亜州革命参考資料板 ■2004年4月


エム・ア・ペルシッツ
「ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)」

引用元:
ソ連邦科学アカデミー・国際労働運動研究所編『コミンテルンと東方』
国際関係研究所訳 協同産業出版部 1971(原著は1969年出版)p.41〜87)


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(1) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月18日(日)14時09分50秒

 十月社会主義大革命は、東方被抑圧民族を反帝独立闘争に決起させ、アジア・アフリカ諸国における共産主義運動の端初を画した。植民地・従属国人民にたいする十月革命の思想的影響はこの点にとくに鮮かにあらわれている。
 アジア諸国の共産主義者は、理論的解釈と実践的解決を必要とする複雑な諸問題に直面した。労働者階級がひじょうに弱体であったか、またはまったく欠如していた後進国で共産党を建設する課題を解決しなければならなかったし、これらの国のきたるべき革命の性格も明らかにしなければならなかった。また、この革命の性格に照応して、民族=ブルジョア的運動をもふくむ民族解放運動にたいする労働者階級とその党の態度をも規定する必要があった。さらに、社会主義革命と民族解放運動との相関関係の複雑な問題をも究明しなければならなかった。
 コミンテルンは、一九二〇年七月の第二回大会で、レーニンの指導のもとにこの問題の究明を開始した。しかし、民族解放革命の問題は、コミンテルン第二回大会以前においても、東方の革命家、とくに十月革命の革命的影響を最も強烈に受けた隣接諸国の革命家の活発な実践活動の過程で、議論され決定されていたのである。
 「共産主義的な戦術と政策を、前資本主義的な諸条件に適用する問題」は、ロシア共産主義者の関心をも東方革命家におとらず喚起した。ソヴエトの共産主義者は、東方解放闘争の多様な問題の解明に積極的に参加し、この部面での理論的活動の中心となった。この事実はすこしも不思議ではない。彼らの多くは十月革命によって解放されたツァーリの旧植民地で活動していたからであり、この地域では、社会主義建設の過程で諸民族の独立と平等を保障する方式を実践上に導入する必要があったからである。それ以外にも、多くのソヴエト共産主義者は、ソヴエト・ロシア内にたまたま移住していた多数の東方諸国住民と日常的接触をもっていたからである。

         ソヴエト・ロシア内における隣接東方諸国市民

 周知のように、ロシアは多くの東方諸国と長大な国境線で接している。したがって、ロシア住民のかなりの部分は、中国、朝鮮、モンゴル、イラン、トルコ、アフガニスタン等の諸民族と不断の経済的・政治的・文化的相互作用をもっていた。この事情は、隣接東方諸国にたいする十月革命の影響を理解するうえですくなからず重要な意義をもっているのである。さらに、より本質的なことは、十月革命が旧ロシア帝国の領土内において、中国、朝鮮、イラン、トルコ人等の数十万をくだらない労働者、農民、その他の住民層をとらえたことである。当時、ロシアに在住したトルコ人の大部分は、六万三〇〇〇人の旧トルコ軍兵士、将校からなる軍事捕虜であった。彼らはこの国のさまざまな地域に分散した軍事捕虜収容所にいた。トルコ人の第二のグループはロシア南部に住むトルコ系ロシア市民であった(ほぼ五万−六万人)。彼らは第一次世界大戦の開始とともに抑留され、その後はロシアの奥地の各州に分散された。トルコ人の第三のグループは、賃労働を求めてやってきた出稼労働者であった。当時のトゥルケスタン(タシケント、アシハバット、アルマ・アタ)、ヴォルガ流域地方の多くの都市(カザン、アストラハン、サラトフ、サマラ)、中央および南ロシア(リャザン、オデッサ)、ウラル、シベリア等には、いずれにせよかなりの数のトルコ人グループが住んでいた。
 イランからロシアに移住した出稼者はさらに多かった。イラン人は彼らの故国に隣接した中央アジア地域――主としてカスピ海以東地域、スウィル・ダリ・インスカヤ州とフェルガナ州――に住んでいたが、タシケント、アシハバット、ブハラ、チャルジョウ、ヒバ等にはかなりの数のイラン人が定住していた。バクー等のアゼルバイジャンの都市にもかなりの数のイラン人がいた。イラン人出稼者のロシア移住は一九世紀末からはじまり、その後次第に増加しているが、一九二〇年には中央アジアだけでも一〇万人近いイラン人が数えられた。出稼者の大部分は零落した農民、手工業者、労働者であった。彼らは賃労働を求めて日雇、仲士、下男、雑役等として働いていたが、工場、油田、鉄道等で働いた者も多かった。民族ブルジョアジーにぞくした者もイランから移住した。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(2) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月18日(日)14時33分4秒

 一九一七−一九二〇年にロシアに在住した東方諸国出身者中、とくに多数を構成したのは中国人農民と労働者であり、戦時中彼らは軍需用の不熟練労働に登録されていた。彼らのほかにも、数万の没落した中国人および中国国籍所有者が仕事を求めて移住してきた。
 中国人出稼者のかなりの部分は新疆のウィグル人その他の回教徒住民であった。二〇年代はじめにはトゥルケスタン各地に二七万九〇〇〇人の中国人回教徒がいた。彼らの大部分は炭坑、綿繰り工場の雑役夫であったが、綿花の収穫、米作農場に雇われたものもいた。新疆出身者のわずかな部分が、中国本土出身者のばあいと同様に商人であった。ロシア在住の中国本土出身者数についてはさまざまな推計があるが、これによると、一九一八年にはヨーロッパ部各県に七万人近くの労働者がおり、シベリヤには四〇万人が住んでいたことになる。一九二〇年なかばには約二〇万人の中国人が極東におり、一九二三年初頭には十五万人であった。
 朝鮮人はロシアの東部住民のかなりの部分をしめていた。朝鮮人のロシア移住者数は日本が朝鮮を併合して植民地化した一九一〇年以降にとくに増加した。一九二二年末にはロシア領極東の朝鮮人住民数は二五万人にたっし、そのうち五万人はロシア国籍をもっていた。ロシアに移住した朝鮮人の大部分は故国で窮乏し、零落した小作農で、彼らは異境での生活の立て直しをあてこんでいた。このほかにも多数の不熟練者がいたが、彼らは失業者であったか、故国で自国人と外国人の企業主からひどい搾取を受けていた。
 以上のように、一九一七−一九二〇年当時にはソヴエト・ロシア領内に一〇〇万人をくだらない隣接東方諸国市民が在住していたわけである。彼らは十月革命と国内戦争の怒濤のごとき諸事件の直接の目撃者となった。彼らの圧倒的多数(労働者と農民)は自国と外国の抑圧者にたいする憎悪にもえていた。故国で没落し無権利状態になった彼らは、ソヴエト共和国内で自由と平等を獲得した。ロシア人労働者、農民といっしょに働いた彼らは、ロシア人労働者の気風と思想に感染し、十月革命の解放思想を受けいれるにいたった。
 十月の変革とそれにつづくソヴエト政権最初の布告と法令――なかんずく、平和、土地、被抑圧民族の自由と独立にかんする布告――は、東方植民地住民にひじょうな感銘をあたえた。これらは東方諸民族の反植民地主義的意識の大衆的形成の重要な要因となったものである。この革命的影響は、当時ソヴエト・ロシアに在住した東方諸国数万の先進的労働者の行動にあらわれた。彼らは、白衛軍と外国侵略者に抗するソヴエト人民の武装闘争に大衆的に参加することをもって、国内戦争と外国干渉に反応したのである。ペルシア人、トルコ人、朝鮮人、中国人の小隊、支隊、部隊までが赤軍内に編成され、国内戦争の各戦線で活躍した。中国、朝鮮、トルコ等の国内で勤労者のあいだに生まれたソヴエト人民の革命闘争に直接参加しようとする運動は、おそらくこれに劣らぬ意義をもったものであったろう(これが実際に実現したばあいもすくなくなかった)。この運動は、干渉軍と白衛軍に抗するソヴエト政権擁護の闘争が帝国主義的抑圧からの解放闘争の最も有効な形態であるとする理解を端的にあらわしていた。満洲で日本帝国主義とたたかっていた中国人パルチザン部隊が極東共和国領内に入り、共和国の軍事指導者にたいし、共通の敵と闘争するために国内戦争の戦線で彼らを利用するよう要請したすくなからぬ事例があったことはよく知られていることである。通例、こうした要請は感謝をもって受理された。朝鮮または東満(間島地区)で日本侵略者と闘争していた朝鮮人パルチザン部隊も同様な行動をした。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(3) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月18日(日)18時23分37秒

 トルコ人勤労者の気分についてはつぎの資料がある。一九二〇年一月、モスクワはトルコの若干の労働組合といわゆる先任労働者組織(おそらく役付工のことかとおもわれる)の代表者会議からの興味深い文書を受けとった。発信の都市名は記載されていない。この書簡(実際上は右の会議の決議)は「ロシアの共産主義者=ボリシェヴィキ党幹部会」にあてている。左側には「先任労働者組織第二三七号」の刻印があり、右側にはこの書簡の本文がはじまっている。「資本主義と帝国主義諸党によって搾取されている各国労働者中最もひどく抑圧されているわれわれトルコ人労働者は、今日までわが国の権力とヨーロッパ・ブルジョアジーのおそるべき桎梏下におかれてきた。偉大なるロシア革命にわれわれが参加するための仲介者を選出する目的をもって、〔われわれは〕斡旋の同志を選出する完全かつ正規の権限をもったわれわれの組織の代表者と他の工業労働者組合の代表者の会議を招集した。この会議で採択された決議にもとづき、かつ、ほぼ五万ないし六万人の専門技術学校を終えた労働者組合員をもつ自立的組合の名において、われわれの最も親愛な同志でありわかき技術労働者の一人である……『科学と工業』紙編集者、ムスタファ・ナフェを派遣することに決した。上記について証明する。」この文書はひじょうに粗悪な露訳であるが、トルコの先進的労働者とインテリゲンツィアの一部が直接ロシアに赴き、その指導者とともに、ソヴエト政権強化のための闘争にトルコ人勤労者を参加させる問題について協議したいという願望を直裁に表明している。
 十月革命とソヴエト政権の活動は、東方諸国の先進的層のあいだに、社会主義思想にたいする大きな関心と、自国問題の解決のためにロシアの経験を学び摂取しようとする意欲を呼びおこした。なかんずく遠隔のインドでも、民族革命運動内部にソ連邦にたいする旺盛な関心が高まった。一九一八年一月には、民族運動の著名な革命的活動家ロカマニア・ティラクは『ケサリ』誌にレーニンについての論稿をのせ、ロシア革命とその指導者についてはじめて合法的に書いた。ベンガルのヒューマニストのラモナンド・チャテルジーは、この年以降の『モダン・レヴュー』誌上に、十月革命とソヴエト政権についてさまざまな筆者の論文を系統的にのせた。一九一九年二月に、この雑誌はソヴエト共産主義者の行動について彼らの結論をつぎのごとく締めくくっている。「ボリシェヴィキは、ロシアを、この国が過去にあったよりもより良く、より高潔な国にしようと努力している」と。



資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(4) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月18日(日)18時24分29秒

 東方革命勢力の多数の代表者がソヴエト・ロシアを訪れるようになった。一九一八年、とくに一九一九年、赤軍のトゥルケスタン解放と第三次アフガニスタン戦争におけるイギリスの敗退後、ひじょうに多種多様な政治傾向をもった多数のインド人革命家が入ソした。彼らはロシア革命の意義を理解しようと欲し、インド解放にたいするロシアの援助を期待し、インド独立の道を確定しようとしていた。インドの著名な文化活動家ファイズ・アフマド・ファイズは、インド革命家のソヴエト・ロシアへの聖地詣でについてつぎのように書いた。「革命がまだ完遂されていなかった一九一九年に、わが国の多くの人々が、ロマンティックに理解していた自由を求めて、アフガニスタンを越え、現在の中央アジア共和国に赴いたことについては、かならずしもよく知られてはいない。彼らのなかには宗教者もいれば自由主義者もいたが、しかし彼らをひとつに結びつけていたものは、革命がおこなわれていたソヴエト・ロシアにこそ自由のための闘争の支柱を求めなければならぬという思想であった。」
 インド人がとくに関心をよせたことは、かつてツァーリズムに抑圧されていた諸民族の独立達成の過程であり、彼らの文化的・経済的発展の過程であった。インド人革命家の大グループはタシケントにとどまっていたが、その後そこには「インド革命協会」なるものが結成された。若干のインド革命家はモスクワにまで赴き、党と政府の幹部に会見して、彼らとともにインド革命の問題を論議した。レーニンは二度彼らと会っている。さいしょは一九一八年十一月にソヴエト・ロシアへのインド人民のメッセージを携えた代表団、二度目には一九一九年五月のインド国民議会派のバラカットゥルラ教授であった。その後バラカットゥルラ教授はソヴエト・ロシアにおける旧トルコ軍事捕虜のあいだに広範な反帝国主義宣伝活動をおこなった。この代表団中には、バラカットゥルラとともにマヘンドラ・プロタプ(当時アフガニスタンに樹立されていたインド亡命政府代表)、その他の革命的インド人亡命者グループの代表もくわわっていた。プロタプはレーニンのまえで、彼が発案した愛の宗教による階級調和と平和のユートピア的社会構築計画を披露した。新聞報道によるとインド回教徒連盟のムハメッド・ハディもモスクワに滞在している。彼は同盟会館の円柱の間における集会で演説し、「蜂起したインドに手をさしのべるにちがいない偉大なロシア革命」にインド革命家が寄せる期待について語った。一九一九年末には、アフガニスタン大使館とともに到着したインド人、ムハメッド・イブン・アブドゥルラ・エンサリがモスクワに滞在した。彼は、東方諸国とソヴエト・ロシアの思想を実現せねばならぬことについて語った。彼は、ソヴエト・ロシアの現実を見聞した後、つぎのようなきわめて意味深い表題の論稿を発表した。――「ロシア共和国は東方の福祉への道標である。」


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(5) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月18日(日)19時47分56秒

 中国では、すでに一九一九年に、先進的インテリゲンツィアのあいだに、ソヴエト・ロシアの実情を究明しようとする運動が生まれた。この運動はソヴエト・ロシアへの旅行運動に発展した。一九二〇年後半には、モスクワ行は系統だったものとなり、ソヴエト政権とソヴエト政権擁護のためのロシア人民の闘争について、十分な情報を中国世論にあたえるようになった。一九二〇年末には、『晨報』紙通信員として、北京のマルクス主義研究サークル員、作家、革命家の瞿秋白がロシアを訪れた。彼は一九二一年一月にモスクワに滞在し、「二〇世紀最初の社会主義共和国」の実情を知ろうと欲した。当時、瞿秋白はコミンテルンの出版物上でつぎのように語った。「ロシアを訪れたわれわれの大部分の学生は……中国帰国後、中国プロレタリアートを援助できるように学びたいと考えている。瞿秋白は、ロシア労働者の革命的活動に歓喜し、中国の勤労者は彼らの社会運動と解放運動を組織するうえでソヴエト人民の援助を期待するであろうという考えを強調した。「中国プロレタリアートは、勇気あるロシア労働者にのみ、全人類の幸福のために大胆に闘争している諸君にのみ、期待するであろう…… 中国プロレタリアートは、彼らが戦士の隊列にくわわるまえに諸君の援助を必要としている。」瞿秋白とともに、北京の『晨報』と上海の『時事新報』の通信員であったユイ・スアン・フアと李ジュン・ウもモスクワにきた。その後間もなく、張太雷、劉少奇、その他多数の中国人革命家が入ソした。
 十月革命前夜、とくに十月革命後に、ロシアでは隣接東方諸国系市民を結合したさまざまな団体、同盟等が発生した。このなかには、社会主義の研究と共産主義運動へのプロレタリアートの参加を目的とした純粋に労働者的組織もあったが、革命的民主主義協会や、民族ブルジョア的協会も存在した。一九一七年はじめにはロシアで中国人同盟が結成され、十月社会主義革命後には中国人労働者同盟に改組された。一九一八年二月には、各地の中国人労働者同盟はモスクワに中央委員会をもつ全ロシア的革命組織に結合した。この同盟の地方支部はソヴエト市民の社会団体と緊密な連携をもって活動し、ソヴエト人民の革命的経験を学び、この経験を摂取した。ロシア人の経験を学ぶこと、――中国はロシアに在住した同国人にそれを求めていた。華南のある労働者は彼の同国人につぎのように書いている。「諸君は故国に帰還後、この地に、諸君の同胞に、ロシア革命の種子をまかねばならない。それは、同胞を共通の闘争に決起させ、社会主義新中国を創造するであろう。」
 一九一八年十月、モスクワで、東方諸民族解放同盟が結成された。おそらくこの同盟は、多くの東方諸民族の革命家の一部を結集したものとおもわれる。これについでタシケント同盟が結成され、その細胞がトゥルケスタン各地に生まれた。この組織の綱領によると、同盟の目的はアジア諸国の民族解放運動の反帝統一戦線の促進にあった。綱領は、東方民族解放運動の実際の勢力となりうるのは勤労者のみであると規定していた。「貴族と所有者」は絶対に「西欧帝国主義の打倒に関心をもたない」ものと断定した。一九一九年五月には、タシケントでブルジョア組織であるペルシァ人同盟が生まれた。同年、モスクワで創立されたものとおもわれるペルシァ人救援協会と称した民間団体も同様な性格をもっており、トゥルケスタンに支部を設けた。極東の多くの都市では、一九一八−一九二〇年に、朝鮮人のさまざまな民族革命組織が活動していた。
 以上のように、多数の同盟、協会、団体がロシア内で、東方諸国のさまざまな外国人社会グループを組織し、なんらかの形で自国の解放運動に参加するか、または参加を準備していた。それに当って彼らは、実際的援助と支持をあたえうる重要な精神的・物質的勢力としてソヴエトをみていた。東方の革命家にとって、ソヴエト・ロシアは解放運動の真実の学校であった。彼らはこの学校で、民族独立運動の最主要勢力としての労働者階級の役割を学び、運動の成否は勝利したプロレタリアートと世界労働運動との緊密な同盟によってのみ可能であるという結論に到達した。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(6) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月18日(日)21時29分42秒

     隣接東方諸国系住民のあいだにおけるロシア共産党(ボ)の国際主義的活動

 当時ソヴエト・ロシアに醸成された状況は、ボリシェヴィキをして、隣接東方諸国系勤労者大衆のあいだに大規模な煽動的・組織的・理論的活動を展開する必要に直面させた。この活動は若い労農国家の利益に照応するものであったが、プロレタリア国際主義の原則に忠実な革命家の責務でもあった。ボリシェヴィキは、隣接東方諸国の勤労者中における社会主義思想と被抑圧民族の解放思想の宣伝活動を援助し、東方のプロレタリア的前衛勢力の結集と、この勢力のあいだからの共産主義組織の結成を促進した。東方諸民族革命化のためのボリシェヴィキの活動は、プロレタリア国際主義者としての彼らの直接の責務の遂行であっただけではない。同時に彼らのこの活動は、ロシアに隣接する東方諸国を反ソ干渉の組織基地として利用していた帝国主義者の武装行動にたいする避けがたい回答でもあった。共産党は、帝国主義者の謀略活動と挑発行動、直接的侵略行動に対抗して、ソヴエト国土の武装防衛と「真理の武器」――東方国際主義者のあいだにおける煽動と宣伝――をもって答えた。ソヴエト共産主義者は、コミンテルン創立以前からも、ロシア在住の外国人のあいだに――トルコ人軍事捕虜その他の東方勤労者グループのあいだに――活発なコミンテルン的活動を展開してきた。レーニンは、ロシア共産党(ボ)第八回大会報告中で、コミンテルンが短期間での創立に成功したのは、かなりの程度、ロシア共産党(ボ)中央委によって、「膨大な準備活動がはたされていたおかげ」であること、この活動で重要な位置をしめていたのは「ロシアにいる外国人のあいだでの宣伝と煽動」であり、多数の外国人グループの組織であったことを述べている。
 一九一八年五月には、ロシア共産党(ボ)中央委に所属して外国人共産主義者同盟が組織された。この同盟は西欧と東欧の旧軍事捕虜のあいだに生まれた多数の共産主義グループを結合したものである。東方諸国の勤労者を対象とした共産主義運動は東方諸民族共産主義組織中央ビューローが主として指導した。この組織ははじめロシア共産党(ボ)回教徒組織中央ビューローと称していた。このビューローは一九一八年十二月に創設されたものであるが、実際にはビューロー指導グループは一九一八年一月に形成され、当時すでにアジア諸国人のあいだで大規模な宣伝活動を展開していた。
 中央ビューローはロシア共産党(ボ)中央委の直接的指導のもとに活動した。一九一八年から一九一九年はじめにかけてはスターリンが指導したが、その後はM・スルタン=ガリエフが指導した。中央ビューローの宣伝、煽動、文化啓蒙活動の規模については、ビューローが組織した国際宣伝部がアラブ、ペルシァ、トルコ、中国、ブハラ等の一〇のセクションをもっていたことからも想像できよう。一〇ヵ月間(一九一八年一月以降)に中央ビューロー指導グループはトルコ語、タタール語、キルギース語で四〇万部以上の新聞、リーフレット類を発行した。一九一八年十二月から一九一九年三月のあいだにモスクワだけで上記言語による二〇万部以上の宣伝煽動用出版物が印刷された。
 もっとも、東方諸国勤労者にたいする政治活動は、この目的のために中央で創設された組織だけがおこなったわけではない。隣接アジア諸国の市民がとくに多数在住した地域では、ロシア共産党(ボ)地区党組織、州党組織および党中央委の領域別ビューローがこの活動をおこなった。
 これについては、たとえば、一九一九年三月末、コルチャック反乱が猖獗をきわめた条件のもとで非合法下にひらかれたロシア共産党(ボ)第二回シベリヤ会議の決議が興味深い。決議はつぎのごとく述べている。会議は「アメリカ、日本、中国、その他の極東諸国のプロレタリアートに、ソヴエト・ロシアとシベリヤにおける革命的闘争の進行について、また、この革命の弾圧のためにロシアと国際ブルジョアジーがはたしている役割と行動〔について〕、適時の正しい情報をあたえることがきわめて重要であると考える。」会議は「シベリヤ州委員会の情報宣伝ビューローを極東に組織すること」を決定した。このビューローには、「東方およびアメリカの共産主義者と連絡を保持し、彼らへの情報の伝達と彼らからの情報の受理を組織し、口頭および文書による煽動を組織すること……」が委任された。ソヴエトの共産主義者は、共同の反帝闘争のために、世界で最初の労農国家の確立と植民地主義的抑圧からの東方諸民族の解放のために、ソヴエト・ロシアと外国勤労者の国際主義的結合を最大限に拡大強化する必要から出発したのである。



資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(7) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月19日(月)21時52分17秒

 シベリヤと極東の共産主義者は、東方諸国勤労者のあいだにおける党機関の活動の改善のために多くのことをおこなった。一九一九年六月一八日、ロシア共産党(ボ)中央委極東ビューローの責任ある活動家の一人であるエフ・ガポンは特別報告書を作成したが、このなかで彼は、ブリャート人、モンゴル人、中国人、朝鮮人、日本人等のすべての極東諸民族の代表者をかならず参加させるという条件のもとに、ロシア共産党(ボ)シベリヤ州委員会に所属させて東方ビューローを創設することを提議した。この条件によって、ビューローは「直ちに活動を鮮明に、広範に展開する可能性」をうるであろうし、東方の革命化という自己の主要課題をよく遂行することができるであろう、と彼は書いている。この文書は、口頭と文書宣伝によって、朝鮮、中国、日本、モンゴルの革命的グループに影響をあたえ、共産主義組織を創立するためにこれらのグループと緊密な組織的連絡を保つべきことを提案している。さらに彼は、活動家のマルクス主義的素養の不十分に鑑み、東方諸民族の代表者中にそれぞれの幹部要員を養成する目的をもって、シベリヤに党およびソヴエトの学校をつくるように提案した。東方ビューローは、総務部、組織指導部、煽動出版部、連絡情報部の四部から成らねばならぬとした。ガポン案は彼の提案通りには実行されなかったが、しかし彼の提案にある合理的なものは、一九二〇年七−八月のイルクーツクにおけるロシア共産党(ボ)中央委シベリヤ・ビューローの東方諸民族部の組織によって実現された。その後(一九二一年一月)、この部の機構はコミンテルンにひきつがれ、イルクーツクのコミンテルン極東書記局を構成した。
 極東共和国の共産主義者は朝鮮人と中国人のあいだで大規模な活動を展開した。共和国党の最高機関であるロシア共産党(ボ)中央委極東ビューローは、朝鮮人住民がかなりの数を占めている地域に、県委員会および郡委員会に所属して特別な朝鮮人煽動宣伝部をつくった。中国人住民が多い地域では中国人部がつくられた。極東ビューローは、いくつかの部のほかに二つのビューローをその構成内にもっていた。五名からなる中国人共産主義者オルグ・ビューローと同じく五名からなる朝鮮人ビューローがそれである。
 トゥルケスタンでは、主としてイラン人、トルコ人、インド人、アフガニスタン人、さらには中国人とウイグル人とのあいだで同様な活動がおこなわれた。はじめ、全露中央執行委トゥルケスタン問題委員会はこの目的のために特別宣伝煽動部を構成したが、その後まもなく(一九一九年十二月二十三日)委員会はその指導下に国際宣伝会議(ソヴインテルプロプ)を創設する決定を採択した。
 国際宣伝会議議長にはトルコ共産主義運動の指導者ムスタファ・スブヒが選ばれた。会議の中心的政治機関は、ペルシァ、トルコ、ブハラ、ヒバ、中国の各部の革命的活動を指導する政治部であり、この政治部は民族的革命組織の中心機関でもあった。会議は、一九一九年十二月から一九二〇年七月末の活動報告で、課題をつぎのごとく規定した。「ロシア革命と東方被抑圧勤労者大衆の運動を結合している絆をのばし、ロシア・プロレタリアートによってかかげられているスローガンをペルシァ人、インド人、ブハラ人等に近づきやすいもの、容易に理解しうるものにすること。」この会議はそれ自体が国際的組織であった。国際宣伝会議の最高機関である総会は、党地方委員会の代表三名、イラン共産党「アダリャート」から二名、他の個別民族党グループから一名ずつ、ロシア共産党(ボ)中央委トゥルケスタン問題委員会から五名ずつの代表で構成されていた。
 会議はトゥルケスタンで、隣接東方諸国勤労者のあいだでの口頭および文書による有効な宣伝活動をおこなった。会議は、集会、討論会、講演会等々のすべての啓蒙運動形態をひろく利用した。



資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(8) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月19日(月)21時53分34秒

 一九一九年十二月から一九二〇年七月の短期間内に、会議はファールス語、トルコ語、ウズベック語、ウルドゥ語、英語の五ヶ国語による宣伝文書の出版活動を軌道にのせた。このあいだに会議が発行したリーフレット類と発行部数リストを瞥見することも興味なしとしない。――「(1)、新聞『新世界』二号―トルコ語で各七万五〇〇〇部、(2)、アゼルバイジャン語によるペルシァ人労働者、農民の十戒―三〇〇〇部、(3)、チュルク語による新ブハラ党のアピール―五〇〇〇部、(4)、新ブハラ党の規約と綱領―一万部、(5)、ペルシァ語、トルコ語、アラブ語による被抑圧民族への檄文、(6)、ペルシァ語、チュルク語、英語による東方青年同盟のアピール、(7)、チュルク語、ペルシァ語によるペルシァ『アダリャート』〔正義〕党の檄文、(8)、英語によるコミンテルンの宣言、(9)、英語とウルドゥ語によるインド人へのアピール―五〇〇〇部、(10)、ロシア語による『世界革命と東方諸民族の解放』、(11)、チュルク語による青年同盟のアピール、(12)、『イギリス人はその領有地でいかなる圧制をおこなっているか』、(13)、アラブ語による全東方被抑圧民族へのアピール」、等々となっている。
 会議は、「東方における有能な意識的煽動者、組織者の幹部養成」に努力した。この困難な課題は状況が要求するほどの規模をもって遂行されたとはいえない。しかし、ともかくもこのような活動がおこなわれ、会議が養成した数十、数百の煽動者が故国に帰り、ソヴエトとソヴエトの社会主義的理想について同国人に伝えたのである。ソヴエトの各機関はこの課題の遂行のために会議にかなりの援助をあたえた。国内戦争と経済的荒廃の複雑な諸条件にもかかわらず、ソヴエト政権は帰国を希望するすべての外国市民の中国、トルコ、イラン等への帰還を、かなり緩慢な速度であったとはいえ保障したのである。
 スブヒは東方諸民族共産主義組織ビューローにつぎのような書簡をおくっている。「われわれは責任ある党活動のためにすでに数百の同志をすべての国におくった。しかしこの派遣は数百ではなく数千の同志である必要がある…… われわれは、タシケントに国際宣伝会議の管下に、隣接諸国の言語を解する者、故国で活動しようとする者、被抑圧民族の解放のために犠牲となる用意がある者すべてを、ただちに派遣するよう、熱烈に諸君に要望するものである。」
 ソヴエト・ロシアで階級闘争の初等学校を終えた旧軍事捕虜、出稼者、移住者は東方被抑圧民族の革命化の重要な要因であった。このために、イラン、トルコ、中国の為政者と帝国主義国の植民地主義者は、彼らを恐怖し、彼らの自民族への影響を阻止するためにさまざまな手段を弄した。
 ソヴエトの共産主義者は、ロシアに在住した東方諸国の勤労者のあいだで煽動宣伝活動をおこなうことによって、トルコ人、イラン人、朝鮮人、中国人、インド人のプロレタリア的革命的分子が自己の民族の共産主義グループと結合しうるように援助した。これによってボリシェヴィキは、すでに必要条件が客観的に存在していた隣接東方諸国における共産党の創立を促進したのである。上掲のガポン報告書では、シベリヤ州委員会のもとに東方ビューローを組織し、朝鮮、中国、日本の革命家の党グループの組織と結集を援助するという案が提起されていた。国際宣伝会議はその課題を規定するにあたって、「さまざまな民族の共産主義的中核と勤労者自体の組織に着手する必要」を指摘した。ロシア共産党(ボ)中央委シベリヤ・ビューローは、一九二〇年十月十二日の会議で、東方諸民族部の活動報告を検討し、「中国と朝鮮における共産主義組織の創立に注意をむける」ように勧告した。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(9) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月19日(月)23時26分57秒

     ロシア内における東方国際主義者のあいだでの共産主義運動

 十月革命の影響と、階級的・民族的抑圧から解放された労農国家の建設の影響を受けて、ロシア在住の東方諸国住民のあいだに共産主義運動が発生し、拡大した。それぞれの民族の共産主義グループが結成され、共産党の建設がはじまった。十月革命は東方諸国の社会的発展の強力な促進剤の役割をはたしたのである。インドネシア共産党の代表マーリングは、「ロシアと東方の結合は、アジア人にたいする影響という意味で、共産主義にたいする大きな奉仕であった」と指摘している。
 いうまでもなく、ロシアにおける東方の国際主義者のあいだにおける共産主義運動の発展は、十月革命の客観的影響によるだけでなく、ソヴエト国家とボリシェヴィキ党の具体的活動とも関連していた。
 ボリシェヴィキの宣伝に最初に反応し、共産党の建設に着手したものの一つは、革命的気分をもつトルコ人軍事捕虜であった。ロシアのマルクス主義者は、すでに革命前から軍事捕虜のあいだで活発に活動していた。多数の勤労者が集中していたことは彼らのあいだでの宣伝と煽動を容易にした。それに、ヨーロッパ諸国の軍事捕虜のプロレタリア的・または多くは社会民主主義的部分をとらえた強力な国際主義運動は、トルコ人捕虜にも影響をあたえないわけにいかなかったのである。もちろん、彼らの主体的要因も大きな役割をはたした。トルコ人軍事捕虜のあいだには、ソヴエト・ロシアで共産主義者となった傑出した革命家ムスタファ・スブヒがいたが、彼とともに革命的気分をもつトルコ人インテリゲンツィアも活動していた。スブヒは、ロシアにいたトルコ人国際主義者の共産主義運動内にインテリゲンツィア勢力が存在したことについて特別に指摘している。そかし最も重要なことは、すでに当時トルコに労働者階級が出現し、労働運動がはじまっていたことである。この事情は、軍事捕虜の階級構成とその気分にも反映した。
 一九一八年六月十七日、スブヒはソヴエトと党の地方機関の援助をえて、旧軍事捕虜からなるトルコ人社会主義者=国際主義者の会議をカザンに召集した。ついで一ヵ月後(七月二十二−二十五日)、より広範な綱領とよりひろい範囲の代表者会議がモスクワでひらかれた。モスクワ会議には、モスクワ、オリョール、イワノヴォ、ルイビンスク、コストロマ、ユリエフスコエ、カザン、アストラハン、ウフィムスキー、リャザン、ウラルから、ロシア在住のトルコ人社会主義者グループの多くを代表して二〇名の代議員が参加した。カザンとモスクワの二つの会議は、ソヴエト政権の強化と国内戦争への参加は帝国主義から自国を解放しようとする国際主義者の神聖な責務であるという見解を、はっきりと表明した。
 モスクワ会議は、当時スルタン政府が開始したザカフカースへの武力干渉に強く抗議し、つぎのような決議を採択した。「ソヴエト政権の擁護と……世界革命の支援のためにロシアでは国際部隊が編成されていることに鑑み、会議は」ロシアおよび他の諸国のプロレタリアートの利益と「自己の利益の共通性および連帯性を強調するために、社会主義トルコ人部隊をもってこの国際部隊を強化することを決定する。」この決議は紙上の空文に終わったのではない。トルコ人国際主義者は、カザン近郊で戦闘し、チェコスロヴァキア軍の反革命蜂起と戦い、トゥルケスタン、クリミア、その他の戦線における作戦行動に参加した。一九一九年三月、スブヒはつぎのように述べた。「現在、ソヴエト政権擁護のために闘っている数千のトルコ人赤軍兵士は、ロシアの各戦線に活発に参加している」と。会議では、トルコ人社会主義者=共産主義者の指導グループの選挙がおこなわれ、エム・スブヒ、ジェヴデット・アリ、アシム・ネジャティ、ニハト・ヌスレト、イブラヒム・アフメドが選出された。彼らは「トルコ人社会主義者=共産主義者党」と称した。煽動宣伝委員会も選出された。この両グループには、トルコ・マルクス=レーニン主義党の結成と綱領の作成能力をもつ代表者大会(代議員の大部分はトルコ本国から選出される)の招集を保障するために必要な活動をおこなう任務が課された。「われわれの目標は、資本の攻撃に対決する可能性をもつために、トルコ人労働者と貧農のあいだに社会主義党を建設することである」とスブヒは述べた。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(10) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月20日(火)22時57分57秒

 トルコ人社会主義者のカザン会議とモスクワ会議は、ロシア在住のトルコ人社会主義者の結集の端初を画したものであり、トルコ共産主義運動の指導的核心を形成し、それによってその後の(半年後の)トルコ共産党の結成を促進したのである。この両会議は別の観点からもひじょうに興味がある。綱領問題についての決議、きたるべきトルコ革命の性格とこの革命における党の戦術問題についての決議は、トルコの共産主義者だけではなく、他の諸国の共産主義者、さらに植民地・従属国の解放運動の問題に関係のあったソヴエト・ロシアの多くの共産主義者の、当時における理論水準の高さをきわめて浮彫的にしめしたものである。カザンの会議では、半植民地社会の特殊性を明らかにし、これにともなう東方諸国のプロレタリア運動の特質を規定しようとするきわめて控え目な試みがなされた。決議はつぎのように述べている。「ヨーロッパ資本主義と発達した植民地政策は、人民を掠奪し抑圧するために東方にその足をむけている。この事情と、東方諸国の大衆の準備が不十分であることのために、プロレタリア運動はある方向と特定の路線にむけられなければならない。自己の階級の利益の遵守の警護に立つべき労働者、農民の社会主義組織は、この方向をあたえねばならない。」しかし、決議は、社会主義党はプロレタリア運動の道を規定するにあたって東方諸国の特殊性を考慮しなければならぬという指摘にとどまっている。一ヵ月後にひらかれたモスクワ会議の決議は、東方被抑圧国におけるプロレタリア運動の特殊性にかんする問題の考察の理論水準をすこしも高めることはなかった。
 トルコの初期共産主義者は、モスクワ会議で、トルコは純粋な形態の資本主義国家であり、したがって社会主義革命に当面しているという命題から出発した。スブヒはつぎのように述べた。「同志諸君、以下がわれわれの確信であり、綱領である。資本の破壊と人民の解放、これである。一切の土地、一切の生産手段と運輸手段、――一言で言うなら地上に存在するすべての富は、人民によって国有化されるべきものであり、かくして社会の貧困階級はブルジョア圧制から解放されなければならない。これがすなわち社会主義の基礎である。」会議は「共産主義者の綱領に原則的に賛成であり、それとの一体〔を〕承認する」ことを声明したが、しかし、しかるべき文書の細密な検討は一九一八年十一月に予定した次回の会議に延期することにした。だが、「トルコの政治情勢と東方問題」というナザミ報告による決議は、トルコにおけるプロレタリア運動の弱体を考慮し、トルコにとっての唯一の救済である社会主義制度は、「帝国主義者とブルジョアジーの政府が一掃される世界革命ののちにおいてのみ可能である」と述べていた。
 このことは、トルコ共産主義者がトルコ革命の時期を無限定に引きのばそうとしたことを意味するのではない。彼らは、ヨーロッパの主要国におけるプロレタリア革命の勝利はひじょうに近い将来のことと考えていた。当時すなわち一九一八年なかば頃は、東方は西方の革命の勝利を保障しなければならぬというテーゼは、植民地・従属国の共産主義者のあいだにまだあらわれていなかったのである。このテーゼがあらわれたのはその後のことであった。
 戦術問題にかんするモスクワ会議の決議は、当時の初期トルコ共産主義者の比較的低い理論水準によって、また、当時のすべての外国人ロシア革命参加者をふくめた焦燥感、革命の外見的安易感、近い将来における世界革命の勝利の期待感等によって、特徴づけられる。会議はトルコ革命運動の民族解放的性格を不十分に評価し、したがって、反帝闘争を強化するためのプロレタリアートと民族ブルジョアジーとの一時的協定の可能性も否定していた。スブヒは、「トルコ社会党は資本との結びつきを断ち、彼らとのいかなる協定にも応ずるべきではない」と述べた。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(11) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月20日(火)22時59分58秒

 われわれはスブヒと彼の同志の右の立場を論難しようとするのではない。このような立場は、彼らの理論的弱さだけでなく、ほぼ各地で(ロシアだけでなく)武装闘争の性格をもってきた階級闘争の激化の事情にもよるものであった。このような条件のもとで、初期トルコ共産主義者からこれ以外の方針の提起を期待することは無理であったろう。しかし他面で、会議は、回教徒東方にとって重要な意義をもつ戦術問題の一つでは、冷静な成熟した見解を述べていたことを指摘すべきであろう。シェフケットは、彼が軍事捕虜のあいだでおこなったアジテーターとしての説得活動について代議員に報告し、トルコ勤労者の圧倒的多数を構成する回教徒にたいする社会主義的宣伝についての彼の見解を述べた。煽動者は聴衆の信心を考慮に入れなければならない、なぜなら「宗教は彼らにあっては特別な尊厳の対象であるからである。」「彼らの宗教心に衝撃をくわえるようなことをしてはならない。なぜなら、もしわれわれの側からこのような衝撃がくわえられるなら、彼らは過去にもわれわれと闘ったし、将来もより大きなエネルギーをもってわれわれと闘うであろうからである。」このように、初期トルコ共産主義者は東方の具体的分析により接近しようとしていたし、それによって彼らの戦術を規定しようとしていたのである。
 モスクワ会議後、トルコ共産主義者=煽動者は、トルコ人軍事捕虜とその他の社会的範疇のトルコ人グループが多少ともまとまって住んでいたソヴエト・ロシアの各都市を巡回した。東方諸民族共産主義組織中央ビューローは、トルコ社会主義者=共産主義者中央委員会の提議によって一九一八年末から一九一九年はじめにかけて、クリミアにジェマリ・ナジャティ、カザンにハフィーズ・アリ、リャザンにハサン・アリ、サマラとサラトフにジェヴデット・アリをそれぞれ派遣した。一九一九−一九二〇年には、タシケントの国際宣伝会議は、トルコ人軍事捕虜収容所における煽動活動のために、五名からなるトルコ人共産主義者の委員会をシベリヤに派遣した。広範な実り多い活動が展開され、共産主義細胞が建設され、各地で、国内戦争の戦線にむかうための共産主義者部隊が編成された。モスクワと各地方でも、かなり大部数の宣伝文書が発行された。
 アストラハンにおけるアシム・ネジャティの活動は特記すべきものがある。彼はカフカースの著名な共産主義者の援助をえて、一九一九年一月七−八日に、「共産主義細胞建設のためのトルコ市民・軍事捕虜第一回大会」の開催に成功した。大会には二五名の代議員が出席した。代議員はいくつかの報告を聴取したが、東方プロレタリアートにたいする十月革命の影響についてエヌ・ナリマーノフ、赤軍についてブニャート=ザーデ、ロシア共産党(ボ)の綱領と戦術についてアミーロフ、トルコ・プロレタリアートの経済的・政治的状態についてマーメド・ジャマト、トルコ・プロレタリアートの過去と現在についてマーメド・ハルシ、最近のヨーロッパの殺戮者がトルコ・プロレタリアートにあたえた影響についてアシム・ネジャティ等がそれぞれ報告した。ナリマーノフ報告は、トルコ社会主義者=共産主義者のモスクワ会議が宣伝したトルコ社会主義革命の方針から出発した。議事録はつぎのようにしるしている。「ナリマーノフは、すべての交戦国のプロレタリアートにとって唯一の救済手段は社会革命であることを立証した。彼は、トルコ人の同志にむかって、『もし諸君が不幸なトルコ・プロレタリアートを破滅と今後の奴隷制から救済しようと望むなら、みずからを組織し、トルコ社会革命の焔をもえあがらせねばならぬ』と述べた。」他の報告者アミーロフも、トルコ・プロレタリアートにとって「唯一の救済の槓杆」たりうるものは「地主権力の即時打倒」であり、搾取者権力の廃止である、と指摘した。
 トルコ革命家の集会はモスクワ、サラトフ、その他の都市でもおこなわれた。これらの集会は共産主義組織の結成と義勇軍部隊の編成をもって終わった。これらの集会が、トルコ革命の成功のためにはソヴエト・ロシアとの同盟が不可欠であるという深い理解によって特徴づけられていたことは特筆すべきことであった。アストラハン大会でのマーメド・リーザの演説はその典型であった。「もしわれわれがトルコ・プロレタリアートをヨーロッパ帝国主義の貪欲な牙から解放しようと望むなら、自己の運命をソヴエト・ロシア共和国の革命的プロレタリアートとより緊密に結合しなければならぬ。」スブヒと彼のグループは、トルコ国内の革命運動とも緊密な連携を結ぶことができた。オデッサ経由で、トルコ人共産主義者は組織的に帰国した。トルコ国内にも共産主義グループが発生しはじめたが、このことはトルコ政府の不安と怒りを呼びおこした。



資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(12) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月22日(木)20時11分13秒

 ソヴエト・ロシア在住のイラン人勤労者も共産主義運動にまきこまれた。この運動の発展で大きな役割を演じたのは社会民主主義組織の「アダリャート」であった。「アダリャート」はすでに一九一六年に、バクーで、イラン領アゼルバイジャン出身者のあいだで創立された。一九一八年と一九一九年には、アストラハンとモスクワにイラン人共産主義グループが出現した。
 しかし、トゥルケスタンで、「アダリャート」党のイラン人共産主義グループの結成活動がとくに活性化したのは、一九一九年秋の赤軍のトゥルケスタン進入と同年十二月の国際宣伝会議の成立いごのことである。
 「アダリャート」党トゥルケスタン支部の指導者は、「地方にペルシァ人労働者の細胞を結成するために」、都市と村落に宣伝煽動カンパニアを組織した。一九二〇年なかばまでには、トゥルケスタンの五二の地点で党委員会が結成された。一九二〇年四月現在のトゥルケスタンにおける「アダリャート」党員数は約六〇〇〇人とされていた。出版活動もおこなわれた。サマルカンドとポルトパック(アシハバット)ではペルシァ語の新聞が発行された。各地のばあいと同様、共産主義運動の成長はその民族の赤軍部隊の活発な編成をともなっていた。明らかにこのことは実践的意義を有するというよりも、東方のわかい共産主義者の階級的成熟をしめす精神的=政治的意義を強くもっていた。すでに一九一八年と一九一九年に、イラン人義勇兵は赤軍部隊内にあってカスピ海以東作戦でイギリスの干渉軍と戦っているが、一九二〇年三−四月にペルシァ赤軍の義勇兵徴募をおこなったさいには、応募者数は徴募を打ちきらねばならぬほどの多数であった。なぜなら、トゥルケスタンの「アダリャート」党の組織者の一人であるスルタン・ザーデによれば、「われわれは義勇兵全員に必要な兵器器材をあたえるだけの可能性をもっていなかったからである。」
 「アダリャート」党の組織は、このほかにもアゼルバイジャンとダゲスタンに存在した。イラン人共産主義者はイラン国内の共産主義運動とも強固な連絡をもっていた。彼らの協力によって、ゼンジャン、レシテ、アルデビーレ、アスタール等にも共産主義グループが発生した。一九二〇年なかば頃には、「アダリャート」はイランに一万人の党員を擁していた。一九二〇年七−八月には、スルタン=ザーデは(いささか楽天的にすぎるようだが)「全ペルシァで党機関の建設がすすんでいる」と書いている。
 一九一八年と一九一九年当時の「アダリャート」の理論的見解を判断することはひじょうに困難である。目下のところ、われわれはそのための資料をもっていないからである。しかし、第一回党大会(一九二〇年六月)関係の若干の資料によってみると、以下のように、彼らはトルコ社会主義者=共産主義者の見解と原則的に大差ない見解をもっていたとみることができる。彼らも直接的社会革命に期待をかけていた。「アダリャート」第一回大会では、ロシア共産党(ボ)の名でいくつかの演説がおこなわれたが、この発言のなかでは、「ペルシァでは共産主義革命の機は熟していない」という当時すでに周知となっていたレーニンの民族=植民地問題についてのテーゼに依拠して代議員の活発な説得がおこなわれた。それだけでなく、大会では、反帝闘争から自由主義者、地主、民族ブルジョアジーを排除したイランにおける共産主義者の実践活動上の誤謬が直接指摘された。このほかにも、一九一八年末から一九一九年はじめにひらかれたとおもわれるアストラハンのペルシァ共産主義細胞の決議を引証することもできる。ペルシァ・プロレタリアートの政治教育の課題について述べたこの文書は、ペルシァにおける「社会革命のための土壌の準備」と「プロレタリアートのあいだでの社会主義と共産主義の思想の扶植」についてのみ述べている。他の課題の解決を準備する方針についてはこの決議はなにも述べていない。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(13) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月22日(木)21時33分38秒

 革命ロシアに在住した数万の外国人労働者をとらえた共産主義運動の積極的参加者中には中国人もいた。最初の中国人共産主義者(ロシア共産党《ボ》員)はソヴエトの国で生まれたのであり、この国で最初の共産主義グループが成長した。ロシア在住中国人共産主義者と彼らの故国にいた革命家との緊密な連携が成立していたことを考慮するなら、この事情が中国共産主義運動の発生にどんなに重要な意義をもつかが明らかとなる。一九一八年にペトログラートで、中国人労働者統一革命同盟が結成されたが、この同盟内に共産主義組織が創立された。その後間もなく、ロシア共産党(ボ)機関の援助で、中国人労働者同盟の地方支部内にも共産主義細胞が結成された。細胞はソヴエトの多くの都市、とくに極東とシベリヤ、中央アジアにも出現した。
 ロシア共産党内に中国人党員数が増加したこと、中国人党員にたいする活動が複雑であり、特殊性をもっていることのために、特別なセンターが必要となった。このために、一九二〇年七月一日、ロシア共産党(ボ)中央委内に中国人党員を対象とする中央オルグ・ビューローが設けられ、このビューローが彼らのあいだにおける思想活動と教育・組織活動を指導することとなった。ソヴエト政府と党は、中国人共産主義者が彼らの出版活動と宣伝活動をおこなうのに必要な当時として可能なかぎりの条件をあたえた。この活動の有効性と、中国にいる彼らの同国人にたいする革命的影響については、たとえば、ソヴエト・ロシア内に中国人共産主義者グループが存在すること自体にたいする北京政府の数々の抗議が明瞭にこれを証明している。ブラゴヴェシェンスク、ハバロフスク等の中国領事は、彼らが中国人共産主義グループと細胞を名づけた「中国共産党」の解散を執拗に要求し、アメリカ政府とイギリス政府は、革命的気分をもつ中国人のソヴエト・ロシアからの中国帰還を陰に陽に阻止しようとした。
 中国の労働者階級は、一九一一年のブルジョア革命後一〇年して彼らの共産党を創立したが、すくなくともこの創立は、十月大革命とボリシェヴィキ党の援助がこの国の労働運動の発展をいちじるしく促進した結果であったことについては、いささかの疑念もありえないだろう。中国共産主義運動の発展と共産党の創立の重要な要因の一つは、ソヴエト・ロシアから帰還した数百の中国人労働者と共産主義者がこの運動に参加したことであった。中国共産党史の中国人専門家だけでなく、ソヴエトの歴史家にしても、中国共産主義運動史の初期段階の叙述にあたって、この事情に十分に留意しているとはいえない。彼らは、最初の中国人共産主義グループが中国本土以外に、日本やフランスで発生したことに必ず言及するが、しかし、ソヴエト・ロシアにおける中国人共産主義細胞の結成とその活発な行動については述べるところがない。この問題の究明のための史料的基礎がひじょうに薄弱であったことも事実ではあるが、それにしてもこの結論をくだすに十分な史料は存在しているのである。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(14) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月22日(木)21時52分19秒

 ロシア在住の中国人共産主義者は、民族解放運動の理論的・戦術的問題では、他のばあいと同様に弱体であった。一九二〇年七月または八月に、中央オルグ・ビューローがトゥルケスタンの中国人共産主義者にあてたアピールはこれをよくしめしている。――「外国ブルジョア−協商国は、わが国の富に吸着するとともに、われわれの同胞、われわれの親、兄弟、子弟の血を吸っている…… わが国の為政者はわが祖国のこの掠奪に手をかしている。同志諸君、われわれは武器を手にし、われわれの愛する祖国から彼らを駆逐するために、自国ブルジョアジーと外国ブルジョアジーにたいしてわれわれの力を結集しなければならない。」ロシア共産党(ボ)中央委極東ビューロー所属の中国人共産主義者オルグ・ビューローは自己の課題をより明確に定めていた。オルグ・ビューローの規定はつぎのように述べている。「中国の共産主義者は、中国内で社会革命を遂行し、中国労働者階級を組織することを、万国のプロレタリアートにたいする自己の責務と考える。」アムール州中国共産党の名で発表された「ロシア革命三周年にさいしての宣言」もこれにおとらず示唆的である。きわめて興味深いこの文書は、中国人民にむかって社会革命を呼びかけている。なぜなら、「経済的不平等を一掃し、正義の原理を実現するためには、社会主義が必要であるからである。共産主義とは社会主義の精髄である。すべての人類は共産主義にむかってすすんでいる。中国では、この国に独得な民族的・歴史的特殊性のために、また中国の伝統のために、この道は最も容易で、最も受けいれやすい道である。」中国本土自体では、社会主義の研究は他の東方諸国にくらべればはるかに発展していたが、しかし、民族解放革命とプロレタリア革命の相関関係の問題は、この当時には、事実上まだ提起されていなかった。ソヴエト在住の中国人共産主義者のばあいにしても、上述のごとく、この問題は提起もされてはいなかった。
 朝鮮人勤労者も、ソヴエト・ロシア内における外国人労働者・農民の共産主義運動の積極的参加者であった。朝鮮人共産主義グループは、一九一九年の激烈な国内戦争のさなかに出現し、一九二〇年と一九二一年にはとくに活発に結成された。一九二〇年末には、ソヴエト・ロシアに(モスクワをふくむ。しかし、その大部分は極東とシベリヤであった)、一六以上の朝鮮人の党組織が存在し、党員および党員候補者数は二三〇五人であった。極東における朝鮮人共産主義者の活動はロシア共産党(ボ)県委員会の当該部が指導し、中央委極東ビューロー朝鮮人部が統一指導した。そのご、極東には、朝鮮人州委員会だけでなく、朝鮮人共産主義組織中央委員会までが結成された(一九二〇年七月)。地下活動と国内戦争の極度に困難な条件下に、朝鮮の共産主義者は各地で同国人のあいだに大規模な宣伝活動と軍事=組織活動をおこなった。朝鮮語のビラと小冊子が発行され、赤軍朝鮮人部隊が編成されて、日本占領軍と白衛軍に抗して英雄的に闘った。
 朝鮮共産主義者は彼らの民族の共産党の創立に努力した。彼らがロシア共産党(ボ)内にあって、ソヴエト・ロシアに展開された武装階級闘争に積極的に参加したことは、党創立にすくなからず寄与した。一九一九年四月にひらかれた二つの朝鮮人社会団体(朝鮮人社会主義者同盟と新市民同盟)のウラジオストック大会は党創立にむかっての一歩であった。この大会で朝鮮社会党が結成され、コミンテルン参加を表明した。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(15) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月24日(土)17時04分54秒

 朝鮮社会党の指導者の一人であり、その後コミンテルン第二回大会に参加した朴鎮淳は、大会関係の論文中で、民族=植民地革命の戦術をつぎのように特徴づけた。――大会は、一九一九年三月に朝鮮で発生した激烈な民族解放運動がブルジョアジーによって指導されたものであることを確認しなければならない。この確認から生じる結論は、大衆の闘争は「民族的敵対の虚偽の道」にむかってすすめられていること、したがって「このような条件のもとでは所期の成果をおさめることはできない」ということである。しかし、「この運動がどのような形態をとろうとも、運動の発展に対立することは望ましいことではない。」同時に大会は、この運動が「階級闘争の路線」上に移行するように宣伝手段をもって闘争することを決定した。さらに、朴鎮淳は、朝鮮社会党は日本帝国主義との共同闘争のために民族ブルジョアジーと勤労者が統一することに反対する、と書いている。朝鮮社会党は、「ブルジョア政治家の虚偽と偽善の約束に陥らないことを決定した。なぜなら勤労人民は、現在、日本帝国主義強盗の抑圧に苦しんでいるように、朝鮮ブルジョアジーの圧制に苦しむことになるであろうからである。」ついで、彼はつぎのように結論する。「朝鮮社会党は最近の大会(一九一九年四月)を機として、自国ブルジョアジーと最終的に絶縁し、階級闘争の政綱に立ち、『自由朝鮮共和国』のスローガンを宣言した。」朴論文は、アジア諸国に進行している民族解放運動の性格とこの運動にたいするプロレタリア党の態度の問題についての、当時の東方の初期共産主義活動家の多くに特徴的であった立場を詳細に基礎づけており、これらの命題をかなり発展させている。
 一九一九年にタシケントで結成されたインド革命セクションは、一九二〇年にインド革命協会と改称したが、いずれも共産主義的組織とはならなかった。このことは、彼らの大部分が、ソヴエト・ロシアにインド解放闘争の支援をもとめにきた小ブルジョア活動家およびブルジョア活動家と民族主義者から成っていたことをみれば、驚きに値することではない。彼らは全員がマルクス=レーニン主義から遠かった。彼らのあいだには、神学者(たとえばバラカトゥルラ)もいれば、全回教徒のカリフであるトルコ・スルタン擁護のカリフ運動参加者である回教巡礼者もいた。若干の協会幹部(たとえば、プラティヴァディ、アチャリヤ、モハメッド・シェフィク)は、十月革命とソヴエト政権の活動の影響を受けて共産主義者となった。その他の者、たとえば、アバニ・ムハルジー、M・N・ロイ等はすでに共産主義者として入ソした。協会内では、労働者または他の勤労者グループにぞくする者はひじょうに少数であり、協会会員数も明らかでないが、おそらく数十人をこえることはなかったようにおもわれる。
 国際宣伝会議は、若干の協会幹部の影響を受けて、その活動報告(一九一九年十二月ー一九二〇年七月)のなかで、インドの革命的情勢と革命的可能性にかんするつぎのような一面的評価をおこなった。「現時点において、インド・プロレタリアートがイギリス帝国主義の圧制に抗しておこなっている巨大な闘争と、イギリス人をして軍事独裁下でのみかろうじて全国の掌握を余儀なくさせている蜂起の中断なき勃発は、この国で共産主義思想を発展させるための絶対的に有利な状況を創りだしている」と。この評価はあまりにも過度に楽観的、主観的にすぎるものであった。いずれにせよ、トゥルケスタンにインド人の確固たる共産主義組織を結成することには成功しなかった。一九二〇年四月十五日、ECCIは、ロシア共産党(ボ)中央委に、目下のところインタナショナル内にインド共産主義組織は結成されていないと報告している。三ヵ月後に、『プラウダ』紙上に、著名なソヴエト活動家であり、党活動家でもあるゲ・サファロフの論文が発表されたが、彼はそのなかで、インド革命家の組織は「主として民族革命的性格をもっている」と書いた。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(16) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月24日(土)17時51分47秒

 しかし、一九二〇年十月には、タシケントで共産主義者の小グループが結成されたようである。十月十七日、コミンテルンのトゥルケスタン・ビューローは、トゥルケスタン共産党中央委に、「コミンテルンの原則にたち、この地にインド共産党が組織された」と報告している。党書記にはモハメッド・シェフィクが選出された。おそらく、この組織はあまり長つづきする力をもっていなかったようである。一九二〇年十二月三十一日におこなわれたロシア共産党(ボ)中央委トゥルク・ビューローとトゥルケスタン共産党中央委執行ビューローとの合同会議議事録中の文書はこの推察を可能にするものである。この会議では、一九二〇年末に、インド協会内でインド人亡命者間の革命的活動方法の問題で、ロイとアチャリヤのあいだに生じた紛争問題を審議している。議事録は、「この地で彼らのあいだに共産主義教育をおこなうにしても、彼らを強制的に入党せしめるべきではないことを、インド人に納得させる」必要について述べている。もっとも、当時、インド人革命家は将来の共産党の核心となるべきものをつくることさえできなかった。党の結成なくして、インド社会主義革命が問題にさえなりえなかったことはいうまでもない。
 十月革命の影響を受けて東方の国際主義者のあいだに発生した共産主義運動は、一九一八−一九二〇年に、干渉反対とソヴエト・ロシア擁護、帝国主義と民族ブルジョアジーにたいする非妥協的闘争の革命的立場をとった。しかし、同時に、ロシア内で東方の外国人市民のあいだに発生した初期共産主義グループの若干の特質は、先進資本主義国、中程度の資本主義国の独立国としての社会=経済的条件と、アジア、アフリカの大部分の被抑圧国の前資本主義的生活条件のあいだに存在する重要な差違の不理解であった。共産主義的組織の結成過程ではひじょうに「左翼的」な戦術方針が立てられた。すなわち、アジア諸国における革命のブルジョア民主主義的性格は否定され、社会主義革命の方針が打ちだされ、民族ブルジョアジーの革命的可能性と、したがって彼らとの反帝ブロックの可能性も否定された。しかしながら、黎明期の共産主義運動は、レーニンとボリシェヴィキ党、コミンテルンの影響のもとに、次第にこの疾病を克服し、ロシアに隣接するアジア諸国の共産党の創立を準備するうえで重要な要因となった。いうまでもなく、隣接東方諸国の勤労者のあいだでの共産主義運動の発生と発展で大きな役割を演じたのはソヴエト政権とボリシェヴィキ党であった。クーシネンは、一九一九年三月のコミンテルン第一回大会での演説で、「革命ロシアは」その発生以来「一年以上にわたって、事実上、新しいインタナショナルであった」と述べたが、彼の発言はまさに右の事情を指しているのである。
 同時に、ソヴエト・ロシア内で東方勤労者のあいだに結成された共産主義グループと社会主義グループは、活発な革命的闘争と国際主義的活動によって、まず第一に、ソヴエト政権の積極的擁護者として、徹底的反帝闘争と先進的社会主義思想の表現者として、コミンテルン結成の礎石をきずいたのである。
 一九一九年三月、モスクワの創立大会でコミンテルンは結成された。しかし、結成の前提は、西方と東方で、ボリシェヴィキとソヴエト・ロシアの周囲に共産党と共産主義グループが結成され、統一される過程をつうじて創出されたのである。
編集済


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(17) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月24日(土)17時53分47秒

 コミンテルン第一回大会宣言は、帝国主義の植民地政策を断固として暴露し、東方被抑圧民族解放の課題を前面に提起した。すでに、この文書では、ヨーロッパの社会主義国の側からの思想的・物質的支持があたえられる条件のもとでの、東方諸国の非資本主義的発展の可能性の思想が述べられている。このばあいに、植民地・半植民地の解放は、本国におけるプロレタリア革命の勝利との密接な関係のもとに考察されている。第一回大会決議では、民族解放運動を支持し、植民地主義の一掃のために被抑圧民族の広範な反帝戦線を結成するためのコミンテルンの確固たる決意が表明されている。オランダ共産党代議員は宣言の審議にあたってつぎのように述べた。「植民地政策については、植民地人民がどのような彼ら自身のイデオロギー、宗教等をもっているかにかかわりなく、われわれが彼らとともに行動しようと欲していることを、彼らが完全に明瞭で理解できるような形態をあたえるために、もうすこし詳細に述べることが望ましい。われわれは反帝闘争の基礎に立って、彼らと共同行動する用意がある。」この大会で、「東方被抑圧民族とロシアおよびヨーロッパの社会主義的労働者の革命的同盟万才!」のスローガンがはじめて提起された。
 コミンテルン第一回大会の植民地問題についての命題は、東方民族解放運動の強力な高揚によって生じた特殊な諸問題の、より深い、より具体的な、よりいっそうの究明のための基礎をきずいたものであった。そのご、間もなく、レーニンは、革命を救うために国内戦争の全戦線にソヴエト共産主義者のエネルギーを全面的に傾注せねばならぬという、当時のロシアの極度に困難な状況にもかかわらず、この課題の解決にとりくまなければならなかった。一年後にひらかれたコミンテルン第二回大会は、民族解放運動の共産主義的戦略・戦術にかんするレーニンの報告を聴取し、これを採択した。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(18) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月24日(土)22時42分45秒

     東方諸国の解放における軍事的要因の役割について

 初期共産主義者世代の多くに特徴的であった「左翼」病は、東方社会主義革命の時期尚早の方針と民族ブルジョアジーの反帝国主義的役割を無視する戦術方針によくあらわれていた。この「左翼病」は他の徴候ももっていた。アジア諸国の未経験な若干の共産主義者と、それにすくなからぬ数のソヴエトの共産主義者も、植民地の民族的・社会的解放にはたす軍事的要因の意義を過大視していた。「左翼」は、民族独立闘争の民主主義的段階をとびこえるか、または、より正確には、民族解放革命を社会主義革命に転化させ、それによって一挙に民族的解放と社会的解放の課題を解決しようとしていた。このばあいに「左翼」が、東方諸国でプロレタリアートが極度に弱体であるか少数であること、またはまったく欠如していたことを看過したのだということはできない。さらに、勤労者の圧倒的多数が農民であり、文盲で非文化的で、狂信的といえるほど信心深く、大部分が反動的階級の影響下にあることを、無視したわけのものでもない。彼らは、これらの否定的要因をいかにして急速に克服するかの問題を立てた。かくして、彼らは、革命的軍隊によるソヴエト・ロシアからの軍事的進撃のみが、隣接東方諸国における民族革命と社会革命の同時的勝利にいたる道であるという結論に到達したのである。
 彼らは、ソヴエト政権擁護の武装闘争の積極的参加者であったが、民族解放革命の、ついで社会主義革命の成功のために国内勢力を入念に準備する道は、最善のばあいでも余りに長期の道であり、最悪のばあいにはまったくの不可能事であると考えた。
 国内戦争における赤軍の勝利は、「左翼」共産主義者の見解を立証しているかのようにおもわれた。ソヴエト軍隊の勝利は感銘深く受けとめられたが、しかしこのばあいに、この勝利の背後に、大衆の教育のための、労働運動と科学的共産主義の結合のための、プロレタリア前衛の組織的・思想的・理論的強化のための、党の長期の緊張した活動があったことを、彼らは忘れていた。それにくわえて、「左翼」は当時の東方諸国をとらえた反帝国主義的高揚の意義を誤って評価していた。彼らにとっては、東方諸国における実際に強力な解放運動は比較的容易に自国の搾取者にむけられるものであり、封建領主にたいしてだけでなく、通常民族ブルジョアジーがこの運動を指導しているにしても、民族ブルジョアジーにもむけられるにいたるものであるかのごとくおもわれた。「左翼」のある者は、革命的軍隊は東方被抑圧国にその姿をみせるだけで十分であり、それだけで即座に革命的情勢が醸成され、異民族の抑圧者と自民族の抑圧者にたいする全人民的蜂起がもえあがるであろうと考えていた。
 いうまでもなく、東方の初期共産主義者と若干の「左翼」(ロシア共産党《ボ》員)の見解は理論的にも未熟なものであった。民族解放革命の社会革命への転化の促進手段としての革命戦争という戦術はいかなる論拠もありえぬものであった。しかし、白衛軍と干渉軍にたいするソヴエト人民の国内戦争に彼らが積極的に参加したことは正しかった。なぜなら、この参加は、世界革命の根拠地であった社会主義ロシアを強化しただけでなく、東方被抑圧民族の主要な敵であった国際帝国主義を弱化したからである。
 革命戦争の戦術を生みだした要因は、当時のアジアのわかい共産主義者にとってはやむをえなかったマルクス=レーニン主義的素養の弱化にあっただけではなかった。この戦術は、まず第一に、国際帝国主義がソヴエト・ロシアにたいする十四ヵ国の武力干渉を組織し、この干渉の足場として、トルコ、イラン、中国、モンゴル等の隣接東方諸国の領土を利用したからである。日本帝国主義者と白衛軍はアメリカ、イギリス、フランスの支持のもとに行動し、中国東北およびモンゴル領からソヴエト・ロシアへの軍事侵入を組織した。日本の圧力を受けて、北京の軍閥政府も反ソ干渉に参加した。ドイツの帝国主義は、ソヴエト政権にたいする干渉のためにトルコのスルタン政府を利用し、ザカフカジエ地域に侵入した。トルコとイランを占領した協商国は南方からソヴエト領内への干渉を開始した。このような状況のもとで、東方のわかい共産主義者が、反帝武力闘争はロシアに隣接する植民地・半植民地への武力進撃に高まらなければならぬと考えたのは、十分に根拠あることであった。このように、革命戦争の戦術は歴史的根拠を欠いたものではなかったのである。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(19) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月25日(日)00時48分47秒

 一九一八年十一月四日から十二日まで、モスクワで開催された東方諸民族共産主義組織第一回大会でも、武力解放進撃のテーゼが主張された。回教徒問題中央委員会は、大会報告中で、彼らはその活動で、回教諸国を帝国主義の支配から解放する任務から出発したと述べた。この任務の遂行のために、「トルコ人軍事捕虜中に社会革命の思想」を普及するための活動を展開し、「有利な時点には、トルコにおけるプロレタリアートの蜂起を組織するための中核として利用可能な労働者・農民出身のトルコ人軍事捕虜のあいだに赤軍カードルを組織する方法によって、彼らを社会革命に実践的に準備する」活動をおこなった、と。大会最終日にトルコ代表団(代議員中には、ムスタフ・スブヒ、ジェヴデット・アリ、マホメット・ナザミ、イスマイル・ルトフィ等のトルコ人社会主義者=共産主義者がいた)は声明を発表し、「トルコに革命を呼びおこすこと」が必要であり、「そのためには勢力の結集が必要であり、したがって、フラクションはそのメンバーにたいして……共同の努力をもって革命の闘争場裡に直接進出することを呼びかける」と述べた。さらに、彼らはいくつかの実践的措置をあげたが、そのなかでも、「全トルコ人共産主義者部隊の南部戦線への集結に着手し、この部隊をロシア在住のトルコ人軍事捕虜をもってみたすこと」を提議した。
 大会はこの提案をロシア共産党(ボ)回教徒中央ビューローの検討に付すことに決定した。同時に大会は、当面のモメントにかんする一般決議第六項で、「トルコ人労働者・農民の軍事捕虜を集結し、彼らのあいだから赤軍部隊を編成して南部戦線に派遣するための緊急対策をとること」を勧告した。ついで第七項では、「東方における革命運動の基盤を準備するために、ただちに現実的手段を講ずること」を決定した。
 一九一九年春には、トルコ人国際主義者は実際にクリミヤに集結を開始し、そこで部隊を編成した。報道によると、当時、「クリミヤには一万人のトルコ人プロレタリアートがいる」とされた。
 植民地・従属国の民族的・社会的解放の主要勢力として軍隊を利用するという考えは多くの同調者を集めた。同調者数は、赤軍が東方に進出し、中央アジア、カフカース、シベリヤ、極東でソヴエト領土を解放するにともなって増大した。
 一九二〇年、中国人共産主義者オルグ・ビューロー員は、北京反動政府打倒の目的で、中国首都への軍事進撃を組織する計画を提起し、これを審議した。この計画は、中国の革命軍部隊と協力し、中央アジア(新疆)、満洲、華南の三方向から攻撃をおこなう予定であったようにおもわれる。
 この軍事計画を打ちあわせるために、オルグ・ビューロー員の劉ジャン(フョードロフ)は当時華南で革命運動を指導していた孫逸仙を訪ねて上海におもむいた。劉ジャンは彼の上海旅行の文書報告のなかで、予定作戦行動の本質をつぎのように詳細に特徴づけている。「北方反動政府にたいする行動の基盤を……共同で、完全な接触を保持しつつ準備するために、華南、中央ロシア、極東地域にある中国人革命勢力を即時結集すること」が予定された。ソヴエト・ロシアと華南にある中国人突撃部隊の「集結地」としては、新疆省の「セミパラチンスク州とセミレチェンスク州の境界、中国領トゥルケスタン付近」が予定され、「この地方ではすでに義勇兵の一部徴募がおこなわれた。」革命的進撃の指導中心はブラゴヴェシェンスクにおかれるはずであった。
 軍隊が社会革命の急速な勝利を保障するという構想は、中国人共産主義者のあいだにとくに流布された見解であった。彼らは、必要なばあいには、この軍隊をルンペンまたは当時の中国に多数いた紅?子のグループから編成することもあえて辞さなかった。一九二一年なかばに、中国共産党の代表者張太雷は、コミンテルン第三回大会への報告で、紅?子の部隊に編成された中国の流民を「戦闘的革命的素材」と述べ、外国の抑圧者と地方軍閥にたいして闘争する「広範なパルチザン運動を全国的に発展」させるべき「原素材」として特徴づけた。
編集済


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(20) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月25日(日)12時54分43秒

 革命的軍隊による中国への武力進撃計画は、一九二二年にも若干の中国共産主義者によって提起された。一九二二年六月、ロシア共産党(ボ)中央委極東ビューローは、同様な計画を特別に審議しなければならなかった。この計画は、斉斉哈爾省と極東共和国のウスリー国境付近で行動している二つのパルチザン部隊の隊長である劉シャン・フとリ・チャン・リによって提議されたものであった。
 中国の革命家は、パルチザン部隊(約三万人)が「この地方を占拠するため」に新疆への移動を援助するか、「シンチャンとサンチンへの即時進撃」の組織を援助するように要請した。極東ビューローは六月二十日の会議で、ヴェ・カ・ブリュツヘルの提議によりこの計画を否決するとともに、これらの部隊には「共産主義的影響がまったく欠如している」ことを指摘した。このために、極東ビューローは「国民革命軍の軍事政治学校に、中国の同志のための特別の政治教育部を組織すること」に同意し、また、満洲のパルチザン解放運動に食糧、兵器、弾薬の援助をあたえることに同意した。
 周知のように、一九二〇年六月のペルシァ「アダリャート」党第一回大会は、「ペルシァ勤労者の解放は武力によってのみ可能であり」、「武器を手にしてのみ」ペルシァは帝国主義的抑圧から解放されるであろうという見解を表明した。
 インドの共産主義者も、アフガニスタンを経由するインド解放進軍の組織を企てた。
 この進撃計画はロイによって細部にいたるまで作成された。イギリス植民地主義者をインドから駆逐する使命をもつ解放軍の組織のために、アフガニスタンの国境種族とインド回教徒を利用することが計画された。インド人回教徒の一部は、イギリスの抑圧に抗議し、カリフ運動に参加するために故国を去って、この当時はアフガニスタンとソヴエト中央アジアに居住していた。インド革命家はソヴエト・ロシアに援助を要請し、彼らはこの援助を受けとった。ソヴエト政権は、被抑圧民族の反帝国主義闘争を支持するという自己の不動の政策からこの援助をおこなったのである。しかし、インド国内に、革命の主観的・客観的要因が欠けている条件のもとで、この計画が実現できるかどうかはきわめて疑わしいことも理解していた。一九二〇年末、トゥルケスタンにインド人革命家のための軍事訓練機関が創設され、兵器、被服等が支給された。しかし、レーニンの予見どおり、カブール政府はインド人のアフガニスタン領通過を拒否した。レーニンは、コミンテルン第二回大会後、インド進撃の組織に参加するためにタシケントに出発する直前のロイと会談し、予定進撃計画の冒険主義的性格を強調するとともに、目下は、インド国内の革命的情勢を接近させるような別の闘争方法が必要であることを力説した。このことは、レーニンの立場の意義を公然と減殺しようとしているロイ自身の口からも明らかなことである。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(21) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月25日(日)13時47分56秒

 東方の社会革命のために、革命的軍隊の武力攻撃が必要であるというテーゼをとくに精力的に提起し、主張したのは、『民族生活』紙と東方諸民族共産主義組織中央ビューローの活動家のかなりの部分であった。当時、東方では十月革命と国内戦争の戦線における赤軍の勝利によって、民族解放運動は拡大しつつあった。この運動内におけるプロレタリアートと農民の進出も目ざましかった。若干の国では、帝国主義軍隊にたいするパルチザンの武装行動が展開された(朝鮮、中国、ペルシァ)。このような状況は、当然に、隣接アジア諸国の革命を促進し、激化させようとする欲求を生みだした。中央ビューローは、ロシア共産党(ボ)中央委あての書簡で、「東方における革命運動の発展と深化は、中央ビューローを否応なしに、軍事組織の状態にしている」と述べた。『民族生活』紙は、東方への革命的軍事進撃を根拠づける論説を発表した。この新聞のある論説は、「トゥルケスタンに必要なのは強力な軍隊をあたえることだけであり、そうなればアジアの革命は巨歩をもって前進するであろう」と極論した。また他の論文は、東方は覚醒したとはいえ、「外部からの、ロシア回教徒の新鮮な、無尽蔵なエネルギーの積極的援助なしには、間もなく、ふたたび無気力な沈滞と倦怠の昏睡におちいるであろう。イギリスにとっては、ヒマラヤの山頂にそそり立つコザックの槍剣の幻影は永遠の案山子にすぎなかったとすれば、いまや、彼らをしてペルシァ、インド、アフガニスタンの同胞の救援に赴くロシア人プロレタリアートの回教徒の手中にある歴史的槍剣を仰がしめるべきなのだ」と主張した。
 若干の初期共産主義者は、革命思想の全能にたいする驚嘆すべき、時としては余りに素朴にすぎる信念をもって、つぎのように断言していた。社会主義のイデオロギーは勤労者の利益を反映するものであり、したがってこのイデオロギーは東方の大地に姿をみせるや否や、ただちに人民に受けいれられるであろうし、人民はただちに彼らのブルジョア的首領とその思想的混迷から脱却するであろう、と。エフェンディエフは、たとえばつぎのように書いていた。「植民地圧制者は、東方の原住民の頭上で悪事のかぎりをつくした。それゆえに、ボリシェヴィズムの潮流は、彼らのところで、他のいかなる潮流よりも、彼らの民族的・教権的潮流よりも、優位を占めるにちがいない……
 これらの政治的教義は、立ちおくれた経済諸関係の残存のために、東方には労働運動もなく、したがって国際的社会主義、すなわち社会学の結論の知識もなかったことからする、あからさまな謬見のもたらした結果である…… いまや、国際プロレタリアートの一部隊の闘争がソヴエト共和国で実践されている現在、東方解放の古いイデオローグは……降伏するにちがいない。」とめどもなく熱中したエフェンディエフは、さらにつぎのように述べる。「もし、脆弱なツァーリズムでさえ、豊かな獲物を求めて、いくつかの敵性国家を経由するインド進撃とインド占領を若干の現実性をもって計画しえたとすれば……、東方諸民族の胸中に多くの希望を目ざめさせた労農ロシアがボリシェヴィズムのイデオロギーをインド人にあたえるために、なぜこの面でのなにかを実現することができぬのであろうか。」
 スルタン=ガリエフにいたってはさらにその先をすすんでいる。彼は『民族生活』紙上での「社会革命と東方」と題する論文で、ソヴエト政権の東方政策を批判し、その政策を「断固たる」「確固たる」方針の欠如として非難した。彼はつぎのように主張した。ツァーリ政府が派遣したロシア軍隊のペルシァからの引揚げは、「われわれ自身の無力の反映であり、その承認である。」このように、諸民族の友誼と東方被抑圧国の民族解放運動の支持というレーニンの政策の本質を構成するものが、事実上、スルタン=ガリエフによって峻拒されていたのである。
編集済


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(22) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月27日(火)17時56分46秒

 この論文の発表後間もなく、一九二〇年一月二十日、東方諸民族共産主義組織中央ビューローのスルタン=ガリエフを先頭とするグループは、ロシア共産党(ボ)中央委に特別の文書を送った。この文書の著者は、上述のような思想を発展させ、「口先と空想から実行に移るべきこと」を呼びかけ、東方革命化の正しい政策、すなわち、「断固たる大胆な」政策は「協商国の形であらわれている国際帝国主義にたいして植民地東方を実際に蜂起させること」を可能にするであろうし、「それによって、世界革命の課題は三分の二といえないまでもそのなかばは解決されるであろう」ことを主張した。「東方ではこのための土壌は完全に準備されており、あとはただ耕作者を待つだけである。」この課題を実現するために、彼らはスターリンを東方関係外務人民委員に任命し、「東方におけるソヴエト政権の一切の内外政策の指導を彼に一任する」ことを提議した。
 周知のように、党はこの方針を採択しなかった。党はレーニンとともに、必要なことは「革命の加速化ではなく、革命の準備の加速化」であるとした。党およびレーニンと「左翼」革命家の原則的相違はまさにここにあった。レーニンは、軍事的手段によって革命を外部からもちこむ方法を断固しりぞけ、革命的前衛党の創立による宣伝と大衆の組織化の道を確固としてまもった。
 レーニンは革命を輸出すべきではないこと、社会革命はこの革命が完全に成熟したのちに、すなわち、プロレタリアートが自国のブルジョアジーから分化し、闘争の指導権を自己の手中に掌握するための用意ができたのちに、はじめて可能となることを再三指摘した。レーニンは、第八回大会で、民族自決権の承認の拒否を主張するブハーリンに反対してつぎのように述べた。「バシキール人が搾取者を打ちたおし、われわれが彼らがそうするのをたすけるとさえ仮定しよう。だが、これは、変革が完全に成熟したばあいにしか、やれないことである。また、われわれが干渉したために、われわれが促進しなければならない当のプロレタリアートの分化の過程をかえっておくらせることのないよう、慎重にそれをやらなければならない。これまでムルラーの影響のもとにあったキルギス人やウズベク人や、タジック人や、トゥルクメン人のような民族にたいして、われわれはいったいなにをすることができるだろうか?……われわれはこれらの民族にむかって、『諸君の搾取者たちをたおそう』と呼びかけることができるであろうか?われわれはそうすることができない。というのは、彼らはまったくそのムルラーに隷属しているからである。このばあいには、われわれは、この民族が発展し、プロレタリア分子とブルジョア分子とが分化するまで待たなければならない。かならずそうなるにきまっているからである。」軍事進撃によるアジアの革命の激発論者は、その民族が社会発展のいかなる段階にあるかの熟考を拒否し、この発展と革命の準備の促進の長期的活動を拒否した。彼らのこの方針は、アジア諸国の人民大衆と先進的階級の革命的潜勢力にたいする不信を意味した。この方針は革命輸出論と同義であった。この革命輸出論こそ、党とマルクス=レーニン主義が峻拒したものであった。
 民族解放革命における軍事的要因の役割の問題は、東方諸民族共産主義組織第二回全ロシア大会(一九一九年十一月二十二日―十二月三日)でもふたたび提起された。主要発言者はスルタン=ガリエフであった。彼は、デニキンとコルチャックにたいする赤軍の勝利とロシアにおける国内戦争の終結も息つぎにすぎず、この息つぎののちに、国際革命が、すなわち国際的内戦がはじまるだろうという考えを発展させた。この国際革命には、被抑圧東方諸民族が、ペルシァ人、トルコ人、インド人、アフガニスタン人、等々がかならず参加するであろう。「われわれはこの闘争に準備しなければならない」と彼は述べた。「この目的のために、われわれはすでに革命化した東方諸民族、すなわちタタール人、バシキール人、トゥルケスタン人、キルギス人から……東方赤軍を編成しなければならない。この東方赤軍は、国際帝国主義に反対し、東方が……帝国主義によって利用されるばあいには東方そのものに反対して、東方で行動しなければならない。」回教徒赤軍または東方赤軍の創設というこの思想は、東方諸民族共産主義組織中央ビューローによって、またトロツキーによっても支持されたというスルタン=ガリエフ報告は注目に値するものである。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(23) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月27日(火)18時53分28秒

 回教徒軍の創設と東方進撃のためにこの軍隊を準備するというスルタン=ガリエフの提案は、共和国革命軍事会議代表のエル・ペ・カタニャンのはげしい反対にぶつかった。カタニャンは十一月二十七日の会議でつぎのように述べた。「同志〔スルタン=ガリエフ〕は回教徒部隊を回教徒の掌握下におくために一地点に集中せねばならないと言っている。そこで私は質問したい。君はユデニッチがペトログラートを攻撃したとき、バシキール旅団はネヴァ河で戦うことによって革命に大貢献したことを忘れたのか? と。いまはデニキンが攻撃している。われわれは猫の手も借りたい。ところがこの時期に、この兵士を引きあげろとわれわれに言う。私は聞きたい。われわれはいまどこにいるのか、デニキンは粉砕されたのか? はたして回教徒部隊は彼らに無縁のことをしているのか? はたして、デニキンを追い払うことによって、彼らはダゲスタン、アゼルバイジャンの解放にむかっているのではないのか? 彼らは、革命がペルシァに、〔ついで〕さらに飛火し、ついにはアジアを包摂するにいたるように促進しているのではないか?…… 回教徒部隊は革命が彼らを必要とする地点にとどまらなければならない。」カタニャンは、東方革命化ということによってなにを理解しなければならぬかを説明した。彼は、東方の革命化は銃剣の力によって実現されるものではなく、思想によって、その普及によって、実現されることをしめした。「東方に赴く共産主義者は、人民に一定の社会的スローガンをあたえねばならない」と彼は述べた。まず第一に、「すべての土地を人民へ」の要求が提起されねばならない。この要求が実現されたばあいには、「その地方で、われわれの軍隊と結合する偉大な勇敢な赤軍が創設され、前進し、かくして、結局のところ勝利するにいたるであろう。」
 ヴェ・エリ・ルカショフはカタニャンを支持した。彼は「軍事力を東方に集中する」という見解に反対であると述べた。サイド=ガリエフははげしい演説をおこなった。「われわれは現在、銃剣の軍隊をもって東方に赴くことはできない。革命は外部から持ちこまれるものではない。革命は内部から育てるものである。」このほかにも、同様の反対発言があったものとおもわれる。
 しかし、それにもかかわらず、大会はスルタン=ガリエフの極左的・民族主義的テーゼを支持し、その報告にもとづく東方問題についての決議中で、「国際赤軍の一部隊としての東方の国際的・階級的赤軍の創設に着手すること」を勧告した。しかしながら、ソヴエト政権はレーニンの同意をえて、回教徒赤軍の創設の構想を断固しりぞけた。この問題について、一九二〇年一月、当時サマラにいたトゥルケスタン戦線総司令官エム・フルンゼとタシケントにいたロシア共産党(ボ)中央委トゥルク・ビューロー員シェ・エリアヴァとのあいだに直通電話によっておこなわれた会話はひじょうに興味深い。以下はその断片である。

 「エリアヴァ まず、回教徒部隊の編成の問題です。回教徒共産主義者は、回教徒部隊の編成に即時着手すべきことを強く要求しています。彼らは、これを回教徒赤軍の創設という形で考えています。そして、チュルク語の教授による軍幹部要員訓練所の設置をも執拗に要求しています。この二つの問題で彼らを煽動しているのは、トルコ人捕虜の将校で、彼らは、教官=教授として奉仕することを考えているようです。私は、回教徒の編成と動員の問題は独立回教徒軍隊の形ではなく、個別部隊の形ですでに解決済と考えていますが…… 私は、われわれの到着前にここで創設された回教徒軍司令部は廃止すべきであると考えますが。
 フルンゼ 今日は、シャルヴァ・ズラボヴィチ。第一の問題、――回教徒軍司令部と編成の問題。どのような別個の司令部も回教徒軍も存在すべきではありません。この問題については、重ねてイリイッチと意見を交換しました……いかなる話合いの余地もありません。もちろん、現地軍の編成は宗派の原則によっておこなうべきではなく、君がまったく正しく述べたように、民族別原則によっておこなうべきものなのです。」

 以上のように、東方解放の問題における軍事的要因の役割についての極左的・民族主義的見解は、東方の共産主義者のあいだでも、若干のソヴエト共産主義者のあいだでも、かなりひろまっていた見解であった。この謬見を克服するためには、中央政権の行政的介入が必要であっただけでなく、また、右のばあいには介入は絶対に不可欠であっただけでなく、真剣な政治的活動が必要であった。この活動の遂行は、党、レーニン、コミンテルンがになうこととなった。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(24) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月29日(木)00時24分28秒

     東方民族解放運動の位置、役割、その性格について

 東方諸民族共産主義組織全ロシア第二回大会では、アジア諸国の民族解放運動と労働運動のその他の問題についても論争がおこなわれた。
 大会第一日には、レーニンが演説をおこなった。彼は有名なこの演説で、東方のブルジョア的民族解放運動を共産主義者が支持する必要について、とくにこれを基礎づけた。レーニンのこの演説がおこなわれたあとでは、大会での論争はかなり高い水準でおこなわれるもののごとくおもえた。しかし、実際には、かなり大部分の代議員は「左翼主義」の疾病にかかっていたし、マルクス主義的素養を十分に身につけていなかった代議員にとっては、レーニンの思想を深く理解し、それを自己の政治的立場とするには、まだかなりの時間を必要とした。
 大会では、世界革命過程における東方の解放闘争の位置づけと役割の問題について大論争がおこなわれた。スルタン=ガリエフの基調報告の意味は、東方が世界革命過程の偉大な決定的勢力であることを立証することにあった。まさに東方に、世界社会革命の主要槓杆が集中されていること、このような見解は他の若干の代議員たちの発言にもみられた。『民族生活』紙(一九一九年十二月七日)が大会活動の総括を解説したところによれば、「同志たちは、東方の処女地は堕落した西方よりも、はるかに共産主義思想を受けいれやすい状況にあると考えているような印象が生まれた」と考えているが、あながち根拠がなかったわけではない。スルタン=ガリエフはつぎのように述べた。「東方は全西欧を革命のなかに煮つめることのできる釜である。」彼の立論は、東方は西欧資本主義の存立の主要な経済的根源であり、したがって帝国主義ブルジョアジーは東方を失うなら、西欧プロレタリアートの攻撃を施物で押えることができなくなるであろう、という前提に立っていた。「西欧の労働者がブルジョアジーになんらかの経済的要求をつきつけはじめると、ブルジョアジーはほとんどつねに〔この要求を〕満足させる……。なぜならブルジョアジーはそのための財源を有しているからであり、無尽蔵な源泉をもっているからであり、この源泉から彼らは必要なあらゆる液汁を吸いとっているからである。」報告者は、これと同様の思想を、大会前に発表した「社会革命と東方」という彼の論文で、より明確に表明している。「国際帝国主義は……植民地東方を掌握しているかぎり、本国労働者との経済的基盤上でのすべての衝突で、つねに彼に有利な結末を保障されているのである。なぜなら、このような状況のもとでは、彼は彼らの要求の満足に同意することによって、彼らの『口をふさぐ』完全な可能性をもっているからである。」しかも、かりに、西欧で革命が東方の支持なしに勝利したとしても、いずれにせよ、東方は、その後においても、西欧革命の運命を決する勢力としてあらわれてくるであろう。なぜなら、自己の住家から追いだされたブルジョアジーは、東方でその足場を固め、東方から「西欧にたいする黒人の進撃を組織すること」さえ辞さぬであろうからである。
 世界革命過程における東方の決定的役割という一面的な、狭隘な民族主義的構想は、現実を歪曲し、誤った方向をあたえるものであり、したがってこの一事からもすでに政治的に有害であった。この問題の経済的側面についてみても、問題は単純素朴に、非科学的に提起されており、スルタン=ガリエフの見解は、発達した資本主義国の最も意識的・革命的プロレタリアートをして、東方の革命を待機する無為の宿命におとしいれるものであった。なかんずく、この「理論」の特別な有害性は、この理論が西欧のプロレタリア革命勢力と東方の民族解放勢力をソヴエト・ロシアの周囲に結集させるのではなく、この勢力を分散させ、ソヴエト政権の方向をアジア諸国の革命的解放進撃の組織にむけようとすることにあった。
 この「理論」の同調者は、革命の見地からみて東方が最も有望であり、したがって一切の革命的・軍事的・その他の勢力を東方に投じなければならぬという結論に到達したが、そこで彼らは、いかなるスローガンをもって東方に赴くべきかという問題を提起した。本質的には、この問題はアジア諸国におけるきたるべき革命は社会主義革命であり、ロシア革命と同様に、この革命はその途上でブルジョア民主主義的性格の課題を解決するものであることに同意見であったが、しかしそれにもかかわらず、彼らの多くは、彼らの人為的理論構築によってはすこしもその意義を減殺することのできない生きた現実に留意しないわけにはいかなかった。だが、スルタン=ガリエフは、アジア諸国の日程にのぼっている革命が社会主義革命である以上、共産主義者はこれらの国の大衆に純共産主義的スローガンを呼びかけねばならぬとした。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(25) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月29日(木)01時17分43秒

 ルカショフ代議員はこれに反対意見を述べた。彼は、東方はその社会=経済的発展のゆえに即座に共産主義的イデオロギーを受けいれることは不可能であると指摘した。「もしわれわれが東方に共産主義を持ちこめば、東方はわれわれを追いかえすだろう。東方には、教義どおりの形態での共産主義の座席はないのである」と。したがって、ルカショフは、「民族主義をもって東方に赴き」、大衆が理解しやすい民主主義をつうじて人民に「社会主義的原理」を持ちこむべきことを提案した。彼は、東方における独立的国家の形成は社会主義的改造にむかう過渡的段階でなければならないと考えた。東方では、すでに「この(社会主義的)制度の創設を可能にするすべての経済的、農業的諸条件が備わっているが、しかしそれらはまだ」人民によって「意識されていない」ために、即時の社会主義革命は不可能である。だから、われわれは、まずはじめに、人民がこれらの条件の現実の存在を意識するように援助しなければならない、と彼は呼びかけた。そのばあいに、すなわち、民族国家の創設後に、「それら(これらの国家)は、社会的基盤のうえに、内部的に……ただちに改造されはじめるだろう。」この資料では、彼の見解は十分に明らかではないが、おそらくそれは速記録の不備もその一因であったろう。しかし、これらの事情にもかかわらず、ルカショフは、大会第一日に発言したレーニンの演説を自分のものにしていたことが明らかであろう。ルカショフは、東方諸国における当面の課題は民族革命であり、ついでこの革命の発展は社会主義革命のための条件を準備するであろうことを立証した。
 右の意見にたいする、すなわち、東方には、社会主義革命のための客観的条件は存在しないと主張した者にたいするエヌ・ナリマーノフの立場もきわめて興味深い。「私は存在すると考える」と彼は言明する。「それは農民である。農民の状態は社会革命を遂行する力量を農民にあたえ、かくして、それによって、東方における真に団結した労働者大衆の欠如を補うことができる。」彼は、「共産主義者は東方に『働かざる者食うべからず』のスローガンをもって赴くべきである」と述べた。「東方にはこれ以上のものは必要でない。このスローガンによって、われわれは……すべての徒食者、商人、投機者、貴族、王侯を追及できるだろう…… 私は、このような形態での真のソヴエト政権が間もなくペルシァで、トルコで、ブハラとヒバで、自己の基盤を見出すであろうと考える。」
 東方諸民族共産主義組織全ロシア第二回大会における論争は、ソヴエトと東方の共産主義者が、アジア・アフリカ諸国の民族解放運動の高揚が提起した多くの問題にたいする回答を全力をあげて探求したことをしめしている。だが、この論争の理論水準はけっして高いものではなく、すくなからぬ誤った結論を生みだした。なぜなら、この東方問題論争は、具体的な国々における階級勢力の配置関係についての十分な知識もなく、東方諸国の社会=経済状態についての分析もなしにおこなわれたからである。当時は一国のみにおける社会主義革命が進行し、勝利しつつあった条件のもとでの民族解放運動のマルクス主義理論の発展の課題が、ようやく日程にのぼったばかりであった。この大会の参加者の一人であったエス・サイド=ガリエフは、東方諸民族のあいだで活動していた当時の共産主義者がおかれていた状態を特徴づけて、つぎのように述べている。「東方問題についての理論的資料が〔ない〕ばかりでなく、この問題についての小冊子類さえもごくわずかしか発行されていなかった。」アジアでなんらかの政策を実行するまえに、「東方を研究しなければならなかった…… 根拠なしに東方をみることはできない…… 知識の欠如、これこそが、……われわれが車輪の栗鼠のように堂堂めぐりした原因でもある。なにびとも、具体的なことがらはなにひとつ述べることができない…… われわれは手さぐりですすんでいる。」
編集済


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(26) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月29日(木)11時31分29秒

 十一月二十七日に大会が採択した東方問題決議は、若干の重要な、正しい命題を確立したが、これらは大会の論争水準をかなり越えたものであった。まず第一に、東方の民族運動にたいする態度の問題と、すべての反帝勢力の統一の必要についての問題がそれである。たとえば、決議第三項は、東方における共産主義者の革命的活動は二つの方向に、すなわち、「一面で、……東方諸国における共産党の漸次的結成の必要によって貫かれた……階級的=革命的綱領によって規定される」方向と、「他面で、その国における西欧帝国主義の権力の打倒にむけられた民族運動を、東方では一定の時点まで支持しなければならないという必要――なぜなら、この運動はプロレタリアートの国際帝国主義打倒という階級的=革命的志向に矛盾しないからである――によって貫かれた、東方の特殊状態によって規定される」方向に、すすまねばならないとした。この命題を発展させ、トルコ代表団によって提起された第九項は、「東方被抑圧民族の行動と、西欧の革命的プロレタリアートの行動の一致」の必要と、このために「コミンテルンは、東方の民族解放運動と社会革命は当面、同一の共通目標――すなわち、資本家=帝国主義者の圧制の一掃を目ざすものであることを声明すべきである」と述べていた。
 決議は、レーニンの歴史的大会演説がもたらした肯定的影響についても述べていた。レーニンが提起した命題は、その後彼の著作中でいっそう発展され、コミンテルンの民族=植民地革命の戦略・戦術の最も重要な要素となった。
 レーニンの報告は、東方諸国を特徴づける具体的な社会=経済的条件の深い分析によってきわだっていた。東方住民の多数を構成しているのは、資本との階級闘争の学校を終えた労働者ではなく、中世紀的圧制に苦しむ農民の典型的代表者である。したがって、「資本にたいする闘争ではなく、中世の遺物にたいする闘争の課題を解決しなければならない。」したがって、当面の革命は社会主義革命ではなく、国際帝国主義とその国の封建勢力にむけられた民族的・ブルジョア民主主義的革命でなければならない。「諸君は、これらの民族のあいだに目ざめつつあるし、また目ざめざるをえない、しかも歴史的な正当性をもっているブルジョア民族主義に立脚しなければならないであろう」とレーニンは述べた。このことから、いまだその革命的可能性を失っていない民族解放運動を支持し、反帝国主義ブルジョアジーと一定の協力関係を結び、外国帝国主義とその国の封建主義勢力にたいする闘争で反帝ブルジョアジーを支持しなければならぬという命題が必然的に生じてくる。レーニンは、一般共産主義理論をアジアとアフリカの後進諸国の特殊な条件に適用することを学び、西欧の先進的プロレタリアートとアジアの勤労者大衆の反帝共同闘争のための同盟の形態を探究すべきことを呼びかけた。
 多くの共産主義者にとっては、東方諸国の共産党の直接的課題としての社会主義革命というすでに定着した見解から、これに関連する混迷から、広範な反帝統一戦線戦術に、すなわち、長期の、熟慮された組織的・宣伝的・革命活動に移行することは容易なことではなかった。民族解放運動における極左的歪曲にたいする闘争はひきつづきおこなわれた。レーニンのこの演説は、東方問題で活動している共産主義者の理論的思考水準を質的に高め、マルクス=レーニン主義の左翼的歪曲者にたいする闘争を確固たる確信ある基盤のうえにおいた。
 一九二〇年六−八月に、すなわち、ブハラ人民革命の前夜に、トゥルケスタン共産党員のあいだで闘われた激論は、右の問題に関連してきわめて特徴的な事件であった。論争は新ブハラ党の革命家を支持すべきか否かについておこなわれた。当時、この党を指導していたのはファイズーラ・ホジャーエフであった。この党は、その綱領で、党は回教にもとづく「極貧の大衆の党であり、搾取者と世界帝国主義の権力に反対して極貧者の利益を擁護する……こと」「教義の根本に立って、ブハラだけでなく、全世界の貧困プロレタリア大衆の利益となるすべての命題を実現すること」を規定していた。綱領は、党は「バイとベクの権力に反対」し、「あらゆる悪の側面をもった資本家と世界帝国主義の権力からブハラ国家を救うこと」を課題とすると指摘した。このように、この党は人民革命の勝利後もブハラの資本主義的発展を許さぬ自己の決意をも宣言していた。新ブハラ党は、主として勤労者から構成されていたブハラ共産党と異なって、下層僧侶と反対派気分をもつブルジョアジー、およびブルジョア・インテリゲンツィアのかなりの部分から構成されていた。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(27) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月29日(木)12時09分16秒

 ブハラでは民主主義的性格の革命が日程にのぼっていたのであるから、トゥルケスタンの共産主義者は新ブハラ党にたいする彼らの立場の規定ですこしも動揺する根拠はないはずであった。彼らとともに、民主主義的ブハラのための統一戦線を結成することがその課題であるべきであった。しかし、全露中央執行委トゥルケスタン委員部はつぎの決定を採択した。「この党(新ブハラ党)は変革後にブルジョア党として行動する傾向を有していることに鑑み、物質的支持も精神的支持もあたえることを拒否し、新ブハラ党民主主義者との一切の関係を断絶すること。」この票決は三対一(ヴェ・クィブィシェフ)をもって採択された。しかし、国際宣伝会議はクィブィシェフを支持し、トゥルク委員部にたいする強い反対を声明した。一九二〇年七月二十一日、宣伝会議執行ビューローは特別文書の形でつぎのような見解を述べた。「新ブハラ党の革命家をブルジョア宗教政党とみることは……正しくない」し、事実においてこの党は「エミールの専制にたいする憎悪と一定のソヴエト的発展傾向をもった、明らかに革命的な党である。」この文書の筆者は、「変革後の新たな政治的・社会的状況のもとで、この党の一部が反革命の陣営に赴くことがあるにしても、そのことだけで、自身の手で、現に活動している党を破壊することは論理的でもない」と主張した。「新たな条件のもとでは、これらの分子にたいするわれわれの政策を変更せねばならぬときもくるであろう。しかし、現在、ブハラの革命勢力と活動家がまだ弱体であるときに、すべての党を反革命の陣営に追いやることは、経済的でないだけでなく時期尚早であり、したがって有害であるだろう。」この立場は、東方諸民族共産主義組織第二回大会におけるレーニンの演説に合致した立場であり、彼がコミンテルン第二回大会に予定し、一九二〇年七月はじめに発表した民族=植民地問題にかんするテーゼ原案にも一致するものであった。七月二十九日、ロシア共産党(ボ)中央委オルグ・ビューローは新ブハラ党問題を審議し、「エミール専制権力にたいするこの党の革命的闘争にあらゆる協力をあたえることが必要である」ことを承認した。かくして、共産党員と新ブハラ党員の共同行動は可能となり、ブハラ人民革命の成功をいちじるしく促進することとなった。



資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(28) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月30日(金)01時33分28秒

 極左的見解は漸次消滅しつつあったとはいえ、緩慢に、しかもひじょうな困難をともなって進行した。一九二〇年には、ロシア内に存在した朝鮮社会党の立場は若干その形をかえたが、しかしいちじるしく複雑となった。一年前には、朴鎮淳は民族革命の支持をまったく否定したが、現在では一九二〇年七月に発表した論文でつぎのように述べた。「われわれは、世界資本にたいする闘争と全世界における社会革命の勝利のために、彼らの革命性を利用する…… われわれは上述の分子と共同して闘うであろう。」ついで、それにはつぎの条件がつけられる。しかし、「われわれは、懸念なしに最後までともにすすみうる同志として彼らをみるわけにはいかない。」一九一九年には、朴鎮淳は、東方は社会主義革命に直面していると断定した。一九二〇年なかばには、彼は、東方は革命の二つの段階を通過するという新しい見解を発表した。すなわち、革命の第一の段階はブルジョア民主主義段階であり、第二の段階は農業社会主義段階である、と。革命の第一段階は自由主義ブルジョアジーと民族インテリゲンツィアの勝利をもたらし、民族独立の達成とブルジョア民主主義制度の樹立をもって終わるであろう。革命の第二段階は農業社会主義革命であり、封建的隷農大衆によって遂行され、結局は社会主義革命をもたらすであろう。ところで、プロレタリアートなしに、または労働者階級がきわめて弱体なばあいに、いかにして社会主義革命を遂行しうると考えることができるか? ここで、朴は西欧の社会主義的労働者階級の決定的援助という構想を発展させる。彼は、アジアにおける革命の第一段階の勝利は、西欧における社会主義革命の勝利と同時的におこなわれるであろうと考える。帝国主義者と封建領主の圧制から解放された東方の勤労者大衆は、「ブルジョア民主主義の圧政下」におかれるが、そのときヨーロッパの労働者階級は「国際連帯の精神をもって東方の救援に赴く。」このばあいに、ヨーロッパの労働者階級は「アジア・プロレタリアートと勤労農民の歓喜にみちた歓迎を受けるであろう。なぜなら、……西欧の社会主義プロレタリアートの介入は、アジアの勤労者大衆にとって、あらゆる搾取に反対する彼らの闘争の偉大な不可欠な援助であるからである。」かくのごとく、東方の農業社会主義革命は、西欧諸国のプロレタリアートの指導的参加のもとに農民によって遂行される。ついで、このような革命を遂行した国は、西欧の勝利したプロレタリアートの支持のもとに、資本主義を経過せずに、漸次、社会主義への移行を開始する。朴の見解によると、コミンテルンは社会主義社会建設の革命的方法をつくりあげなければならぬ。すなわち、「東方における私的資本主義的発展の苦悩多き時期を経過することなく、農業制度から社会主義制度への可能なかぎり苦悩すくない移行の経済的計画の作成に着手しなければならない。」
 朝鮮社会党員の民族解放運動にたいする見解は、レーニンとコミンテルンの影響を受けて、明らかに正しい方向に進化したことをみとめないわけにはいかない。しかし、それでも彼らは依然として西欧の革命は東方の解放革命の勝利なくして不可能であると主張していた。すなわち、東方諸民族は西欧プロレタリアートの援助なしに帝国主義者=植民地主義者に勝利できないが、しかし西欧プロレタリアートも、東方における帝国主義の打倒なくしては勝利できないという循環論法が構成されていた。この循環からの脱出は、理想的条件、すなわち、先進工業国と従属国における革命的爆発の同時性が要求される。朴はつぎのように述べていた。「革命的東方が資本の心臓に必殺の一撃をくわえるまさにその時機に、ヨーロッパ・プロレタリアートはブルジョアジーの頭上に痛打をあたえるごとく、まさにかくのごとくその行動を整合しなければならない。」
 しかし、ともかくも、朝鮮の同志の右の立場は、ソヴエト・ロシア在住の東方諸国共産主義者の政治的・理論的・活動水準が明らかに向上したことを証明するものであった。朴鎮淳がすでにマルクスによって提起されていた経済後進国の非資本主義的発展の道に言及し、かつ、この問題を新たな条件に適合させて解決しようとしていたことは興味ある事実である。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(29) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月30日(金)18時12分58秒

 イランの共産主義者も、漸次その謬見を克服した。このことは「アダリャート」党大会(一九二〇年六月)の公表資料によって判断することができる、この組織はこの大会でイラン共産党と改称した。大会は、イランでは民族解放革命が進行しており、したがってこれに即応して当面の課題と闘争を決定せねばならぬということから出発した。しかも、右の結論は、イランの社会的・経済的状態の分析によって深く論証され、基礎づけられていた。
 大会では、かつてイラン共産主義者の指導グループ内で優位をしめていたとおもわれる「左翼」にたいする確信にみちた批判的発言がおこなわれた。たとえば、ネイナシヴィリは大会第三日に当面の時機にかんする報告をおこない、つぎのように述べた。「われわれ(共産主義者)は民族解放運動に決して反対でないし、われわれはこの運動を支持するであろう。」彼はレーニンを引用し、共産主義者は「なによりもまず……民族解放運動を利用しなければならぬし、このばあいにのみ階級分化が進行し、革命的・社会的スローガンをかかげるべきまさにその時機が訪れるであろう」と述べた。若干の発言者は、イランの実践活動で誤謬を犯したためにイラン・ブルジョアジーの一部をこの国の反英・反帝闘争からそらしめるにいたった共産党員を批判した。おそらくこの誤謬とは、イランの若干の地域に存在したイラン・ソヴエト(大部分が農民)が反帝国主義・反封建的課題を遂行すべき機関でなければならなかったにもかかわらず、このソヴエトにたいして社会主義革命の課題を押しつけたことを指すものとおもわれる。オブーフ代議員はこの問題についてつぎのように発言した。「われわれはこの誤謬を是正し、ソヴエト権力(イランの)は実際上地主もブルジョアジーも脅かさぬものであることを動揺勢力に納得させなければならない。このばあいにのみ、彼らは民族解放運動を支持するであろう。したがって、地主およびブルジョアジーにたいするどのような闘争をもおこなうべきではない。現在における唯一のスローガンは、イギリス人打倒!シャフ政府打倒!である。」
 民族革命勢力の支持とブルジョア民主主義運動への参加の方針は大会の一般的政治決議にあらわされた。決議はつぎのように述べている。「イラン共産党の任務は、ソヴエト・ロシアとともに世界資本主義と闘争することであり、イギリス人とシャフ政府に反対するイランのすべての勢力を支持することであり、この勢力をより決定的闘争にむかって押しすすめ、労働者・農民を決定的闘争にひきいれることである。」しかしながら、この文章につづいて、一切の反帝・反シャフ勢力の統一戦線結成の方向をくつがえすような方針が述べられていた。決議は、「イギリス人のペルシァ追放に関心を有してはいるが、革命的闘争を恐怖する分子を麻痺させること」を呼びかけていた。さらに、それにつづいて、民族解放革命から社会主義革命への移行の準備についての課題が指摘され、共産党員は「自己自身の相貌」をまもるべきであり、「自己の組織を発展させ、階級的矛盾が爆発したばあいに、権力と土地のための闘争で労農大衆の先頭に立ちうるように、大衆にたいする影響を獲得しておかねばならない。」決議そのものから判断すると、イラン共産党内には「左翼」的見解の同調者がまだ残っていた。とくにイラン国内で活動していたイラン共産党の指導的中央委員のアブーコフとジャヴァド=ザーデ、それにイラン共産党のコミンテルン代表のスルタン=ザーデがそうであった。スルタン=ザーデは、「アダリャート」大会でも、コミンテルン第二回大会でも、イランは社会主義革命に当面しており、ブルジョア民主主義段階はすでに経過したことを立証しようとしていた。大会決議が基本的には正しかったにもかかわらず、アブーコフとジャヴァド=ザーデ、その他は、実践上では、革命的ギリャンで明瞭な極左的方針をおこなった。この問題については、ギリャン革命の諸事件の直接的目撃者であったイスラフィーロフが、とくに詳細に報告している。上記の中央委員の「極左」的行動は、地主と貴族についてはいうまでもなく、「ブルジョアジーと商人にもくつわをはめる」ことを目的としたものであり、それによって反動のギリャン革命の弾圧を容易にしたものである。


資料5:ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題(一九一八−一九二〇年七月)(30) 投稿者:蘇丹・加里耶夫@管理人  投稿日: 4月30日(金)22時04分33秒

 『民族生活』紙およびロイを先頭とする若干のインド人共産主義者も、極左的見解から脱却しえないもののようであった。
 一九二〇年七月二十五日、コミンテルン第二回大会がひらかれていた時期に、『民族生活』紙はロイ一人が執筆し、ロイ一人が署名した「インド革命党の宣言。イギリス・プロレタリアートへのアピール」を発表した。この宣言では、民族=植民地問題にかんするロイのつぎのような極左的見解の主要命題がしめされていた。インド人民の闘争は「経済的・社会的解放闘争の性格と一切の階級支配を廃絶するための闘争の性格を急速に帯びてきている。」かくして、インドは社会革命に当面しており、インド住民の圧倒的多数は民族独立運動を支持していない。ロイはこの二つの命題に依拠して、その後彼自身が書いたように、「民族ブルジョアジーは歴史的に革命的役割をはたすものであり、それゆえに共産主義者は民族ブルジョアジーを支持しなければならぬという彼(すなわち、レーニン)の見解には同意しなかった。」
 宣言はつぎのように述べている。「イギリスのプロレタリアートは、彼らとともに、彼らの共通の敵にたいして、植民地における彼らの同志が闘争しないとしたら、強固な究極の勝利にたっすることはできぬであろう。」インドが最強の帝国主義によって支配されているという事情は、「革命的プロレタリアートの組織を……ほとんど不可能にしている。」
 この宣言は状況の奇妙なめぐりあわせのもとに発表された。コミンテルン第二回大会の民族=植民地問題委員会が朝から夜までひらかれた日曜日に、しかもレーニンがこの委員会で上述のロイの見解と論争したその日のうちに発表されたのである。レーニンは、アジア諸国における社会主義革命という彼の論敵の主張がまったく無根拠で時機尚早であることを明確に立証した。さらに彼は、「西欧の運命は東方諸国における革命運動の発展とその勢力のいかんにもっぱら従属する」というロイの主張の誤謬をも指摘した。ロイがまず第一に引合いにだすインドについて、レーニンは、この国の近い将来における社会革命はまだ成熟していないこと、今日までこの国に「共産党を創立することができなかった一事からも」「ロイの見解はかなりの程度根拠ないものであること」を指摘した。このことは、当時、インドのマルクス主義者がインド本国だけでなく、ソヴエト・ロシア在住の少数のインド亡命革命家のあいだにさえ共産党または共産主義グループを結成しえなかった事実からも、いっそう明らかなこととなる。
 一九二〇年なかばにおいても、民族解放問題にたいする誤った見解の克服の問題は、この課題の解決の面で若干の成果が達成されたとはいえ、依然として東方における共産主義運動の重要な課題であった。「左翼」病が長びくことは、東方諸国においてマルクス=レーニン主義党の創立が日程にのぼり、反帝革命闘争がこの党の緊張した全力の発揮をますます要求しているだけに、いっそう危険なものとなった。
 極左的歪曲は、東方のわかい、まだ強固な基盤をもたない共産主義運動を大衆から遊離させ、セクト主義に、すなわち、帝国主義との決定的戦闘が開始される以前に早くも敗北にみちびくおそれがあった。この疾病の克服いかんは、東方の共産主義運動の発展の可能性と、したがって民族解放運動の指導のためのプロレタリア的前衛の闘争の成否を決するものであった。レーニンは、西欧においても東方においても、共産主義運動内における「左翼」病のもつ破局的影響を最初に理解し、「左翼」病にたいする決定的闘争を最初に断行した。
 一九一九年はじめの第八回党大会におけるレーニンの演説、一九一九年末の東方諸民族共産主義組織第二回全ロシア大会における彼の報告、一九二〇年四−五月に書かれた名高い「共産主義内における『左翼主義』小児病」、一九二〇年七月のコミンテルン第二回大会における彼の発言と「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案」は、「左翼」病克服のいずれも偉大な道標であった。同時にこの道標は、民族=植民地革命のマルクス=レーニン主義理論の形成と発展の段階でもあった。


-------------------------------------------------------------------------
(以上エム・ア・ペルシッツ「ロシアにおける東方の国際主義者と民族解放運動の若干の問題一九一八−一九二〇年七月)」『コミンテルンと東方』ソ連邦科学アカデミー・国際労働運動研究所編 国際関係研究所訳 協同産業出版部 1971(原著は1969年出版)p.41〜87を引用)