもみ消し、マウスを手にした。人から貰った『ポストペット』にしばらくハマっていたこともあったが、金堂はすぐに飽きてしまい今は『Outlook』に戻っている。

 メールはアルバイトの川崎和哉からのものだった。

 

 差出人:川崎和哉

 件名:渋谷のハチ公

 

 言わずと知れた『ハチ公』像です。

 これに関する噂がかなり集まったので、送ります。

 

 集積した噂の詳細と、さらに写真が一枚添付されていた。

 小型犬の銅像だ。とくに何の変哲もない。

 金堂は芸術家では無い。写真に芸術性を見出すことすら、金堂には出来なかった。写真とは現実で、それ自体に意味は無い。そう考えている金堂の趣旨は、きっと川崎にも届いているはずだろう。だから写真の出来には金堂はまったく興味もない。

 金堂が川崎和哉と言う少年と出会ってから、まだ一年ほどしか経っていなかった。出会ったのは昨年の秋だった。突然に編集部を訪れた川崎は、編集長に向かって『写真を買って欲しい』と直談判しに来たのだった。子供の遊びに付き合ってはいられない、と追い返そうとした編集長だったが、川崎はあまりにもしつこかった。そのしつこさに観念したのか、編集長は話だけは聞いてやる、と言ってその聞き役に金堂を指名した。てっきり編集長自らが話をするものだと思っていた金堂には寝耳に水、であったがいざ話をしてみると川崎の話は面白かった。そして持って来ていた写真をいくつも見せた。

 学校内で行われていたイジメの現場写真――。

 それは真に迫った写真であった。迫力のある写真であると同時に、時代を、世相を斬るような、鋭い視点から覗かれた作品。金堂は驚いて目の前の少年を見据え直した。

『君が、これを?』

『ええ、そうです』

 まるで観光地の写真を撮って来たかのような、あっさりとしたその物言いも金堂には驚きだった。この写真はゴシップ誌に掲載するようなものでは無い、金堂にはそう思えた。もっと正しい場所で公開することが出来るのではないか、そう金堂は川崎に話したが意外にも川崎はその金堂の意見を一笑に付した。

『こんなヤバイ写真は、大手の雑誌では扱えませんよ。いくらモザイク入れても、イジメの現場写真なんてモラルを問われて、掲載出来ない。こういうアングラはギリギリこちらの雑誌じゃないかな、と思いましてね』

 金堂は掲載を約束した。確証は出来ないはずなのに、金堂は必ず掲載する、と太鼓判を押してしまった。その後、編集長と押し問答を何度も繰り返し、年末に掲載することが出来た。そして掲載とともにかなりの反響があった。大手の雑誌からは、案の定モラルの無さを言及されもしたが、それすらも反響の一部だと川崎は泰然としていた。

 川崎は自分の通う高校の、写真部と新聞部に所属していると語った。二つの部活に入部しているとは珍しい、と金堂が言うと、二つとも同じ部活で兼用されているとの話だった。わずか十六歳ながら川崎の写真の腕とセンスを知った金堂は、それからもちょくちょく持ち込まれた写真を、何度か雑誌に載せた。全てが掲載された訳ではなかったが、川崎の写真にはどこかジャーナリズムを感じさせる部分があって、金堂は気に入っていた。金堂がデスクになったのが今年の春。或いはそれは、川崎の写真のおかげでもあったのではないか、金堂はそんなことも考えていた。

「デスク! 編集長から電話が入ってますよ!」

 金堂はすぐさま腕時計を確認する。すでに先の電話から三十分近い時間が経過していた。

「すぐに行く、と伝えてくれ!」

 そう言うと金堂は椅子から立ち上がると、ジャケットをひっかけて外へと駆け出した。

 

 

「広報の連中がぼやいてたぞ。『噂の掲示板』は苦情が多すぎる、ってな」

 金堂はテーブルに着くと、やる気の無いマスターへ向かって大声でコーヒーを注文した。店に入ってすぐに注文しても、品物が出るのに十分以上はかかるのだ。それでうまいのならば良いのだが、大した味ではないだけに金堂には腹立たしかった。

「それって、俺のせいですか?」

 煙草に火を点けながら、金堂は答えた。

 『噂の掲示板』とは駿馬社の出版している隔週誌『ゴシップランド』の一コーナーで、金堂が担当して記事を書いている。内容はタイトルにもあるように、街に散在している噂を集め、紙面で発表すると言うだけのものであったが、噂と言うだけに、何の信憑性も確証も無いものを、大した調査もせずに載せているためか、毎週毎週様々な方面から苦情、クレームを付けられるのであった。

「さあな。仕方がないだろう。あんな噂に一々裏付けなんて取ってられないからな」

「そうですよ。だいたい、あのコーナーは俺一人で記事を書いてるんですから、ごちゃごちゃ言うんでしたら、もう一人くらい担当を増やして下さい」

「そりゃあ無理だ。例の高校生――川崎、だっけか? アイツを使ってうまくやってくれ」

 街の噂を集めると言っても、それは容易いことでは無い。噂とは日々、変化し増殖する。その全てを集めるには、金堂一人ではどう考えても無茶だった。

 川崎和哉と言う高校生が、この駿馬社に持ち込んだのは写真だけではなかった。彼は写真と一緒に一つの企画を持ち込んで来たのだ。金堂と編集長を相手にプレゼンをして見せると、その新コーナーを手伝わせて欲しい、と言って来た。そうして生まれたのが『噂の掲示板』であった。企画自体は特別珍しくも、面白くも無いのだが、現役高校生と言う自分の利点を活かして、生の噂を集めることが出来た。

 現代は口コミで多くのものが伝わる。その最先端に位置するのが若い世代であることは、金堂にも否定は出来なかった。その噂を集める仕事を川崎がすると言うのなら、金堂はやってみてもいいのではないかと思った。

「まあ何とかやってますよ。さっきも川崎からメールが来てました。またなんかの噂を集めて来たみたいで」

「そうか。ま、バイト料はあんまし出せないけど、マクドナルドでバイトするよりは、金にはなるんだろうな」

「そう、なんですかね」

 自分で調べて、写真を撮って、とそんなことをしていれば、経費もバカにはならないだろう。写真一枚三千円、記事一ページ分の噂で一万円。破格のアルバイト料とは言えない気が金堂にはしていた。ハッキリ言えば、好きでもなければやってられないだろう、とも。

「――それで、編集長」

「うん?」

「何の用件で俺は呼ばれたんですか?」

「ああ、用事な。――さっきも言ったが、苦情が来たんだよ」

「来ない週なんてないじゃないですか」

「まあな。んで、先週の記事なんだが、覚えてるか?」

「先週から都内のミステリースポットを探る、ってテーマで書き始めたんです。最初だったんで、メジャーな場所にしたくて、東京タワーを主題にしましたが」

「そうだ。東京タワーの噂な、あれがちっとまずかった。『カップルで東京タワーのライトアップが消えるのを見ると、そのカップルは永遠に愛し続ける』と、こんなのはかわいげがあっていいよな」

「ええ、それはわりと一般的なものだったみたいで」

「でもよお――。『消灯の瞬間に、タワーから飛び降りると天国に行ける』ってのは、なあ?」
 編集長が言わんとすることは、金堂にも理解が出来た。

 まったく、馬鹿げた噂だと思う。だが、そんなことを言い出してしまえば、この企画自体が消滅してしまうであろう。噂に、現実的な整合性を持ち込むこと自体が、ナンセンスなのである。崩壊しているロジックを、それはそれとして受け入れるしかないのであろう。

「確かに、馬鹿げた噂だとは思いますよ。でも、それを確認しようとしたら、自分でタワーから飛び降りてみなきゃならないでしょう? そんなことまで裏は取れませんよ」

「――裏を取ろうとした奴らがいるんだよ」

「え?」

「その噂がな――。雑誌に載った翌週から、東京タワーじゃ自殺が花盛りになっちまった。都から、正式な抗議文が来てるんだよ」

「――勘弁して下さいよ」

「そりゃ、こっちのセリフだ。先週号は全部回収だ。おまけに、次号では謝罪文を載せることになっている。部長も謝りに行ってるし、俺も処分を食らった。お前だって、無傷って訳にはいかない」

「マジっすか?」

「まあな。夏のボーナスは、諦めろ」

 そう言うと編集長は不可解な笑みを浮かべて、コーヒーを飲み干した。

 

 2

「――そりゃ、オモロだなあ」

「でしょ? ってゆーか、コワくない? マジに見た娘がいるんだからさあ」

「しっかし、葛飾に沼なんてあったかあ?」

「あるんでしょ。ってゆーか、その話、葛飾の娘から聞いたんだよ、あるに決まってるっしょ?」

「う〜ん、まあ確認はしたいな。小田、その娘、紹介してくれる?」

「別にいいよ。デバガメはさ、下心無いから、紹介するのも安心だよ」

 喫茶店に座る若い男女は、軽快に話題を変えながら、口を噤むことが無かった。

 デバガメと言うあだ名が、自然発生的に生まれるに到る経緯には、それ相応の理由があった。もちろん、そのあだ名は『出歯亀』の言葉に由来するのだが、それが名前になるからには、その言葉に類するような行動があった、と取るのが妥当なはずだ。もちろん、それはデバガメ自身にも自覚のあることなのだが、それがよもや、あだ名になるとは、彼自身思ってもいなかったことである。

 デバガメこと――川崎和哉は、今日も今日とて、噂を求めて彷徨する。

 視線は常に周囲へと油断無く巡らせ、その様はパス出しをする時の中田のようでもある。中田の目が、常にチャンスをうかがうべくキラーパスの出し所を探すのに対して、川崎のそれは、常世の不思議をそして現実の歪みを求めて彷徨い続ける。

 その、一種特殊な能力故に、川崎の周囲には日常ならざる出来事が跋扈し、それがさらに川崎の日常を普遍的な非日常へと誘うのである。

 小田と呼ばれた少女は、カバンから携帯電話を取り出すと電話を始めた。

 それを横目で見ながら、川崎は今収集した噂を手帳に書き連ねると、こちらも懐から携帯電話を取り出すと、メールを出す準備を始めた。

「――うん。そう。変な奴だけど、面白いよ。こないださ、言ってたでしょ、あの話、うん、そう。あの話だよ。いいでしょ、別に? うん、で、今、どこにいるの? え、そうなの? 近いよ、今こっちは錦糸町。すぐだよ、すぐ。駅前で待っててよ。行くからさ」

 電話を終え、再びカバンに携帯を戻した小田の視線に気付き、川崎は顔を上げた。

「なんだって?」

「うん。御茶ノ水にいるって。今から行けるっしょ?」

「おお、オッケー。準備いいじゃん」

「そっちはいいの?」

「ああ。メールは出したから、金堂さんには後で電話入れればいいだろ。行こうぜ」

 

 3

 

 結局、村上編集長の話だと、今回の企画そのものをボツにしろ、と言うことだった。

 夏を前に、ミステリースポットを探索すると言うのは、非常に面白いと考えていた金堂にとって、その話はまさに寝耳に水であった。しかしながら、編集長の話が真実だとすれば――東京タワーでの自殺者の急増が――、そうした措置もやむを得ないと納得していた。

 それにしても――。

 弱小出版社の出す隔週雑誌が、これほどの影響を安易に与えてしまう社会と言うモノに対して、金堂は漠然とした戦きを感じていた。人とは、そんなに安易に話を吸収してしうまうものなのか? しかし、それが言葉と言う媒体に載ってしまった以上、その伝染率は飛躍的に向上し、多くの人がその言葉に触れることは事実であろう。それならば、本来そんなことを考えもしないような人間であっても、その話を聞き、そして漠とした思いこそあれ、それでも出来る機会さえ揃えば、そんなこともあるのかもしれない。

 時は子刻、闇が蠢き始める刻限である。

 そんな折り、東京タワーの屋上にまで上がっていたのなら……。

 そこは、間違いなく、異界であろう。

 人ならぬモノが訪れるのだ。

 境界に立ち揺らめき、その訪れるモノは、自らの背後に立ちつくし――。

 その、肩に触れるだけで、良いのだろう。

 ――逢魔刻。

 それが、自分に訪れないことを幸いに思いながら、金堂は編集部へと戻って来た。

 自分のデスクに戻り、残っていた冷めたコーヒーを口に含んで、金堂は懐からたばこを取り出した。火を付けずに口の端に喰わえ、しばらくブラブラとさせながら金堂は思案に暮れた。

 問題なのは……。

 問題は、その代わりに何を記事にするか、と言うことだった。

 隔週とは言え、デスクを務める金堂は『噂の掲示板』以外にも多くの仕事を抱えている。対して、その『噂の掲示板』を担当するもう一人、川崎和哉は現役の高校生である。どうしたって時間的に苦しい部分がある。そんな理由で、差し替えできる予備のネタなどは、金堂には準備ができていなかった。

 ――落としてしまうか?

 編集長はそう言っていたが、金堂にはそんな考えは無かった。

 他に仕事が多くあるとは言え、『噂の掲示板』は企画から取材、記事に到るまで、全て自らが関わって来たコーナーである。金堂が特別な想いを抱いていたとしても、それは無理からぬことだった。

 金堂はマウスを握ると、先ほど来ていた川崎からのメールをじっくりと読んだ。

 次号締め切りまでに、まだだいぶ時間があるためだろう。あまり記事になりそうな噂では無い。川崎はたいてい、週に二、三回こうした形でメールを送って来るので、或いはまだ、本ネタを送って来てはいないのかもしれない。そもそも、都内のミステリースポットと言う企画自体が潰れたのである。この線での噂の収集を続けても、当分は出版することが出来ないのだ。

「仕方がないな……」

 軽く、そう呟くと、金堂は電話を取った。

 

 4

 

「――生首が浮遊していたんです」

「いきなり、核心を突いちゃうんだねぇ〜」

 戯けた調子でそう言う川崎であったが、目の前の少女は瞬きもせず、その川崎の揶揄するような視線を受け止めていた。

 またぞろ、川崎は喫茶店の席に腰を下ろしていた。向かいには、小田の紹介してくれた柴田と言う少女が座っている。当の小田は、川崎の隣に座っている。御茶ノ水で待ち合わせた一行は、そのままずるずると近くにある、小汚い喫茶店まで向かった。そして、席に着くなり、柴田の口から吐いて出た言葉が、先のそれであった。

「だって、見たんだもん」

 非難がましい川崎の視線に耐えかねてか、柴田はそう言うと頬を膨らませて答えた。

「イヤ、別にさ。それを否定しようとしているんじゃないんだよ、モチロン。こっちの小田からさ、そのさっきの話を聞いてさ。そいで、詳しく聞きたいなあって思ったからこうして来てもらったんだし」

 適当な言葉を繋げながら、川崎は店員を手招きで呼び寄せると、アイスコーヒーを三つ勝手に注文をしてから、愛用の手帳を取り出した。

「まあ、いろいろ聞きたいんだけど、取り敢えずさ、えーと葛飾だっけ? そこに沼なんてあるの?」

「……沼、と言うか。東水元に香取神社と言うのがあって。そこの裏手が沼というか、池のようになっているんです」

「フンフン」

 手帳を開くと、川崎は素早くペンを走らせる。横に座る小田は、一度聞いた話だけに、興味なさげに、周囲へ漫ろな視線を這わせていた。

「――あれは、先週の日曜日だったと思うんだけど、そこで友達とダベッてたんだ。もう夜中はとっくに廻っているような時間だったと思うけど。そしたら、沼の方からピチャン、ピチャン、って音が聞こえて。気になって振り返ったらそこに……」

「生首が浮かんでいた、と」

「そうなの! もう私たち、びっくりしちゃって。キャーって叫びながら家に走り帰ったんだからッ」

「そりゃ、大変だったねぇ〜」

「本当ッ、あそこは最近変な噂が多くてイヤになる」

「他にも、なんかあるの?」

 店員が持って来たアイスコーヒーを渡しながら、川崎は話を振った。

「なんかねー、あそこの沼はいろいろあるよ。江戸時代には殺人があったとか、子供の頃に聞いた気がするし。最近じゃ、なんかね、あそこの魚が変死するんだって」

「変死?」

「そう。うちの父親が、あそこに良く釣りに行くのね。なんかさ、怪獣に喰われたんじゃないかって言うような死に方してるんだって。食い散らかされて、沼にプカプカ浮いてるらしいよ。だから、あの沼にはネッシーみたいな怪獣がいるって言われてるんだ」

「怪獣、ねえ――」

 川崎は困ったような表情を浮かべながらも、緩慢な動きで手帳へと書き連ねた。長年愛用している黒革の手帳は、川崎の汗と苦労が染み込んだ賜物だった。手帳には今まで川崎が関わった様々な事象が、整然と或いは雑然と書き連ねられ、それは、関係した者が見れば顔を青ざめるような代物であったりするのだが、それら真実は決してこの手帳の外へは出ることはなかった。

「そう。沼底から光る目が覗いていた、とか言う話も聞くし」

「なんだかなー」

「信じてないんだね」

 柴田の、睨むような視線に、だが川崎は臆した様子もなく、アイスコーヒーを飲みながら答えた。

「まあねえ。信じると言うか、僕としては話を聞かせてもらえれば、まあ満足だし。――僕はね、基本的には自分で見て確認したものしか、信じることはないんだ。事実なんてもんはさ、自分で確認して初めて事実足り得るんだと思うしね。机上の空論じゃ、な〜んも見えて来やしないよ」

「――でもさあ、アタシは柴田の話、信じてるよ。だって柴田が嘘言うワケないもん。嘘吐く必要もないっしょ? アタシ騙してもしょうがないし、デバガメなんか騙すのは、もっと必要ないじゃん」

 小田がアイスコーヒーを飲みながら、抗議の声を上げた。

「だから、さ。俺は別に、信じていないワケじゃないって――。そいでその、江戸時代の話ってのは、いったい何なの?」

「ああ、それは……」

 柴田が口を開こうとすると同時に、席上にはミッションインポッシブルのテーマ曲が流れ始めた。川崎が慣れた手つきで懐から携帯電話を取り出す。

「――スパイ大作戦だって、変な趣味ぃ〜」

 小田の声を黙殺して、川崎は受話器へと向かった。

「はいー、川崎です。あ、どうも、はい。はい。へ、そうなんですか? そりゃあまあ、仕方がないですねぇ〜。今からですか? はい、まあ。今? 御茶ノ水です。近いと言えば近いですね。はあ、んじゃ寄らせてもらいます」

「なに? どうしたの?」

「ああ、金堂さんとこ行かなくちゃ」

「金堂って、アンタが写真載せてる雑誌の?」

「そう、デスクの人。ああ、柴田さん」

「はい?」

「ちょっと僕、用事が出来たんで、手短に、その江戸時代の話? それを教えてもらえるかな?」

 そう言って川崎は、にやりと笑って見せた。

 

 5

 

  これは、私の友人のそのまた友人から聞いた話……

 

 

   柴田の家の近くには名もない沼がある。

  神社の裏手にある、都内にしては珍しいくらいの大きな沼

  で、あまり綺麗な沼とは言えないが、フナや鯉などの魚が

  いることから、休日には釣り人たちで賑わうと言う。

  その沼のほとりで、柴田の友人の、そのまた友人が三人、

  当に夜も更けた時刻、家にも帰らずダラダラ取り留めのな

  いことを話ながら、時間を潰していた。

   沼の周囲には灯りらしい灯りはない。

   彼女たちは地元と言うこともあって、周辺の地理には詳

  しく、備えのいいことに懐中電灯を用意していたので、月

  も出ていない真っ暗闇の晩ではあったが、たいして気にも

  せず話を続けていた。

   時刻は、そろそろ丑三つ時……。

   話にも尽きたのか、三人の間に沈黙が広がることが多く

  なっていた。誰からともなく、帰ろうか、と言う雰囲気に

  なって来たそんな時、

   バチャ、バチャ……

   どこからだろうか? 水の跳ねるような音が聞こえる。

   バチャ、バチャ……

   どうやらその音は、沼の方から聞こえて来る。

   三人が、視線を沼の方へと向ける。

   その途端、幾筋もの細長い光がボウッと浮かび上がる。

   三人の視線は、その光に吸い寄せられたかのように、外

  すことが出来ない。さらに三人が沼を見続けると……。

   最後に一際、強い光の玉が浮かび、

   その中央には、人の生首が漂っていた……。

 

「なんだい、その話は?」

 編集部に訪れるなり、話を始めた川崎に向かって、金堂は当然のような言葉を投げかけた。

 相変わらず、飄々とした表情を浮かべ、何を考えているのか窺えない。その様には一種達観したかのような独特なものを含んでいるように、金堂には思えた。一周回り切り、再び巡って来た九十度と言うような位置に、川崎は属しているのだろう。言うなればそれは、四百五十度と言えるのかも知れない。泰然としたままでは成り切れない、辿り着けない位置にいるように見える。

「今さっき仕入れたネタですよ」

「……浮かぶ生首、か」

「ま、夏場に相応しい怪談ってとこッスかね」

 川崎は適当な場所からイスを引っ張り、金堂の隣に腰掛けた。

「しかし、記事にするにはネタが少な過ぎるだろう」

「確かに。でもですね、その沼はまだまだ噂の尽きない沼でしてね」

「他にもなにかある、と?」

「はい。沼のコイやフナが変死するって事件が起きているんッスよ」

「変死?」

「ええ、正確には『食い散らかされたように』死んで沼に浮いているらしいんです。それに関して、沼には怪獣でもいるんじゃないか、なんて言われていまして」

「……バカバカしい」

「まあ、そうなんッスけどね。それを言っちゃ〜、の世界でしょ、僕らの仕事は。それでですね、その怪獣説の他にも、『竹庵和尚の呪い説』ってのがあるんですけど」

「和尚の呪い?」

「聞きたいですか?」

 そう言って、やはり川崎は不適な笑みを浮かべた……。

 

 

  これも、私の友人のそのまた友人から聞いた話……

 

 

   その沼の周辺はその昔、この地域一帯を囲む湖沼地帯

  であったと言う。

   辺り一面を腰の低い芦が多い茂っており、沼の付近には

  幕府の取り締まる処刑所や無縁墓地等が建てられてはいた

  が、沼自体が底なし、などと言われているせいも相まって

  誰独りとして、近寄ろうとするものなどはいなかった。

   それが、ある日からその沼の辺に庵を築き、暮らし始め

  た男がいた。いつの頃から、その男を『竹庵和尚』と呼ぶ

  ようになった。

   和尚は処刑場で殺された死骸を、近くの無縁墓地まで運

  んで墓に埋める等の仕事をしながら生計を立てていた。

   だが、ある日のこと……

   和尚がいつもの通りに処刑所に足を運び、死骸を受け取

  って来る。死骸は普段から荷車などには乗せず、筵をかけ

  たまま、和尚が引きずりながら墓場まで歩いていた。

   その日、処刑人たちから受け取った死骸は軽く、矮躯の

  和尚でも楽に運ぶことが出来た。

   和尚は運びながら、ちらり、ちらりと後ろを振り返った。

   もちろん、誰一人として、後ろに続く者などいない。元

  より、この辺りには和尚以外の人間は住んでいないのだ。

  和尚が向かっているのは『無縁墓地』だ。そんな所へ誰が

  付いて来ると言うのか。

   しかし、和尚が後ろを気にしていたのは、何も人目を気

  にしていたからではない。

   和尚は足を持つ手に力を込める。それは死後間もない

  からであろうか、じんわりとした暖かみと、僅かな弾力

  がある。和尚はもう一度、後ろを振り返った。

   筵は頭から、和尚が持っている足の付け根まで、しっ

  かりと覆い被さっている。

   和尚はそこで足を止め、

   筵の端をそっと捲って見た。

   白い大腿が、露になる。

   身に纏っているものは、何もない。

   ……今日の処刑者は、若い女中だった。

   外様の大名に連なる者の屋敷で働いていたのだが、そ

  の家族の家宝とも言える、帝の紋の入った大皿を、事も

  あろうに割ってしまったのだ。

   和尚は筵を剥ぎ取った。

   心臓の辺りに、三カ所の裂傷。

   血は滲んではいるが、一応綺麗に拭き取られている。

   髪を結い上げ、目を閉じた女中。

   和尚は死体を背の高い芦の茂みへと押し込む。

   乾き始めた唇に、和尚は吸い付いた。

   爪の間に泥が入り込んでいる。和尚の指は汚れていた。

   カサカサに干上がったような手で、まだ温もりの残る 

  乳房を揉みしだく。

   死骸は動かない。

   ただ和尚の動きに合わせて、揺れるだけだ。

   そして和尚の手は下へと伸びる。僅かな茂みの奥にあ

  る局部は、まだ汚れてはいなかった……。

   押さえ切れない興奮が、和尚の体に渦巻く。

   和尚自ら、萎え切っていたと思っていた。

   それが、怒張している。

   もう、和尚には何もわからない。

   夕闇の迫る、紅の空。

   烏の奏でる凶夢。

   誰彼時に出会うもの、それが……

   逢う魔が刻。

   和尚は、芦の上で何度と無く、

   女の秘所を突いた。

   死んでしまった肉体からは、蠕動運動は得られない。

   それでも和尚は構わず、

   何度も突いた。

   ……死姦している。

  和尚の興奮が今まさに絶頂を迎えようとしたその時、

  「貴様、何をしている……!」

   震えるような声を聞いて、和尚は動きを止めた。

   振り返った和尚が見たのは、刀を構えた若侍だった。

  和尚は背後を取られていたことになど、まるで気付いて

  いなかった。

   和尚の顔が歪む。

   苦痛からではない。恐怖からでもない。

   ただ、ばつが悪かったのだ。

   だから和尚は、苦笑いを浮かべた。

   侍の刀が一閃する。

   和尚の頭は首から離れ、

   チャポンと音を立てて沼へと消えた。

 

「――なんだ、そりゃ?」

「今の話が、ええ、和尚の呪い、って言う、その和尚の話です」

「……じゃ、その生首は斬られた和尚の首だとでも言うのか?」

「まあ、そう言う意見もあるらしいッスけど、柴田――ああ、さっきこの話を聞かせてもらった娘の名前です――の話じゃ、和尚と言うよりは、もっと若いカンジの首だったと言う話だから、それもどうかとは思うんですけどね。それと、フナやコイの変死ってのも、和尚が絡んでいるらしいッスよ」

「――なんで?」

「和尚はその沼でですね、フナやコイを食料にしていたらしいんですよ。だから――」

「蘇った和尚が、コイやフナを食い散らかしている、と言うのか?」

「ええ、そうなりますかねえ」

 手帳を開きながら、川崎はこともなげに言ってのけた。

 無茶を通り越した無謀な噂話。だが、噂とは本来、そうした無意味なものだと言うことは、経験上金堂にも知れていた。噂が持つ流動性は或いは、その責任の回避を願う人々の想いからなるのかも知れない。そしてそれらは、いつだって尾鰭背鰭を付けられ語られて行くのだ。それらを外連味やダイナミズムとして処理するのには、金堂には強い抵抗があった。

「根も葉も無い噂だ。まさに最下位レベル、地を這うようなレベルじゃないか。まさか、その話を次回の記事にしようとでも言うんじゃないだろうな」

「でも、先週の企画はボツなんでしょ? 僕はもう、ネタ切れッスよ」

 それは――、そうなのだ。

 金堂には今、そのネタを吟味して、選択する自由など与えられてはいないのだ。この記事を掲載して失笑を買うか、潔く諦めてページを潰すか。それ以外に道は無い。先に川崎がメールで送って来た『ハチ公』関連の噂は、たぶん編集長が認めないだろう。先に東京タワーで痛い目を見ているのだから、渋谷のハチ公などと言うメジャーな銅像を題材に、またぞろ根も葉もない噂を載せたりすれば、今度はどんなところから非難が集まるか知れたものではない。金堂としても、夏のボーナスはともかく、冬のボーナスまで犠牲にするような根性は持ち合わせてはいなかった。

「それにですね――。まったく根も葉も無い噂かどうかは、調べてみなくちゃわかりませんよ」

「何を言い出すかと思えば……。こんな話のどこに信憑性があると言うんだ」

「信憑性があるかどうかは知らないッスけど、話に変な整合性があるような気がするんです。浮かんでいる生首と、和尚の斬られた首は符合するでしょ? それに食い散らかされた魚と怪獣。これらは何かしら論理的に解決できるような気がしてならないんですよ。僕はまだ、現地に行って見ていないので、何とも言えないんですけど」

「待ってくれよ。この話のどこに整合性を見出せるんだ」

「それは、『噂話』ってカテゴリーに押し込んじゃうと、見えなくなってしまうんじゃないッスかねえ。あくまでも、話は僕が採取しているんです。話してくれた娘は、正直にその時の様子を語ってくれましたよ。理路整然と、全然おかしくなかったです。変なのは、『沼に生首が浮いている』くらいで、それ以外はまったく全うでした」

「生首が浮いていれば、それだけで十分に異常だよ」

「でも、ですよ。彼女を含めた三人もの人間が、生首が浮いているのを見ているんです。幻想だ、勘違いだとは言い切れないでしょう。何かを見た、それは間違いの無い事実でしょう。それが、彼女たちには『生首』に見えたのなら、それは『生首』か、それに類するものなんじゃないでしょうか?」

「しかし……」

「締め切りまでには、今週いっぱい猶予があるはずです。どうです、金堂さん? 一度その沼とやらに足を運んでみましょうよ」

 小悪魔的な狡猾さを伴った川崎の笑みを、金堂は渋々ながら受け入れた。

 

 5

 

 二日後の週末に、金堂は川崎と共に、噂の出所と言う葛飾の沼へと赴いた。

 うらぶれた神社に足を踏み入れると、金堂はそれでも厳かな空気に触れ、畏まったような気持ちになった。金堂の生家の近くにも、やはり神社はあった。そう言った方面に明るくない金堂でも、生家の近くにあったのが稲荷明神であったことは知っていた。しかし、この香取神社が何を祀っているのかは、金堂には見当も付かなかった。

 朱色の鳥居をくぐると、本殿がある。

 本殿の入り口には、扁円で下方が横長にさけている銅製の具が付いている。その先には布などで編んだ太い緒が付けられており、その緒がだらりと下まで垂れ下がっている。

「――『鰐口』って言うんでしたっけ? それを鳴らして参拝するんですよね」

 柄にもなく、川崎がそう答えた。金堂の視線を追ったのだろう。緩慢な頷きを返した金堂は、そのまま本殿の中へと視線を向けた。

 ――経津主神、と社には記されている。

「『ふつぬしのかみ』ですね。神武天皇の頃、創設された武神らしいッスよ」

「……良く知ってるな」

 金堂が感心してそう呟くと、一応、下調べくらいはして来ますよぉ〜、と戯けた調子で川崎は返して来た。

 境内は決して広くはない、覆い茂られた木々の枝葉が、中空に張り巡らされ、夏の夕刻だと言うのに妙に薄暗く、それがなおさら社周辺を異様な世界に変貌させているようだ。ただ日陰と言うこともあって、気温は日向に比べると有に二、三度は低い。汗ばんでいた金堂にとっては、幸いなことだった。

 靴底に感じる土の感触を踏みしめながら、金堂は大きなリュックを背負った川崎の背中を追う。川崎は、まるでこの神社に何度も足を踏み入れているかのような、しっかりとした足取りで、スタスタと本殿の裏へと進んで行く。

 ――動作に淀みがない。

 その自信がどこから来るのか、金堂には理解できないが、未だ高校生の川崎はまるで自己の行動原理を疑うこともなく、何から何まで踏まえたかのように行動している。それは未熟故の暴走かとも思うこともあったが、どうもそうではないようだ。暴走と取れるほどの突飛な行動に訴える訳では無い。行動自体は、ひどく真っ当なものなのだ。ただ行動の正当性に疑念を挟む必要性を感じていないのだ。疑問は確実に生じており、それを解消するために馬鹿馬鹿しいと取れるような手順を踏むことをも厭わない。端から見ていると滑稽にも愚かにも見えるし、また行動し続けようとする姿には呆れを通り越し、ある種の尊敬の念すら感じることもあるだろう。

 ――結局のところ、川崎と言う少年は酷く不可解な少年と言えた。

 その優れた行動力や、類い希なる情報収集力は高校生と言うカテゴリーには、どう考えても押し入れられない。十分に、プロの世界でも通用する能力だろう。現に川崎は、若干十六歳ながらにして、雑誌に記事を連載すると言う快挙を成し遂げているのだ。いかに弱小出版社の出す、低レベルな雑誌と言えども、川崎に実力が無ければ務まるまい。

「――ああ、水の匂いだ」

 前を歩く川崎が、唐突に呟いた。

 確かに、水の匂いが漂っている。

 夏の最中だと言うのに、清々しい空気が風に乗って流れて来た。

 神社の裏手は、雑草が覆い茂っている。その中に一筋、踏み固められたかのような道が付いている。その上を進みながら、金堂は目の前にかなり広い沼が広がっているのが見えた。沼の周辺には膝丈程度の葦が覆い茂っているが、見晴らしは悪くない。対岸にまで視線は届くが、有に百メートル以上はあるだろう。水面は滞っているせいか、泥色で湖底を窺うことは出来ないが、さほど深いようにも見えなかった。距離から言って、江戸川とでも繋がっているのかも知れないが、ざっと見たところ支流と繋がっているようにも見えなかった。

「ここが、例の……」

「そう。名も無き沼、ってことですね。実際には、『小合溜』と呼ばれている池と言うことになるみたいです。ただ小合溜は、あっちの東側に橋が見えるでしょ? あっちの先にある水域のことを言うみたいなんですけどね。中川の支流で大場川ってのがあるんッスけど、そっちから流れて来ているみたいです。小合溜の先には水質試験場があるみたいで。金町の方には、浄水場があるでしょう? それの関係施設だと思うんです。昔から、この地域の水質は悪かったらしいんですよ」

 実際、川崎の事前調査に無駄は無い。

 そんなこの沼の水源やら、周辺施設になど今回の話が影響しているとは金堂には思えない。にもかかわらず、川崎は無駄とも思える情報までもかき集めている。金堂が思うに、川崎と言う少年はこうやって事実へと到る道を、一つ一つ丁寧に塗り潰しているのではないだろうか、と。そうやって、無駄とも思える可能性を浄化させ、その中から真実と言う名の結晶を抽出するのではないだろうか?

「生首が、浮かんでいた、か……」

 特別、そんな異様な光景に似合う風景では無い。神社を出て、道路を一つ隔てれば、もうそこは都内の一般的な住宅街だ。そんな怪異が、罷り通るような場所とも思えない。

 ――イヤ、そうじゃないのか。

 怪異が発生するのは遍く、その場所と言うのが大事なのだ。深夜の東京タワーで飛び降りを決行できるのは、その場、その時刻で初めて可能なことなのだろう。それと同じで、未だ暮れない夏の夕暮れでは、いっかな場所が同じとは言え、怪異は発生しないのだろう。

「――金堂さん、あそこ」

 川崎が指で示した場所を金堂は目で追った。

 何かが、沼の水面に浮かんでいる。

 ――なんだ?

 水面がキラリと光った。

 金堂らがいる岸辺から、わずかに離れた位置にプカプカと浮かんでいるのは、魚の頭であった。横にいる川崎は、カバンの中から折り畳み式の虫取り網を取り出すと、素早くそれを組み立て、目当ての魚のお頭を掬い上げた。

「アララ〜、頭だけですねぇー」

 頭だけの魚――おそらくはフナは、胴体部分を明らかに食い散らかされたような格好であった。これがこの沼に怪獣が住むと言われる原因なのだろう。このような、魚の死体が沼に浮いていれば、誰もが異様に思うことに違いない。

「――ふ〜ん、なんかやっぱり、こりゃあ魚の共食いとも思えないし。かといって、和尚の呪いとも考えられないし、そうなると、怪獣ってことなのかなあ」

「おいおい、川崎。なんでそうなるんだ。こんな沼に怪獣がいる訳ないだろう。そりゃあ、ネス湖のような広大な湖だと言うのなら、その可能性を考えることも出来るだろうが、いくら広いとは言え、たかだか都内の沼だぞ。水深だって、せいぜいが三十センチかそこらだろ? こんな沼じゃ怪獣が隠れる場所がないだろう」

「金堂さん、別に僕は怪獣がいるとは思ってませんよ。ただ、こうした魚の死骸が浮かんでいる以上、この魚を補食している生物がいる訳でしょう? それが、何かを調べれば今回のことは割と簡単に解決できるのかもしれませんし」

「こんな喰い方をするようなものがいるか? まさか河童だとか言うなよ」

「そうですねえ。……河童で思い出しましたけど、カワウソとか」

「カワウソが? こんな都内近郊にいるか?」

「まあ、わからないじゃないですか。でも魚を補食して、しかもこういった鋭い歯で噛み切るようなカンジで食べているのを見ると、水棲の肉食動物だと思いますよ。他にはまあ考えられないけど、鮫とか……」

「鮫だって? それこそ、こんな沼には無理だ。そもそも鮫は淡水じゃないだろう」

「そうなると、チョウザメ、なのかなあ。――でも金堂さん、こりゃあ可能性なんですよ。水域と言うことと、この魚の食べ方ですね。それだけを考慮に入れて考えた場合、どんな可能性が見えるか、と言う話で、何も本当にそれらがいるとは考えていないんです。けれど指針があれば、迷わず進めるでしょう? 事実が不明瞭な場合は予断は有効だと思いますよ」

 そう言うことを言う時の川崎の表情は、普段の飄々としたものではなくえらく真っ当な眼差しで相手を見つめる。金堂にはただ、ああと感嘆とも承諾ともつかない頷きを返すことくらいしか出来ない。

「――中に、入ってみたいなあ」

「中にって、沼の中か?」

「ええ、ボートとかないのかなあ」

 周辺には、ボートを繋ぎ止めているような桟橋は見当たらない。そもそも、水深の浅そうなこの沼でボートなどが浮くのだろうか?

「だいたい、沼に出てどうする? 怪獣でも探すって言うのか?」

「まあねえ。出て来てくれれば、それにこしたことはないッスけどね」

「そんなこと……。あるわけ無いだろう」

 金堂の力無い呟きを無視して、川崎は思い出したように懐から携帯電話を取り出すと、電話をかけ始めた。

「――あ、この間はどうも、川崎でーす。うん、まあね、続行中な訳さ。そいでさ、今例の沼にまで来てるんだよ。うん、そう、近所なんでしょ、君の家。イヤ、別に押し掛けようと言うんじゃないよ。あのさ、君んちのお父さん、そう釣りが好きでこの沼に良く来るって言ってたでしょ。そうそう、だったらさ、ボートとか持ってないかな? うん、ある? ゴムボート? ああ、そりゃいい! ちょっと貸して貰いたいんだ。うん、今から行くから、住所は……。はいはい、わかった。うん、地図持ってるから。じゃあさ、ちょっと寄らせてもらうよ」

 電話を終えると川崎は、振り返って金堂へと会心のVサインをして見せた。

「ボート調達オッケーでーす!」

 

 

 三十分ほどで、金堂と川崎は再び沼まで戻って来ることが出来た。

 柴田と言う少女の家は、沼から思いの外近く、空気を入れる前のゴムボートは運搬も楽であった。足で押す空気入れも一緒に借り、沼の岸辺で三人――結局、柴田も様子を見るために参加していた――は汗を流しながら小型のゴムボートに空気を入れ始めた。

 ものの十分もしないうちに、ボートには空気が充満したようで、川崎は一汗拭うとすぐにボートを沼へと押し出した。

 二人乗りの小型ボートは二人を乗せると沼の底に着いてしまうのではないかと、金堂は心配したが、ギリギリの感覚でそう言った事態は免れた。少し漕ぎ進めると、沼底は少し深くなっており、さほどの心配もなくボートを漕ぐことが出来た。

 木々の茂る岸辺から、沼の中央へと向かう。

 夏の容赦の無い西日が、金堂たちを襲った。夕暮れ時とは言え十分に暑い。直射日光を浴びていれば尚更である。ハンカチなどと言う上等なものを持ち合わせていない金堂は、ポロシャツの肩口で、額から流れ出る汗を拭った。

 向かいに座る川崎は、周囲をグリルと見渡しながら、ゆっくりとボートを漕いでいる。いつの間にやらサングラスをかけ、西日に目をやられないようにしていた。準備がいいと言うより、金堂には抜け目が無い、と言う言葉が先に浮かんだ。

 だが確かに沼の中に出ると、水面から照り返す光であまり周囲を良く見渡すことは出来ない。そうなるとやはり、川崎の準備の良さには舌を巻く思いでもあった。

 ――いや、やはり抜け目の無い、と言う方が合ってる。

 沼の中程に出ると、先ほど見たような魚の死骸が、やはり浮いていた。それらは特別珍しくも無く、適当にボートを漕いでいると、それなりに確認できる程だった。

 ――頭を残すとは、好き嫌いをする怪獣だ。

 ふと、そんなことを考え、金堂は苦笑した。バカらしい。これではいつの間にか、怪獣の存在を認めているようではないか。

「あら、なんだこりゃ?」

 唐突に、川崎がそう言うと水面へと手を伸ばした。混濁した沼の底から、何やらを引っ張り上げると川崎はそれを白日の下へと晒け出した。

「……懐中電灯か?」

 金堂の呟き通り、それは懐中電灯だった。

「そうですね。すぐそこに落ちていたんだけど、まだ新しいですよね、これ。ああ、そうか。じゃあ、そうなのかな。岸辺からここまで、どれくらいの距離だろう? ああ、そうだ、あそこに柴田さんがいるんだから、どれくらいか聞いて見るか。ちょっとオール持っていて下さい。電話するんで」

 そう言いながら、川崎はオールを金堂に手渡し、空いた手で懐から携帯を取り出した。

「……ああ、そう僕です。そっちから見えるよね。距離はどれくらいかな? うん、そうかな。そんなもんかあ。でさ、この間見た、そう、うん、ああ、やっぱりこれくらいか。有り難う。もう少しで戻るからさ。えっ? 変なオッサン? どこ。ああ、あっちの橋の上。そうだね、こっち見てるね。まあ、いいでしょ、放っておいても」

 電話を再び仕舞うと、川崎はオールを受け取って漕ぎ出した。

「橋の上?」

「ああ、そこの橋の上に、オジサンがいるでしょ? さっきからこっち見てるって。彼女が心配して教えてくれたんッスよ」

 東側の橋の上へ目を凝らすと、確かに橋に誰かしらの姿が窺えた。

「ここにボート浮かべちゃいけないんじゃないか?」

「え、そんなことないでしょ。問題無いですよ。例え問題があったとしても、あのオッサンに僕らを咎める権利は無いでしょう」

 ボートを漕ぎながら、川崎はいい加減な調子で答えた。

 しかし、金堂の心配は晴れなかった。とかく、この『噂の掲示板』関連の取材は憑いていないのだ。先に都の抗議文を正式に貰ったばかりであったし、そうじゃなくても、このコーナーは苦情や抗議が多く寄せられている。例えどんな些細な苦情でも、金堂にはもうウンザリだった。これ以上無謀なことをして、月給カットなど喰らいたくはなかった。

 そして、そうした思いと同時に、それこそが自分と川崎の差なのだと実感した。

 川崎を見て凄いと思えるのは、そうした柵に一切縛られていないが故である。それはプロとしてやって行くには、一見不利にも思える若さが、逆にプラスに働いているのだろう。高校生でありながら、高校生離れした実力を携え、編集部に属していながらも、その境界はあくまでも曖昧だ。人間は、どこかに属しながらでなければ生きては行けない。だが川崎と言う少年は、属性を複数持つことで、結果どの属性にも縛られない、特殊な位置を見出したのではないだろうか?

 バカな、相手はたかだか――

 その、たかだか高校生に、金堂は何度も助けられていた。

「おーい、そこの二人ぃ〜!」

 いつの間にか、ボートは東側の橋の方へと近付いていた。

 その声に金堂が顔を上げると、橋の上では先ほどからまんじりともしていなかったオジサンが、こちらへ向けて声をかけている。

「そんなとこにボートを浮かべて、何してるんだー」

「釣りですよ、釣りー!」

 川崎は、いつの間に用意したのか、釣り竿を振ってオジサンに向かって叫んだ。そう言えば先ほど、柴田の家からボートを借りる際、一緒に釣り竿を何本か借りていたようだったが、それはこのような事態を想定しての事だったのだろうか?

「そうかあー、ならいいんだがな」

「釣り以外に、こんなところに用はないッスよー」

「いやなあ、ここんとこ変な魚の死骸が浮かんでいてな、あんたらも見ただろ?」

「ええ、喰い千切られた頭がプカプカと」

「そう。だからな、悪さしてる奴らがいるんじゃないかと思って、気にしてるんだよ」

「――悪さっていったい?」

 金堂がそう問いかけるが、それを無視するように川崎は、そんなことしませんよー、と大きな声を返すと、それじゃ失礼しまーす! と声をかけ、ボートを元の岸辺へと向かって漕ぎ出した。

 

 

 ボートを岸辺に引っ張り上げ、空気を抜いて柴田家へと運んだ。

 川崎は柴田に愚にも付かない話をしながら、短い道のりを辿ると、快活に礼を述べその場を後にする。

 金堂には、どうも釈然としなかった。

 ――いったい、何がどうしたんだ?

 ボートを借りてまで沼に繰り出しておきながら、収穫は何も無かった。水面に怪獣の姿を垣間見た訳でも無いし、ましてや生首を見つけた訳もない。見つかったのはプカプカと浮かぶ魚の頭と、懐中電灯だけなのだ。こんな冴えない収穫で川崎はボートを降りてしまった。川崎のことだから、日が暮れるまで沼で怪獣でも探すのではないかと、半ば諦めていた金堂にとって、川崎のあっさりとした引き際は、はっきり言って拍子抜けだった。

 川崎のしつこさを、十二分に知り抜いている金堂には、だからこそ、これしきのことで諦めるような男で無いことは承知の上だった。

 そしてここで川崎が引き下がったからには、

 ――何らかの成果を得た、と考えるべきなのか?

「川崎、おまえ何かわかったのか?」

「さあ、どうなんッスかねえ」

「だって、そうでもなきゃおまえ、途中で諦めたりはしないだろう?」

「まあ、そうなんですけど……。今夜の十二時またここに戻って来ましょう」

「十二時?」

「そうですよ、んで生首が出るまで張り込むんです」

「生首が、出るまでだと?」

「生首の奴は、たぶん夜しか出ないんッスよ。だから夜中に張り込みです。その間に、僕はちょっと調べ物をします。いろいろと不確定なことが多くて。だから後で落ち合いましょう。そうですね、ああ、金堂さんの家か、編集部の方に十一時くらいまでに、僕の方から出向きますよ。十一時くらいは、どっちに居ます?」

「今日は、自宅だと思うけど」

「んじゃ、十一時に金堂さん家で!」

「おい、待てよ――」

 それだけ告げると、俊敏な動作で背を向け、川崎は走り出した。

 

 7

 

 その次の日。

 すでに日付は越えて、もう月曜日になっている。

 せっかくの休日も、昨夜の徹夜が堪えて、ほとんど自室で眠るだけとなった金堂は、連夜に及んでいる徹夜に、些か不満があった。

 ――些かどころでは、無いな。

 隣に座る川崎は、沼の方を向いたまままんじりともしなかった。

 場所は当然、神社の裏手にある小合溜だ。

 沼周辺はしんと静まり返っていた。街道沿いのトラックの轟音もこの辺りまでは響かない。木々に包まれたこの辺りでは、虫の鳴き声の方がうるさいくらいだ。時折、いやしばしば、耳元をかすめる蚊の羽音で眠気から醒まされる。藪蚊がいたるところにいるのだ。金堂もすでに何カ所も刺されている。昨日の経験から、防虫スプレーをして来たのだが、文明の利器も大した成果を上げてはいなかった。

「川崎は、どう思っているんだ?」

「何がですか」

 ごく、抑えた声で、川崎は振り返りもせずに返事をした。胸元には、大事そうに、最近購入したと言う『安原一式』の一眼レフカメラを抱えていた。浮遊する生首を、それで押さえようとでも言うのだろうか? しかし幽霊なら写真には写らないのではないか? いや、心霊写真と言うのがある。ならば写真でならば押さえることが出来るのか……。

「そのカメラで、幽霊を撮影するのか?」

「はぁ? 何の話ですか、金堂さん」

「いや、だから生首の写真を……」

「このカメラに、その『生首の正体』を撮るに決まっているじゃないですか」

「正体? 本当に生首が浮かんでいるとでも思っているのか?」

 

 ――いや、思っているのは、俺の方か?

 

「金堂さん、僕は言ったはずですよ。彼女たちが『生首』を見たと言うのなら、それは確かにあったんですよ。少なくても、彼女たちが生首と思えるのだから、生首か、それに類するものが、あの闇の中に浮かんでいたんです」

 

 ――漆黒の闇に浮かぶ、朧気なる生首。

 

「それに怪獣の話もある。怪獣が出るとは思っていませんが、怪異の説明として怪獣と言う言葉は非常に説得力があるんだと思いますね」

「怪獣も、出るのか?」

 

 ――魚を食い荒らす、沼に潜む化け物。

 

「怪獣ってのは、言葉の文です。前に言ったじゃないですか」

「それじゃ、やっぱり蘇った和尚の……」

 

 ――沼に落ちた首だけが、未だ死に切れず魚を食い荒らし、

 

 彷徨っているのだ……。

 

「和尚? ああ、あの話。あれこそ、根も葉もない噂でしょう。最初に聞いた時、金堂さんがそう言って斬って捨てたじゃないですか」

「まあ、そうなんだが……。それじゃ、いったい何を?」

「何だかんだ言っても、金堂さんは怪異を信じるタイプなんですね」

「そんなことは……。いや、ああ、そうかもしれないな」

 時刻はそろそろ丑二つ。

 草木も眠る、真の闇。

 こんな場所にいれば、イヤでもそう言った気分に飲まれてしまう。場所は神社の裏手の沼で、しかもそこには何やらおどろおどろしい噂が、まことしやかに囁かれているのだ。例え、普段はそんな妄言に踊らされることはなくとも、この舞台装置が整えば誰にだって訪れるのではないだろうか。

 

 ――そう、逢魔が刻が。

 

 日常と非日常は、あたかも真実という名のコインの表裏一体を示しているようだ。

 どちらから覗こうとも、そこには有り得る物しか有り得ない。それでいて、その視点の位置が違うだけで、現実はこれほど揺らぐものなのか? 

 

「僕はね、金堂さん……」

 

 暗闇から、微かな声が聞こえる。

 光源はどこにもない。隣にいるはずの、川崎の姿とて視認できてはいないのだ。

 隣にいるのは、本当に川崎なのだろうか?

 闇に飲み込まれている、その姿は見えない。

 ならば何を持って、そう断言できると言うのだ?

 隣で、微かな息遣いが聞こえる。僅かに発する、衣擦れの音。

 それらがまさしく、川崎の存在を保証するものだと、誰が断言できると言うのか!

 

「――自分で見たものしか、信用しないんです」

 

 その声は、確かに川崎のものだった。

「怪獣なんているとは思えないし、空飛ぶ生首があるとも思ってはいません。でも、それを見たり、それに類する証拠が挙がっていたりする。それならば、それに準ずる何かしらの事象があったのだと、僕は思うんです。怪異の闇は、深淵です。でもね、金堂さん。僕にはそんな闇は効かないんですよ。僕には、これがある――」

 そう言って川崎は、たぶんカメラを手に持った。

「このカメラが、怪異の闇も切り裂いてくれる。真実と言う名の、フラッシュでね」

 

 ――ポチャン。

 

 沼が、鳴った。

 刹那、金堂はその身を竦ませ、視線を沼に広がる闇へと移した。

 微かな、光が見え隠れする。

 

「ひっ、人魂じゃないか!」

 押し殺した声で、金堂は戦慄した。

「違いますよ〜」

「じゃ、じゃあ鬼火か。漁り火か、蓑火でも狐火でもなんでも――」

「金堂さ〜ん、しっかりして下さいよぉー。だいたい、何だってそんな妖怪の名前に詳しいんですかぁ?」

「き、昨日、君と別れてから調べたんだ。水木しげるの本を読んで」

「はあ。そうなんですか」

「それより、どうするんだ?

「しっ! 少し黙っていて下さい」

 そう言って、おそらく川崎は立ち上がり、ゆっくりと岸辺に近付いた。

 岸辺に繋いでおいたゴムボートに乗り込もうと言うのだろうか? わざわざ、幽霊に合いに出向こうと言うのか? 正気の沙汰とも思えない。金堂は半ば抜け気味の腰を浮かせ、沼から逃げようとした。

 その肩に、手が伸びた。

「ヒッ!」

「静かに、って言ってるでしょ、金堂さん。それより、どこに行こうってんですか。これからようやく本番なのに。せっかく二日も徹夜したんですから、あの野郎に文句の一つも言いつけてやりましょうよ」

「ゆ、幽霊に何を言うって言うんだ!」

「幽霊なんかじゃないって言っているのに。まあ、いいですよ、それは。とにかくボートに乗って下さい。漕いでくれなきゃ、進まないでしょ」

「おまえ、一人で行けばいいだろ」

「僕はこうやって、カメラを構えるんです。漕ぎ手が必要なんですよ。さあ早く」

 半ば引き吊られるように、金堂はボートに乗り込んだ。

「いいですか。ゆっくりと、あのチラチラ見え隠れする、光の射す方へ……」

 川崎の言葉に、金堂は唾を飲み込みながら頷いた。

 水の上を、滑るようにボートは進む。

 時折、水を掻くオールの音が、闇の静寂を破る。

 水上の光は、時折水面を照らすように右へ左へと移動している。近付くにつれ、その光が朧気なものから、はっきりとした光源であることが金堂にも見て取れた。白色光だ。可視光線に混濁している様々な色調が織りなす、日光の光だ。幽霊の使う光ではない。

 

 だが、それと同時に……。

 ピチャーン、ピチャーン、と言う微かな音が聞こえて来た――。

 

「やっぱりな……」

 川崎が核心を込めたように、そう呟いた。

「良く見て下さいよ、金堂さん。あの光は、鬼火でも人魂でも、ましてや蓑火でも無い。わかりますか? ありゃあ懐中電灯の光ですよ。しかも、二、三日前に落としたから、まだ新品のはずだ」

「二、三日前に落とした?」

「そうですよ。奴は落としたんです。昨日、いやもう一昨日か、見つけたでしょ? 新品の懐中電灯が落ちていたのを。ありゃあ、奴が落としたんですよ」

「それじゃ……」

「――ここらへんでいいです。いいですか、金堂さん。奴は逃げるかも知れないッスからね。逃げ出したら一生懸命漕いで下さい。奴は紛う事無く生身の人間ですよ」

 止まったボートの上で、何やら川崎がごそごそし始めた。目が暗闇に慣れたせいか、または光源が近くにあるためか、朧気ながらも金堂にはその姿が確認できた。川崎は頭に何かをかぶると、スッとボートの上で立ち上がり、たぶん、カメラを構えた。

 瞬間、世界は白色の淡い光に包まれた。

 マグネシウムの燃え上がった爆発的な光量に、沼は昼間のような明かりを取り戻した。

 そして、金堂の目の前には同じようにボートに乗った、人間の姿が浮かび上がった。

 驚愕に顔を歪め、何が起こったのか瞬時には理解できなかった様子で、そのままの姿勢で固まっている。続けて、何度もフラッシュは焚かれた。それと同時に耳慣れたシャッター音。そして川崎が素早く頭へと手をやると、瞬時に煌々たる光が周囲を照らし出した。

 川崎のかぶっているそれは、工事現場などで使われるヘルメットにライトの付いたものだった。

「やっと見つけたぞ、この生首人間めっ! 貴様のせいでこっちは二日間も徹夜したんだぞ。それにオマエのせいで死んだ、コイやフナもいい迷惑だ。こんな沼に、『そんなモノ』は存在していちゃいけないんだから、コイやフナには寝耳に水だろうが! おまけに僕らは藪蚊に刺されて大変だったんだ。どうしてくれるんだ!」

「ア、ア……」

 ボートに乗っているのは、年若い――と、言ってももちろん川崎の方が若いだろうが――男で、突然の事態に口をパクパクさせている。明らかに狼狽しているのだ。それもそうだ。川崎がどんな根拠を持っているのか知らないが、この人がどうして『生首』の正体になると言うのか?

 冷静さを取り戻して来た金堂には、川崎の行動原理がどうしても理解出来なかった。いや、有り体に考えれば、この人は普通の夜釣りを楽しむ若者にしか見えない。こんな風に、まるで殺人の現行犯を捕らえたかのような態度を示しても、何の根拠も無いではないか。現に、逃げるかも知れない、と川崎は考えていたようだったが、目の前の男は唖然としているばかりで、一向に逃げようとはしていなかった。

「おい、川崎……」

「さあ、爬虫類愛好家! オマエの捜し物は見つかったのかッ!」

「いえ、それが……」

「じゃあ観念して、保健所に連絡するんだ! 一度捨てたんだから、オマエは権利を放棄している! 今更何を言っても遅いんだぞ!」

「しっ、しかし!」

「しかしも、マグマ大使もなーい!」

「ヒ、ヒドイ。最後の『し』しか合っていないじゃないか……」

 金堂が、話から置いてけ堀を喰らっているのは、明らかだった。川崎の言わんとすることが、またこの男が何をそんなに探していたのかも、金堂にはわからなかった。それでも金堂は、自分の立場を理解していた。自分は駿馬社の記者である。そしてデスクと言う立場上、これ以上不祥事を重ねる訳にはいかない。川崎は、確かに優秀な記者となる素質を持っているかもしれないが、その身に一切の責任能力は無い。それらは全て、金堂に降りかかって来るのだ。根拠もなく、相手を非難する訳にはいかないのだ。

「待て、川崎。さっきからオマエは、こちらの方を何やら非難しているようだが、それは何か根拠があって言っているのか。こちらは、どう見ても夜釣りをしていたとしか、思えないじゃないか――」

 男の乗っているボートには、釣り竿やら、網やクーラーボックスなど、どう見ても釣り人としか見えない装備が積んであるだけだ。それなのに、まるで犯人確定のような川崎の物言いでは、もし犯人でなかったとして、その時の責任は――。

 いや、違う。


 そもそも……。


 ――そもそも、何の犯人なのだ!


 この男が、生首だと言うのか? しかし、この男の首は繋がっているじゃないか。それではこの男が、沼のコイやフナを食い散らかした怪獣の正体だと言うのか? そんな話こそ、とうてい信じられない。それならば……。

 川崎は、この男の何を、糾弾しているのだ?

 しかし――。

 金堂の戸惑いを余所に、対峙した男と川崎の姿は、まさに犯人と刑事のそれであった。

「何を言っているんですか、金堂さん。そんな釣り道具一式なんて、どこでも買える。現に昨日、僕らだって橋の上のオジサンに、釣り人だと偽ったじゃないですかッ」

 ――偽ったのは、オマエだ。

 だが、金堂はその言葉を飲み込んで、代わりにもっと建設的な質問をしようとしたが、いっかな金堂からは質問らしい質問が思い浮かばなかった。事態に何かしらの進展があったことは窺えるのだが、では何がどうなったのか、現場にいる金堂には何一つとしてわからなかったのだ。

「そもそも、コイもフナも夜は眠っている。眠っている魚は釣れないんですッ!」

「いったい、どうして……?」

 金堂の戸惑いを余所に、男は川崎に向かってそう問いかけた。

「知らないとでも思っているのか、バカめッ。一週間前にも、オマエはここに来たんだろ? その時、オマエを見かけた連中がいるんだよ」

「しかし、川崎。それは浮遊する生首で……」

「そうですッ! 金堂さん。その生首がこの男なんです。オマエはその時、懐中電灯を落としただろう?」

「ア、ああ、はい……。確かに」

 男は唖然としながらも、正直に川崎の質問に答えた。

「――だから川崎。それがどうして生首と繋がるんだ!」

「いいですか。懐中電灯が落ちる瞬間、重さの関係で、空中で一回転した懐中電灯は、水面を照らすのでは無く、反対に水面を覗き込んでいた『この男の顔』を照らし出したのですッ!」

 

 懐中電灯の明かりが、逆さまになり、持ち主の顔を照らせば――。

 闇夜の中空に、ぼうっとその顔だけを浮かび上がらせ……。

 

 ――浮遊する、生首が。

 

「それじゃ、あの娘たちが見たのは……」

「もちろん、コイツの顔ですよ。面通しするのも面倒だから、今写真を撮ったんです。でも驚いた顔だったからわかり辛いかも知れません。もう一枚撮っておきましょう」

 そう言うと、川崎はパチリとシャッターを切った。

「だが、だが川崎。だからと言って、この人をどうこうする権利は、俺達には無いだろう」

「いいえ、金堂さん。コイツのせいで沼の魚が何匹も怪死することになったのですッ! いくらでもふん縛ってやれば良いんッスよ!」

「どうして、そんなことが言い切れるんだ!」

「わかりませんか、金堂さん。コイツはね、夜中にこの沼に来て、こそこそ水面を探っていた。釣れない魚の代わりに、もっと大物を狙っていたんですよ。そうだな、半魚人!」

「大物って言うのは……」

「その大物こそ、この沼の『怪獣』の正体ですッ。僕は昨日、新小岩のペットショップに行っていろいろと聞いて来たんだ」

「ペットショップ?」

 話がどんどんおかしな方向へと進んで行く。

 だが男は観念してしまったのか、そんな川崎の口を遮ろうとか、反論をしようとか言う素振りは見せない。たぶん――。金堂同様、えらく驚いて半分腰を抜かしているのではないだろうか。

「そうです。そこで怪獣の正体を、ほぼ断定しました。昨日の話、覚えてますか金堂さん」

「昨日の? ああ、怪獣の正体が、カワウソだとか鮫だとか言っていた、アレか?」

「ええ、怪獣なんてものはいないんだから、何かが魚を食べたんです。それにしても、カワウソなんてものは、今や日本じゃほとんど見られない。四国に若干数残存するだけなんです。それにもし、カワウソがいたとしても、こんな食べ方はしないんです。もっと綺麗に全部食べてしまう。それとチョウザメですが、そもそもチョウザメは北海道以北ほどの緯度でなければ生息出来ない。こんな場所にはいられやしないんです! それに、チョウザメは魚を補食はしないんです」

「それじゃ――」

「ああ、そうか。そんな答えは、すでに出ていたんだ。託宣だな、こりゃ」

 川崎は、やはり訳のわからないことを言った。

「何を、言っているんだ、川崎」

「わかりませんか? あったじゃないッスか、神社に。『鰐口』が?」

「え? 何だと? それじゃ――。この沼に、ワニがいるとでも言うのかッ!」

 そんな話こそ、にわかに信じられるものではなかった。

 そもそも、日本でワニが生息することなど有り得るのだろうか? ワニなんてもっと南の亜熱帯低気圧に属するものでは無いのか? チョウザメの存在を、緯度の問題で却下するのなら、ワニとて同様の理由で否定されねばなるまい。

 金堂の抗議に、だが川崎が臆する様子など微塵も無かった。

「チョウザメとワニじゃ、全然話が違いますよ。ワニなんて動物園にもいるし、何よりチョウザメより手に入り易い」

「どうしてだ?」

「ペットですよ。ペット屋行けば、売ってくれますから。ペット屋のワニが、沼に放置されて生きていくのは大変でしょう。たぶんね、魚を補食することは出来ても、カワウソみたいにうまくは出来なかったんッスよ。だからあんな風に、食べ残しが出来ちゃう。それともペットだったから、うまい肉でも喰って、舌が肥えていたのかもしれませんね。沼のコイやフナの味に馴染めなかったのかも」

 小型の爬虫類を愛玩する愛好家がいることは、金堂も知っていた。蛇やカエルや亀などと並んで、人気の動物に『ワニ』がいると言う事も――。

「じゃあ、この人は――」

 金堂は、隣のボートに乗って項垂れている男を指差した。

「そうです。自分で買って育てていたはいいけれど、飼い切れなくなってこの沼に放置したんですよ。まあ、ワニと言ってもペット用の『メガネカイマン』らしいから、成長しても一メートルちょっとなんですけどね。それでもまあ、ペットにしちゃデカいんッスよ。そいでこの人、捨てちゃったんですね。でも、この人のおかしなところはその捨てたワニを、回収しに来たんです。まあ、良心が咎めたってのもあるかも知れないけど、それ以上にこの近所でおかしな噂が出始めていたんで、放置してしまったのがバレると思ったんでしょうね」

「バレる、か?」

「バレますよ、そんなもん。いくらワニを飼う人が増えたと言っても、犬や猫に比べれば遙かに少ない。扱っている店も限られている。ちょっとその気になって調べれば、すぐにバレます。少なくてもこの人は、バレると思った。だからこうして、闇に乗じて回収しに来た、と。そうだなッ、生首男!」

 先ほどから、何遍も呼び名を変えられているにもかかわらず、男は川崎の恫喝に、ヒッと声を上げてごめんなさい、と謝った。

「――それで、あなた。ワニは見つかったんですか?」

「……まだ、見つかりません」

「そうですか。どうする、川崎」

「そうするもなにも、ワニが危険だとは言え、たかだが一メートル程のワニでしょ。沼の中で出会っても、自分よりでかい獲物に手を出すとは思えないし、陸の上なら人間が喰われることなんて有り得ない。放っておいてもいいんッスけど、僕はどうもこの男が気に入らないッ! ペットとして飼ったのに、いらなくなったからと言って捨てるなんて、僕は認めない。オマエはペットを買った、と思っているかもしれないが、買ったんではなく、飼ったんだぞ! 命を金で買えると思うな、この無責任男! 死んだフナやコイに詫びを入れろ、それと捨てられた『ピーチャン』にもだ!」

「ピーチャン?」

「そうです、こいつのワニはピーチャンと言うらしい。さっきボートで近付く時に、こいつが小声で呼んでいるのを聞いたでしょ。例え、コイツの声がワニに届いていたとしても、オマエみたいに薄情な飼い主の元へ、ピーチャンが戻って来るとでも思ったのかッ。いいか、明日にでも保健所に連絡して、この沼さらってもらうからな!」

「それで、ワニが見つかるか?」

「見つかりますよ、金堂さん。昼間の明るいうちにすりゃあ簡単だし、何より人数さけますからねお役所は。暇でしょ、今時分」

「それだけは、どうかご勘弁を……」

 男は情けない声を出したが、川崎はまったく容赦がなかった。

「ダメだ。まったくもってダメだ。草葉の陰から覗いている、あのコイやフナの目が、許してくれそうも……。ありゃ?」

 背後を振り返った川崎は、突如おかしな声を上げた。

「金堂さん! バックして下さい! バックバック!」

「え、はあ?」

「早く、ボートを戻して! ホラ、あそこに、『光る赤い目』がッ」

「あ、ああー!」

 叫んだのは、男の方だった。金堂が振り返ると、確かに闇夜の中に赤く光る微かな光点が見える。あれは……。

「間違いない、ワニですよ、金堂さん。あれ捕まえて、写真に撮りましょう! おい、オマエ。そこの網をよこせ!」

 男は言われるままに、川崎に網を手渡した。

 金堂は川崎にせっつかれるまま、ボートを後方へ向けて走らせた。

「ええ〜い、まだるっこしい!」

 そう、言うが早いか、川崎は沼に飛び込むとそのままバシャバシャとワニに駆け寄った。沼は思いの外、浅い。何やら格闘する音が沼の暗闇に響いたが、しばらくすると『ワニ、捕獲!』と言う川崎の叫び声が聞こえ、暗闇を切り裂く川崎のカメラのフラッシュが、辺りを煌々と照らし出した。

 

 8

 

 金堂の心配も余所に、『噂の掲示板』は、刊行の許可が下りた。

 結局、『ワニ騒動』の話は、『現代の都市伝説・その事実の一端』と題し、民族学的な噂の根拠を辿るような記事になってしまった。噂とは何か、それがどうして発生するのか、と言うような主題を扱いながら、そしてそれが、どの程度事実を含むものなのか、そうしたことを、今回の『ワニ騒動』を題材にして書き連ねた。

 編集長の許可は、容易く下りた。

 何より、豊富な現場写真と、ペット遺棄の現場を押さえた瞬間、そしてワニ捕獲の瞬間を捕らえた写真が決定的だった。今回の記事は、ペット遺棄に関する現代人批判と言った側面もあり、編集長からは『いつから社会派に転向したんだ?』などと揶揄られ、金堂は苦笑いをして見せた。

 自席に戻り、金堂は懐からたばこを取り出した。

 久しぶりに、満足の行く仕事が出来たのだ。

 結局――。

 ワニは例の男に返された。川崎が持っていても仕方がないし、もとより金堂もワニを飼う気などなかった。あの場合、そうするのがベストであったと金堂は思っている。

 『浮遊する生首』も『変死する魚』も、種がわかってしまえば、驚くようなことは一つとして無く、それらに振り回されていたここ二、三日の自分を省みると、金堂は酷く恥ずかしさが募った。何より、沼のほとりで見せた数々の醜態が、これからの自分と川崎との関係の何らかの変革を生むのでは無いかと、心配を続けていた。

 

 『メールが届いています』

 

 PCから、メールの着信が告げられた。

 マウスを操作し、金堂はメールを確認する。

 

 差出人:川崎和哉

 

 件名:ワニ・補足

 

 ワニに関する情報で、面白いのを見つけました。

 間に合うようなら、次号に一緒に掲載してみてはいかがでしょう?

 驚くべき事に、出典は『ニューヨーク・タイムズ』です。

 

 

 『住宅街の下水口でワニ発見!』

 <マンホールへ雪を捨てていた若者達>

  昨日、濁ったハーレム川近くの東一二三番通りに住む若者達が夕暮れ時、このところ降った雪をマンホールに捨てていた。

 サルバトーレ・コンダルッチ君(東一二三番通り四一九番地在住、十六歳)はマンホール縁のあたりで、雪を放り込む役を割り当てられていた。彼の仲間たちは汚れた雪を彼の近くに積み上げていった。彼は下水口の中に注意しながら、雪の山を片付けようとしていた。

 と、突然、十フィートばかり下の方で下水口が詰まったようだった。そこらあたりはマンホールの穴が川へと続く下の暗渠へとつながる場所だ、サルバトーレ君は「おい、ちょっと待った」と言い、膝をついてその中がどうなっているかを確かめた。

 真っ暗な中でそれを見つけた時、彼はその穴の中にグラッと倒れ込んでしまうほどに驚いた。下の方でつかえているギザギザした表面が動いたからだ。そして、何か黒いモノが氷を割って進んで来るじゃないか。彼は目を丸くした。そして飛び上がって友達を呼んだ。「マジかよ、ワニだぜ!」彼は大声で叫んだ。

 

 『ニューヨークタイムズ紙・一九三五年二月十日付』

 

 いったい、川崎と言う少年は、どこからこのようなものを持ち出して来るのか……。

 素早く、金堂は行動に出た。ネットでニューヨークタイムズのバックナンバーを調べると、驚くべきことに、確かに川崎のメールと同様な記述が確認できた。原文は読めないが、人類学者のローレン・コールマンが発見した有名な記事らしい。

 ――とにかく、裏付けは取れたんだ。

「立花! 『噂の掲示板』に追加記事を載せてくれ! 急げよ、時間が無いんだ!」

 金堂の声が、狭い編集部を震わせた。

 


 2000/7/9

 原稿用紙換算:百二十枚

 参考文献・HP

 消えるヒッチハイカー ジャン・ハロルド・ブルンヴァン著 新宿書房

 ニューヨーク・タイムズ (一九三五年二月十日付)

 やっぱりわにが好き! HP(アドレスは書きません)

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