漆黒の悪魔
「――そうですか、わかりました。それでは帰宅されましたら、こちらの方へ電話していただけるように、伝言してください。大友です。はい、大きいの大に、友達の友。大友です。それではすいませんけど、お願いします。
あっ、ちなみに由紀さんは何時頃帰って来るとか……。ああ、そうですか、もうそろそろですね、七時と言えば。そうですか、わかりました。それでは失礼します。はい、はい。どうも、すいません。お願いいたします」
大友浩一は、深々と電話機に向かって慇懃なお辞儀をしながら、両手で丁寧に受話器を置いた。
フーッと、大友は深い息を吐く。
受話器を取るのが、まさか母親とは思っていなかった大友は、それだけでもかなりの緊張を強いられてしまい、なかなか用件を言えず、それがまた緊張を強めると言う、かなり馬鹿馬鹿しい悪循環を繰り返してしまった。
手に汗をダラダラとかき、頭は混乱し、呼吸は乱れ、髪を掻き乱し、必死に次の言葉を探り、敬語は錯綜し、用件は忘れ、とにかくひどい有様であった。
受話器を置いた大友は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出すと、プルトップを押し上げ、ゴクゴクとのどを鳴らした。飲み込まれて行くビールを、呼吸困難な状態まで飲み込むと、そこで大友はカンから口を離した。
「プハ〜。あー、緊張した」
そもそも、相手が違っているではないか、と大友は先ほどの電話を振り返る。
彼女の両親が出て、それにあれほど緊張していたら、本人が出たらいったいどうなるのだろうか? これではまるで、中学生の初恋ではないか。
大友は残りのビールを一息に飲み干すと、大の字になってベッドの上へと倒れ込んだ。天井へと向けた視線は、だがいつのまにか彼女の顔へと変わってしまう。重傷だな、こりゃ、と大友が思うのも無理からぬことであった。
彼女が大友のサークルに入って来たのは、先月の始めのことだった。四月の新入部員獲得の季節を過ぎても、相変わらず大友の所属するサークルには、見学にすら来る生徒はいなかった。それが五月に入って、急に二人の部員が入部して来たのであった。
大友の所属するサークルと言うのが、そもそも大学で存続するのも難しい、と思われるようなサークルだったので、新入部員の獲得よりも、現状を必死に維持する、と言うような日々が続いており、それは言うなれば悪循環の連続で、大友も新入部員の獲得に、まったく関心がなかった訳ではなかったし、それどころか獲得のためならどんな犠牲も払わない覚悟であった。しかし去年、一昨年と連続して新入部員ゼロのサークルで、いったいどんな手を使えば、新入部員の獲得が出来るのか、頭を抱える状況であったので、大友ももう報われないことで悩むのはイヤだったのかも知れない。そんな訳で、今年の新入部員の獲得には、積極的に乗り出すことはせず、積極的に乗り出した去年、一昨年の状況から鑑みても、当然の結果とも言える新入部員ゼロ、と言う結果に終わったのであった。
だが五月になって二人の新入部員を迎えるに至ったのには、それなりの理由があるのではないか、と大友は考えていた。もちろん、それがわかればこれからの新入部員獲得に向けて、大きな指針になるのではないか、と考えるのは当然のことなのだが、結局のところ、その二人が如何な理由でもって、大友の所属するサークルに入部するに至ったのか、と言う点については、未だ謎につつまれたままになってしまっていた。
だが本来なら、大友がそれを調べずに済ませてしまえない境遇にいるのは、先述の通りなので、それは大友にもわかっていたはずなのだが、今の大友にとって新入部員がどうして入って来たか、などと言うのは些末な問題にしか過ぎずに、彼にとって、彼女が今、自分と確実に接点のある状況にいると言うこと、それだけが至上の問題なのであった。
「あー、ユキちゃん……。かわいいなー」
今の大友を動かす原動力と成り得るのは、すべてこのユキと言う名の新入部員なのであった。今、大友の頭の中にはユキの事柄しかインプットされておらず、何よりも優先されるのがユキちゃんの問題で、何をおいてもユキちゃんのことしか考えられない、と言うバカな状況に陥っているのであった。大友の脳のどこを切っても、ユキちゃんのことが出てくる、と言う金太郎飴状態で、この大友の状態には周囲の友人たちも、呆れた顔で諦めてしまったようである。
とにかく、今の大友にとってユキちゃんと言う存在は、絶対的な存在として脳内に刻み込まれており、そのユキちゃんを何とかゲットしたい、と願っているその大友の想いは、そりゃあもう、半端な代物ではないのであった。
「……とにかく、まずはデートに誘わないとなー」
大友はポケットに入れていた二枚のチケットを取り出した。それは今、若者に人気の俳優が出演している、最新作の映画のチケットだった。
「ユキちゃん、もう見ちゃったかなー」
だが、たとえこの映画を見ていたとしても、大友には心配はなかった。何しろ彼は、他にも映画のチケットを三つ用意しており、先ほどの映画が恋愛映画なのに対し、残りの三枚は、アクション、コメディ、社会派と彼女の趣味がどんなものでも対応出来るように、様々なジャンルのチケットを用意していたのだ。
大友はくっくっく、と低い忍び笑いを漏らす。
彼の妄想の中では、ユキちゃんはすでに彼の子供と一緒に、川の字になって眠っており、デート、恋人、セックス、結婚、出産と言う五つの段階は、すでにクリアした後であった。
いつまでもベッドに横になっていられるほど、大友は肝の据わった男ではなかった。何しろこの後に、愛しのユキちゃんから電話がかかってくる予定なのだから。大友が落ち着いていられるはずもなく、上体を起こした大友は、手近にあったリモコンのスイッチを押して、テレビを付けた。
テレビの中では、話題の松坂投手が、その類い希なる豪腕を披露しており、球場を大いにわかせていた。
「……そうか、ユキちゃんと松坂って同い年になるのか。へえーすげーなー、松坂って」
さて、と何気なく大友が口にしながら、ベッドから降りようと足を伸ばし、履き慣れたスリッパへと辿り着こうとしたその瞬間!
ガサゴソ!
――何だ、今の感触は?
足下から伝わる、微かな感触。
刹那、駆け抜けた激しい悪寒。
大友の口から、絶叫がほとばしった!
「うぎゃー!」
瞬く間に、自らの視界から消え去った黒い悪魔に、大友は唖然として呟いた。
「……なんで、いるんだ?」
力無く呟いた大友は、だが固めていた体を素早くベッドへと引き上げ、室内へ国境警備隊のような鋭い視線を巡らせた。
「何でいるんだよ。毎週毎週、欠かさずバルサンしてるし、ホウ酸団子もくまなくセットしてる。コンバットも、ゴキブリホイホイも完備してるっていうのに……」
室内を再び黒い稲妻がひた走る。ヒィっと息を飲む大友。
大友は確かに見た。やはりそれは間違いでも、錯覚でもなかった。艶やかな背中は、ゾッとするほどに黒々と輝き、その頭の二本の触覚は、辺りをうかがうように、しきりと動き回っている。前後に数回足を伸ばし、平坦な床から、垂直の壁まで、自在に駆け抜けるその姿は、大友の背中へ悪寒とともに刻み込まれた。
「おかしいだろ。おかしいよな。だって俺の部屋であのゴキ……、いやあの悪魔が動き回るなんて、有り得ないんだよ。ちくしょう、どうすりゃいいんだ!」
その、大友の激高を嘲笑うかのように、悪魔は再び大友の視界を駆け抜けて行った。
「……そうか、たぶんそうなんだ。隣の家の奴が、うちにも忍び込んで来たのに違いない。どんなに努力しても、隣の部屋まで掃除する訳にはいかないからな。ちくしょう! 盲点だった」
そう言って大友は、僅かに身を震わせる。
しかし大友は、いつまでもそうしてベッドの上で固まっている訳にもいかなかった。そろそろお腹の空く時間帯でもあったから、何かしらの食料を手に入れなければならなかったし、あの黒い悪魔を倒すための幾つかの武器も、ベッドの上には配備されてはいない。そして何より、もうそろそろユキちゃんからの電話が、かかって来てもおかしくない時間帯であったのだ。
よし、と勇ましい呟きを漏らし、大友は再びスリッパへと足を伸ばしたが、足が触れるか否かの僅かの距離で足を止め、そのスリッパへと驚愕の瞳を向けた。
大友のユキちゃんに対する想いが凄まじいのと同じように、黒い悪魔が大友へと与える恐怖も、また凄まじいレベルにあった。少なくとも大友は、一度黒い悪魔が駆け抜けたスリッパへ、足を突っ込む気にはなれなかったし、かといって悪魔が走り回る、危険なエリアに素足で踏み込む勇気など、なお持ち合わせてはいなかった。
「くっそー! 黒い悪魔めっ!」
だがベッドの上でいくら息巻いたところで、現在の身動きの取れない状況では、どんな進展も望めなかった。
「……まるで、俺は絶海の孤島に一人残されたロビンソン・クルーソーのようだ。このままでは、このベッドの上で餓死するしかない。ちくしょう! どうすりゃいいんだ!」
ガサコソ!
と床を駆け抜ける奴の音が、再び大友の顔を歪ませる。
「――まず、そう武器を手に入れなくては。必殺のアースジェットは台所の戸棚の中だ。あれさえあれば、あんな奴に恐れをなすこともないんだが、ベッドの上ではどうあがいても届かない。手近に武器になるようなものは……。あれだな」
大友のギラリと光った目の先には、先週号のヤングジャンプが転がっていた。だがベッドからの距離は微妙に遠く、軽く腕を伸ばせば届く、と言う訳にはいきそうもない。
しばらく思案顔を続けた大友は、不安定なベッドの上で両足を踏ん張り、窓際のカーテンへと左手を伸ばし、それをしっかりと握ると、三点確保で床に置き去りにされた雑誌まで腕を伸ばした。
床に落ちそうになり慌てて身を引いたり、床を走り回る暴君に身を竦ませたりしながらも、数度目かのトライで、大友は雑誌を掴むことに成功した。
「よっしゃー!」
大仰な雄叫びを上げて、大友が頭上にガッツポーズを示す。
そしてそんな大友を挑発するかのように、漆黒の甲虫は床の上を走り回る。だがさすがに大友も、いつまでも走り回るのみの甲虫に、恐れを抱いている訳ではなかった。走り回るその異体を見ながら、いつ必殺の一撃を放つかと、じっとその隙をうかがっていた。
そしてチャンスは訪れた!
再び黒い悪魔は、自らの回帰本能からか、一度触ったスリッパへとその歩みを伸ばしたのであった。大友の攻撃範囲から見ても、その場所はまたとない攻撃の好機であった。
スリッパの上を這い回る、その黒光りする背を見据え、大友は渾身の力を込めて、雑誌を握りしめた右腕を振りかぶり、そして打ち下ろした。
すべては完璧であったはずで、大友の狙いは寸分狂わず、敵の背中へと打ち下ろされていたし、そのスピードはたかが害虫が躱せるようなレベルではなかったはずであった。
「ぎゃあーうぉあー!」
凄まじい絶叫が、室内を震わせた。
躱せるはずのない大友の一撃。それを受けた漆黒の悪魔は、その背に格納されていた四枚の羽を震わせ、中空へと羽ばたいたのであった。悪魔は真っ直ぐに雑誌の飛来する方向へと突き進み、間一髪にその一撃を躱すと、そのまま直進を続けた。そう、大友の顔面へと向かって。
大友は飛んで来たアンゴルモアの大王へ、唯一の武器であった雑誌を投げ付け、何とか最悪の事態を逃れることが出来た。だが武器を手放してしまった大友は、もはや七の月の最期を待つことなく、マルスの支配を受け入れることになるだろう。
「ハア、ハア、ハア……」
荒い息を吐いて、大友は固まってしまう。その大友の瞳は、瞬くことすら忘れて、今の惨劇を受け入れられずにいた。何が起こったのか理解できずに、茫然自失の表情には、もはや血の気など完璧に失せてしまっていた。
トゥルルルル……
トゥルルルル……
何の音か、それを思い返すまでに、数秒の経過が大友には必要だったに違いない。これが何の音であるのか、その事実を悟った時、大友の大脳はようやくその機能を復旧させることに成功したのだ。そして大脳の復旧とは、同時にユキちゃんに対する想いの復活でもあった。電話の相手が誰であるか、それは出るまではわからないことなのだが、今の大友にはその相手がユキちゃん以外である可能性など、予想もできない発想であった。
だがしかし、その脳髄にはもう一つの、頑なな感情をも同時に沸き上がらせていた。原始に刻み込まれたのか、或いは隔世的な遺伝のせいなのか、理由は解らない本能的な恐怖が、じわりと胸を締め付けるのであった。
「電話だ、ユキちゃんからの……。出なきゃ」
しかし、電話までの距離は遙か彼方。大友の目からは霞んですら見えて、その隔てる距離を詰める手段は、持ち得てはいなかった。そしてその間に横たわる、荒涼とした地帯は、大友の侵入を手ぐすね引いて待っている、恐ろしい悪鬼の巣窟でもあった。
ユキちゃんへの想い、悪魔への恐怖。相容れない感情の錯綜は、大友へ究極の選択を迫っていた。愛との交歓か、或いは恐怖への屈服か。どちらかを選ばなければならない状況は、確実に大友を追い込み、そのどちらを選ぶことも、非常な困難を大友に強いていた。
足を、床へと伸ばす。その先に潜んでいるのであろう、あの黒光りする悪魔の、嘲る声が大友の耳には届いて来る。鳴り続ける電話。それが渦巻く恐怖へと進む大友を、微かに現世へと引き留めることの出来る、頼りない光の糸であった。その光に向かって、大友はその足を、床へと踏み出した。荒涼とする大地へ、素足のまま大友は歩き出す。
ガサゴソ!
再び、奴の動き出した気配が、その跫音が、大友の耳にも届いた。
(やばい、やられる!)
息を止めることにどんな意味があるのか、それは大友にもわかってはいなかったのだが、大友は息を止めて、自らと電話の間に躍り出た悪魔の全身を見つめていた。
その触覚が、まるで意志を持つように、大友へと語りかけて来る。そう、それは悪魔が囁く言葉に違いなかった。大友は甦ったメフィストフェレスと対峙しているのであった。
『……おまえを、電話に出す訳にはいかない』
低く、威圧するような声が、大友の脳髄には響いていた。
(うるさい、悪魔めっ! 俺は電話に出なきゃいけないんだ。そこをどけ!)
『おまえが欲するのなら、なおさら私はここをどくわけにはいかないな』
(ならば、貴様を退治して受話器を取るまでだ!)
『フォフォフォ、勇ましい限りだな。だが武器も持たないおまえが、いったいどうやって私を退治すると言うのだ? さあ、私は何もしない。退治できるのなら、退治してみろ』
大友は奥歯が折れるほどに、強く噛み締めていた。悪魔の語る通り、武器の無い今の大友には、この悪魔を撃退する方法はないのだ。せいぜいが、神へと祈りでも捧げ、その退散を願うのみであった。
『どうした、若人よ。祈るべき神はおらぬか? ならば、我を求めよ』
その言葉と同時に、ゆっくりと悪魔は大友へと近寄って来る。
(やめろ! 来るな<)
だが強く念じる大友の願いも空しく、悪魔の歩みはゆっくりと、だが確実に大友のとの距離を詰めて来るのであった。
『――我を求めよ、我を求めよ……』
「くっ、来るな……」
『汝の肌を、二本の触覚で睨め回し、六本の足で何度と無く駆け上がろう。我は汝なり。汝は我なり。認めよ、醜悪なる我こそ、貴様の本性であると……』
「や・め・ろ……」
大友の呟きも空しく、悪魔の行進は続く。
電話は鳴り響く。室内を、いや大友の脳髄を震わせ、その音は止む様子もない。鳴り始めてから、どれくらいの時が過ぎたのか、大友には判断が付かなかった。判然としないのは、時だけではない。五感と言う五感は、その機能を失し、曖昧とした意識は、現実との境界を曖昧なものとした。
体が、軽くなって行く。
視界が次第に曖昧となる。
世界は赤と黄色の熱量で現されている。
視覚が捉えるものが、今までと変わってしまったのだ。
聞こえて来るのは、時。
噛み締めるのは、色。
感じるのは、音。
そして世界は、平坦になった……。
どんな抵抗も持たずに、それを受け入れてしまえる自分と言うものは、もはや大友浩一と呼べる者とは別な存在なのではないか。そう、私はもう大友浩一などではない。地を這うただの甲虫に過ぎない。五感は入れ替わり、視覚は無く、触覚にすべてを委ねている。だが、音。音は感じることが出来る……。鳴り続けるのは、電話の音。
(――ユキちゃん……)
だがもう甲虫は、音を発することが出来ない。
無意味に床を這い回ると、音の方へと向かって行く。
受話器は感じることが出来るが、それを取る手は無い。だから甲虫はその上を這い回るだけだった。
「――残念だったな。若人よ」
不意に頭上から声が聞こえたが、甲虫はそれを知覚する間もなく、上から打ち下ろされた新聞紙によって、粉砕された。
大友だった人型は、潰された甲虫を新聞紙で除けると、鳴り続けている受話器を取った。
「――大友です。ああ、汝がユキちゃんか……。いや、こっちの話だ。それよりユキちゃん。映画のチケットが二枚あるんだけれど、一緒にどうかな? うん、そう。その映画だよ。いい? わかった。じゃあ、いつにしようか……」
1999/5/20
原稿用紙換算:23枚
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