解読ガイダンス

原田三郎・庄司哲太共著『帝国主義論コメンタール』より
(ミネルヴァ書房 〔社会科学選書 73〕、1973年刊)
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■各章の「段切り=論理展開」と「総括=理論的位置」


上記『コメンタール』は、雑誌『経済セミナー』(日本評論社)の1962年4月号〜翌63年3月号に連載されたものを加筆訂正の上、関連論文を併収して単行本としたもの。『帝国主義論』の“全体としての理論構成をしっかりつかむことに、第一義的な目標をおく”として、各章ごとにゼミナール形式で、報告者庄司さんの「段切り」提案とそれに対する原田教授のコメント、庄司さんの内容解釈とそれをめぐる問題検討、最後に原田教授によるまとめ(総括的解説)という三部構成になっております。この古典文献の解読には格好の「アンチョコ本」と思われますが、残念ながら長らく絶版状態で古書店でも入手困難な状態にございます。

そこで旧「読書コーナー」掲示板では、はじめの「段切り」(章の構成理解)と最後の「総括」部分を席亭の責任で逐次引用・ご紹介しながら解読を進めてまいりました。特に最初の「段切り」は、各章ご担当の方のレジュメ作成のご便宜のため早めにご紹介したうえで、当該章に入るところで再掲してまいりました。こうした方針も最初からはっきりしていたわけではなく、第3章以後定例化してきたものでございます。

ホームページ化にともない掲示板ひとつという制約から解放されましたので、あらためて各章の「段切り」と「総括」の部分をここにまとめて引用し、ご利用に供します(第9章、10章については、「総括」部分の前にある「問題点」指摘の部分も含めました)。

文中傍点による強調はアンダラインで示します。元文は『帝国主義論』の引用を宇高基輔訳(岩波文庫)に拠っておりますが、他訳をご利用の方の便宜にと、副島種典訳(国民文庫)、聴濤弘訳(新日本出版)を、それぞれ「国」「濤」と略記し該当ページ数を併記いたしました。

なお、[*] は引用者による(なかば趣味的な)補足でございます。

■引用一覧
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第1章 生産の集積と独占
 1章全体の段切り――論理展開
 本章の理論的位置――本章の総括的問題

第2章 銀行とその新しい役割
 2章全体の段切り――論理展開
 本章の理論的位置、レーニンの金融資本の理論構成

第3章 金融資本と金融寡頭制
 3章全体の段切り――論理展開
 本章の理論的位置

第4章 資本の輸出
 段切りのつけ方――論理展開
 この章の理論的位置――総括的問題

第5章 資本家団体のあいだでの世界の分割
 段切りのつけ方――論理展開
 本章の理論的位置――総括的問題

第6章 列強のあいだでの世界の分割
 段切りをどうつけるか――論理展開をどうつかむか
 本章の位置――総括的問題

第7章 資本主義の特殊な段階としての帝国主義
 全体の論理展開をどうつかむか――段切りをどうつけるか
 本章の理論的位置――総括的問題点

第8章 資本主義の寄生性と腐朽化
 本章の論理展開の大筋――段切りをどうつけるか
 総括――本章の理論的位置

第9章 帝国主義の批判
 本章の論理展開の大筋――段切りをどうつけるか
 若干の問題点/本章の理論的位置――本章の総括的問題

第10章 帝国主義の歴史的地位
 本章の論理展開の大筋をどうつかむか――本章の段切りをどうつけるか
 いくつかの問題点/総括――本章の理論的位置

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なおアンチョコ本には、これら各章の解読の前後に、第1講 「『帝国主義論』をどう読むか」 という序章と、第12講 「『帝国主義論』 をどう発展させるか」 という終章が配置されて第一部 「コメンタール」 とされ、続く第二部には庄司・原田両氏の専門的論文4本が収録されております。第二部収録の各論文の表題および発表時期は次のとおりでございます。

 庄司哲太 「『帝国主義論』についての一考察――『三つの規定』の関連について」(1954年7月)
 原田三郎 「帝国主義論の理論的位置」(1959年12月)
 原田三郎 「『帝国主義論』の基本論理について」(1970年5月)
 原田三郎 「『寄生性』についての若干の理論的問題」(1968年5月)

 内2本は「セミナー」部の雑誌連載からかなり経った60年代末の執筆で、この2論文と本書の編纂が70年前後の激動期を背景にしていた事情をうかがうことができましょう。いずれも時代性を刻印された専門的なものながら、現代における解読にも示唆するところ多い論稿と思われ、機会を得てご紹介できればと考えております。
(とりあえず最後の「寄生性」論文を打ち込みましたので、読書会参加者限定でお頒けいたします。ご希望の向きは[資料室]当該ボタンを押してご注文ください。06/10/28)



〔第1章〕

1章全体の段切り――論理展開(p.16-18)

原田●まず最初に、この章の論理の展開を大きく跡付ける意味で、全体に段切りをつけ、どうしてそこで切ったかを併せて説明してもらおう。

庄司●ぼくは、一章を次の三つの段切りに区分する。第一段切りは、冒頭からヨーロッパについて独占成立の歴史を画期づけている叙述(宇高訳――以下同じ――37ページ〔国p.28/濤p.37〕)までを含む。
 第二段切りは、その次のカルテルについての説明の箇所から、独占と恐慌のいわば相互作用を述べ、ヤイデルスから引用して、恐慌はまた独占の形成を促進することを記述しているところ(同訳、50ページ〔国p.39/濤p.50〕)までを含む。
 第三段切りは、最後のごく短い総括的な一つのパラグラフ。
 では、なぜこのように切ったか、その論理的な関連について説明しよう。

 レーニンは第一章「生産の集積と独占」を解くにあたって、『資本論』一巻第七篇二三章の「資本制的蓄積の一般法則」で展開された集積・集中論と、この法則によって内在的に規定されていると考えられる二四章第7節「資本制的蓄積の歴史的傾向」における資本独占にかんする規定とを、その全考察の起点に据えていることは明らかである。すなわち、レーニン自身の言葉によれば、「マルクスは、資本主義の理論的および歴史的分析によって、自由競争は生産の集積を生みだし、この集積はその発展の特定の段階で、独占をもたらすことを論証した」(35ページ〔国p.26/濤p.34〕)のであると。
 第一段切りでは、『資本論』のこの集中・独占の理論が、一九世紀末葉から二〇世紀初頭にかけての資本主義の発展のうちに世界史的な規模において具体的に実現・開花されたことの実証的分析を行ない、そこから「生産の集積による独占の生誕は、総じて資本主義の発展の現在の段階の一般的かつ根本的な法則である」(35ページ〔国p.26/濤p.34〕)という基本的命題を確定し、いわばここで小段落が画され、ついで今度は、この基本的命題を独占形成の歴史に即して検証しつつ、資本主義の帝国主義への転化の画期づけを行なっているのである。このような理解にもとづいて、ここで第一段切りを画した。
 この第一段切りの資本主義の帝国主義への転化の画期の規定をふまえたうえで、第二段切りは、独占すなわちカルテル、トラストの実体およびそのもとにおける生産の社会化の巨大な前進と、他方、占有は依然として私的関係のもとにあることとの矛盾の激化とその諸様相の究明にあてられる。
 最後に第三段切りでは、一章全体の叙述内容の総括が、「独占――これは『資本主義の発展における最新の局面』の最後の言葉である」(50ページ〔国p.39/濤p.50〕)として締めくくられ、さらにこの独占の実際の力と意義とを従前に把握するためには、銀行の役割の考察が不可欠であるとして、二章「銀行とその新しい役割」への展開が示唆される。

原田●いまの段切りの報告について異論のあるひとはないですか。ぼくは、異論があるのだが。
 結論的にいうと、報告者が第一の段切りのなかに一括し、しかもそのなかで小段落を画するものとしている二つの部分、つまり、生産の集積による独占の生誕が最近の資本主義の一般的な基本的法則だとして締めくくっている部分と、独占の成立の歴史的画期づけを行なっている部分とは、第一段切り中の小区分けではなく、それぞれ独立の第一段切り、第二段切りとしたい。
 その理由だが、まず一般的にいって、二章以下の行論中でもレーニンはつねに古い資本主義が新しい資本主義に終局的にとって代わられた時期の確定ということを一つの重要な課題としているのであって、その意味からいっても、この部分は独立の段切りとしてとらえた方がよいと思う。
 しかしもちろん、その理由はもっと本質的なもの、つまり、本章の論理展開そのものにもとづくものでなければならない。レーニンは、まず最初に、マルクスの集中・独占の規定を直接受けて――といっても、厳密には『資本論』のなかのどの規定をどのように受けているのかが、本章の理論的位置および性格を決定する根本問題であり、報告者もその点にふれてはいたが、問題はけっして簡単ではない。その点は、あとで本講の締めくくりをなす問題として取り上げよう――、これに簡単な事実検証を加え、かつ起こりうべき誤解をかたづけつつ、競争が独占に転化すること、生産の集積によって独占が生ずること、これが最新の資本主義の一般的かつ基本的法則であるとの命題を打ち出している。論理はここで第一の区切りを画する。
 ついで、ヨーロッパについて独占の歴史的画期づけを行ないつつ、古い資本主義が新しい資本主義に終局的にとって代わられた時期を確定し、資本主義が帝国主義に転化したことを規定づける。この部分は、報告者が多少不用意に用いたのであろう表現のように、さきに打ち出した命題を「歴史に即して検証する」というような、いわば補足的なものに理解してはならない。むしろ、さきの命題の積極的な展開、その世界史的な具体化として理解すべきもので、論理はここで第二の段切りを画する。
 命題のこのような積極的な発展、具体化のうえに立って、競争の独占への転化、生産の集積による独占の生誕ということの内実、その実体が分析される。この部分こそは、本章の核心をなす部分であって、論理はここでで第三の段切りを画する。ここで簡単に注意しておきたいことは、本章でのレーニンの主題が、競争の独占への転化のプロセス、従ってまたそのあれやこれやの形態にあるのではなく、その実体、その内実の分析にあるということである。この点については、あとでもう一度問題点の一つとして触れよう。
 報告者の最後の段切りについては問題はない。
 もともと、段切りは、ぼくらが論理展開を大きく跡づけていくうえでの入り口であると同時に、また結局は出口でもあるのだから、先へすすんで各段切りの内容を説明してもらおう。

本章の理論的位置――本章の総括的問題(p.27-31)

原田●さていよいよぼくらの結論的な部分に入ることにしよう。まずこの章の理論的位置つまりあとにつづく諸章との論理的関連を考察し、さらにこの考察と関連して、この章の章活的な問題である『帝国主義論』における生産の集積・独占の概念と『資本論』における概念との論理的関連を考察しよう。庄司氏に糸口をつけてもらおう。

庄司●まず一章の理論的位置について。生産の集積、そこから生ずる独占の成立、この独占の最終的確立を基本的指標として資本主義の帝国主義への転化を確定していることによっても明らかなように、一章での独占は帝国主義の最も深い経済的基礎をなすものである。帝国主義のこの経済過程の基礎であるこの独占をまず一章で明確にすることによって、以下、二章から六章にわたって述べられる帝国主義の経済的諸特質が、単に政策とかあるいは個々の様相とかいうようなこととしてではなく、独占のとるより具体的な諸形態として把握されうるものとなっている。そして一章から六章までの独占のとる国内的および国際的な諸形態の分析を総括して、七章で「帝国主義は資本主義の独占段階である」という段階規定が与えられることになる。

原田●別のところで、レーニン自身、一章から六章にわたって分析されている帝国主義の経済的諸特質のことを、たとえば独占の四つの主要な形態(一〇章)とか、独占のとる五つの形態(「帝国主義と社会主義の分裂」)とか呼んでいる。つまりレーニンはこれらの経済的諸特質を金融資本のとる経済政策として把握しないで、資本主義的独占の最も抽象的な形態から最も具体的な包括的な形態にいたるまでの基本的な諸形態としてとらえている。そしてこのような資本主義的独占の全体制的な把握のうえに立って、資本主義は帝国主義すなわち独占資本主義として新たな段階を画したと規定されることになるのであって、一章の「生産の集積と独占」はその最も抽象的な基礎的な規定をなすものといえる。
ところで、一章の理論的位置をこのように理解すると、ここでの生産の集積と独占という概念は、金融寡頭制としていわば全一国的に具体化され、さらにまた世界の分割・独占として全世界的に具体化されていく必然的な発展関係をそれ自体内包するわけである。そうなると、ここで反転して、この章における生産の集積と独占の概念が、『資本論』における概念とどのような理論的関連をもつかがあらためて問題にされなければならなくなる。その点についてはすでに報告者が段切り間の論理的関連を説明したさいに若干述べていたところではあるが、あらためてこの点を検討し、それをもってこの講のしめくくりとしよう。やはりまず報告者の説明を聞こう。

庄司●前にも述べたように、レーニンは一章の「生産の集積と独占」を展開するにあたって『資本論』の「資本制的蓄積の歴史的傾向」における生産の集中・独占の規定を直截うけて、それを具体的に展開している。この点をもう少し立ち入ってみると、第三段切りで、レーニンは独占がもたらす生産の巨大な社会化の前進と私的占有との矛盾を具体的に分析しているが、これは『資本論』の「歴史的傾向」において与えられているところの、「資本制生産の死滅性の物質的土台である集中・独占の進行にともなう生産の社会化の前進と、この上に生い立つ資本制的抑圧、収奪の増大という規定を直接うけて、これを具体的に展開しているものである。さらに『資本論』は、このような物質的土台の上で労働の資本に対する叛逆もまた増大するといって、死滅性の主体的条件にも論及しているが、『帝国主義論』ではこの側面の具体的な分析は、八章において帝国主義のもとにおける労働運動の現実に即してなされている。そしてレーニンは、一〇章において、このような物質的土台と主体的条件とを総括し、「帝国主義は死滅しつつある資本主義である」 という規定を打ち出している。

原田●その点についてはまったく同意見だ。前講〔一講「『帝国主義論』をどう読むか」のこと――引用者〕でも述べたように、『帝国主義論』の全規定は、『資本論』の「歴史的傾向」の規定を具体化したものである。
 だが、問題はその先にあるように思う。「歴史的傾向」では、資本独占にともなう生産の巨大な社会化を解くに当たって、その一つの局面として「資本制的体制の国際的性格が発展する……」 と述べており、生産の集積に伴う社会化の前進が極めて具体的にとらえられていることは疑いない[*1]。ところで先ほどの報告にもあったように、『帝国主義論』におけるこの生産の集積と独占の概念は、六章の 「列強の間での世界の分割」 に至るまで具体化され発展していく必然性を内包している。だから、「歴史的傾向」 における死滅性の物質的土台としての資本独占のもとでの生産の巨大な社会科とその資本制的な矛盾という規定は、『帝国主義論』 において、この最も基礎的な生産の集積と独占から最も包括的具体的な世界分割にまで至る全展開において具体化されているものと理解しなければならない。さてそうなると、「歴史的傾向」 における集中・独占の概念つまり『帝国主義論』の集積・独占の概念と、『資本論』の 「資本制的蓄積の一般法則」 としての集積・集中の概念とは、どのような理論的関係にあるかが改めて問題になってくる[*2]。
 前講でぼくは、『帝国主義論』の理論的性格を問題にしたさい、いわゆる正統派の直接継続発展説[*3]と宇野理論とが、この生産の集積と独占の概念を基軸として『資本論』と『帝国主義論』との理論的関連について全く相反する見解に導かれていることに言及したが、そのさいにはこの点についての立ち入った検討はさし控えておいた。今ここでその問題に直面しているわけである。

 旧来の直接継続発展説は、総じてこの点についてあまり深い反省を加えていなかったように思われる。だからまた前講で指摘しておいたように、直接継続発展説自身が、今日では意見の相違をきたすことにもなってきたわけである。
 宇野理論は、もともとこの点に深い反省を加えているのであって、結論的にいえば、「歴史的傾向」における集中・独占の概念は、「一般法則」 における集積・集中の概念とその論理的性格をまったく異にするものであると理解しており、むしろ前者の規定を『資本論』から放逐することによって、『資本論』の理論はいわゆる原理論として純化されるとしているわけである。このような理解の根底には、集積・集中概念は一般法則として特定の産業部門や特定の市場を想定することなしに説明しうるが、独占概念は特定の産業部門や特定の市場を前提することなしには説明し得ないとする考え方が横たわっている。しかもこの場合の特定の産業部門とか特定の市場とかいう言葉は、具体的歴史的に、例えばドイツの鉄鋼業とその市場というように、その内容が考えられている。つまり、集中・集積概念は一般法則としてとらえられうるが、独占概念は歴史的規定としてしかとらえられえないというのである。だが、ぼくはこのような考え方には賛成できない。もちろん独占という以上、ある一定の産業部門とか、ある一定の市場とかという関係が、理論的に前提されなければならないことはいうまでもない。が、実は、この点については集積・集中といえども同様な関係にあるのであって、集積・集中および独占への転化ということは、ひとしく一般法則として説かれて一向に差支えないものと思う。ただ現実の 『資本論』 の 「一般的法則」 においては、「ここで集中の法則は展開されえない。簡単な事実の示唆で十分である」[*4] とされているのであって、集中の重要なてことしての競争と信用、とくに株式会社が分析されたうえで、集中の法則が展開されるならば、当然集中から独占への転化が一般法則として説かれるものと考えざるをえない。だから 「一般法則」 における集積・集中の概念と、「歴史的傾向」 における集中・独占の概念との関連の問題は、実はそこにあるのではなく、一般法則としての集積・集中および独占への転化が、『資本論』 につづくべき経済学の後半体系である 「国家、外国貿易、世界市場」 を踏まえてより具体化されてとらえられているのが、「歴史的傾向」 における集中・独占の概念であるという点にある。

直接継続発展説はこの点を十分明確に把握しないままに、「一般法則」 における集積・集中と、「歴史的傾向」 における集中・独占つまり 『帝国主義論』 の 「生産の集積と独占」 とを、まったく直線的につながるものとしてとらえていたように思う。このことから、『帝国主義論』 の理論的性格を、『資本論』 の 「一般的法則」 と同じ論理的次元においてとらえることにもなり、そこからまた、『資本論』 は一九世紀の独占以前の資本主義の理論であり、『帝国主義論』 は二〇世紀の資本主義の理論である、といったような大ざっぱな機械的な理解が生じてきたものと思われる。
ぼくが前講で、『帝国主義論』 の理論的性格を把握するに際して、『資本論』 とまったく同次元の理論的性格をもつものとして理解する見解に対しては、『帝国主義論』 の歴史的規定としての性格を強調し、また反面、宇野理論のように、ただ歴史的な規定そのものとしてのみ理解する見解に対しては、『帝国主義論』 の理論的性格を強調したのも、このような理解に立っているからである。

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[*1] 引用者補足:『資本論』の当該部分の叙述は次のとおり。

「この収奪は、資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中によって行なわれる。いつでも一人の資本家が多くの資本家を打ち倒す。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手を携えて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、したがってまた資本主義体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減ってゆくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、たえず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく。資本独占は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」(『資本論』第一部第7篇第24章第7節、国民文庫版第3分冊、p.437/原書ページ、S.790)。
[*2] ここは、これだけではやや文脈が読みとりにくいが、著者・原田三郎氏による「マルクス経済学の専門的立場からの問題提示」(『帝国主義論コメンタール』序文)として重要なところなので、収録された庄司論文に関説した註の記述で補足しておく。
 “わたくしの理解では、『資本論』の「蓄積の一般法則」における独占と「蓄積の歴史的傾向」における独占とのあいだにこそ、論理的次元の相違があるのであって、後者と『帝国主義論』一章における独占とのあいだには、本質的な論理的次元の相違はないとしている。庄司氏の理解では、この点やや不明確ではあるが、一章の独占概念と『資本論』の独占概念との相違を云々する場合、「蓄積の歴史的傾向」における独占を意味しているかに見えるのである”(p.3)。

[*3] 代表的なものが、スターリン時代に書かれた旧ソ連の公認テキスト『経済学教科書』(邦訳・合同出版)。初版以後何度か改訂され、そのたびに話題を呼んだ。

[*4] 『資本論』第一部第7篇第23章第2節、国民文庫版第3分冊、p.210/原書ページ、S.654。内容上ここに直接つながる直前のくだりは次のとおり。
「このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またはその諸部分の相互の反発にたいしては、この諸部分の吸引が反対に作用する。これは、もはや、生産手段や労働指揮の単純な、蓄積と同じ意味の集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、それらの個別的独立の解消であり、資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。この過程を第一の過程から区別するものは、この過程はただすでに存在し機能している資本の配分の変化を前提するだけであり、したがってそれが行なわれる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいないということである。一方で資本が一つの手の中で大きなかたまりにふくれ上がるのは、他方で多くの手の中から資本がなくなるからである。これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である」(同上)。
『帝国主義論』では、この「集積」と「集中」との厳密な区別ないまま、「集積」の語が多く使われているようである(国民文庫版「事項訳注」〔p.187-8〕参照)。


〔第2章〕

2章全体の段切り――論理展開(p.32-34)

原田●今回は二章に進んで 「銀行とその新しい役割」 を読むわけだが、早速まず庄司氏にこの章全体に段切りをつけてもらい、その理由を説明してもらおう。

庄司●ぼくは二章を三つの段切りに区分する。第一段切りは、冒頭から、銀行トラストに言及し 「銀行業の発展における最後の言葉は、またまた――独占である」 といっているところまで(51〜68ページ〔国p.39〜53/濤p.51〜68〕)。第二段切りは、銀行と産業との密接な関連を論じている部分で、「古い資本主義は寿命を終えた。新しい資本主義はなにものかへの過渡である」 といっているパラグラフまで(68〜75ページ〔国p.53〜59/濤p.68〜75〕)。第三段切りは、大銀行の新しい活動が終局的に成立する時期の歴史的確定を行なっている最後の部分(75〜76ページ〔国p.59〜60/濤p.75〜76〕)。
ではどうしてこのように段切りをつけたかを説明しよう。第一段切りでは、銀行業の集積・独占とその意義の根本的変化ということが分析され、冒頭の二つのパラグラフで与えられている二章全体の基本命題、すなわち、銀行業の巨大な集積にともない、それが控えめな仲介業から全能の独占者に転化するに至ったこと、このことが資本主義の帝国主義への転化の基礎的過程の一つをなすという命題が具体的に展開されている。第二段切りでは、この銀行業の集積・独占とその意義の根本的変化の分析に立脚して、銀行と産業の密接な結合関係を銀行の新たな役割を軸として展開し、金融資本の内容的な規定づけを与えている。第三段切りでは、直接には第二段切りの展開をふまえて、このような銀行の新しい役割が終局的に確立された歴史的時期の確定を行ない、ここではじめて、それが 「資本一般の支配から金融資本の支配への転換点である」 と規定することによって、次の三章の冒頭で与えられる金融資本の概念への準備を完了している。

原田●前講でも述べたことだが、ぼくらのこの段切り論というものは、レーニンの論理展開を理解していく上での入り口、手引きであると同時に、実はまたぼくらの理解の帰結、出口でもあるわけで、段切りの正当か否かをそれ自体として決着をつけることはできない。
 ところで、いま報告された段切り論だが、ぼくはこの段切りそのものには賛成である。ただ、その理由の説明に若干ひっかかるものを感じる。報告者は、第一段切りの内容は冒頭の二つのパラグラフで与えられている命題の具体的な展開であると述べているが、他方ではこの命題は二章全体の基本命題であるともいっている。そうすると報告者の段切りの仕方とこの命題の理解との間に少なくとも形式的には矛盾があることにならないか。この命題が二章全体の基本命題だとするならば、当然冒頭の二つのパラグラフで第一の段切りが画されてしかるべきだからである。結局この冒頭の命題を、二章の以下の全体の展開と関連させてどのように理解するかにかかるわけだが、ぼくはこの命題は直接には第一段切りの内容、すなわち、銀行業の集積と独占、それに伴う銀行の意義の根本的変化にかかるものと理解したい。報告者が冒頭のこの二つのパラグラフを第一段切りの中に入れているのは、やはり同じような理解に立つものと思う。それにもかかわらず、報告者が、この冒頭の命題を第二章全体の基本命題だと規定して、あえて形式的矛盾をおかすことになったのは、おそらく次のような問題意識からきているものと推察される。すなわち第一段切りにおける銀行業の集積と独占、それに伴う銀行の意義の根本的変化ということの中に、すでに第二段切りにおける銀行と産業との密接な関連への発展が内包されていると理解しなければならないという問題意識である。いいかえると、第一段切りの銀行の集積と独占、これにともなう銀行の意義の根本的変化というものを、一章の生産の集積と独占から全く切りはなして、ただたんに銀行だけの問題として理解し、第二段切りにいたってはじめて、この両面が統一的に銀行と産業との密接な結びつきとして把握されてくるのだ、というような機械的な理解を排しようとするところからきていると思う。もう一つ積極的にいえば、この第一段切りの銀行の集積と独占、銀行の意義の根本的変化ということは、すでに一章の生産の集積と独占を前提とし、これを踏まえて説かれているのであり、従って第二段切りの銀行と産業との密接な結びつきへの展開を必然的に内包していると解するのである。この問題意識は非常に重要だと思うが、これはすでに段切り論を越えた二章の根本問題、すなわち、レーニンの金融資本の理論構成をどのように理解すべきかということに直接つながる問題であって、ぼくらはあとでこの章の理論的位置に関連して総括的な問題として当然とりあげることになるから、ここではこれ以上この点に立ち入らないことにする。

本章の理論的位置、レーニンの金融資本の理論構成(p.43-44)

原田●ではこの章の理論的位置づけを行ない、それに関連してこの章の理論構成、つまりレーニンの金融資本論の組立てがどうなっているかを総括しよう。

 レーニンの念頭には、はじめから資本主義の最新の発展の最後の言葉――独占――が、その実際の力と意義とを具えた完全なものとして、つまり金融資本としてある。これを理論構成するにあたり、まず1章で、より基礎的でより抽象的なものとして、生産の集積・独占を土台に据える。ついでこの章で、この基礎的なもの、生産の集積・独占が、銀行の集積とその新しい役割によって金融資本に具体化される。かくして3章で、独占は劈頭から金融資本そのものとしてあらわれ、その実際の力と意義とが、金融寡頭制として示されることになる。これが2章の位置付けである。  さてそこで、2章では、1章の独占を金融資本に具体化するものとして、銀行の集積とその新しい役割が基礎的視角となる。これはもちろん、レーニンが資本制生産における貨幣資本および信用の決定的に重要な役割を重視することからきていることだと思う。この基礎的視角から、独占はどのように金融資本に具体化されていくか、これが2章の理論構成をなすものである。

   端的にいえば、その構成は2段から成る。前段、つまりぼくらの第1段切りでは、銀行の集積・独占によって銀行の意義が根本的に変化し、控え目な仲介者の役割から全能の独占者に転化することが分析される。ここでとくに注意しなければならないことは、この転化自体も、決して生産から捨象されたたんなる銀行だけの問題としてとらえられていないことだ。だからこそ、銀行の意義の根本的変化は、たんに独占的銀行に転化することではなく、全社会の商工業活動を従属させるものとして全能の独占者になることであり、そこからまた、全社会の資本の集積・独占の強力な推進者となることである。したがってまた、第1章の生産の社会化とその矛盾は、ここでは銀行に先導される資本制経済の社会化とその矛盾として一層具体化される。かくして、銀行の新しい役割は、基本的にはこの全能の独占者たること、そのことにある。後段、つまりぼくらの第2段切りでは、この銀行の新しい役割はさらに人的結合の諸契機に発展、具体化され、これを通じて、銀行と産業との融合それ自体がとらえられ、銀行の新しい役割が最も具体的にとらえられるとはいえ、それはすでに前段の展開のうちに内包されていたことを決して看過してはならない。

   レーニンのこのような金融資本の把握の仕方からすれば、金融資本は資本独占あるいは資本主義的独占の実存形態にほかならない。だからそれは、銀行資本それ自体を止揚するものでもなければ産業資本それ自体を止揚するものでもない。このことは、レーニン自身「資本一般の支配から金融資本の支配へ」と述べて、「資本一般」を金融資本の対立概念としていることからもうかがわれる。この「資本一般」という言葉は、普通の資本、つまり自由競争のもとにある資本を意味することは明らかである。

〔第3章〕

3章全体の段切り――論理展開(p.45-47)

原田●今回は三章へ進んで 「金融資本と金融寡頭制」 を勉強する。例によって、庄司氏にこの章の全体に段切りをつけてもらい、あわせてその理由を説明してもらおう。

庄司●ぼくは全体を次の3つの段切りに区分する。まず第一段切りは、冒頭からレーニン自身の金融資本の定義を述べているところ(78ページ〔国p.61/濤p.78〕)まで。第二段切りは、その次の「資本主義的独占の『支配』が……どうして不可避的に金融寡頭制の支配になるか、ということの叙述に移らなければならない」(78ページ〔国p.61/濤p.78〕)という主題の提起にはじまって、この金融寡頭制の支配の最後の主要契機である金権政治について述べ、ロシアについて、その一例をあげているところ(98ページ〔国p.77/濤p.98〕)まで。第三段切りは、それに続く「資本の所有と資本の生産への投下との分離は、……資本主義一般に固有のものである」(98ページ〔国p.77/濤p.98〕)という書き出しではじまるパラグラフから本章の終わりまで。
 それではどうしてこの三つの段切りに区分したかを説明しよう。すでに二章で明かにしたように、金融資本の内容規定は二章で行なわれている。三章は劈頭まず、金融資本の定義づけを一章および二章の全理論的展開の総括として与える。これが第一段切りである。このようにして与えられた金融資本の定義の上に立って、次の第二段切りでは、金融資本として把握される資本主義的独占の支配が不可避的に金融寡頭制の支配となることを、その主要契機の分析を通じて明らかにする。最後の第三段切りでは、この第二段切りの金融寡頭制の支配の分析から、金融資本の支配とは、貨幣資本の所有者と資本の実際の運用にたずさわる人々との分離という、資本主義一般に固有な関係が、巨大な規模に達している資本主義の最高段階であるとの規定を導き、このことは国内的には金利生活者と金融寡頭制の支配、国際的には金融上の力をもつ少数国家が他のすべての国家に傑出することを意味するとして、金融資本と金融寡頭制が総括される。そしてこの総括に立脚して、世界のもっとも富裕な四つの資本主義国の全世界に対する債権者的地位、その他の諸国の債務者的地位が明らかにされ、このような金融資本支配の国際網の創出に際して資本輸出の演ずるとくに重要な役割が示唆され、四章への橋渡しがなされる。

原田●この章の論理展開の大筋は非常に簡明であるから、いまの段切り論についてはおそらくみんな異論はなかろうと思う。ぼくも賛成である。ただ報告者の段切りの説明を聞いていて一箇所ちょっと気になる点があった。それは第一段切りの説明の中でのことであるが、報告者は金融資本の内容規定はすでに二章でなされていると述べておきながら、ここでは金融資本の定義づけが一章と二章の全理論展開の総括として与えられるというふうな説明をしている。一見奇異に聞こえる説明である。が、これはおそらく次のような理解からきているものと思う。
 二章の論理展開からみて、またここで冒頭ヒルファディングの金融資本の定義をもち出している点から考えても、この第一段切りの金融資本の定義づけは直接二章をうけているのである。ただレーニンは、ヒルファディングのこの定義づけの不完全さを批判することを通じて彼自身の定義を導いており、その際に改めて生産の集積、そこから発生する独占、つまり一章の内容をもう一度土台にすえて、そのうえでヒルファディングの定義づけの内容をなしている銀行と産業との融合を説いている。このような二面的な理解が報告者のような表現になったのだとおもう。しかし、すでに二章を勉強した際にくりかえし強調しておいたように、二章の論理展開は一章の論理展開をふまえており、それを内容に含んでいるものである。だから、レーニンがヒルファディングの融合についてのり回が、生産の集積・独占という実体を欠いている点に向けられているのであって、ここでまたあらためて一章と二章を総括して金融資本の定義づけを与えようというのではない。つまり三章は、劈頭まず二章の論理展開を直接うけて、金融資本の正しい定義づけを与えた上で、以下この金融資本の実際の力と意義とを金融寡頭制の支配という最も具体的な姿においてとらえていくのである。

 以上報告者の段切り論をより一そうはっきりさせるつもりで述べてきたことが、すでに三章の理論的位置にまで立ち入ることになってしまったようだ。段切り論はこの程度にとどめて、進んで各段切り内の叙述の概要を跡づけてもらおう。

本章の理論的位置(p.56-57)

原田●本講の締めくくりとして、ぼくからこの章の理論的位置を簡単に要約しておこう。
 すでにしばしば述べてきたことであるが、この章は一章から二章へと発展してきた金融資本の内容規定というものを直接ふまえて、まず金融資本の概念規定を打ち立て、その上に立って、金融資本の支配が不可避的に金融寡頭制の支配になるゆえんをその主要な諸契機の分析を通じて明らかにする。そしてその主要な諸契機が、金権政治という最も具体的な姿にまで発展することによって、ここで金融資本とその支配はひとまず国内体制として完成する。ついでこのような金融資本と金融寡頭制の国内体制の完成は、同時に国際的には金融上の力をもつ少数国家が、その他のすべての国家に対して傑出することを意味するとして、金融資本の国際的支配網として把握されることになる。この把握から直接、金融資本と金融寡頭制の国際的体制が、まず資本輸出として展開されていくことになる。ぼくらの付した三つの段切りは、本章のこのような理論的位置をきわめて簡明に示している。


〔第4章〕

段切りのつけ方――論理展開(p.58-59)

原田●今回は四章の 「資本の輸出」 を勉強する。三章までで、資本主義的独占の具体的な実存形態としての金融資本の内部体制、国内体制を勉強してきたのであるが、この章から局面が移って金融資本の外部体制、世界体制を分析していくことになるわけである。まず最初に、例によって庄司氏にこの章全体に段切りをつけてもらい、あわせてその理由を説明してもらおう。

庄司●僕は全体を大きく二つの段切りに区分する。第一段切りは、冒頭から三つ目のパラグラフ、すなわち資本輸出の可能性と必然性が述べられているところまで(102-103ページ〔国p.80〜81/濤p.101〜103〕)。第二段切りは、それにつづく三つの主要な資本輸出国による国外投資額について考察しているところからこの章の最後まで(104-111ページ〔国p.81〜87/濤p.103〜109〕)。
 では、なぜそのような断切り区分を行ったか、その理由を説明しよう。第一段切りでは、冒頭でまず「自由競争が完全に支配していた古い資本主義にとっては、商品の輸出が典型であった。だが、独占が支配している最新の資本主義にとっては、資本の輸出が典型となった」(102ページ〔国p.80/濤p.101〕)という有名な命題を与えておいて、以下、この命題が直接みちびかれる基礎として、独占の支配のもとでの膨大な資本の過剰ということが述べられる。  ついで第二段切りでは、この独占の支配の下における膨大な資本の過剰を根本動因とする資本輸出そのものの実体が分析され、それが金融資本による世界的支配の網の目の形成であることが明らかにされる。この章は、形式的にはこのような二つの部分からなる簡単な構成であると理解した。

原田●結論的にいうと、僕も今の庄司氏の段切りに賛成である。ただ、ここでもその理由の説明に関連して、若干問題だと思われる点を補足しておきたい。
 今の段切り論にたいして予想される一つの有力な異論は、冒頭の命題の扱いについてであろう。庄司氏はこの命題を第一段切りの中に包摂して、第二パラグラフから第三パラグラフにかけての説明が、この命題の導かれる直接の根拠を明らかにするものだとしている。これに対しておこりうる有力な異論というのは、この冒頭の命題は四章全体にかかるものであるとして、これだけで第一の段切りを画すべきだとする見解である。この見解は間違っていないどころか正しい読み取り方を含んでいるものと思う。というのは、この見解は、独占の支配している最近の資本の輸出が典型になったということの意味は、単に独占の支配の下での膨大な過剰資本の形成ということだけではなく、その過剰資本を根本動因とする資本の輸出そのものが、金融資本の世界支配にほかならぬことが解明されるにいたって、はじめて十全なものとなるということを含意しているからである。この点はまったく正しい。しかし、だからといって、この冒頭の命題だけを切り離して第一段切りとすることになると、以下の分析全体からうきあがってしまって、いかにもその結論だけを先取りしたものという感じを免れない。そうではなくて、やはりこの冒頭の命題は、それにすぐつづいてまずその直接の根拠が明らかにされていく命題として与えられているものと解したほうがよいと思う。このように解することは、なにもこの命題はこの段切りだけで終わっているという意味ではない。  これは結局四章全体の理解、つまり四章の理論的位置ならびにその総括的把握にかかわることであって、以下ぼくらの勉強のすすむにつれておのずから明らかとなるだろう。

この章の理論的位置――総括的問題(p.66-67)

原田●それでは、この回のしめくくりとして、さきに段切り論のところで指摘しておいたこの章の理論的位置、ならびにそれと関連して、この章を正しく読みとるための基本的態度という総括的問題について、ぼくから簡単に述べておこう。
 冒頭でも指摘しておいたように、この章は一章から三章にわたって展開されてきた国内体制としての金融資本が、世界体制として展開されていく発端をなす位置を占めている。資本の輸出がこのような位置を与えられたのは、前の章において、金融寡頭制の総括として、国内的には金利生活者と金融寡頭制の支配、国際的には金融上の力を有する国家の他のすべての国家に対する傑出が帰結され、他のすべての国家をして債務者と貢納者の役割を演じさせている金融資本の国際網の形成に際して、資本の輸出の演ずる役割が示唆されていたことからきているのである。そしてこのことは、金融資本の世界体制の形成において、資本の輸出が経済的に最も基礎的な要因をなすことを意味している。
 そこで、この章を理解するにあたって根本的に重要なことは、すでに三章までで国内体制として把握された金融資本の国際網の形成という観点をどこまでも貫いていくことである。というのは、この章の叙述を、まず資本輸出の必然性、ついで資本輸出の概況、そして最後に資本輸出の効果というふうに、いわゆる資本輸出論においてやっているような、資本輸出の効果論などというとらえ方は、ここにはみじんもないのであって、全論理を貫いているものは、世界の大多数の国民に対する帝国主義的抑圧と搾取の基礎としての金融資本の国際網の形成ということである。だからこそ、このような資本輸出が比喩的な意味で世界を分割したと規定づけられるのである。

 この資本の輸出を基礎として、次の章で、最大の資本家団体の間での、やはり経済的な、だがより直接的な世界の分割が考察されることになるのである。


〔第5章〕

段切りのつけ方――論理展開(p.68-69)

庄司●ぼくは全体を次の3つの段切りに区分する。第一段切りは、冒頭からこの章のほとんど大半を占める国際カルテル形成の考察にあてられている部分、すなわち国際カルテルの主要な実例を分析したうえで、リーフマンによって当時のドイツの参加した国際カルテルの数を挙げているところまで(112〜123ページ〔国p.87〜97/濤p.110〜121〕)。第二段切りは、それにつづくブルジョア的著述家たちの国際カルテルについての見解を批判している長い一つのパラグラフ(123〜125ページ〔国p.97〜98/濤p.121〜123〕)。最後の短いパラグラフは独立の第三段切りとする(125ページ〔国p.98〜99/濤p.123〕)。
 それではなぜこのような段切り区分を行なったか、その理由を説明しよう。第一段切りでは、まず冒頭で資本家の独占団体による世界の分割をめぐる協定、すなわち国際カルテルが形成されるに至る基本的な筋道を簡単に規定したうえで、以下主要な事例の検討を通じて、国際カルテルによる世界市場の分割が力関係の変化による再分割を妨げるものでないことの考察を内に含みつつ、分析される。第二段切りでは、第一段切りの国際カルテルによる世界の分割・再分割の考察に立脚して、ブルジョア的著述家たちの、とりわけマルクス主義からの転向者であるカウツキーの国際カルテルによる世界平和への可能性の主張、いわゆる超帝国主義論に展開される見解を批判しつつ、国際カルテルの性格、その本質を明らかにする。最後に第三段切りでは、以上全体の分析をしめくくって、資本家団体の間での世界の経済的分割を土台として一定の関係が形成されつつあることを述べ、さらにこれと並んで、またこれと関連して、諸国家の間での世界の領土的分割を土台として一定の関係が形成されつつあることを指摘して、次章への展開が示唆される。

原田●この章の理論展開の大筋も前章と同様に比較的簡明であって、今の報告には僕自身もまったく異論はない。
 もし今の報告に異論がありうるとすれば、それは冒頭の一つのパラグラフを独立の第一段切りとするという理解の仕方であろう。このような理解は、一方では、この冒頭の説明は前章の資本輸出との関連において国際カルテル成立の一般的基礎が述べられている点を重視し、他方次章の列強のあいだでの世界の分割への展開が示唆されているこの章の最後の一つのパラグラフを独立の段切りと解することと対応して、ここでも独立の段切りとして扱おうということであろう。なるほどこれは形式的にはつじつまの合った、一応すっきりした理解のようにもみえるが、しかしあまりにも形式的にすぎると思う。冒頭のパラグラフは以下で分析される国際カルテルの成立の一般的な基盤をまず明らかにしたものとして、やはり第一段切りの中に包含せしめて理解すべきである。
 なおついでに指摘しておけば、この章の最後の一つのパラグラフを、前章の資本輸出の最後のパラグラフの場合と異なって、それ自身独立の段切りとして理解することの中には、この章の理論的位置についての独自な問題意識が伏在しているものと推測されるが、その点はすでに段切り論の範囲を越えることになるので、のちに総括のところであらためて検討する ことにしよう。

本章の理論的位置――総括的問題(p.78-81)

原田●この章の理論的位置を問題にするには当然、前章の資本輸出との関連を述べている冒頭の一つのパラグラフと次章への展望を与えている最後の一つのパラグラフとが問題になるが、さきに段切りのところで示唆しておいたように、説明の便宜上順序を逆にして最後の一つのパラグラフから入っていくことにする。

 この最後のパラグラフは二つの内容を含んでいる。一つは、資本家団体の間には世界の経済的分割を基礎として一定の関係が形成されつつあるという総括的な結びを与えていることであり、もう一つは、これと並んで、またこれと関連して、諸国家の間に世界の領土的分割を土台として一定の関係が形成されつつあるという次章への展望を与えていることである。しかしこのパラグラフを独立の段切りとするのは、このパラグラフがこのように総括と展望を含んでいるからだというような、単に形式的な理由からではない。そういう点からいえば、前章の資本輸出の最後の一つのパラグラフも総括と展望を含んでいたわけであるが、ぼくらはあえてこれを独立の段切りとはしなかったのである。むしろ前章の最後の一つのパラグラフを独立の段切りとしなかったことが、ここで一つのパラグラフを独立の段切りとするという関係になってくるのである。すなわち、こうである。
 このパラグラフで、資本家団体の間には世界の経済的分割を土台として一定の関係が形成されつつあるといっている場合の、この経済的分割というのは、直接にはこの章で分析されたところ、すなわち国際カルテルやトラストによる世界の分割を指すものと考えられるが、しかしまたこの国際カルテル等による世界の経済的分割そのものは、この章の冒頭のパラグラフで明らかにされているように、資本輸出の増加にともなって最大の独占的諸団体の一切の対外的勢力圏が拡大することを一般的基礎としておのずから発生してくるものであるから、ここにいう世界の経済的分割を四章の資本輸出と切り離して理解してはならない。つまり、ここでいう世界の経済的分割は、内容的には四章および五章を総括する意味を含んでいるのであって、まさしく世界の領土的分割と対応する概念である。世界の領土的分割の内容については次の章へいってはじめて明らかになるわけであるが、しかしここですでに推測しうることは、この領土的分割はこれまでの経済的分割に対して相対的な独自性をもっているということである。そのことは、資本輸出と国際カルテルとの関係を述べている冒頭のパラグラフの叙述とちがって、経済的分割に対する領土的分割の関係が、「これとならんで、またこれと関連して」という叙述の「これとならんで」という言葉によって表されていることにも示されている。この領土的分割の経済的分割に対する相対的な独自性ということのなかには、領土的分割が時期的には経済的分割に先行しうるというような問題をも当然含んでいる。

 以上で明らかにされたことは、この章の次の章の世界の領土的分割に対する世界の経済的分割として、両者の間には相対的な独自性があること、そしてまた世界の経済的分分割そのものとしては、この章は前の章の資本輸出を直接の基礎として発展してくるという関係にあるということである。

原田●ところでこのような関係は、実はこの章の理論的位置の一面、それもいわば消極的な一面にすぎないのであって、つぎにもう一つの側面、より積極的な側面を見なければならない。やはり最後の一つのパラグラフの中で世界の経済的分割を土台として「一定の関係」とか、世界の領土的分割を基礎として「一定の関係」とか述べられているが、この「一定の関係」という言葉が何を意味しているかが問題となりうる。
 これは、世界の経済的分割あるいは世界の領土的分割を土台として発生してくる再分割を不可避ならしめるような諸関係と理解すべきであろう。いうまでもなく再分割は分割を前提としている。なるほど資本輸出そのものがおのずから勢力範囲を形成することによって世界を分割することになるわけであるが、しかしそれは直接的な分割ではなくて、レーニンのいうように比喩的な意味での分割にすぎない。経済的に世界を直接分割するのはカルテルである。だから資本輸出のところでは直ちに再分割の論理が展開されず、五章に至ってはじめて展開されているのもそこからきているものと考えられる。

 五章が四章の「資本の輸出」を直接の基礎として展開されているといっても、再分割闘争論理の展開というこの点では、五章の国際カルテルは四章の「資本の輸出」とは異質のものをもっているわけである。そしてこの点では、六章の「世界の領土的分割」も同様に直接の分割と再分割である。この領土的分割は経済的分割に対して相対的な独自性をもつとはいえ、それはまた反面ではこの経済的分割および再分割に関連して展開してくるのである。このことは先の「これとならんで、またこれと関連して」の「関連して」という言葉によっても示されている。この点でレーニンの四章・五章・六章という展開の仕方は、ヒルファディングの『金融資本論』におけるように、資本の輸出から直ちに経済領域上の闘争すなわち世界の領土的分割の闘争を展開してくる仕方とは異なって、資本家団体の間での世界の分割、すなわち国際カルテルに積極的な意義を与えていることに注目せねばならないと思う。レーニンは、ホブソン−ヒルファディング以来の資本輸出−領土的分割論に対して、生産の集積・独占に基礎をおく金融資本概念を確立したことと関連して、独占自体の国際的展開を経済的分割の直接形態としてとらえ、金融資本の資本輸出は何よりもまずこの経済的分割の基礎をなすものとしたのである。この点は、今日のいわゆる世界企業の経済的本質を規定していくうえで、重要な視点を示唆するものといえるであろう。


〔第6章〕

段切りをどうつけるか――論理展開をどうつかむか(p.82-85)

庄司●僕は全体を大きく二つの段切りに区分する。第一段切りは、冒頭から、ほぼこの章の中程のところで、列強の植民地領有にかんする表を掲げてこれについて考察し、さらに小国の小植民地領有および半植民地国家の意義について考察しているところまで(126〜135ページ〔国p.99-106/濤p.124-133〕)。第二段切りはそれにつづく、植民政策と帝国主義は資本主義の最新の段階以前にも、いな資本主義以前にさえも存在したが、最新の殖民政策と帝国主義は、これらとは本質的に相違する独自なものであることを規定しているパラグラフから以下本章の終わりまで(135〜143ページ〔国p.107-114/濤p.133-142〕)。
 では何故このような段切りをつけたか、その理由を説明しよう。第一段切りではまず冒頭で、19世紀末に地球ははじめて分割されつくした、だから今後きたるべきものは再分割だけであるという規定を与える。この規定は以下本章の分析の全体を通じて証明されていくべき命題をなすわけであるが、直接には、まずもって第一段切りにおいて、実際の資料にもとづき二つの事実問題――一つは植民政策の世界的強化がまさしく金融資本の時代と一致しているかどうかということ、他はこの点からいって現在世界はどのように分割されているかということ――の分析を通じて、まさしくそれが金融資本によってもたらされていることを確証するのである。このことを確かめたうえで、第二段切りにおいては、この植民政策と帝国主義が金融資本に特有なもの、その経済的社会的本質に根ざすものであることが分析され、その上でこの金融資本の植民政策に特有な形態としての国家的従属の幾多の過渡的形態が分析され、さらにこの金融資本の植民政策の矛盾的展開としての再分割への発展の現実的様相が述べられる。総じてここでは最新の植民政策と帝国主義の金融資本的本質が分析されているわけである。

原田●今のこの章を大きく二つに段切り区分するという見解に対しては異論がありうると思われるし、ぼく自身にも若干の異論がある。  まず最初に異論がありうるだろうと思われるのは、冒頭の規定の部分の取り扱いについてであろう。冒頭でズーパンを批判的に引用して、世界は19世紀末にはじめて分割されつくした、だから今後きたるべきものは再分割だけであると述べている部分は、一方では前章の最後に示唆されていた諸国家の間での世界の領土的分割を基礎とする一定の関係を端的に述べたものであり、他方ではまたこの章の結論的規定をなすものとする理解に立って、独立の段切りにすべきだとする見解がありうるだろう。
 しかし、冒頭でまずこのような規定を与えるやり方は、レーニンがこれまでの章でもしばしば、たとえば2,4,5章でもとってきたところであるが、ぼくらはそのさいにこのような冒頭の規定を単純にその章の結論を先取りして掲げているものとする見解を排除してきた。もちろんそれは、その章の全分析の結果打ち出されたものであるから、その章の結論的意味合いをもっていることはいうまでもないが、しかしそれの論理的位置からいえば、つねにそれがすぐつづいて課題化され、以下で論証されていくべき命題という意味を与えられている。ここでも例外ではなく、世界ははじめて分割されつくした、きたるべきものは再分割だけだというこの冒頭の規定は、それにすぐつづくパラグラフで課題化され、まず直接には第一段切りの事実問題の分析を通じて確証され、されに第二段切り以下で金融資本の本質規定にもとづいて理論的に論証されていくべき命題をなすという論理的な位置付けを与えられているのである。だから、この冒頭の部分だけを取り出して独立の段切りとすることには賛成できない。報告者のように、この冒頭の規定は、まず直接的には第一段切りの事実問題の分析を通じて確証されるべきものとして第一段切りの中に含め、しかしまたこの命題は後段の記入資本の本質規定に基づく理論的分析を待ってはじめて十全に論証されるべきものとして、第一段切りの中で一つの小段落を画して取り扱うべきであろう。

 つぎにこれはぼく自身が報告者の段切りに対して異論のあるところであるが、それは報告者の理解では第二段切りの中で一括して取り扱われているこの章の終りの方の二つの論点、すなわち国家的従属の過渡的諸形態を述べている部分と、それにつづく分割から再分割への現実的様相を述べている部分との取り扱いである。  報告者の理解では、第二段切りの最初の部分で世界分割を必然ならしめる金融資本の経済的社会的本性が明らかにされた上で、これらの部分が展開されているとして、総じて世界分割の金融資本的性格を明らかにするという見地から、これらを一括するわけであるが、多少無理があると思う。
 なるほどこの二つの論点は、とくに前者の国家的従属の過渡的形態は、現在の世界分割が金融資本の経済的社会的本性に根ざすものであることを明らかにした上で、具体的に述べられてくるには相違ないが、しかしこれら二つの論点は、それぞれ独自な問題をいわば特殊的に重要な問題として取り上げているものと解される。そのことは、前者については「資本主義的帝国主義の時代の植民政策について論じる場合にぜひとも注意しなければならないことは」(140ページ〔国p.111/濤137〕)という言葉をもって説きおこしていることからもうかがえることである。だからこの二つの論点は、形式的にそれぞれ独立の段切りをなすものとして取り扱った方が無理がないと思う。論理的な関連からいえば、前者すなわち国家的従属の過渡的諸形態の部分は、第一段切りの終りの方で半植民地国家について述べているところで、「金融資本は、あらゆる経済的関係とあらゆる国際的関係とにおいて、巨大な、決定的ともいえるほどの勢力であるから、それは、もっとも完全な政治的独立を享有している国をさえ隷属させることができるし、また実際に隷属させている。われわれはすぐつぎにその実例をのべるであろう」(135ページ〔国p.106/濤p.133〕)といっていることをうけているのであるが、先に指摘したように金融資本の経済的本制をふまえて、ここではそれが一そう具体的に述べられてくるわけである。後者の分割から再分割への論理が、第一段切りおよび第二段切りの分析過程で個々の論点に即して具体化されてきたものが、ここで包括的にさしせまった現実の一つの全体的様相として示されてくるという関係にある。だからこの部分は、レーニン自身の論理の積極的展開という形をとってはいないが、事実上この章のしめくくりをなすものとなっている。

本章の位置――総括的問題(p.93-94)

原田●ぼくは前回、五章の理論的位置を述べた際に、それが二つの側面、いわばその消極面と積極面とをもっていることを指摘した。その消極面というのは、国際カルテルは資本輸出とそれにともなう勢力圏の形成を土台としつつ世界の経済的分割をなすものであり、世界の政治的分割はこれに対して相対的独自性をもつということであった。そしてその点がまさしく本章を制約しているように思われる。すなわち、この章では金融資本の本質にもとづく世界分割の必然性から説いていくのではなく、劈頭まず世界の終局的分割の実相を掲げ、ついでこれが金融資本のもたらしたものであることを事実によって確認した上で、この分割の金融資本的本質を分析するという展開の仕方をとっている。これは前の諸章とは若干異なって、この章に特徴的な展開の仕方であるように思われる。そして実はこの点が、この章の論理展開の大筋をつかまえるのに、従って段切りをつけるのに困難を感じさせたゆえんであった。

 五章の積極面というのは、資本輸出およびそれにともなう勢力圏の形成が世界の比喩的な分割にすぎないのに反し、国際カルテルは、直接の分割・再分割であるという点であった。そして、本章の政治的分割・再分割は、もとより直接の分割・再分割である。この点では、本章は五章を踏まえての展開という積極的意義をもっていることが注目されねばならない。そこには、独占にともなう経済的力能の政治的力能への生成転化が示唆されている。

 ところで国際カルテルの土台をなすものは、資本輸出とそれにともなう勢力圏の形成であり、世界の経済的分割はすでにこの資本輸出とそれにともなう勢力圏の形成によって制約されている。資本輸出は、単に利子あるいは利潤の一部を獲得するというにとどまるものではなく、金融資本的諸利益の獲得と不可分に結びついており、勢力圏の形成を必然ならしめるものである。従ってこの資本輸出は、それ自体すでに分割・再分割の論理を内包するものとみなければならない。この資本輸出の内包する分割・再分割の論理が、世界の直接の領土的政治的分割として自らを貫徹してくるのである。もちろん世界の政治的領土的分割それ自体は、単に資本輸出の利益だけから生ずるものでないことはすでに明らかであり、この点は十分注意しておかなければならない。世界の政治的分割の相対的独自性ということも、実はこの点にかかわるのである。ところで、いまや世界の領土的分割において具体化されている資本輸出の諸利益のうちには、すでにみたように商品市場の独占的確保が含まれており、この限りにおいて、五章で提起された国際カルテルによる市場分割は、すでにこの中に包含されているのである。さきに指摘したように、この章では商品市場の分割が世界の領土的分割の独立の要因としては扱われていないが、その理由もここにあるものと解される。

 さて上記の意味において、この章は四章、五章を総括するものといえるが、しかしまた単にそれにとどまるものではない。いまも注意を喚起したように、政治的領土的分割は、直接金融資本の追及する原料資源の独占的確保からも、また金融資本の政治およびイデオロギーからも生ずる。この意味においては、この章は、一章から5章までを包括するものであり、金融資本は世界の領土的分割においてもっとも包括的な体制となる。
 金融資本のこのような全体制的把握の上に立って、はじめて次章において資本主義の特殊な段階が明確に規定されることとなるのである。


〔第7章〕

全体の論理展開をどうつかむか――段切りをどうつけるか(p.95-97)

原田●この章は『帝国主義論』の全体の論理展開の上で画期をなす章である。これまでの一章から六章まででは、帝国主義の基本的な経済的諸特徴がそれぞれ分析され、またそれら相互の関連が分析されたのであるが、この章はこれらの分析を総括して純経済的概念に立脚した帝国主義の全体的な性格規定を与え、はじめて明確な形で、帝国主義が資本主義的発展の特殊な段階、資本主義の独占的段階であることを規定づける。この純経済的概念に立脚した段階規定を基底として、以下八章から一〇章にわたり、別な概念に立脚した第二、第三の帝国主義の全体的な性格規定が与えられていくのである。
 それでは、例によって庄司氏にこの章全体に段切りをつけてもらい、あわせてその理由を説明してもらうことから始めよう。

庄司●僕はこの章全体を三つの段切りに区分する。第一段切りは、本章の冒頭から、レーニン自身の帝国主義の定義を与えた後で、帝国主義の定義について、何よりもまずカウツキーと論争しなければならないといって、カウツキーの定義の批判に入る前まで(144〜147ページ〔国p.114〜117/濤p.143〜146〕)。第二段切りは、このカウツキー批判に入るパラグラフから始まって、カウツキーとクノーとの論争を引き合いに出し、カウツキーの理論が結局はクノー一派との統一の思想の擁護に役立つに過ぎないときめつけているところまで(147〜152ページ〔国p.117〜122/濤p.146〜153〕)。第三段切りは、それにつづいて、「カウツキーはこう書いている」といって、彼の超帝国主義の主張を引用しているパラグラフから、以下本章の終わりまで(152〜160ページ〔国p.122〜128/濤p.153〜160〕)。
 では次に、なぜこのような段切り区分を行なったか、その理由を説明しよう。レーニン自身劈頭で述べているように、第一段切りでは一章から六章にわたる帝国主義の経済的諸特質についての分析の総括を行ない、五つの経済的な基本的指標を含む定義を与えることによって、帝国主義が資本主義的発展の特殊な段階をなすという根本概念を明らかにする。このようにレーニン自身の帝国主義に関する定義および根本概念を与えた上で、第二段切りでは、これと真正面から対立するカウツキーの帝国主義についての思想を批判する。すなわち、帝国主義を資本主義のいって尹段階とすべきではなく、たんに一定の政策と解すべきであるとする彼の思想を、帝国主義に関するカウツキーの定義を通じて批判する。第三段切りでは、帝国主義をその経済の基礎から切り離し、単なる政策であるとするカウツキーのこのような根本思想の具体的あらわれである彼の超帝国主義の主張を批判し、この批判を通じて、資本主義の独占段階であるこの帝国主義が戦争の不可避性を内包するものであることを明らかにする。

原田●今の段切り論については、ぼくもまったく賛成である。一つの問題点と思われるのは、同じくカウツキーの批判である第二段切りと第三段切りとの間に特に区分を設けたことについてである。ごく形式的にみると、この章全体の論理の運びは、第一段切りでは、この章のテーマである帝国主義の経済的諸特質の総括、そこから導かれる資本主義の特殊な段階としての帝国主義という根本概念をレーニン自身与えており、第二段切り以下の全体では、これと真向から対立するカウツキーの帝国主義に関する根本思想を批判しているものと見ることができるだろう。だからこの二つの部分の間にだけ段切りをつけるという見解もありうるだろう。
 しかしそのように読みとってしまっては、このカウツキー批判を通じて展開されていくレーニンの積極的な論理が十分に汲みとれないと思う。というのは、カウツキーの根本思想を批判しつつ、それを通じて、第一段切りで規定した資本主義の特殊な段階としての帝国主義が、戦争の不可避性を内包するものであることを明らかにしていくという積極的な論理が、そこに含まれているからである。そしてこの点は、庄司氏が第三段切りとした、カウツキーの超帝国主義の主張を批判している個所に具体的に展開されてくるのであって、第二段切りの部分は、カウツキーのこの超帝国主義の主張が導かれてくる帝国主義にかんするカウツキーの根本思想それ自体が、第一段切りで与えられたレーニン自身の根本思想との対比において分析され批判されているわけである。
 だからカウツキーの思想および主張の批判としては、勿論第二段切りから第三段切りへと直接つづく論理をもっているわけであるが、これをあえて二つの段切りに区分した問題意識は、上のようなレーニンの論理の積極面を明確に汲みとろうとしたからである。庄司氏の段切りの理由の説明の中にも、このような読みとり方がはっきりと示されていたと思う。

本章の理論的位置――総括的問題(p.111)

原田●すでに冒頭でも簡単にふれたが、この章の理論的位置には二つの側面がある。まずこの章は、一章から六章にわたって分析されてきたところの帝国主義の経済的諸特徴を総括し、そこから純経済激概念に立脚した帝国主義についての根本概念を導き出すという側面である。換言すれば、一章から六章までの全分析を、「帝国主義とは資本主義の独占的段階である」という帝国主義の純経済的な根本概念に総括することである。
 この総括により、帝国主義はその経済的基礎によって第一の全体的な性格規定〔以下第一規定と略称する〕を与えられるわけであるが、この第一規定は以下八章から一〇章にわたって展開される第二の全体的な性格規定「寄生的な資本主義」および第三の全体的な性格規定「死滅しつつある資本主義」への基底をなすものである。換言すれば、五つの経済的な基本的指標を包含するこの第一規定の土台の上に、帝国主義の社会的階級的性格が第二規定として打ち出され、さらに第一、第二の両規定が帝国主義の歴史的地位についての第三規定に総括されていくのである。これがこの章の占める理論的位置のもう一つの側面である。
 この章ではじめて明確に打ち出されてくる独占段階規定が、この章の理論的位置に以上の二つの側面を与えるのである。


〔第8章〕

本章の論理展開の大筋――段切りをどうつけるか(p.112-114)

原田●七章では、一章から六章にわたって分析されてきた帝国主義の経済的特質を総括して「帝国主義とは資本主義の独占的段階である」という、純経済的概念に立脚した帝国主義の全体的な性格についての第一の根本規定が与えられたわけであるが、ここではこの第一規定の上に立って、これが社会階級的諸条件の上にどのように反映してくるか、とりわけ労働運動における二つの主要な潮流の上にどのように反映してくるかという観点から、帝国主義の全体的な性格についての第二の根本規定〔以下第二規定と略称〕が与えられるのである。それでは例によって、まずこの章全体に段切りをつけ、併せてその理由を説明してもらおう。

庄司●ぼくは八章全体を大きく二つの段切りに区分する。第一段切りは、冒頭から金利生活者国家ということについてブルジョア的文献をいくつか引用しているところまで(161〜165ページ〔国p.128〜132/濤p.161〜166〕)。第二段切りは、これにつづいて金利生活者国家は寄生的な腐朽しつつある資本主義の国家であり、この事情は一般的にはそれらの国のあらゆる社会政治的諸条件の上に、特殊的には労働運動における二つの基本的な潮流の上に反映しないではおかないことを述べているパラグラフから、以下この章の最後まで(165〜176ページ〔国p.132〜141/濤p.166〜177〕)。
 では、なぜこのような段切りを行なったか、その理由を説明する。第一段切りでは、帝国主義に固有な寄生性の経済的本質が分析され、それがとくに金利生活者国家として最も具体的にとらえられる。ついで第二段切りでは、このような帝国主義に固有な寄生性の経済的本質とくに金利生活者国家というものが、それらの国の社会階級的諸条件とくに労働運動の分裂をどのように規定しているかを明らかにし、寄生性の社会階級的側面が分析される。

原田●この章の大筋は比較的簡明であって、いまの庄司氏の段切りで大体よいと思うが、ただぼくとしては、冒頭の短いパラグラフはあえて独立の段切りとして取り扱いたいと思う。庄司氏はおそらく、ぼくらがこれまで二章、四章、五章でやってきたように、ここでもこの冒頭の一パラグラフは結局はこの章全体にかかるものではあるが、直接には以下第一段切りのなかでまずその経済的基礎から説明されていくものとして第一段切りの中に含ませたのだと思う。
 しかし、ここの冒頭の一パラグラフは、前の二章、四章、五章等の場合とは異なって、以下の分析と直接関連するような何らかの内容をもった命題をかかげているわけではなく、この章では帝国主義に固有な寄生性という問題を論ずるのだとしてこの章の主題をかかげた、いわば単なる説き起こしにすぎないのである。のみならず、この説き起こしの中でマルクス主義者ヒルファディングの一つの欠点は、彼が非マルクス主義者ホブソンと較べてこの問題で一歩後退していることだといっている点は、後段の寄生性の社会階級的側面により直接に関連しているのであって、このことからもこの冒頭の一バラグラフはこれ自体独立の段切りとすべきだと思う。そしてこの点は、実はこの冒頭で掲げられている帝国主義に固有な寄生性という主題の主要な論点がこの章ではどこにあるのか――ぼくはそれはむしろ後段の寄生性の社会的側面とりわけ労働運動における二つの潮流という点にあると思うのだが――という問題にも関連しているのである。が、これについては後に改めて論じるであろう。
 庄司氏の段切りには、なおもう一つ異論がありうるかもしれない。氏の段切りでは第二段切りの中に包含されているのだが、この章の最後の三つのパラグラフすなわち、労働運動における分裂がイギリスでは一九世紀待つおよび二〇世紀初頭よりもずっと前にあらわれていたことに特に注意しなければならないとして、このイギリスtの特殊な事情を説明した後、今日の状態はこれと根本的に異なっていることを明らかにしている部分は、いわばこの章の結論をなす部分として、これを独立の段切りとするという見解がありうるだろう。なるほどこの部分は、労働運動における二つの潮流の今日の具体的な様相を示すものとしてそれまでの分析に対してより具体化された論理展開をなすものであり、八章の事実上の結論的部分に当るものではあるが、しかし大きくはこの部分も寄生性の社会階級的側面とりわけ労働運動における分裂という側面の問題であって、庄司氏の報告のように第二段切り全体の中に含ませて、その中でむしろ小段落をなすものとして扱うべきであろう。

総括――本章の理論的位置(p.123-124)

原田●一章から六章にわたる全分析を総括して、「帝国主義とは資本主義の独占的段階である」として純経済的な見地から帝国主義の全体的な性格に関する第一の根本規定を与えている七章が、この章での第二の根本規定、さらに一〇章での第三の根本規定へと展開していく基底をなすことについては、すでに前回の七章の理論的位置において述べておいたところである。この八章においてまず分析される寄生性の経済的分析は、まさしくこのような七章の経済的概念に立脚した帝国主義の第一規定をふまえて、それが包含する五つの基本的標識から直接導かれていることは明らかである。このことからしても、寄生性の経済的本質をなす独占的高利潤は、資本主義的独占の国内的および国際的の全機構によって把握されねばならぬことを繰り返して注意しておきたい。たしかにレーニンの叙述は寄生性を金利生活者国家において最も具体的にとらえているために、帝国主義一般に固有な寄生性を一面的に理解する傾向が生じているように思われるが、ぼくは賛成できない。例えばイギリスにくらべてドイツ、日本、アメリカ等は寄生性がより稀薄であるとか、あるいはまた帝国主義はその後の発展において植民地の反抗、独立等により、しだいに寄生性を稀薄化しているというような議論はこのような一面的な理解につらなるものと思う。ついでながら言及しておけば、ぼくは国家独占資本主義はこの寄生性の最たるものであると考えている。

 さて本題にかえって、このように八章は七章を起点として帝国主義の経済的諸特質が社会階級的特質とりわけ労働運動における諸特質をどのように規定してくるかを分析するのである。この分析の帰結は、再分割闘争の激化、帝国主義戦争のもとでの日和見主義のまったくの腐敗、その反動化であり、これに対する労働者階級一般の根本的利益の対立、矛盾の一そうの激化ということである。そしてこの帰結は、九章における日和見主義的帝国主義批判に対する批判に展開し、さらに一〇章において七章の純経済的規定が即自的に含むところの資本主義の過渡性ということとともに、帝国主義の歴史的位置、すなわち死滅しつつある資本主義という規定として総括されるのである。

 なおこの点については一〇章で改めて論ずるはずであるが、ここで簡単に触れておくならば、すでにこのゼミナールの第二講の一章の総括においても示唆しておいたように、本章の主題は、マルクスが『資本論』の「資本制的蓄積の歴史的傾向」において与えている資本独占にともなう労働者の反逆の増大という規定を一そう具体化するものであるが、ここでは、資本主義的独占そのものがより具体的かつ十全に分析されているのに対応して、労働者階級の反逆の増大ということもまたより具体的かつ十全となっている点に重要性があり、レーニン自身この主題に独自的な重要性を付していたのも故あることである。


〔第9章〕

本章の論理展開の大筋――段切りをどうつけるか(p.125-128)

原田●前の章で、帝国主義に固有な寄生性が一般的には帝国主義諸国のあらゆる社会的政治的諸条件のうえに、特殊的には労働運動の二つの主要な潮流のうえに、どのように反映しているかを見たが、この章では、この寄生性の基盤のうえで、社会の種々な階級が帝国主義に対してとる態度、とりわけカウツキーおよびカウツキー主義が帝国主義に対してとる態度を分析し、批判する。
 それでは、例によってまず庄司氏に、この章全体に段切りをつけ、併せてその理由について説明してもらおう。

庄司●ぼくは、九章全体を次の三つの段切りに区分する。
 第一段切りは、劈頭で表題の意味を確定している短いパラグラフと、それにつづく社会の二つの基本的階級の帝国主義に対する態度を一般的に規定している二つ目のパラグラフとを含む(177ページ〔国p.141-2/濤p.178-9〕)。第二段切りは、次のパラグラフ、すなわちブルジョア学者やブルジョア評論家たちの帝国主義に対する一般的態度を述べているところから、帝国主義に対するホブソンの基本的立場を述べているところまで(178〜181ページ〔国p.142-5/濤p.179-183〕)。第三段切りは、これにつづいて以下最後まで、帝国主義に対するカウツキーの態度を分析している部分で、この章の大部分を占める(181〜198ページ〔国p.145-159/濤p.183-201〕)。
 では、なぜこのように段切り区分したか、その理由を説明しよう。第一段切りでは、本章の表題である「帝国主義の批判」ということの意味を明らかにしたうえで、社会の基本的階級である所有者階級と労働者階級とが、帝国主義的イデオロギーとどのような関係にあるかをまず一般的に規定する。ついで、このような一般的規定のうえに立って、第二段切りでは、所有者階級のイデオロギーを代弁するブルジョア学者やブルジョア評論家たちの帝国主義に対する態度が簡単に分析され、そのなかでとくに帝国主義に反対する小ブルジョア的反対派の態度の分析を通じて、第三段切りへの分析視点が設定される。第三段切りでは、第一段切りで一般的に規定されたもう一つの階級的立場すなわち労働者階級の立場に立つカウツキーおよびカウツキー主義の帝国主義に対する態度が、さきに設定された分析視点に立って詳細に分析され、批判される。

原田●この章の大筋をどうつかむか、段切りをどのようにつけるかは、必ずしも簡単ではない。いくつかの異なった見解がありうると思う。が、結論的にいってぼくはいまの庄司氏の見解に賛成である。
 これに対する一つの有力な異論は、本章の全体を、庄司氏の報告では第二段切りの中ほどに当たるところ、すなわち、帝国主義の基礎を改良主義的に改変することが可能かどうかという帝国主義批判の根本問題を設定している箇所(179ページ〔国p.143/濤p.181〕)を境として、その前までとそれ以後とに大きく二つの部分に区分するという見解であろう。この見解は、本章の主題がカウツキーの帝国主義批判への批判にあるということを強く意識した大筋のつかみかたである。ここで大きく段切りをつける理由は、おそらく、ここで始めて明確な形で帝国主義批判における根本問題という分析視点が設定され、以下この視点に従ってカウツキーの帝国主義批判が詳細に分析され批判されていくのであり、これ以下が本章の本論をなすからだというのであろう。
 従って、この理解ではまた、ここの最初で簡単にとり上げられる小ブルジョア的反対派の態度は、カウツキー分析へのまったくの導入部分にすぎないものと解されることになるであろう。さらに、それ以前の部分は、いかなる意味でも帝国主義の批判ではなく、帝国主義の賛美あるいは追従について述べているにすぎない部分であって、本章の主題に対してはまったくの前置にすぎないとの見解に立つものであろう。
 しかしながら、レーニンの叙述の論理に即して理解しようとすると、この見解にはいくつかの無理な点があるように思われる。
 第一に、この見解は、その第一段切りのなかで、すべての所有者階級がこぞって帝国主義の側に移行しているということおよび帝国主義的イデオロギーは労働者階級のなかにも浸透しているということと、ブルジョア学者やブルジョア評論家たちが帝国主義を扱う態度とを均しく帝国主義に対する賛美あるいは追従として並列的にとらえることになるが、これは何としてもおかしい。この前二者は、直接的には、社会の種々の階級が、彼らの一般的イデオロギーとの関連において帝国主義の政策に対してとる態度という冒頭の限定をうけているのであって、この点を見落として、これらを単なる帝国主義の賛美の列挙としてしまってはならない。この二者はやはり庄司氏の理解したように、社会の基本的階級である所有者階級と労働者階級とが帝国主義的イデオロギーとどのような関係にあるかを一般的に規定したものとして、独立の部分をなすものと解すべきだと思う。

 第二点は、この見解の第二段切りの劈頭で設定される、帝国主義の基礎を改良主義的に改変することが果たして可能かどうかという帝国主義批判における根本問題というのは、実は、その前でなされているブルジョア学者やブルジョア評論家たちのうちで稀にしか見られないタイプである帝国主義のむきだしの弁護論者どもの帝国主義に対する態度についての分析をうけて導かれているのであって、このことの意味を十分理解していないという点である。この稀な帝国主義のむき出しの弁護者どもは、帝国主義の基礎を改良するなどということはできもしない相談で、あどけない願望にすぎないと公言してはばからない。しかるに帝国主義の小ブルジョア的反対派は、このあどけない願望を後生大事にかつぎまわっているのである。こぞって帝国主義の側に移行させられるすべての所有者階級のうちにも、種々な階級的相違があり、この相違が帝国主義に対する態度のこのような相違をもたらすのである。  そこでレーニンは、このような小ブルジョア的反対派の学者をも勿論ブルジョア学者としてとらえ、これに対して根本的に階級的立場を異にすべきカウツキーが、この帝国主義批判の根本問題をめぐってうえの小ブルジョア的反対派と同様な態度をとっていることを暴露し、批判していくことになる。これは帝国主義のイデオロギーが労働者階級の間にも浸透していることの一つの局面である。このように理解すると、段切りは、帝国主義に対するむき出しの弁護論者と、帝国主義に対する小ブルジョア的批判者との間に付すべきではなく、むしろ庄司氏の報告のように、ブルジョア経済学者に対してカウツキーはどのような態度をとっているかを問題にしてくるところで付すべきである。

 以上疑問とする第一の点と第二の点は互いに関連をもっているが、さらに第三点として、総括的に本章の表題の意義が問題になる。もしこの見解のように、カウツキーの帝国主義に対する態度の分析だけが本章の本論であるとするならば、九章の表題は当然「カウツキーの帝国主義批判」と題されて然るべきである。しかるに本章は「帝国主義の批判」と題され、しかもその意味をわざわざ社会の種々の階級が、彼らの一般的イデオロギーとの関連において帝国主義の政策に対してとる態度として確定している。この点からいって、この見解のいうカウツキーの態度を分析した第二〔三――引用者〕段切りだけが本論で、それ以外はまったくの前置きあるいは単なる説き起こしであるとする理解には根本的に賛成しえない。そしてここまでくると、問題は実は本章の理論的位置、すなわち八章の寄生性に対するこの章の理論的関連、さらには一〇章の歴史的地位に対する本章の総括的な問題とも結びついてくるのであるが、この点についてはあとで改めて論ずることになろう。

若干の問題点/本章の理論的位置――本章の総括的問題
●若干の問題点(p.136-138)

原田●レーニンの叙述の概要のあとづけについては、今の〔庄司氏の〕報告で十分だと思う。ここでは今の報告を補足する意味で一、二の問題点をとりあげるにとどめる。

 第一点。冒頭の一文で帝国主義の批判という標題の意味を確定している中で、「彼らの一般的イデオロギーとの関連において」という言葉があるが、これは勿論社会の諸階級がその階級的立場からして、本来的に持っているところの一般的なイデオロギーとの関連においてという意味である。だから次のパラグラフで、この観点から社会の基本的階級の帝国主義に対する態度を一般的に規定しているのである。そこで先ず、国内のすべての経済的諸単位が金融寡頭制の網の目の中にとらえられており、かつ他国の金融資本と激烈に闘争しているという状態のもとでは、本来的にはそれぞれ階級的利害及びイデオロギーを異にしているブルジョアジー、地主、小ブルジョアジー等の諸階級がすべて所有者階級として、こぞって帝国主義の支持者のがわにまわることになる。この点については、ヒルファディング『金融資本論』の二三章「金融資本と諸階級」がすぐれた分析を与えている。  これら一切の所有者階級からの熱狂的支持がこの時代の象徴となるわけであるが、しかしまた、とくに小ブルジョアジーの中からは、金融資本の圧迫のもとでその本来的イデオロギーと関連して、帝国主義の小ブルジョア的反対者があらわれてくるという局面も生ずるのである。他方これに対して労働者階級は、その本来的イデオロギーからして基本的には帝国主義の批判者であるが、前章で分析されたように、帝国主義に固有な寄生性はこの労働者階級の中にも帝国主義の支持者をみいだすことになる。「帝国主義イデオロギーは労働者階級の中にも浸透している」というレーニンの表現は、このように読みとるべきである。

 第二点。帝国主義に対するカウツキーの経済学的批判を分析しているところで、レーニンが、カウツキーやスペクタートルとまったく同様な帝国主義に対する小市民的な批判をひき出しているにすぎないにもかかわらず、ランスブルグを詳細に分析して、彼の貿易統計の扱い方がカウツキーやスペクタートルとは根本的に異なって科学的であることを高く評価している点にとくに留意すべきである。レーニンは、帝国主義の貿易問題に正しく接近するためには、輸出と金融業者の術策との関連だけをとくに、また輸出とカルテル生産物の販路との関連だけをとくに、別にとりだすことができるような貿易統計の扱い方をしなければならないとしている。カウツキーやスペクタートル流のやり方はむしろ普通に行なわれているところといえるが、ぼくらはレーニンが示したこの帝国主義における貿易統計の扱い方についての基準を銘記すべきであろう。

 最後に、これは問題点というほどのことではなく、ホブソンの書物をみればわかることであるが、国際帝国主義についてのホブソンの記述がカウツキーの超帝国主義の主張と並んで引用されており、かつまたその引用文がやや原文と違っているために、これがあたかもホブソン地震の主張であるかのごとく受けとれるかもしれないが、決してそうではなく、イギリスの坊主の偽善だとホブソンが評していることからも明らかなように、これは国際帝国主義に対するホブソンの批判的記述の一節なのである。

 問題点はこの程度にして、この章の理論的位置ならびにそれに関連してこの章の総括的問題を簡単にのべておこう。

●本章の理論的位置――本章の総括的問題(p.138-139)

 前章において、帝国主義に固有な寄生性がその国の社会階級的諸条件の上にどのように反映しているか、またとりわけ労働運動の二つの主要な潮流の上にどのように反映しているかが分析された。本章では、この分析を直接うけて、社会的政治的諸条件における寄生性が、社会の種々の諸階級をして帝国主義に対してどのような態度をとらしめるかが分析される。前章の重点が寄生性と労働運動における主要な二つの潮流との関係にあったごとく、ここでもまた分析の重点は労働者階級の帝国主義に対する態度の分析におかれる。そしてその際、すでに社会排外主義者にまで転落している日和見主義そのものの帝国主義に対する追従的態度は、もはや分析の主題とはならない。問題なのは、この労働運動の二つの潮流への分裂という一般的情勢の中で日和見主義と対決することをしないばかりか、これを弁護しこれと融合するに至っているカウツキーおよびカウツキー主義の帝国主義に対する態度である。

 前回および前々回ですでに述べてきたように、一〇章の「帝国主義の歴史的地位」に対して、七章はその客観的条件すなわち資本主義の独占的段階を規定するものであり、八章はその主体的条件、すなわち労働運動における日和見主義的潮流に対する労働運動の基本的潮流を規定するものであった。この主体的条件=日和見主義との対決は、本章の分析を通じて、直面すべき最も現実的な課題としてカウツキー主義との対決を不可避ならしめるものとして、一〇章の中に総括されていくのである。この意味で本章は八章の一そうの具体化である。そしてこれが本章の一〇章に対する理論的関連である。

 そこで本章のこのような理論的位置は、七章でのカウツキー批判の意義と本章での批判の意義とをおのずから異ならしめている。七章では純経済的理論的観点からの批判が中心であったのに対し、ここではすでに労働運動の基本的な分裂とその対決という基盤の上に立って、政治的実践的観点からカウツキーの演ずる客観的役割が分析、批判される。分析の対象は、カウツキーが帝国主義に対してとっている態度である。さきに七章の中で「カウツキーの定義は単に誤りであり、非マルクス主義的であるだけではない、それはマルクス主義理論ともマルクス主義的実践ともあらゆる面で絶縁しているもろもろの見解の全体系の基礎として役立つものであるが、このことについてはなお後で述べる」(150〜1ページ〔国/p.120、濤/p.151〕)といわれていたことが、ここでまさに果されるわけである。


〔第10章〕

本章の論理展開の大筋をどうつかむか――本章の段切りをどうつけるか(p.140-141)
原田●今回は、『帝国主義論』の最後の章である一〇章の「帝国主義の歴史的地位」を勉強する。すでにみたように、七章において、一章から六章までの帝国主義の経済的諸特徴を総括して、帝国主義とは資本主義の独占段階であるという純経済的概念に立脚した帝国主義の第一の根本規定を与え、ついで八章において、この純経済的な性格が帝国主義の社会経済的ならびに政治的諸条件の上に寄生性という帝国主義に固有な特質を生み出すことを明らかにし、帝国主義とは、寄生的な腐朽化しつつある資本主義であるという第二の根本規定を与えた。そして九章は、諸階級の帝国主義に対する態度、とりわけカウツキーのこれに対する態度の分析を通じて、八章の第二規定を一そう具体化した。本章は、この七章および八章(九章)の二つの帝国主義に関する根本規定を総括して、帝国主義とは死滅しつつある資本主義であるという、帝国主義の歴史的地位に関する第三の根本規定を与えるのである。いうまでもなく、これが『帝国主義論』の結論をなすわけである。それでは例によって庄司氏に、この章全体に段切りをつけ、あわせてその理由を簡単に説明してもらおう。

庄司●ぼくは全体を次の三つの段切りに区分する。
第一段切りは、冒頭から、独占の四つの形態を述べたのち、独占資本主義のもたらす矛盾の先鋭化こそ歴史的過渡期の最も強力な推進力であると述べているところまで(199〜201ページ〔国p.159-161/濤p.202-204〕)。第二段切りは、これにつづいて帝国主義の寄生性について述べ、帝国主義との闘争は、それが日和見主義との闘争と結びついていないならば全くの空文句にすぎないとしているところまで(201〜203ページ〔国p.161-164/濤p.204-208〕)。第三段切りは、以下最後までであって、帝国主義を死滅しつつある資本主義として規定している部分である(203〜207ページ〔国p.164-166/濤p.208-211〕)。
 この段切りの理由はきわめて簡明である。すなわち、第一段切りおよび第二段切りは、それぞれ七章および八章の中心的命題をここに再述し、第三段切りでは、これを総括して帝国主義の歴史的地位を確定しているからである。

原田●この章の大筋はまったく簡明であって、今の報告に何もつけ加えることはない。おそらくこれについての異論もありえないと思う。


いくつかの問題点/総括――本章の理論的位置
●いくつかの問題点(p.146〜149)
  〔この中見出しは元文にはない。編集ミスによる欠落と思われ、引用者の判断で付加〕

原田●各段切りの内の叙述の概要のあとづけについては、今の〔庄司氏の―引用者〕報告でよいと思う。が、若干補足する意味でいくつかの問題点をとりあげてみよう。

 第一点。第一段切りで、自由競争の基盤の上にそこから成長する独占は、資本主義制度からより高度の社会=経済制度への過渡であると述べたのにつづいて、ここで特に注意しなければならないこととして独占の四つの主要な姿態をあげてくるわけであるが、なぜここで、いわばこと新しく独占の四つの姿態をあげたのか、その論理的意味についてである。これは単に自由競争から成長する独占ということが述べられたので、その独占の主要な姿態をあげておくというだけのものではない。庄司氏の報告にもあったように、この第一段切りは、七章の第一規定にもとづいて独占が資本主義制度からより高度の社会=経済制度への過渡であるという点をとくにとりあげているのである。独占の過渡期性の基本的な内容は、すでに一章以来の分析に示されてきたように、独占のもとでの生産の社会化とその矛盾の激化(第三段切りで「変化しつつある社会的生産関係」と呼ばれているもの)である。ここではそのことが直接表現されてはいないけれども、自由競争を基盤としてそこから成長する独占は資本主義制度からより高度の社会=経済制度への過渡であるというのは、もとよりこのことを内容としている。ここで独占の主要な姿態がとくにあげられてくるのは、このような観点からであり、これらの独占の主要な姿態を通じて独占の過渡期性をなす生産の社会化とその矛盾の激化を明らかならしめようとしているのである。ここでの独占の四つの主要な姿態が、七章の帝国主義の五つの基本的標識と若干異なっているのも、このような観点から来ているのである。
 
 第二点。第二段切りの最初のパラグラフで、腐朽の傾向は資本主義の急速な発展を止揚するものではなくて、資本主義は全体としては一そう急速に発展するが、この発展は一般にもっと不均衡になるばかりでなく、また特に不均等は資本の最も強大な国の腐朽のうちにあらわれると述べている箇所が、やや意味がとりにくいように思われる。この意味は、資本主義のこの急速な発展は一般に以前よりも一そう不均等に行なわれるのだが、そればかりでなく、また特に最も富裕な国の腐朽化においてこの不均等が特徴的にあらわれてくるというのである。換言すれば、腐朽化が不均等発展の特殊的な要因をなすという意味である。そして、そういう国としてイギリスがあげられるのである。
 他方、これと対照的に急速な経済的発展をみつつある国としてドイツおよびアメリカがあげられるが、これらとてもまさにその急速な経済発展の結果としてすでに寄生的特徴を明白に示すようになっているというのが、これにつづくパラグラフへの展開である。ところでその中で、急速な発展をとげたドイツは、より富裕な国から必ずしも平和的な手段だけによらずに奪取すべき植民地をもっと平穏に領有するというのは、庄司氏もそう解釈しているように、資本輸出や国際カルテル等による経済的分割を意味し、従ってまたそのことによって、ドイツの寄生的性格が形成されつつあるという意味である。
 
 第三点。これにすぐつづくパラグラフ、すなわち帝国主義と日和見主義との結びつきを述べているパラグラフの最初の方で、独占的高利潤によって労働者をその国のブルジョアジーの側にひきつける経済的可能性が、世界の分割をめぐる帝国主義諸国の対立の激化によって一そう強められるとあるが、これは前に八章でホブソンを引用して、軍需産業およびこれに依存する諸産業の反映がその労働者を帝国主義の側にひきつけることを述べていたと同じことを意味する。
 やはり同じパラグラフの後半の部分、すなわち日和見主義についての楽観論を批判しているところの叙述はややわかりにくい叙述であるが、庄司氏の理解したのでよい。つまり、マルトフ等の議論というのは、もし発達した資本主義が日和見主義を強化させ、最も高給を得ている労働者が日和見主義に傾くというのなら、資本主義反対者たちの事業すなわち革命は望みないものとなってしまうであろうが、そんな馬鹿げたことが起こりえようはずがないというのであって、これによって日和見主義の害悪を過小評価し、日和見主義の隠蔽に役立つことになる。だから日和見主義に対する楽観論なのである。ところが実際には、日和見主義は独占資本主義の急速な発展とともに急速に強化されていくのである。しかもこの日和見主義の急速な強化は、決して日和見主義の永遠の勝利を保障するものではなく、それどころかちょうど腫物のように発展がはやければはやいほどそれが腐敗し、つぶれて治療することもまたはやまるのである。だから日和見主義が強化すれば資本主義反対者たちの事業が望みないものになるという馬鹿げたことはまったくないが、しかしこの過程で最も危険なのは、帝国主義に対する闘争はそれを日和見主義に対する闘争と結びつけないならまったくの空文句にすぎないことを理解しようとしない連中(カウツキー主義者たち)の存在だというのである。
 
 第四点。第三段切りの冒頭で、帝国主義の経済的本質について以上述べたすべてのことから、帝国主義は死滅しつつある資本主義として特徴づけられねばならないという結論が出てくるといって、第一段切りおよび第二段切りをともに帝国主義の経済的本質として一括していることについてである。これまでぼくらが七章は純経済的概念に立脚した規定、八章はこの規定を基礎にしてそこから導かれた社会階級的および政治的性格に関する規定というふうに述べてきたことからすれば、一見奇異に感じられるかもしれない。が、八章の規定はもともと七章の規定のさらなる具体化であり、独占資本主義から必然的に成長、発展してくる寄生性の経済的本質、そしてそれの社会=政治的条件への反映としてとらえられているのであって、そのとらえ方はあくまで経済的本質という視点からなされているのである(この点、同じテーマを扱ってはいても、『帝国主義と社会主義の分裂』では分析の視点が八章とはやや異なって、むしろ政治的側面自体におかれている)。だからここでは八章の寄生性にかんする規定を帝国主義の経済的本質のうちに包括しうるのである。
 叙述内容についての若干の問題点の説明はこの程度にして、最後に総括的な問題としてこの章の理論的位置を述べてしめくくりにしよう。
 
●総括――本章の理論的位置(p.149)

原田●すでにしばしば述べてきたように、一〇章は七章および八章――九章によって一そう具体化された――の総括であり、『帝国主義論』全体の結論である。帝国主義は過渡的な、もっと正確にいえば死滅しつつある資本主義だというのが一〇章の規定であり、その内容は、「変化しつつある社会的生産関係」ということである。

この「変化しつつある社会的生産関係」は、一方客観的条件である独占のもとでの生産の社会化とその矛盾の激化、他方主体的条件であるこれにともなう労働の社会化と労働者の反逆の増大の両方を包括している。前者については、一章から六章にわたり各局面に即して具体的に分析されてきたものが七章において総括されている(一章ですでに与えられた独占の過渡期性は、ここでさらに六章までの全展開をふまえた上で与えられる)。他方、後者すなわち労働者の巨大な協業組織への集積、これを土台とする労働者階級の訓練、組織および反逆の増大については、八章において帝国主義に固有な寄生性、労働運動における日和見主義の潮流とこれとの対決――九章における日和見主義と対決しないカウツキー主義との対決――という最も具体的な懈怠においてとらえられている。

この七章における客観的条件と八章(および九章)における主体的条件とがこの章で「変化しつつある社会的生産関係」として総括され、これが「死滅しつつある資本主義」を規定するのである。ここに、『帝国主義論』が『資本論』の「資本制的蓄積の歴史的傾向」における規定を直接受けたものであるという『帝国主義論』の理論的性格(これについてはこのゼミナールの第一講で述べた)が端的に示されている。レーニンにおける最も重要な発展は、独占の分析が帝国主義に固有な寄生性にまで、そしてまた労働運動における分裂と対決にまで具体化され、これによって資本主義の死滅性が最も具体的に規定されていることである。