〔資料〕=亜州革命資料掲示板/蘇丹・加里耶夫
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ウクライナ共産党(ボロチビスト)について
中井和夫著『ソヴェト民族政策史 ―ウクライナ 1917〜1945―』より



(1) ウクライナ共産党(ボロチビスト)の形成とコミンテルン

 一九一七年四月、キエフで結成されたウクライナ社会主義者・革命家党(ウクライナ・エスエル党)は、ウクライナでの革命的民族運動の昂揚の中で、ウクライナ社会民主労働党と並んで、ウクライナにおける最大の政党に成長した。しかし、同時に、党内の分岐も生じ、一九一八年春のドイツ・オーストリア軍のウクライナ占領、ヘトマン・スコロパツキー政権の登場後、五月一三日−一六日にかけてキエフ近郊で行われた第四回党大会で農民蜂起の指導などをめぐって左派と右派が分裂した。より急進的な左派はこの大会において党中央委員会の多数派を形成し、機関紙「ボロチバ」(闘争)をも掌握した。ボロチビストという名称はこの機関紙から由来している。

 ウクライナ・エスエル(ボロチビスト)党は、その農村における強い影響力を基礎に、ドイツ・オーストリア軍、ヘトマン政府に対する農民叛乱に参加し、指導的役割を果たした。ボロチビストはウクライナ人諸党派の中では、ウクライナ社民党左派、ブンド左派と並んで最もボリシェヴィキ党に近く、ウクライナにおけるソヴェト革命、労働者・農民・兵士のソヴェトに全権力を、というソヴェト革命をウクライナで遂行しようとしていた。その意味で彼らはウクライナにおけるボリシェヴィキたらんとしていたのである。しかし彼らは、ロシアのボリシェヴィキのウクライナへの革命的進攻には強く反対し、ウクライナのソヴェト革命はウクライナの共産主義者によってなされなければならないと考えていた。ボロチビストのスローガンは、ウクライナが独立した社会主義共和国となることであり、独立したウクライナ赤軍を形成することであった。とくにウクライナ赤軍の形成の要求は、一九一八年一月のムラヴィヨフ軍の経験から出てきているもので、ボロチビストとボリシェヴィキの一九二〇年における対立の起点となった。

 一九一九年一月中旬、ボロチビストは独自のウクライナ政府を形成した。この政府は、当時のより民族主義的なディレクトリーア政府に反対し、ウクライナ労農ソヴェト政府を形成することを目的としていた。ボロチビストはまた、一九一八年末にクルスクで形成され、当時はハリコフに移っていた、ボリシェヴィキのピャタコフを首班とする政府との共同行動をめざして交渉を開始した。ボロチビストがおもに依拠した軍隊は、南部ウクライナで活動していたフリホリエフ農民軍であった。一九一九年二月、このフリホリエフとハリコフ政府・赤軍代表との間で交渉が妥結し、フリホリエフは赤軍の指揮下に入り、共同行動をとることになった。また、同じ二月、ボロチビストのキエフ・グループはウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)との合流を提起した。この頃一部のボロチビストは個人的にボリシェヴィキ党に入党し、またボリシェヴィキ党内部にもボロチビスト党との合流を主張する部分があった。しかし、一九一九年三月一日からハリコフで行われたウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)第三回大会で「プチブル諸党派に対する態度」という決議がなされ、ボロチビスト党などの、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)への合流は拒否された。

 一九一九年夏、ウクライナはほぼ全域がデニキン軍によって占領され、ウクライナ・ソヴェト政府、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)の多くのメンバーがロシアに退くという状況の中で、ウクライナに残ったボロチビストは独自のウクライナ共産党(ボロチビスト)を形成することになる。

 一九一九年八月二八日、キエフからコミンテルン執行委員会に宛ててつぎのような手紙が発せられた。
 「一九一九年八月六日、ウクライナ社会民主労働党(独立左派)中央委員会とウクライナ・エスエル党(共産主義者―ボロチビスト)中央委員会は、『全世界のプロレタリア団結せよ!』というスローガンの下に両党を一つの統一したウクライナ共産党(ボロチビスト)として合同せしめることを決議した。ウクライナの共産主義の二つの部隊の合同は都市と農村でのウクライナ共産主義勢力の組織的・イデオロギー的強化のための新しい出発点である。……ウクライナの共産主義者(ボリシェヴィキ)と協力しつつ、ヘトマン体制、ディレクトーリアに対する闘争を指導し、二つの共産主義の中心がこの国に存続することの危険を考え、ウクライナの共産主義勢力の組織的・イデオロギー的中核(共産主義者―ボロチビスト)は、蜂起の時期に両党間の一つのソヴェトセンターを組織することを追及した。そして一九一九年三月、共産主義者(ボリシェヴィキ)との組織的合同を要求した。共産主義者(ボリシェヴィキ)は一つの統一した共産主義的センターを形成するというこの必要性を理解せず、十分に評価しなかった。ウクライナにおけるプロレタリア革命の更なる展開の中で、統一したウクライナの共産主義的センターを形成することが不可欠であるという確信はいよいよ高まった。このような経験のもとに、二つの共産主義的グループを合同し、この国における共産主義運動の指導部隊として、また第三インターの隊列にその代表を派遣するものとして、統一したウクライナ共産党(ボロチビスト)を形成した。……
               ウクライナ共産党(ボロチビスト)中央委員会」

 この手紙に述べられているように、ボロチビストはウクライナの共産主義勢力の統一をはかり、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)の統合拒否の後、今一つのウクライナ人社会主義党派でありソヴェト革命派であったウクライナ社民党左派(独立派)と合同して新たにウクライナ共産党(ボロチビスト)を結成し、ウクライナにおける共産主義勢力を代表するものとしてコミンテルンに参加する旨伝えたのであった。これに対するコミンテルンからの正式な回答は半年程後になるが、この手紙が印刷されたコミンテルン執行委員会機関誌にはつぎのようなコメントが付せられた。「一九一九年三月にモスクワで行われたコミンテルン大会において、ウクライナはウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)によって代表されていた。組織的には〔コミンテルンへの代表権は〕現在もこの党に属している。〔ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)は〕二〇年間の活動を行ってきたウクライナのプロレタリア組織である。コミンテルン執行委員会は、一つの国には共産主義勢力を結集した、ただ一つの共産党が存在するように努力することを義務と考えている。ウクライナにおいてもまったく同様である」。このコメントはコミンテルンの正式な決定ではないが、コミンテルン執行委員会がウクライナ共産党(ボロチビスト)の形成を歓迎していないことがはっきりと窺われる。

 一九一九年一二月二二日、ペトログラードでコミンテルン執行委員会会議が行われ、ウクライナ問題が審議された。この会議にはウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)とウクライナ共産党(ボロチビスト)の中央委員が同席した。両党の報告および討論の後、執行委員会はつぎのように決定した。

 (一)コミンテルン第一回大会において、ウクライナはウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)によって代表された。大会はこの党を、ウクライナのプロレタリアートを完全に代表するものとして認めた。
 (二)第三インターへの加盟を望み、その行動の基礎を第三インターの諸原則に置き、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の綱領を完全に認めている、ウクライナ共産党(ボロチビスト)の代表の報告を審議した結果、この党がごく最近形成された故に、ウクライナの都市・農村プロレタリアートの中にまだ確固とした足場を築いていず、いまだに上記の意志を十分に実現しておらず、第三インターの諸原則の正しい適用を通して証明されていないことが示された。
 (三)コミンテルンに加盟するというウクライナ共産党(ボロチビスト)の希望に対しては、一つの国には一つの統一した共産党が存在すべきであるという原則に則って、ウクライナのあらゆる共産主義勢力は一つの党に合流すべきであるという回答が与えられる。
 (四)執行委員会は、ボロチビスト党に対して以下の諸問題にできるかぎり包括的な回答(文書による)をするように提案する。(a)農業問題に対する立場、(b)民族問題に対する立場(とくに民族的文化、『スピルカ』〔ウクライナの農民同盟のこと〕に対する立場)、(c)一つの統一した赤軍の形成に対する立場(とくに、パルチザン問題に対する立場)、(d)一つの特別な経済的センター形成に対する立場、(e)ソヴェト・ロシアに対する立場。
 (五)略。

 こうして、ボロチビスト党のコミンテルンへの訴えは、ボロチビスト党の種々の「民族主義的性格」、すなわち、独立した赤軍の形成、パルチザン運動の指導、スピルカの問題、ソヴェト・ロシアとの関係についてなどを理由に実質的に拒絶された。

 ボロチビスト党は一九二〇年に入って再度コミンテルン執行委員会に対する訴えを行うが、これに対してコミンテルン執行委員会は一九二〇年二月二六日、ボロチビストのコミンテルンへの加盟についてつぎのような最終的決定を下した。

 (一)コミンテルン執行委員会は、ボロチビスト党が共産主義政党と名乗っているにもかかわらず、実際には多くの重要な諸問題において共産主義の諸原則を逸脱していることを遺憾ながら確認した。
 (二)ボロチビスト党の機関の中で赤軍に対して反革命としか言いようのない宣伝が行われている。
 (三)独自の「民族」軍の即時形成をはかって、ボロチビストはかつてのペトリューラ軍、農村のクラーク、都市のブルジョア民主的インテリに依拠している。このためプチブル的排外主義との容赦ない闘争を実際には拒否している。
 (四)ボロチビストはウクライナで活動している他の民族の共産主義者(とくにロシア人)に対して露骨な反対宣伝をしている。
 (五)執行委員会は諸ソヴェト共和国間には緊密な兄弟的つながりが存在すべきであると考える。……ソヴェト・ウクライナはソヴェト・ロシアとの緊密な経済的・軍事的同盟においてのみ自らを守りうる。
 (六)コミンテルン執行委員会は以上のことから、ボロチビスト党のコミンテルンへの加盟を拒否せざるをえない。
 (七)コミンテルン執行委員会はボロチビストの真の共産主義分子はウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)の隊列に加わることを妨げられないと考える。
 (八)ウクライナに二つの党を形成しようとする試みは、労働者の隊列を分裂せしめるものとしか見なされない。ウクライナ共産党の隊列に共産主義の誠実な支持者はすべて加わるべきである。
 
 こうしてコミンテルンはボロチビストの加盟を最終的に拒否してボロチビストとコミンテルンのやりとりは終わることになる。ボロチビストにとって残された道は、コミンテルンの指示通りに党を解散してウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に入党するか、あるいはそれを拒否して反ボリシェヴィキ戦線に加わるかのどちらかであった。ボロチビスト党内多数派は前者を取ることになる。ボロチビスト党最後の全ウクライナ協議会がそのために、一九二〇年三月一六日からハリコフで行われた。この日、コミンテルン執行委員会議長ジノヴィエフはつぎのような電報を受け取った。
 「共産主義者=ボロチビスト・全ウクライナ協議会は全党の名において、コミンテルン議長、同志ジノヴィエフに熱烈なる挨拶を送る。協議会は満場一致で同志ジノヴィエフを名誉議長に選出した。議長ブラキトニイ」。

 これに対してジノヴィエフはつぎのような電報を送って答えた。
 「電報に感謝すると共に、コミンテルン執行委員会の名においてつぎのように述べる。全世界の共産主義者はウクライナにおいてこれから唯一の共産主義党が存在することを喜ぶであろう。同志諸君、執行委員会は諸君がウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)の隊列に加わるよう提案する。……コミンテルンはウクライナの共産主義者の統一が必要なばかりでなく、また可能でもあると考えている」。

(2) ボロチビスト党とボリシェヴィキ党

 一九一九年三月、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)はその第三回大会でボロチビストとの協力を拒否する決議を行った。それによれば、現時点において、ブンド、ボロチビストなどの党派とはいかなる協定も拒否すること、これらの諸党がソヴェト権力については認めていながら、プロレタリア独裁の綱領は採用していないこと、それ故これらのプチブル諸党派のボリシェヴィキ党への集団的移行(党としての合流)は許されない、とされた。
 これに対してロシア共産党中央委員会は、ウクライナのボリシェヴィキにボロチビスト党と協働するよう指令し、ボロチビストはウクライナ・ソヴェト政府に加わった。これについて、A・ブブノフはロシア共産党第九回大会(一九二〇年年三月−四月)でつぎのように批判した。
 「……ウクライナにはボロチビスト党が存在していた。われわれ、党の大多数はその時、ボロチビスト党を強化したり、彼らを政府機関に加えたりすることには断固として反対であった。われわれの中央委員会はまったく逆のことをした。中央委員会はその大多数の意見を無視し、その結果は悲惨なものとなった。ボロチビストの強化は、ある程度、中央委員会の誤った政策の結果であり、その政策はロシア共産党中央委員会によって押しつけられたものである」。

 このようなブブノフのボロチビストに関しての批判に対してレーニンはつぎのように述べた。
 「同志ブブノフは、ボロチビスト強化は中央委員会の責任であるという。この問題は複雑であり、重要なものである。このマヌーヴァー、それも複雑なマヌーヴァーを必要とした重要な問題においてわれわれは勝利した、と私は思う。われわれが、中央委員会でボロチビストに対する最大限の譲歩について語った時、彼ら(ブブノフたち)は笑い、われわれが一貫していないと言った。しかし、敵が一貫している時にのみわれわれも一貫した闘い方ができるのである。しかし敵が一貫せず、ジグザグのコースをとっていれば、われわれはその後を追い、あらゆるジグザグの過程で彼らを捕えなければならない。われわれはボロチビストが共産主義的政策をとるという条件において彼らに対する最大限の譲歩を約束した。これによってわれわれはわれわれが寛容であることを示したのだ。そしてこの譲歩がまったく正しかったということは、ボロチビストのすべての最良分子が今ではわが党に入っていることによって示されている。……その他の者は政治の舞台から消えてしまった」。
 これに対してブブノフは、ロシア共産党中央委員会が、ボロチビストをウクライナ人民委員会議に参加させ、結果的にボロチビストの勢力を強化したと確信していると述べて反論した。

 レーニンを中心とするロシア共産党中央委員会のボロチビストに対する妥協的政策は一九一九年末まで続いたが、それは一九一九年一二月上旬に行われたロシア共産党(ボ)第八回協議会においてもかなり明確にうち出された。協議会の席上、レーニンは自分がボロチビストとのブロックを勧めている、と述べた者があるが、それは誤解であるとして、問題はウクライナ農民との協力は必要か否かという風にたてる必要がある、と主張した。すなわち、ウクライナ農民の強い支持を背景にしているボロチビスト党との協力は、ウクライナ農民との協力がどうしても必要であるという意味において必要なのであった。この協議会での「ウクライナにおけるソヴェト権力について」という決議は、主にウクライナ農民に対する妥協をその内容としている。そこでは土地政策を変更して農民に土地を最大限分配すること、ウクライナでの食糧徴発は厳しく限定された範囲でのみ行われること、ウクライナ語・ウクライナ文化の発展の促進、ソヴェト諸機関でのウクライナ語の使用、ウクライナの独立国家としての再確認などが述べられている。

一九一九年一二月一一日、ウクライナにおける臨時のソヴェト権力として全ウクライナ革命委員会が形成されたが、一二月一七日にはモスクワでウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)とウクライナ共産党(ボロチビスト)両党の中央委員会代表が、この全ウクライナ革命委員会で共同行動をとることが決定された。それによれば、ボロチビスト党は全ウクライナ革命委員会の宣言に無条件で同意し、ボリシェヴィキと協力してこの宣言に書かれている綱領を実行に移すこと、そして全ウクライナ革命委員会のすべての活動は反革命勢力との軍事的闘争という基本的課題と結びついているから、両党はあらゆる方法でロシア−ウクライナ赤軍を援助する必要があること、それゆえ反革命に対する統一した革命戦線を破壊するような試み、とくにウクライナ地域に分離した軍隊をつくろうとする宣伝やロシア赤軍からウクライナ赤軍を分離させようとする試みは中止されなければならないし、両党はそのような宣伝に対して断固として闘う義務を負うこと、などが確認された。このボリシェヴィキとボロチビストとの協定には両党が基本的な点で同じ意見を持っていること、両党の間で最も問題となっているのは、ボロチビスト党がウクライナにおける独立した赤軍の形成を考えていることであることが示されている。この協定にはボロチビスト側から中央委員会を代表して、Л・コヴリフ、Н・フリニコが署名し、ボリシェヴィキ側からはラコフスキー、マヌイリスキー、ペトロフスキーが署名した。こうしてウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)とウクライナ共産党(ボロチビスト)の共同行動が一九一九年末からはじまった。一九一九年一二月二二日全ウクライナ革命委員会第一回会議が行われ、全ウクライナ革命委員会はウクライナが反革命から解放され、全ウクライナ農労兵ソヴェト大会が召集されるまでのウクライナにおける政治権力機関とされ、三名の共産主義者=ボリシェヴィキ、一名の共産主義者=ボロチビスト、一名のウクライナ左派エスエル=ボリビストによって構成することが決定された。ボリシェヴィキからはペトロフスキー(内務)、ザトンスキー(教育)、マヌイリスキー(農業・食糧)、ボロチビストからはタラネンコ(財政・経済)が選ばれた。
 また、県革命委員会等も三党の代表によって構成されることとされた。

 一九一九年一二月二八日、レーニンは「ウクライナ労働者・農民への手紙」の中で、全ウクライナ革命委員会の活動においてボリシェヴィキとボロチビストが協力していることを述べ、さらにつぎのように書いた。「ボロチビストは主に、ウクライナの無条件独立を主張するという点でボリシェヴィキと異なっている。ボリシェヴィキはそれだからといって分岐や分裂のたねにすることはないし、そこに、友好的なプロレタリア活動にとってなんらの障害を見出すこともない。もし、資本のくびきに対する闘争、プロレタリア独裁のための闘争において一致していれば、民族の境界、国家間の連邦的あるいはその他の関係の問題によって共産主義者は分裂してはならない。ボリシェヴィキの間にもウクライナの完全な独立を支持する者もいれば、多かれ少かれ連邦的繋がりを支持するものもいるし、ウクライナとロシアの完全な一体化を支持するものもいる。このような問題によって分裂するのは許されない。これらの問題は全ウクライナ・ソヴェト大会によって決定される。……われわれ大ロシア人の共産主義者は、その意見の不一致が、ウクライナの国家的独立、そのロシアとの同盟の形態、一般的に民族問題に関するかぎり、ウクライナの共産主義者=ボリシェヴィキおよびボロチビストに譲歩しなければならない」。

 しかし、このような、ボリシェヴィキとボロチビストの党としての協力関係は極めて短期間しか続かなかった。一九二〇年に入って、ボリシェヴィキ側は、ボロチビストのウクライナ独立、ウクライナ独立赤軍建設等の要求を厳しく批判するようになる。一九二〇年一月七日全ウクライナ革命委員会メンバーであるペトロフスキーとマヌイリスキーはボロチビスト党を非難する声明を出した。それはボロチビスト党がいまだに独自のウクライナ軍形成の宣伝を止めないことを批判し、具体的にハリコフのボロチビスト組織の機関誌『プロレタルスカヤ・プラウダ』(一月六日号)が、ロシア赤軍からウクライナ赤軍の分離をアピールしたことをとりあげ、このハリコフ・ボロチビスト組織の解散などを、ボロチビストの指導者の一人であるフリニコに要求している。一九一九年暮れから一九二〇年春にかけてのボリシェヴィキ党のボロチビストに対する対応は、後にレーニン自身が認めているように「極めて複雑なマヌーヴァー」を必要としたものであった。

 一九一九年一二月、八回協議会でウクライナ農民に対して徹底した譲歩をし、政府レヴェルでボロチビスト党との共同行動をし、ウクライナ農民および党としてのボロチビストと妥協しつつ、一九二〇年はじめにはボロチビスト党の解体・吸収をコミンテルン決定をてこに行うのである。一九二〇年二月六日、レーニンは「ウクライナ・ボロチビスト党に関する決議草案」というものを書き、つぎのように述べた。
 「ボロチビスト党は軍事力の分離を宣伝し、匪賊行為を支援することによって共産主義の基本的原則を破り、白軍と世界帝国主義の手先となっている。同様にロシア連邦共和国との緊密な繋がりに反対してプロレタリアートの利益に反することをしている。すべての政策は、近い将来のボロチビスト党の解体にむけて体系的にまた不断に実行される必要がある。……解体の時期はすみやかに決定する。時期は政治局によって定められ、ウクライナ革命委に知らされる」。

 レーニンはこれに続いてつぎのような指示を書いている。
 「この決議を明日より遅くならないうちにトロツキーとラコフスキーに知らせ、暗号電報で明日、全ウクライナ革命委に知らせる」。
 こうしてボロチビスト解体は急速に実現されていく。一九二〇年二月二六日にはコミンテルンの決議(ボロチビスト加盟拒否、ボロチビスト党の解体・ボリシェヴィキ党への合流)が出されることになるが、これに先立ってレーニンはこのコミンテルン執行委員会決議に対するコメントでつぎのように書いている。
 「ボロチビストは民族主義的であるという点において非難されるのではなく、その反革命性、プチブル性のゆえに非難されるべきだと私は主張する」。

 一九二〇年三月一六日、ハリコフでボロチビスト党最後の協議会が開かれ、ボロチビスト党はウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に合流することになる。レーニンはこの日、ボロチビスト党全ウクライナ協議会の幹部会に宛ててつぎのような電報を打った。「協議会の活動、とくにボリシェヴィキとの合同という着手された事業が成功することを熱烈に希望している」。こうしてウクライナ共産党(ボロチビスト)は自ら党を解散し、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に合流した。これは、一九二〇年三月一七日−二三日にハリコフで行われたウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)第四回協議会で確認され、その合流が認められた。スクリプニクによれば、この時ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に入党したボロチビストは約四〇〇〇名であった。また、一九二一年一一月に行われたウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)第六回協議会当時、党の責任ある職についている旧ボロチビストは五五四名であった。一方、ボロチビストの右派のかなりの部分は合流に賛成しなかった。例えば、ポルタヴァ県コベリャキ町では五〇名のボロチビスト党員のうちボリシェヴィキ党に入党したのは二〇名であった。

 ボロチビストがウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に合流するときのスローガンは、「われわれは加わる、広がる、そしてボリシェヴィキを凌駕する」というものであった。これについてボロチビスト党の指導者の一人はつぎのように述べている。
 「ボロチビスト党をコミンテルンの独立したメンバーとして認め、ウクライナにおける支配的政党として認めよというボロチビスト中央委の覚書をコミンテルン執行委が拒否した時、ボロチビスト党は党を解散するのか、あるいはウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に合流するのかというジレンマに直面した。このとき、ボロチビスト党の多数派と中央委はボリシェヴィキ党に入党するという決定をした。しかし、これは党のカードル、党の綱領を維持しつつ入党するということであり、公然とはできないこと、すなわちウクライナの権力を自らの手に奪取すること、ボロチビスト党をウクライナの支配的政党とすること、そしてウクライナをボリシェヴィキの手から奪還するということを、内部での活動によって実現するためであった」。

 ウクライナにおけるソヴェト政府の崩壊を避けようというボロチビストの希望がこの合流を決定せしめた。ボリシェヴィキと公然と闘うということが実際にはウクライナ人民共和国・ディレクトーリア側に彼らを追いやることであり、それは彼らにとって最悪の選択であった。ボロチビストに残された道は、現在のソヴェト体制の中でウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)を批判していくことであった。こうしてボロチビスト党は解体した。しかしこの党の解体、合流によってウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)自身もその体質を変化させた。ボロチビスト党を解体することによってボリシェヴィキ党は前者が根強く保持していたウクライナ民族主義的性格をも吸収したのである。ラヴィチ=チェルカスキーはつぎのように述べている。
 「ボリシェヴィキが 《ウクライナのロシア共産党》 (タガンロク党協議会でのクヴィリンク提案)から真のウクライナ共産党に発展したことは明らかにウクライナ共産党(ボロチビスト)の影響によっている。ボリシェヴィキ党内の 《連邦主義的》 傾向はボロチビストがボリシェヴィキ党内に打ち込んだ楔である」。
 また、ボストゥイシェフは、ボリシェヴィキ側からみたボロチビスト解体、吸収の総括を後につぎのように語った。
 「御存知のようにボロチビストは農村に根をはっていた。ボロチビストのウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)への加入は、農村との結びつきを強化し、ウクライナ農村におけるプロレタリア的・ボリシェヴィキ的な影響を強化するというわれわれの課題を容易にした」。


※引用元:中井和夫著『ソヴェト民族政策史―ウクライナ 1917〜1945―』 (御茶の水書房、1988年)