やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ
彼 第二 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正16(1927)年1月1日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)の雑誌『新潮』に「彼・第二」の題で掲載され、後に『湖南の扇』に所収された。因みにやはり芥川の忘れ得ぬ夭折の友を描いた「彼」は、同年同月刊行の別な雑誌『女性』に掲載されている。「彼」の方の脱稿は11月13日、本作の脱稿は12月9日である。底本の後記によれば、初出には作品末に小文字で以下の一文があるとする。
追記。僕は「女性」の新年号號に或亡友のことを書き、それに「彼」と云ふ題をつけた。これも亦或亡友のことであるから、「彼・第二」と云ふ題をつけたものである。「彼」は勿論「彼・第二」と何も関係のある譯ではない。
底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、読みの振れるもののみのパラルビとした。末尾に私の注を附した。【2009年5月24日】]
彼 第二
一
彼は若い愛蘭土(アイルランド)人だつた、彼の名前などは言はずとも好(い)い。僕は唯彼の友だちだつた。彼の妹さんは僕のことを未だに My brother's best friend と書いたりしてゐる。僕は彼と初對面の時、何か前にも彼の顏を見たことのあるやうな心もちがした。いや、彼の顏ばかりではない。その部屋のカミンに燃えてゐる火も、火(ほ)かげの映つた桃花心木(マホガニイ)の椅子も、カミンの上のプラトオン全集も確かに見たことのあるやうな氣がした。この氣もちは又彼と話してゐるうちにだんだん強まつて來るばかりだつた。僕はいつかかう云ふ光景は五六年前の夢の中にも見たことがあつたと思ふやうになつた。しかし勿論そんなことは一度も口に出したことはなかつた。彼は敷島をふかし乍ら、當然僕等の間に起る愛蘭土の作家たちの話をしてゐた。
「I detest Bernard Shaw.」
僕は彼が傍若無人にかう言つたことを覺えてゐる。それは二人とも數へ年にすれば、二十五になつた冬のことだつた。………
二
僕等は金の工面をしてはカッフエやお茶屋へ出入した。彼は僕よりも三割がた雄の特性を具へてゐた。或粉雪の烈しい夜(よる)、僕等はカツフエ・パウリスタの隅のテエブルに坐つてゐた。その頃のカッフエ・パウリスタは中央にグラノフォンが一臺あり、白銅を一つ入れさへすれば音樂の聞かれる設備になつてゐた。その夜(よ)もグラノフォンは僕等の話に殆ど伴奏を絶つたことはなかつた。
「ちよつとあの給仕に通譯してくれ給へ。――誰(たれ)でも五錢出す度に僕はきつと十錢出すから、グラノフォンの鳴るのをやめさせてくれつて。」
「そんなことは賴まれないよ。第一他人の聞きたがつてゐる音樂を錢づくでやめさせるのは惡趣味ぢやないか?」
「それぢや他人の聞きたがらない音樂を金づくで聞かせるのも惡趣味だよ。」
グラノフオンは丁度この時に仕合せとぱつたり音を絶つてしまつた。が、忽ち鳥打帽をかぶつた、學生らしい男が一人、白銅を入れに立つて行つた。すると彼は腰を擡(もた)げるが早いか、ダム何とか言ひながら、クルウェットスタンドを投げつけようとした。
「よせよ。そんな莫迦なことをするのは。」
僕は彼を引きずるやうにし、粉雪のふる往來へ出ることにした。しかし何か興奮した氣もちは僕にも全然ない訣ではなかつた。僕等は腕を組みながら、傘もささずに歩いて行つた。
「僕はかう云ふ雪の晩などはどこまでも歩いて行(ゆ)きたくなるんだ。どこまでも足の續くかぎりは………」
彼は殆んど叱りつけるやうに僕の言葉を中斷した。
「ぢやなぜ歩いて行かないんだ? 僕などはどこまでも歩いて行きたくなれば、どこまでも歩いて行くことにしてゐる。」
「それは餘りロマンティックだ。」
「ロマンティックなのがどこが惡い? 歩いて行きたいと思ひながら、歩いて行かないのは意氣地(いくぢ)なしばかりだ。凍死しても何でも歩いて見ろ。………」
彼は突然口調を變へ Brother と僕に聲をかけた。
「僕はきのふ本國の政府へ從軍したいと云ふ電報を打つたんだよ。」
「それで?」
「まだ何とも返事は來ない。」
僕等はいつか教文館の飾り窓の前へ通りかかつた。半ば硝子に雪のつもつた、電燈の明るい飾り窓の中にはタンクや毒瓦斯(どくガス)の寫眞版を始め、戰爭ものが何册も並んでゐた。僕等は腕を組んだまま、ちよつとこの飾り窓の前に立ち止まつた。
「Above the War――Romain Rolland………」
「ふむ、僕等には above ぢやない。」
彼は妙な表情をした。それは丁度雄鷄の頸の羽根を逆立てるのに似たものだつた。
「ロオランなどに何がわかる? 僕等は戰爭の amidst にゐるんだ。」
獨逸に對する彼の敵意は勿論僕には痛切ではなかつた。從つて僕は彼の言葉に多少の反感の起るのを感じた。同時に又醉の醒めて來るのも感じた。
「僕はもう歸る。」
「さうか? ぢや僕は………」
「どこかこの近所へ沈んで行けよ。」
僕等は丁度京橋の擬寶珠(ぎぼし)の前に佇んでゐた。人氣のない夜更けの大根河岸(だいこんがし)には雪のつもつた枯れ柳が一株、黑ぐろと澱んだ掘割りの水へ枝を垂らしてゐるばかりだつた。
「日本だね、兎に角かう云ふ景色は。」
彼は僕と別れる前にしみじみこんなことを言つたものだつた。
三
彼は生憎希望通りに從軍することは出來なかつた。が、一度ロンドンへ歸つた後(のち)、二三年ぶりに日本に住むことになつた。しかし僕等は、――少くとも僕はいつかもうロマン主義を失つてゐた。尤もこの二三年は彼にも變化のない訣ではなかつた。彼はある素人下宿の二階に大島の羽織や着物を着、手あぶりに手をかざしたまま、かう云ふ愚痴などを洩らしてゐた。
「日本もだんだん亞米利加化(アメリカくわ)するね。僕は時々日本よりも佛蘭西に住まうかと思ふことがある。」
「それは誰(たれ)でも外國人はいつか一度は幻滅するね。ヘルンでも晩年はさうだつたんだらう。」
「いや、僕は幻滅したんぢやない。illusion を持たないものに disillusion のある筈はないからね。」
「そんなことは空論ぢやないか? 僕などは僕自身にさへ、――未だに illusion を持つてゐるだらう。」
「それはさうかも知れないがね。………」
彼は浮かない顏をしながら、どんよりと曇つた高臺の景色を硝子戸越しに眺めてゐた。
「僕は近々上海(シャンハイ)の通信員になるかも知れない。」
彼の言葉は咄嗟の間(あひだ)にいつか僕の忘れてゐた彼の職業を思ひ出させた。僕はいつも彼のことを唯藝術的な氣質を持つた僕等の一人に考へてゐた。しかし彼は衣食する上には或英字新聞の記者を勤めてゐるのだつた。僕はどう云ふ藝術家も脱却出來ない「店(みせ)」を考へ、努めて話を明るくしようとした。
「上海は東京よりも面白いだらう。」
「僕もさう思つてゐるがね。しかしその前にもう一度ロンドンへ行つて來なければならない。………時にこれを君に見せたかしら?」
彼は机の抽斗から白い天鵞絨(びろうど)の筐(はこ)を出した。筐の中にはひつてゐるのは細いプラティナの指環だつた。僕はその指環を手にとつて見、内側に雕(ほ)つてある「桃子へ」と云ふ字に頰笑まない訣には行かなかつた。
「僕はその「桃子へ」の下に僕の名を入れるやうに註文したんだけれど。」
それは或は職人の間違ひだつたかも知れなかつた。しかし又或はその職人が相手の女の商賣を考へ、故(ことさ)らに外國人の名前などは入れずに置いたかも知れなかつた。僕はそんなことを氣にしない彼に同情よりも寧ろ寂しさを感じた。
「この頃はどこへ行つてゐるんだい?」
「柳橋だよ。あすこは水の音が聞えるからね。」
これもやはり東京人の僕には妙に氣の毒な言葉だつた。しかし彼はいつの間にか元氣らしい顏色に返り、彼の絶えず愛讀してゐる日本文學の話などをし出した。
「この間谷崎潤一郎の『惡魔』と云ふ小説を讀んだがね。あれは恐らく世界中で一番汚いことを書いた小説だらう。」
(何箇月かたつた後、僕は何かの話の次手に『惡魔』の作家に彼の言葉を話した。するとこの作家は笑ひながら、無造作に僕にかう言ふのだつた。――「世界一ならば何でも好い。」!)
「『虞美人草』は?」
「あれは僕の日本語ぢや駄目だ。………けふは飯ぐらゐはつき合へるかね?」
「うん、僕もそのつもりで來たんだ。」
「ぢやちよつと待つてくれ。そこに雜誌が四五册あるから。」
彼は口笛を吹きながら、早速洋服に着換(きか)へ出した。僕は彼に背を向けたまま、漫然とブック・マンなどを覗いてゐた。すると彼は口笛の合ひ間に突然短い笑ひ聲を洩らし、日本語でかう僕に話しかけた。
「僕はもうきちりと坐ることが出來るよ。けれどもズボンがイタマシイですね。」
四
僕が最後に彼に會つたのは上海のあるカッフエだつた。(彼はそれから半年ほど後、天然痘に罹つて死んでしまつた。)僕等は明るい瑠璃燈(るりとう)の下(もと)にウヰスキイ炭酸を前にしたまま、左右のテエブルに群(むらが)つた大勢の男女(なんによ)を眺めてゐた。彼等は二三人の支那人を除けば、大抵は亞米利加人か露西亞人だつた。が、その中に青磁色(せいじしよく)のガウンをひつかけた女が一人、誰よりも興奮してしやべつてゐた。彼女は體こそ瘦せてゐたものの、誰よりも美しい顏をしてゐた。僕は彼女の顏を見た時、砧手(きぬたで)のギヤマンを思ひ出した。實際又彼女は美しいと云つても、どこか病的だつたのに違ひなかつた。
「何だい、あの女は?」
「あれか? あれは佛蘭西の………まあ、女優と云ふんだらう。ニニイと云ふ名で通つてゐるがね。――それよりもあの爺さんを見ろよ。」
「あの爺さん」は僕等の鄰に兩手に赤葡萄酒の杯(さかづき)を暖め、バンドの調子に合せては絶えず頭を動かしてゐた。それは滿足そのものと云つても、少しも差支へない姿だつた。僕は熱帶植物の中からしつきりなしに吹きつけて來るヂャッヅには可なり興味を感じた。しかし勿論幸福らしい老人などには興味を感じなかつた。
「あの爺さんは猶太人(ユダヤじん)だがね。上海に彼是三十年住んでゐる。あんな奴は一體どう云ふ量見なんだらう?」
「どう云ふ量見でも善いぢやないか?」
「いや、決して善くはないよ。僕などはもう支那に飽き飽きしてゐる。」
「支那にぢやない。上海にだらう。」
「支那にさ。北京にも暫く滯在したことがある。………」
僕はかう云ふ彼の不平をひやかさない訣には行かなかつた。
「支那もだんだん亞米利加化するかね?」
彼は肩を聳かし、暫くは何とも言はなかつた。僕は後悔に近いものを感じた。のみならず氣まづさを紛らす爲に何か言はなければならぬことも感じた。
「ぢやどこに住みたいんだ?」
「どこに住んでも、――ずゐぶん又方々に住んで見たんだがね。僕が今住んで見たいと思ふのはソヴィエット治下の露西亞ばかりだ。」
「それならば露西亞へ行けば好いのに。君などはどこへでも行かれるんだらう。」
彼はもう一度默つてしまつた。それから、――僕は未だにはつきりとその時の彼の顏を覺えてゐる。彼は目を細めるやうにし、突然僕も忘れてゐた萬葉集の歌をうたひ出した。
「世の中をうしとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。」
僕は彼の日本語の調子に微笑しない訣には行かなかつた。が、妙に内心には感動しない訣にも行かなかつた。
「あの爺さんは勿論だがね。ニニイさへ僕よりは仕合せだよ。何しろ君も知つてゐる通り、………」
僕は咄嗟に快濶になつた。
「ああ、ああ、聞かないでもわかつてゐるよ。お前は『さまよへる猶太人』だらう。」
彼はウヰスキイ炭酸を一口飮み、もう一度ふだんの彼自身に返つた。
「僕はそんなに單純ぢやない。詩人、畫家、批評家、新聞記者、………まだある。息子、兄、獨身者(もの)、愛蘭土人、………それから氣質上のロマン主義者、人生觀上の現實主義者、政治上の共産主義者………」
僕等はいつか笑ひながら、椅子を押しのけて立ち上つてゐた。
「それから彼女には情人だらう。」
「うん、情人、………まだある。宗教上の無神論者、哲學上の物質主義者………」
夜更けの往來は靄と云ふよりも瘴氣(しやうき)に近いものにこもつてゐた。それは街燈の光のせゐか、妙に又黄色に見えるものだつた。僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じやうに大股にアスファルトを踏んで行つた。二十五の昔と同じやうに――しかし僕はもう今ではどこまでも歩かうとは思はなかつた。
「まだ君には言はなかつたかしら、僕が聲帶を調べて貰つた話は?」
「上海でかい?」
「いや、ロンドンへ歸つた時に。――僕は聲帶を調べて貰つたら、世界的なバリトオンだつたんだよ。」
彼は僕の顏を覗きこむやうにし、何か皮肉に微笑してゐた。
「ぢや新聞記者などをしてゐるよりも、………」
「勿論オペラ役者にでもなつてゐれば、カルウソオぐらゐには行つてゐたんだ。しかし今からぢやどうにもならない。」
「それは君の一生の損だね。」
「何、損をしたのは僕ぢやない。世界中の人間が損をしたんだ。」
僕等はもう船の灯(ひ)の多い黄浦江(くわうほかう)の岸を歩いてゐた。彼はちよつと歩みをとめ、顋(あご)で「見ろ」と云ふ合圖をした。靄の中に仄めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩い波に絶えず搖すられてゐた。そのまた小犬は誰の仕業か、頸のまはりに花を持つた一つづりの草をぶら下げてゐた。それは慘酷な氣がすると同時に美しい氣がするのにも違ひなかつた。のみならず僕は彼がうたつた萬葉集の歌以來、多少感傷主義に傳染してゐた。
「ニニイだね。」
「さもなければ僕の中の聲樂家だよ。」
彼はかう答へるが早いか、途方もなく大きい嚔(くさ)めをした。
五
ニイスにゐる彼の妹さんから久しぶりに手紙の來た爲であらう。僕はつい二三日前の夜、夢の中に彼と話(はな)してゐた。それはどう考へても、初對面の時に違ひなかつた。カミンも赤あかと火を動かしてゐれば、その又火かげも桃花心木のテエブルや椅子に映つてゐた。僕は妙に疲勞しながら、當然僕等の間に起る愛蘭土の作家たちの話をしてゐた。しかし僕にのしかかつて來る眠氣と鬪ふのは容易ではなかつた。僕は覺束ない意識の中にかう云ふ彼の言葉を聞いたりした。
「I detest Bernard Shaw.」
しかし僕は腰かけたまま、いつかうとうと眠つてしまつた。すると、――おのづから目を醒ました。夜(よ)はまだ明け切らずにゐるのであらう。風呂敷に包んだ電燈は薄暗い光を落してゐる。僕は床の上に腹這ひになり、妙な興奮を鎭める爲に「敷島」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠つた僕が現在(げんざい)に目を醒ましてゐるのはどうも無氣味でならなかつた。
(大正十五・一二・九)
[やぶちゃん注:本作のモデルは、Thomas Jones(1890~1923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大学)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。以下、彼と芥川の交流について少し辿ってみたい。
まず、彼等の最初の出逢いであるが、これは本作の「一」の初対面のシーンで「それは二人とも數へ年にすれば、二十五になつた冬のことだつた。」とあるので、大正5(1916)年の冬と考えられる(当時の芥川は大学を7月に卒業、12月1日に海軍機関学校教授嘱託となって、同時に塚本文と婚約している)。本文によれば、ここで『二三年』の間、『一度ロンドンへ歸つた』ことになっているのである。
さて、岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、『芥川さんやその仲間との交遊も急速に進んでいた樣子で、私が後年芥川の上海紀行か何かで讀んだジョーンズさんが、久米正雄の一張羅の仙臺平の袴をはいて上野料亭の泉水に飛び込んだのもこの頃のことではないかと思われる』とある(芥川龍之介「上海游記」の「三 第一瞥(中)」参照)のだが、長岡氏はこの前の部分でこの時期を、ジョーンズが下宿していた自宅が転居した大正6(1917)年~大正7(1918)年頃と推定しておられるようである。ここで気になるのは、その根拠を大正8(1919)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移り、慶應で教えていたヒュウエルさんと一緒に住んでいたが、間もなくロイテル通信社に入社し、上海支局に行かれた』からと記しておられる点である。この記載だと、ジョーンズは、来日後、上海に行くまで、日本を離れていないかのように読めるのである。しかし、この「彼 第二」では、『彼は生憎希望通りに從軍することは出來なかつた。が、一度ロンドンへ歸つた後、二三年ぶりに日本に住むことになつた』として、「彼」は一度、イギリスに戻っている。これは芥川の「彼 第二」が虚構なのだろうか? しかし「上海游記」でも芥川は『彼は前後五年間、日本に住んでゐた英吉利人である』(下線部やぶちゃん)とあるのである。だが更に、長岡氏は大正4(1915)年の来日は、『新橋驛まで出迎え』『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』としており、そうすると上海へ渡航したと思われる大正8(1919)年9月中下旬までは、4年強にしかならない。識者の御教授を乞うものである。
さて、ここで記される在邦中のジョーンズがイギリス大使館を通じてイギリス本国での従軍を再三希望したにも拘らずそれが叶えられなかった理由であるが、岩波版旧全集の第七巻月報に所収する元共同通信社調査部長山田清一郎氏の「古きよき時代のこと」によれば、彼の近視が強度のものであったからであったらしい。因みに山田氏は、同じ文章の中でジョーンズと芥川らとの最初の出逢いはジョーンズが頻繁に出かけた洋書店丸善ではなかったかと推測しておられる。興味深い見解である。
大正8(1919)年3月15日に、既にロイター記者となっていた彼と築地の待合に芸者を揚げて十時頃まで夕宴を開いている。これが現在の種々の芥川龍之介年譜上の彼の初出である。因みに、この日の細かなデータが分るのは芥川の「點鬼簿」の「三」にそのシーンが描かれているからである(芥川は、この夕宴の直後に実父新原敏三の危篤の報を受け、病院に向かう。死に目に逢え、翌16日に敏三は息を引き取っている)。
その後、芥川龍之介は海軍機関学校を退職、純粋な作家生活に入った。その直後大正8(1919)年の芥川の日記である「我鬼窟日録」には、ジョーンズ関連の記載が以下のように現れる(以下は私が纏めたもので記載そのものではない)。
5月29日
ロイター通信社にジョーンズを訪ねるも不在。
6月11日
ジョーンズと東洋軒にて夕食(推定)をとる。
9月21日
久保田万太郎・南部修太郎・佐佐木茂索・ジョーンズらが我鬼窟に来訪。その後に皆でそばを食いに出た。その店「更科」で燗酒を注文したところ、徳利から蚊が浮いて出た。『ジヨオンズ洒落て曰、この酒を蚊帳で漉して來て下さい』と言った。
9月24日
久米正雄を訪問し、その夜のジョーンズのロイター社上海特派員転任送別の会の打ち合わせをする。夜、久米・成瀬正一と三人で鶯谷の茶屋「伊香保」にジョーンズ送別の宴を開いた。
因みに、その送別会の折の写真はよく知られるものである。
その他にも、芥川龍之介の作品では、松岡譲の洋行を見送る「出帆」、本作の「四」と同時間のエピソード「上海游記」「江南游記」「北京日記抄」にもジョーンズは本名で登場している。
彼の日本語力は驚異的で、山田氏によれば、『來日一年間で日本の小學校教科書十二册を讀破し、後には古事記まで讀もようになっていた。障子一つ隔てて聞くと日本の友人と話しているのが、まるで日本人同士の會話のようで、隨分しゃれを連發して、日本人を面食らわせたらしい』とある。
ジョーンズは歌や絵の素養もあった(歌については後注「オペラ役者にでもなつてゐれば」を参照)。風景のスケッチをよくし、北斎や芳年の浮世絵を蒐集した。長岡擴氏が独自に編集していたクラウン・リーダーの編纂を手伝った折も、表紙や挿絵を彼が担当した(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)。後年、彼の妹メーベル(次注参照)の娘あやめが、沖繩の壷屋焼きを修行していた頃に出会った陶芸家濱田庄司が、彼女の伯父ジョーンズのことを「絵の上手な新聞記者がいた」と語ったという逸話がそれを物語る(山田清一郎「古きよき時代のこと」)。
最後に記されている通り、彼は33歳の若さで天然痘に罹患し、上海で客死、同所の静安寺路にある外人墓地に埋葬された(山田「古きよき時代のこと」)。ジョーンズ一家は種痘をしない主義であったそうである(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)が、それが宗教的なものであったとすれば、『宗教上の無神論者』にして『哲學上の物質主義者』であったジョーンズが――長岡氏も言うように『なぜ上海へ行く前に種痘をしなかったか、未だにくやまれてならない』――
一 注
・「彼の妹さん」Mabel Jonesメーベル・ジョーンズ。前注で引用した山田清一郎「古きよき時代のこと」によれば、兄に遅れること4年、1919年に来日して国際通信社総支配人ジョン・ラッセル・ケネデーの秘書をしていたが、大正12(1923)年に母の死の報を受けて帰国している(同年、兄も中国にて死去)。その間、芥川とも実際に逢っている。メーベル女史本人の話として、『來日して間もなく、新橋の料亭で芥川、久米、菊池、トーマスの宴につれてゆかれたが、話は日本語でわからず、何かお皿にのっていた青いものを口に入れたらワサビで、兄から「泣いてはいけない」といわれていたので、涙をこらえるのに困った』という逸話を山田氏は記す。彼女はその後、『パリのアメリカ系銀行に勤め、さらにニューヨークに轉じ、來日中に知り合った大儀見准(おおぎみ よそえ)氏がメキシコ公使館書記生であったのでワシントンの日本大使館で結婚』、その後、見准氏はおもに中南米の各所の勤務地を経て、ベネゼエラ公使代理となった。そこで見准氏は『太平洋戰争の宣戰布告とともに捕虜となり』、メーベル女史は『留守宅東京で戰災を受け』た。戦後、見准氏は戦後処理や国際関係の仕事に従事、昭和37(1962)年に亡くなった。女史はその後、アメリカ資本のフィルム・エクスチェンジ社に勤務、本月報が書かれた当時(1978年)もご健在で国際記者クラブのメンバーとして勉強されている、とある。因みに、長男の大儀見薫氏は元日本リーダーズ・ダイジェスト社社長、57歳で太平洋縦断ヨットレースに優勝したヨットマンでもある。現在も79歳でご健在とお見受けする。
・「カミン」はドイツ語“kamin”で、壁付きの暖炉を言う。ロシア語のペチカのこと。
・「桃花心木(マホガニイ)」“mahogany”マホガニーは、センダン科マホガニー属Swieteniaに属する3種の木本の総称。高級木材として知られる。現在は入手困難。
・「I detest Bernard Shaw.」=「私はバーナード・ショーを忌み嫌っている。」。この“detest”[ditést] とは、「~をひどく憎む」「~することをひどく嫌う」の意。ラテン語由来で“dtestr”、「下へ」の意味の“d-”に下「証言する」の意味の“testr”がついたもので、「神を証人として相手を名指し非難する」という強烈な語である。
二 注
・「カッフエ・パウリスタ」については、岩波版新全集で三島譲氏は『一九一一年一二月に京橋区南鍋町二丁目(現、中央区西銀座六丁目)開業、他のカッフェと異なって女給を置かず、直輸入のブラジルコーヒーを飲ませる店として名高く、文士の常連も多かった。店内には自動オルガンを備え、五銭の白銅貨を投入すると自動的に演奏した。「グラノフォン」(gramophone 英語)は蓄音機の商標名であるが、この自動オルガンを指していると思われる。』という読んで目から鱗の注を施してくれている。
・「gramophone」ドイツ出身のアメリカの発明家であるEmil Berlinerエミール・ベルリナー(1851~1929)がエジソンと競争して完成させた蓄音機で、彼が創設したGramophone Company社の商標登録名であった。
・「ダム何とか」とは、「糞!」「畜生!」に相当する“Damn God it!”“Damn it all!”“Be damned to you!”の何れかであろう(一般的な“Damn it!”や短い“Damn you! ”なら芥川はそう記したであろう)。
・「クルウェットスタンド」“curet stand”は食事用テーブルの食塩や香辛料・オイル等の薬入れを置く台を言う。
・「教文館」明治初期に来日したメソジスト教会の宣教師達の伝道の一環として明治18(1885)年に始めた出版活動をルーツとし、明治28(1895)年に銀座4丁目に移転、翌年に「教文館」という社名となって、現在に至るキリスト教関連書籍と洋書を主に取り扱う書店。社史によれば現在の位置になったのは明治39(1906)年で、四階建ての瀟洒な社屋であった。ここで二人が立つのは、それから十年後のそのショー・ウィンドウの前である。
・「Above the War――Romain Rolland………」は、1915年、ロマン・ロラン(1866~1944)が第一次世界大戦に対して反戦の意思を示した書“Au-dessus de la mêlée”「戦いを超えて」の英訳本である。岩波版新全集の三島氏の注解によると、芥川龍之介の蔵書にはロンドンAllen版“Above the battle”というこれの英訳本(1917年刊)がある、とする。
・「amidst」は、真っ只中に、の意。
・「京橋」は、かつて存在した京橋川に架けられていた橋。日本橋と並ぶランドマークで、日本橋から東海道を京阪に向かう際、街道に入って最初に渡る橋であった。岩波版新全集の三島氏の注解によると、石造りの欄干にはここに描写される擬宝珠が飾られていたが、大正11(1922)年の改築で撤去された、とある。即ち、本作執筆時には、最早、失われていた。ジョーンズを追想する芥川は、正にこの文脈の中で、そうしたみるみる失われてゆく江戸風景として、「かう云ふ景色」を点描したかったのであろう。因みに京橋川は昭和34(1959)年に完全な埋め立てが完了し、京橋は勿論、川そのものが消失し、現在はその川のあった上を東京高速道路が走っている――。
・「大根河岸」は京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸のこと。江戸時代から関東大震災まで、野菜・根菜類の荷揚げ市場であったため、別名大根河岸と呼ばれた。これもまた「かう云ふ景色」へのオードである。
・『「僕はもう歸る。」/「さうか? ぢや僕は………」/「どこかこの近所へ沈んで行けよ。」』分かりにくいが、カッフエ・パウリスタから強引に連れ出した芥川というシチュエーション、また、この台詞が直前の芥川のジョーンズへの仄かな反感を反映するということを考えるならば、
私(芥川龍之介)「僕はもう歸る。」
彼(ジョーンズ)「さうか? ぢや僕は………」
私(芥川龍之介)「どこかこの近所へ沈んで行けよ。」
の順であろうか。
三 注
・「ヘルン」小泉八雲、帰化前の旧名Patrick Lafcadio Hearnパトリック・ラフカディオ・ハーン(1850~1904)。彼の父はグレートブリテンおよびアイルランド連合王国(現・アイルランド)出身のプロテスタント・アングロ・アイリッシュであった。イギリス軍の少佐(軍医)としてギリシャに駐在中、地元の名士の娘ローザ・カシマティと結婚、ハーンが生まれた。彼はこよなく日本を愛したが、晩年、急速に欧米化する日本に対してある種の失望感を抱いていたことは想像に難くない。
・「いや、僕は幻滅したんぢやない。illusion を持たないものに disillusion のある筈はないからね。」最初の“illusion”は表面上は「幻想」の意であるが、内実に『こうあって欲しいと思う期待や憧れが描き出す事実でないものを見ること』という微妙な意味合いをも含んでおり、それが後の“disillusion”=「幻滅」という文字通り、日本語的な『期待していたものとが現実が異なることによる失望感』という語と結びつくように、ジョーンズは(間接的にそれを聴いた芥川は)これらを英語表記にすることで、逆に日本語的な語彙性をここに孕ませようとしたのではないかと僕は思うのである。
・『僕はどう云ふ藝術家も脱却出來ない「店」を考へ』の「店」とは、生業・生計(たつき)という意味であろう。因みに、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中には、
作家
のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いてゐる。何、わたしは作品は賣らない? それは君、買い手のない時にはね。或は賣らずとも好い時にはね。
という一節がある。
・「柳橋」は現在の東京都中央区と台東区に跨って流れる神田川の最下流に架かる橋。旧浅草区で、古き浅草の一角をなす。江戸後期から明治にかけて江戸の花街として、新橋と共に知られた。
・「谷崎潤一郎の『惡魔』」マズヒスティックな主人公が、サディストを匂わせる女に惑溺してゆく様を描くが、その中で、女がかんで捨てたハンカチをゴミ箱から拾ってそのぬらぬらとした生臭い鼻汁を主人公が開いてべろべろと舐めるシーンがあり、ジョーンズが言うのもそこを指していよう(引用しようと本棚を探したが、何故か見当たらない。見当たらなくてよかった。実は、私も好きではない。私は気持ちが悪いから好きでない、のではない。そんなのはどうってことない。どうってことないお下劣な谷崎の確信犯的猥雑さが如何にも作為的で嫌いなのである。お分かり戴けるだろうか?)。
・「ブック・マン」雑誌“The Bookman”のこと(岩波版新全集注解では“Book man”と定冠詞がなく切れているが、私の調べた限りでは雑誌名の英文綴りは切れずに繋がっている)。ロンドン のHodder & Stoughtonホダー&ストートン社から1891年から1934年まで発行された文芸総合誌。
四 注
・「瑠璃燈」ガラスの油皿を中に入れた六角形の吊り灯籠。
・「砧手のギヤマン」の「砧手」(きぬたで)は、砧青磁(きぬたせいじ)のこと。中国製青磁の一種で、特に南宋時代、現在の浙江省龍泉県を中心とした龍泉窯(りゅうせんよう)で創られた青磁器の中で、鮮やかな青緑色(粉青色と呼ぶ)を示すものを本邦で「砧手」と呼称した。「ギヤマン」はオランダ語の“diamant”でガラスを指す語であるが、近代に至って、青磁器の灰白色の素地にかけた珪石の釉薬の変性部分をも言うようになった。
・「瘴氣」は、中国に於いて、山川に生じて、熱病を引き起こすとされた毒気。
・「バリトオン」“baritone”。男声音域のバリトンのこと。
・「ヂャッヅ」“jazz”。
・「世の中をうしとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は、有名な山上憶良の「万葉集」巻第五832番歌「貧窮問答歌」の、後に附された反歌(853番歌)である。
世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
○やぶちゃん訳
人の世というものは如何にもつらい、この世を生きること自体、如何にも慙愧に耐え切れぬ――と、そう思いはするけれど、ここを潔くうち捨ててどこぞへ飛び去ってゆくわけにもゆかぬ――私はあの自由気儘な鳥ではないから――
・「オペラ役者にでもなつてゐれば」とあるが、岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、『ジョーンズさんは音楽にもすぐれた才能のある人で、とても聲がよく、スコットランドやアイルランドの古い民謠とか、ギルバート・サリバンの「ミカド」や「軍艦ピナフォア」などオペラの有名なメロディを唄ってきかせてくれた。私たち兄妹が西洋音樂好きになったのは、全く彼のお蔭であるといってよい。その頃在留外人素人劇團が、帝劇で歌劇「キスメット」の公演をした時も、ジョーンズさんは、そのよい聲で人々を祈禱に誘う歌を唄う役で出演されたことを覚えている』とあり、前注で引用した山田清一郎「古きよき時代のこと」でも『第一次大戰中は在留邦人のチャリテー芝居にも出演したことがある。帝劇を借りての「キスメット」ではミナレットの上から祈りの歌を唱った』と記す。因みに引用文の『「キスメット」』は、イギリスの劇作家Edward Knoblockエドワード・ノブロックがロシアの作曲家ボロディンの複数の作品を援用して創作したミュージカル“Kismet”のことであろう。「ミナレット」は“minaret”で、礼拝の時を告げるモスクに付属する尖塔のこと。「キスメット」の舞台装置と思われる。
・「カルウソオ」Enrico Carusoエンリコ・カルーソー(1873~1921)。オペラ史上最も有名なイタリアのテノール歌手。声量・音質共に伝説的で、そのレパートリーはオペラ約60作、古典・民謡・近現代のイタリア歌曲500曲に及び、スター歌手として普及したばかりのレコード録音を盛んに行って世界中にその名を轟かせた。
・「黄浦江」上海市内を流れる川。市街地の下流呉淞口(ごしょうこう)で長江に合流する。海に流れ入る長江の最後の大きな支流。後、呉淞は日中戦争上海上陸作戦の激戦地となり、嘗て貧しい農村であった黄浦江東側の浦東(プートン)は改革開放を境に急速に発展し、今や超高層ビルの立ち並ぶ上海経済の中心地に変貌した。
五 注
・「(大正十五・一二・九)」この本作脱稿のクレジットの12月9日は、夏目漱石の命日でもあった。因みに――小穴隆一のエッセイ「二つの繪」(1952年中央公論社刊)の「漱石の命日」という一文に、
「いままで度々死に遅れているが、今度この十二月の九日、夏目先生の命日には、いくらどんなに君がついてゐてもきつと俺は死んでしまふよ、」
「その間一寸君は帝國ホテルにで泊まつてゐないかねえ、」
「いやかねえ、」
芥川は鵠沼で僕にさういふことを言つてゐた。
とある。小穴が鵠沼の芥川の一軒おいた隣りに住むようになったのは、大正15・昭和元(1926)年の7月末(翌年の2月迄)のことであった。正に、この『今度この十二月の九日』という芥川の言葉は、この脱稿の日、その日を指しているのである。――]