墳墓並墓碑
右大臣實朝公廟塔 永久元年正月廿七日の夜、鶴ケ岡拜賀の砌、宮殿より還御し給ふを、惡別當公曉が爲に、石階の邊にて遭害、翌廿八日戌刻、勝長壽院へ葬し奉らんとす。然るに御くしの在所しれず、五體不具なるゆへ、宮内兵衞尉御髮を取揚げる時、御髮の毛一筋をかたみなりとて賜ひしを、御頭に用ひ、御入棺、此時御臺御除髮し給ふ。臣下には秋田城介景盛を始として、各悲涙にたへず。入道する音數十輩。其夜勝長壽院の山麓に埋葬し奉ると、【東鑑】に載たり。今は其廟塔の在所知れず。【帝王編年記】に、文暦元年二品禪尼、故右大臣の爲に、高野山の内に金剛三昧院を建立せられ、奉行は城の景盛入道大蓮なり。本尊正觀音の御身に、實朝公の遺骨を籠るとあり。されば勝長壽院にて茶毘せし事ならん。又【法然上人行状記】に、津戸三郎爲守入道尊觀房念佛の行者にて有ければ、右府薨逝を悲歎し、尼御蔓所へ顧奉り、御分骨を申おろし、在所へ歸り葬奉り、家を築て阿彌陀塚と稱し、其所に堂を營み、不斷念佛修行せしとあり。又日光山別當辨覺は、右大臣家の護持僧にて、常に鎌倉に居れり。右府の御恩顧をも蒙りければ、御分骨を願ひ得て、日光山へ葬り奉るといふ。又壽福寺に、右府の御廟と稱する岩窟有て、内に石塔並石函も見ゆ。是も開山榮西上り御歸依ゆへに、御分骨有て、壽福寺にも御廟を移せしならん。されども壽福寺の事は、【東鑑】に見へず。勝長壽院へ御葬式有しは、正敷彼書に載たれど、今其舊蹤もしれず。
[やぶちゃん語注:「宮内兵衞尉」は宮内公氏(くないきんうじ)。私の拙作「雪炎」をよろしければご覧あれ。]
二位禪尼〔政子。〕廟塔 是も御存命の時より、勝長壽院に、新御堂御所を經營有て住給ひ、此所にて嘉祿元年七月十三日逝し給ひ、山麓へ埋葬し奉るといふ。此逝去の事、【東鑑】に、三年の内脱漏せしといへども、此所へ塋域を構へられしはしれる處なり。是も壽福寺に、右府の廟と相双びて岩窟あり。禪尼の廟と稱す。勝長壽院にて荼毘せられ、御分骨を葬りし事なるべし。壽福寺は、開山榮西・二世行勇ともに御歸依開基なれば、御分骨も有べき事なり。勝長壽院廢跡には、其舊跡もしれず。又云、名越の安養院に、二位禪尼の廟塔とて、禪尼の法諡並歿年月彫立たるもの在て、石面鮮に文字見ゆ。其圖は安養院の條に出す。合せ見るべし。
右大將家姫君墳墓 正治元年六月廿日、右大勝家姫君〔十四。〕逝去、尼御所御歎息、乳母夫掃部頭親能出家す。今夜戌刻、姫君を親能が龜ケ谷堂の傍に葬し奉るとあり。此頃龜ケ谷堂とあるは、下野國司〔義朝。〕の御爲に、岡崎平四郎義實草堂を營み、冥福を修せしとある其堂の事にや。翌年此地を營西へ御寄附、壽福寺建立の地なり。按ずるに、壽福寺山麓に岩窟有て、尼御所の廟なりといふは、此姫君の塋域にはあらずや、慥なる事はしれず。
[やぶちゃん語注:現存する寿福寺の伝政子の墓を大姫の墳墓と推理する、この考察は滅多に聞かないが極めて興味深い説である。]
右京兆平義時墓 元仁元年六月十三日卒す〔六十七。〕。【東鑑】には、義時が死を潤飾して、順次往生すとあり。【保暦間記】には、近習の小侍に刺殺きれしとあり。此人の罪惡、天譴を逸れざることなれば、將軍家執權の條にしるせしゆへ爰に略す。【東鑑】に、右大將家の法華堂の山上へ葬、墳墓を號して新法華堂と云由見へたれども、墓今は廢して見へず。
[やぶちゃん語注:「順次往生」とは現世での一生を終えて直ちに浄土に生れることを言う。植田の「潤飾」(潤色と同じ)という謂いが、すぐ後に現れる義時への強烈な批判的スタンスを既に物語っていて面白い。現在は、大江広元の墓へと向かう階段の手前、三浦泰村の墓とされるやぐらの手前の空き地を法華堂跡として比定している。]
修理亮時氏墳墓 北條泰時の嫡男なり。父泰時に先達て、寛喜二年六月十八日、歿する時歳二十八、大慈寺の側なる山嶺に葬すとあり。大慈寺も廢跡となりし故、時氏が墳墓しれず。時氏男子二人女子一人、武州經時・相州時賴女子一人、賴嗣將軍の御臺なり。世に北條九代と称する時は、此時氏を加へて九代なり。
[やぶちゃん語注:底本では「【北條九代】」とあるが、ここは書名ではないから排除した。「大慈寺」は現在、明王院と光触寺の中間点、六浦道の明石橋を渡ったところを左に折れた住宅街(住所は十二所)に比定されている。]
賴嗣將軍御臺の墳墓 經時が墓の側に葬るとあり。此御臺所は經時妹なり。寶治二年佐々目谷の堂にて、經時第三年の佛事を修し、導師般若坊律師、又千僧供あり。正嘉二年三月廿三日、武州經時十三年の佛事、佐々目谷に塔婆供養せらる。導師壽福寺長老悲願房朗譽と云云。今二ケ所ともに知れず。
[やぶちゃん語注:次項の注を参照。]
北條武藏守平經時墳墓 經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。
[やぶちゃん注:第四代執権北条経時の墓は現在、彼が開基である海岸に近い光明寺のやや高台にある。ところが「新編鎌倉志」でも経時墓の記載がない。これは按ずるに、開山塔と一緒にあったために経時墓と認識されていなかったのではあるまいか。さすれば、ここに妹の墓も一緒にあったはずである。しかし、「知れず」とあるけれど、現存する経時の墓は、これ、かなり立派な宝篋印塔で目立ち過ぎるぐらいなんだけどなぁ。]
冷泉爲相卿墓碑 綱引地藏の後の山上にあり。爲相卿は權中納言爲家卿の息男にて、從二位中納言なり。遺跡爭論の事にて、母君は阿仏尼と稱す、兩君ともに鎌倉へ訟に下向、親子鎌倉にて歿し給ふといふ。【常樂記】には、爲相卿は京都にて逝し給ふとあり。下向せられしは永仁三年十月の事にて、歿年は嘉暦三年七月十六日といふ。
[やぶちゃん語注:「網引地藏」は浄光明寺裏を少し登ったやぐら内にある。冷泉為相は藤原定家の孫に当たる。「母君は阿仏尼と稱す、」の読点は底本では句点であるのを訂した。]
阿佛尼墓碑 扇ケ谷に有といへども、今は英勝寺の境内ゆへに、其墓碑を見ることかたし。京都大通寺にも碑ありといふ。
畠山六郎重保石塔 由井濱大鳥居より東の方にあり。五輪の石塔なり。明德四年に建たる銘有て、願主道友と銘せり。重保が此所にて討死せしは、元久二年六月廿二日の事なり。討手には佐久間太郎といふ者向ひしといふ。
忍性上人墓碑 爲相卿の墓ある所より、東の方の山を踰て、谷間に五輪の塔あり。是をいふ。此人は極樂寺の開山にて、道德の人ゆへ菩薩號を賜ひ、嘉元二年六月廿三日寂〔八十七。〕。
[やぶちゃん語注:現在、忍性の墓は極楽寺境内西方にあるものがそれとされている(銘はないが、均整のとれた五輪塔の名品であるが非公開である)。ここに記されているものはその位置から、現在、覚賢塔と呼称される冷泉為相墓の東北にある五輪塔であることが分かる。この塔のある場所は正に忍性の開山になる多宝寺跡であり、この塔は今は多宝寺長老覚賢の墓塔として建てられたものであることが分かっている。これも大型で、残念なことにやはり非公開である。]
高時入道門葉頸塚 牛蒡が谷光觸寺より、北の方なる谷間に、頸塚とは唱ふれども、岩窟の内へ埋たるなり。土人等例の方言に、くびやぐらと唱ふ。何ゆへに、岩窟の事をやぐらといふにや。元弘三年五月廿三日、一門の人々高時の第へ籠りしが、各々最後に及び、東勝寺に入て自殺せしを、滅亡の後取集て爰に埋しといふ。
[やぶちゃん語注:「牛蒡が谷」は十二所神社奥の番場ヶ谷から瑞泉寺背後の天台山中腹貝吹地蔵の峰へと向かう沢筋に伸びる谷を言う。現在はお塔ヶ窪、北条の首やぐら等と呼称されている。因みに、ここは私が鎌倉で最も愛する場所である。]
上總介石塔 朝夷奈大切通と小切通の間なり。田圃にあり。傳へいふ、上總介廣常が石塔なりと。壽永二年十二月、梶原景時をして討しめ給ふ。是は古き事なるに、或説には、應永廿九年、佐竹上總介を、上杉憲直に命じて討せらる。比企ケ谷法華堂に入て、自殺せし首を取歸りて、持氏朝臣の檢に備ふ。上總介、もとより御敵申せしにもあらず、御下知にたがひしのみの罪なればとて、其首を此邊に埋させ給ふ。後に何人が塔を建けりといふ。多くは是なるべし。
[やぶちゃん注:私の知る限りでは、この石塔群は現存しない。]
志一上人墓碑 馬場小路の町屋の後なる西の方にあり。爰を鷺が谷といふ。此志一は仁和寺の僧にて、外法成就の志一上人と、【太平記】にも載たり。もと筑紫の人なるが、詔ありて鎌倉へ來れりといふ。貞治の頃にやありけん、其秋京都へ上りし時、佐々木道譽が家へ參り、さまざま物語りのうへ、細川相模守殿より、所願候間、速に願成就ある樣に祈りてたべとて、願書一通を封じ、供具の料とて一萬匹副て贈られしと、何心なく語りければ、淸氏何事の所願に候哉、其願書披見せんことを、懇切に再三上人をすかしければ、無是非願書を取寄せ、道譽に見せければ、道譽大に悦び、伊勢の入道が宅へ行、細川淸氏、陰謀の証據發覺せしことを讒訴せしより、淸氏は將軍の爲に終に討れ、家を失ひけり。其發りは、志一が愚直なるより、天下の大亂をおこし、死傷するもの多し。依て上人も京に住し得ず、又鎌倉へ歸り、寂せし年月しれず。又一説に鎌倉へ下向の時、文書を故郷に忘れ、如何せんとせしに、志一が使ひし狐一夜の内に在所へ歸り、其文書を持來り、志一に渡し、即時に斃れしゆへ、彼狐を埋て祠を建、稻荷と祝ひしは、巨福呂坂上の小祠是なりといふ。陀枳尼天の法者なれば、狐を使ひしことは勿論なり。鎌倉へ下りし、初畠山國淸野心有て、志一に外法を修せしめ、又細川淸氏と國清同意なるに依て、上人をして淸氏にも、咒詛を祈せん爲に計りし事なりといふ。
[やぶちゃん注:「馬場小路」は正しくは「ばんばこうじ」と読み、鶴岡八幡宮西側を走る道で、鉄の井から旧鶴岡八幡宮寺二十五坊跡辺り(小袋坂の下、道路が左へ大きくカーブル辺り)までを指した。「畠山國淸」(?~貞治元・正平十七(一三六二)年?)は南北朝期の武将。尊氏・直義に従って九州・畿内を転戦、京都を制圧して和泉守護となり、次いで紀伊守護となった。一度は直義についたが、結局、尊氏に寝返り、鎌倉公方足利基氏の補佐を命ぜられて関東執事となって鎌倉入りし、権勢を振るった(但し、彼は着任早々、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移して入間川御陣としている)。後に失脚、基氏と争うが敗北、その後の消息はよく知られていない。因みに、これは現在、鶴岡八幡宮から道を隔てた西北の斜面を登ったところにある志一稲荷のことを指している。]
大江季光入道西阿墓石 鷺谷尼菴の庭に在しといふ。是は雪の下淨國院住僧元運といふもの、永享中に造立せし由。此僧侶は、大江氏の出にて、大江時廣の末孫なるが、同族の因たるをもて、其追福の爲に造立せし由。今は其塔も、剥落頽破して其形も全からず。大半土中へ埋しといふ。
[やぶちゃん語注:「雪の下淨國院」は「新編鎌倉志 卷之一」の鶴岡八幡宮の塔頭十二院の筆頭に掲げられている、以下に引用しておく。
淨國院 以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴が岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、
「大江時廣」は広元の子。三代将軍実朝近習。京都守護であった兄親広が後鳥羽方に就いて失脚したため、嫡男として大江家を嗣いだ。因みに彼以降は長井(若しくは永井)氏を名乗っており、この僧も俗名は長井(永井)姓であったと考えられる。]
古 蹟
葛原岡 假粧坂を踰て、北の方なる小笹原をいふ。相模入道高時が爲に、右少辨藤原俊基害せられし所なり。【神明鏡】に元德元年、俊基また關東へ召下され、葛原にて、五月廿日誅せられけるに、斯なん。
秋をまたて葛原岡に消る身の、露のうらみや世に殘るらん
【大平記】に、俊基は殊更謀叛の張本なれば、近日鎌倉にて、斬申べしとぞ定めける。俊基すでに張輿に乘せられ、假粧坂へいで、爰にて工藤次郎左衞門請取て、葛原岡に大幕を引て、敷皮のうへに坐し給へり。俊基疊紙を取出し、辭世の項を書給ふ。古來一句、無死無生、萬里雲盡、長江水淸云云、筆を置給へば、首を打といふ。永享九年十月、持氏朝臣、軍ついえて鎌倉を邁遁出んとして、葛原岡に行掛りけるに、上杉憲實が家老長尾尾張守入道芳傳、此所に待得て捕へ奉るとあり。里老の語るを聞に、むかし梶原景時が先組、鎌倉權守景成は、鎌倉并梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは、名もなき萱はらにて有しが、權守景成は、桓武平氏にて、葛原親王上り出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいわひ、葛原の宮とも御靈の社とも稱し、此岡に鎭座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱へを替てくづはらの御靈社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人稱しければ、竟に地名とは成にける。其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御靈の社とのみ唱ふ。されば社號は御靈權現にて、祭紳は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。又其後、鎌倉權八郎景經が代に至り、權五郎景政が靈を、御靈社に合せ祀れりといふ。是平氏の祖神なり。然るを、御靈の社といへば、權五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御靈社へ景政を配しまつれる事をしるべし。既に朝廷にても、八所の御靈と稱し祀らしめ給ふは、崇德院・後鳥羽院、或は親王・攝家・大臣のたゝりをなし給ふを、八所の御靈と稱し、祀り給ふを以て知るべし。
六本松 假粧坂の上に、古へは松の古木六本ありしが、近世は朽枯し、今は二本も殘れる歟。應永二十三年十月六日、上杉禪秀方の軍兵十萬騎にて、六本松に押寄る。上杉氏定、扇が谷より出向ひ、爰を先途と防ぎ戰ひ、岩松・澁川等入替々々攻しかば、氏定の方には、上田上野介〔松山城主。〕・疋田右京進討死し、氏定も自身深手を負て引退とあり。
人丸塚 巽荒神の東の方、畠中にあり。土人いふ、惡七兵衞景淸が娘、人丸姫といふものゝ塚なりといふは、【平家物語】に、景淸が女を、龜ケ谷の長に預しなどあるより、此塚の名を人丸姫が塚なりと、土人等いひ傳へけり。實はさにはあらず、古へ宗尊親王、敷しまの道を御執心ありしより、此邊に歌塚を築かせ給ひ、人丸堂をも御建立の地曳せられしが、世上の變異に仍て、急に御歸洛ゆへに、其事ならずして廢せり。夫ゆへ後に、景淸が女の塚と唱へ誤れる由。
盛久頸の座 長谷小路の南の方に、芝生の地をいふ。【東鑑】に見へず。【平家物語】に云、主馬入道は、盛國が末子、主馬八郎左衞門盛久、京都に隠れ居けるが、年來宿願にて、等身の千手觀音を造立し、淸水寺本尊の右の脇に安置し、千日參詣す。右兵衞佐殿、北條四郎時政に仰て、盛久を搦取べき由なれば、北條京中を尋求けれども、更にしれず。或時靑女來て、實にや盛久は、淸水寺へ夜毎に詣給ふなると申ける。北條殿悦て、淸水寺邊に人を置て伺ひ見せ、盛久を召捕て鎌倉へ奉る。盛久下着す。梶原景時仰を承て、心中の所願を尋申に、子細は述ず。盛久は平家重代の家人なれば、早く斬刑に隨ふべしとて、土屋三郎宗遠に仰て、首を刎らるべしとて、文治二年六月二十八日に、盛久を由比濱に引すへたり。盛久、西に向て念佛十遍許申けるが、如何思ひけん、南に向て又念佛二三十遍申けるを、宗遠太刀を拔て頸を打。其太刀中より打折ぬ。又打太刀も、目貫穴より折にけり。不思議の思ひをなすに、富士のすそより、光二筋盛久の身に當りたるとぞ見へける。宗遠使者を以て此由を申すに、又右兵衞佐殿の北の方の夢に、老僧一人來て、盛久の斬首の罪を、
[やぶちゃん語注:これは「平家物語」に記され、後に謡曲「盛久」として人口に膾炙するようになった観音霊験譚である。「宗遠使者を以て此由を申すに、」の読点は底本では句点であるのを改めた。]
正宗屋敷跡 鍛冶正宗が屋敷跡は、勝橋の南の人家西頰、昔の鎭守稻荷といふ小祠あり。神體に、正宗が鍛し寶劔を納しゆへ、土人
[やぶちゃん語注:「勝橋」(かつのはし)は寿福寺門前にあった鎌倉十橋の一つ。現在は完全な暗渠となって存在しない。]
佛師運慶屋敷 正宗屋敷の西をいふ。運慶は東寺の大佛師なり。是も鎌倉より召に依て、京都より來住せしゆへ、將軍家より屋敷を賜ひ住せしなり。湛慶・康運・康辨・康勝・運賀・運助等に至れり。
景淸牢跡 扇ケ谷より假粧坂へ登る道端の左に、洞窟あり。上總七兵衞尉景淸が牢なりといふ。或は云、景淸は鎌倉へ來らず。【東鑑】にも景淸が事見へず。【長門本平家物語】に、建久六年三月十三日、右大將家東大寺供奉の時、上總ノ惡七兵衞景淸、鎌倉殿へ降人と成て參りければ、和田義盛に預けらる。然るに無體我儘なること多ければ、義盛もてあまし、餘人に預け給ふべしと申けるゆへ、其後八田知家に預給ふといふ。或はいふ、景淸も、預り人は替れども、宥免の沙汰もなければ、助けられまじきことを知て、其後は醤水を斷て、同七年三月七日に死けるといふ。右大將家、建久六年二月十四日御上洛、同年七月八日鎌倉へ還御とあり。義盛・知家も供奉せり。景濟が死去は翌年なれば、鎌倉へ知家が具して來り、鎌倉にて死せし事は、【日本史】等にも載たり。土の牢に入たるといふはなき事にて、洞窟は、土人が設て人をあざむけるものなり。偖景清が事は、古くよりつくり物語、又は戯作の僻名本などに事たるは、皆僞ごとにて、淸水觀音を信じ、冥助を得たる事は、主馬の盛久が事によそへ、鄙人の姿にやつし、右大將家を伺ひねらひしことは、兄忠光が義烈に似せ、或は賴朝卿の御服を乞得て、短刀をもて悉く裂切て、存念散ぜりとて、眼をつき潰し、盲人となりしなどいふ事は、豫讓が行ひにやつせり。是等の事、景淸が仕業には一つもなき事にして、忠光が義烈の事を、景淸なりと世人思へる者多し。又云、平氏家人、降人と成て出たるもの多けれど、大抵御ゆるしを得て、御家人に召仕はれけるゆへ、景淸も降人と成て出たるならん。御者免の御沙汰なき内は、囚人なれば、夫々に預け置れしが、年月を經ても御沙汰なきは、右大將家も思慮を廻らされ、景淸が親は、平家武者所別當上總介忠淸が子なり。景淸が兄忠光も、義烈を顯し誅殺せられ、景淸も容貌身體長大にして、力量人に超へ、武勇勝れるものなれば、容易に御者免なきも故ある事にて、且降人と成て出たれば、其疑ひありといへども、させる凶惡をなせしにもあらねば、刑にも處しがたく、日數經し内には、彼ももと常人ならねば、終には何事をか計りけんと、兼て思慮をめぐらされし事なるべし。
[やぶちゃん語注:「醤水を斷て」は「醤」は最低限の口にするものとしての舐め味噌を指して、食物や水といった口にするものを一切断つことを言っているのであろう。この植田の推理は、細かい部分に拘った(それは私に似ているのだが)かなりねちっこい(故に好きなのだが)ものである。]
御猿畠 名越切通より北なる山をいふ。三浦の堺なり。土人相伴ふ、むかし日蓮、鎌倉へ始て來り住ける時、此山中に、洞窟あるをすみ家となせり。里人いまだ日蓮の德ある事を知らず。夫ゆへに一飯をも與へず。此時山中の猿ども、群り來りて畠に集り、食物をいとなみ、日蓮へくらじける。日蓮思ふに、山中に山王祠あれば、猿ども我を養ひしは、全く山王の御利生なりとて、其後此山の南に法性寺を建立の時、山號を猿畠山と名附しは、此いはれなりといふ。
[やぶちゃん語注:「くらじける」は、文脈から「くらじ」が「くらず」で食べさせるという意味のザ行四段の他動詞ということになるのであろうが、私は過去に於いてこのような古語動詞を知らない。識者の御教授を乞う。「猿畠山」は「えんはくざん」と読む。]