検討素材

当苑[談話室]その他で提供されました素材的なものをここに収録しておきます。

1 内ゲバ手記・1〔中核派〕
2 内ゲバ手記・2〔革マル派〕
3 女性解放グループ声明〔第四インター〕


■内ゲバ手記・1〔中核派〕

「対革マル戦についての回想」(ポイントの抄録)
【提供者コメント】------------------------------------------------------
以下の、もと中核派と思える方の対革マル戦についての回想は、現在も「あの戦争は正しかった」と言う観点にたつもので、私も当時の実感としてはそうだったろうなと思えるものですが、どう思われますか(これはレトリックではなく、問いとして)。

「対革マル戦についての回想」、出典
http://iwaki.main.jp/
写真家の岩木登氏のホームページのプロファイルにありました。マル共連で紹介したら、いくばくもなく消滅しました。かなりの差しさわりがあったものと推察します。ただ、彼も誰かが読むであろうことは覚悟して書いたのでしょうが・・・

なお「中核対革マル」の「法大会戦」参照

(浪花節は好きですが・・(続き) 投稿者:すえいどん 投稿日: 〔06年〕5月 6日(土)19時23分39秒、他)
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>やはり党の指導者であったH書記長の死は大きかったと思う。□◯派のテロで暗殺されたのであるが、そのニュースを聞いたのは党本部の書記局の部屋であった。それはもうかつて味わったことのないようなショックを受けた。党本部は3階建てのビルであったけれど、建物全体が静まり返って重苦しい雰囲気に包まれたようだった。歯をくいしばって眼に涙をうかべる者もいた。H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サンリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。また、彼は、機関紙やビラなどでは難解な言葉使いをことさら批判し平易な文章を心掛けろと口をすっぱくして言っていた。ほかのサヨクと言えば難解な言葉を書き連ねてそれが知的であるかのような時代にである。70年闘争で組織破防法が発動されいよいよ危ないかという時でも党の主要な政治局メンバーがさっさと地下に移動したのにほんとは一番危ない彼が最後まで残った。また党が彼に最強の防衛隊をつけようとした時拒否されたとも聞いた。遠く離れて防衛上も安全なところから指導すべきだという意見にもがんとして拒否されたとも聞いた。そのあたりも敵の情報網にひっかかる原因があったのかもしれない。なにか当時”義理と人情の**派”と一部で言われていたけれど、これはH氏の人柄に大いに関係していたにちがいない。つくづく惜しい人をなくしたと思った。もちろん残ったS氏などもりっぱな指導者ではあるけれど、やはりH氏あってのことではないだろうか。やはりH氏ならばついていこうという面はあったと思う。いわば例えは悪いがH氏は「仁侠」にも通ずるものがあった。**派は当時「決戦主義」などと揶揄されたものだが、しかしそんな他派の低レベルの批判などおかど違いであり、それこそはH氏の思想そのものであった。「革命党は負けがわかっていても(たとえ局面における戦術的勝利がほど遠い場合であっても)戦わなければならない時がある」というのがH氏の持論である。奴隷根性に堕ち、敗北主義にそまるよりも階級と人民に希望を与えるために党と活動家は犠牲になって戦え、ということであった。だからこそすべての党員がどんな時であろうと「H氏なら必ずやる」という確信をもっていた。敗北主義におちいることなど一度もなかった。どんな苦しい時でも楽観主義であった。「やる時はやるんだ」という気概をすべての党員が持っていたのだ。彼についていけばまちがいないという心情すらおれにもあった。だからこそ彼が亡くなった時の悲しみは例えようもなかった。党内も激高していた。党内でも最左派でならしていたB戦闘同志会などは「□◯派本部とD労会館に突入しよう!」とか叫んでいた。H氏がテロに遇ってから1週間後6人の□◯派戦闘員がアジトで完全××されている。党のすべての人間がそれを長いこと(たった1週間であったのに)待ち望んでいた。みんながようやく半分くらい溜飲をさげたような気がしたと思う。それは史上に残るもっとも激烈な戦闘であったようだ。新聞各紙のトップをかざり、社会面は半分以上をさいて報道していたと思う。その後の「自民党本部火炎放射焼き討ち事件」に匹敵する扱いであった。周囲の電話何万回線も切断し、敵のアジトの鉄のドアをガソリンカッターで切断し、中のバリケードを打ち壊して突入し、一方の隊は隣の部屋からスレートを巨大なハンマーでたたき壊して突入したらしい。××された6人はH氏が受けたのと同じ打撃を全員が強制されたという。部隊は全員真っ赤な返り血をあびたらしい。この当時から「等価報復」という言葉が使用されている。(H氏の暗殺者の凶器はまさかりであったらしい。それに対して1mもあるバールで報復したらしい。その後の政治集会で60年アンポゼンガクレンイインチョウで有名なK氏は「ファシストの脳天にバールを!」とアジっていた。)その事件の報道を聞いてすべての党員が手に手をとりあって「やった、ついにやった!」と叫んでいた。それからその後の1年近くはまさしく嵐のようなテロ合戦であった。銃火器だけは使わなかったけれど、何百人もの死傷者を出した戦争以外のなにものでもなかった。戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。

>ずいぶん、つらいことやきびしいことを書いてきたようだけど(?)、(おれも含めて)当事者たちは、決してつらいことばかりだったわけではない。むしろ、楽しかった。みんな生き生きしてた。毎日わくわくしていた。”血わき肉踊る日々”であったと思う。その間かれこれ5年以上にわたる間、ほぼ毎日3時間ぐらいしか眠っていなかったと思うが、そんなに苦ではなかった(もちろん、無茶苦茶眠くて、食事中に寝てしまったり、歩きながら寝てしまったり、なんてこともあったけど)。ハイテンションがずーっと続いていたから、むしろあんまり眠れないんだよねえ。つらい時代であった、などと言うつもりはひとつもない。何年か経ってから同時代を同じように生きたかつての仲間やノンセクトの友人らと何人かと酒席についたことがあるが、最初はみな疑心暗鬼である。こわいものを見るような眼で見ている。言葉も選びながら、静かに話をしている。はじめはなにやら総括やらなにやら言ってるけれど、でもたったひとこと「でも、おもしろかったなあ!」と言うとみんな一気に打ち解けてしまうのだ。「そう、そう!」と合鎚を打ち、「あの時は..、」という話で盛り上がってしまう。みんな体を張って生き抜いてきた戦友だし、インターやワルシャワロードーカは軍歌なのだ。かつてのエンゲルスの著作を思い出してしまう。「かつて敗れはしたが歴史的ホーキをやりとげたヨーロッパの片町の酒場は、その後何十年にもわたって労働者の誇り高き唄声がきこえる...」と。あれからもう25年以上も経つのにいまだに呪縛からのがれられずにいる人も多いにちがいない。数年前、大学の同期生に会った時、税理関係の仕事をしていた彼は、最初かたくなに何もしゃべろうとしなかった。過去のことは一切しゃべってくれるな、という態度であった。彼は20年以上にわたって女房・子どもにも、もちろん会社の同僚にも**派カツドーカであったことを隠し通してきたのだろう。しかし飲むにつれて、おれは何のこだわりも持っていないこと、やましいこと等なんにもないこと、それどころか我々がやらなければ今の世の中がどうなっていたのかということ、そんなことはおまえも知っているはずだということ、Yの暗黒を阻止したのはあの戦争なんだ、誰が何と言おうとわれわれがやってきたのはホーキなんだということ、おまえもおれも歴史的ニンムを果たしたんだということをおれは自分に言い聞かせるかのようにしゃべった。しばらく黙したあと彼は、「眼からウロコが落ちた」と言った。「肩の荷が全部おちたようだ」とも言った。おれのようなノーテンキとちがって彼のようなまじめで実直なタイプはカツドーカにはけっこう多かったし、そういう多くの元カツドーカが彼のようにじっと身を潜めるように生きているのかと思うと少しやりきれない。おれがこんなヤバソな話を書きはじめた理由のひとつもその辺にある。だけどもう25ねんも経ってんだぞ。おい、おい。我々がおやじ達の太平洋戦争の話を聞いていたのも「戦後20年」とかであった。う〜ん!?...我々の戦争はまだ終わってないのか?

>**派の指導部の中に未だにクロカンを払拭しきれていない者がいることを知ったのはおれもそういう立場の連中と少しは直接話できるようになってからのことであり、唖然としたものだ。今だから言えるけれど、**派のセンソーのやり方はどんどん□○に似てきたのである。現場の兵隊はとっくに気付いていたのだ。シドウブの感覚の方が麻痺していたのだ。「他党派を一掃し指導権を握る」、...、□○の他党派解体論とあまり変わらない一歩まちがえばおっかない路線だ。なぜならこの思想は外部だけではない。内部にも適用されうるのだから。ただ**派は、その後、戦闘的な闘争を展開した。だからこそおれも違和感を持ちながらも、多少はしょうがない、と思ってやってきた。シドウブが「ぎりぎりのおっかない路線だぞ」という意識をしっかりもってやればそんなにまちがわないとも思っていた。でも違うのだ。カクキョウドーのシドウブのなかに、そうではなくて肯定してやっているものがいたのだ。クロカン組織論の盲目的実践者が。(カクキョウドーのシドウブ内にもクロカンを批判しきれていない人間がいたというのはおれには驚きであった。ヒドイね。クロカンなどとるに足らない、というかあまりに稚拙な観念論だよ。「プロレタリア的人間」とか「共産主義的人間」とはいったいなんなのだ。「革マル主義者」という「前衛党」の拡大運動こそがカクメイウンドウだとする組織運動論をなぜ否定できないか。「他党派解体-小ブル諸雑派一掃」というあきれた論理になぜすりよるのか。連赤を生んだブントも同列である。「内ゲバ反対論」の四トロなどもっとお話にならない。共同で粉砕すべきであったはずなのに何を言っていたのだ。埴谷雄高や久野収らの「文化人提言」の連中も的はずれである。今にして思えばもっとしっかりと全面的にクロカン理論を批判しつくすべきであったと思う。クロカン理論とはカクマル以外のあらゆる運動を許さない運動なのだ。その上、「大衆」は「カクマル前衛党」に指導さるべき「無自覚な存在」なのだから恐ろしく始末に悪い。こんな大衆蔑視の思想などマルクス主義とは相容れない。...だから、問題なのである。このクロカンもまたマルクスを読み間違えてこんなになってしまったのだ。ML思想の見直しは絶対必要だ。)れーにんの末期を思い浮かべてしまう。敵に勝つためには党組織はこうでなければならない、でもこの党の形態は危ないものだぞ、と、れーにんは意識していた。

>何百件とアパートで寝込みを襲撃されている。俺などもアパートのドアは冷蔵庫などでバリケードをつくり、ふとんに鉄パイプを抱いて寝た記憶がある。両手両足には竹とガムテープで作ったプロテクターをつけていた。 で、学内集会であるけれど、のこのこと大学に歩いていってたらその途中で襲撃されてしまう。帰りもまたしかり。したがってそのころはもう、60年代にみられたような(「いちご白書」にみられたような)ある種、牧歌的な風景などみじんもない。大学に入るのすら命がけである。例えばこうだ。前の晩、3人ずつぐらいで各所に分宿する。朝4じに起床し、決められた結集点に集合する。結集点はいくつかある。そこで幌付きトラックにのりこむ。そのなかでヘルメットと竹ざおで「武装」する。鉄パイプでないのはその時点で権力に遭遇した時「凶器準備集合罪」に問われないようにするためだ。そして大学近くの公園で各所からきたトラックが集合し、そこから全員が隊列を組んで大学に向うのだ。大きい集会であれば、50人から80人くらいであろうか。この部隊は先発隊であって、いわば集会防衛隊である。そうやって防衛隊が学内に陣取った後でもう少し大衆的なレベルの参加者らが合流するのである。 ***一部で有名になった”糾察隊”というのはこの集会防衛隊から派生した部隊のことであって、この言葉にはいろんな誤解がある。「公安調書」などは、「糾察隊」が「軍」そのものであるかの記述があるが水準が低いのかアホなのか笑ってしまう。ノンセクトのなかにもそう理解している人もいてこれもこれも低水準。この頃、集会がしょっちゅう襲撃されるのでα(アルファ)という集会防衛隊を作った。これは軍組織でもなんでもない。集会参加者はβ(ベータ)、防衛隊はα、それだけのこと。だから「○×大は、αを○人出せ」とか指示を出してその集会の都度、急造した隊編成なのだ。「求殺隊」なんて笑かすなよ。集会場の周辺を見回りしてスパイとか襲撃部隊とかを摘発しようとして動いていただけのこと。α(防衛隊)とは別に攻撃隊を配置したこともあったけどね。こっちの方が本来の誤解された意味の方だね。まあ、ただαは軍隊的行動を要求されたので本来の軍から指導を仰いでいたのはたしかだけれどもね。このα隊が、他派や一般学生らから反発を買ったのも事実。だって実際、一般人の荷物検査をしたり、(武器=Pを持ってないか)服装チェックをしたりしたわけだから。警察なみだよね(だから-警察と区別して-人民糾察隊と言った-正式名称ではないと思う-αの組織化をまかされたキャップクラスが勝手に命名したようだ)。αは、ただの活動家クラスの若い学生や労働者が多かった。だから実直だし使命感に燃えていたし硬直でもあったわけで、一般民衆にはまずい対応もいっぱいあったと思う。それは指揮官クラスの指導のつたなさの問題でもあるんだよね。
・・・・6.26当日もそのようにしてH大構内に60人ぐらいで登場したのだ。実はこの日は背水の陣でゴリゴリのメンバーを総動員していた。ガクレンのイインチョウHもいたし、マルガクドーのイインチョウのFもいた。SOB議長O氏すらいたのだ。なぜかと言うと、その1週間前のサンリズカ支援集会を襲撃されて大敗北を喫していたのだ。こっちが100人に対し、それ以上の数ではさみ打にされこてんぱんにやられている。1人の死者も出した。重傷は数しれない。その当日、俺は党本部にいたけれど、夕方になって血だらけになってみんなもどってきていた。H大といえば**派の最大拠点である。そこを襲撃され惨敗したとあっては立つ瀬もない。たいしてダメージを受けていないぞ、という姿勢を内外になんとしてもアピールし党内外の動揺を払拭しなければならない。そうした政治判断における1週間も経たないうちの大動員であった。なりふりかまわぬ召集だったわけだ。逆に敵もそんな早い再襲撃もきついだろう、という読みもあったのではないか。召集したメンツにそれがあらわれているように思う。しかし、それは甘い読みであった。敵はより以上の強力な布陣を敷いていたのだ。我々は部隊を校庭に布陣し、学内の検索隊を何隊か出した。数分して検索隊が戻ってきて「異常なし!」という報告があった。だが、その時である。正面の69年館の中でなにか白いものがうごめいていた。すぐにそれはヘルメットがゆれたものとわかった。誰かが「Yだ!」と叫んだ。一斉にこっちの部隊が建物に殺到し衝突が始まった。それがそれから1時間以上におよぶ壮絶な死闘のはじまりであった。発見が一瞬こちら側が早かった分さいわいしたのだろう。敵が建物からでてこないうちに殺到したおかげで緒戦の激突はこちらが押していた。(もしもであるけれど、発見が遅れて敵に奇襲をかけられていたならば、もっと悲惨な結果になっていたであろう。)喊声をあげて突っ込んだ部隊は竹ざおで69年館のドアとガラスをぶちやぶり敵に猛然と襲い掛かった。だが敵の数は半端ではなかった。倍(百以上)はいたであろう。「斥候は何を見てきたんだ!」とおれは思った。しかも竹ざおと鉄パイプではやはり勝負にならない。ばしっ、ばしっ、と竹がたたきおられてしまう。がつん、がつん、とヘルヘットが陥没してしまう。10数分でずるずると押し出されて校庭が主戦場になってしまった。総勢2百人規模で校庭いっぱいにひろがって白兵戦が展開されている。まさしく斬り合いであった。何人かが血まみれになって地べたに倒れている。敵は長めのパイプと短かめのパイプの2種類の役目の人間がいて訓練された部隊であろうことはすぐわかった。(当時□◯派にはJACという襲撃の特殊部隊がいてテロのプロといってもいい組織があった。)「こいつらがJACか」と思った。おれはJACに遭遇したのはこの時がはじめてであった。頭上からヘル越しに1発くらってクラッとなった。グシャとヘルが割れた。さらに左手に一発くらった。幸運にも時計にあたって壊れてそれが幸いした。それでも左手のダメージは大きくてその後ずっとしびれて握力がほとんどなくなった。こんな白兵戦になると竹ざおなど何の役にもたたない。突いたって当たりはしない。さおのまん中を両手にもって右、左と鉄パイプの嵐を振払うのがせいいっぱいであった。そのうちこっちの部隊のうち20人くらいが押されて正門の外にだされてしまった。いよいよやばいかなと思った時、助っ人が出てきた。学生会館に泊まり込んでいたこっちの部隊5.6人が鉄パイプをもってでてきたのだ。それでまた押したり押されたりの均衡状態になった。というより双方疲れてきたのであろう。みんな竹ざおをふりおろせない程、疲弊していた。一瞬不思議なにらみあい状態が続いていた。後ろの方でSOB(カクキョウドーガクセイソシキイインカイ)議長の「隊列つくれ!かたまれ!」という声が聞こえていた。(かたまってどうするんだ、とおれは思ったけれど、彼はJACの怖さを生身で知っている人間である。勝てる相手ではないと思っていたのであろう。)その間をぬっておれは使い物にならなくなった竹ざおの替わりをさがしに後ろへさがった。本館の柱の影で鉄パイプをもってふるえているW大の仲間をみつけた。「何やってんだ、こんなとこで!」そいつは先輩であったけれど、おれはついどなってしまいその鉄パイプをよこどった。これでおれはようやくまともに戦えると思った。そこからおれは鉄パイプを手にして意気あがりなんとも無謀なことをしたのだ。にらみあって横を向いている□◯派の部隊に真横からたったひとりで突っ込んだのだ。Pをふりかざす瞬間大声を上げた。「ナロ〜!」ひとりの右肩にぐさっと一撃。とってかえして顔面に二撃。だがそのとたんに3人ほどにかこまれて猛然と反撃された。だがそれが合図になってにらみ合いから一転、戦闘がはじまった。おれは敵の陣地からなんとかのがれて部隊に復帰した。それから俺は二人ほどやりあい鉄ついをくらわせただろうか。こっちの人間も何人か地べたに倒されている。倒されているのに助けるひまなどないのだ。足元にも敵がすごい量の血をふいてねころがっている。「こいつ死んだのか。」と一瞬考えたりしている自分の妙な冷静さが不思議であった。10数分続いた後だろうか。むこうは徐々に隊列を整えて上回る数で扇型にじりじりと追い詰めてきた。「あいつだ、あいつをやれ!」という声が敵の隊列から聞こえてきた。なんだ、おれを差しているではないか。その一瞬、4.5人がこっちに殺到してきた。ワーッ、とボコボコにされてたえられなくなって学館の方へ逃げた。ところがそれがまた合図になってわが方の部隊が一斉に学館にむかって逃走したのである。全員が学館に逃げ込んだ。敵はそれ以上追ってこなかった。中ではマルガクドーイインチョウのF氏が、入り口にバリケード築け、と指示を出していた。たたかいは終わったのだ。全員疲れきり、血まみれの服をまとい、ある者は折られた手足をだらりとさせてうずくまっていた。そしてその一時間後くらいに機動隊が入り当方は全員逮捕された。襲撃した□◯派は逃走している。幸いにも死者は出なかったが、双方あわせて数十人の重傷者を出した。 勝てはしなかったけれど互角に戦った。それまで常勝のプロ軍団JACは初めて手痛い傷を負ったのである。JAC神話が崩壊した日であろうか。こんな会戦が何十回となく全国であったのだ。立教で横国大で慶応大で、あるいは相模原とか新橋駅構内とかで、...。

(なぜこんな戦争が起こったのか、なぜ□◯派のような集団を生み出したのか、もっとはっきりと明らかにすべきである。もっと言えば、連赤、クメールルージュ、そもそものスターリン。キヨーサンシュギ運動のなかからなぜこのような部分を輩出してしまったのか、をはっきりさせないかぎり未来の青年を決してマルクス主義で引っ張っていくことはできない。おれはこの戦争の正当性を主張できる。当事者としてその事情を知っているかぎりにおいて、戦うしかなかったし、戦わなければやられていたし、もし我々が戦わずに□◯派の天下になっていたとしたらそれこそおぞましい。しかし何も知らない若者に対してマルクス主義運動がなぜそうような部分を生み出すのか、と説得するはっきりとした論拠を俺は持ちえていない。みななぜ口をつぐんでしまっているのか。もちろんそれはいまだに□○派のテロがこわいという面は十分にあるが。)



■内ゲバ手記・2〔革マル派〕

【提供者コメント】------------------------------------------------------
対革マル戦の回想、一方だけの紹介ではいささか、片手落ちと思い、他方の見解も紹介します。第1次法大会戦で起訴、勾留中の革マル派活動家の父親への手紙(出典は酒井章一「息子へ内ゲバから逃れた青春に」新潮社昭和58年刊)ちなみに判決は凶準、傷害致死、傷害で懲役3年執行猶予5年

(「戦争」ではなく「教育」として 投稿者:すえいどん 投稿日: 〔06年〕5月15日(月)10時50分45秒)
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>左翼党派間の党派闘争を「戦争」に置き換え・・殺すことを「完全殲滅」、重体に陥れる「徹底殲滅」と誇らしげに語る彼ら。このような殺人者の集団が、左翼でも何でもありはしないことは余りにも明らかなことです。殺人が目的であるが故に、今やピストル、火炎瓶を「武器」と使用としている気違いどもは直ちに一掃しなければなりません。・・われわれは、党派闘争を「戦争」と考えたり、殺人を目的とするような腐敗とは全く無縁です。・・われわれも確かに暴力一般を否定することはしません。それは本質的にいえば、階級支配が暴力の発動を、その実体的側面としてもっている限り、その打倒は本質的に暴力的なものとなるという意味です(現実的に暴力を行使するかどうかは別な問題です)。また、党派闘争においても、その主要な手段は理論闘争に求められますが、その限界が明らかになった場合(例えば70年8月3日のE君虐殺という自己の行為に対して完全に沈黙した××派のような場合、その沈黙によって理論闘争は阻害されざるを得ません)理論闘争を前に進めるという目的において、そのための補助手段として、暴力の行使をわれわれは位置付けるのです。口で言ってもわからず、なんら反省することなく沈黙したり、逆に暴力的に対抗してきたような場合には、物質的な痛みとして、反省=自覚の契機をつくりだす必要があるのです。だから、また、これは「反省の契機」に過ぎないのであり、理論闘争の前進へと受け継がれなければ意味がないのです。このような暴力の行使は、それ自体が目的とされたり、“憎しみ”などという私的感情に左右されたりするものでは決してありません。”相手の抹殺“=殺人などは論外です。階級社会の根絶を、従ってあらゆる政治的暴力の止揚のために現に闘っているわれわれが、そのために暴力を行使するという二律背反のなかで、この暴力の行使をめぐる一切の腐敗と荒廃を拒否するという根本的な姿勢で、われわれは闘ってきたつもりです。




■女性解放グループ声明〔第四インター〕

[談話室]06年6月28日、とまとんさんご提供。
『世界革命』紙掲載とのことですが、掲載号は不詳。


わたしたちの再出発にあたって
何よりもまず女たちのものである革命をたぐりよせるために

    第四インター・女性解放グループ



はじめに
 わたしたちは、去る五月、「第四インター・女性解放グループ」を出発させ、新たな歩みをはじめることになりました。わたしたちがこのような結論を選択するに至るのは、一九八二年八月の三里塚労農合宿所での強姦犯罪の告発を受けてからの五年間にわたる「組織内女性差別問題」をめぐる経過がありました。わたしたちは、五年間にわたる経過の中でぶつかった同盟組織の性差別の現実に負けないで、“女たちの団結と運動”を前進させていくためのギリギリの選択として、グループの結成にふみ切りました。
 五年間の経過の中で、多くの女性たちが同盟を去ることを余儀なくされていきました。そして、現在同盟にいる女性たちの中でも「組織内女性差別問題」へのこだわり方やそれを追求していくときの方法論、同盟との関係などについて、みんなが同じような考え方に立っているわけではありません。わたしたち、第四インター・女性解放グループは、五年間の経過をふまえた同盟の現状評価や「組織内女性差別問題」とりくみの総括などについて、現段階で一定の考え方を共有しあえる女性メンバーによって発足したものです。また、わたしたちは、五年間の経過の中で同盟を離れていった女性たちと共に歩んでいきたいと考えています。
 この五年間、第四インターの組織と運動につながってきた女たちの一人ひとりは、それぞれの契機において打撃を受け、自分と組織に絶望し、「回復の道」を必死にさぐってきました。それはおそらく誰にとっても孤独な闘いであったと思います。女たち相互の関係はそれほどに分断されていました。その分断を本当に越えることができると思えるお互いの関係を実現しているとはいまだ言えない現段階にあって、わたしたちがグループとして共有している立場と選択をここに明らかにすることに、あるいは違和感を持つ女性たちがいるかもしれません。「こういうことを書いてほしくない」 「女性差別問題の経過について読むことさえつらい」と思う女性たちもいるかもしれません。
 しかし、わたしたちは わたしたちの選択を率直に明らかにし、思うことを語り、闘いはじめる中で、どんなに困難であろうとも女たちが強制された相互の分断をこえて“出会える道”“つながりあえる関係”をつくりだしていきたいと思います。
 「世界革命」の読者のみなさん、とりわけ女性のみなさんに忌憚ない意見、批判を寄せていただき、女性解放の確かなうねりをつくりだすために手をつなぎあえたら、と思います。

女と男―分裂していた組織の現実
 三里塚労農合宿所での強姦犯罪にたいするAさんの告発、それは無視したり、誰かにまかせておけばいい問題ではなく、現に第四インターナショナル日本支部のメンバーである一人ひとりに、それこそ男も女もなく「あなたは何者なのか、あなたのめざす革命とは何なのか」を問いかけたはずである。にもかかわらず「同盟は、そのAさんの問いかけ(告発)にむかいあうことかできなかった。
 八三年九月、同盟は「世界革命」紙八〇二号に「三里塚現闘団員四名の除名処分とわれわれの自己批判」と題する、労農合宿所とインター三里塚現闘団でおきた強姦犯罪への自己批判文を中央委員会の名において公表した。自己批判文には、強姦犯罪の被害を受けた女性たちとすべての女性に謝罪し自己批判するという立場が述べられている。しかし、その後の過程は(それ以前もそうであったように)この自己批判文の内実が「痛い!」と叫んだ女性にたいしてではなく「世間」にたいしてなされた弁明と謝罪でしかなかったということをいやというほどわたしたちにおもい知らせる過程だった。
 Aさんの決別の言葉―「女を切り捨てた形で闘っていきたいのなら勝手にやればいいと思う。ただ、その場合には、もう『人間の解放』などとは言わないでほしい」という問いかけにむきあおうとした女たちは、日本共産青年同盟、社会主義婦人会議、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)の各組織を貫いて、性差別を告発し糾弾していった。
 そこでぶつかった組織の現実―男たちは男たちこそが問われているのだとは考えなかった。告発された男よりも告発した女が問われた。告発者の防衛よりも組織・機関の防衛がもちだされた。告発された男は告発した女性にではなく、組織に自己批判しようとした…。告発・糾弾はその出発点において「うけとめようとしない」「むきあうことのできない」男たちと組織・機関のところで女たちを疲弊させ、絶望させた。
 「組織内女性差別問題」のたどった経過のひとつの現実は、告発した女、その女とともにあろうとした女たちと、組織。機関の不一致、対立であった。ともに革命をめざす者同士として対等であらんとした組織が、強姦の加害者と被害者に、差別する者とされる者に分裂していたという現実、そしてそのことが明らかにされてもなお、つき出された差別の現実を変えたいと思うのか、思わないのかという前提のところで分裂している組織の現実、この実態にわたしたちは気づかされてきた。「組織内女性差別問題」は、Aさんの問いかけにむきあうための男も女もない「組織」としての闘いであったはずなのに、Aさんにむきあい前提としての組織自身のあり方のところで、「同じ組織といっても一体何が一致しているのか」をを問い直されることとなったのだった。

告発・糾弾に敵対した男たちの現実
 女たちの告発・糾弾がまず直面したのは、「それだけでは差別かどうかわからない」「何が差別かわかるように言ってくれ」という男たちの声であった。それは多く、「それは差別ではない、強姦ではない、告発は不当だ」という認識から発せられたものであった。
 告発された事実の認定にあたって、組織・機関は何かしら「客観的」と見える組織の判断基準を設けようとした。ブルジョア社会の強姦裁判に端的なように、事実がどうであったのかの認定は「第三者」が行うのが最も公平だと考えられている。しかしそうだろうか。事実は多くは当事者にしかわからない。とりわけ強姦犯罪のような場合、「加害者の事実」と「被害者の事実」は多くは対立する。事実の認定にあたっては問題にたいする立場と評価が問われる。事実の認定を被害を受けた側、差別された側から行おうとするのかどうかが問われる。本質問題は、何が事実であったのかを決める「権利」は差別された側にある、ということである。しかも、強姦裁判にみられるように事実確認のためだとして女性が思い出したくもないことをこと細かに再現させるようなことを絶対に詳してはならない。必要な事実の認定とは、現に女性が打撃を受けているという事実だけでいいのである。女たちはこのことをさまさまな問題にぶつかりながら経験的に主張していった。
 しかし、組織・機関は、強姦かどうかの判断基準を「告発した女性の側の事実」によって定めようとはしなかった。組織・機関が事実の認定にあたった立場は、女性の受けた打撃の側からではなく、両者を等分に調査し、告発された男の側の行為の「程度」で強姦か否かの判断をしようとしたのである。これは女性差別行為と「問題ある男女関係」という区別の仕方としても表わされた。したがって、調査のほこ先は告発した女性にもむけられた。「イヤならイヤとなぜ言わなかったのか」「なぜ拒否しなかったのか」と。拒否できない力関係のなかに追いこまれた女の側の事実―拒否しなければならないような行為としかけられていること自身の不当性は無視された。いや無視されるだけではなく、「おまえにも責任があるんじゃないのか」として責められたのである。
 告発・糾弾に敵対した男たちの意識と論理はまさに強姦犯罪にたいするブルジョア・イデオロギーそのものであった。
 しかし、それだけではなかった。ブルジョア・イデオロギーそのものによってのみならず、男たちの敵対は、男たちが認識するところの「革命をめざす組織のあり方・原則」論によっても「武装」されていた。そこから発する告発・糾弾への敵対は、「受動的」にみえながら、実は差別と闘おうとする主体をおしつぶそうとする攻撃性を持っていたと言える。
 告発した女の多くが直面したのは、「活動家の女ならなぜ拒否できなかったのか」「活動家の女としての主体性の弱さだ」という男たちの反応であった。告発にたいしては、差別の事実に目をむけるよりもます「なぜ今になって」「何のために」告発したのか、が問われある場合には「何か別な政治的意図があるのではないか」と疑われ、また「組織建設」にとっての意義づけが求められた。
 そして、次には告発・糾弾をめぐる「闘い方」が問題とされる。差別にたいする糾弾という方法は、組織内においては黙認するという以上の承認を受けたことはなく、差別と闘い差別を克服する組織としての積極的方針として位置づけられたことはなかった。なぜなら、「組織の一員としての権利と義務は男も女もなく同等であり、同志関係に問題があれば、相互批判―自己批判をつうじて克服すべきである」という考え方が「あたり前」とされてきたからであり、それが「民主集中制という組織活動の原則」に基づくあり方であるとされてきたからである。「同志関係に問題があれば、問題をおこしたメンバーは男も女もなく自己批判するように、機関として指導する」という対処の仕方―これは、「組織内女性差別問題」を「差別問題」としててはなく「組織規律違反問題」としてとらえるという認識を基底に生み出されたものであった。
 しかし、相互批判―自己批判は、真に対等な関係の上ではじめて成立するものであり、まったく一方的な差別者と被差別者との関係では差別の克服は糾弾を通じてしかありえない。自分を強姦した者をどうして対等な対話の相手とすることができようか。「組織規律達反問題」としてではなく「差別問題」としてとらえることは、糾弾闘争の承認なしにはありえなかった。
 わたしたちは「告発者の無条件防衛」を主張した。女性たちが「無条件」と主張したことは、告発者の側が,このような政治的・組織的立場や契機で告発しようとも、告発された差別の事実こそが問題であり、そこから出発すること、差別との闘いにおいて、告発者への打撃を倍加するような一切の行為から告発者を防衛しようとするということであった。男たちは告発・糾弾にむきあうことを回避するために、さまざまな条件づけを行った。 ―「男たちにわかるように糾弾せよ」「組織建設に役立つように糾弾せよ」、あるいは、告発した女性のそれまでの組織活動上の評価の度合いに応じて「信用」できるか否かの線引き。告発・糾弾にとう対応するかは女の側の組織にたいする「立場」と「姿勢」しだい。そして、差別者を自己批判させることができず、糾弾闘争が行きづまるとき、それもまた、糾弾する側のやり方の問題とする見解。
 男たちの機関にとって、「組織内女性差別問題」とは、結局のところ「女の問題」であった。差別問題の発端から差別に気づき闘いはじめる闘い方に至るまで、「女から始まった問題」「女が考える問題」「女が解決すべき問題」であり、一貫して「女責任論」であった。差別問題とは、「差別される側」にではなく「差別する側」にこそ問題があるという差別問題の根本に、男たちは立てなかった。「組織内女性差別問題」の克服のために明らかにされるべきは、差別する側の問題であり、自己対象化である。男たちと男たちによって主導されてきた組織活動のあり方がどのように性差別に結びつき、性差別に依拠してあったのかが、何よりも解明されなければならなかった。しかし、男たちは「差別される側」に問題を見出し、「差別する側」の問題を解明しようとはしなかった。
 女たちが男たちにわからせようとすればするほど、女たちに事態の推移の責任がおしつけられ、男たちは自己総括のための何の努力もしないという結果にしかならない現実にわたしたちは気づかされていった。告発・糾弾すればするほど、よりいっそう傷つき痛めつけられ、「黙っていた方がよかった」とまで女たちに思わせた、男たちのあの「戦闘性と団結」は一体何だったのか!何を守ろうとしていたのか!なお男たちからの答えはない。
 わたしたちは思う。男たちは「組織」の名をもって、「組織」を武器として差別を合理化してきたし、「組織防衛」のたてまえをもって自己保身を図り、差別と闘おうとする女たちをおしつぶす「攻撃性」「戦闘性」を発揮してきたのだと。

性差別が強制した女たちの分断
 第四インターの組織と運動につながってきた女たちは、組織に入らないで組織を支えてきた女たちをも含めて、さまざまな分断の構造の中におかれてきた。
 “第四インターの女”としてわたしたちは、Aさんの告発を受けるまで、女として横につながる場をもってこなかったし、その必要をさほど感じていなかった。わたしたちは、それぞれの機関や単位組織の下にあってそれぞれの任務を担ってきた。その中でわたしたちが差別を実感しなかったわけでは決してないし、組織における「性別役割分担」といえる壁は、常にわたしたちの前にあった。その中でわたしたちは、多く「男並みにガンバること」「政治的に自立すること」が差別を「自力」で突破する道だと自分に言いきかせてきたし、そのような自分にたいする「納得」のさせ方をつうじて、性差別構造の下に組み込まれていたのだと思う。
 組織活動における「性別役割分担」の厳然たる存在の一方で、「第四インターの女」としてのわたしたちは「女を超越した活動家」であることをも求められてきた。わたしたちは組織内では、「性別役割分担」の枠を決してこえない構造の中で男たちと機関が必要と考えるそれそれの役割の中に位置づけられていたが、共青同の女性たちや社会主義婦人会議の女性たち、そして組織に入らないで組織を支えてきた女性たちとの関係では「組織」の側にたっている存在、その意味で「抑圧」的な存在としてあっただろうと思う。
 それを一番体現したのが「機関活動の中にいる女」だった。「組織内女性差別問題」のとりくみの過程で、当初「機関活動の中にいる女」はさまざまの度合いで「組織防衛」の要素を体現した。しかし、「告発者防衛」と「組織・機関防衛」がこの組織の現状の中では両立しないという動かしがたい現実をつきつけられるなかで、「自分のこれまでの生き方」が差別され抑圧された性である自らの解放に本当につながっているのか……と、問いなおされざるをえなかった。
 第四インターの組織と運動の中で、一人の女が選択した生き方が、別な生き方を選択した女との関係で、男たちと組織によって抑圧と分断の手段に使われてきたことに、わたしたちは気づかされてきた。自分の生き方が他の女の生き方やありようの否定のための道具にされていたこと、そして、どちらの立場に立たされたとしても、性差別構造が強制する女の役割の中に位置づけられ、決してそこから「解放」されていたわけではないわたしたちの現実に気づかされてきた、その中で、わたしの(女たちの)生き方が本当にわたしの〈女たちの)解放につながっていくためには、性差別が強制する分断をはねかえす女たち相互の関係をつくっていく以外にない、そこにしかよりどころはないということにも気づいたのだった。
 それぞれがどの役割を担わされようとも、女たちはそれぞれに受けた痛みを自己の「弱さ」や忍従に転嫁することによって、性差別構造の下でそれを受容し、あるいは屈服し、あるいは加担して組織の一員でありつづけてきた。そのわたしたち自身のありよう、女同士の相互関係のありようをつきあわせ、分断のしくみを対象化し、本当に信頼しあえる関係としての「女の団結」をめざすこと、女たち相互の複雑で重層的な分断を、性差別が強制した分断としてとらえかえすこと、それが、わたしたち女にとっての「組織内女性差別問題」の総括と克服のための闘いであると、わたしたちは考えている。

同盟の今日の現実とわたしたちの決断
 今年二月、同盟は第十三回全国大会を開催した。「世界革命」九八六号に掲載された「第十三回全国大会コミュニケ」は、同盟内部で「この二年間を通していくつかの重大な対立が明らかとな」り、「第十三回全国大会は、分派闘争、路線論争を通してわが同盟の再建―前衛党への挑戦をおしすすめていくことを確認した」と述べている。コミュニケが言うこの二年間の男たちの分派闘争の過程は、女たちがぶつかり苦闘してきた組織の現実を凝縮して再現するものであったと、わたしたちは認識している。男たちの路線論争が「組織内女性差別問題」の深刻な総括をめぐって始められたものでないことは、組織の誰もが否定しえない事実である。男たちの分派闘争は、その契機においても内容においても、組織の性差別構造のうえに、それに依拠して展開されているものとしか思えない。わたしたちはこの二年間の男たちの分派闘争を通して、「組織内女性差別問題」のとりくみの過程が一貫して“女の苦闘のカラ回り”でしかなかったことを政めて思い知らされたのであった。
 その中で、男たちは同盟十三回大会にむかって「組織内女性差別問題」の総括を彼らの論争の一つの柱にした。「組織内女性差別問題」の総括が深刻な分派闘争を必然化させたのではなく、分派闘争のために「組織内女性差別問題」の総括が論争材料とされたのである。それぞれの分派が論じはじめた「組織内女性差別問題」をめぐる論争は、「誰が」「何のために」「誰にむかって」総括し、議論しようとしているのかという前提のところで、わたしたちの立場とはまったくちがったものであった。
 五年間の「組織内女性差別問題」のとりくみの経過から導き出されるのは“女も男もない”組織として一つの総括を持つことができないという組織の現状についての結論であった。わたしたちは、主語が男なのか、女なのか、対象が男なのか、女なのかによって、語る内容が違うし、違うところからしか始まらないというのが、この五年間の経過が示した現実であると認識するし、その認識から出発する。女は女の、男は男の立場から総括しきってみようとする以外にリアルな総括を導き出すことはできないし、そのうえで再びスクラムを組むことができるかどうかを確かめあう以外にない、とわたしたちは考える。男たちの分派が提起する総括が、“男が男にむかって”「差別する側」の自己対象化をかけて提起する総括であるならば、それはそれで検証しあってみればいいと思うし、それが彼らの分派闘争の重要な一部であろうとなかろうと、わたしたちの関知するところではない。しかし、彼らの総括が“女も男もない”「同盟」を主語として展開され、“これがおまえたちも共有すべき総括である”といわれることに、わたしたちはがまんできないし、この五年を経てもなおそう言える感覚こそ「組織内女性差別問題」を構造的に生み出した組織のあり方の下での感覚なのだと言わざるをえない。
 わたしたちは、今日展開されている男たちの分派闘争に関与し、それを積極的におしすすめていけば、そこから「組織内女性差別関題」克服の土台がかちとれるとは考えることができない。むしろその枠組みからとどう独立できるのかこそ問題であると思う。
 わたしたちはそれぞれの契機において第四インターを選択し、社会主義革命の実現をめざして自らの生を生きることを選択した。わたしたちはその思いを放棄しないでこれからも生き続けたいと思う。分派主導型の現状の同盟の中で、わたしたちがどう革命=人間の解放をめざそうとした自分の思いを放棄しないで生き続けることができるのだろうか。その条件を考え、つくりだそうとしなければならないのは、まずもって男の側であり、機関の側であり、分派を名乗る人々の側で本当はあるはずだと思う。ただわたしたちは、それを待ち望みジッと耐えているうちにジワジワとエネルキーを摩滅させられていくことをこれ以上くり返したくない。わたしたちは「何よりもまず女たちのものである」社会主義のために、“女たちの団結と運動”を一歩一歩前進させていく道を採っていきたいと思う。現状の同盟の女たちのすべてが、そのような方向を歩むことで一致するわけではないことを承知の上で、わたしたちはいま共に共通の認識を確認できる女たちから、すべての女たちに呼びかける立場を堅持しつつ、わたしたちの歩みをソロソロと開始していきたいと思う。
 わたしたちは、第十三回全国大会にむかう組織の現実を通して、「第四インター・女性解放グループ」としてわたしたちの歩みを開始することを決断した。

“女たちの団結と運動”の前進をめざして
 差別は階級支配の手段として支配階級によって活かされ、強化されているが、差別を機能させる意識や回路は“社会的にわけもたれてきた共同規範”の中にある。つまりそれは、差別される側にもわかちもたれていることを意味する。それゆえ、差別との闘いの困難さは、差別された側が自らもまたわかちもたされてきた共同規範を否定し、それに立ちむかわなければならないところから生み出される。差別の告発をつうじて、受けた打撃からの「自己回復」をはかろうとする女たちの闘いは、自らもまたわかちもたされてきた社会的共同規範から身をひきはがそうとする苦闘を伴ってしか実現されえない。その苦闘は、自分のアイデンティティーを改めてどこに求めるのかという模索をも要求するものになる。
 わたしたち、第四インターの女たちが“わかちもたされてきた共同規範”とは、第四インター日本支部という集団を形成してきた思想と論理―性差別主義につらぬかれた「男たちのマルクス主義」と「男たちの組織の論理」―であった。わたしたちは、“わかちもたされてきた共同規範”から身をひきはがし、第四インターを選択してきた一人ひとりの思いを放棄せずに、わたしたちのアイデンティティーを新たにつくりだそうとする模索を「わたしたちの組織活動」=第四インター・女性解放グループの闘いとして踏み出そうとする。
 わたしたちは、わたしたち自身がかかえている「性差別が強制する女の分断」の深刻さをこえることのできる立場と方法論をわたしたちのものにしたいと思う。性差別主義・男主義の思想と方法から独立したわたしたちの思想的基軸、人と人との関係のつくり方や集団形成の方法論を獲得する闘いに挑戦しようと思う。
 自分たちの世界観、価値観であったものを「組織内女性差別問題」の中で気づいてきたことにこだわって再構成してみようとするわたしたちが、いま持っている共通のテーマは「社会主義とフェミニズム」である。一九六〇年代後半から始まった世界的な女性解放闘争が追求してきた、女性への差別・抑圧からの解放をめざす運動と思想、今日フェミニズムと総称されているその蓄積を追体験し、対象化しながら、わたしたちの体系をつくっていきたいと考えている。
 目標のために手段を従属させることは、男の手による革命と運動が女にたいして行ったことである。わたしたちにとって今や解放の手段が目標と同じように重要である。いかにしてそこに到るかという手段は、わたしたちがつくろうとする新しい社会の基礎となる。わたしたちは手段としての組織を否定しないし、「社会主義とフェミニズム」の思想を体現する組織と運動をつくっていこうとする。
 組織は思想のめざすものの現在的な自己表現であるだろうし、思想の内実を体現するものであるだろう。わたしたちはあらかじめのモデルを持っていない。運動体としてのリブがぶつかった問題、リブ以降の女性たちが模索し続けている問題を共有化しなから。試行錯誤をおそれずすすんでいきたいと思う。
 わたしたちは「組織内女性差別問題」の過程をとおして男の男主義を見ぬく力を少しずつ身につけてきた。だが、自分自身も含めて、女が強制されてきた「男主義」の方法論は見えにくい。その点を払拭する闘いに意識的であらんと心に決めて、わたしたちの闘いをすすめていこうと思う。
 全民労協体制の本格的確立という今の時代の中でそこに対抗する運動とエネルギーを多くの女性たちとのつながりの中からつかみとっていきたいと思う。

 組織を去った多くの女たち!
 わたしたちは、ともに歩みたい女たちの多くが今はこの組織を去っている事実を口惜しく、そして申し訳なく思う。わたしたちはあなたたちと再び出会える日をつくっていきたいと思う。
 そして、ともに五年間苦闘してきた社会主義婦人会議の女たち、共青同の女たち!
 わたしは、男たちによって分断されたお互いの関係をこえて、真に対等に結びあえる関係を、あなたたちとともにつくりだしていきたいと思う。
 わたしたちはこの五年間、多くの女たちから本当に暖かい励ましを受けてきた。彼女たちは他人ごとではなく、自分たちの問題としてともに考え、同じ痛みを持つ女として、わたしたちを対等に受け入れてくれた。時として、組織=権威の側からの対応の粋を抜けきれないわたしたちの未熟さを引き受け、対等につきあおうとしてくれた。彼女たちへの“お返し”をするためにも、わたしたちは、わたしたちの一歩を踏みだしていこうと思う。

(一九八七年九月)