〔資料〕亜州革命参考資料板 04年4月 2日
ウクライナ共産党(ウカピスト)について
蘇丹・加里耶夫@管理人

中井和夫著『ソヴェト民族政策史 ―ウクライナ 1917〜1945―』より

 一九一八年夏にモスクワで形成されたウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)、一九一九年夏にキエフで形成されたウクライナ共産党(ボロチビスト)についで、一九二〇年一月にキエフで、ウクライナ共産党(ウカピスト)が形成された。こうしてウクライナに三つ目のウクライナ共産党が登場した。
 ウカピスト党はウクライナ社会民主労働党の左派である独立派=ネザレジネクを主体にして形成された。その独立派は、一九一八年終わりから一九一九年はじめにかけてウクライナ社会民主労働党内の反対派として形成され、一九一八年一二月には独自の組織局をキエフにもうけていたが、一九一九年一月一〇−一二年(引用註:一二日の間違いか?)にかけてのウクライナ社会民主労働党の第六回大会において正式にこの党を離れて独自の組織をつくることになる。独立派はウクライナ社会民主労働党第六回大会で、ソヴェト体制を支持し、ウクライナに社会主義共和国を建設するという内容の決議案を提起したが、否決され、党を離れることを宣言した。独立派の主な指導者はМ・トカチェンコ、А・ドラホミレツキー、А・リチツキー、Ю・アヴジエンコ、М・ヤヴォルスキー、などであった。独立派がウクライナ社会民主労働党の多数派と対立した主要な点は、ウクライナにおいてソヴェト体制を支持するか否かにあった。独立派はウクライナ人による独立ソヴェト・ウクライナ政府の形成を主張したが、その理由はソヴェト・ウクライナという形をとることが、ロシア・ボリシェヴィキのウクライナ占領を防ぐことになるからであった。
 独立派はウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)について、これが反ウクライナ的な組織であり、絶えずウクライナの民族的権利を侵害し、労働者、農民の独裁の思想によって、党の独裁の実態をおおいかくしている、と批判した。独立派は、一九一九年のボリシェヴィキによるソヴェト政権(ラコフスキー政府)を、ソヴェト権力を旗印にした侵略者であり、征服者である、とその機関紙で非難し、そのロシア化政策を批判した。
 独立派は一九一九年一月二二日、自派の機関紙『赤旗Червоний прапор』第一号を発行し。独立党派としての活動を開始した。
 独立派はラコフスキー政府との協力の条件として、(1)ウクライナ社会主義共和国の独立の承認、(2)ウクライナ語の公用語化を提案したが、ラコフスキー政府との協力は実現しなかった。ラコフスキーは一九一九年二月、キエフ・ソヴェトの会議で、ウクライナ語を公用語とすることは反動的な行為であり、クラークと民族主義的インテリゲンツィアを利するだけだ、と述べた。
 一九一九年四月はじめ独立派はキエフ県内に、リーダーの一人、マズレンコを筆頭にして全ウクライナ革命委員会を形成し、公然とボリシェヴィキに対抗する姿勢を打ち出した。独立派はボロチビストと同じくソヴェト派ではあったが、ボリシェヴィキがウクライナを再びロシアの植民地とするのを防ぐにはボリシェヴィキと戦う他はないと考えた。彼らはソヴェト権力そのものに反対するのではなく、余りに反ウクライナ的な性格を帯びているラコフスキー政府に反対しているのだ、と主張した。この独立派による全ウクライナ革命委は、有力な農民運動の指導者ゼリョーヌイをはじめ、ソコロフスキー、アンヘル、チュチュンニクなどの農民反乱の指導者とその部隊の支持を獲得した。
 一九一九年六月二五日、独立派の全ウクライナ革命委はウクライナ・ソヴェト政府に対して最後通牒を発し、そのなかでウクライナのソヴェト権力を占領者の権力と規定し、ボリシェヴィキが侵害している、ボリシェヴィキ自身の諸原則、すなわち労農ソヴェト権力、民族自決、勤労大衆の搾取からの解放のために闘う、と宣言した。

 ゼリョーヌイの農民軍はソヴェト権力に大きな打撃を与えたが、結局一九一九年夏に撃破された。デニキン軍のウクライナ攻撃の時期、独立派はペトリューラ軍との短期的同盟のあと、ペトリューラ軍、デニキン軍の双方と闘う勢力の一部となった。
 一九二〇年はじめ独立派は党の合法化についてロシア共産党中央委員会との交渉のためにリーダーのトカチェンコ、マズレンコなどの代表団をモスクワに派遣した。トカチェンコはこの時チフスにかかりモスクワで死亡した。一九二〇年一月一三日、ロシア共産党中央委員会政治局は独立派の合法化を決議した。
 一九二〇年一月二二−二五日、独立派は一部のボロチビストを加えて、キエフで大会を開き、名称をウクライナ共産党УКПとし、УКПこそがウクライナ・プロレタリアートの階級運動とウクライナ革命を指導する党である、と宣言し、コミンテルンへの加盟を申請するとともに党の綱領を採択した。УКПにはラプチンスキーに率いられた「連邦主義者」のグループも加わり、ラプチンスキー自身はУКПの中央委員会の書記に選ばれた。また、シャフライも創立大会で中央委員の一人に選ばれた。つまり、УКПの創立にはウクライナ・ボリシェヴィキの一部も参加したのである。УКПの中央委員会からアヴジエンコとリチツキーの二人が全ウクライナ中央執行委員会(ソヴェトの)のメンバーとなった。
 УКПはその綱領の中で、ウクライナの革命の性格を社会主義革命ではなく民族解放闘争である、と規定した。帝国主義は植民地住民の民族的−政治的生活とその民族文化を破壊し、民族ブルジョアジーを弱体化することによって資本主義に対する闘いと民族解放闘争を結合させている。帝国主義による植民地政策によってもたらされたウクライナの経済的・民族的後進性は一九一七年革命とそのあとの数年間でもまったく一掃されていない。それゆえウクライナ革命の課題は、なお民族解放闘争であり、その課題が達成されたら、ウクライナ革命はその内的ダイナミズムによって社会主義・共産主義に転化していく。必要なのはそれを指導しうる党であり、ウクライナ革命はその民族の内的な勢力によって担われなければならないこと、独立したウクライナ社会主義共和国の建設が一つの目標である、と宣言した。
 УКПはコミンテルン第二回大会にむけて覚書(メモランダム)を送り、コミンテルンへの独立加盟の希望を表明した。УКПのみがウクライナ・プロレタリアートの利益を代表しており、УКПをその唯一の代表として認めるように、と訴えた。この、リチツキーの手による文書は、ボリシェヴィキ党をウクライナ革命とは歴史的に無縁な党である、と批判した。ロシアのボリシェヴィキとその一地方組織であるウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)はウクライナの民族革命にいかなる役割も果たさなかった。ボリシェヴィキのウクライナの運動に対する見解は単にショーヴィニズムというものであり、そうした態度はウクライナ革命の進展から彼ら自身を疎外した。ボリシェヴィキ党は、ウクライナ人農民・労働者と結び付いておらず、その利益の代表者でなく、「外からやってきた者たち」からなる組織であり、その古い帝国主義的態度によりウクライナの労働者・農民を指導できなかったし、今後もできない、と述べた。

 一九二一年四月、ハリコフで六〇〇名の党員を代表する五八名の代議員を集めて第二回УКП大会が開かれた。リチツキーはその政治報告の中で、ウクライナにおけるブルジョアジーの打倒はモスクワから送られた赤軍による占領という手段によって遂行されたこと、そしてこの軍事的占領が結局政治的占領につながっている、と指摘した。ウカピストはロシアとウクライナの軍事的・政治的同盟の強化が植民地主義の継続であり、ボリシェヴィキが克服できない大ロシア主義の伝統の産物であり、赤色帝国主義であると批判し、反対した。彼らは両共和国の人民委員部の統合に反対し、独立した人民委員部の形成、政治行政・経済・文化の諸分野でのウクライナ共和国の全権を主張した。経済の分野でもВСНХ最高国民経済会議から独立したウクライナ経済政策のセンターの形成を主張した。労働組合についても直接プロフィンテルンに独立加盟する全ウクライナ労働組合センターの形成を主張した。ウカピストのオリイニクは、ウクライナの石炭、鉄がすべてモスクワ、レーニングラートにばかり送られてウクライナにとって利益をもたらしていないことを指摘して、ロシアが今でもウクライナを経済的に搾取している、と主張した。赤軍の問題についてウカピストは、ウクライナ赤軍の形成を主張し、ロシア軍のウクライナからの撤退、ウクライナ人兵士のウクライナへの送還を要求した。
 ウカピストのこうした主張は、ヴィンニチェンコを中心とするウィーン在住の亡命ウクライナ人社会主義者グループの支持するところとなり、一九二〇年二月にウィーンで「ウクライナ共産党外国グループ」が組織され、彼らはその機関紙『Нова доба ノヴァ・ドバ 新時代』を刊行しはじめた。ヴィンニチェンコ自身、ウクライナ人によるソヴェト・ウクライナというУКПの綱領を全面的に支持し、その条件のもとにボリシェヴィキとの協力を志向した。ボリシェヴィキは特にかつての中央ラーダの副議長でディレクトーリアの議長であるヴィンニチェンコとの協力に積極的姿勢を見せ、彼のボリシェヴィキ党入党を認め、ヴィンニチェンコは一九二〇年五月モスクワに入った。ヴィンニチェンコはモスクワとハリコフに滞在し、ウクライナ人民委員会議副議長と外務人民委員に任命されたが、九月の終わりには再び出国、亡命した。ヴィンニチェンコの再亡命については、ヴィンニチェンコがウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会政治局に彼自身と三−四人のУКП代表を含めるよう要求して容れられなかったこと、また彼自身のウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)との協力がボリシェヴィキによって一種のプロパガンダに利用され飾り物になっていると彼自身が感じたこと、またУКП側からのヴィンニチェンコ批判などが挙げられている。ヴィンニチェンコはУКПとウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)との統合を提案したが容れられず、ロシア共産党及びウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)指導部の官僚主義などに失望してウィーンに戻った。

 УКПは一九二一年終わりにネップの評価をめぐってかなり多くのメンバーの離党を経験した。УКП中央委員会の多数派はネップを、資本主義的諸関係を再建するものとして批判する決議を採択したが、マズレンコ、クリニチェンコ、シモン、ヤロヴィー、ヤヴォルスキーなどはこれに反対して一九二一年一二月、党を離れた。さらに一九二二年六月にはラプチンスキーも離党した。さらに一九二三年にはボリシェヴィキ党に近い部分が離党して「УКП左派」を形成した。ボリシェヴィキ側資料によれば、こうした分裂・離党の結果УКПの党勢は著しく衰退したという。
 一九二四年後半になってボリシェヴィキ側からのウカピスト攻撃が強化され、ウカピスト解体にむけての動きが本格化した。一九二四年七月二〇日、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第一書記のクリヴィンクはУКПが合法政党として存在することの意義を否定し、УКПに対して自ら党を解消するように勧めることが必要である、と述べた。一九二四年一〇月、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会総会は、УКПの解散をすすめる決議をし、コミンテルン執行委員会に対して覚書を送った。その中で、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会は、УКПが客観的に見れば、合法的な反革命となり、あらゆる反ソ分子のセンターと化していること、УКПがその合法的状態を利用してウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)とソヴェト権力に対する闘争を行っていること、反ソ分子はУКПの旗の下に反ソヴェト宣伝を行い、内外反革命の手先となっている、と批判した。
 この間УКП中央委員会は一九二四年九月に再度コミンテルンに対して加盟を申請した。これに対する回答が一二月に決定されることになる。
 一九二四年一二月一七日、コミンテルン執行委は、クーシネン、片山潜、ピャトニツキー、ツェトキンなどからなるУКП問題についての委員会を形成して、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)(スクリプニク、エヌ・ポポフ、シュムスキー)、УКПの中央委員会、УКП左派のビューローの代表をまじえて前後三回の会議を持った。その委員会の報告を受けて一二月四日、コミンテルンの執行委員会幹部会はУКПの解散を決議した。それによれば、コミンテルンはУКПの綱領と戦術を検討した結果、УКПが非共産主義的政党であると認め、УКПの党員はУКП中央委員会とウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会によって構成される入党審査委員会の審査を経てウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に入党することとされた。

 一九二五年三月一日−四日、ハリコフでУКП第四回大会が開かれた。大会は五三名の代表を集めて行われ、コミンテルン決定を受け入れて党を解散することを決議した。大会はウクライナの唯一の共産党は今後ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)であることを認め、そのウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)はロシア共産党(ボリシェヴィキ)の一地方組織ではなく、コミンテルンの独立した、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)と同権の組織であるべきだと主張し、УКПはロシア共産党(ボリシェヴィキ)に合流するのではなくウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に合流するのだと解釈した。そしてこのУКПのウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)への合流はウクライナにおける二つの共産主義センターの合同であると述べた。УКПのキエフ県委員会書記は、УКПのウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)への合流は、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)の内部でウカピストとしての活動を続行するために行われた、と述べた。ウカピスト解散時の心理がボロチビスト解散時のそれにきわめて似かよっていることはポストィシェフが指摘している通りである。実際に何名のウカピストがウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)に入党したのか確認しえないが、有力な指導者の中では、リチツキーがウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)の文学部門での党公式の理論家として、ヤヴォルスキーが党の公式の歴史家として活躍することになる。また、党・ソヴェト・労組のウクライナ化活動の促進のために元ウカピストがウクライナ各地、特に工業地帯に派遣されて重要な役割を果たした。
 УКПが一九二五年はじめに解散させられた背景としてサリヴァントはそれまでの比較的寛容な雰囲気が一九二四年−二五年にかけて失われたことを挙げている。УКП外国グループのリーダーの一人、ハラハンは一九二四年一一月の、ウクライナにおける農村ソヴェト選挙をめぐるフリニコの発言をとりあげ、そこに重要な理由を見いだしている。フリニコは農村ソヴェト選挙においてウカピストが一定の影響力を行使していることを認め、住民の半分がウカピストに投票した村についての報告を示している。チルコとクラスの数字が正確であるとすると、一九二四年はじめに一五〇名だった党員が一九二四年秋には三二八名に倍増している。ハラハンは一九二四年秋、農村におけるウカピストの影響力の増大がボリシェヴィキをしてУКП解散にむかわしめたと述べている。
 いずれにしてもウクライナにおけるボリシェヴィキを除いて、最後のソヴェト派合法政党であったУКПはこうして解散、消滅した。


(『ソヴェト民族政策史 ―ウクライナ 1917〜1945―』中井和夫著 1988年 御茶の水書房 p.176〜195より引用)