新編鎌倉志卷之一
やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
新編鎌倉志卷之一
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」は延宝年間(一六七三~一六八一)に水戸藩主水戸光圀(寛永五(一六二三)年~元禄十三(一七〇一)年)が家臣で彰考館(光圀が『大日本史』編纂のために江戸小石川門の藩邸内に置いた修史局)館員であった河井恒久(友水)や、松村清之(伯胤)・力石忠一(叔貫)らに命じて編纂した。当初、光圀自身が延宝二(一六七四)年に来鎌、名所旧跡を歴遊、家臣に記録させた「鎌倉日記」がプロトタイプである(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行一回きりであったと言われている)。後、延宝四(一六七六)年の秋、河井に社寺名刹の来歴に就いて調べさせた。当時、鎌倉英勝寺に療養中であった現地の医師松村清之は頗る鎌倉の地誌に詳しく、河井はこの松村に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くなり、力石が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられた、全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌である。当時の鎌倉(江ノ島及び金沢を含む)の名所旧跡を図を交えて総数百十九部に及ぶ文献史料を用いながら詳述、後の近世鎌倉の衰微や明治の廃仏毀釈によって既に失われた多くの記載が往古の鎌倉を偲ばせる。また、今に伝わる鎌倉史跡の名数「鎌倉七口」「鎌倉十井」「鎌倉十橋」等の選定も、本書に基づくものである。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。「こ」の字を潰したような踊り字は「々」に代えた。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本ではしばしば「已」と「巳」の活字の一部が誤って植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。また、底本では一切行空けはないが、読み易さを考え、各項目の前後に空行を設けてある。【二〇一〇年一月二日】
本文再校、誤字脱字を補正した。【二〇一一年二月二日】
底本とした昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』は多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせるものがあるが、今回、新たに入手した汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂を開始した。但し、影印は本文も片仮名を用い、更に読点を一切用いない総句点で、これは現代では極めて読み難いので従来の底本に従った。字配りも影印と底本では大きく異なるが、原則、底本に準拠した。但し、この校訂で以下のような大きな変更を底本本文に加えることとした。
●漢字及び読みを含む片仮名表記の底本の誤植(及びそう判断されるもの)は、これを訂した。その際、思いの外その数が多いため、一々訂した旨の注記は原則として施していない(例:底本の誤植である引用書目「花押籔」を影印目視によって「花押藪」と正したこと。)。なお、原則として影印の歴史的仮名遣の誤りは正さず、そのまま表記した(五月蠅くなるのでママ表記等は行っていない。疑義のある部分は私のタイプ・ミスでないとは言い切れないので、早稲田大学の古典籍データベース「新編鎌倉志」等で御確認頂きたい。その際、私の誤植と判断された場合は、本頁の充実のために出来ればメールで戴けると恩幸これに過ぎたるはない)。また、影印で正字ではなく略字を用いていても、底本で正字表記となっていたものは敢えて変更していない。
●底本の漢文脈の一部の句読点を、読み易さを考慮して私の判断で変更した。
●濁点については底本・影印で有無がある場合、濁点ありの方を採用した。濁音と思われるも何れも清音で表記されている場合や影印のみにしか見られない清音は清音のままとした(読みに非常に多い)が、別な箇所で濁音表記が見られる地名(例:「鶴カ岡」は他の箇所で明確に「鶴ガ岡」とあり、後者で統一したこと。)や、以下に示すように、影印でしか見られない漢文訓読部分では、読み易さを考慮して私の判断で濁音表示とした部分が多々ある。
●漢文脈の多くは底本では白文であるが、影印ではその多くに明白な訓点と熟語を示す付点が附されている。そこで、それが返り点で戻っている部分を含む句や文節、白文のままでは極めて難訓と思われる句や文節は、直後に( )で書き下し文を示した。訓読は助詞・助動詞相当の助字以外は漢字表記を残す一般的な法を採った(従って「如し」は平仮名表記とした)。読み易さを考慮して送り仮名の一部を私が〔 〕で補い、一部に句読点も追加してある。煩瑣ではあるが、置き字がある際にも、原文文字列を示してから、改めて( )で書き下した。それが底本への礼儀であると考えたからである。但し、返り点のない平易な文字列であったり、影印で漢文の送り仮名風に附されているに過ぎない片仮名は平仮名で本文同ポイントで取り込んである箇所もある。
●元が白文と思われる有意に長い漢文文字列や鐘銘等は白文の後に別個に纏めて訓読文を配した。
●フルにルビ表記が成されている地名・人名途中の「ノ」(例:由比里「ユヒノサト」等)はルビとして表示した。逆に官名や名前の前だけの「ノ」は「の」として本文に示した(但し、見出し項目の場合は例外として不完全であってもルビとした。例外として「五指量ノ愛染明王ノ像」のように見出し項目であっても読みがなく、送りの「ノ」しか示されないものは本文ポイントとして平仮名で出した)。結果として「源の賴朝」のような、現在では不自然さを感じさせる箇所や見出し項目表記の不統一が生じたことはここにお断りしておく。その他にもルビの一部を私の判断で本文ポイントで出した箇所がある。例えば、底本ではルビなしの「移住す」は「いぢゆうす」と読むものと思っていたところが、影印を見ると「移」に「ウツリ」とルビがあり、これは「うつりぢゆうす」と訓じていることが判明する。こうした箇所は読み易さを考え、ルビの「ウツリ」の「リ」を本文ポイントで「り」と出した。御了解頂きたい。
●その他、片仮名の「井」や「子」は、それぞれ「イ」「ネ」とし、また、本文の一部にも読み易さを考慮して私の判断で句読点や「・」等を補った箇所がある。踊り字「/\」の濁音は正字で表記した。
以上は一次資料の影印本によって校訂しながらも、底本雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』の雰囲気を損なわないことを目的として、私の下した特殊な形式ではある。異論のある方は何時でも立ち去られ、私の本テクストを用いないがよい。但し、私自身としては、本仕儀による本テクストは「新編鎌倉志」の現時点での、正字の最良のテクストの一つであるという自負を秘かに持っている。【校訂開始:二〇一一年五月五日 校訂終了:二〇一一年五月二十一日】]
新編鎌倉志卷之一
河井恒久友水父纂述
松村淸之伯胤父考訂
力石忠一叔貫 參補
○鎌倉大意
《鎌倉といふこと》相州鎌倉郡は、【詞林采葉抄】に云、鎌倉とは鎌を埋む倉と云詞なり。其濫觴は、昔し大織冠鎌足いまだ鎌子と申せし比、宿願の事ましますにより、鹿島參詣の時、此由比里に宿し給ひける夜、靈夢を感じ、年來所持し給ひける鎌を、今の大藏の松岡に埋み給ひけるより、鎌倉郡と云。因之思ふに、歌に鎌倉山の松とよみつゝくること、鎌を埋む所、松岡なればなり。凡そ鎌の字の釋訓、松の字の釋訓、是れ異國・本朝ともに其理これ多し。先つ鎌の字は、兼金(金を兼る)と書ける字也。金は司甲兵武器也(金は甲兵武器を司るなり)。倉の字は、人一君と書けり。然れば鎌倉は、武備兵將の居なる者也。【地理全書】を披見して、此所の風水山嶺を按ずるに、今の鶴岡は大倉と云山なり。西に高き山は武曲星の地に相ひ當る。其名を武山と云ふ。又西に山あり。武庫と號す。龜谷の山也。是則ち鎌倉中央第一の勝地也。此等の山悉く倉庫の名あり。其の中央の山玄武に當る。貴人金爐等を朱雀に當つ。左大倉右武庫(大倉を左にし、武庫を右にす)。武將居を成さんに於て吉慶あるべし。【全書】に曰、大倉・武庫按龍行(大倉・武庫龍行を按ず)。前有金爐・玉案迎(前に金爐・玉案有りて迎ふ)。若し遷此地於王侯宅(若し此地に王侯の宅を遷〔さ〕ば)、白屋爲官名目成(白屋官を爲し、名目成〔ら〕ん)。行軍出陣唱喏(軍を行〔く〕り、陣を出、唱喏す)。所有排衞及貴人(有〔る〕所、排衞及〔び〕貴人)、十里方圓皆變改す。受職金牌玉榜名實(職を受くる金牌玉榜の名實)、此の外大藏も亦倉也、崇山も亦武也、然鎌字兼金也(然れば鎌の字金を兼するなり)、金は西也、倉の字は人君也、因て案ずるに、兼西人(西を兼る人)、君の居たるべき理明白也、玆を以て大織冠の古を勘ふるに、此地鎌を埋み給ひて後、天智天皇八年にや、中臣の姓を改めて藤原と賜はり、内大臣に任して以降、代代の皇帝の執柄として、末代に至るまで萬國を治め給ふ。隨而彼玄孫染屋太郎大夫時忠(隨て彼の玄孫染屋太郎大夫時忠)〔東大寺良辨僧正の父也。〕文武天皇の御宇より、聖武天皇神龜年中に至るまで、鎌倉に居住して、東八箇國の總追捕使にて、鎭東夷守國家(東夷を鎭め國家を守る)。其の後平將軍貞盛の孫上總の介直方、鎌倉に家居す。《鎌倉と源氏》鎭守府の將軍兼伊豫の守源賴義いまだ相模の守にて下向せし時、直方が婿となり給ひて、八幡太郎義家出生し給ひしかば、鎌倉を護り給ひしより以來、源家相傳の地として、去る治承五年辛丑に、右幕下征夷大將軍、鶴岡に八幡宮を崇めたてまつり給ふ。如此(此〔く〕の如〔く〕の)義理を案ずるに、先に述するがごとく、王城は西也。鎌倉は東也。此義を含むに依て兼金(金を兼する)人君と訓釋する者也。鎌倉の君將は都鄙の政を扶け、武勇を專にして、帝都を守護し奉るべき道也。寰中は天子の勅、塞外は將軍の令と云ふが如し。京・鎌倉是也。故に天子は禀天命以正王制(天命を禀て、以て王制を正〔し〕くし)、將軍奉王命以守將道(將軍は王命を奉〔り〕て以て將道を守る)。然將軍代々以鎌倉爲基(然〔ら〕ば將軍代々鎌倉を以て基と爲す)。此の字の訓若し相當理(理に相當らば)、末代も亦可然(然るべし)。抑松岡に八幡大菩薩を勸請し給ふ事、此又不思議の理也。其の故は、彼の大菩薩は應神天皇の垂跡として、神功皇后三韓征伐の時、胎内にして將軍の位を得せしめ給ふ。誕生の砌に、天より八流れの幡降下る。鎭護國家武將擁護の神也。本地は是彌陀如來。是亦兼西(西を兼ぬる)の理を含む者歟。次に松が岡に鎌を埋み給ふ事、松は木公と書く。是れ司東(東を司る)義也。彼此金を兼る人君符合する者乎。鎌倉山に詠松(松を詠める)事、上古の作者末代を鑒みるに非ずやと有。《大臣山》今按ずるに、大織冠、鎌を埋み給ひたる地は、今の上の宮の地なり。此を松が岡と名く。故に後の山を大臣山と云なり。此地に本は稻荷の社ありしを、賴朝卿、建久二年に、地主稻荷を西の方丸山に移して、八幡宮を此の所に勸請し給ふ。是の故に上宮を松が岡の八幡宮と云ふ。【鶴岡社務次第】にも、松が岡八幡宮別當職とあるは、上の宮の事也。社務の云傳るにも、上の宮を松が岡と云、下の宮を鶴が岡と云ふ。又松が岡の明神と云て、鶴が岡にて御供具ふる神あり。丸山の稻荷明神なり。是れ舊に依て松が岡の明神と云なり。俗に傳ふる淨妙寺中の稻荷明神を、鎌を埋みたる舊地と云ひ、又東慶總持寺を、松が岡の舊地と云は皆誤りなり。【萬葉集】の歌に、〔作者不知〕「薪こる、鎌倉山のこたる木を、松とながいはゝ戀つゝやあらん」。又藤の實方の歌に、「かきくもりなどか音せぬほとゝぎす、鎌倉山に道やまどへる」。大納言公任の歌に
「わすれ草かりつむばかり成にけり、跡もとゞめぬ鎌倉の山」。慈鎭和尚の歌に、「ながめ行心のいろぞ深からん、鎌倉山の春の花園」。法印堯慧が歌に、「都思ふ春の夢路もうちとけず、あな鎌倉の山のあらしや」。鎌倉山とは大臣山を云となり。源の順が【和名抄】に、鎌倉郡の内に、鎌倉の里あり。何れの地を云ん歟不分明(分明ならず)。大臣山を鎌倉山といへば、雪下を鎌倉の里と云んか。藤の實方の歌に、「民も又にぎはひにけり秋の田を、かりてをさむる鎌倉の里」。又【續古今集】に、鎌倉の右大臣の歌に、「宮柱ふとしき立て萬代に、今ぞ榮へん鎌倉の里」。
【夫木集】に、藤原の基綱の歌、「昔しにもたちこそまされ民の戸の、煙にぎはふ鎌倉の里」。
又、「東路やあまた郡のその中に、いかて鎌倉さかへそめけん」。中務卿の〔宗尊親王〕歌に、「十年あまり五年までも住馴て、なをわすられぬ鎌倉の里」とあり。按ずるに、【東鑑】に、陰陽の權の助國道が云、
所謂(謂は所る)四境とは、東は六浦、南は小坪、西は稻村、北は山内とあり。然れば此の内を鎌倉と云ふべし。《鎌倉七郷・七口》
【鶴岡記録】に云、鎌倉の谷七郷とは小坂郷・小林の郷・葉山の郷・津村の郷・村岡の郷・長尾の郷・矢部郷を云なり。
鎌倉の七口とは名越切通・朝夷名切通・巨福路坂・龜谷坂・假粧坂・極樂寺の切通・大佛の切通、此外に小坪切通、稻荷坂あり。稻荷坂は十二所村より、池子村へ出る坂也。
鎌倉地理之圖
[やぶちゃん注:この図は底本では上記の文中に二頁に跨って掲載されている(影印では冒頭に配している)。接合して表示するのが最適であるが、同一頁内ではブラウザに不具合が生じるため、底本同様に二枚に分けた。但し、周縁部の文字の切れは原本のママである。]

○鶴岡八幡宮〔附、雪の下・由比の濱・新宮〕
鶴岡八幡宮は、【東鑑】に、本社は、伊豫の守源賴義、勅を奉て、安倍貞任征伐の時、丹祈の旨有て、康平六年秋八月、潜に石淸水を勸請し、瑞籬を當國由比郷に建つ。〔今此を下の宮の舊跡と云也。〕永保元年二月、陸奧守源の義家、修復を加ふ。其の後治承四年十月十二日、源の賴朝、祖宗を崇めんために、小林郷の北の山を點じて宮廟を構へ、鶴岡〔由比〕の宮を此所に遷し奉る。しかれども、未だ華構の飾りに不及(及ばず)。先づ茅茨の營みをなす。建久二年四月廿六日、鶴岡〔小林〕若宮の上の地に、始めて八幡宮を勸請し奉ん爲に、寶殿を營作せらる。今日上棟也。同〔じ〕く十一月廿一日、鶴が岡八幡宮、并に若宮、及び末社等の遷宮とあり。〔按ずるに【東鑑】に、去る三月四日、小町の邊より出火して、幕府并に御家人の屋・若宮の神殿・回廊・塔婆等、悉く灰爐となると有。此建立は、それゆへなり。〕
今按ずるに、由比濱の下の宮の舊地を、昔しは鶴が岡と云なり。【東鑑】に、治承四年十月七日、賴朝先づ遙に鶴が岡の八幡宮ををがみ奉るとあるは、由比濱の宮なり。小林郷に遷して後も、又鶴が岡の八幡宮と云傳へたり。昔しは御供料所に、當國桑原郷を寄付せらると。【東鑑】に見へたり。賴朝直判の書にも社領の事あり。今は永樂錢八百四十貫文あり。毎年八月十五日放生會。同〔じ〕く十六日矢鏑馬。二月十一月の初の卯の日倍從。
今に不絶なり(絶へざるなり)。【新拾遺集】に左兵衞の督基氏の歌、「鶴が岡こだかき松を吹風の、雲井にひゞく萬代の聲」。【夫木集】に爲實朝臣の歌、「鶴が岡あをぐつばさのたすけにて、高きにうつれ宿の鶯」。又藤の爲相の歌に、「山路より出てやきつる里ちかき、鶴が岡べに鳴郭公」。法印堯慧が歌に、「吹殘す春の霞もをきつすに、たてるや鶴が岡の松かぜ」。一の鳥居の前東西へ通町を、【東鑑】には、横大路と有。《若宮大路》一の鳥居より、大鳥居までを、若宮大路とあり。今は堅横ともに、若宮小路と云なり。社の西の町を、馬場小路と云なり。《雪の下》總名を雪下と云なり。此の所に旅店あり。法印堯慧が歌に、「春ふかき跡あはれなり苔の上の、花に殘れる雪の下道」と詠ず。
社前より濱までの道、其の中の一段高き所を段葛と名く。又は置路とも云なり。【東鑑】に、壽永元年三月十五日、鶴岡の社頭より、由比濱にいたるまで、曲横を直して、詣往の道を造らる。御臺所〔政子〕御懷孕の御祈りに依て、此の儀を始めらる。賴朝手自沙汰し給ふ。仍て北條殿已下、各々土石を運ばるとあり。三所に石の鳥居あり。赤橋の前の鳥居より、間だ、四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云。二鳥居より間だ、六町四十五間にして鳥居あり。是を大鳥居と云ふ。《琵琶小路》二・三の鳥居の間の路、古は外の方へ曲て、琵琶の形の如し。故に琵琶小路と云。此間に橋あり。琵琵橋と云。或記に云、昔し和田合戰の時、宍戸左衞門家政、琵琶橋に於て、朝夷名義秀と戰ふて討ると、大鳥居より波打際まで五町あり。《由比濱》此の濱邊、東は飯島、西は靈山崎、其の間た、二四町あり。由比の〔比或は作居井(「比」は或は「居」「井」に作る)〕濱と云ふ。賴朝卿、此の浦邊にて、弓馬の藝を興じ給ひてより、代々の將軍此の濱へ出遊の事。【東鑑】に見へたり。
鶴岡八幡宮圖
[やぶちゃん注:底本では横に二頁に渡って配されているものを、縦にして見易くした。上方や中間部で画が切れているが、これは原本のママである。]
[やぶちゃん字注:以下、例えば「大鳥居」の見出しの次の行以下は、鶴岡八幡宮寺の各論として底本では次の「辨才天社」の前まで全体が一字下げとなっている。本頁ではブラウザ上の不具合を鑑みて字下げを行っていない。各項毎に総て同様であるので本注は以下省略する。図をご覧になると分かる通り、本文でも述べているが、鳥居の名称が現在のものとは全く異なるので本書全般を読む上で、注意を要する。現在、我々が一の鳥居と称している一番由比ヶ浜に近い鳥居は「大鳥居」「三の鳥居」であり、鶴ヶ岡八幡宮社頭の、現在、三の鳥居と呼んでいるものが、当時の「一の鳥居」である。本書ではこの「一の鳥居」=「現在の三の鳥居」を鎌倉の中心点として距離計算を行っているので、御間違いなきように。]
大鳥居 由比濱の方に有を大鳥居と云、兩柱の間た、下にて六間半、高さ三丈壹尺五寸。石柱のめぐり、壹丈二尺五寸、笠石の長さ八間なり。一・二の鳥居は、兩柱の間た、下にて四間、柱のめぐり七尺なり。東西の透門に、又鳥居あり。兩柱の間た壹丈三尺五寸、柱のめぐり四尺五寸。東西同じ。都て五所に鳥居あり。【東鑑】に、治承四年十二月十六日、鶴が岡の若宮に鳥居を立らるとあり。又【鶴岡社務次第】に、養和元年辛丑十二月十六日、若宮に鳥居を立らる。景時・景義等奉行す。武衞〔賴朝〕監臨し給ふとあり。又【東鑑】に、建保三年十月卅日。鶴が岡の濱の鳥居、新に造らる。去る八月の大風に、顚倒するが故なり。仁治二年四月三日、大地震、南風に、由比の浦の大鳥居、内の拜殿、潮に引かる。寛元三年十月十九日、由比濱に大鳥居を建らる。北條左親衞時賴、監臨せらるとあり。【鎌倉九代記】に、上杉安房の守入道道合、嘉慶二年六月、大華表を立られ、落慶供養を遂らるとあり。【關東兵亂記】に、北條氏康、先君の遺願をも果し、且は武運の榮久をも祈らん爲に、天文二十一年卯月に、由比の濱に大鳥居修造せらるとあり。賴朝の時建立有て、代々修復あり。今の鳥居は、寛文乙巳の年より、戊申秋に至まで上・下の宮、諸の末社等に至まで、御再興有し時の鳥居なり。其書付に、鶴岡八幡宮の石隻華表、寛文八年戊申八月十五日、御再興とあり。三所の鳥居共に如斯あり(斯くのごとくあり)。鳥居の石は備前の國犬島より取寄らる。其の時の奇瑞等の事、【寛文年中修復記】に詳なり。
辨才天社 社前の池中東の方にあり。二間に一間の社なり。辨才天の像は、運慶が作なり。膝に琵琶を横たへたり。俗に傳ふ、小松大臣の持たる琵琶なりと。【東鑑】に、壽永元年四月廿四日、鶴が岡若宮の邊の水田〔號絃卷田(絃卷田と號す)〕三町餘り、耕作の儀を停られて池に掘るとあり。地中に七つの島あり。相ひ傳ふ、賴朝卿、平家追討の時、御臺所政子の願にて、大庭の平太景義を奉行として社前の東西に池を掘しむ。地中の東に四島、西に四島、合て八島を、東方よりこれを滅すと祝す。東に三島を殘す。三は産なり。西に四島を置。四は死なりと云心なりけるとぞ。
赤橋 本社へ行く反橋なり。五間に三間あり。昔より是を赤橋と云ふ。【東鑑】に往々見へたり。
二王門 三間に二間あり。額に、鶴岡山とあり、曼殊院良恕法親王の筆なり。兩傍に二王の像あり。昔は八足の門有ける歟、【東鑑】に正治三年八月十一日、大風に、鶴が岡宮寺の八足の門顚倒の事あり。
舞殿 上の地へ登る石階の下にあり。三間に二間あり。
石階 此石の階を登り、北に向て本社へ行く也。是より上を上の地云也。本社あり。是より下を下の地と云。若宮あり。此の石の階の下、東の方に梛の樹あり。西の方に銀杏の樹あり。【東鑑】に、承久元年正月二十七日、今日將軍家〔實朝〕右大臣右拜賀の爲、鶴岡八幡宮に御參、酉の刻也。夜陰に及て、神拜の事終て、漸く退出せしめ給ふ處に、當宮別當阿闍梨公曉、石の階の際に窺來り、劔を取り、丞相を奉侵(侵し奉る)とあり。相ひ伴ふ、公曉、此銀杏の樹の下に女服を著て隠れ居て、實朝を弑すとなり。
樓門 額に、八幡宮寺とあり。良恕法親王の筆なり。樓門、三間に二間あり。回廊は、樓門に續き回らす。北の方は十四間、東西十六間づゝ、南面にて樓門の東西四間づゝあり。前に銅燈臺二樹兩傍にあり。左の方にある燈臺の銘に、延慶三年庚戌七月、願主滋野景義、勸進藤原の行安とあり。右にある燈臺には、奉寄進鎌倉八幡宮殿燈籠(寄進し奉る鎌倉八幡宮殿の燈籠)、
向井將監忠勝(向井將監忠勝)、息子兵部鶴千代(息子兵部鶴千代)、爲傳武運於長久、保壽算於遠大、而三身安樂、同苗繁茂故也(武運を長久に傳へ、壽算を遠大に保〔ち〕て、三身安樂、同苗繁茂の爲めの故なり)。仍ち銘に曰、燈籠玉成(燈籠玉の如〔く〕に成る)、明德見新(明德新を見る)、天命不昧(天命昧らまず)、日月星辰、(爰に希くは武運)、咨保福來瑧(咨保福來り臻らんことを)、寛文龍集戊辰(寛文龍ほし戊辰に集る[やぶちゃん注:この「龍ほし」は私は「とほし」(=通ほし)と訓じた。識者の御教授を乞う。])、十一月如意珠日、相州三浦紫陽山白室叟書(書す)、勸進沙門莊嚴院法印賢融(勸進の沙門莊嚴院の法印賢融)、大工江州太田佐兵衞藤原友定(藤原の友定)とあり。
上宮 此即ち上の地、本社應神天皇なり。此の地を元松岡と云。《大臣山》上の山を大臣山と云。【鶴岡八幡宮記】に、上宮三所は、中は應神天皇、東は氣長足妃、應神の御母神功皇后也。西は妃大神、應神の御姊也。然ば應神の御父仲哀天皇は、何れの處に坐し給へる乎。曰く、神宮寺に、本社垂跡合體にて坐し給ふ也。上の宮三所は、阿彌陀の三尊の義に依る也。仲哀天皇は、本地は藥師なる故に奉除之也(之を除〔き〕て奉るなり)とあり。本殿は、竪九間、横三間、幣殿は四間に三間、拜殿は、四間に二間なり。
棟札
[やぶちゃん字注:ここは改行されている。影印では本文から二字下げ(実質三字下げ)となっている。以下、「源の朝臣」「備前の守源の姓松平氏隆綱」「修理藤原の長常」「木原内匠藤原の義永」という送り仮名とルビが附されているが、棟札は白文と思われるのでここに示した。]
上棟、相州鎌倉鶴岡八宮、寛文八年戊申、八月十五日、征夷大將軍右大臣正二位源朝臣修造、奉行從五位下備前守源姓松平氏隆綱、大工鈴木修理藤原長常、木原内匠藤原義永。
武内社 本社の西の傍、玉垣の内にあり。武内宿彌なり。社は二間に一間あり。玉垣、北の方にて十二間、東西は八間あり。
座不冷壇所垣 回廊の東方にあり。天下安全の御祈願所なり。御正體と號して、壇を構へて、鏡に彌陀の像を打付たる物を厨子に入、鎖をおろして有。又立像の十一面觀音、坐像の金銅の藥師も厨子に入る。十二坊、輪番に一晝夜つゝ相勤む。最勝王・大般若・仁王等の經を更る/\讀誦す。鈴の音常に社外に響く。是を座不冷の行法と名く。平生勤め行て坐をさまさずと云義なり。鎌倉の俗語には、ざすと云也。龜山帝の時、御夢想に依て、御祈禱の綸旨院宣を成し下さる。弘安八年三月十七日に、始て勤め行ひしより、今に懈怠なしと云なり。按ずるに。【東鑑】に、治承四年十月十六日、賴朝の御願として、鶴が岡の宮にて長日勤行を始めらる。所謂(謂は所る)法華・仁王・最勝王等の鎭護國家の三部の妙典、其の外大般若・觀音經・藥師經・壽命經等也とあり。昔より有事と見へたり。毎日の勤行を著到に記するなり。昔し賴朝卿、供僧の一臈を以て、始て執行職に補せられしより以來、祭祠・勤行・法例・著到等、皆執行ノ事也。
小御供所 樓門の西の方の囘廊にあり。毎月、朔日・十五日、又五節供に、御供を具る所なり。御殿司一人出て、八幡宮并に諸末社等に供す。
賴朝社 本社西の方にあり。三間に二間あり。玉垣、東西四間、南北六間あり。《白旗明神》白旗明神と号ス。社内に賴朝の木像、左に住吉。右に聖天を安す。賴家創造也と云傳ふ。寛文戊申の御再興以後、毎年正月十三日、御供を獻じ、樂を奏し神事あり。
竈殿 賴朝社の西の方にあり。五間に三間あり。【八幡宮記】に、八幡の姨寶滿菩薩を安ずとあり。俗に、おみるめとも申すと也。此の所ろ大御供所なり。毎年正月三箇日、四月三日の御祭禮五々三の御供、御寶殿に獻る。樂を奏するなり。
愛染堂 賴朝社の向ふにあり。堂三間四方あり。愛染像は、運慶作。又堂内に地藏あり。二位尼〔政子〕の本尊と云傳ふ。たしかならず。供僧の云く、赤橋下東方に昔し地藏堂あり。礎石今尚を存す。此堂の本尊を二位の尼の本尊と云ふ。今は在所不知(知れず)と。
稻荷社 本社の西の方、愛染堂の西の山にあり。二間に一間あり。井垣三間四方也。此山を丸山と云なり。本社の地に、初は稻荷の社ありしを、建久年中、賴朝卿、稻荷の社を此山に移して、今の本社を剏建せらる。爾後頽破す。《酒の宮》今の稻荷の社ろ、本は仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥の人の木像とを安じ、酒の宮と號す。近き頃大工遠江と云者有。甚だ酒を好で此を寄進す。《松岡稻荷》寛文年中の御再興の時、其體神道・佛道に曾て無き事也とて、酒の宮醉臥の像を取捨て、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山に社を立て、舊きに依て松岡の稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安ずる也。
影向石 相ひ傳ふ、正應二年二月四日、大風雨して、此石涌出す。供僧圓頓坊の夢に、座不冷の行法を聽聞のために、龍神の來る座石也と。古は一つ有り。今は二つ有。いづれを眞僞としがたし。
鶴龜石 水にて洗へば光浮いでゝ、鶴龜の如きもの輝き見ゆなり。影向石と共に、本社の前左の方にあり。
六角堂 回廊の外東の方、座不冷の壇の前の庭にあり。六十六部の聖經を納る堂なり。
下宮 上の地の石の階を下り、東の方なり。額に若宮大權現とあり。靑蓮院尊純法親王の筆也。是を若宮と申す。仁德天皇なり。【東鑑】に、治承五年五月十三日、鶴が岡若宮の營作の事あり。大工は、武州淺草字は郷司と云者也。當宮は、去年假に建立の號有といへども、楚忽の間た、先つ松の柱、萱の軒を用らる。仍て花構の儀をなし、專ら神威を賁らる。同〔じ〕く八月十五日、鶴が岡若宮遷宮とあり【鶴岡八幡宮記】に云、下の宮四所とは東二所、久禮・宇禮也。仁德の御妹なり。中は若宮、則ち仁德なり。西は若殿、是も仁德の御妹と云ふ。本殿は五間に三間、幣殿は四間に三間、拜殿は三間に二間、玉垣は北の方十間東西八間づゝあり。玉垣の内に梛樹あり。【寛文年中修復記】に云、此の梛樹、切取べき歟の事、凡慮を以てはかりがたきゆへ、寶前にて鬮を取る。切取べからずと治定して、今尚あり。棟札、上の宮と同じ。但し下の宮には、鶴が岡八幡の若宮とあり。
高良大臣社 上の地の石の階を下り、左の方、梛の樹の東にあり。【八幡宮記】に云、又玉垂の大神と號す。應神の臣也。
三島・熱田・三輪・住吉の社 高良の東にあり。四神同社なり。【東鑑】に、文治六年四月二日、鶴が岡の末社三島の社の祭とあり。又云、元暦元年七月廿日、鶴が岡若宮の傍に於て、社壇を新造し、熱田大明神を勸請せらると。又文治五年七月十日。鶴が岡の末社熱田の社の祭と有。
天照大神の社 上の宮の石階を下り。右の方、銀杏の樹の西の方に有。
松童・天神・源太夫・夷三郎の社 天照大神の西にあり。四神同社也。松童は、【八幡宮記】に、八幡の牛飼也とあり。源太夫は八幡の車牛也とあり。或は元大武と書くなり。【東鑑】に建長五年八月十四日、始て鶴が岡西の門の脇に、三郎大明神を勸請し奉らるとあり。宗尊將軍の時なり。
輪藏 銀杏樹の西の方にあり。五間四方なり。一切經あり。實朝、朝鮮へ書を遣はし求めたる經と云傳ふ。按ずるに、【東鑑】に、建暦元年十月十九日、實朝將軍、永福寺に於て、宋本の一切經五千餘卷を供養せらるとあり。此宋本の經を轉傳して此の藏にをさめたるか。内に四天王を安ず。毘沙門は、渡海守護の爲に、朝鮮より載せ來るとなり。【鶴岡社務次第】に、建久五年甲寅十一月十三日、一切經供奉〔不載【東鑑】(【東鑑】に載せず)〕の事あり。しかれば賴朝の時より、一切經供養の事は有しとみへたり。
護摩堂藏 輪藏の前に有。五間に四間あり。五大尊は運慶作。大威德の乘たる牛の足、膝をかゞめたり。相ひ傳ふ、義經を調伏の時、膝を折りたりと也。【鶴岡社務次第】に、尊勝護摩始行はる。建武元年三月二十三日。擬八大佛頂(八大佛頂に擬して)人數八人、元は十六人とあり。
藥師堂 下宮の東の方にあり。五間に四間なり。藥師・十二神の木像あり。是を神宮寺と云ふ。【東鑑】に、承元二年四月廿五日、實朝將軍鶴が岡の宮の傍らに、始て神宮寺を建らる。同年十二月十二日造畢す。今日午の刻に、本尊藥師の像を安置し奉らる。同月十七日、藥師の像開眼とあり。又建暦元年十一月十六日、尼御臺所の御願として、金銅の藥師三尊の〔三尺〕像を供養せらる。此本尊は、鶴が岡神宮寺に安置せらるとあり。その像、今座不冷の壇に金銅の藥師あり。是なるべしと云ふ。或人の云、是を神宮寺と云は訛なり。神宮寺とは、別當職の所居を云なりと。然れども【東鑑】に、已に是を神宮寺と有。又本社をも、【東鑑】には神宮寺と有なり。淸重舞に、神宮寺の松風と有は、この藥師堂の前の松樹の事也。今古松樹あり。
塔 若宮の前にあり。五間四面なり。五智の如來を安ず。【東鑑】に、文治五年三月十三日、鶴が岡の八幡宮の傍に、此の間た塔婆を建らる。今日空輪をあぐ。二品〔賴朝〕監臨し給ふ。同〔じ〕く六月九日、御塔供養、導師は法橋觀性、願文は新藤の中納言兼光卿草す。堀河の大納言忠親卿淸書すとあり。
鐘樓 塔の東の方にあり。二間四方あり。鐘の大きさ徑三尺五寸、厚三寸五分あり。銘あり。如左(左のごとし)。
[やぶちゃん字注:以下の銘は底本では全体が二字下げ。字間も有意に空いているが、省略した。]
鶴岡八幡宮鐘銘并序
夫當宮者、馬臺東戌之州、鶴岡甲區之地、摸男山之宗祧、弘尊廟之權扉以降、禮神之囿、頌祗之堂焉、禮頌丕儼、春禴之奠、秋嘗之儀矣、春秋幾囘、鎭護年尚、答貺日新、然間、去玆迎姑洗不圖欠靈祠、肆深仰玄鑒、忽跂經始。課般※1兮、是尋是尺、用規矩兮、不愆不忘、土木之勤、既雖及兩祀、斧斤之功、殆可謂不日、傍斯苔壖、而復鴻基先撃蒲牢、而發鯨音、乃作銘曰、冶鑪甫就、寶器鑄陶、龍文製妙、鳧巧奇標、形非哆※2、聲不※3窕、應陰陽律、入宮商調、小大共振、淸濁孔昭、帶霜早和、隨風自搖、式驚于界、高徹九霽、梵響無斷、覃三會朝。
[やぶちゃん字注:「※1」=「仁」-「二」+「垂」。「※2」=「口」+「弇」。「※3」=「木」+「夸」+「瓜」。]
[やぶちゃん注:以下に、影印の訓読を示す。なお、訓読文から私が判断して、上記底本の読点の一部を句点に変更してある。
鶴が岡八幡宮鐘の銘并に序
夫れ當宮は、馬臺東戌の州、鶴岡甲區の地、男山の宗祧を摸し、尊廟の權扉を弘て以降、禮神の囿、頌祗の堂、禮頌丕に儼、春禴の奠、秋嘗の儀、春秋幾く囘、鎭護年尚〔し〕く、答貺日に新〔た〕なり。然る間、去玆姑洗を迎へて圖らず靈祠を欠く。肆に深く玄鑒を仰ぎ、忽ち經始を跂つ。般※1に課して、是れ尋是れ尺、規矩を用〔ひ〕て、愆まらず忘れず、土木の勤め、既兩祀に及ぶと雖ども、斧斤の功、殆ど謂ふべき日あらずと。斯の苔壖に傍て、鴻基を復す〔に〕先づ蒲牢を撃〔ち〕て、鯨音を發す。乃し銘を作〔り〕て曰、冶鑪甫めて就る。寶器鑄陶、龍文製妙、鳧巧奇標、形哆※2に非ず、聲※3窕ならず、陰陽の律に應じ、宮商の調に入る。小大共に振ひ、淸濁孔た昭かなり。霜を帶びて早く和し、風に隨〔ひ〕て自ら搖ぐ。式て于界を驚〔か〕し、高く九霽に徹す。梵響斷〔つ〕ること無く、三會の朝に覃ふ。正和五年二月日
なお、影印ではこの部分は次の「正和五年二月日とあり」に改行せずに繋がっており、鐘銘は「正和五年二月日」までと考えるのが自然であるから、以上の書き下しでは最後にそれを置いておいた。]
正和五年二月日とあり。【鶴岡社務次第】に、應永十三年七月十八日、小町の邊に火事出來、大風餘煙鐘樓に吹付る刻、一心院の大工、謀を致し、鐘樓に上り、彼の火を消す。然して新に造り訖る。銘は、正和年中の古本を寫す。建長寺廣嚴菴大建書之(之を書す)とあり。
實朝社 本社の西、坂の下にあり。二間に一間の社なり。柳營明神と號す。賴經の剏造と云傳ふ。
北斗堂跡 今は滅たり。古跡不分明(分明ならず)。【東鑑】に、建保四年八月十九日、鶴が岡の宮の傍に、別當定曉僧都、北斗堂を建立す。尼御臺所、御入堂とあり。又相承院藏書の【鎌倉記】に、應永年中に再興の事みへたり。今はなし。
神寶[やぶちゃん字注:ここは改行されている。]
弓 壹張。
靱 壹口。
眞羽矢 十五本。篦は黑し。鏃は皆眞鍮なり。其中に如此(此〔の〕ごとく)の鏃あり。長さ三寸二分。
又
如此(此のごとき)鏃あり。長さ一寸一分。常には異なり。
衞府太刀 壹振。長二尺餘。無銘(銘無し)。鞘は梨地なり。
兵庫鍍太刀 貳振。共に二尺餘。無銘。兵庫鍍とは云へども、古法とは異なり。
太刀 貳振。銘行光とあり。目釘穴なし。二尺餘あり。
太刀 壹振。銘綱家とあり。三尺餘あり。
太刀 壹振。銘泰國とあり。三尺餘あり。
太刀 壹振。銘綱廣とあり。三尺餘あり。
硯箱 壹合。梨地蒔繪、籬に菊を金具にす。内に水入筆管あり。共に銀にて作る。
十二手匣 壹合。小道具は不備(備はらず)。箱の内に圖の如なる櫛三十あり。櫛の徑三寸八分餘、高さ一寸二分、厚さ三分。櫛の背に淺く鑿たる穴十三あり。元靑貝を入たる物にて今ぬけたる跡なり。間靑貝の見ゆるもあり。穴のくばり、皆三二三二三とあり。木はいすと云ふ。
櫛の圖
十二單 壹襲。香色の裝束なり。裳なし。緋の袴・麯塵の袍あり。袍は、地紋麒麟・鳳凰、三布幅也。樺色の直衣もあり。以上の三物は、後人神功皇后へ調進の物也。男山勸請以來の物と云ふ。按るに、十二單と云は俗語也。五重の衣の事なり。
院宣 壹通。應永二十一年四月十三日とあり。
賴朝書 貳通。一通には、奉寄相模國鎌倉郡内。鶴岡八幡・新宮・若宮御領一所事、右爲神威増益爲所願成就奉寄也、方來更不可有牢籠之状如件、壽永二年二月廿七日、前右兵衞佐源賴朝(寄せ奉る相模の國鎌倉郡の内。鶴が岡八幡・新宮・若宮御領一所の事、右は神威増益の爲め、所願成就の爲して寄せ奉るなり、方來更に牢籠有るべからずの状件のごとし、壽永二年二月廿七日、前右兵衞の佐源の賴朝)と有。下に花押あり。一通は、在當國貳箇所、高田郷・田島郷(當國に貳箇所在りて。高田の郷・田島の郷)とあり。餘は同し文也。是を賴朝直判の書と云ふ。判は【花押藪】に有と同し。
華嚴經 壹卷。第五十一卷、如來出現品なり。大織冠鎌足筆也。
菩提心論 壹卷。細字なり。智證大師の筆。奥書に、此論有人疑、如今依【貞元録】決他疑、更不可迷、猶如菩提心義章耳、巨唐大中九年十一月十七日。於上都記、日本國上都比叡山延暦寺持念供奉沙門圓珍(此論人の疑有り、如今【貞元録】に依〔り〕て他の疑を決す、更に迷ふべからず、猶を菩提心義章のごときのみ、巨唐大中九年十一月十七日。上都に於て記す、日本國の上都比叡山延暦寺持念供奉の沙門圓珍)とあり。
大般若經 壹卷、弘法の筆也。一部を二卷に細書す。一卷は鳩峯に有と云ふ。此は初分なり。
功德品 壹卷。菅丞相の筆なり。
心經 貳卷。共に紺紙金泥。一卷には、貞治乙巳、夷則二十五日と有。源の基氏の筆。一卷は、至德二年二月十六日と有。源の氏滿の筆也。
袈裟坐具 各々一具。香色也。最も鳩峯より勸請の時來と云ふ。別に應神の御袈裟と號して箱に入。社僧もこれを見る事なし。其の記一卷あり。
五鈷杵 壹箇。是を雲加持の五鈷と云ふ。昔し醍醐山に、範俊・義範とて二人の名僧あり。共に東寺の成尊が門弟なり。昔し永保二年に、大旱魃す。範俊に詔して、神泉苑にて、雨を祈しむ。義範は、俊よりも長ぜり。詔りを不承(承らざる)事を憤て、醍醐山に登り修法(法を修し)、俊が請雨の法をさまたぐ。時に黑雲起雨ふらんとすれば、醍醐の山頂より、範が五鈷鴉と化して、黑雲を呑却す。故に名く。其五鈷、傳て極樂寺に有しを、賴印僧正の時玆に納むと云傳ふ、【元亨釋書】範俊が傳に詳かなり。然とも、五鈷鴉と化すとはなし。暴風起て雲氣を吹散すとあり。
小五鈷杵 壹箇。禪林寺宗叡僧正の持金剛杵と云傳ふ。按ずるに、【釋書】宗叡が傳に、貞觀三年に、入唐して、靑龍寺の法全所持の金剛杵を附屬すとあり、其の金剛杵ならん。
如意寶株 壹顆。内陣に納て見る人なしと云。供僧の云く、如意珠に二種あり。一種は、龍の頸上にあり。一種は。能作生珠と號して、眞言の法を行て成る珠なり。今爰にあるは能作生の珠なり。珠の製法・呪法は、眞言の祕法と云ふ。
牛玉 壹顆。
鹿玉 壹顆。按ずるに【本艸綱目】獸部に、鮓答、生走獸及牛馬諸畜肝膽之間。有肉嚢裹之、多至升許、大者如雞子、小者如栗、如榛、其状白色、似石非石、似骨非骨、打破層疊、又云、時珍嘗靜思之牛之黄、狗之寶、馬之黑、鹿之玉、犀之通天、獸之鮓答、皆物之病而人以爲寶(鮓答は、走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有て之を裹む。多きものは升許〔り〕に至る。大〔な〕る者は雞子の如く、小なる者は栗のごとく、榛のごとし。其の状白色、石に似て石非ず、骨に似て骨非ず、打破すれば層疊。又云、時珍嘗て靜に之を思ふに牛の黄、狗の寶、馬の黑、鹿の玉、犀の通天、獸の鮓答、皆、物の病にして、人以て寶と爲〔せり〕)とあり。今此牛玉・鹿玉も此類なり。
五指量の愛染明王の像 壹軀。弘法の作、四五寸許の丸木を、蓋と身に引分け、身の方に愛染を作り付たり。臺座ともに一木にて作る。極めて妙作也。
辨才天 壹軀。蛇形の自然石也。錦の袋に入。内陣にあり。
藥師の像 壹軀。弘法の作。厨子に入。前に十二神をも小さく刻み、扉に四天王を彫る。極細の妙作也。
回御影 祕物にて、昔より終に見たる人なし。錦の袋に入て長三尺ばかり、幅八寸四方ほどの箱に入、鳥居を立、注連を引て、十二箇院の供僧、一箇月づゝ守護し、毎日三座の行を勤め、法華經を讀也。俗に囘り御影と云なり。縁起あり。奧に元亨元年八月廿五日、最勝院敬任之以慈度自筆本冩之了(慈度自筆の本を以って之を冩し了る)とあり。其略に云、賴朝尊仰之(賴朝之を尊仰〔さ〕るゝを)、賴朝薨じて後、二位尼、御信仰又甚し。其後時賴置鶴岡御宸殿(其の後、時賴、鶴が岡の御宸殿に置く)。正嘉年中に奉遷八幡宮(八幡宮に遷し奉る)云云。相ひ傳ふ源の賴義、安倍の貞任を征伐せんとて、奧州下向の時、此の御影を守りに掛、既に事了て歸洛する時、鎌倉に來て、此御影を八幡宮に納らる。其の後義家下向の時も、此に來て御影を申し請て守りに掛、奧州退治して歸る時に、又此に來て宮を修復し、御影を納めらる。賴朝、豆州に在す時、一夜夢みらく、廿五の菩薩を勸請せよと、時に異人來て、此の御影を授く。賴朝此を受て、後に四海を掌の中に治め、宮を由比の濱より小林へ移し。廿五箇院を立、御影を納めらるゝと也。縁起は賴朝の後の事也。
二枚面 貳枚。
陵王面 壹枚。
拔頭面 壹枚。
磯良面 壹枚。皆妙作也。
歌仙 上・下の社内に掛之(之を掛く)。上の宮に懸たるは、尊純法親王の墨蹟なり。下の宮に掛たるは、良恕法親王の墨蹟なり。繪は共に狩野孝信なり。
已 上[やぶちゃん注:これは「神寶」の項の終了を告げるものである。]
新宮 我覺院の門前より左へ折て行、山の麓にあり。三間に二間の社地。當社の縁起、淨國院にあり。【東鑑】に寛治元年四月廿五日、後鳥羽帝の御靈を鶴が岡の乾の山の麓に勸請し奉らる。是彼の怨靈を宥め奉らんが爲に、日來一宇の社壇を建立せらるとあり。社の後ろは深谷也。一根にして六本に分れたる大杉あり。魔境にて、天狗此に住と云ふ。普川國師の【新宮講式】に云、有靈託、構小社於神宮縁邊、有敬信、儼三所於靈岳甲勝、所謂左胸者、順德帝、右胸者、長嚴僧正、共爲内祕外現(靈託有〔り〕て、小社を神宮縁邊に構へ、敬信有〔り〕て、三所を靈岳の甲勝に儼にす。謂は所る左胸は順德帝、右胸は長嚴僧正、共に内祕外現〔を〕爲〔す〕)云云。【神明鏡】に、後鳥羽帝崩御の後、鎌倉中喧嘩鬪諍しけり。就中(中〔ん〕就〔く〕)五月廿二日、大騷動も有ければ、彼の御怨念にやとて、雪下に新宮と號し、法皇を祝し奉る。順德帝と護持の僧長玄法印と御眞體となり、上野の行山の庄を神領とすとあり。長嚴・長玄は、【東鑑】に所謂(謂は所る)東大寺造營の尊師重源上人なり。三書異なりと云ども、實は一人なり。社僧の云傳るも如此(此のごとし)。俗に右は、土御門帝と云は未考(未だ考へず)。
神主 馬場小路に居宅す。【鶴岡社務職次第】に、建久二年十二月、神主を定めらる者也とあり。大伴氏、今に不絶(絶へず)任ずるなり。賴朝よりの書、并に代々將軍家の文書等多し。今も諸大夫を授らる也。神主家傳文書に、賴朝より大伴淸元に賜はる自筆の書あり。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:底本では【鶴岡務社職次第】と錯字。影印で正した。以下、「不乙」迄は、影印では草書体平仮名漢字交じりの表記となって自筆書の雰囲気を伝えている。底本ではその後がクレジットと署名「文治二年」以下に改行せずに続いているが、ここは影印の通り、改行とした。また、自筆本文中の「又おてまいらする」は、底本では「又おてまいウする」とあるが、誤植(誤読)と判断して「ら」とした。続く文書読解解説文中の引用も草書体を用いている。分かり易くするために草書体引用部を『 』で示し、本文にない「 」を補助記号で用いた。]
せん日さんろうの時、八まんくかうぬしの事おほせふくめぬ。又おてまいらする、しきはうといゝ、はまうみ、同淸元のさたるへし。他人のさまたけあるへからざるところ也。不乙。
文治二年四月日、源の朝臣。下に有判(判有り)。判は如【花押藪】載(【花押藪】に載するがごとし)。假名つかひ・書樣、全く如此也(此のごとくなり)。按ずるに、『さんろう』は參籠なり。『八まんくかうぬし』は、八幡宮神主也。『おて』とは追而なり。『しきはう』とは式法なり。『いゝ』は云の字也。今の假名づかひにては、いひと書べし。昔はかなつかひ不定(定まらず)して、如此書(此のごとく書き)たり。『はま』は濱なり。『うみ』は海なり。或説に云く、『おて』は御幣なり。「みてくら」を、「おてくら」と云なり。『いゝ』とは飯の字なり。『は』は「はん」なり。麥の字なり。麥にて菓子を作る事也。『まうみ』は小衣なり。
「ま」は、「も」に通ふ。「も」は、「を」に通ふ。『う』は引く音なり。布衣を「ほうゐ」と云ふ心と、同じ。もうみは社人の服なり。則ち社人の事を云となり。何れの説是なる事を不知(知らず)。或の云、前の説を是とすべしと。
小別當 馬場小路に居宅す。【社務職次第】に云、當社別當の宮圓曉法眼、三井寺より御下向、御供申す肥前の法橋永契と申す坊官也。然る間た、建久二年十一月日、別當の宮圓曉御坊より、小別當の官を給り。社内の掃除奉行に定め置るゝ者也。其の以後御供方奉行也、別當の被官坊官の類也。
淨國院 以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴が岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、東顏より西顏まで、寺町をなす。建久二年に、賴朝卿二十五の菩薩に形どり、院宣を奏し請て、供僧二十五坊を建立せらる。其の後應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號を改め院號とす。源の成氏の代まで、廿五院有しと見へたり。【成氏の年中行事】に載。永正の此より、漸漸に衰へて、七院のみありしを、東照大神君、文祿二年に、十二院を再興し給と也。淨國院の開基は、【社務職次第】に云、初佛乘坊・忠尊、號大夫律師、山城人也、法性寺禪定殿下忠通猶子也。(初めは佛乘坊・忠尊、大夫律師と號す。山城の人なり。法性寺禪定殿下忠通の猶子なり。)
我覺院 初は密乘坊・朝豪、號大納言僧都(大納言僧都と號す)。法性寺禪定殿下忠通の末子なり。
正覺院 初は千南坊・定曉、號三位法橋(三位法橋と號す)。平大納言時忠の一門なり。建保五年五月十一日寂す。此の院にどこも地藏と云あり。智岸寺が谷の條下に詳也。
海光院 初は實藏坊・義慶、號武藏阿闍梨(武藏の阿闍梨と號す)、平家の一門なり。寛喜元年八月廿日寂す。
増福院 初は寂靜坊・成慶、號辨律師(辨の律師と號す)、平家の一門なり。寶治元年正月九日寂す。
慧光院 初は文慧坊、永秀阿闍梨と云ふ。
香象院 初は善松坊・重衍、號丹後竪者(丹後の竪者と號す)、中納言通秀卿の孫なり。
莊嚴院 初は林東坊・行耀、號山口法印(山口の法印と號す)、平家の一門なり。寛元元年七月十四日寂、八十五。
相承院 初は頓學坊・良嘉律師たり。平家の一門なり。寛喜三年十月七日に寂す。八十二。本尊は、正觀音也。【東鑑】に、治承四年八月廿四日。椙山敗亡の時、賴朝髻の中の正觀音の像を取て、或巖窟に安し奉らる。土肥實平、其の御意を問奉るに、仰に云、首を景親等に傳るの日、此本尊を見ば、源氏の大將軍の所爲に非るの由、人定て誹を貽べし。件の尊像は、賴朝三歳の時、乳母淸水寺に參籠せしめ、嬰兒の將來を祈る事懇篤にして、二七箇日を歴て靈夢の告を蒙り、忽然として、二寸の銀の正觀音の像を得て歸敬し奉る所也。同年十二月廿五日、巖窟に納らるゝ所の小像の正觀音、慧光坊の弟子閼伽桶の中に安し奉り、鎌倉に參著す。數日山中を搜し、彼巖窟に遇て希有にして尋ね出し奉るの由申す。武衞合手(手を合せ)請取給ふとあり。今此の木像の頂に納てあり。又押手の聖天と云ふ。此にあり。是は本叡山にあり。後一條帝の時、左京の大夫道雅、伊勢の齋宮を戀て、「今は只思ひ絶なんとばかりを、人つてならていふよしもかな」と詠じて、且つ此の聖天に祈る。其の利生により、
齋宮、男の家に通ひ給ふ。此事宮中に顯はれて、其の由を糺し問に、齋宮、我が心共なく夢の如にさそわれ行となん。羣臣謀て、齋宮の手に墨を付て行、彼の門に押しむ。歸て後人をして見せしむるに、路中の門々に皆手形ありて、何れをそれと知がたし。是れ聖天の所爲也。佛力とは云ながら、齋宮をかくせし罪なりとて、鎌倉に捨られしを、此に安ずとなり。故に押手の聖天と云。縁起に詳なり。此の聖天は、慈覺大師異國より將來の像也と云ふ。
安樂院 初は安樂坊重慶法眼、平家の一門なり。
等覺院 初は南禪坊良智、號肥前律師(肥前の律師と號す)。本三位の平の重衡の息也。《鏁大師》弘法自作の木像あり。鏁大師と云也。
鏁を以て膝を屈伸するやうに作る故に名く。安置する堂を、蓮華定院と云ふ。勅書を板に書寫して挂たり。御祈禱すべきの勅意、執達左少辨俊國、應永二十七年十二月十三日とあり。不動の畫像一幅あり。弘法の筆也。弘法自畫の像一幅、兩界曼荼羅二幅、西山の宮道覺法親王の筆なり〔靑蓮院殿、後鳥羽の皇子なり。〕辨才天の像一軀、十五童子あり。三浦荒二郎、若江島に安置する本尊と云ふ。等覺院の後に、大なる谷あり。八正寺と云て、昔八幡の大別當僧正の舊跡なり。【東鑑】に、壽永元年九月廿六日、鶴が岡の西の麓を點じて、宮寺の別當坊を建らるとあり。此所ならん。
最勝院 初は靜慮坊、良祐竪者なり。
○柳原 柳原は、八幡宮舞殿の邊より東、藥師堂の前まで云。昔し柳の多かりけるに因て也。枯株今尚を存せり。里俗傳て古歌あり作者不知(知れず)。「年へたる鶴岡邊の柳原、靑みにけりな春のしるしにと」。此の歌を、【歌枕の名寄】には、平の泰時と有て、柳原を松の葉のとあり。何れ是なることを不知(知らず)。久しく此の所の歌也と云ならはしたることなれば、里俗の傳へ語れるを本とすべき歟。
○若狹前司泰村舊跡 若狹前司泰村か舊跡は、八幡宮の東の山際にあり。【東鑑】に、寛元三年七月六日、將軍家、御方違として、若狹の前司泰村か家に渡御し給ふ。泰村が家は、御所より北の方也とあり。按ずるに、將軍は賴嗣也。賴嗣の屋敷は若宮大路なれば、此の所ろ正北なり。【鎌倉物語】に、賴朝屋敷の北と書せり。將軍の御所より北に當ると有を見て、賴嗣も、賴朝屋敷に居せられたりと心ろ得たり。【東鑑脱漏】を未見ゆへに、賴經將軍の時、嘉禎二年に、若宮大路へ遷られしと云事を不知(知らざる)歟。賴經屋敷の事は、賴朝屋敷の條下に詳也。泰村は、三浦平六兵衞尉の義村が長子也。甚た權威あり。寶治元年六月五日、一門悉く亡ふ。
○筋替橋〔附畠山重忠屋敷 鎌倉の十橋〕 筋替〔或作須地賀江(或は須地賀江に作る)〕橋は、雪下より、大倉村へ出る道の橋なり。《鎌倉十橋》鎌倉の十橋と云は、琶琵橋・筋替橋・歌橋・勝橋・裁許橋・針磨橋・夷堂橋・逆川橋・亂橋・十王堂橋なり。《重忠屋舗》筋替橋の西北を、畠山重忠が屋敷の跡と云。【東鑑】に、正治元年五月七日、醫師時長橋、昨日京都より參著す。今日掃部の頭が龜谷の家より、畠山次郎重忠が、南御門の宅に移り住す。是近々に候ぜしめ、姫君の御病惱を療治し奉らんが爲なりとあり。
○蛇谷 蛇谷は、若宮にある谷を云也。【沙石集】に、鎌倉に或人の女、若宮の僧坊の兒を戀て疾になりぬ。母にかくと告知せければ、彼兒が父母も知人なりけるまゝに、此の由申に合て、時々兒を通はしけれども、志しもなかりけるにや、疎く成行ほどに、終に思ひ死にしぬ。父母悲て、彼の骨を善光寺へ送んとて、筥に入て置けり。其の後此の兒病付て、物狂はしくなりければ一間なる處に置に、物語の聲しけり。父母物の隙より見るに、大なる蛇と向ひ居たり。終に兒もうせにけり。入棺して若宮の西の山に葬るに、棺の中に大なる蛇有て、兒を纏ふと云り。今按ずるに、此地の事なる歟。或云、會下谷の西の後假粧坂の北に有る谷を云也と。又名越の内にも蛇谷と云處あり。此とは異なり。
新編鎌倉志卷之一終