●レーニン 素人の読み方=鬼薔薇
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〔1〕 敬意と視線
〔2〕 歴史と日付・1
〔3〕 歴史と日付・2
〔4〕 「レーニン主義党組織論」?
〔5〕 まなざしと問いかけ
〔6〕 「左翼的党派性」の現在
〔7〕 脇道・1
〔8〕 脇道・2

※中断しておりますが、とりあえず掲載しておきます。
続きがいつになるかはわかりません。(^^)ヾ

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〔1〕 敬意と視線 03年8月18日(月)

これは、読書会とは別建ての「読書ノート」。「対話」を旨とする報告やコメントと区別するため「書き言葉」にしてみた。ひとつしかない掲示板を使い分ける小さな工夫のつもりだけど、個人的な「ノート」という性格からもこのほうがいいのかもしれない。
取り上げるのは、元共産党員文学者・故中野重治の『レーニン 素人の読み方』。今度『帝国主義論』を読むにあたって、ぜひ参照したいと思った。「読み方」ということに少し意識を向けたいと考えたためだ。わたし、この著者を生前から漠然と尊敬していた。古武士のようなオールド・ボルシェビキの相貌を思い描いてきた。「党派性」とは別の次元で、若者中心だった新左翼にみられぬ練れた知性の持主と思われた。あるいは意識下にひそむファーザー・コンプレクスの現れかもしれないけれど(苦笑)。

出てすぐ買ったままろくに読まずにしまい込んでしまって、探し出すのもけっこう骨だった。奥付を見ると発行は 1973 年 12 月だから第1次石油危機勃発の直後、物価高騰に突然の用紙不足が重なって出版界が大揺れを始めた時にすべりこみで出たのだろう。四六版並製約 300 ページで 900 円という値付けもそんな事情を思わせる。「列島改造」と土地投機、ニクソン、田中角栄の訪中と対中国交回復、ドル兌換停止と変動相場制への移行、パレスチナ・ゲリラの耳目衝動と日本赤軍のアラブ行き、「よど号」ハイジャック、連合赤軍事件と殺人内ゲバの全面化、そしてOPEC「石油戦略」発動と狂乱インフレ、それに続く戦後初のマイナス成長と失業・倒産・社会不安、……「戦後」が丸ごとひっくりかえるような騒然たる世情に質素な装丁で送り出された本だった。手にとってみるとこの30年という時間が掌にじっと伝わって来る感じもする。売り払わずにおいてよかった、と思う。

それにしても、マルクス・レーニン主義党で中央委員の地位にあった古参党員がいまさら「素人」とはなにごと! 何をもって「素人」を自称するのかと最初のほうを覗けば、「文学として、また文学者として」読む、とある。革命政治家の著作を「文学」として読む? 枯れた巨匠の趣味仕事なのかとつい敬遠し、ごたぶんに漏れず激変していた生活環境のなかで放り出したのだった。それでも何度か引越しを繰り返しながら手許に残してきたのは、敬遠の「敬」のほうは変わらなかったためだろう。新左翼の無残な分解と陰惨な無限対立を目の当たりにして、戦前以来の共産主義運動へ視線を向けかけたこと、60年代急進派学生運動のなかでのレーニン読みに「理論」以前の問題を感じていたことも、働いていたと思う。

この本が出た後、新左翼評論家・長崎浩がなにかの雑誌に「レーニン 玄人の読み方」とかいう評論を書いていて、それにひどい反発を感じたのを覚えている。あてつけみたいなタイトルからして厭味で、新左翼エリート特有の“軽薄な傲慢さ”を嗅ぎとったのかもしれない。それより前だったと思うが、吉本隆明が竹内好を評して、毛沢東の「実践論」「矛盾論」など哲学書として読んだら噴飯ものだが、竹内にはあれが中国の民話のように読めるのだろう、自分にはとてもそのようには読むことができない、という趣旨のことを書いていた。それは、60年安保では激しく対立した竹内氏に対する思想家としての敬意だったはず。吉本・中野というと「転向論」が有名だが、吉本氏は文学者として中野重治にも敬意を抱いていたにちがいない。60 年東大ブントの長崎には、その類の敬意というものが感じられなかった。

『帝国主義論』は、知られるとおり亡命先のスイスで書かれた。いったい当時のレーニンはどんなふうに暮していたのか、衣食住や健康のこと、図書館通いから政治生活まで含めて、ペンを取っていた著者の気分や息遣いのようなものをなんとか感じ取れないものだろうか。「事実関係」なら評伝・伝記にあたればいいし、それはそれとして重要だろう。ソ連崩壊で公開された新資料を利用したものも出ている。だが書き手の気分や息遣いとなると、こちらの「読み方」、つまり感性や視点、視線の向け方が問われる。それは事実関係の「知識」とは別のもので、中野の本を参照したいわたしの動機は、むしろこちらにある。

あまりこんなことに気を回していると、テキスト解読の軌道を外れてあらぬ方へ彷徨って行きそうな予感もなくはないが、ま、それも一興というノリで、テキストと並行して読んでいこうと思う。お目障りの向きはどうぞスキップしてくださいますよう。もちろんコメントいただけたら嬉しく存じます――と、なぜかここだけいつもの鬼薔薇調(笑)。


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〔2〕 歴史と日付・1 03年8月30日(土)

それにしてもこの『素人の読み方』という本はいかにも奇妙なつくりに思える。奇妙というのが適当でなければ、読者にひどく不親切と言おうか、収録されたものの書かれた時期と背景がひどくあいまいなのだ。少しそこにこだわってみよう。

全体は、「はじめに」から「うしろ書き」まで計11篇、「はじめに」が序文で「うしろ書き」がいわゆる「あとがき」とすれば本来の中身は9篇ということになる。「うしろ書き」には、「ともかくこれを私はここで一冊にする」「私はこれを長いことかかって書いた」とあるから、いろいろなところに書いたものを後で集めてできた本であることは明らかだ。こういう場合、それぞれの初出を明記し、本にする段階で加筆や削除や訂正を加えたならそのことも記して、その本の成立事情を読者に伝えるのが普通だろう。ところがこの本にはまずそれがない、「はじめに」も「うしろ書き」も触れていないし、別記もされていない。それはやはり奇妙としかいいようがない。

ずさんなつくり方をしたとは思えない。そもそも中野重治という人が、ただの寄せ集めでそそくさと一冊“でっち上げる”ような書き手だったとは思えないし、版元の筑摩書房もそんな本づくりをする出版社ではない、――というだけではない。著者自身が本文中で、レーニンの党が会議の議事録を大切にしていたことを丹念に跡付けてその意義を述べ、それに比べて日本共産党の場合は、議事録や決定集に「日付がない」ことを批判しているのだ。

「日付なしには、共産主義者、非共産主義者ともども、どうして具体的にあれらの決定をしらべて納得することができるだろう。どうして、日付当時の客観的条件に照らしあわせて、これこれは正しくこれこれは誤っていたと判断することができるだろうか。つまりそれを真に読み、そこから真に学び、こうしてそれを実践的に今日発展させることができるだろうか」(p.17)。

抑えた表現ながら内容は実に手厳しい。これは「はじめに」の次に来る「レーニンと私小説」と題された章(というかパート。章番号はない)に出てくる文章だが、ではご自分のこの本はいったいなんですか?と、冥界の著者に文句のひとつも言いたくなる。

この本の成立事情の一端は、ちょうど中頃まで来てやっと明らかになる。といっても別のものからの引用なのだけど。

「『文献』または『文学』」という8番目のパート冒頭に、「『素人の読み方』という雑文を私が書いてから大分になる。あれを私は 1955 年 7 月から 60 年 3 月へかけて、途中で切れはあったが5年近くもかかって書いた」とあって、「それが私の『全集』第17巻にはいったときその巻末に書いた」というその文の引用でようやく初出が示される。とりあえず関係する部分だけ引き抜いてみる。

「これは日本訳『レーニン全集』の月報『研究のしおり』に載せたものである。日本訳全集は最近完結した。翻訳者たちの苦労や出版者大月書店の努力は私には想像することもむつかしい。またこういうものは、はじめからそうそう売れるものでもない。そこで何かの足しにということもあって、何でもいいから『研究のしおり』に書けという話があって私もついその気になり、畑がちがうものだから最初から恐縮の気持ちでこれを書いた。そこで、いくらか厭味にひびかぬか恐れもしたが『素人の……』という題にしたのでもあった」(p.117-8)。

これで、このパートの前まで、つまりこの本の「前半」部分が元々の「素人の読み方」だったことはわかる。でもそれは、本全体の成立事情の説明にはならない。「前半」についても完全とはいえない。それぞれのパートの書かれた時期は特定されないからだ。『しおり』では「十巻ばかり出たあとから書きはじめ、第35巻でしまいになったと思う」とのことだから、「途中切れがあった」にせよ20回分くらいにはなったのだろう。とするとその何回分かで本のパートひとつになっているはずだが、それもこれだけの説明ではわからない。

なぜこんなことにこだわるのか、次はそれを少し。


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〔3〕 歴史と日付・2 03年9月15日(月)

本書の「前半」がそもそもの「素人の読み方」だった、それは日本版『全集』の月報に連載したものだった――それはわかった。だが、前半の7つのパートが元の何回目と何回目の分なのか、それぞれは何年何月に書かれたものかは依然不明、後半3つのパートについては初出・時期いずれもまったく不明、というのがこの本なのだ。そう思って読み返すと、最初の「はじめに」も、いったい本書全体の「前書き」なのか、全集月報連載の書き出し部分なのかわからなくなる。日付もなく内容からして、どうも後のほうらしく思えるが、そうだとするとこの本は、何の説明もなくいきなり「本文」が始まっていることになる(「うしろ書き」のほうは、73年10月と「日付」が付され著者の署名もあるので、普通の「あとがき」として読めるけれど)。

「後半」の初めに当たる「『文献』または『文学』」が書かれた時点は、本文中に「『未完』としてあれ〔=月報連載「素人の読み方」の〕最後の分を書いてから11年してその続きを書くことになった」とあるので、「最後の分」が 1960 年だったというから、1971 年の執筆であったこと、「うしろ書き」が 73 年 10 月だから、最後のふたつのパートはその間に書かれたものであると確かに推定できる。つまりこの本の「前半」は 1955〜60 年に、後半は 1971〜73 年に書かれ、それが一冊にまとめられたものということになる。

日付にこだわる理由、それは上の時間帯そのものにある。この時間帯はひとつの歴史なのだ。

日本版『全集』の刊行が進んでいた50年代後半は、戦後日本共産党の歴史の中で例外的に自由な空気が党内にあった時期だったことを、石堂清倫氏がどこかで書いていたと思う。全集の月報『研究のしおり』が第35巻の分で打ち切られたという 1960 年初めは、それがかなり怪しくなって宮本執行部の統制が強まった時期に当たる。中野は「〔全集〕翻訳者たちの苦労」とさりげなく書いているが、全集刊行委員会の中心メンバーだった石堂氏はこの頃党内反主流派(俗にいう「構造改革派」)に属しており、翌 61 年の第8回党大会で離党する。その後も全集の翻訳業務には関わっていたようだが、たぶん党主流の白眼視のなかでの仕事だったにちがいなく――国民文庫版『帝国主義論』の訳者との確執もその一環てではなかったろうか――、石堂氏と親しかった著者はそのあたりの事情をよく知っていて、それを上の「苦労」のニ文字に込めたのだろう(もしかすると途中から月報に何か書くよう中野氏に求めたのも石堂さんではなかったろうか)。

「前半」最後の「1922 年末の『覚え書』について」は、権力を一手に集中しつつあった書記長スターリンへの批判を病床で口述した、いわゆる「レーニンの遺書」を扱ったもので、それを収録する全集の巻はまだ出ていない時、石堂氏たちが『全集』に先駆けて出した『選集』のテキストに拠って書かれた。この時期レーニンのスターリン批判をことさら取り上げることは、党中央への批判を滲ませるものであったことは疑えない。書き手はそのつもりでなくとも党中央はそう勘繰ったにちがいない。月報『研究のしおり』がそこで打ち切られたのもそれと無関係だったとは思いにくいものがあり、このあたりの記述がどこか屈折しているのもそのためかもしれない、……と読むほうも妙に勘繰ってしまう。

その中野も、1965 年に党を離れた。そして11年の中断をはさんで「後半」を書いた 70 年代はじめといえば、「新日和見主義」派粛清で党内覇権を完成させた宮本執行部が、「マルクス・レーニン主義」から「科学的社会主義」に衣替えして原典の用語改竄に手を染めた時期だった。「暴力革命」は「強力革命」に、「プロレタリア独裁」の「独裁」は「ディクタツーラ」に、さらには「執権」に、と。また「あさま山荘事件」では党長野県委員会が長野県警に感謝状を出すという愚劣なこともやっていた(というのはこの本ではじめて知った)。この「後半」は、押さえた筆致ながらそうした党の文化イデオローグたちとの論争文になっている点、「前半」とはまったく性格が異る。

こうしてみてくると、一見控えめな書名と質素な装丁のこの一冊には、ひとりの誠実な共産党員が歩んだ年月の苦さが刻み込まれていることがうかがえる。執筆時点と初出という書誌的なことがらにこだわるわたしの理由、とりあえずそんなところにある。


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〔4〕 「レーニン主義党組織論」? 03年10月26日(日)

中野書に収録された文章の初出時点にこだわる理由は前回述べた。それにしても、各収録稿の初出を明記するという、本づくりとして当然の(と思うのだけど)手続きが取られなかったのはなぜなのか、どうしても腑に落ちぬものが澱のように残る。個々の文章の執筆時期なら、あるいは『中野重治全集』に当たれば確認できるのかもしれない。でもそれを確かめたところで、この腑に落ちなさが消えるわけもなさそう。とりあえず疑問は疑問としておいて、思いつくことを2,3書き留めておこう。

まず『レーニン全集』のこと。大月書店で出た日本版の底本はスターリン時代に企画・刊行された「第4版」で、決して完全な『全集』ではないことは早くから知られていた。フルシチョフ時代になって新しく「第5版」が旧ソ連で出る(1958〜1965 年)。『帝国主義論』収録巻は、第4版ベースの日本版では第22巻だが、第5版では第27巻というから、初期〜中期の著作もかなり追加収録されたのだろう。日本版の第39巻が分厚い『帝国主義論ノート』だが、この「ノート」さえ、ブハーリンやトロツキーへの言及などソ連政権に具合の悪い部分は削られているとか――それを“レーニン殺し”を意図した現日本共産党議長不破哲三が暴露しているというのも皮肉な話だが(『レーニンと「資本論」』第4巻)、このあたりの事情を、党直系の新日本出版社から出た『帝国主義論』新訳の「解説」で知らされるというのも「苦笑」ものというほかない。それでも、古書ながら『全集』が一応“全訳”で入手できるなんて、「翻訳天国」日本ならではのことだろう。

もうひとつ、前にも触れた組織の会議議事録や決議集のこと。中野はレーニンの党の風習に比べて日本共産党が会議議事録など組織文書で自らの活動を点検する面でひどく劣っていたことを鋭く指摘しているが(p.17)、その点では新左翼各派などお話にならぬありさまだった。わたしが近くでみていた第2次ブントなど、そもそもまともな「議事録」や「決定集」などつくったのかどうかさえあやしく、仮にあったところで誰もそんな文書をまじめに読んだり、いわんやそれを元に議論したりした様子は感じられない。およそ組織文書というものを共通規範や基準にする雰囲気がなかったと思う。機関紙誌上には「レーニン主義」の文字が繰り返し踊ってはいた。だが、それはまさに踊り叫んでいただけで、組織の実態はレーニン的「党」からまるでかけ離れた分散的な有様だったように思う。「党」というより「党にあこがれた活動家の集団」以上でも以下でもなかったというのが妥当なところではなかったか。
共産党流の厳しい組織統制に比べたらそんな“だらしなさ”がメンバーにはかえって救いだったかもしれず、あるいは独特のダイナミズムを生んだのかもしれず、ことの善し悪しを簡単には言えぬようにも思うけれど、少なくとも60年代急進派学生運動の世界でレーニンそのものが「理論」として、また「指針」としてまともに受けとめられていたとはとても思いにくい。いわんやレーニン理論で組織をつくったなどということはなかったにちがいない。だとすれば、その学生運動を基盤にした政治党派が党派抗争で露呈した陰惨さの拠って来る所以を「レーニン主義党組織論」に求めるような考えもまた、歴史の現実に照らしておよそ見当ちがいなものではないだろうか。むしろ、当時の指導部がせめてレーニン「党組織論」の爪の垢でも煎じて呑んでいたら、そして『一歩前進二歩後退』のような「論争」の基準を多少なりとわがものにしていたなら、もうちょっとはまともに歩み、エネルギーの浪費を避けられ、もう少しは何かを遺せたろうにと――中野の「レーニンと私小説」という一文を読みながら――少し(いや、かなり)残念に思う。死児の歳を数えても意味がないとすれば、そんな歴史をどう受けとめるのか考えるほかはない。


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〔5〕 まなざしと問いかけ 03年12月10日(水)

中野重治はレーニンが重病下に口述した「覚え書」に注目し、『全集』収録に先立って「1922年の『覚え書』について」を書いた。それから10年ほど経ってモシェ・レヴィンの研究『レーニンの最後の闘争』が訳出され、こちらのほうは(さらにぐっと時期遅れながら)新左翼系でも注目する人も現れたが(たとえば生田あいなど)、それより遥か早くに日本でなされた中野の仕事は果たして読まれたろうか。外人研究者の著作は敬意を払って読むけれど、日本人の、それも共産党関係者の、しかも文学者の書いたものなど目にも入らなかったというなら、これまたひどく寂しい話に思える。

わたし自身、この「覚え書」=「大会への手紙」を若い頃に(中野と同じく『選集』で)読み、スターリンは「粗暴」、トロツキーは「行政官的」とかの人物評に興味を惹かれはしたものの、上のような寂しい偏見から自由だったわけでは決してない。中野の書いたものに直接触れることもなく時間は過ぎ、中野も、中野を直接知っていたお師匠さんたちも、すでにこの世にはいない。その時の流れを噛み締めつつ今レーニンを「読む」とはどういう営みなのか、書き遺されたものと対質しながら考えていこう。

『帝国主義論』の文献引用をみると、多くが同時代の、あるいは出たばかりのものとわかる。レーニンその人は、いつも目の前の現実を鋭くみつめていたはずだ。誰よりも親しかったマルトフとの訣れ、“インタナショナルのパパ”カウツキーの「権威」への反逆、ロシア・マルクス主義の「師父」プレハーノフとの訣別=自立、そして「ボリシェビキ〔多数派〕」とは名ばかりの小集団の同志たちとその役立たずぶり、遠い故国から伝えられる運動の苛酷な現実と亡命革命家のあいだでの神経をすり減らす抗争、そんなものに悩まされては体調を崩し時折グチをこぼし、それでもそうした現実に面と向きあいながらギリシャ古典哲学からヘーゲルに至る「哲学」を独りで学び直してもいたひとりの中年男。中野重治もまた、そんなレーニンへのまなざしをもって自身の現実と向き合って生き、そして死んでいったのだろう。では今お前たちは? と中野は問いかけてくる――そんな声が聞こえてきそうな今年のお盆だった。“迎え火”も“送り火”もしたわけではないけれど、すぐそばまで来ていたように感じたところをみると、わたしの「唯物論」もあまりアテにはならぬらしい(苦笑)。

今わたしたちがその中に生きる現代の資本制は、レーニンが眼前に見たものと同じではありえない。1世紀近くもの時間、恐慌・戦乱・革命・技術革新などいくつもの大きな節目、そんなものを経て変わらぬわけがない。その変化を捉えなければ「視る」ことにならないし、その変化を作り出し生き長らえてきた今日の資本制と拮抗すべき道筋を探り当てることもできはしない。「帝国主義の本質は変わらない」といって古典作品の記述に安住したがるのは、レーニンその人の精神から隔たること遠い怠惰と保守の心情だろう。対極には、「変化」の目覚しさに幻惑され、その変化に「乗る」ことだけを追い求める「現実追随主義」が泥沼のように広がる――「地を這う現実主義」とレーニンが唾棄したものが。それが大小の世俗権力への誘惑や利権の旨味やつまらぬ自己保身や自閉的懐古の心性と結びつくのもまた世のならいではある。そのあたりを読み解くキーワードは、……「流れ」、そして「夢」だろうか。

 ♪シュプレヒコールの波通りすぎてゆく 変わらない夢を流れに求めて
  時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者たちと たたかうため

全共闘とは世代を異にするけれど、彼らの好んだ唄のひとつは今も耳に響く。「現実」の中での夢と、その「現実」を超え出ようとする夢と、同じ「現実」に根差したふた種類の「変わらない夢」がせめぎ合う。そのズレの根拠を「今」に探り当てられなければ……。レーニンよりも中野重治よりも、現実そのものがわたしたちに問いかけてくる――この「現在」をどう視る=捉えるのか、と。問われているのは、対象像よりも方法と姿勢、つまりはまなざしなのだ。


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〔6〕 「左翼的党派性」の現在 03年12月31日(水)

前回、例の「遺書」に触れてこう書いた――「外人研究者の著作は敬意を払って読むけれど、日本人の、それも共産党関係者の、しかも文学者の書いたものなど目にも入らなかったというなら、これまたひどく寂しい話に思える」と。

中野重治は誠実な共産主義者であり、忠実な共産党員だった。65年離党後は党の文化官僚と論争しながら、その論争文をまとめた書物の「うしろがき」にもなお、「私は……日本共産党を重く見ている。私は日本共産党が実力上大きくなるのを望んでいる」と書いた中野であった。新左翼からすれば、そんな中野の「誠実さ」もスターリン主義党に対する「忠実さ」の一面にすぎず、その中のリベラル派としてリゴリストの党主流から区別されるだけと見られるかもわからない。「党派性」の準位でいえば、わたしにもその感覚ははっきりある。けれども、そうした「党派性」が果たしてどれほどのものであるか、あったのか……と振りかえってみるだけの価値さえないのか、少し考えをめぐらしてみても無駄ではないだろう。

反スターリン主義左翼の主流をもって任じた中核派の原典解説テキストの一冊に、島崎光晴『レーニン「帝国主義論」』(98年刊)がある。全文「ます」調の文体からして“初級学習”用という位置にあるのだろう。新左翼系にこの種の「学習」系出版物というのはあまりないように思うし、それをシリーズで出すところ、さすが革共同とも思う。「はじめに」で、読者に注意が促されている。@内容をたんねんに読むこと、引用を軽視せずしっかり読むこと、要するに“レーニンにとことん接近して読む”こと、A検閲を考慮しないで書いたらどうだったかを考え、他の論文などから補強すること、Bレーニンの内容を継承・発展させること――なるほどそれぞれもっともにちがいない。その最後の「まとめ」=「レーニン帝国主義論の継承のために」は次のように結ばれている。

「いまや戦争と大恐慌・大失業の時代、戦争と革命の時代が始まっています。今後の大激動にくらべるなら、それはまだ始まったばかりにすぎません。ついに、レーニンの革命的な理論と実践をよみがえらせる時がやってきたのです。レーニン帝国主義論とレーニン主義革命論を真に継承し発展させえた者だけが、世界プロレタリア革命に勝利できるのです。だから、私たちは必ず勝利します」。

最後の「だから〜」を別にすればすらりと読み通せぬこともない文章だけれども、どこか気になるものが漂っている。たとえば次の文章と比べてみよう。

「現代資本主義の基本的経済法則は、最大限の利潤を要求して新しい世界戦争に突入している。平和をまもり新しい世界戦争に反対してたちあらわれている強力な人民勢力が成長した今日とても、戦争の不可避性はなくなってはいない。……『平和をまもる』中心勢力は、第一次世界戦争にレーニンがしめした教訓を正しく把握してこそ、こんにちの国際情勢と当時のそれとの差異を十分こころえて、今日の平和をまもる勢力の先頭に立ち、厳重な警戒心と弾力性とをもってたたかいうるであろう」(国民文庫『第二インタナショナルの崩壊』巻末「解説」)。

1953年に出て以後版を重ね絶版となったもの、文責は「国民文庫編集委員会」。朝鮮戦争期の共産党主流派のイデオロギー的記録と読んでいい。半世紀後の島崎本「まとめ」には、これと瓜二つの響き、同じような匂いが感じられる。いずれにあってもレーニンは、時を超越した偉大なる真理の体現者のようではないか。ところで、時を超えた真理の体現者とは「神」でなくて何だろう。「いかなる真理といえどもそれが成り立つ条件を超えて主張されるときは誤謬となる」とレーニンは言った。そのレーニンの言説を、何十年たとうとと変わることなく正しい「真理」に祀り上げるのは、「反レーニン主義」ではないのか? “誉め殺し”という言葉が思い浮かぶ。「神格化」とは実は“誉め殺し”――作り上げた神像の陰に自己を温存したい保守的な心性の作用であり、「左翼的党派性」はこうした心性に根深く囚われてきた。「スターリン主義反対」のロゴマークをおでこに貼りつけてみても「スターリン主義」から自由になるわけではないし、「レーニン」神像に悪魔を見出し呪詛してみても、神格化の呪縛は裏返しに絡みついてくる。そんな観念の転倒・再転倒の全体がまとめて廃棄物処理されつつあるのが、苛酷な歴史の現在ではないのだろうか。


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〔7〕 脇道・1 04年2月29日(日)21時17分10秒

中野本に「封印列車始末」という章がある。もちろん2月革命勃発で急遽帰国するレーニンが乗った、あの有名な「封印列車」にまつわるエッセイで、陰影に富んだ叙述から考えさせられること少なくないけれど、ここでは脇道に逸れたことを書きとめておこう。  

 レーニンが“敵国”ドイツの用意した特別列車で帰ったところから、レーニン=ドイツスパイ説が敵陣営から流布されたことはよく知られている。中野はここで、レーニンがドイツ帝国主義に買収されるなどありえぬことの「確信」を、幾重にも重ねられた論理と心情との織り成す襞目の間から滴り落ちる雫を掌で受け止めるような筆致で書き綴っていて、革命・内戦を経て本人がこの世を去ってから30年以上も経った時代(この部分の執筆時期は1958年)になぜまたそんな手間のかかることをと思うけれど、どんな状況認識で誰に読ませようとしていたのかと想像をめぐらせてみると、この文の綴り具合の奥行きが見えてきそうに思う。でも今書こうとするのはそのことでもない。中野はそこで自説の「証拠」を出そうと、当時(石堂清倫に教わって)入手したというドイツ語の文献資料に話が及んだところで、文章が突然変調をきたしている、そこに顔を出している問題なのだ。  

 当の文献名ははっきりしている――『1917年レーニンのロシア帰国 ドイツ文献』というもので、ウェルナー・ハールウェヒという人が解説・発行した資料集なのだが、中野はそこではたと立ち止まって「引用ができぬ」という。顔をしかめたような文章をみよう。  

 「ハールウェヒの本そのものもここでちょっと紹介しておきたい。といって、実は私はそれをまだよく読んでいないので、つまり私は、ろくに読んでいないままであの『伝説』の嘘は『十分にも十二分にも明らかに証拠だてられている』などと今書いたわけである。その点うしろめたさを感じるが、一つには、オランダ、ライデンのブリルというのがしたたかな調子で著作権をかかげていて、読みこなせぬながら何で私が『証拠だてられている』と書く気になったか、そこを引用によって説明することができぬという厄介な事情にあることを了解していただきたい。『全件保留、出版者じきじきの許可の墨付なきかぎり、この書のいかなる部分も、いかなる形においても、印刷、写真印刷、マイクロフィルム、その他いかなる手段をもってしても、複製または翻訳することを許さず。』としてあるのだから仕方ない」(p.85-6)。  

 “ろくに読んでいないままで”なんてウソに決まっている(笑)。旧制大学の戦前左翼が共通してドイツ語に堪能だったことは常識で(大西巨人『神聖喜劇』の引用参照)、中野が“読みこなせぬ”わけがない。しかも大マジメな中野のこと、きちっと読んだ上でこう書いたに決まっている。ここで彼は、これが意図的な嘘だと読者に読ませたかったにちがいないとわたしは「読む」。これは、「著作権」なる制度の理不尽さに対する精一杯の抗議表明ではないのか。

   文学者・中野は文筆で生きる者として、「著作権」そのものを公然と否定したり無視したりするわけにはいかない“厄介な事情”にある。その「縄目」を勝手にはずすわけにはいかない。だが――だがこれは、他ならぬ『レーニン全集』に添えられる「しおり」に書いたものだ。そして、当の『全集』原書は、実は「著作権」の外にあった。それが「ソ連社会主義」の「社会主義」たるゆえんのひとつでもあった。そのあたりの事情も中野はよくよく知っていたはずだ。その狭間での苦悩、というと大げさかもわからないが、ひどい不愉快さ・不自由さを、このわけのわからぬ文章は伝えようとしたのだと「確信をもって」(中野)いいたい。「奴隷の言葉」を強要するのは、専制政治ばかりではなかったのだ。


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〔8〕 脇道・2 04年2月29日(日)

出版物が「著作権」の外にある――それが「ソ連社会主義」の「社会主義」たるゆえんのひとつ、「私有財産制」廃止の一歩、旧「社会主義」諸国はみな同じと思い込んでいたら、実はそうではなかった。ポーランドはしっかり「著作権」制度を維持し、国際協定に加わっていた。それと知らずにポーランドの本を翻訳・出版しようとして、印刷・製本も済みあとは出荷、という段階で「待った」がかかり、でき上がったばかりの本を泣く泣く断裁処分にせざるをえなかった例を知ったときは驚いた。すぐ後に別の出版社が同じ本の翻訳を「合法的」に出したが、装丁も訳文も断裁された「海賊版」のほうがずっと優れている印象だった。実は当の本、「海賊の歴史」だった――というオチまでついている(笑)。  

 ポーランド本のことはどうでもよい。とにかく旧ソ連の出版物は「著作権」無縁、翻訳・複写おかまいなしだったはずだ。それどころか、「マルクス・レーニン主義」の世界布教として積極的に奨励され歓迎されていたことだろう。全集の訳出も「国際共産主義運動の偉大な任務」に位置付けられていたにちがいない。つまりビジネスではなくて運動。当然大月書店も、ソ連の国立版元に翻訳権料など払ったはずがない。いわんや旧ソ連崩壊の後、かつて出されたものの翻訳(たとえばロシア語版全集第5版を底本にした翻訳)など、契約しようにも、相手の版元がすでにこの世に存在しないのだから、「翻訳権料」に関するかぎり“丸儲け”のはずである。  

 そこで卑近な疑問に至りつく。かつて大月書店や青木書店などが出し、今は絶版(事実上の絶版を含む)となっているマルクスやレーニンその他の古典著作を複写し公然と頒布したらどうなるのか? マルクスであろうがレーニンであろうが、その内容がいかに「私有財産制の廃棄」を謳っていようが、翻訳権料がタダであろうが、商業出版物は商業出版物であり「版権」は厳として存在する、したがってそうした行為は民法の「財産権の侵害」に当たるだろう。だが、版元が絶版にしたという事実は? もちろん翻訳者も了解の上でにちがいない。つまり彼らにとってそれはすでに「商品」たることを止めている。では今、いったい「侵害」されるに値する「財産」はどこに残っているのだろう?

 ふたつ思い浮かぶことがある。ひとつは(旧ソ連などと同じく)国際著作権協定に加わっていなくて「海賊版天国」といわれた台湾の出版事情。日本の漫画本やテープ類だけではない。一度観光旅行で訪れた高雄の町の書店には、イギリスで出た海事関係書のリプリント版がズラリと並んでいた。店主に聞くと、価格は原書の1割以下で、貧しいアジアの船員が寄港してはそれを購入し、勉強して上級の資格を取るのだという。ほのぼのする話だった。もうひとつは、ストールマンらの「GNUマニフェスト」。ソフトウェアは「著作権」の対象か「工業所有権」の対象かで文化庁と通産省が争ったが、ソフトの「違法コピー」はあいかわらずやかましい。ストールマンらはこれを不合理として自分たちの作品の「コピー自由」を宣言した。「コピー・ライト」に対する「コピー・レフト」という(右と左の)対比もあざやかに、ソフトウェアは社会的公共財なのだというさわやかな宣言だった。今それはLINUXに体現されている。「情報化」は「私有財産制」の一角をあきらかに突き破りつつある――かくいうわたし自身は依然として「窓」枠に閉じ込められているけれど(恥笑)。  

 マルクスやレーニンの古典的著作もまた、いや、あれらこそ、世界の民衆に遺された「公共財」そのものではないのか。大月、青木などかつての左翼出版社は、その「公共財」を資本制社会のなかに流布することを使命としていたはずだ。それが現に商品として流通するかぎり、その「使命」を理解して、万引きなどせずお金を払って買うのは、左翼として当然のことだった。だが彼らがその「使命」から撤収し、かつての出版物を絶版にした今、残されたものを複製し流布することが果たして「犯罪」を構成するのだろうか? 商業出版社である以上、「いえ、けっこうです。どうぞどうぞ」と公然とは答えにくいかとも思う。だが、かつての「使命」の意義まで忘れてはいないのなら、絶版品についてはその非営利の複製・流布を黙認せよ、と「民衆」の名において要求しても別に理不尽ではないだろう。まあ、今はまだ多くの絶版本が古本市場に比較的廉価に出回っているようだからいいけれど(笑)。