〔参考文献〕
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カール・コルシュ
ジェルジ・ルカーチ『レーニン:その思想の脈絡についての試論』

*『インターナツィオナーレ』誌 1924年7月21日号/野村修・訳
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アンダラインは元文の傍点強調部分



 レーニン主義の基本的な諸問題が、ルカーチの新著の主題をなしている。そして同志ルカーチは、驚嘆するほどに簡潔に、わずか七〇ページで、じつに単純明快なことばをもちいながらじつに深く根底的に、すべての基本問題を解明することができた。レーニンの理論と実践を特徴づける本質的な根本思想はプロレタリア革命のアクチュアリティーの思想であり、これが同時に「レーニン主義」のカール・マルクスの理論と実践への関係を規定している。マルクスの歴史的唯物論がすでにプロレタリア革命の理論であって、プロレタリア革命の世界史的なアクチュアリティーを前提としていた。カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが一八五〇年以後にも堅持していたこのマルクス主義の根本的前提を、あれこれの流儀で(ベルンシュタイン流に、あるいはカウツキー流に)おしかくしたのは、亜流たちにすぎない。レーニンはこの前提をふたたび取りあげてマルクス理論を「再建」するとともに、マルクス以降の歴史過程の進展を取りいれることによって、その理論をいっそう明確に具体的に把握した。マルクス主義におけるプロレタリア革命の世界史的なアクチュアリティは、レーニン主義において、労働運動の当面の問題としての革命のアクチュアリティとなった。これとともに、プロレタリア運動の過去の時期には有効性をもった改良主義的・メンシェヴィキ的理論、資本主義の発展が「必然的に」民主主義に結びつくとする理論は、現在の資本主義的・帝国主義的時期にかんしては虚偽の観念となった。「事実が証明しているように、資本主義ならびに帝国主義はいかなる政治形態をとっても発展し、あらゆる政治形態を征服する」(レーニン)。したがってわれわれは現在、「人民」という曖昧な概念のもとで「進歩的」なブルジョワ諸層とプロレタリアートが無定型に繋がり合うことを、理論面でも実践面でも、きっぱりと終わりにしなければならない。理論でも実践でもプロレタリア階級は、決定的な勢力として、指導的な階級として登場しなくてはならぬ。

 だからといってしかし、われわれがいまや「純粋なプロレタリア革命」の時代に入った、というわけではない。プロレタリアートは(農業問題や植民地問題や民族問題において)、帝国主義・資本主義世界体制の内部で分解し発酵している諸運動、純粋なプロレタリア革命の水準よりも下にあるあれらの諸運動のすべてを、軽視し排斥することはできない。「純粋な社会主義運動を期待する者は、けっしてそれを経験しないだろう。彼らはことばの上だけの革命家にすぎず、真の革命を理解していない」(レーニン)。プロレタリア階級は、むしろ現在の現実の革命の全過程にたいして、指導的な階級である実をしめさねばならぬ。革命の全過程のなかでは、プロレタリア革命が圧倒的・支配的な要因をなしており、あれらの諸運動――抽象的に見れば、中世的・前資本主義的状態から近代資本主義的状態への移行を完成するにすぎない運動――は、レーニン主義の具体的・歴史的見地から見て、この全過程のたんなる部分的要因になっている。だから、ロシアでのプロレタリアートと農民の革命的同盟や、共産主義インターナショナルでの万国のプロレタリアと被抑圧諸民族の革命的同盟をつうじて、現在の世界革命の指導的階級としてのプロレタリア階級のヘゲモニーは、変質したり弱体化したりするどころか、かえって具体的・実践的な現実性を高めている。このような「革命のアクチュアリティ」の思想を基本に据えなければ、「党の役割」のレーニン主義的概念も、またレーニン主義のすべての組織問題も、十全には把握されえない。「政治問題を組織問題から機械的に切り離すことはできない。われわれがプロレタリア革命の時代に生きているか否かという問題との関連を抜きにして、ボルシェヴィキの党組織を肯定したり否定したりする者は、この党組織の本質がまるっきりわかっていないのだ」(レーニン)。そういう関連を考えてはじめて、組織は革命的大衆運動の所産だとするローザ・ルクセンブルクの考えが、一面的で不十分なことがわかる。資本主義の没落期がプロレタリアートに課する巨大な任務は、プロレタリアートの意識的な指導層に巨大でアクチュアルな責任を負わせる。プロレタリア階級を指導する役わりを意識的、積極的ににないとるべき「共産主義者」たちは、革命を指導するというかれらの任務を果すために、プロレタリアートを指導し組織する革命党として、じぶんたち自身を組織し規律づけなければならない。革命がアクチュアルなものであればこそ、プロレタリアートがその階級的状態に真に応じた思考と行動を、はっきり目に見えるかたちで、指導的なプロレタリア党――一国規模の共産党と、それらが国際的にまとまった第三インターナショナル――として、眼前にすることが肝要なのだ。レーニン主義の国家理論が正しく把握されうるのも、まったく同じ脈絡からである。レーニンは闘争するプロレタリアートの当面の問題として国家問題を位置づけ、この闘争における武器としての国家の実体を具体的に明らかにした。

 ブルジョワ国家は、純粋に民主主義的であっても少数者支配の組織である(この組織は、支配階級であるブルジョアジーを終結させて一体にまとまった行動がとれるようにすると同時に、被抑圧階級を分断し散りぢりばらばらにさせることを、その機能とする)が、これにたいしてプロレタリアの「労働者評議会(ソヴィエト)」は、その初期のもっとも未発達な形態においても、本質的にプロレタリアによる対抗政府としての性格をしめしている。したがって、アクチュアルなプロレタリア革命の党であるレーニン主義党は、この労働者評議会を――それが冗談ならぬほんものの存在であれば、存在するだけですでにそれは国家権力をめぐっての真剣な闘争を、内戦を、無条件で意味するのだけれども――プロレタリアートのなかで絶えずプロパガンダしなくてはならない。プロレタリア階級が勝利すれば、労働者評議会は国家機構として、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの武器として、実体的に完成する。ブルジョアジーは、評議会(ソヴィエト)共和国の初期においても、経済的には強制収用を受け政治的には抑圧されていても、なお依然として優勢な階級だから、勝利したプロレタリアートは自己のもっとも重要な武器をもって、つまり国家組織としての評議会体制という武器をもって、かれらを制圧し解体し、孤立させ壊滅させなければならない。――権力獲得後にも、レーニンが再建し具体化しアクチュアルにしたマルクス主義の歴史的弁証法は、いまやアクチュアルとなった社会主義の経済問題その他の問題に、首尾一貫して適用されつづける。ルカーチの小冊子の最終章は、主としてこの適用法をレーニンの「革命的な現実政策」として論じている。

 この見地から見ると、日和見主義的社会主義者やブルジョア政治家がここ三年間のボルシェヴィキの政策のなかに発見したと信じ込んでいる数かずの「矛盾」は、たんに外見上のものにすぎず、すべて解消する。機械的な硬直した思考、弁証法的でも革命的でもない思考をもってしては理解しようもないことだが、それらの「矛盾」は(ボルシェヴィキが「資本主義へ後退」したのちにも従来の党の構造を少しも変えずにいることや、ロシア・プロレタリアートの国家が帝国主義列強と和を講じてロシアの経済建設に帝国主義資本の力を借りようとつとめているとき、同時にボルシェヴィキが世界革命を準備し組織する任務を堅持していることや、ソヴィエト共和国が経済政策のうけから農民との同盟が緩まぬように大いに気をつかっているとき、同時にプロレタリア党がイデオロギーの純化と組織の強化に精力的にとりくんでいること、等々は)、現在の時期の客観的な矛盾、現に在る矛盾なのであって、ロシア共産党=レーニンの政策が外見的に矛盾をふくむのは、社会的現実の客観的矛盾への弁証法的に正しい対応を探索し、発見していればこそなのである。レーニン主義の実践上の個別問題のすべてを、このように唯物論的・弁証法的方法という基本問題に還元するならば、レーニン主義を唯物論的弁証法の発展における新しい段階と呼ぶことがどういう意味で正当であるかも、同時にわかってくる。レーニンは、俗流マルクス主義が浅薄に歪めたマルクスの理論を、純粋なかたちに「再建」しただけではないのだ。むしろレーニン主義は、図式的でも機械的でもなくて具体的な、はっきりと実践への方向性をもった唯物論的・弁証法的思考ならびに行動の、これまで到達されたことのなかったひとつの段階を意味する。このマルクス=レーニン主義の理論と実践の水準に世界の共産主義運動を保つこと、これがレーニン主義者の中心的な課題である。

 ここでは抽象的かつ不十分にしかスケッチできなかったが、同志ルカーチは、本質的なレーニンの思想の脈絡についてのかれの研究をこの点まで推し進めたことによって、コミンテルンの現在の課題にとってこのかれの研究がもつ直接のアクチュアリティをも、同時に証明している。かれは、目前の共産主義インターナショナル第五回大会の日程の第一項目をなす「レーニンとコミンテルン。レーニン主義の基礎とそのプロパガンダについて」の問題への、重要な寄与をなしとげた。この寄与はもっぱら理論的であり、一般的・方法的な研究に慣れていない多くの読者にとってはおそらく「あまりに理論的すぎる」箇所を多く含んでいる。しかし共産主義者たるものは、「理論もまた大衆を捉えるやいなや物質力になる」と語ったカール・マルクスにくみするべきである、とわれわれは思う。


野村修:編訳『カール・コルシュ政治論集 危機のなかのマルクス主義』(れんが書房新社、1986年)、p.47〜52
〔文中いくつか改行を入れました――引用者〕