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〔参照文献〕
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ブハーリン『世界経済と帝国主義』への序文
『ブハーリン著作選』3(現代思潮社、1970)
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*訳文中の傍点強調部分は下線で示す。
エヌ・イ・ブハーリンの著作のなかでとりあつかわれているテーマが重要で急を要する難問題であることは、特に説明する必要がない。帝国主義にかんする問題は、もっとも本質的な問題のひとつであるばかりでなく、最近の資本主義の形態変化を研究する経済学の分野での、もっとも本質的な問題であるといってよいであろう。この問題と関係があり、しかも最近の資料にもとづいて著者がこれほど豊富にえらびだした事実を知っておくことは、ただ経済に関心をもつ人にとってばかりでなく、現代の社会生活のどんな分野にでも関心をもつ全ての人々にとって、無条件に必要なことである。いうまでもなく、今度の戦争の具体的で歴史的な評価は、その評価の基礎に、帝国主義の本質にかんして、その経済的側面からみても、政治的側面からみても、完全な理解がないとすれば、話にもならない。そうしないと、最近一〇年間の経済史と外交史の理解にとりかかることができないし、またこの理解がなければ、戦争にたいして正しい見解をつくりあげるなどということすら滑稽である。このような問題において、近代科学一般の要望をとくにはっきり示しているマルクス主義の観点からは、戦争の具体的な歴史的評価ということを、外交「文書」や政治的事件などから、一国の支配階級にとって気に入った好都合な個々のくだらない事実をえらびだすことだと考えるようなやりかたの「科学的」意義は、ものわらいになるだけである。たとえば、ゲ・プレハノフは、高度に発展し、成熟し、爛熟した最近の資本主義の経済関係の体系としての帝国主義の根本的特質と傾向を分析するかわりに、ミリュコフをふくむプリシケヴィッチらに気に入るようないくつかのくだらない事実をすっかりあさってしまったが、そうするためにはマルクス主義と当然完全に手を切ることになったのである。こうなると、帝国主義の科学的概念は、今しがたあげたふたりの帝国主義者が、自分の好敵手や反対者とまったく同一の階級的地盤に立って、競争相手や好敵手や反対者に向けて浴びせる何か悪口といったものの程度までひきおろされることになる! 現代では、前に言ったことが忘れられ、原則が見失われ、世界観がひっくりかえされ、決議や厳粛な宣誓がわきへ押しのけられるので、このことはおどろく必要はない。
エヌ・ブハーリンの著書の科学的意義は、特に彼が、全体としての、もっとも高度に発展した資本主義の一定段階としての、帝国主義に関連のある世界経済の基本的事実を観察しているところにある。比較的「平和な」資本主義の時期があった。その時期には、資本主義はヨーロッパのすすんだ国々において封建制度に完全に勝利し、まだ占有されていない土地と、資本主義の渦巻きのなかに終局的にまきこまれていない国々の広大な領域に「平和的に」拡大しながら、きわめて――比較的にではあるが――おおだやかに、軽い足どりで発展することができた。もちろん、およそ1871年から1914年までで区切られるこの時期においてさえも、「平和的」な資本主義は、軍事的な意味でも全階級的な意味でも、本当の「平和」とははるかにかけはなれた生活条件をつくりだした。すすんだ国々の人口の一〇分の九にとって、植民地や後進国の幾億の人口にとって、この時期は「平和」ではなくて、圧迫であり、苦難であり、恐怖であり、これは「終わりのない恐怖」とみられるものより、おそらくもっと恐るべきものであったろう。この時期は二度とくることなく去ってしまい、この時期にかわって、これにくらべてはるかに突発的で、飛躍的で、破局的で、紛争のある時期があらわれた。この時期にとって典型的なのは「終わりのない恐怖」というよりも、むしろ「恐怖をともなった終わり」である。
このような交替が、資本主義と商品生産一般の、もっとも深いところにある核心をなしている傾向の直接の発展、拡大、継続以外のなにものによっても生じたものでないことを考慮することが、この場合、ことのほか重要である。交換の増大、大規模生産の増大――これこそ何世紀にものあいだに全世界で必ずといっていいほどみられる基本的傾向なのである。そして、交換の一定の発展段階で、大規模生産の一定の発展段階で、すなわち、ほぼ十九世紀と二十世紀の境にあたって到達したこの段階で、交換は経済関係の国際化と資本の国際化を生みだし、大規模生産は、自由競争に独占がとってかわるほどに、巨大なものとなりはじめた。すでに――国内および国と国との関係において――「自由に」競争する企業が典型的でなくなり、企業家の独占的連合すなわちトラストが典型的なものになった。世界の典型的な「主人」になってしまったのは今では金融資本であって、この金融資本は、特に可動的で柔軟性があり、国内でも国際的にも特殊なからみあいをもち、特別に無人格で、しかも直接的生産から切りはなされており、特に集積されやすく、また特にずっと以前から集中されているので、文字どおり数百人の億万長者や百万長者が全世界の運命をその手ににぎっている。
抽象的=理論的に考察すると、――少しばかり別の方法によってであるが、やはり、マルクス主義を放棄した――カウツキーが到達しさえしたと同じ結論に達するであろう。すなわち、これらの大資本家が、国家ごとに自立した金融資本の競争と闘争を国際的に統一した金融資本におきかえることによって、単一の全世界トラストへと全世界的に統一されることすら、それほどあまり遠いことではないという結論である。けれども、このような結論は、前世紀の九〇年代のわが国の「ストゥルーヴェ主義者」や「経済主義者」のこれに似た結論と同じように、抽象的で、単純化され、正しくない。その当時、彼らは、資本主義の進歩性から、その不可避性から、ロシアにおける究極的勝利から、あるいは弁護論的な(資本主義の前に屈服し、これと妥協したり、闘争のかわりに賛美したりするという)結論をひきだしたり、あるいは没政治的な(すなわち、政治を否定するか、または政治の重要性、政治全体の動揺のありそうなことを否定するなど、――これは特に「経済主義者」のあやまりである)結論をひきだしたり、あるいはただちに「ストライキ主義的な」(ストライキ運動の神格化としての「ゼネラル・ストライキ」論、この神格化は、他の運動形態を忘れさせ、または無視するまでになり、そして資本主義からまっすぐに、純粋ストライキによって、ただストライキだけによって、資本主義の克服へと「飛躍する」ほどになる)結論をひきだした。自由競争のプチ・ブル的「天国」とくらべた場合の資本主義の進歩性、帝国主義の不可避性、および世界の先進国で帝国主義が「平和的」資本主義にたいして最終的に勝利するという争う余地のない事実が、これほど多数の、また多種多様な政治的および没政治的なあやまりや害毒に導くという徴候がいまでもある。
特に、カウツキーのばあい、彼がマルクス主義とはっきり絶縁したことは、政治の否定、あるいは忘却という形態をとらず、とくに帝国主義の時期において多数の、また多種多様の政治的紛争、動乱、変革をとおしての「飛躍」という形態、帝国主義の弁護論の形態をとらずに、「平和的」資本主義にかんする幻想という形態をとらせた。「平和的」資本主義が、平和的でない、好戦的な、破局的な帝国主義にとってかわられたことは、カウツキーも認めなければならなかった。というのは、彼はこのことをすでに一九〇九年に、別の著書〔一九〇八年ベルリンで出版された『権力への道』をさす――訳者〕のなかで認めたからである。彼がマルクス主義者として統一のとれた結論を述べたのはこの書が最後であった。だが、帝国主義から「平和的」資本主義へとあともどりするということ、素朴に、単純に、粗雑に夢みることはできないとしても、本質的にはプチ・ブル的なこの空想に、「平和的」「超帝国主義」にかんする子供じみた考察という形をあたえることはできないだろうか? 国民的(もっと正しくいえば、国家的に自立している)帝国主義を国際的に統一することによって、戦争、政治的動揺などに類似した、プチ・ブルにとってとくに不愉快な、とくに不安で心配な紛争をあたかもとりのぞくことが「できる」かのようにかんがえて、国民的帝国主義の統一を超帝国主義と名づけるとしたら、比較的平和な、比較的紛争のない、比較的破局的でない「超帝国主義」にかんする子供じみた空想によって、現在の、始まっている、現存する、とくに紛争の多い、破局的な帝国主義の時期をなぜ一掃してはいけないのか? ヨーロッパですでにやってきている帝国主義の時期が提起しており、またすでに提起した「きびしい」課題を一掃してしまうために、この時期はまもなくすぎさってしまうかもしれないし、またそのあとで比較的「平和な」、「きびしい」戦術を必要としない、「超帝国主義」の時期を思いうかべることができるかもしれない、と空想することはできないだろうか? カウツキーはまさに次のようにいう。「資本主義のこのような(超帝国主義的)新しい段階は、どんな場合でも考えられうる。」しかし「それが実現されるかどうか、このことを決定するためにはまだ十分な前提がない。」(『ノイエ・ツァイト』、一九一五年四月三十日、144ページ)。
現存する帝国主義を払いのけようとしたり、空想によって、実現できるかどうかわからない「超帝国主義」に逃げ込もうとする努力のなかには、マルクス主義のかけらすらみられない。その作者でさえも実現しうることを保障していない「資本主義の新しい段階」にとっては、このように意図的に考えだされたマルクス主義が承認されるが、現在のすでに始まった段階にとっては、マルクス主義にかわって、矛盾をやわらげようとするプチ・ブル的な、ひどく反動的な努力がおこなわれる。カウツキーは、きたるべき、差し迫った、破局的な時期にはマルクス主義者となることを約束したが、彼は一九〇九年にこのきたるべき時期について自分の著書を書いたとき、この時期を予見し、まったくきっぱりと承認しないわけにはいかなかった。今、この時期がやってきたことが、すでに絶対に疑いえなくなっているとき、カウツキーは、きたるべき、実現するかどうかわからない超帝国主義の時期になったらマルクス主義者になるともう一度約束だけをするのである! 要するに、今ではなく、現在の条件のもとではなく、当面の時期においてではなく、別の時期にマルクス主義者になるとすきなだけ約束しているのだ! 掛けでのマルクス主義、口約束だけのマルクス主義、明日のためのマルクス主義、プチ・ブル的日和見主義理論――たんなる理論ですらない――今日のところをやわらげようとする理論なのである。それは「今日という時勢になると」ひどく流行する輸出向けの国際主義のようなものである。そういう時勢になると、熱心な――おお、まったく熱心な!――国際主義者やマルクス主義者たちまでもが、自国だけはのぞいて、同盟国だけはのぞいて、敵の陣営のいたるところで国際主義のどんな現われにも共鳴する。民主主義がただ「同盟国」のたんなる約束にとどまるときは……民主主義に共鳴する。「民族の自決」が自民族に従属する諸民族の自決でないときは、「民族の自決」に共鳴する。自民族とは、共鳴するものが自分に所属するものという栄誉をもつことだと考えている。……要するに一、〇〇一もある〔いくらでもある――訳者〕偽善のひとつの変種にすぎない。
だが、帝国主義のあとには資本主義の新しい段階、いわば超帝国主義が抽象的には「考えられうる」ということを論駁できるだろうか? いな、このような段階を抽象的には考えることはできる。ただこのことは、未来の差し迫っていない課題を空想していたいために、現実の差し迫った課題を否定することになるから、実践的には、日和見主義者になることを意味しているにすぎない。理論的には、このことは現実におこなわれている発展にもとづかないで、空想していたいために、現実の発展から乖離することを意味する。発展が、例外なくすべての企業を、また例外なくすべての国家を併呑するような、単一の全世界的トラストへの方向に進んでいるということは疑問の余地がない。けれども事態がひとつの全世界的トラスト、すなわち、国民的金融資本の全世界的「超帝国主義的」統一に達するよりもきっともっと早く、帝国主義は不可避的に崩壊しなければならず、資本主義はその対立物に転化するであろう、――こういった情勢のもとで、こういったテンポで、こういった矛盾、紛争、動揺――けっして経済的なものばかりでなく、政治的、民族的、その他の――のもとで、発展は全世界的トラストへの途を進んでいるのである。
一九一五年十二月 ヴェ・イリイン[*]
[*] 当時レーニンが使っていた筆名のひとつ――引用者
『ブハーリン著作選』第3巻(1970年、現代思潮社刊)p.285-293
〔引用者註〕
ブハーリンの著作は1915年、国外で発行されていた政治理論誌『コムニスト』に載せ論文に手を入れたもの。単行本で出すためロシアへ送った原稿は戦時検閲官の手に落ち、まちがって別の出版社に届けられ、二月革命の後に「発見」され、ようやく印刷されようとしていた矢先の「七月事件」でボルシェビキの印刷所が破壊され、「ながいことかかってやっと取り返した」ときにはレーニンの序文の原稿は失われていた。したがって、十月革命の後に公刊された最初のロシア語版にこの序文はない。後に、レーニンが執筆時にとっておいた写しが見つかり、ドイツ語訳においてこの序文ははじめて陽の目をみるにいたった。そうした事情を考えてか、上記邦訳『世界経済と帝国主義』では、この序文は、最初ではなく最後に置かれている。
『帝国主義論』執筆の前年末に書かれたこの序文は、『帝国主義論』の論争的側面を補完し、それを理解する資料たる内容を持っている。
〔04.11.17〕