わが党の在外支部会議が「ヨーロッパ合衆国」というスローガンの問題を、この問題の経済的側面が出版物のうえで討議されるまで延期するよう決定したことを、われわれは『ソツィアル−デモクラート』第40号で報道しておいた〔全集第21巻、137ページ〕[*1]。
[*1] 「ロシア社会民主労働党在外支部会議」(国民文庫『社会主義と戦争』所収)
われわれの会議では、この問題についての討議は、一面的な政治的性格を帯びていた。そういうことになったのは、おそらく、いくぶんかは、中央委員会の宣言[*2]のなかでこのスローガンが政治スローガンとして(「当面の政治的スローガンとして……」と、そこには述べてある)はっきりと定式化されていたためであろう。しかも、共和制的ヨーロッパ合衆国ということが提起されているばかりでなく、「ドイツ、オーストリア、ロシアの君主制を革命的に打倒しないでは」、このスローガンは無意味であり、偽りであるということが、とくに強調されていた。
[*2] 「戦争とロシア社会民主党」(前同)⇒[資料室]
このスローガンの政治的評価の範囲内では、問題をこのように提起することに反対するのは――たとえば、このスローガンは社会主義革命のスローガンをかげにおしやるか、よわめるなどという見地から――まったく誤りである。真に民主主義的な方向をめざした政治的改革は、まして政治革命は、どんなばあいにも、どんなときにも、どんな条件のもとでも社会主義革命のスローガンをかげにおしやったり、よわめたりすることはありえない。反対に、政治革命はつねに社会主義革命を近づけ、その基盤をひろげ、小ブルジョアジーと半プロレタリア大衆との新しい層を社会主義的闘争に引きいれるのである。また他方では、政治革命は、社会主義革命の過程では避けられない物である。この社会主義革命は、一回の行為と見てはならず、あらしのような政治的および経済的な震撼、もっとも激烈な階級闘争、内乱、革命と反革命の一時代と見なければならない。
しかし、共和制的ヨーロッパ合衆国のスローガンが、ロシアの君主制を先頭とするヨーロッパの三つのもっとも反動的な君主制の革命的打倒に結びつけて提起されるばあい、それは政治的スローガンとしてはまったく非難の余地のないものであっても、なお、このスローガンの経済的内容と意義という、きわめて重要な問題がのこっている。帝国主義の経済的条件、すなわち、「先進的」「文明的」な植民地領有国による資本の輸出と世界の分割という見地から見れば、ヨーロッパ合衆国は、資本主義のもとでは、不可能であるか、あるいは反動的である。
資本は、国際的となり、独占的となった。世界は、一にぎりの大国のあいだに、すなわち、諸民族を大がかりに略奪し抑圧することに大成功をおさめている強国のあいだに、分配されてしまった。ヨーロッパの四大国、すなわち、人口二億五000万から三億、面積約七〇〇万平方キロメートルにのぼるイギリス、フランス、ロシア、ドイツは、ほぼ五億(四億九四五〇万)の人口と、六四六〇万平方キロメートルの面積、すなわち地球(極地をのぞいて、一億三三〇〇平方キロメートル)のほぼ半分を占める植民地をもっている。これに、「解放」戦争をおこなっている強盗ども、すなわち日本、ロシア、イギリス、フランスによっていまやばらばらに引き裂かれている中国、トルコ、ペルシャという三つのアジア国家をくわえてみたまえ。半植民地(実際には、いまでは一〇分の九までは植民地である)と呼ぶことのできるこのアジアの三国家には、三億六〇〇〇万の人口と、一四五〇万平方キロメートル(すなわち、ヨーロッパ全体の面積のほぼ一倍半)の面積の土地がある。
さらに、イギリス、フランス、ドイツは、七〇〇億ルーブリをくだらない資本を国外に投資している。このまんざらでもない金額からの「正当な」小収入――毎年三〇〇億ルーブリ以上にのぼる小収入――を取得するために、陸海軍をそなえ、「億万長者氏」のご子息や兄弟を、総督、領事、対し、あらゆる種類の役人、僧侶その他の吸血鬼として、植民地と半植民地に「配置する」、政府と呼ばれる億万長者たちの全国委員会がご用をつとめている。 資本主義が再考の発展をとげた時代には、一にぎりの大国による約一〇億の地球人口の略奪は、このように組織されている。そして、資本主義のもとでは、これ以外の組織は不可能である。植民地、「勢力範囲」、資本輸出を放棄すべきだというのか? そういうことを考えるのは、日曜ごとにキリスト教の偉大さを金持ちに説教して、……毎年数十億ルーブリとまではいかなくとも、せめて数百ルーブリを貧乏人に施すようにすすめる坊主の水準に落ちることを意味する。
ヨーロッパ合衆国は、資本主義のもとでは、植民地の分割協定に等しい。だが、資本主義のもとでは、力のほかに、分割の基礎、分割の原則はありえない。億万長者は、比例によるほかは、すなわち「資本に応じて」分けるほかには(しかも、巨大資本が当然の取り分以上に受けとれるように、割増づきで)資本主義国の「国民所得」を他のだれかと分けあうことはできない。資本主義とは、生産手段の私的所有であり、生産の無政府性である。このような基礎のうえで所得を「公平」に分配するように説くのは、プルードン主義であり、小市民や俗物の愚かさである。「力に応じて」分けるほかには、分けようがない。ところが、力は、経済的発展がすすむとともに変化するものである。一八七一年以後に、ドイツは、イギリスやフランスよりも三―四倍も急速に強くなった。日本は、ロシアよりも一〇倍も急速に強くなった。資本主義国の実力をたしかめるためには、戦争よりほかの手段はないし、またありえない。戦争は、私的所有の基礎に矛盾するものではなく、そういう基礎の直接の、避けられない発展である。資本主義のもとでは、破壊された均衡をときどき回復する手段は、産業における恐慌と政治における戦争のほかにはありえない。
もちろん、資本家のあいだや、列強のあいだの一時的な協定は可能である。この意味では、ヨーロッパの資本家の協定としてのヨーロッパ合衆国も可能である。……なにについての協定か? どのようにして共同でヨーロッパの社会主義をおさえつけ、かきあつめた植民地をどのようにして日本とアメリカにたいして共同でまもるかということについての協定にすぎない。日本とアメリカは、こんにちの植民地の分割状態のもとでは非常な不利をこうむっており、しかも、老年のためにくさりはじめた、おくれた、君主制的ヨーロッパよりも、この半世紀のあいだにはかりしれないほど急速に強くなった。アメリカ合衆国にくらべると、ヨーロッパは全体として、経済的停滞を意味している。現代の経済的基礎のうえでは、すなわち資本主義のもとでは、ヨーロッパ合衆国は、アメリカのいっそう急速な発展をおさえるための反動の組織を意味することになろう。民主主義の大業と社会主義の大業とがヨーロッパとだけ結びついていた時代は、またとかえらない過去となった。
世界(ヨーロッパでなく)合衆国は、――共産主義の完全な勝利が、民主主義国家をふくめて、あらゆる国家を最後的に消滅させるまでは――われわれが社会主義に結びつける国家形態、諸民族の連合と自由のための国家形態である。だが、独立のスローガンとしては、世界合衆国というスローガンは、おそらく正しくないであろう。第一に、それは社会主義と合致するからであり、第二には、一国での社会主義が不可能であるというまちがった解釈と、そのような国と他の国々との関係についてのまちがった解釈を、生みだすおそれがあるからである。
経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国家で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である、という結論が出てくる。この国の勝利したプロレタリアートは、資本家を収奪し、自国に社会主義的生産を組織したのち、他の資本主義世界にたいして立ちあがり、他の国々の被抑圧階級を自分のほうに引きつけ、それらの国内で資本家にたいする蜂起をおこし、必要な場合には、武力に訴えても搾取階級とその国家に反対して行動するであろう。プロレタリアートがブルジョアジーを打倒して勝利を獲得するばあいの社会の政治形態は、民主的共和制であろうが、この民主的共和制は、まだ社会主義に移行していない諸国家にたいする闘争のなかで、当該民族または諸民族のプロレタリアートの力をますます集中していくであろう。被抑圧階級の独裁、プロレタリアートの独裁がなければ、階級を廃絶することは不可能である。もろもろの社会主義共和国が、おくれた諸国家にたいして、多かれすくなかれ長期にわたってねばりづよくたたかわなければ、社会主義のもとでの諸民族の自由な連合は不可能である。
ロシア社会民主労働党在外支部会議の席上と、その会議後とに何回もこの問題を審議した結果、中央機関紙編集局は、まさに右のような考慮にもとづいて、ヨーロッパ合衆国のスローガンは正しくないという結論に達した。
(了)
旧版『レーニン選集』第5分冊、p.179-182
附●ヨーロッパ合衆国のスローガンについて
――ロシア社会民主労働党中央委員会の戦争にかんする宣言への
『ソツィアル−デモクラート』紙編集局の注釈
中央委員会の宣言が提出したヨーロッパ合衆国という要求――ロシア、オーストリア、ドイツの君主制の打倒の呼びかけを伴うところの――は、このスローガンに対するカウツキーその他の平和主義的な解釈とは異なるものである。
わが党の中央機関紙『ソツィアル−デモクラート』第44号には、「ヨーロッパ合衆国」というスローガンが経済的に正しくないことを論証した編集局論文がのっている。これは、植民地や、勢力範囲など個々の国のあいだにぶんかつされているときに世界経済の計画性が打ちたてられることを予想した、資本主義のもとでは実現不可能な要求であるか、あるいは、植民地をいっそううまく抑圧し、またより急速に発展しつつある日本とアメリカから略奪するための、ヨーロッパの諸大国の一時的な同盟を意味する反動的なスローガンであるか、どちらかである。
1915年8月末に執筆1915年に小冊子『社会主義と戦争』(ジュネーヴ)に発表
『レーニン全集』第21巻、p.354
【選集解題】
1915年2月27日〜3月4日にスイスのベルンでひらかれたロシア社会民主労働党在外支部会議で「ヨーロッパ合衆国」というスローガンが提起された。この最後的決定がこの論文である。このスローガンはすべての国での同時的革命を意味するものと解釈されるおそれがあるが、レーニンはここで、資本主義の経済的・政治的発展の不均等の事実をあげ、これからして一国における社会主義の勝利の可能性という重要な結論をひきだした。この結論は、帝国主義時代の社会主義革命、さらに一国における社会主義建設についての重要な寄与であった。これが、十月革命後に資本主義と社会主義の二つの体制の共存の必然性の根拠となったことはいうまでもない。
〔紹介者コメント〕
上記「解題」は、フルシチョフ「平和共存」路線に立つ「一国社会主義論」の典型的な解釈。これが注目したのと同種の記述は、翌年の著作「マルクス主義の戯画と『帝国主義的経済主義』とについて」にもはっきり看て取れるが、この戦時期のレーニンとボルシェビキ党の戦略スローガンは、広く知られる「帝国主義戦争を内乱に転化せよ!」であり、それは「すべての交戦国における内乱」=ヨーロッパ連続革命の展望に立つものであったこと、同時期のあらゆる関連著作が明瞭に示している(たとえば同年9月〔ツィンメルワルド会議前後〕執筆の「ロシアの敗北と革命的危機」)。この時期のレーニンの革命認識を理解するには、「社会主義への接近の多様性」の認識と「ヨーロッパ連続革命」の展望とを統合的に把握することが不可欠だが、両者を切断した上で前者にのみ着目し、これを「一国社会主義の可能性」に“再解釈”したのがフルシチョフ主義であった。
こうした解釈は、戦争と革命の激動の状況認識を、相対的安定期1950年代後半の国際政治に投影し引き寄せたものとして、それ自身の歴史的な意味をもっている。日本ではこの考え方は、1960年前後の日本共産党内反主流派(後の旧構造改革派)が継承した。当時「中ソ論争」が表面化しつつあるなか、「反米独立」路線の立場から中国共産党側に傾斜していた日本共産党主流はこれに同調していない。他方、第一次ブントはじめ新左翼系は、「体制間矛盾」論を排し階級対立を前面に押し出す「世界革命」論の立場をもってこれに対立した。しかしその「世界革命」論が、往時のレーニンの革命認識の統合的把握に至っていたかどうかは、また別の問題であろう。少なくとも当時の議論が、上のレーニン論文の重層的な論理構成ともつれた糸をほぐしていくような叙述展開に比べて、ひどく粗雑なものであったことは否めない。
だが、この論文から「1960年前後」まで45年、それからまたさらに同じ時間が過ぎ去った今、問題はそのような旧時代の路線論争の次元にはすでにない。
もともと「ヨーロッパ合衆国」のスローガンは、各国危機を汎ヨーロッパ的に解決しようとする伝統的なアイデアであり、その物質的根拠はなによりハプスブルク王朝−オーストリア・ハンガリー帝国の統治構造にあった。それを「全ヨーロッパ同時革命」の展望に繰り込もうとする志向が呼んだ路線論争がレーニン論文の背景にほかならない。
西欧とロシアの中間地帯をなすいわゆる「中欧:ミッテル・オイローパ」は、ヒルファディングやオットー・バウアを生む「オーストロ・マルクス主義」の政治社会的背景であり、若きルカーチの精神形成の土壌であり、第一次大戦に向かう政治過程の主舞台であり、開戦前のレーニン、マルトフ、トロツキーなどの主な活動舞台でもあった。そしてまた、89年ベルリンの壁崩壊の直接の契機となった旧東独住民の(ハンガリー経由での)西側への脱出劇も、ハプスブルク朝末裔の演出になるものであった。マルクスの見た「ウィーン会議」と「神聖同盟」のウィーンから第一次大戦と革命、そして映画「第三の男」描く第二次大戦後の荒廃を経て、戦後期の「東西対立」に押し隠されたかにみえた「中欧」は、東西冷戦の重い幕が引き裂かれたところからふたたび浮上し、独仏枢軸とならぶ欧州統合軸をなすに至ったということができる。
ハプスブルク朝政治文化とヨーロッパ社会主義との重なりは、貧農出身の社会主義者レオポルド・ペツネックと結婚した“赤い皇女”エリザベート・マリー・ヘンリエッテ・シュテファニー・ギーゼラの生涯が劇的に象徴している。塚本哲也『エリザベート』(92年、文藝春秋社刊)は、ヨーロッパがくぐり抜けたひとつの「時代」の息遣いといったものを奥行き豊かに伝えている。かつての亡命革命家たちがその息遣いをどのように感じ取ったのか、反発も共感も含めてそれは彼らの故国での革命に影響を及ぼさざるをえなかったにちがいない。
「帝国主義の経済的条件、すなわち、『先進的』『文明的』な植民地領有国による資本の輸出と世界の分割という見地から見れば、ヨーロッパ合衆国は、資本主義のもとでは、不可能であるか、あるいは反動的である」。「ヨーロッパ合衆国は、資本主義のもとでは、植民地の分割協定に等しい」。「現在の経済的基礎のうえでは、すなわち資本主義のもとでは、ヨーロッパ合衆国は、アメリカのいっそう急速な発展をおさえるための反動の組織を意味することになろう」(レーニン、選集第5分冊、p.180-1)。
90年前このようにイメージされた「ヨーロッパ合衆国」は、今や「スローガン」でもイメージでもなく、巨大な官僚機構と統一通貨を持つ統合EUとなって地球の一角に姿を現わし、現代世界の一極をなしている。「資本主義のもとでは、不可能」では決してなかった。ではそれは「反動的」な存在だろうか? 85年「市場白書」からマーストリヒト条約に至る過程を主導したのが社会民主主義だったことはどうみればいいのか。あるいは「アメリカのいっそう急速な発展をおさえるための反動の組織」だろうか? もしそうなら、それがアメリカ主導による戦後欧州復興計画「マーシャルプラン」に起点を持つことはどう説明されるだろう? そしてまた、この欧州統合がソ連「社会主義」の崩壊と仏伊はじめ欧州共産党の解体を促進した直接的契機であったことはどう評価されるべきか? そもそもこの統合EUを基礎づけている今日の資本主義とレーニンの認識にあった資本主義とは、果たして同じ論理で動いているものなのだろうか?
ここには、20世紀末の世界史の回転が浮き出している。この歴史の回転は突然のものではなく、第二次世界大戦から胚胎し60年代後半に全面化してきたものである。「平和共存」路線に立った旧ソ連共産党もそれを「修正主義」だと批判した中国共産党も、「体制間矛盾」論を共にすることによって、この世界史の転位を捉えることができなかった。そのキーワード、それは「国家」だ。それら「スターリン主義」に対する批判から出発し、60年代に露呈する政治社会的矛盾を基盤に展開した新左翼も、歴史認識においてその限界を自覚的に超えたとはいいがたい。70年以後の自壊過程も擬似スターリン主義への回帰も、その歴史認識の貧困と無縁ではなかったはずだ。そして、ここでもまた蹉跌は「国家」であった。今、21世紀のとば口にあって“『帝国主義論』を国家論として読む”視軸の意味もまたそこにある。
牛丼が消えた「建国記念の日」に/鬼薔薇