江南游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈
[やぶちゃん注:「江南游記」(こうなんいうき/こうなんゆうき)は大正11(1922)年1月1日~2月13日の期間の中で、28回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊に連載され、後に『支那游記』(「自序」の後、「上海游記」を筆頭に「江南游記」・「長江游記」・「北京日記抄」・「雜信一束」の順で構成)に所収された。初出は未見なので推測であるが、「前置き」+全29章であるから、幾つかの回がカップリングしたか、トリプルとなったかと思われる。「江南游記」底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビ(但し、引用漢詩などの一部はルビなし)であるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。
私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「卒然」「ボンボン」「攘夷」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「江南游記」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。
その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。
本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。なお、それに関わって私が本紀行群を初めて読んだ21歳の時の稚拙な感想をブログにアップしてある。参考までにお読み頂ければ幸いである。
本篇テクスト及び注釈は、2009年6月23日から7月22日にかけて、私自身のブログに連載したものであるが、本頁で一括掲載するに際し、注を全体にブラッシュ・アップしてあるので、公開時の内容とは一部異なっている。引用(必ず本ページからのものであることを明記)・リンクされる場合は、こちらを基本にされた方がよいと思う。【2009年7月24日 82年目の河童忌に】
「二十四 古揚州(中)」に「橋のアアチの石面には、白墨かペンキか覺えてゐないが、兎に角白い字を並べ立てた、排日の宣言が書き立ててある」の注を追加し、「徐氏の花園」の注を補足した。【2009年8月11日】
更に製作した以下の関連ページをリンクさせる。
芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈
芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊) 【2009年8月30日】]
江南游記
前置き
私はつい昨日の朝、本郷臺から藍染橋(あゐそめばし)へ、ぶらぶら坂を下つて行つた。すると二人の青年紳士が、反對にその坂を登つて來た。私も男の淺間しさに、すれ違ふ相手が女性でないと、滅多に行人には注意しない。が、この時はどう云ふ訣か、まだ五六間距離のある内から、相手の風采に氣をつけてゐた。殊にその一人が薄青い背廣に、雨外套をひつかけたのには、血色の好い瓜實顏や、細い銀の柄の杖と共に、瀟洒たる趣を感じてゐた。二人は何か話しながら、ゆつくり足を運んで來る。――それが愈(いよいよ)すれ違つた時、私の耳は意外にも、卒然噯喲(アイヨオ)と云ふ間投詞を捉へた。噯喲! 私は心の躍るのを感じた。それは何も彼等二人が、支那人だつたのに驚いたのではない。この偶然耳にした噯喲と云ふ言葉の爲に、いろいろな記憶がよみがへつたのである。
私は北京の紫禁城を思つた。洞庭湖に浮んだ君山(くんざん)を思つた。南國の美人の耳を思つた。雲崗(うんかう)や龍門の石佛を思つた。京漢(けいかん)鐵道の南京蟲を思つた。廬山の避暑地、金山寺(きんざんじ)の塔、蘇小小の墓、秦淮(しんわい)の料理屋、胡適(こてき)氏、黄鶴樓、前門牌(チエンメンはい)の煙草、梅蘭芳(メイランフアン)の嫦蛾(じやうが)を思つた。同時に又腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事をも思つた。
私は彼等を振り返つた。彼等は勿論悠悠と不相變何か話しながら、霜晴(しもば)れの坂を登つて行つた。しかし私の耳の中には、未に噯喲の聲が殘つてゐる。彼等は何處(どこ)の下宿から、何處へ出かける途中であらう? 事によると彼等の一人は、「留東外史」の張全(ちやうぜん)のやうに、戸山(とやま)ケ原の雜木林へ、女學生をつれ出す所かも知れない。さう云へばもう一人の留學生も、同じ小説の王甫察(わうほさつ)のやうに、馴染の藝者位はありさうである。私はこんな彼等にとつては失禮な想像を逞しくしながら、藍染橋の停留場へ出ると、田端の家へ歸る爲に、動坂(どうざか)行きの電車に乘つた。
處が家へ歸つて見ると、大阪の社から電報が來てゐた。文句は「ゲンコウヲタノミマス」である。私は度度薄田氏に、迷惑をかけるのに恐縮した。しかし正直に白状すれば、重重恐れ入りながらも、腹の工合が惡かつたり、寢不足が何日も續いたり、感興がなかつたりする所から、ペンを執らない事もないではない。それがこの電報を見た時は、明日にも早速「上海游記(シヤンハイいうき)」の續篇を書き出さうと云ふ氣になつた。噯喲! さう云ふ聲が私の耳に、忘れない響を残したのは、薄田氏の爲にも私の爲にも、意外な仕合せになつた訣である。私の知つてゐる支那語の數は、やつと二十六しかない。その中の一つが偶然にも、私の耳に止まつたばかりか、兎に角何かを目ざめさせた事は、大袈裟に言へば天惠である。尤も私の惡文の爲に惱まされる讀者の身になれば、天惠より寧ろ天災かも知れない。しかし天災と考へれば讀者も諦め易さうである。かたがた噯喲の聲を耳にしたのは、御互に感謝して然るべきであらう。これが本文にとりかかる前に、かう云ふ前置きを加へる所以である。
[やぶちゃん注:新全集版年譜(宮坂覺)によれば、大正10(1921)年9月7日、『体調不良のため、薄田泣菫に「上海游記」終了後、次の「江南游記」までに一週間の猶予を申し入れ』たまま、その後、同月中は本文でも言訳しているように、『胃腸の調子が優れない上、痔疾も併発して苦し』み、『体重も減り、寝たり起きたりの生活が続いた』。10月にはやや回復はしたものの(1日から25日頃まで湯河原にて南部修太郎と共に静養、静養中は一本の作品も発表せず)、『神経衰弱のせいで、熟睡』出来ず、不眠症状がしつこく付き纏い、新年号の各社原稿依頼の多忙の中、11月24日には再度、そうした『新年号の原稿が片付くまで「江南游記」の執筆を延期することを薄田泣菫に申し入れ』ている。「上海游記」公開終了の9月12日以後12月末迄に発表されたものは、「好色」「『チヤツプリン』その他」、下島勳著「井月句集」の跋、湯河原での俳句五句及び室賀文武(芥川の実父新原敏三の使用人で、芥川の子守もしたが、後年は芥川のキリスト教の師ともいうべき存在であった)の句集「春城句集」の序のみである。しかし、本連載が始まる大正11(1922)年1月1日には、我々は「藪の中」「俊寛」「將軍」(中国旅行のインスピレーションの賜物)「神神の微笑」「パステルの龍」(「三 杭州の一夜(上)」に登場するJudith Gautierジュディット・ゴーティエの詩の翻訳2篇を所収)「LOS CAPRICHOS」(「十五 蘇州城内(下)」にゴヤへの言及がある)「英米文學上に現れた怪異」といった彼の晩年にあってエポックとなった重要な作品群を読むことになる。
・「藍染橋」東京都文京区千駄木2丁目にあった橋。現在の文京区と台東区の区境に当たる道路は美事に蛇行しているが、これが今は暗渠となっている藍染川で、そこに架橋していた一本が合染橋(藍染・琵琶・枇杷とも表記)である。西の東京大学を中心とした山の手の文教地区本郷台からということであれば、通常ならば団子坂を下ってここに至る。
・「噯喲(アイヨオ)!」“aiyo!”=“aiya!”。「ひえっ!」「やあっ!」といった間投詞。突発的な事態に対して驚いたり、嘆いたり、素晴らしい対象に対して感動した際に発する。
・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初(1373)に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月14日以降、恐らく6月24までの間に見学しているが、唯一「北京日記抄」の掉尾に(引用は岩波版旧全集から)、
紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大(ぼうだい)なる夢魔のみ。
とあるのみである。この一行は芥川にとって紫禁城がある衝撃的感覚を呼び起こしたことには相違ない。私自身もまた、紫禁城を見た経験から、この芥川の投げつけるような一行が、実は大いに共感出来るのである。しかし、私は中国の思い出にあのスクブス・インクブスの空気に満ち満ちた膨大な虚を最初に想起はしない。即ち実は芥川もそうであったと私は確信する。如何にもな中国的シンボルとして「江南游記」という中国紀行文の枕に附した芥川龍之介の粉飾的虚構であると私は思うのである。この皮相性はこの後に羅列する史跡に対しても数多く見られる点に注意されたい。
・「洞庭湖に浮んだ君山」本来は洞庭湖の中に浮かぶ島であるが、現在は渇水期の方が長い様子で、陸繋島(湖底に舗装道路が敷設されている)と記されているものが多い(島自体の広さは約1㎢)。島名の由来は、伝説の君主舜の愛妃であった蛾皇と女英(ともに尭の娘とも)がここに旅した折り、舜帝の崩御を知り入水したから(現在も二妃の墓と伝えるものがある)、秦の始皇帝が南方巡幸の際の行宮であったからなどとする。その島の美しさは『銀盆の中の青い巻貝』と称された。他にも始皇帝の「封山印」(南巡中ここで暴風波浪に見舞われた彼がそれを占い、ここに封じられた蛾皇と女英の魂の仕業と知り、それを鎮魂するために岩壁に「永封」「封山」と陰刻したとされるもの)、唐代伝奇で柳毅が龍宮へ下って行ったという「柳毅井」、有名な仙人呂洞賓(りょどうひん)のゆかりの「郎吟亭」等の旧跡が多くある。君山銀針茶という銘茶の産地としてもよく知られる。芥川龍之介は5月29日に訪れている。しかし乍ら、芥川は洞庭湖については、唯一「雜信一束」の中で、
五 洞庭湖
洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い黑松。
とあるだけでそっけなく、5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している。芥川は君山には例外的に心惹かれ印象として残ったのか?――いや、芥川は実際には洞庭湖に失望したのである。これは「紫禁城」同様、「江南游記」の枕としての粉飾的虚構であろうと私は思う。
・「南國の美人の耳」これは先行発表した「上海游記」の「十七 南國の美人(下)」冒頭の以下の部分に拠る。招待された上海の茶屋で、案内してくれた余洵氏(この人については同「十五 南國の美人(上)」の「余洵」以下の諸注を参照)の中国女性の何処がよいと思うか、という問いに芥川は「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」と答えた後、以下のように綴っている。
實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜横。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。
幾つかの語句については、リンク先の私の該当部分の注を参照されたい。
・「雲崗や龍門の石佛」「雲崗」は山西省大同市西方20㎞の武周山南側にある東西約1㎞、約40窟を有する石窟寺院。本来は霊巌寺と呼んだが、現在は雲崗石窟又は石仏寺と呼称する。南北朝時の460年頃、北魏の僧曇曜(どんよう)が第5代皇帝文成帝(440~465)に上奏し開いた通称「曇曜五窟」(第16~20窟)に始まり、その後も造窟造仏が行われた。493年に北魏は平城から洛陽へ遷都、これ以降、北魏は凋落、534年に東魏・西魏に分かれてしまうが、中国仏教彫刻史ではこの460年から494年頃まで期間を本窟を代表させて雲崗期と呼ぶ。日本人建築学者伊東忠太が発見した。芥川は「雜信一束」の中で、
十七 石彿寺
藝術的エネルギイの洪水の中から石の蓮華が何本も歡喜の聲を放つてゐる。その聲を聞いてゐるだけでも、――どうもこれは命がけだ。ちよつと一息つかせてくれ給へ。
と述べている。また「龍門」は河南省洛陽市南方13㎞の伊河の両岸に形成された石窟寺院。中国仏教彫刻史の雲崗期の後を受けた龍門期(494~520)と呼ばれる時期を代表するが、その後も造営維持管理は継続し、龍門石窟自体は唐代の第3代皇帝高宗(628~683)の頃に最盛期を迎える。それを代表するものが高宗の発願になる龍門最大の石窟である675年造営になる奉先寺洞である。芥川は「雜信一束」の中で、
十一 龍門
黑光りに光つた壁の上に未に佛を恭敬(くぎやう)してゐる唐朝の男女の端麗さ!
と述べている。彼は洛陽滞在中の6月10日に龍門石窟を、北京滞在中の6月25日から7月9日の間に雲崗石窟をそれぞれ見学している(雲崗石窟は6月24日に訪問する予定であったが、列車のストライキにより行けなかったことが分かっている。なお、以上の両石窟の記載は主に「雲崗石窟」及び「龍門石窟」を中心に複数の頁を参照にした)。私も両方訪れたが、石仏を愛するなら敦煌と並んで必見の地である。
・「京漢鐵道」現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。芥川は「雜信一束」の中で次のように記している。
八 京漢鐵道
どうもこの寢臺車の戸に鍵をかけただけでは不安心だな。トランクも次手に凭せかけて置かう。さあ、これで土匪(どひ)に遇つても、――待てよ。土匪に過つた時にはテイツプをやらなくつても好いものかしら?
「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。
・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミCimex lectulariusの別名。因みに、「トコジラミ」という和名は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる昆虫である以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。
・「廬山」江西省九江市南部の名山。海抜1,474m。古くは陶淵明・李白・白居易ら文人墨客が訪れ、神聖な山として知られたが、また後には毛沢東ら中国共産党高官も避暑地としてここに山荘を構えた。1959年には毛沢東の右腕であった国防部長彭徳懐がここで開催された中国共産党政治局拡大会議(廬山会議)で追放された。因みに私はその彭徳懐がこの山荘の前を笑いながら歩いてくる最後の映像が、何故かひどく印象に残っているのである。芥川の「長江游記」では、二章に渡って失望に満ちた皮肉な実見記を綴っている。
・「金山寺」江蘇省鎮江北西の金山にある寺。本篇の「二十六 金山寺」本文及び注に譲る。
・「蘇小小」5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。現在の彼女の墓は西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。本篇の「七 西湖(二)」本文及び注に譲る。
・「秦淮」東晋及び南朝たる四王朝(宋・斉・梁・陳)の都となった健康(南京)の運河の名。両岸は遊郭であった。本篇の「二十八 南京(中)」本文及び注に譲る。
・「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 1891~1962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。
・「黄鶴樓」湖北省武昌の西南の隅、長江を見下ろす高台ににある楼閣で、江南三大名楼の一として、李白や崔顥(さいこう)の詩で頓に知られる。芥川は「雜信一束」の中で、やはり感興を殺いだ如く、
三 黄鶴樓
甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、
僕――鸚鵡洲は?
宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。
と述べている。
・「前門牌(チエンメンはい)の煙草」“qiánmén”「牌」は「~印」の意。中国製シガレットの銘柄。
・「梅蘭芳(メイランフアン)」(méi lánfāng メイ ランファン 1894~1961)は、本名梅瀾(méi lán メイ ラン)、清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋、尚小雲、そして「白牡丹」こと荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年である。芥川の「侏儒の言葉」には、
「虹霓關」を見て
男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。
「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?
とある。とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。
○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856~ 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。山田俊治氏の注では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。
○「虹霓關」は「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるという悲惨なストーリーらしい(私は管見したことがないので、以上は複数のネット記載を参考に纏めてみたもの)。山田俊治氏の注によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、今一つ『わかる』の意味が分らない。どなたか分かる方は御教授を乞う。
○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武(生没年未詳)は兵法書「孫子」の著者で、紀元前5世紀頃、春秋時代に活躍した兵家。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。
○『「戲考」』「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯(おうだいさく)の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915年から1925年の長期に亙る刊行)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。
○「兵機」は戦略・戦術の意。
○「董家山」山田俊治氏の注によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリーである。
○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、山田俊治氏の注では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の記す平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。
○「雙鎖山」山田俊治氏の注によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。
○「馬上縁」明治大学法学部の加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。山田俊治氏の注によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。
○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。山田俊治氏の注によると、『明代の物語で、柳素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。
・「嫦蛾」は、「竹取物語」の原典とも言われる晋代の干宝の撰になる「捜神記」をもとにした京劇「嫦娥奔月」のヒロイン、月の天女。1915年21歳の時に初演して以来、梅蘭芳の当り役であった。
・「腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事」本注冒頭注参照。
・『「留東外史」』民国平江不肖生著上海民権出版部1916年刊行の中国人によって書かれた中国人日本留学生の赤裸々な私生活を活写した通俗小説。東京都立図書館HPの特別コレクションのページ中の「留東外史」に筆者の本名・正体他、詳細な記載がある。岩波新全集の神田由美子氏の注解では『大胆な性欲描写のため、周作人によって淫書だと評されている』とある。
・「戸山ケ原」は、岩波新全集の神田由美子氏の注解によると、1874年から『第二次世界大戦中まで陸軍用地だった東京と新宿区の原野(現、大久保三丁目辺)。陸軍戸山学校(現、新宿区戸山町)の西北にあたり、射撃場、陸軍科学研究所、陸軍技術本部もあった。演習のための広大な原っぱだったので、民間人の格好の行楽の地であったとともに、多くの犯罪もおこった』とある。個人ブログ“Chinchiko Papalog”の「この戸山ヶ原は、どこだかわからない。」のページに大正9(1920)年の写真が掲載されている。ご覧あれ。記事自体も大いに参考になる。
・「大阪の社」芥川龍之介が社員であった大阪毎日新聞社。芥川が中国へ行った肩書きも同社の中国特派員による。「上海游記」の私の諸注を参照。
・「薄田」大阪毎日新聞社学芸部部長の薄田淳介(じゅんすけ)、詩人薄田泣菫(すすきだ きゅうきん 明治10(1877)年~昭和20(1945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。この大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正12(1923)年末には新聞社を休職している。「度度薄田氏に、迷惑をかける」というのは、この芥川の中国特派に際し、しょっぱなからの病気による遅延による躓きに始まり、上海での入院、現地からするはずであった特派員報告の完全不履行等、社交辞令でなく、芥川には、尊敬する詩人でもあった薄田に対し、内心忸怩たるものがあったと言ってよい。具体的には本注の冒頭注及び「上海游記」の私の諸注を参照されたい。
・「かたがた」は、人称代名詞や名詞ではない。「以上のいろいろなことを考え合わせると」、「いずれにしても」の意の副詞である。
・「御互に」の部分は授業であれば高校生に質問してみたいところである。老婆心乍ら言っておくと、芥川龍之介と「天災と諦め」ねばならない「讀者」では意味が通じない。芥川龍之介と「薄田氏」にとって、の意である。]
一 車中
杭州行きの汽車へ乘つてゐたら、車掌が切符を檢(しら)べに來た。この車掌はオリヴ色の洋服に、金筋(きんすぢ)入りの大黑帽をかぶつてゐる。日本の車掌に比べると、何だか敏活な感じがしない。が、勿論さう考へるのは、我我の僻見(へきけん)である。我我は車掌の風采にさへ、我我の定木(ぢやうぎ)を振り回しやすい。ジヨン・ブルは乙に澄まさなければ、紳士でないと思つてゐる。アンクル・サムは金がなければ、紳士でないと思つてゐる。ジャップは、――少くとも紀行文を草する以上、旅愁の涙を落したり、風景の美に見惚れたり、游子(いうし)のポオズをつくらなければ、紳士でないと思つてゐる。我我は如何なる場合でも、かう云ふ僻見に捉はれてはならん。――私はこの悠悠とした車掌が、切符を檢べてゐる間に、かう云ふ僻見論を發表した。尤も支那人の車掌を相手に、気焰を揚げた訣ではない。案内役に同行した、村田烏江君に吹きかけたのである。
汽車の外は何時まで行つても、菜畑かげんげ野(の)ばかりである。その中に時時羊がゐたり、臼挽き小屋があつたりする。と思ふと大きい水牛も、のそのそ田の畔(くろ)を歩いてゐた。五六日前やはり村田君と、上海の郊外を歩いてゐたら、突然一頭の水牛に路を塞がれた事がある。私は動物園の柵内(さくない)は知らず、目(ま)のあたりこんな怪物に遭遇した事は始めてだから、つい感心した拍子に、ほんの半歩ばかり退却した。すると忽ち村田君に、「臆病だなあ。」と輕蔑された。今日は勿論驚嘆はしない。が、ちよいと珍しかつたから、「君、水牛がゐるぜ。」と云はうとしたが、まあ、泰然と默つてゐる事にした。村田君もきつとあの瞬間は、私も中中支那通になつたと、敬服してゐたに相違ない。
汽車は一室八人の、小さい部屋に分かれてゐる。尤もこの客室には、我我二人の外誰もゐない。室(しつ)のまん中の卓子(テエブル)の上には、土瓶や茶碗が並べてある。其處へ時時青服の給仕が熱いタオルを持つて來てくれる。乘り心は餘り惡い方ぢやない。但し我我が乘つてゐても、この客車は正に一等である。一等と云へば何時か鎌倉から、ちよいと一等へ乘つた所が、勿體なくも或宮樣と、たつた二人ぎりになつたのには、恐懼の至りに堪へなかつたけ。しかもあの時持つてゐたのは、白切符だつたか赤切符だつたか、其邊も實は確(たしか)ぢやない。………
[やぶちゃん注:芥川が上海を発って西湖に向かったのは大正10(1921)年5月2日のことである。上海上陸直後に即入院(乾性肋膜炎による。「上海游記」の「五 病院」を参照)した彼が、やっと退院出来たのが4月23日であったから、その9日後の未だ病み上がりであった。その後、5月4日の夕刻には上海に戻っているので、2泊3日の小旅行であった。
・「杭州」浙江省の省都。中国八大古都(2004年現在、中国古都学会によって公認された歴史的に重要な首都であった8つの古都。北京・南京・洛陽・西安・開封・杭州・安陽・鄭州)の一つ。古くから江南運河の終着点として発達、「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と謳われた。五代十国の時代には呉越国の首都、南宋時代には事実上の首都であった臨安府が置かれた。市中心部の西に観光の目玉である西湖がある(ウィキの「杭州市」の記載を参照した)。
・「大黑帽」は大黒帽子のこと。七福神の大黒が被っている頭巾に似た、上が平らな丸形で縁のない帽子。明治中期には男性がよく被った。
・「僻見」偏見。「僻」=「辟」=「偏」で、偏(かたよ)るの意。
・「ジヨン・ブル」“John Bull”英国政府又は典型的な英国人を示す架空の人名。また、英国人を揶揄した渾名。イギリスの作家John R. Arbuthnotアーバスノット(1667-1735)の書いた寓話小説“Law Is a Bottomless Pit”(1712)等の一連のジョン・ブルの物語から出た語。これらは、スィフトらと共にイギリスのスペイン継承戦争(1701~1714)に反対していた彼が、スペイン継承戦争を近所の訴訟合戦に置き換えて揶揄したパンフレット群である。従って“John Bull”はこの話の中では本当にイギリス王国の名前なのである。英語塾の経営者の方のサイトにある「人名を使う慣用句(8)」によれば、ジョン・ブルは当初、『善意と常識に満ちながら不満を抱える、ファッション・センスがないフツーの田舎者。ちょっとビールを一杯やる家庭的な平和を好み、風格があるわけでも英雄的な反骨精神もない男』(コンマを読点に変更した。以下同じ)として描かれたが、『のちにイメージとして描かれるときは、第1次世界大戦の新兵募集のポスターで見られるように、ボタンを外したタキシードと,ユニオンジャックの模様のベストが見えるビール腹。ひざまである半ズボンを履き、low topper と呼ばれる山高帽を被る姿をして』おり、『このイメージは19世紀から20世紀初めの新聞漫画によく登場した』と記されている。
・「アンクル・サム」“Uncle Sam”アメリカ合衆国政府又は典型的なアメリカ人を示す架空の人名。またアメリカ人を揶揄した渾名。United Statesの頭文字をもじったものとされる。前注の「人名を使う慣用句(8)」の、末尾に“John Bull”との対比で掲げられているのを引くと、『米英戦争最中の1813年に John Bull に対抗して作られたキャラクタ』とある。
・「ジャップ」“Jap”日本国又は日本人を軽蔑的に表現する渾名。ネットを調べると、現在、オーストラリアでは「日本製の」という意味で必ずしも差別語としては意識されずに使われているらしいが、「支那」と同様、言われる身になれば、使うべき語ではあるまい。同僚の英語教師に聞いたが、ネイティヴとの会話の中でこの単語を聞いたことは一度もないとのことである。
・「村田烏江」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和20(1945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。
・「げんげ」マメ目マメ科ゲンゲAstragalus sinicus。緑肥(りょくひ)=草肥(くさごえ)及び牛等の飼料とするため、種を蒔まいて栽培した。根粒菌の働きにより、多量の窒素を根の根粒に固定するため、緑肥として翌春にゲンゲを田畑にそのまま鋤き込んで肥料とした(以上はウィキの「ゲンゲ」を参照した)。
・「水牛」哺乳綱ウシ(偶蹄)目ウシ(反芻)亜目ウシ科スイギュウBubalus arnee。中国はスイギュウの原産地であるアジア(世界のスイギュウの95%が生息)の主要な一国。現在の中国では凡そ2300万頭程度がいるとされる。中国南部では重要な役畜であり、また、その乳加工して用いる順徳料理(広東省仏山市順徳区の地方料理を言う。広東料理の一つ)があり、広く広東料理ではその肉を煮込み料理とする。怒らせるとその巨大な角が凶器となるが、私もベトナムで水牛そのものに乗ったが、極めて温和な性格である(以上は主に複数のウィキの記載を参考にした)。
・「白切符だつたか赤切符だつたか」鳩サブレーでお馴染みの豊島屋のHPのまさにズバリ「鎌倉のなかの大正 その2(白切符 赤切符)」という本注のためにあるようなページから引用させて頂く。『大正の初め、鎌倉には別荘が約四百あり、そのうちの六十が皇族、華族の別邸だった。御用邸のほかに、皇族が三、華族が五十六、――その内訳は公爵七、候爵七、伯爵七、子爵八、男爵二十七だった。これがそのまま反映していたと思えるものに、鎌倉駅の一、二等の乗客数がある。なにしろ鎌倉に自動車が一台しかなかった時代だから、どんな「おえらがた」でも出かけるとなれば、汽車だった。大正五年の統計によれば、鎌倉駅の一等車乗客、いわゆる「白切符」は一万二千八百人、二等の「青切符」が十三万二千九百人である。なお三等の「赤切符」客は五十七万五千四百人だった。いずれも湘南別荘地の各駅よりは格段に多い数字である。当時の駅は現在よりも南にあり、後ろは田と畑ばかりの標準的な田舎の小駅で、上りホームには、下りホームからブリッジを渡らなければならなかった』(ダッシュの長さを変更、一部の誤植を訂正した)。運賃は2等は3等の3倍、1等の運賃は更にその2等運賃の2倍程度あったと考えてよい。等級別に客車の帯の色が異なり、それが切符の色となっていた(但し、1等車両の帯の色は実際には黄色であった)。(線路の話だから脱線)――赤切符――横須賀線――ときたら、もう「蜜柑」である。]
二 車中(承前)
その中(うち)に汽車は嘉興(かこう)を過ぎた。ふと窓の外を覗いて見ると、水に臨んだ家家の間に、高高と反つた石橋がある。水には兩岸のの白壁も、はつきり映つてゐるらしい。その上南畫に出て來る船も、二三艘水際に繋いである。私は芽を吹いた柳の向うに、こんな景色を眺めた時、急に支那らしい心持になつた。
「君、橋がある。」
私は大威張りにかう云つた。橋ならばまさか水牛のやうに、輕蔑されまいと思つたからである。
「うん、橋がある。ああ云ふ橋は好かもんなあ。」
村田君もすぐに賛成した。
しかしその橋が隠れたと思ふと、今度は一面の桑畑の彼方に、廣告だらけの城壁が見えた。古色蒼然たる城壁に、生生しいペンキの廣告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉(むてきはいがふん)、雙嬰孩香姻(さうえいがいかうえん)、――さう云ふ齒磨や煙草の廣告は、沿線到る所の停車場に、殆(ほとんど)見えなかつたと云ふ事はない。支那は抑(そもそも)如何なる國から、かう云ふ廣告術を學んで來たか? その答を與へるものは、此處にも諸方に並び立つた、ライオン齒磨だの仁丹だのの、俗惡を極めた廣告である。日本は實にこの點でも、隣邦(りんぽう)の厚誼を盡したものらしい。
汽車の外は不相變、菜畑か桑畑かげんげ野である。どうかすると松柏の間に、古塚(ふるつか)のあるのが見える事もある。
「君、墓があるぜ。」
村田君は今度は橋の時程、私の興味に應じなかつた。
「我我は同文書院にゐた時分、ああ云ふ墓の崩れたやつから、度度頭蓋骨を盗んで來たですよ。」
「盗んで來て何にするのですか?」
「おもちやにし居つたですよ。」
我我は茶を啜りながら、腦味噌の焦げたのは肺病の薬だとか、人肉の味は羊肉のやうだとか、野蠻な事を話し合つた。汽車の外には何時の間にか、莢になつた油菜(あぶらな)の上に、赤赤と西日が流れてゐる。
[やぶちゃん注:
・「嘉興」現在の嘉興市は浙江省東北部に位置し、西を杭州市と、東北を上海市と、北を江蘇省蘇州市と接し、南は銭塘江(せんとうこう)と杭州湾に面する。上海と杭州のほぼ中間点に当たる。古くから陸稲の産地であり、現在も江南最大の米の産地として知られる。南湖菱でも有名。私は菱が大好きだ。45年前、鹿児島の大隈半島のど真ん中にある母の実家岩川を訪ねた時、菱採りをしたのが忘れられぬ。タイでは、炭で燻したこれを竹籠に入れたのを、僕が熱心に見ていたら、少女のようなガイドのチップチャン(タイ語で蝶の意)がポケット・マネーで(!)買ってくれたのが忘れられない。
・「好かもんなあ」村田孜郎は佐賀県出身であるため、会話の中にその方言がしばしば現れる。
・「無敵牌牙粉」歯磨き粉の商標。「無敵印歯磨き粉」。
・「雙嬰孩香姻」「嬰孩」は嬰児・乳児・赤ん坊のことであるから、「ツイン・エンジェルズ」「双天使」といった感じの煙草の銘柄である。
・「同文書院」東亜同文書院のこと。日本の東亜同文会が創建した私立学校。東亜同文会は日清戦争後の明治31(1898)年に組織された日中文化交流事業団体(実際には中国進出の尖兵組織)で、日中相互の交換留学生事業等を行い、明治33(1900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格、新中国の政治経済を中心とした日中の実務家を育成したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。村田孜郎はこの東亜同文書院出身であった。
・「腦味噌の焦げたのは肺病の薬だ」以下、第二次世界大戦で中国を侵略した日本兵の異常なる蛮行を綴った以下のページ(タイトル「脳を食った話」)
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/nou.html
に「歩一〇四物語」より以下の記事を引用する(本ページは冒頭左に「非公開」とあるため、リンクを貼らず、トップ・ページやHP及びHP製作者の名も伏せることとする)、
Aの妹は肺病(結核と思うが)である。Aは両親がなく妹と二人だけであった。不治の病と宣告されていた。妹の病気には脳の黒焼がいいということを聞いていた。彼は敵兵の脳をひそかにとって、おぼろげな話をたよりに黒焼を作って凱旋の日を待った。
HPの製作者の別ページによれば「歩一〇四物語」は昭和44(1969)年発行。主に歩一〇四物語刊行会事務長門馬桂氏が執筆。当時の愛知揆一外務大臣・山本壮一郎宮城県知事や同連隊の実質的な指揮者であった山田栴二元旅団長らが揮毫や推薦の言葉を寄せている、とある。上記該当ページには他にも詳細な日本兵による中国人の脳の喫食事件が他の証言者の記録から引用されている。但し、相当に凄惨な内容である。お読みになる場合は、相応な覚悟が必要であることを申し添えておく。しかし、このおぞましさも村田が髑髏を弄んだことといささかの径庭もないと、私は感ずるものである。
・「人肉の味は羊肉のやうだ」人肉は古く仏教では鬼子母神説話から柘榴の味が挙げられ、また枇杷の味とも聞いたことがある。一般には豚肉や鶏肉に近い味であるなどと言われるが(最も近年に食した佐川一政は鶏と言っていたように記憶する)、中国語で人肉を「二脚羊」「双脚羊」と言う話はよく聴く。但し、これだけの雑食と化学合成物質を摂取している現代人の人肉は、極めて高い確率で、まずく、健康に悪いと思われる。]
三 杭州の一夜(上)
杭州の停車場へ着いたのは、彼是午後の七時だつた。停車場の柵の外には、薄暗い電燈のともつた下に、税關の役人が控へてゐる。私はその役人の前へ、赤革(あかがは)の鞄を持つて行つた。鞄の中には手當り次第に、書物だのシヤツだのボンボンの袋だの、いろいろな物が詰めこんである。役人はさも悲しさうに、一一シャツを畳み直したり、ボンボンのこぼれたのを拾つたり、鞄の中の整理に着手してくれた。いや、少くともさう見えた程、一通り檢査をすませた後は、ちやんと鞄の中が片附いたのである。私は彼が鞄の上へ、白墨の圓を描いてくれた時、「多謝(トオシエ)」と支那語の御禮(おれい)を云つた。が、彼はやはり悲しさうに、又外の鞄を整理しながら、私には眼さへ注がなかつた。
其處にはまだ役人の外にも、宿引きが大勢集まつてゐる。彼等は我我の姿を見ると、口口に何か喚きながら、小さい旗を振り廻したり、色紙の引き札をつきつけたりした。が、我我が泊まる筈の、新新旅館の旗なるものは、何處を搜しても見當らない。すると圖圖しい宿引きどもっは、滔滔と何か饒舌(しやべ)り立てては、我我の鞄へ手をかけようとする。如何に村田君に怒鳴られた所が、少しも辟易する樣子がない。私は勿論この場合も、雀が丘のナポレオンのやうに、悠然と彼等を睥睨(へいげい)してゐた。しかし何分か待たされた後、怪しげな背廣を一着した新新旅館の宿引きが、やつと我我の前に現れた時には、やはり正直な所は嬉しかつた。
我我は宿引きの命令通り、停車場前の人力車に乘つた。車は梶棒を上げたと思ふと、いきなり狹い路(みち)へ飛びこんだ。路は殆どまつ暗である。敷石は凸凹を極めてゐるから、車の搖れるのも一通りではない。その中に一度芝居小屋があるのか、騒騒しい銅鑼(どら)の音を聞いた事がある。が、其處を通り過ぎた後(のち)は、人聲一つ聞えて來ない。唯生暖い夜(よる)の町に、我我の車の音ばかりがする。私は葉卷を啣(くは)へながら、何時(いつ)か亜刺此亞夜話(アラビヤやわ)じみた、ロマンテイツクな氣もちを弄び始めた。
その内に路が廣くなると、時時戸口に電燈をともした、大きい白壁の邸宅が見える。――と云つたのでは意を盡さない。始は唯(ただ)闇の中から、朦朧と白い物が浮き上つて來る。その次にそれが星のない夜空(よそら)に、はつきり聳え立つた白壁になる。それから壁を切り拔いた、細長い戸口が現れて來る。戸口には赤い標札の上に、電燈の光が當つてゐる。――と思ふと戸口の奥にも、電燈のともつた部屋部屋(へやへや)が見える。聯(れん)、瑠璃燈(るりとう)、鉢植ゑの薔薇、どうかすると人の姿も見える。このちらりと眼にはいる、明るい邸宅の内部程、不思議に美しい物は見た事がない。其處には何か私の知らない、秘密な幸福があるやうな氣がする。スマトラの忘れな草、鴉片(あへん)の夢に見る白孔雀、――何かそんな物があるやうな氣がする。古來支那の小説には、深夜路に迷つた孤客(こきやく)が、堂堂たる邸宅に泊めて貰ふ。處が翌朝になつて見ると、大廈高樓(たいかかうろう)と思つたのは、草の茂つた古塚(ふるつか)だつたり、山蔭の狐(きつね)の穴だつたりする、――さう云ふ種類の話が多い。私は日本にゐる間、この種類の鬼狐(きこ)の譚(だん)も、机上の空想だと思つてゐた。處が今になつて見ると、それはたとひ空想にしても、支那の都市や田園の夜景に、然るべき根ざしを持つてゐる。夜の底から現れて來る、燈火(ともしび)に滿ちた白壁の邸宅、――その夢のやうな美しさには、古今の小説家も私と同樣、超自然を感じたのに相違ない。さう云へば今見た邸宅の戸口には、隴西(ろうせい)の李庽(ぐう)と云ふ標札があつた。事によるとあの家の中には、昔の儘の李太白が、幻の牡丹を眺めながら、玉盞(ぎよくさん)を傾けてゐるかも知れない。私はもし彼に合つたら、話して見たい事が澤山ある。彼は一體太白集中、どの刊本を正しいとするか? ジユデイト・ゴオテイエが飜譯した、佛蘭西語の彼の采蓮の曲には、吹き出してしまふか腹を立てるか? 胡適(こてき)氏だとか康白情氏だとか、現代の詩人の白話詩には、どう云ふ見解を持つてゐるか? そんな出たらめを考へてゐる内に、車は忽ち横町を曲ると、無暗に幅の廣い往來へ出た。
[やぶちゃん注:
・「多謝(トオシエ)」“duōxiè”。感謝する。
・「新新旅館」西湖湖畔を望む現・杭州新新飯店“HANGZHOU THE NEW HOTEL”。洋風建築のホテル。蒋介石・宋美齢・魯迅といった著名人ゆかりのホテルで、孤雲草舎(1913年に建てられた西楼)、新新旅館(1922年に建てられた中楼。現在、省級文物保護建築群に指定されている)、秋水山荘(1932年に建てられた東楼)から成る、と中国旅行会社サイトなどにある。この記載から見ると、芥川が泊まったのは孤雲草舎である(写真で見る限り、これも西洋建築)。
・「雀が丘のナポレオン」「雀が丘」は、現在モスクワ大学があるモスクワ川南岸に広がる丘陵地帯(ソヴィエト時代は「レーニン丘」と呼ばれたが、現在は旧名 “ВОРОБЬЁВЫ ГОРЫ”(ヴァラビョーヴィ・ゴールイ)「雀が丘」に復している)。古くからモスクワの町全体を見渡せる名所として知られる。Napoléon Bonaparteナポレオン(1769~1821)は大陸封鎖令を破ってロシアがイギリスとの貿易を再開したことに端を発し、1812年にロシアに60万の軍で侵攻するが、冬将軍の寒冷に加え、フランス軍の兵站の甘さとロシア軍の焦土戦術により、駐屯や食料調達もままならず、極寒と飢餓の中、遂に総退却を余儀なくされた。帰還した兵は僅かに5000人であったとされる。そのロシア軍の焦土作戦によるモスクワの大火を、ナポレオンはこの丘の近くから眺めたとされる(このシーンはトルストイ「戦争と平和」にも描かれている)。この失敗がナポレオンを直接滅亡へと導いた。
・「亜刺此亞夜話」アラビア語で書かれた説話集「アラビアン・ナイト(千一夜物語)」のこと。原題は「千夜と一夜」であるが、初めて英訳された際に“The Arabian Nights Entertainments”とされ、明治期の邦訳でもアラビア物語等と訳された。
・「聯」は対聯のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。ここでは招福や厄払のために入り口の左右に掲げたものを言っている。
・「瑠璃燈」ガラスの油皿を中に入れた六角形の吊り灯籠。
・「スマトラの忘れな草」現在のインドネシア共和国Pulau Sumateraスマトラ島に咲いているとされる伝説の花。その匂いをかいだ者は、すべての記憶を消失すると言われる。芥川の好きなフレーズで、大正9(1920)年作の「沼」にも、
(前略)
おれは沼のほとりを歩いてゐる。
沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。
晝か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界に憧がれて、蔦葛に掩はれた木々の間を、夢現のやうに歩いてゐた。が、此處に待つてゐても、唯蘆と水ばかりがひつそりと擴がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れな草の花」を探しに行かねばならぬ。見れば幸、蘆の中から、半ば沼へさし出てゐる、年經た柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作なく水の底にある世界へ行かれるのに違ひない。
おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。(以下略)
と印象的に現れている。文中の「Invitation au voyage の曲」とは、ボードレールの有名な詩“Invitation au voyage”(旅への誘い)に、フランスの作曲家Eugène Marie Henri Fouques Duparcアンリ・デュパルク(1848~1933)が曲をつけた歌曲。You Tubeの“Duparc - L'invitation au voyage Kiri Te Kanawa”で聴くことが出来る。因みにKiri Te Kanawaキリ・テ・カナワ(1944~)は、ニュージーランド出身の私の愛するソプラノ歌手である。因みに私のブログの芥川龍之介の次男芥川多加志についての「蒼白 芥川多加志/附 芥川多加志略年譜」の中に、小沢章友氏の小説「龍之介地獄変」(2001年新潮社刊)を引用・略述させて頂いた(私はこの小説がある個人的体験と共振して大変好きなのである)が、そこで小沢氏もこの「スマトラの忘れな草」を印象的に用いられている。また、そこに私は書いたのだが――ビルマで戦死したまま、その遺骨さえ失われたこの多加志が、この最も父芥川龍之介に容貌が似ていたとされる作家志望だった多加志が――その多加志が――蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――と夢想するのである……
・「大廈」は豪邸。「廈」自体が大きな家の意である。
・「隴西の李庽」の「隴西」は地名で、河西回廊とシルクロードの通過点(現在の甘粛省天水に位置した。現在の甘粛省定西市隴西県はややずれる)。「隴西出身の李姓の家」の意。本名を神聖視し、多様な別名呼称を有する昔の中国では、出身地や長く住み慣れた地を持ってその人の呼称とするのは極めて一般的。
・「李太白」旧来、李白の出身地は隴西郡成紀県(現・甘粛省天水市秦安県)とされた。現代中国での通説は、西域に移住した漢民族の商人の家に生まれ、幼少時に父とともに西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現・四川省江油市青蓮鎮)に移住したものとされる(以上はウィキの「李白」を参照した)。
・「幻の牡丹」私はこの「幻の」という形容は、その芥川の、盛唐へのタイム・スリップの幻視の一齣であることを示すと同時に、李白が楊貴妃の美しさを歌った「清平調詞 三首」、それに纏わる李白の狼藉、それを恨んだ宦官高力士の楊貴妃への讒訴、それによる長安追放、放浪流謫の一齣といったイメージが重層化されているに違いない。更に、直前の「スマトラの忘れな草」をも縁語的に受け、幻の花、花の王、妖花、凋落、有為転変そして無常といった、こもごもの感懐を引き起こすようにセットされていると読む。
・「玉盞」玉石を加工した盃。
・「太白集中、どの刊本を正しいとするか?」李白の詩集には、北宋期の刊本をもととする最古の「李太白集」(宋蜀本)・宋蜀本を清の繆曰芑(ぼくえつき)が校正重刊したもの(繆本)・南宋の刊本をもとに清代に影印刊行された「景宋咸淳本李翰林集」(咸淳(かんじゅん)本又は当塗(とうと)本)・注釈書としては最古である南宋の楊斉賢集注本に元の蕭士贇(しょうしいん)が補注した「分類補注李太白詩」(楊蕭本)・清の王琦(おうき)による注釈書「李太白文集輯註」(王琦本)等、刊本が多く、またその内容にも、著名な詩も含めて、かなりの異同が見られる。
・「ジユデイト・ゴオテイエ」Judith Gautierジュディット・ゴーティエ(1845~1917)はフランスの作家。「死霊の恋」「ポンペイ夜話」等で知られる文豪Pierre Jules Théophile Gautierテオフィル・ゴーティエ(1811~1872)の娘。日本と中国を中心とした東洋文化に造詣が深く、小説の他、李白や杜甫の翻訳や日本美術の解説書などをものしている。ここで言う詩ではないが、芥川は本「江南游記」発表開始の同日大正11(1922)年1月1日発行の『人間』に発表した「パステルの龍」の中に、彼女の詩の翻訳「月光」「陶器(すゑもの)の亭(ちん)」二篇を訳出している。
・「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 1891~1962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。
・「康白情」(kāng báiqíng カン パイチン 1895~1959)本名康鴻章。詩人。胡適・陳独秀らの影響を受け、1919年の五四運動に参加、散文形式の白話詩人として好評を博した。アメリカ留学を経て、解放後まで華南大学文学部教授等を歴任した。詩集「草児」「河上集」等。
・「白話詩」中国の口語詩のこと。胡適の注で記した通り、当時の民主主義革命をリードした胡適や陳独秀は、文学面にあっては難解な伝統的文語文を廃し、口語文による自由な表現と内実の吐露を可能とする白話文学を提唱する論文「文学改良芻議」を1917年に雑誌『新青年』に発表、同時に白話詩がもてはやされた。但し、芥川龍之介「上海游記」の「六 城内(上)」の記載を見ると、芥川が訪れた1921年頃にはやや下火になっていたようである。
最後に。芥川は「さう云へば今見た邸宅の戸口には、隴西の李庽と云ふ標札があつた。」として、以下、そこに詩仙李白の幻影を見るのだが、これがもし私なら「隴西」ときた以上、……
……事によるとあの家の中には、昔の儘の李徴が、幻の月を眺めながら、玉盞を傾けてゐるかも知れない。私はもし彼に合つたら、話して見たい事が澤山ある。彼は一體何故(なにゆゑ)に袁傪(ゑんさん)に虎になんどに變身したと云ふ見え透いた作り譚(ばなし)をさせておいて、斯の如き田舎に今も獨り住まふてゐるのか? 將來、我國の中島敦氏が飜案することとなる、日本語の貴君の絶對の孤獨を描いた悲劇の一篇には、吹き出してしまふか腹を立てるか? 谷川俊太郎氏だとか荒川洋治氏だとか、今の日本で詩人面(づら)をしてゐる輩(やから)の詩には、どう云ふ見解を持つてゐるか? そんな出たらめを考へてゐる内に、車は忽ち横町を曲ると、無暗に幅の廣い往來へ出た。……
というお遊びで締め括ることと致そう……]
四 杭州の一夜(中)
この往來の兩側には、明るい店店が並んでいるが、人通りは疎らだ
から。少しも陽氣な心もちがしない。寧ろ町幅が廣いだけに、如何にも支那の新開地らしい。妙な寂しさを與へるだけである。
「これが城外の町、――この突き當りが西湖(せいこ)ですよ。」
後(うしろ)の車に乘つた村田君は、かう私に聲をかけた。西湖! 私は往來の外れを眺めた。しかしいくら西湖でも闇夜に鎖されてゐては仕方がない。湖でも、唯車上の私の顔には、その遙な闇の中から、涼しい風が流れて來る。私は何だか月島あたりへ、十三夜を見にでも來たやうな氣がした。
車は少時(しばらく)走つた後、とうとう西湖のほとりへ出た。其處には電燈をつけ並べた、大きい旅館が二三軒ある。が、それもさつきの店店のやうに、明るい寂しさを加へるに過ぎない。西湖は薄白い往來の左に、暗い水面を廣げたなり、ひつそりと靜まり返つてゐる。そのだだつ廣い往來にも、我我二人の車の外は、犬の子一つ歩いてゐない。私は晝のやうな旅館の二階に、去來する人影を眺めながら、晩飯だのベツドだの新聞だの、――要するに「文明」が戀しくなり出した。しかし車屋は不相變、默默と走り續けてゐる。路も行人を絶つた儘、何處まで行つても盡きさうぢやない。旅館も、――旅館はもうずつと後(うしろ)になつた。今では唯湖の縁に、柳らしい樹ばかり並んでゐる。
「おい、君、新新旅館はまだ遠いのかね?」
私は村田君を振り返つた。すると村田君の車屋が、咄嗟にその意味を想像したのか、君よりも先に返事をした。
「十里! 十里!」
私は急に悲しい氣がし出した。この上まだ十里も先だとすると、新新旅館に着かない内に、夜(よ)が明けてしまふに相違ない。して見れば今夜は斷食である。私はもう一度村田君へ、我ながら情無い聲をかけた。
「十里とは驚いたな。僕は腹が減つて來たがね。」
「わしも減つた。」
村田君は車上に腕組をした儘、恬然と支那煙草を啣へてゐた。
「十里位何でもないですよ。支那里數の十里だから、――」
私はやつと安心した。が、忽ち又がつかりした。如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある。この空腹を抱へながら、まだ日本の一里以上、闇夜の車に搖られるのは、何人にも嬉しい行程ぢやない。私は失望を紛らせる爲に、昔習つた獨逸文法の規則を、一一口の中に繰り返し始めた。
それが名詞から始まつて、強變化動詞に辿りついた時、ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狹くなつた上に、樹木なぞも左右に茂つてゐる。殊に不思議に思はれたのは、その樹の間に飛んでゐる、大きい螢の光だつた。螢と云へば俳諧でも、夏の季題ときまつてゐる。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思はれない。おまけにその光の輪は、ぽつと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほほづき)程もありさうな氣がする。私はこの青い光に、燐火を見たやうな無氣味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンテイツクな氣もちに涵(ひた)るやうになつた。しかし肝腎の西湖の夜色は、家の蔭か何かに隠れたらしい。路の左の樹木の向うは、ずつと土塀に變つてゐる。
「ここが日本領事館ですよ。」
村田君の聲が聞えた時、車は急に樹樹の中から、なだらかに坂を下り出した。すると、見る見る我我の目の前へ、薄明るい水面が現れて來た。西湖! 私は實際この瞬間、如何にも西湖らしい心もちになつた。茫茫と煙つた水の上には、雲の裂けた中空から、幅の狹い月光が流れてゐる。その水を斜に横ぎつたのは、蘇堤か白堤に違ひない。堤(つつみ)の一箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛り上つてゐる。この美しい銀と黑とは、到底日本では見る事が出來ない。私は車の搖れる上に、思はず體(からだ)をまつ直にした儘、何時までも西湖に見入つてゐた。
[やぶちゃん注:以下、語りの中心となる浙江省杭州市西郊にある淡水湖西湖について、主にウィキの「西湖」の記載を参照にして概略を述べておく。別名、銭唐・銭源・銭唐湖(唐代以降は「唐」は「塘」に用字を変更され、「西湖」の呼称の定着は宋代以降とする)と呼ぶ。司馬遷の「史記」に、始皇帝が銭唐に至り浙江を臨むとの記述が見え、これが史書に現れる西湖の初出とされる。当時は、まだ淡水湖化しておらず、湖というよりも、銭塘江下流三角州の干潟であったと考えられている。芥川も記述している通り、それがかつて干潟であったことを示す如く、水深は平均1.8mで最深部でも2.8mである。南北3.3㎞・東西2.8㎞・外周15㎞。芥川も言及する「西湖十景」を掲げておくと「断橋残雪・平湖秋月・曲院風荷・蘇堤春暁・三潭印月・花港観魚・南屏晩鐘・雷峰夕照・柳浪聞鶯(ぶんおう)・双峰挿雲」である。京劇「白蛇伝」の白素貞が入水したとされる白堤、蘇軾の造営になるとされる蘇堤等名所旧跡が豊富にあり、また、西湖の名称の由来とされる美姫西施の入水に纏わる伝承が語られる。但し、ウィキでは『呉越の時代にはまだ西湖は淡水化しておらず、漢代でもなお西湖とは呼ばれていなかったことから、この伝承は後代のものであろう』と考証している。
・「支那里數の十里」この中国の「里」は、清代の旧制であるから、1里=人の歩数の360歩=576mである。「十里」は5,760mとなり、凡そ6㎞である。現代の中文の旅行会社のサイトを見ると、杭州駅から新新旅館までは約7㎞とある。
・「如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある」この「町」は本邦の単位で1町は約109m。6町では654m、その10倍は6,540m。前注で示した通り、計らずも実際の杭州~新新旅館の距離には、芥川の危惧した心内での計算距離の方がずっと近い。
・「強變化動詞」ドイツ語では動詞の時制は不定形(現在)・過去基本形(過去)・過去分詞(現在完了)が基本となり、これらを纏めて三要形と言う。その三要形から動詞は規則動詞と不規則動詞に分けられ、規則動詞を弱変化動詞とも言い、三要形すべてを通して語幹に変化が起こらず、“(語幹)+te”によって過去基本形を、“ge+(語幹)+t”によって過去分詞を作る。対する不規則動詞は、過去基本形や過去分詞を作る際に語幹の母音(幹母音という)の交換・変化が起こる動詞で、その変化の仕方から更に強変化動詞と混合変化動詞に分かれる。強変化動詞は、過去基本形に語尾が付かず、過去分詞の語尾が“-en”となるもの、混合変化動詞は、語幹は不規則に変化するものの、語尾は規則動詞と同じになるものである(私はドイツ語に暗いので、サイト「自由学芸堂ドイツ語」の「動詞の役割」を参照させて頂いた)。
・「大きい螢の光」勿論、これは大きさも成虫になる時期からも本邦の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科Lampyridaeホタル亜科 Luciolinaeの代表種ゲンジボタルLuciola cruciataやヘイケボタル Luciola lateralis等とは異なった種である。中文のウィキの「螢科」(元は簡体字)のページを見るとホタル科Lampyridae以下に、下記9属が示されている。
脈翅螢屬 Curtos
雙櫛角螢屬 Cyphonocerus
弩螢屬 DrilasterEllychnia
Hotaria
螢屬 Lampyris
鋸角螢屬 Lucidina
熠螢屬 Luciola
Photinus
Photuris
黑脈螢屬 Pristolycus
Pyractomena
窗螢屬 Pyrocoelia
垂鬚螢屬 Stenocladius
リストの内、「熠螢屬」が本邦のホタル属と同属であるが、掲げられた種名は異なっている(本邦産Luciola属のルーツは中国でないかと推定され、現在、その検証プロジェクトが進行している模様である)。また、この中の中文属名「螢屬」に、中文名で雌大螢火虫Lampyris
noctilucaというのがおり、中文ウィキにはその画像もある。これは相当にデカいが、芥川が見たものがこれであるかどうかは不明。昆虫にお詳しい識者の御教授を乞うものである。
・「日本領事館」田中貢太郎の「断橋異聞」冒頭に「杭州の西湖へ往って宝叔塔(ほうしゅくとう)の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長隄を通って孤山に遊んだ者は、その長隄の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは錦帯橋(きんたいきょう)であるが、この物語に関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。」(引用は河出書房新社1987年刊の田中貢太郎「中国の怪談(一)」を用いた)とある。引用文中の「長隄」(ちょうてい)が白堤である。
・「蘇堤」西湖の西部をほぼ南北に貫く堤で、総延長約2.8㎞の直線道路、6基の石橋がある。北宋の蘇軾(1037~1101)が杭州の知事となった後、荒廃していた西湖全体の浚渫を敢行し、その浚渫で出た土を盛ってこの堤を作ったことからこの名がある(蘇軾がこの銭塘湖を西施湖と名付け、それが西湖となったとも言われる)。西湖の内、蘇堤の西は西里湖という。
・「白堤」西湖の北部を東北から西南方向に走る約1㎞の堤。東北の断橋と西南端の孤山を結ぶ。白居易(772~846)が杭州刺史であったときに造営したとされることからこの名があるが、古くは白沙堤と言った。西湖の内、白堤の北側は北里湖という。]
五 杭州の一夜(下)
新新旅館へ辿り着いたのは、その後(ご)十分とたたない内だつた。此處は新新と號するだけに、兎に角西洋風のホテルである。が、支那人の給仕と一しよに、狹い裏梯子を登りながら、我我の部屋へ行つて見ると、東洋人(トンヤンレン)と見縊つたのか、餘り居心の好い二階ぢやない。第一狹い部屋の中に、寢臺を二臺並べた所は、正に支那の宿屋である。おまけに肝腎の部屋の位置も、丁度ホテルの後の隅だから、坐つた儘西湖を眺めるなぞと云ふ、賛澤な眞似は到底出來ない。しかし車と空腹とロマンテイシズムとにくたびれた私はこの部屋の椅子へ腰を下すと、やつと人間らしい心もちになつた。
村田君は早速我我の給仕に、食事の支度を註文した。が、食堂はもう締つたから、西洋料理は出來ないと云ふ。では支那料理と云ふ事になつたが、給仕が持つて來た皿を見ると、どうも食ひ殘りか何からししい。何でも偕樂園主人の説にょると、全家寶と稱する支那料理は、食ひ殘りの集成だと云ふ事である。私は無氣味になつたから、この幾皿かの支那料理の中、全家寶はないかと尋ねて見た。すると忽ち村田君に、全家寶はこんな物ぢやないですよと、水牛以來の輕蔑をされた。
給仕はこの間(あいだ)も珍しさうに、我我の顏を覗きながら、絶えず小うるさい御饒舌(おしやべり)をしてゐる。しかも村田君に飜譯して貰ふと、穴の明いた銀貨を持つてゐたら、一枚くれろと云ふのだつた。ではその銀貨を何にするかと聞けば、チヨツキの釦(ボタン)にすると云ふのだから、非凡な思ひつきには違ひない。成程さう云はれて見ると、この給仕のチヨツキの釦は悉(ことごとく)穴の明いた銀貨である。村田君はビイルを引掛けながら、日本へそのチヨツキを持つて行けば、きつと五十錢には賣れるぜなぞと、つまらない保證を與へてゐた。
我我は食事をすませた後、下のサロンヘ降りて行つた。が、其處には寫眞の額や、安物の家具が並んでゐる外は、一人も客の姿が見えない。唯玄関へ出て見ると、石段の上の卓子(テエブル)のまはりには、ヤンキイの男女が五六人、ぐいぐい酒を煽りながら、大聲に唄をうたつてゐる。殊に禿頭(はげあたま)の先生なぞは、女の腰を抱いた儘、唄の音頭をとる拍子に、何度も椅子ごと倒れさうになつた。
玄関の外には門の左に、玫瑰(メイクイ)の棚が出來てゐる。我我はその下に佇みながら、細かい葉の間に簇(むらが)つた、赤い花を仰いで見た。花は遠い電燈の光に、かすかな匂ひを放つてゐる。それが何だかつやつやと、濡れてゐると思つたら、何時の間にか暗い空は、糠雨に變つてゐるのだつた。玫瑰・微雨・孤客(こかく)の心――此處までは詩になるかも知れない。が、鼻の先の玄關には醉つ拂いのヤンキイが騒いでゐる。私はとてもこの分では「天鵞絨(びろうど)の夢」の作者のやうに、ロマンテイツクにはなれないと思つた。
其處へ靜に門の外から、雨に濡れた轎子(けうし)が二つ、四人の駕籠舁(かごか)きに舁かれて來たそれが玄關へ横附けになると、まつさきに轎(かご)をくぐり出たのは、品の好(よ)い支那服の老人である。その次に玄關へ下りたのは、――私は正直に白状すると、せめては十人並みの器量だと云ひたい。が、實際はどちらかとへば、寧ろ醜い少女である。しかし青磁色の緞子(どんす)の衣裳に、耳環の水晶のきらめいてゐるのは、確に風流な心もちがした。少女は老人の指圖通り、出迎へた宿の番頭と一しよに、ホテルの中へはいつてしまふ。老人は後に殘つた儘、丁度來合せた我我の給仕に、轎夫の貸銀を拂はせてゐる。この光景を眺めてゐる内に、もう一度私は變節した。これならば谷崎潤一郎氏のやうに、ロマンテイツクになり了(おほ)せる事もどうやら出來さうな氣がしたのである。
しかし結局運命は、私のロマンティシズムに殘酷だつた。この時突然玄關から、ひよろひよろ石段を下りて来たのは、あの禿頭の亜米利加人である。彼は同類に聲をかけられると、妙な手つきをして見せながら、ブラツデイ何とか返答をした。上海の異人はヴエリイの代りに、屢(しばしば)恐る可きブラツデイを使ふ。これだけでも既に愉快ぢやない。その上彼は危なさうに、我我の側へ立ち止まるが早いか、後を向けたなり、玄關へ傍若無人にも立小便をした。
ロマンテイシズムよ、さようならである。私は陶然たる村田君と、人気のないサロンヘ引き返した。水戸の浪士にも十倍した、攘夷的精神に燃え立ちながら。
[やぶちゃん注:
・「東洋人(トンヤンレン)」“dōngyángrén”清代から中華民国初期の中国語で日本は「東洋」で(現在でも用いられる)、これは日本人の意である。
・「偕樂園主人」笹沼源之助(明治19(1886)年or1887年~昭和35(1960)年)当時、東京日本橋龜島町にあった日本最初の高級中華料理店偕楽園の店主笹沼源吾の長男。芥川にとっては東京府立第三中学校(現・都立両国高校)の先輩で、芥川のよきライバルであった谷崎潤一郎の竹馬の友にして生涯の盟友でもあったことから、多くの文人がこの店を利用した。
・「全家寶」諸注はこれを中華料理の料理名とし、多種の食材を用いたものとか(岩波版新全集注解)、雑多な素材のごった煮のことで『「支那風俗」には「全家福」とある』(筑摩版全集類聚脚注)とか記すのであるが、日本語のインターネット上にはそのような中華料理名が、いっかな検索をかけても出現しないのが不審である。筑摩版に言う本は、芥川が「上海游記」の「十七 南國の美人(下)」でその書名を挙げている井上紅梅の「支那風俗」であろう。井上紅梅や「支那風俗」については当該リンク先を参照されたい。
・「穴の明いた銀貨を持つてゐたら、一枚くれろと云ふ」今から12年程前、私が敦煌へ旅した際、乗った鉄道で全く同じ経験をした。コンパートメントに入ってきた30歳前後の男性の客室乗務員が、少し勉強しているという片言の日本語で話しかけてきた。私は一般の中国人に話しかけられたのが、この時、初めてであったので、何だか嬉しくなって、ナプキンに李賀の「南山田中行」を書き記し、この詩人を知っていますかと尋ねた(今思えば、日本の高校の国語教師でさえ知らない奴がいる李賀を示すなぞ如何にもマズいコンタクト法であった)。首を横に振って、それでもかなり長い間、詩を見ながら「むつかしいね」を繰り返していた。途中、ポットのお湯を継ぎ足しに来た女性の乗務員に、僕の部屋のポットを開け、私の目の前で親指を突っ込んで(!)温度を見ると、「不要」と言ったのを覚えているから、相応な時間、それに眼を落としていたものと思う。そうしてやおら、その紙片を置くと、微笑んで「穴の開いたコインはありませんか?」と言った財布を探ると50円玉が出て来た。テエブルの上に置くと、「私、コインを集めています。いいですか?」と言われ、呆うけた顔で笑って頷いてしまった。彼は恭しく礼をしてそれを頂くと、謝謝を参度程連発しながら、コンパートメントを出て行った。私は実にこの顔とこの態度で何時も外国人に馬鹿にされるのだ、と後に昼寝から起きた妻に叱られた。穴開きコインは海外では人気が高い。19年前、初めての海外旅行でペルーはナスカの地上絵を見に行ったが、後からフライトした同行の友人達のセスナが戻ってくるまで、外をぶらついていると物売りのインディオのおじさん(といっても彼らは紫外線の影響で肌の老化が早いので、声が思い切り若かったから、きっと30代であったろうと思う)がやってきて、物も売らずに(!)単刀直入、「コイン、アナ! ノウ?」を連呼しつつ、真っ白な歯を出して笑いながら、懐からどこかの穴開き硬貨を出して僕に示した。これもまた、誰もいないところで、巨漢のインディオ、――呆うけた顔で笑って、財布を探って見るが、地球の反対側まで日本の穴開き硬貨の持ち合わせはないのである。ところが、はたと気づいた。私は新たに会心の笑みを浮かべると、財布の奥をごそごそと探った。そこには私が唯一入っていた死亡保険の業者がくれた鎌倉のピッカピカの銭洗弁天の御縁玉があったのだ。彼はそれを受け取ると、また真っ白な歯をむき出して確かに「アリガト!」と言うと、くるりと背を向けて走って行ってしまった。走らなくても、おっかけないよ……と内心、ちょっと淋しい気になりながら……無論、これを話した妻にはやはり怒られたことは言うまでもない――ちなみに、その頃でさえ、ナスカのセスナ発着所の待合室(ちっちゃなオアシスみたいな所で、沢山のハチドリが花の蜜を吸っていた)の売店には「売店」という巨大な漢字の看板がかかっていた。私と妻の乗ったセスナのパイロットが「こんな所に来るのはアメリカ人と日本人だけだ。」と言っていたのを思い出す――
・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。
・『「天鵞絨の夢」の作者』谷崎潤一郎。「天鵞絨の夢」は大正8(1919)年11月~12月に『大阪朝日新聞』に連載された谷崎潤一郎の作品。西湖湖畔に白壁を廻らした別荘がある。池の底には阿片窟、水中には美少女の舞――ここで淫楽の道具となっていた美しき奴隷達が語り織りなす、その主人の絢爛奇態な生活の謎解きの、妖艶なる物語である。
・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。
・「緞子」織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。
・「ブラツデイ」“bloody”は本来は“blood”由来の形容詞で、「血の(ような)」「血の出る」「血塗られた」「血まみれの」「血腥さい」「殺伐とした」「残虐な」「惨(むご)たらしい」の意であったが、口語の俗語として副詞化、「ひどい」「どえらい」即ち“very”の代りに現在でもしばしば用いられる。血の穢れを強く意識する日本人にしてみると、如何にも汚れた表現ではある。]
六 西湖(一)
ホテルの前の棧橋には、朝日の光に照された、槐(ゑんじゆ)の葉の影が動いてゐる。其處に我我を乘せる爲に、畫舫(ぐわばう)が一艘繋いである。畫舫と云ふと風流らしいが、何處が一體畫舫の畫の字だか、それは未に判然しない。唯(ただ)白木綿の日除けを張つたり、眞鍮(しんちゆう)の手すりをつけたりした、平凡極まる小舟である。その畫舫――兎に角畫舫と教へられたから、今後もやはりさう呼ぶつもりだが、その畫舫は我我を乘せると、好人物らしい船頭の手に、悠悠と湖水へ漕ぎ出された。
水は思つたより深くはない。萍(うきくさ)の漂つた水面から、蓮の芽を出した水底(みづぞこ)が見える。これは岸に近いせゐかと思つたが、何處まで行つても同じ事らしい。まあ、大體の感じを云ふと、湖水なぞと稀へるよりも、大水の田圃に近い位である。聞けばこの西湖なるものは、自然の儘任せたが最後、忽(たちまち)干上つてしまふから、水を外に出さないやうに、無理な工面がしてあるのだと云ふ。私は舟縁(ふなべり)に凭(よ)りかかりながら、その淺い水底の土に、村田君の杖を突こんでは、時時藻の間に泳いで來る、鯊(はぜ)のやうな魚を嚇かしたりした。
我我の畫舫の向こうには、日本領事館のあたりから、湖の中に浮んだ孤山へ、連つてゐる。西湖全圖を按ずると、これは昔白楽天が築いた、白堤なるものに相違ない。尤(もつとも)石版刷の畫圖を見ると柳や何かが描(か)いてあるが、重修した時に伐られたのか、今は唯寂しい沙堤である。その堤に橋が二つあつて、孤山に近いのを錦帶橋と云ひ、日本領事館に近いのを斷橋と云ふ。斷橋は西湖十景の中、殘雪の名所になつているから、前人の詩も少くない。現に橋畔の殘雪亭には、淸の聖祖の詩碑が建つてゐる。その他楊鉄崖(やうてつがい)が「段家橋頭猩色酒」と云つたのも、張承吉(ちやうしやうきつ)が「斷橋荒蘚澁」と云つたのも、悉この橋の事である。――と云ふと博學に聞えるが、これは池田桃川(たうせん)氏の「江南の名勝史蹟」に出てゐるのだから、格別自慢にも難何にもならない。第一その斷橋は、ははあ、あれが斷橋かと遙かに敬意を表したぎり、とうとう舟を寄せずにしまつた。が、萍の疎らな湖中に、白白と堤の續いてゐるのは、――殊に其處へ近づい時、辮髮を垂れた老人が一人、柳の枝を鞭にしながら、悠悠と馬を歩ませてゐたのは、詩中の景だつたのに違ひない。私は楽天の西湖の詩に「半醉閑行湖岸東。馬鞭敲鐙轡玲瓏。萬株松樹青山上。十里沙隄明月中。」云々とあるのは、たとひ晝夜を異にするにしても、髣髴出來るやうな心もちがした。勿論この詩も斷橋同樣、池田氏の本の孫引きである。
畫舫は錦帶橋をくぐり拔けると、すぐに進路を右に取つた。左は即ち孤山である。これも西湖十景の中(うち)の、平湖の秋月と稱するのは、この邊の景色だと教へられたが、晩春の午前では致し方がない。孤山には金持の屋敷らしい、大きいだけに俗惡な、門や白壁が續いてゐる。其處を一しきり通り過ぎた所に、不思議にも品の好(よ)い三層樓があつた。水に臨んだ門も好ければ、左右に並んだ石獅(せきし)も美しい。これは何者の住居かと思つたら、乾隆帝の行宮(あんぐう)の址だと云ふ、評判の高い文瀾閣(ぶんらんかく)だつた。此處には金山寺の文字閣(鎭江)や、大觀堂の文※閣(揚州)と共に、四庫全書が一つづつ納めてある。おまけに庭を立派だと云ふから、一見の爲岸へ登つたが、どちらも凡人には見せてくれない。我我はやむを得ず岸傳ひに昔の孤山寺(こざんじ)、今の広化寺を瞥見してから、その先にある兪樓(ゆろう)へ行つた。[やぶちゃん字注:「※」=「匯」の「氵」を「匚」の左に外に出して偏とした字体。]
兪樓は兪曲園(ゆきよくゑん)の別莊である。規模は如何にもこせついてゐるが、滿更惡い住居でもない。東坡の古址(こし)にちなんだとか云ふ、伴坡(ばんぱ)亭の後(うしろ)なぞも、竹や龍の髭の茂つた中に、藻の多い古池が一つあるのは、甚(はなはだ)閑寂な心もちがした。その池の側を登つて見ると、所謂曲曲廊(きよききよくろう)の盡きる所に、壁へ嵌めこんだ石刻(せきこく)がある。それが曲園の爲に描いた、彭玉麟(はうぎよくりん)の梅花の圖――と云ふよりも本郷曙町の、谷崎潤一郎氏の二階に懸つてゐた、凄(すさま)じい梅花の圖の原物だつた。曲曲廊の上の小軒(せうけん)、――扁額によれば碧霞西舍(へきかせいしや)を見た後(のち)、我我はもう一度山の下の、伴坡亭へ下つて來た。亭の壁にはべた一面に、曲園だの朱晦庵だの何紹基(かせうき)だの岳飛だの、いろいろの石刷(いしずり)がぶら下つてゐる。石刷もかう澤山あると、格別どれも欲しい氣がしない。その正面には額に入れた、髯の長い曲園の寫眞が、難有(ありがた)さうに飾つてある。私はこの家(や)の主人が持つて來た、一碗の茶を啜りながら、つらつら曲園の人相を眺めた。章炳麟(しやうへいりん)氏の兪先生傳によると、(これは孫引きをするのではない)「雅性不好聲色既喪母妻終身不肴食。」云々とある。成程そんな所も見えないではない。「雜流亦時時至門下此其所短也。」――さう云へば多少の俗氣(ぞくき)もある。事によると兪曲園は、この俗氣があつたおかげに、かう云ふ別莊を拵へてくれる、立派な御弟子たちが出來たのかも現に一點の俗氣も帶ない、玲瓏玉の如き我我なぞは、未に別莊を持つどころか、賣文に露命を繋いでゐる。――私は玫瑰(メイクイ)のはいつた茶碗を前に、ぼんやり頰杖をついた儘、ちよいと蔭甫(いんぽ)先生を輕蔑した。
[やぶちゃん注:5月3日。ここから「十一 西湖(五)」までは総てが一日の嘱目という形で叙述されており、実際にそうであったと思われる。
・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。
・「畫舫」装飾や絵・彩色を施した中国の屋形船。遊覧船。
・「孤山」西湖の北部にある小島にある山(標高約38m)。断橋から白堤で繋がっている。以下で芥川が記すように、ここには西湖の名所旧跡が集中している。
・「西湖十景」は南宋の時に定めた西湖の名数(時代により異同があり、順序や表記も微妙に違うものがある)。以下に説明する。
○断橋残雪:白堤の東北の端にある断橋の残雪。後世、著名な異類婚姻譚である古伝承に基づく「白蛇伝」の幾多の小説・戯曲等で、その舞台として比定されために、十景の中ではもっとも知られている。
○平湖秋月:「平湖」は白堤の西端の水域を指す。その鏡のような湖面に秋の明月が映えるさま。
○曲院風荷:蘇堤の跨虹橋の西北に宋代官営醸造所である麹院(きくいん)があったが、そこはまた蓮花の名所でもあった。湖畔に曲折した蓮見台でもあったのかも知れないが、それ以上に「麹」の中国音が“qú”、「曲」の音が“qŭ”或いは“qū”であるから、やや特異な施設「麹院」を分かりやすい発音の似る「曲院」に変えたというのが真相ではあるまいか? ネット上には元は「麹院風荷」であったが、清の第4代聖祖(康熙帝 654~1722)の勅命により「曲院風荷」と改名したとある。
○蘇堤春暁:蘇堤(命名は後人の知事による)の春の明け方。造営した蘇軾は堤に沿って沢山の柳と桃を植えたというから、春の景は美事であったろう。南宋の画家による命名。
○三潭印月:「三潭」は1089年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。現在のものは800年前のものとされ、高さ2mの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れると言う。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。天に印した真影、そして、この月影と、視野の可視範囲である灯籠の60°角及び120°角からの灯影が西湖に「印」された三つという謂いであろうか。
○花港観魚:宋代、西湖の西南の湖畔にあった内侍盧氏の個人の別荘盧園とその鯉を養殖した園池を原型とする。
○南屏晩鐘:呉越時代にルーツを持つ西湖南岸の南屏山麓に建つ古刹浄慈寺(じんずじ)の夕刻を告げる鐘の音。
○雷峰夕照:雷峰は浄慈寺の前にある丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔であるが、芥川が見た後、1924年に倒壊し、現在のものは2002年の新造。
○柳浪聞鶯(ぶんおう):「柳浪聞鸚」とも。南宋期、杭州城西清波門外の湖畔に皇帝の御苑である聚景園があり、春は園に植えられた柳に西湖の波風が吹き渡って、華麗に鶯が鳴く。
○双峰挿雲:もと「両峰挿雲」であったものを康熙帝が勅命で改名。双峰とは西湖西方に離れて南北に聳える南高峰(標高約257m)と北高峰(標高約314m)をいう。昔、西湖の西方にある霊隠路の洪春橋橋畔から、この二つの峰が中天の雲を刺し貫いて聳えるのを眺めるによい双峰挿雲亭というのがあったという記載を見かけたが、位置関係から考えると西湖の湖上に舟を浮べて西方の夕景を眺めるのが最も美観であるように思われる。
・「斷橋」は、孤山路の道はここまでであることから、道を断つ橋という名となったというが、唐代には段家橋と呼称したというから、「段」と「断」はどちらも“duàn”で、ここは音通でもあろう。
・「殘雪亭」現在、断橋近くには二つの亭があり、清の康熙帝及び乾隆帝が行幸した際に記したという二つの碑があるらしい。芥川は「清の聖祖の詩碑」としており、これは第4代康熙帝(1654~1722)のことであるから、その碑は前者のものとなるのだが、諸注は芥川の誤りで第6代高祖乾隆帝(1711~799)の碑ととっている(筑摩書房版脚注では康熙帝の碑はここではなく三潭にあるとするのだが、中国の旅行社が作ったと思しい杭州・西湖の紹介サイト等の記事を見ると上記のような記載がある)。
・「楊鉄崖」本名楊維楨(1296~1370)、元末から明初の詩人・学者。鉄崖は号。1327年進士に登第、地方官に任ぜられたが、性狷介、出世には恵まれなかった。元末の兵乱から避難した後、銭塘に至り西湖の鉄治嶺に隠棲、湖山に周遊、江南文壇を支えた(晩年は松江に移住)。酒色に耽けり、「文妖」の異名も持つが、節を守って明には仕えなかった。岡本隆三「纏足物語」(福武書店)によれば、『彼は妓女の小さい靴で酒をすすめる趣味があったが、倪元慎はきれい好きだったのでこれをいやがり、それをみるたび怒って席を立った』とある。
・『「段家橋頭猩色酒」』は「段家(だんか)橋頭 猩色(せいしよく)の酒」で、「段家橋(=断橋:前の「斷橋」の注参照。)のたもとに 傾ける赤き葡萄酒」の意。
・「張承吉」本名張祜(ちょうこ)、晩唐の詩人(792?~852?)。盟友杜牧との交遊はよく知られている。岩波版新全集の神田由美子氏の注解では『各地を放浪し、特に淮南から江南の風物を愛して、晩年、丹陽(江蘇省鎮江府)に隠居した。『張処士詩集』五巻など』、とある。
・『「斷橋荒蘚澁」』は「斷橋 荒蘚澁(じふ)たり」で、「断橋橋畔には苔がびっしりと生えて通ることも出来ない」といった意味になるが、「澁」の字は如何にも苦しい気がする。岩波版新全集注解では正しくは「斷橋荒蘚合」とし、これならば「斷橋 荒蘚合す」で、「断橋橋畔には苔がびっしりと生えている」という枯れた分かりやすい情景描写となる。
・『池田桃川氏の「江南の名勝史蹟」』池田桃川は本名池田信夫(明治22(1889)年~昭和10(1935)年)、中国文学研究家。著書に「支那の古代文化と神話伝説」等。「江南の名勝史蹟」は上海日本堂書店大正10(1921)年刊、江南地方の主要な名所旧跡の紀行文。
・『楽天の西湖の詩に「半醉閑行湖岸東。馬鞭敲鐙轡玲瓏。萬株松樹青山上。十里沙隄明月中。」』これは白楽天の「夜歸」と題する詩の前半部であるが、明治書院漢文大系100「白氏文集 四」より引く(本書は現在望み得る最も厳密に校訂された「白氏文集」であり、芥川の引用だけでなく、「全唐詩」等に載る既知の本篇とも異なっている。但し、書き下し・訳は全くの私のオリジナルである)。
夜歸
半醉閑行湖上東
馬鞭敲鐙轡瓏璁
萬株松樹青山下
十里沙堤明月中
樓角漸移當路影
潮頭欲廻滿江風
歸來未放笙歌散
畫戟門開蠟燭紅
○やぶちゃんの書き下し文
夜歸(やき)
半ば醉ひて 閑(のど)かに行く 湖岸の東(ひんがし)
馬の鞭 鐙(あぶみ)を敲(たた)きて 轡(くつわ) 瓏璁(ろうそう)
萬株の松樹 青山の下
十里の沙堤 明月の中(うち)
樓角 漸(やうや)く移る 路に當る影
潮頭 廻(かへ)らんと欲す 江に滿つる風
歸り來たるも 未だ笙歌(しやうか)の散んぜんとするを放(ゆる)さず
畫戟(がげき)の門開きて 蠟燭(らふしよく) 紅(くれなゐ)
○やぶちゃんの現代語訳
夜の散歩
半酔の ままにのどかに行く道は 西湖東(ひんがし)岸辺の通り
鐙を鞭で ちょいちょいと 叩いちゃ拍子 軽く取り――執ったは 清らなその手綱(たづな)
緑なす 山の麓(ふもと)に延々と うち続いたる松の木々
遙に続く白砂(しらすな)の 堤(つつみ) 明(あき)らむ月の影
高楼(たかどの)の 尖った先も だんだんに 移り動ける 映る影
湖の 潮の頭(かしら)も だんだんに 岸を離れてゆかんとす――湖面に満ちる 涼の風
――さても醒むれば 我が館 戻って見れば まだ宵の 宴(うたげ)の後のざわめきの 名残り惜しやと うち続き
色とりどりの戟並ぶ その門 ぱんと開きしまま 紅き蠟燭(ろうそく)漏れ至る――
以下、簡単な語釈を附す。
○「瓏璁」は、白くはっきりとして清らかなこと。
○「青山下」は、芥川の引用したように一本に「上」に作るが、底本は草書体の読取の誤りと推定する。
○「十里」の中国の「里」は、唐代の旧制であるから、1里=559.8mで、十里は5,598m。白堤は約1㎞であるから誇張も甚だしい。対句の誇張表現「萬株」に合わせた。
○「潮頭欲廻」は芥川が引用したように一本に「潮頭欲過」に作るが、底本注は恐らく誤りとする。
○「畫戟門」は彩色を施した儀式用の戟(矛の一種)を並べた役所の門。ここは杭州刺史であった白居易の官舎の門を言う。
・「平湖」白堤の西の水域。西湖の最大湖面部分を言う。
・「石獅」日本の狛犬。古代インドをルーツとし、日本へは中国から朝鮮を経て移入、そこから「高麗(こま)犬」と呼ばれるようになったとされる。
・「乾隆帝」清の第6代皇帝高祖(1711~799)。
・「文瀾閣だつた。此處には金山寺の文字閣(鎭江)や、大觀堂の文※閣(揚州)と共に、四庫全書が一つづつ納めてある」[「※」=「匯」の「氵」を「匚」の左に外に出して偏とした字体。]清の乾隆帝の1741年の勅命によって編纂された中国史上最大の漢籍叢書「四庫全書」(完成は乾隆46(1781)年。経・史・子・集の4部に分類され、総冊数は36000冊に及ぶ)は、全書正本が7部と副本1部が浄書され、正本はそれぞれ文淵閣(北京紫禁城内)・文源閣(北京円明園)・文津閣(熱河避暑山荘)・文溯閣(ぶんそかく:奉天=現在の瀋陽)の内廷四閣、文匯閣(ぶんかいかく:揚州)・文宗閣(ぶんそうかく:鎮江)とこの文瀾閣(杭州)に収蔵され、副本は翰林院(皇帝専属の秘書室)に収められた。芥川は「文字閣」としており、岩波新全集の神田由美子氏の注解は「文宗(文字)閣」と記して、文宗閣の別名のように記載しているが、私はこれは芥川の誤りか誤植だと思う。なお「金山寺」については後の「二十六 金山寺」を参照されたい。
・「孤山寺、今の広化寺」唐代、白居易所縁の道林禅師という人物がここに招かれ、竹閣(これを芥川は島の名をとって孤山寺と言ったか)という禅寺を開いた。後に広化寺に改名している。
・「兪曲園」本名兪樾(ゆえつ 1821~1907)。曲園は号。清末の考証学者。1850年、進士に登第、翰林院編修・国史館協修を歴任後、咸豊帝からその博識を評価され、1855年には河南学政(省の教育行政長官)となったが、出題した科挙試について弾劾され、あっさりと官を退き二度と出仕しなかった。1875年に西湖湖岸のこの地を買い取り、彎曲した地形を巧みに使い、自ら設計して庭園を造った。曲園という号は「老子」第二十二章にある「曲則全。枉則直。」=「曲なれば則(すなわ)ち全(まった)し。枉(おう)なれば則ち直(ただ)し。」(曲がっているからこそ、全うすることが出来る。枉(まが)っているからこそ、正しい。)という逆説から取ったとするが、文字通りこの地形と庭園(この兪楼の庭を曲園と名付けている)にも掛けられているのであろう。晩年は杭州の詁経精舍(こきょうしょうじゃ:清朝の政治家・学者であった阮元(げんげん 1764~1849)が創立したで訓詁学の研究機関)で考証学を講義した。章炳麟は1890年にこの詁経精舎に入り、彼に師事した正統な弟子の一人であった(以上は主にウィキの「兪樾」を参照した)。
・「東坡の古址にちなんだとか云ふ、伴坡亭」筑摩全集類聚脚注・岩波版新全集注解共に兪楼内の亭とのみ記し(筑摩版には兪楼の西方にあるとする)、「東坡の古址」なる蘇軾の所縁についての記載はない。ネット上にも伴坡亭についての邦文の記載も見当たらず、不詳である。西湖にお詳しい方の御教授を乞う。
・「龍の髭」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。
・「曲曲廊」「所謂」とある以上、これは固有名詞ではなく、ただ曲折した廊下・階段のことである。
・「彭玉麟」(1816~1890)は、清末の軍人。湘軍の指揮官。太平天国の乱や清仏戦争の歴戦の名将であったが、画文にも優れた。詩集「彭剛直詩集」がある。
・「碧霞西舍」筑摩全集類聚脚注には『伴坡亭のことをこういった』とあり、神田由美子氏の岩波版新全集注解は一般名詞の注の必要を感じない「扁額」に注を附しておきながら、これを注さない。しかし、「扁額によれば碧霞西舍を見た後、我我はもう一度山の下の、伴坡亭へ下つて來た」と芥川は述べており、もしこれが伴坡亭であるなら、芥川は「山の下の」別な建物を伴坡亭を誤認したことになる。山下のごてごてに「石刷」を飾った建物と「曲曲廊」と山上の「小軒」全体が「伴坡亭」とも思われない。西湖にお詳しい方の御教授を乞う。
・「朱晦庵」儒学中興の祖である宋代の儒者朱熹(しゅき 1130~1200)の号。
・「何紹基」清の詩人・学者・能書家(1799~1873)。書では顔真卿を規範として篆・隷併せもった書風を打ち立てたとされる。
・「岳飛」南宋の武将(1103~1141)。度々侵略する金をよく防いだが、権力の奪取を恐れた宰相秦檜の謀略により獄死させられた。後にはその冤罪が雪がれ、彼の深い忠心をも称えて、武穆(ぶぼく)と諡(おくりな)され(「穆」は稲の実が熟することで、誠心に満ちた武人の鑑といった意味であろう)、次いで鄂王(がくおう)に封じられた。中国では神格化したスターであり、関羽と並んで祀られる。次の「八 西湖(三)」で芥川が詳述する。
・「石刷」拓本。
・「章炳麟」Zhāng Bĭnglín(ヂャン ビンリン 1869~1936)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは本文で本人が直接話法で語るように、彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅は生涯に渡って一貫して章炳麟に対し、師としての深い敬愛の情を示している(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。「上海游記」の芥川の会見録「十一 章炳麟氏」も参照されたい。
・「兪先生傳」書誌不明。章炳麟の著作物の中にある一篇なのかも知れない。芥川はこれに鍵括弧を附していないことからも、このような題名でさえなく、師を回顧した叙述の中の一部なのかも知れない。
・『「雅性不好聲色既喪母妻終身不肴食。」』は書き下すなら「雅(もと)、性(せい)、聲色(せいしよく)を好まず、既に母・妻を喪ひて、終身、肴食(かうしよく)せず。」で、『彼の人柄は、本来、華美で派手な芸能や女色を好まず、早くに母や妻を失ったことから、その後は節を守って肉を口にしなかった。』の意である。最後の「不肴食」はベジタリアンであったことを言うのであろう。
・『「雜流亦時時至門下此其所短也。」』は書き下すなら「雜流、亦、時時、門下に至る。此れ其の短とする所なり。」で、『(立派な文士も大勢その門下生にはいたが、)時々、種々雑多な人々も同様に、その門人になった。実にこれが先生の欠点である。』の意。伝記を綴る程に正統な門人を自負していたのであろう章炳麟にとっては、余程、鼻持ちならない似非文士の同輩が多かったということか。
・「蔭甫先生」「蔭甫」は兪曲園(兪樾)の字。]
七 西湖(二)
その次に蘇小小の墓を見た。蘇小小は錢塘(せんたう)の名妓である。何しろ藝者と云ふ代りに、その後は蘇小と稱へる位だから、墓も古來評判が高い。處が今詣でて見ると、この唐代の美人の墓は、瓦葺きの屋根をかけた漆喰か何か塗つたらしい、詩的でも何でもない土饅頭だつた。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋普請の爲に荒され放題荒されてゐたから、愈(いよいよ)索漠を極めてゐる。少時(せうじ)愛讀した孫子瀟(そんしせう)の詩に、「段家橋外易斜曛。芳草凄迷緑似裙。弔罷岳王來弔汝。勝他多少達官墳。」と云ふのがある。が、現在は何處を見ても、裙(くん)に似た草色(さうしやく)どころの騒ぎぢやない。掘り返された土の上に、痛痛しい日の光が流れてゐる。おまけに西冷橋畔の路(みち)には、支那の中學生が二三人、排日の歌か何かをうたつてゐる。私は匆匆(さうさう)村田君と、秋瑾(しうきん)女史の墓を一見した後(のち)、水際の畫舫へ引き返した。
畫舫は岳飛の廟へ向ふ爲に、もう一度西湖へ漕ぎ出された。
「岳飛の廟は好(い)いですよ。古色に富んでゐるですからね。」
村田君は私を慰めるやうに、曾遊(そういう)の記憶を話してくれた。が、私は何時の間にか、西湖に反感を持ち出してゐた。西湖は思つた程美しくはない。少くとも現在の西湖なるものは、去るに忍びざる底(てい)のものぢやない。水の淺い事は前にも云つた。が、その上に西湖の自然は、嘉慶道光の諸詩人のやうに、繊細な感じに富み過ぎてゐる。大まかな自然に飽き飽きした、支那の文人墨客(ぼくかく)には、或は其處が好(よ)いのかも知れない。しかし我日本人は、繊細な自然に慣れてゐるだけ、一應は美しいと考へても、再應は不滿になつてしまふ。が、もしこれだけに止まるとすれば、西湖は兎に角春寒(しゆんかん)を怯(おそ)れる、支那美人の觀だけはある筈である。處がその支那美人は、湖岸至る所に建てられた、赤と鼠と二色(いろ)の、俗惡恐るべき煉瓦建(だて)の爲に、垂死の病根を與へられた。いや、獨り西湖ばかりぢやない。この二色の煉瓦建は殆(ほとんど)大きい南京蟲のやうに、古蹟と云はず名勝と云はず江南一帶に蔓(はびこ)つた結果、悉(ことごとく)風景を破壞しゐる。私はさつき秋瑾女史の墓前に、やはりこの煉瓦の門を見た時、西湖の爲に不平だつたばかりか、女史の靈の爲にも不平だつた。「秋風秋雨愁殺人」の詩と共に、革命に殉じた鑑湖秋女俠(かんこしうぢよけふ)の墓門(ぼもん)にしては、如何にも氣の毒に思はれたのである。しかもかう西湖の俗化は、益(ますます)盛(さかん)になる傾向もないではない。どうも今後十年もたてば、湖岸に並び建つた西洋館の中に、一軒づつヤンキイどもが醉拂つてゐて、その又西洋館の前に、一人づつヤンキイが立小便してゐる、――と云ふやうな事にもなりさうである。何時か蘇峰先生の「支那漫遊記」を讀んでゐたら、氏は杭州の領事にでもなつて、悠悠と餘生を送る事が出來れば、大幸だとか何とか云ふ事だつた。しかし私は領事どころか、浙江の督軍に任命されても、こんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでゐたい。………………
私が西湖を攻撃してゐる内に、畫舫は跨虹橋(ここうけう)をくぐりながら、やはり西湖十景の内の、曲院の風荷(ふうか)あたりへさしかかつた。この邊は煉瓦建も見えなければ、白壁を圍んだ柳なぞの中に、まだ桃の花も咲き殘つてゐる。左に見える趙堤の木蔭に、青青と苔蒸した玉帶橋が、ぼんやりと水に映つてゐるのも、南田(なんでん)の畫境に近いかも知れない。私は此處へ船が來た時、村田君の誤解を招かないやうに、私の西湖論へ増補を施した。
「但し西湖はつまらんと云つても、全部つまらん次第ぢやないがね。」
畫舫は曲院の風荷を過ぎると、岳王廟の前へ止まつた。我我は早速船を跡に、「西湖佳話」以来御馴染の、岳將軍の靈を拜みに出かけた。すると廟は八分(ぶ)ばかり、新しい壁を光らせた儘、泥や砂利の山の中に、改修中の醜さを曝してゐる。勿論村田君を喜ばせた、古めかしい景色なぞは何處にもない。唯燒け跡のやうな境内には、土方や左官ばかりがうろついてゐる。村田君はカメラを出しかけたなり、落膽したやうに足を止めた。
「これはいかん。かうなつてはもう形なしだ。――ぢや墓へ行つて見よう。」
墓は蘇小小の墓のやうに、漆喰を塗つた土饅頭である。尤もこれは名将だけに、蘇家(そか)の麗人のより餘程大きい。墓の前には筆太に、宋岳鄂王之墓(そうがくがくわうのはか)と書いた、苔痕斑斑(はんぱん)たる碑が立つてゐる。後(うしろ)の竹木の荒れたのも、岳飛の子孫でない我我には、詩趣こそ感ずるが、悲しい氣はしない。私は墓のまはりを歩きながら、聊か懷古めいた心もちになつた。岳王墳上草萋萋――誰(だれ)かにそんな句もあつたやうな氣がする。が、これは孫引きではないから、誰の詩だつたか判然しない。
[やぶちゃん注:5月3日。
・「蘇小小の墓」5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。後に美妓を皆この名で呼ぶが、実在した蘇小小の事蹟については確かなものは、
我乘油壁車 我は乘る 油壁車
郎乘青驄馬 郎は乘る 青驄(せいさう)の馬
何處結同心 何處(いづく)にか同心を結ばん
西陵松柏下 西陵の松柏の下(もと)
○やぶちゃんの書き下し文
我は乘る 油壁車
郎は乘る 青驄(せいさう)の馬
何處(いづく)にか同心を結ばん
西陵の松柏の下(もと)
○やぶちゃんの現代語訳
私の乗るのは 色鮮やかな引き車
貴方の乗るのは 駿馬の白馬(あおうま)
貴方と私 どこで永遠(とわ)の契りを結べばよいの?
それは――あの西陵の 松柏植わった 墓の中――
という悲恋の古えの楽府の作者であるというだけである。現在の彼女の墓と伝えられるものは西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。
実は私はここで、芥川龍之介への恨みを語りたい。正にここで、彼が愛読したはずの李賀の「蘇小小墓」の名吟を引用していれば、芥川と李賀の比較研究は、今頃、もっと深化していたであろうということである。しかし、『西湖に反感を持ち出してゐた』芥川にとって、最早この時そこは、幽冥の境としての幻視を全く許さない愚劣な噴飯物の現実となっていたのであった。ジャーナリストとしての彼の視点は正しかったにしても、私が愛してやまない稀代の幻想詩人、中国のランボーを、芥川龍之介にダイレクトに連結し得た一瞬は、ここにこそあった筈であると私は思うのである。誠に惜しいと言わざるを得ない。芥川龍之介と李賀――その確信犯的な結び付きは、芥川自身の言葉では遂に記されることがなく、言わば都市伝説(アーバン・レジェンド)のように芥川研究に見え隠れするばかりなのである。せめて私はここに李賀の、その「蘇小小墓」(原田憲雄氏は「蘇小小歌」とすべきと説かれている)を引用して注としたいのである(原文は1998年平凡社刊の原田憲雄訳注東洋文庫「李賀歌詩編1」を用いたが、書き下し文と現代語訳は私のオリジナルである。現代語訳には私の相応な思い入れもある)。
蘇小小墓
幽蘭露
如啼眼
無物結同心
煙花不堪剪
草如茵
松如蓋
風爲裳
水爲珮
油壁車
久相待
冷翠燭
勞光彩
西陵下
風吹雨
○やぶちゃんの書き下し文
蘇小小(そせうせう)の墓
幽蘭(いうらん)の露(つゆ)
啼(な)ける眼(め)のごとし
物として同心を結ぶ無く
煙花 剪(き)るに堪へず
草 茵(しとね)のごとく
松 蓋(かさ)のごとし
風 裳(も)と爲(な)し
水 珮(たま)と爲す
油壁車(いうへきしや)
久しく相(あひ)待つ
冷たり 翠燭(すゐしよく)
勞たり 光彩
西陵の下(もと)
風 雨を吹く
○やぶちゃんの現代語訳
蘇小小の墓
荒蕪の蘭に置く露は
そなたの泣いた目もとである――
永遠(とわ)の契りを結び得る ところとても最早 ない――
されど霞めるその花を 無惨に剪(き)るが如くには 断てぬ哀しき縁(えにし)なる――
生い茂る草は ふうわり 敷布
古びた松柏は 雨風凌ぐ 羅蓋(らがい)となり
もの凄まじくして吹き抜く風は 絹より軽き裳の裾のさま
流れ流れる水の音(ね)は 数多(あまた)の佩び玉 触るる音(おと)
彼女の乗った 色鮮やかな引き車――
それは ずっと 待ち続けている――
冷たい 鬼火――
消えゆく 炎――
闇に堕ちゆく西陵の墓――
ただもう 風――ただもう 雨――
以下に、簡単に(李賀の詩は難解で多層的であるから、注を附すとなると無闇に長くなってしまうので)語注を附す(主に原田氏の注を参照した)。
○「幽蘭」「幽」は人気のない場所、「蘭」はキク目キク科ヒヨドリバナ属フジバカマEupatorium fortunei。「孔子家語」にこの花は人気のないところに咲きながら芳香を放つとすることから、ここでは名妓の節操の面目を言う。
○「物として同心を結ぶ無く」は、先に提示した楽府の「何處結同心 西陵松柏下」を受け、最早契りを結ぶべき場所は冥界にさえなくなったことを言う。
○「煙花 剪るに堪へず」の「煙花」は靄に包まれた果敢なく消えてゆく花で、ここは待てども来ぬつれない男との縁(えにし)をシンボライズし、しかしそれでもそれを切る(縁を断つ)に忍びない蘇小小の魂魄の切ない思いを謂う。
○「茵」を原田氏は後に出る蘇小小の魂魄が乗る幻の油壁車のクッションを言うとするが、私はダイレクトに男を待つ空しき褥(しとね)と読みたくなるのだが。
○「蓋」は車に付属した傘という。私は幻の閨の褥に差しかけられた羅蓋ととった。
○「水 珮と爲す」の「珮」は女性が腰に帯びた飾り玉で、「水」=河の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。
○「油壁車」は車の壁に漆で彩色を施した高貴な女子の専用車という。防水効果もあろうから、この雨露にぬれそぼった景には相応しいか。
○「風吹雨」一本に「風雨晦」(「風雨晦(くら)し」)とする。これだと、風雨のためにすっかり暗くなってゆく、でフェイド・アウトするが、原田氏はこれを「詩経」の一節を踏まえるとし、そこでは女が男に会える期待を余韻とする。しかし李賀の本詩では『舞台はすでに闇黒である。闇黒は自体が暗いので、それを「晦し」という必要はない』とし、ここでの蘇小小の魂魄の沈黙は『永遠の女性の、永遠のたたかいなのだ。この句は必ず「風吹雨」でなければならない』とされる。そのパッショネイトな見解に私は強く惹かれる。但し、優れた漢詩サイトである「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「蘇小小墓 李賀」で、碇豊長氏はここを「風雨晦」で採り、注して『風雨晦:(蘇小小の魂の燐光も衰え、附け加えて)風雨で暗くなっている。』『ここを「風吹雨」ともするがその場合、韻脚がなくなる。どちらがより原初の形かを論じない場合、詩としては「風雨晦」の方が詩としては適切である』とされている。これもこれで説得力がある。
・「錢塘」は杭州の古名。秦代に会稽郡銭唐県が置かれたのが名の濫觴という。
・「西冷橋」は孤山の南側山麓にある。「西冷」というのはこの付近一帯の地名というが、更に「冷」ではなく「泠」が正しいという記載もネット上で見かけた。
・「孫子瀟」は元代の山水画の巨匠。本名孫君澤(生没年未詳)、子瀟は号。
・『「段家橋外易斜曛。芳草凄迷緑似裙。弔罷岳王來弔汝。勝他多少達官墳。」』は、題不詳。
○やぶちゃん書き下し文
段家橋外 斜曛(しやくん)し易し
芳草 凄迷 緑 裙(くん)に似たり
岳王を弔(ちやう)し 罷(や)みて來たり 汝を弔す
勝(まさ)る 他の多少の達官の墳
○やぶちゃん現代語訳
段家橋畔 日暮れが早い
かんばしき花――鬱蒼たる緑 それは 貴女の裳裾の色
岳鄂王を 墓参の後 蘇小小 貴女を弔った
参ってよかった 貴女の墓に――他のお偉い役人の 有り難くもない墓参るより――
因みに「段家橋」は、断橋のこと。孤山路の道はここまでであることから、道を断つ橋という名となったというが、唐代には段家橋と呼称したという(「段」と「断」はどちらも“duàn”で、ここは音通でもあろう)。「岳王」は岳飛。
・「秋瑾女史の墓」秋瑾(Qiū Jĭn チィォウ チン 秋瑾 1875~1907)は清末の女性革命家。18歳で官僚に嫁したが、義和団運動に影響されて家庭を捨てて、日本に留学、革命を鼓吹するとともに、女性の自立を訴える文章を発表、明治38(1905)年の帰国後は教員をしながら、浙江省の革命秘密結社光復会の会員として本格的な革命運動に身を投じた。1907年、徐錫麟(じょしゃくりん 1873~1907)らとともに武装蜂起を計画したが失敗、同年7月、浙江省紹興軒亭口の刑死場で斬首処刑された。享年32歳。遺骨は各地を転々とし、処刑4年後の辛亥革命の後には、芥川が参った場所に移されて孫文の献辞も掲げられたが、その後、文化大革命で墳墓は荒らされ、遺骨も散逸した。文革後に遺骨の再追跡調査がなされ、再び西冷橋畔に建立されたという。従って現在のものは頗る新しいものである(秋瑾の事蹟は主に小学館「日本大百科全書」の伊藤昭雄氏の記載を参照した)。
・「岳飛の廟」は西湖北西岸に位置し、1221年に建立された。
・「嘉慶道光」1796年から1850年。「嘉慶」年間は清第7代皇帝仁宗、嘉慶帝(1760~1820)の在位期間(1796~1820)。「道光」年間は第8代皇帝宣宗、道光帝(1782~1850)の在位期間。政治的には清王朝に陰りが見え始める時期であるが、文学的には張問陶(1764~1814)・陳鴻寿(1768~1822)・陳文述(1771~1843)・龔自珍(きょうじちん 1792年~1841)といった清新な詩派が興隆した時期でもあった。
・「秋風秋雨愁殺人」「秋風秋雨 人を愁殺す」は秋瑾が紹興での処刑に臨んで詠んだ辞世のと伝えられている詩。
・「鑑湖秋女俠」秋瑾の号。「鑑湖」は紹興(秋瑾の原籍地)の南西にある湖の名。
・『蘇峰先生の「支那漫遊記」』徳富蘇峰(文久3(1863)年~昭和32(1957)年)の1906年の華南旅行に次ぐ、1917年9月~12月の二度目の中国行の紀行文で、朝鮮・華北・湖北・安徽の各地方に及ぶ旅行記。大正7(1918)年民友社刊。クレジットは本名の徳富猪一郎。
・「督軍」辛亥革命後、省長とともに各省に置かれた軍政長官。後には省長を兼任して行政権を握って軍閥の元を作った。
・「跨虹橋」蘇堤にある6つの橋の内、最も北に位置する橋の名。
・「西湖十景」前掲「六 西湖(一)」の同語注参照。
・「曲院の風荷」蘇堤の跨虹橋の西北に宋代官営醸造所である麹院(きくいん)があったが、そこはまた蓮花の名所でもあった。湖畔に曲折した蓮見台でもあったのかも知れないが、それ以上に「麹」の中国音が“qú”、「曲」の音が“qŭ”或いは“qū”であるから、やや特異な施設「麹院」を分かりやすい発音の似る「曲院」に変えたというのが真相ではあるまいか? ネット上には元は「麹院風荷」であったが、清の第4代聖祖(康熙帝 654~1722)の勅命により「曲院風荷」と改名したとある。
・「趙堤」筑摩全集類聚版には裏湖(蘇堤によって仕切られた西側の狭い部分。現在はこの南の大半部分を西里湖と呼ぶようである)の西岸にあるとし、『蘇堤と垂直になっている』と記す。中文ネット上の地図では拡大すると字が潰れて判読出来ないが、さる中文サイトの西湖の詩をや芥川の叙述から判断して、蘇堤の北の端に近いところにある、西から伸びた半島状の先にある堤であるらしい(その北を岳廟があるので岳湖と呼ぶ)。
・「玉帶橋」岳湖と裏湖(西里湖)の間に架かる橋の名。私はこれが蘇堤と先の趙堤を結ぶ橋であると思ったのだが、筑摩全集類聚版脚注では『蘇堤の東浦橋より裏橋の堤につうじる金沙堤にある橋』とあり、訳が分からなくなった。それ程広い地域でないので、余程短い地域に複数の地名が配されているのか? 西湖にお詳しい方の御教授を乞う。
・「南田」惲寿平(うんじゅへい 1633~1690)は清代前期の画家。南田は号。詩・書・画共に優れて「三絶」と称せられた。山水画の名手。芥川龍之介は彼の画風を好み、大正9(1920)年の小説「秋山図」にも彼を登場させている。
・『「西湖佳話」』は正式書名「西湖佳話古今遺蹟」で、清代初期に成立した短編小説集。編者古呉墨浪子(古ごは杭州の謂い)は人物未詳。西湖の名勝旧跡に纏わる16篇の物語を史伝・説話・伝承から翻案したもの。
・「宋岳鄂王之墓」岳飛は死後、冤罪が雪がれ、鄂王(がくおう)に封じられたため、岳鄂王と呼ばれた。「鄂」は現在の湖北省の長江南岸、鄂州市の西にある武昌市(現在の鄂州市ではない)の古名。
・「岳王墳上草萋萋」は「岳王墳上 草 萋萋(せいせい)」と読む。「萋萋」は草木が生い茂ること。芥川は失念しているが、これは南宋末から元初の政治家にして文人であった趙孟頫(ちょうもうふ 1254~1322)の詩「岳鄂王墓」の一節である。岩波版新全集の神田由美子氏の注解には、芥川が先に掲げた古呉墨浪子著の「西湖佳話」の一篇である『「岳塡忠蹟」は、この詩で結ばれている。正しくは「岳王墳上草離離」。』とある。「離離」は「萋萋」と同義。]
八 西湖(三)
岳飛の墓前には鐵柵の前に、秦檜(しんくわい)張俊等(ら)の鐵像がある。像の格好を按ずると、面縛された所に違ひない。何でも此處に詣でるものは、彼等の姦を憎む爲に、一一これらの鐵像へ、小便をひつかけて行くさうである。しかし今は仕合せと、どの鐵像も濡れてゐない。唯そのまはりの土の上に、青蠅が何匹も止まつてゐる。それが僅かに遠來の私に、不潔な暗示を與へるだけだつた。
古來惡人多しと雖も、秦檜程憎まれたものは滅多にない。上海あたりの往來では確か字では油炸塊(ユツアコイ)とか云ふ、棒のやうな油揚を賣つてゐる。あれも宗方(むなかた)小太郎氏の説によると、秦檜の油揚と云つたつもりだから、油炸檜(ユツアコイ)と云ふのが本名ださうである。一體民衆と云ふものは、單純なものしか理解しない。支那でも關羽とか岳飛とか、衆望を集めてゐる英雄は、皆單純な人間である。この特色を具へてゐない限り、如何に不世出の英雄でも、大向うには持て囃されない。たとへば井伊直弼の銅像が立つには、死後何十年かを要したが、乃木大將が神樣になるのは殆(ほとんど)一週間も要さなかつたやうなものである。それだけに又敵になると、かう云ふ英雄の敵は憎まれ易い。秦檜は如何なる惡因縁か、見事にこの貧乏鬮(くじ)を引いた。その結果御覧の通り、中華民國の十年にさへも、散散な取扱ひを受けてゐる。私もこの新年の「改造」に、「將軍」と云ふ小説を書いた。しかし日本に生れた難有(ありがた)さには、油揚の憂目にも遇はなければ、勿論小便もひつかけられない。唯一部分伏せ字になつた上、二度ばかり雜誌の編輯者が當局に小言を云はれただけであつた。
次手どの位秦檜と云へば憎惡の的になつてゐたか、――その間の消息を語るべきコントを一つ紹介しよう。これは淸人景星杓(けいせいしやく)の「山齋客談(さんさいかくだん)」の中の話である。
* * * * *
「何年前になりますか? 私が江上の或寺に、讀書かたがた住んでゐた時です。突然隣家の婆さんに、何か鬼物が乗り移りました。」
嚴曉蒼(げんげうさう)は話し出した。
「婆さんは白眼を吊り上げたなり、一家の男女(なんによ)を睨み廻しては、頻にかう罵るのです。――わが輩は冥道押使(めいだうあふし)だぞ。今秦檜の魂を押しながら、閻王の府へ赴いた還りだが、途中此處を通りかかると、この死損ひの婆あの爲に、汚れ水を着物にかけられた。何とか扱ひをつければよし、さもなければこの婆あは閻王の御前(おんまへ)へ引きずつて行くぞ。
「一家の男女は仰天しました。が、婆さんについたのは、實際冥土の使かどうか、それをまづ確める爲に、いろいろ問答をして見たさうです。すると婆さんは不相變、傲然と正面にかまへながら、何でもはきはき返答をしました。して見れば鬼使(きし)に相違ない。――かう云ふ事になりましたから、一家の男女はとりあへず、紙錢に火をつけるやら、地に酒を注ぐやら、百方祈願を凝らしました。御承知の通り冥土の下役(したやく)も、人界の下役と同じやうに、賄賂を使ひさへすれば無事なのです。
「婆さんは少時(しばらく)たつた後、ばつたり其處へ倒れました。が、ぢきに起き上つた時には、もう鬼使も去つたのでせう、唯きよろきよろするばかりだつたのです。鬼に憑かれる、――それは珍しい事でもありますまい。が、婆さんに乗り移つた鬼は、一家の男女の問を受けると、こんな幽冥の事も話したさうです。
「問。――秦檜は一體どうなりましたか? 御差支なければ御教へ下さい。
「答。――秦檜も今は輪廻の果に、金華の女に生れてゐる。それが今度大膽にも、謀夫の罪を犯したから、磔(はりつけ)の刑に處せられたのだ。
「問。――しかし秦檜は宋の人ではありませんか? 金元明の三朝を閲した後(のち)、やつと罪を正されると云ふのは、遅過ぎるやうに思ひますが。
「答。――檜賊(くわいぞく)は、恣(ほしいまま)に和議を唱へ、妄(みだり)に忠良を屠戮(とりく)した。兇惡も亦甚しい。天曹(てんさう)はその罪を憎む餘り、磔刑(たくけい)三十六度、斬首の刑三十二度の判決を與へた。合計六十八度の刑は、さう手輕にすむものではない。
「まあ、かう云ふ調子なのです。秦檜の罪憎むべしとは云へ、氣の毒なものではありませんか?」
嚴曉蒼が嚴灝庭(げんかうてい)先生の曾孫(そうそん)である。決して譃をつくやうな人ではない。
[やぶちゃん注:5月3日。
・「秦檜」は南宋の宰相(1090~1155)。侵攻を繰り返す金に対して和平工作を進めて講和を結んだが、内政では、主戦論を唱え実際に善戦した岳飛を謀略に陥れ、獄死させたことから、後世、売国奴の汚名を蒙ることとなった。ここの岳廟の鉄柵の中には、実は秦檜の妻の像がある。これについて以上の記載を参照したウィキの「秦檜」には、以下の記載がある。『秦檜自身も岳飛を殺すことについては大いに悩んだが、妻にうながされて殺すことを決意したという。そのため、岳飛を殺したのは秦檜夫妻だとみなされており、岳王廟には夫婦の像が縄に繋がれる姿で置かれている。以前の中国にはこの像に唾を吐きかける習慣があった(現在では「像に唾を吐いたり、叩いたりしてはならない」という掲示がある)。』(一部の衍字を削除した)とある。
・「張俊」は南宋の政治家(1097~1164)。「照鏡見白髪」で知られる唐代の詩人にして名臣張九齢の弟の子孫である。優れた軍師として主戦論を唱え、よく金軍と善戦したが、年下の辣腕将軍岳飛とそりが合わず、軍役ではことあるごとにぶつかって、遂には秦檜に岳飛を讒訴するに至った。岳飛の冤罪の元を作ったことから秦檜と並んで売国奴の汚名を蒙ることとなったが、ウィキの「張俊」には、終始、正統な主戦論で国防を唱え、敵の金の、皇族にして南宋攻略の将軍であった粘没喝(ねんぼっかつ 1079~1137)をして『「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言』せしめたとある通り、軍師としての才能は抜群であった。
・「油炸塊(ユツアコイ)」“yóuzhàkuài”「炸」は火薬で爆発させる意以外に、中華料理の調理法でも有名な通り、油で揚げる、の意を持つ。現在でも中華菓子として知られる細長い揚げパン風のもの。ちぎって粥に入れ食う。現在は油条というのが一般的。現在の正確なカナ表記の発音は「イォウチアコアイ」となる。
・「宗方小太郎」(文久3・元治元(1864)年~大正13(1924)年)は、所謂、大陸浪人の一人。肥後の細川の支藩藩士の長男として現在の熊本県宇土市に生まれた。日清戦役に従軍後、中国に凡そ40年滞在、孫文らと親交を結び、当時の政治・改革運動の内奥にも精通した。上海通信社の創業、上海日清貿易研究所設立及び東亜同文会とその教育機関である東亜同文書院の創立に関わる等、日本の大陸政策を陰で支えた策士である。
・「油炸檜(ユツアコイ)」“yóuzhàguì” 現在の正確なカナ表記の発音は「イォウチアコェイ」となる。確かに似て、面白い。中国古代の刑罰には熱した油の入った釜で煮られる刑があったとする。
・「關羽」後漢末の劉備に仕えた武将(?~219)。「三国志演義」で知られるが、その伝説的武勇と信義節操の堅実さから、後世、神格化して関帝となった。岳飛とともによく祀られる(各地の中華街でよく見られるのは彼が特に商売の神として崇められるからである)。
・「中華民國の十年」この芥川渡中の年、1921年。大正10年。
・「この新年」大正11(1922)年1月。
・『「將軍」』大正11(1922)年1月発行の『改造』に掲載された。後、作品集『将軍』『沙羅の花』『芥川龍之介集』に所収された。
・「一部分伏せ字になつた」試みに私が数えたところでは「二 間諜」に2箇所5文字分「×」がある他は、総て「一 白襷隊」に集中する(他の「三 陣中の芝居」「四 父と子と」にはない)。「一 白襷隊」冒頭の「第×師團第×聯隊」を除くと(凡そ3,100人からなった中村覚少将により組織された同突撃隊は編入された第三軍の各師団から選ばれた人員による特別支援部隊で、「第×師團×聯隊」はその複数の同一連隊出身の白襷隊員を指しているから、ここは芥川自身が「×」としたものと判断される。以下本文中の「第×聯隊」も同様に判断すると)、「一 白襷隊」の中で14箇所ジャスト100字分が伏字「×」となっている。現在、原稿は存在せず、伏字は復元出来ない。実は、私は今、不遜にもこの推定復元作業を目論もうと考えている。
・「淸人景星杓」景星杓(1652~1720)は清代の書道家・学者。若き日には放蕩の限りを尽くして家産を傾けたが、後、学に励み、書道家として名を成した。詩文も好くした。また、菊の栽培に凝り、自ら菊公と号した。
・『「山齋客談」』正しくは「山齋客譚」。景星杓の随筆集。8巻。怪異譚を多く載せる模様。
・「江上」ここは長江のほとり、の意。
・「嚴曉蒼」不詳。ネット検索でも不発。諸注でも不詳。後掲の「嚴灝庭」と共に識者の御教授を乞う。
・「冥道押使」は、閻羅庁に罪人を引き立てて行くことを職務とする冥界の官職名。
・「秦檜の魂を押しながら」の「押す」は、強制する、の意で、秦檜の魂を追い立てながら、という意味である。
・「鬼使」冥界の役人。「鬼」は死者の意であって、まがまがしい「鬼」ではない。
・「紙錢」紙を現行の銭の形や紙幣に似せて切ったもの。十王思想(後の「判官」の注参照)の中から生れたものと考えられ、副葬品としたり、法事の際に燃やして死者の冥福や、自身の来世での来福を願うために用いた。現代では実際の紙幣と類似した印刷物も用いられるが、近年、中国共産党は旧弊として禁じたというニュースを聞いている。
・「金華」浙江省の地名。私の大好きな金華火腿“jīnhuáhuŏtuĭ”(ヂンホアフオトェイ 金華ハム)の名産地。
・「謀夫の罪」広く夫を騙す罪の謂いで、必ずしも間男との姦淫を指すわけではないようである。
・「秦檜は宋の人」秦檜は宋の宰相で1155年に65歳で没している。
・「金元明の三朝を閲した後」中国の北半分を支配した女真族の王朝である金王朝(1115~1234)、その金と南宋を滅ぼして中国を統一した元王朝(1271~1368)、その後の明王朝(1368~1644)を経過して後の意で、この話自体は更にその後の清朝での出来事(作者景星杓の生没年から考えて1650年代後半か)であるから、500年を軽く越えてしまう時間経過を言う。
・「檜賊」は「賊」は卑小の接尾語。檜というあの盗っ人野郎、の意。
・「天曹」「曹」は裁判官。天界の裁判官の意。ここでは閻羅庁の地獄の裁判官の代表たる閻魔王であろう。
・「嚴灝庭」不詳。ネット検索でも不発。諸注でも不詳。芥川の翻訳の内容からすれば、こちらは清代の実在した知られた人物でないとおかしい。それともこれもまた景星杓の都市伝説的虚構的手法なのか。識者の御教授を乞う。]
九 西湖(四)
岳王廟に詣でた後(のち)、我我は又畫舫を浮べながら、孤山の東岸へ返つて來た。其處には槐(ゑんじゆ)や梧桐(ごとう)の蔭に、樓外樓の旗を出した飯館がある。「讀賣新聞」に出た紀行によると、武林無想庵(たけばやしむさうあん)氏の新夫妻は、この樓外樓で食事をしたらしい。我我も船頭の勧め通り、この店の前の槐の下に、支那の晝飯(ひるめし)を食ふ事にした。が、私の前に坐つてゐるのは、押川春浪の冐險小説を愛讀した結果、中學時代に家を拔け出して、何とかといふ軍艦の給仕になつて、八月十日の旅順の海戰に、砲火の下をくぐつ來たとか云ふ、蠻骨稜稜とした村田君である。私は料理を待ちながら、村田君には内證だつたが、ひそかに無想庵氏を羨望した。
我我の卓子(テエブル)は前に云つた通り、枝をさし交した槐の下にある。前にはぢき足もとに、西湖の水が光つてゐる。その水が絶えずゆらめいては、岸を塞いだ石の間に、音を立ててゐるの物優しい。水際には青服(あをふく)の支那が三人、――一人は毛を拔いた鷄を洗ひ、一人は古布子(ふるぬのこ)の洗濯をし、一人はやや離れた柳の根がたに、悠悠と釣竿をかまへてゐる。と思ふとこの男は、急に釣竿を高くあげた。綸(いと)の先には鮒が一匹、ぴんぴん空中に芋に跳ね返つてゐる。――かう云ふ光景は春光の中に、頗(すこぶる)長閑(のどか)な感じを與へた。しかも彼等の向うには、縹渺(へうべう)とした西湖が開いてゐる。私は確かに一瞬間、赤煉瓦を忘れ、この平和な眼前の景色に、小説めいた氣もちを起す事が出來た。――石碣村(せきけつそん)の柳の梢には、晩春の日影が當つてゐる。阮小二(げんせうじ)は、その根がたに坐つた儘、さつきから魚釣りに餘念がない。阮小五は鷄を洗つてしまふと、庖丁をとりに家の中へはいつた。「鬢(びん)には石榴(ざくろ)の花を插し、胸には青き豹を刺(いれずみ)し」た、あの愛すべき阮小七は、未に古布子を洗つてゐる。其處へのそのそ歩み寄つたのは、――
智多星(ちたせい)呉用(ごよう)でも何でもない。大きい籃(かご)に腕をかけた、甚(はなはだ)散文的な駄菓子賣である。彼は我我の側へ來ると、キヤラメルか何か買つてくれろと云ふ。かうなつてはもうおしまひある。私は水滸傳の世界から、蚤のやうに躍り出した。天罡地煞(てんかうちさつ)百八人の中にも、キヤラメルを賣る豪傑は一人もゐない。のみならず今は湖水の上にも、まつ白に塗つたボオトが一艘、四五人の女學生に漕がれながら、湖心亭の方へ進んでゐる!
十分の後、我我は老酒を啜つたり、生姜煮の鯉を突ついたりしてゐた。すると其處へ又畫舫が一艘槐の蔭に横づけになつた。岸へ登つた客を見れば、男が一人、女が三人、男女いつれとも判然しない、小さい赤ん坊が一人である。女の一人は身なりを見ると、乳母か下女の類らしい。男は金縁の眼鏡をかけた、(如何にも不思議な因縁だが)無想庵氏に似た大男である。跡に殘つた二人の女は、きつと姉妹に違ひない。それが二人共同じやうに、桃色と藍と縞になつた、セル地の衣裳を一着してゐる。器量も昨夜(ゆうべ)見た少女よりは、少くとも二割方美しい。私は箸を動かしながら、時時彼等へ眼をやつた。彼等は隣の卓子に、料理の來るのを待つてゐる。その中でも二人の姉妹だけは、何かひそひそ話しながら、我我へ流眄(りうべん)を送つたりした。尤もこれは嚴密に云ふと、食事中の私を映すとか云つて、村田君がカメラをいぢつてゐる――其處が御目(め)にとまつたのだから、餘り自慢にもならないかも知れない。
「君、あの姉(ねえ)さんの方は細君だらうか?」
「細君さ。」
「僕にはどうもわからない。支那の女は三十を越さない限り、どれも皆御嬢さんに見える。」
そんな話をしてゐる内に、彼等も食事にとりかかつた。青青と枝垂れた槐の下に、このハイカラな支那人の家族が、文字通り嬉嬉と飯を食ふ所は、見てゐるだけでも面白い。私は葉卷へ火をつけながら、飽かずに彼等を眺めてゐた。断橋、孤山、雷峰塔、――それ等の美を談ずる事は、蘇峰先生に一任しても好(よ)い。私には明媚な山水よりも、やはり人間を見てゐる方が、どの位愉快だか知れないのである。
しかし何時(いつ)までも彼らの食事に敬意を拂つてゐる訣にも行かない。我我は勘定を拂つた後、三譚の印月へ出かける爲に、早速畫舫の客になつた。三譚の印月は孤山から見ると、丁度向う岸に近い島のほとりにある。島の名は何と云ふのだか、これは西湖全圖にも池田氏の案内記にも記してない。唯この島の近所には、東坡が杭州の守(しゆ)だつた時、みをつくしの爲に建てたと云ふ、石塔が三つ殘つてゐる。その石塔が月明の夜には、水面に三つの影を落す、――と云ふ事だけは確である。舟は可也長い間、靜かな湖水を漕ぎ續けてから、やつと柳と蘆との深い、退省庵前(ぜん)の棧橋に着いた。
[やぶちゃん注:5月3日。
・「梧桐」本邦のビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科アオギリFirmiana simplexと同一種。東南アジア原産の落葉高木。街路樹によく用いられる。
・「樓外樓」西湖湖畔に現在も建つ杭州料理の名店。1914年創業(リンクは中文(英文あり)のズバリ樓外樓のHP)。
・「飯館」中国語で料理店(レストラン)のこと。「餐館」とも。ご承知の通り「飯店」となると旅館(ホテル)の意となる。
・「武林無想庵」小説家・翻訳家(明治13(1880)年~昭和37(1962)年)本名、磐雄(いわお)後に盛一と改名。大正9(1920)年5月に再婚、中国に新婚旅行をした。神田由美子氏の岩波版新全集注解によると、夫妻は立ち寄ったものの樓外樓では食事をしていないとし(その実証は該当注を読まれたい。私としては諸注の安易な引用は避けて先人の発見と著作権は十分に守りたいと思う)、更に芥川の西湖での描写には、この武林無想庵が大正9(1920)年の夏に『読売新聞』に連載した「放浪」と題する紀行文の影響が顕著に見られることを挙げられている(武林のどのような表現が芥川のどの箇所に影響を及ぼしているかは是非とも該当注を読まれたい)。ちなみに、私は次に芥川が記す押川春浪なら幾つも読んだし知っている(だから「江南游記」最初の冒頭注で申し上げた通り、押川春浪の注は施さないのである)が、怠惰にしてこの人のものは読んだことがないので語りようもない。
・「八月十日の旅順の海戰」日露戦争の黄海海戦のこと。明治37(1904)年8月10日に、東郷平八郎大将率いる大日本帝国海軍連合艦隊はロシア帝国海軍太平洋艦隊を破った海戦(但し巡洋艦3隻の撃沈に留まり、主力艦を葬ることが出来なかった点で日露戦争史上では失敗とされるようである)。
・「蠻骨稜稜」「蠻骨」は蛮勇の気質、バンカラな格好、の意。「稜稜」は角張って勢いのある様子を言う。如何にもがっしりとして筋肉質で、物怖じしない風体バンカラな様を言う。
・「石碣村」「水滸伝」の主な舞台となる、梁山泊(現在の山東省済寧市梁山県にあった巨大な沼沢地)の石碣湖岸の村名。
・「阮小二」は、後の「阮小五」「阮小七」と共に、「水滸伝」中の人物。石碣村阮氏三兄弟の長兄。石碣湖の漁師であったが、呉用から生辰綱(せいしんこう:北京知事から宰相に送られた誕生祝いの献上品。)強奪の誘いを受けて、二人の弟と共に参加、梁山泊に入ってからは元漁師の手腕を生かして水軍の頭領として活躍する。
・『「鬢には石榴の花を插し、胸には青き豹を刺し」』ネット上の「水滸伝」ファンのサイトを見ると、少なくとも胸に青い豹の刺青をしているのは、芥川の言う阮小七ではなく、阮小五の方である。中文サイトを探す内、改編劇本 - 水滸傳 - 第五集「水滸伝」の劇化された台本を発見(「改編劇本 - 水滸傳 - 第五集」)、その中の阮小五登場シーンと思しいところに書かれたト書きに、
阮小二:五郎來了。
(那阮小五斜戴著一頂破頭巾、鬢邊插※石榴花、披著一領舊布衫露出胸前刺、
著的青鬱鬱一個豹子來、裏面匾扎起褲子、上面圍著一條間棋子布手巾。)
[やぶちゃん字注:「※」(上)「几」+(下)「木」。]
とある(記号を一部変更した)。この文字列から類推するに少なくともこの芝居では「鬢には石榴の花を插し、胸には青き豹を刺し」ているのは阮小五である。「水滸伝」にお詳しい方の御教授を乞うものである。
・「智多星呉用」書生であったが、梁山泊の2代目首領晁蓋(ちょうがい)から生辰綱奪取の協力を求められ(前掲「阮小二」注参照)、阮氏三兄弟の協力を得て奪取に成功する。梁山泊に逃れた後は軍師格として権謀術数を廻らすとともに、魅力的な好漢を次々と山寨に引き入れた。「智多星」は「水滸伝」特有の次の「天罡地煞百八人」に関わる彼の綽名。
・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。
・「雷峰塔」「雷峰」は丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔であるが、芥川が見た後、1924年に倒壊し、現在のものは2002年の新造。
・「三譚の印月」「三潭」は1089年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。現在のものは800年前のものとされ、高さ2mの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れると言う。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。天に印した真影、そして、この月影と、視野の可視範囲である灯籠の60°角及び120°角からの灯影が西湖に「印」された三つという謂いであろうか。
・「島の名」これは西湖最大の島、小瀛洲(しょうえいす)のことであろう。小瀛洲は明代末期1607年に造られた人工島で、島の内の殆んどが池になっている。一般に三譚印月はここから見るとされる。
・「退省庵」西湖南岸、「六 西湖(一)」に現れた清末の軍人にして文人であった彭玉麟(「六 西湖(一)」注参照)がしばしば釣りを楽しんだところに1869年に建てた故居。退省庵主人は彭玉麟の号。]
十 西湖(五)
桟橋を上ると門がある。門の中には水の澄んだ池に、支那の八つ橋がかかつてゐる。兪樓の廊が曲曲廊なら、これは曲曲橋だと評しても好(よ)い。その橋の處處に、氣の利いた亭(ちん)が出來てゐる。それを向うへ渡り切ると、眩(まばゆ)い西湖の水の上に、三つの石塔のあるのが見えた。梵字を刻んだ丸石に、笠を着せた石塔だから、石燈籠と大した違ひはない。我我は其處の亭の中に、この石塔を眺めながら、支那の卷煙草を二本吸つた。それから、――露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである。八つ橋をもとへ渡つて來ると、若い四五人の支那人に遇つた。彼等は皆めかした上に、胡弓や笛を携へてゐる。何でも長安の公子とか號したのは、かう云ふ連中だつたのに違ひない。水色や緑の大掛兒(タアクワル)、指環にきらめいたいろいろの寶石、――私は彼等とすれ違ひながら、一一その容子を物色した。すると最後に通りすがつた男は、殆(ほとんど)小宮豐隆氏と、寸分も違はない顏してゐた。その後京漠鐵道の列車ボオイにも、宇野浩二にそつくりの男がゐたし、北京の芝居の出方にも、南部修太郎に似た男がゐた所を見ると、一體日本(につぽん)の文學者には、支那人に似たのが多いのかも知れない。しかしこの時はまだ始めだつたから、他人の空似とは云ふものの、きつと小宮氏の先祖の一人は――なぞと、失禮な事も想像した。
――こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる。頭も勿論、ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。醫者は安靜に寢てゐろと云ふ。友だちは壯(さかん)だなぞと冷かしもする。しかし前後の行きがかり上、愈(いよいよ)高熱にでもならない限り、兎に角紀行を續けなければならぬ。以下何囘かの江南游記は、かう云ふ事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云ひさへすれば、閑人のやうに思つてゐる讀者は、速に謬見(べうけん)を改めるが好(よ)い。
我我は退省庵(たいしやうあん)を一見した後(のち)、さつきの棧橋へ歸つて來た。棧橋には支那人の爺さんが一人、魚藍(びく)を前に坐りながら、畫舫の船頭と話してゐる。その魚藍を覗いて見たら、蛇が一ぱいはひつてゐた。聞けば日本の放し龜同樣、この爺さんは錢を貰ふと、一匹づつ蛇を放すのだと云ふ。如何に功德になると云つても、わざわざ蛇を逃がす爲に、金を出す日本人は一人もゐまい。
畫舫は又我我を乘せると、島の岸に沿ひながら、雷峰塔の方へ進んで行つた。岸には蘆の茂つた中に、河柳が何本も戰(そよ)いでゐる。その水面へ這つた枝に、何か蠢いてゐると思つたら、それは皆大きい泥龜だつた。いや、龜ばかりならば驚きはしない。ちよいと上の枝の股には、代赭色に脂切つた蛇が一匹、半身(はんしん)は柳に卷ついたなり、半身は空中にのたくつてゐる。私は背中が痒いやうな氣がした。勿論さう云ふ心もちは、愉快なものでも何でもない。
その内に島の角を繞(めぐ)ると、水を隔てた新緑の岸には、突兀(とつこつ)と雷峰塔の姿が見えた。まづ目前に仰いだ感じは、花屋敷の近處(きんじよ)に佇んだ儘、十二階に對したのと選ぶ所はない。唯この塔は赤煉瓦の壁へ、一面に蔦蘿(つたかつら)をからませたばかりか、雜木(ざふき)なぞも頂には靡(なび)かせてゐる。それが日の光に煙りながら、幻のやうに聳え立つた所は何と云つても雄大である。赤煉瓦もかうなれば不足はない。赤煉瓦と云へば案内記には、何故に雷峰塔は赤煉瓦であるか、その理由を説明した、尤らしい話が載せてある。但しこの案内記は、池田氏の著した本ではない。新新旅館に賣つてゐた、英文の西湖案内記である。私はそれを書いた後、ペンを捨てるつもりだつたが、かう頭がふらついては、到底もう一枚と書く勇氣はない。跡は又明日(あした)でも、――いや、さう云ふ斷りを書くのも面倒である。肺炎にでもなられた日には、助からない。
[やぶちゃん注:5月3日。描写は前段最後に続いて彭玉麟の故居退省庵から始まる。
・「支那の八つ橋」「六 西湖(一)」で芥川は兪樓にあった曲折した廊下(階段)を中国風に洒落て「曲曲廊」と言ったのを受けて、池上に架かった雷(いかずち)型の丁度本邦の八橋の如き曲折した橋(中国では池庭に一般的)をこう言った。
・「露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである」ロシア語表記“Совет”(サヴィェート ラテン語表記“Soviet”)は本来はロシア革命時の社会主義者を中心とした労働者・農民・兵士の評議会を言う。このソヴィエトは形の上では1917年の第二次ロシア革命(二月革命)の際に結成されたものを指すが、事実上、既にニコライ2世を処刑(1918年)し、本篇公開のその年の1922年に一党独裁のソビエト社会主義共和国連邦が成立することになっていたから、ここは勿論、国家としてのソヴィエト又はソビエト政府の謂いである。ここにはさり気ない形で、中国の革命運動に連動してくる時代の流れを敏感に感じ取っている鋭いジャーナリスト芥川龍之介自身の姿が描かれていると言ってよい。それを彼は「蘇東披の話はしなかつた」という切り替えしで、悟られないようにしているのであるが、この切り替えし自体は、正に「七 西湖(二)」で芥川が表明した西湖への反感、引いては中国に対する失望の皮肉な表現に他ならない。芥川にとって『西湖は思つた程美しく』なく、その自然は一応は『繊細な感じに富』んで見え、蘇軾に代表される『支那の文人墨客には、或は其處が好いのかも知れない』が、『繊細な自然に慣れてゐる』日本人にとっては、再顧すればそれは『不滿になつてしま』わざるを得ない程度に退屈なものであり(それ故に西湖を眼前にしながら「露西亞のソヴイエツト政府の話」をするばかりなのである)、今もここで彼の嘱目に景に点々とする古き良き東洋の景観を侵食する近代西洋文化のシンボライズされた『俗惡恐るべき煉瓦建の爲に』、西湖は最早瀕死に至る致命的な疾いを患っている。『いや、獨り西湖ばかりぢやない。この二色の煉瓦建は殆大きい南京蟲のやうに、古蹟と云はず名勝と云はず江南一帶に蔓つた結果、悉風景を破壞し』尽している、だから『私はこんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでゐたい』のである、というのである(但し、その東京も例外ではないことを芥川は十全に認知していた)。芥川はよくこうした言わずもがなな皮肉を畳み掛けることがある。その意外な粘着的厭らしさは、私には数少ないエレガンス龍之介の瑕疵に当たるもの、と思うところではある。
・「公子」身分の高い家庭や貴族の子息。
・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。「上海游記」の「十一 章炳麟氏」の筑摩版脚注では、「掛」は「褂」が正しいとある。
・「京漢鐵道」芥川が後日、漢口を列車で出発し北京に向かった際に乗った鉄道路線(途中、鄭州から洛陽に行っているが鄭州から洛陽の部分は隴海線と言って京漢線ではない)。現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。
・「芝居の出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。
・「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」現在、最新の年譜記載にはこの執筆前後(大正10(1921)年12月~大正11(1922)年1月)に感冒で横臥した記載はない。次注参照。
・「友だちは壯だなぞと冷かしもする」本「江南游記」の連載開始の直前の大正10(1921)年12月は各社の新年号の作品群「藪の中」「俊寛」「將軍」(中国旅行のインスピレーションの賜物)「神神の微笑」「パステルの龍」(「三 杭州の一夜(上)」に登場するJudith Gautierジュディット・ゴーティエの詩の翻訳2篇を所収)「LOS CAPRICHOS」等を体調がすぐれない中で書き上げている。「藪の中」「將軍」「神神の微笑」等は、芥川作品の中でも飛びっきりの問題作と言ってよく、その最中か新年号発表後の、感冒に冒されながら、これだけの驚異的執筆を成し遂げた(12月中なら「つつある」)芥川への羨望と揶揄こもごもの同世代作家の友が「お盛だね」と言うシチュエーションは、如何にもありそうではないか。そのためには熱を出している方が凄絶ではあると言える。そもそも芥川は「江南游記」では、向後もしばしば無関係な執筆時のエピソードを話の中に挿入する。芥川ならではの手法であり、相応に面白く書けてはいるが、こんなことは「上海游記」では全くなかったことである。ここに図らずも「兎に角紀行を續けなければならぬ」と記してしまった諦観的感懐は、本紀行の執筆自体に乗り切れていない芥川の意識を明示していると言える。これは私は最終回まで持続していると感じている。
・「放し龜」仏教の殺生戒に基づく放生会(ほうじょうえ)由来の作善(さぜん)行為である「放生」の一つ。川端や社寺仏閣で桶や籠に捕捉されている生類を金を払って買い、その場で逃がしてやって生かすことで、放った者の功徳とするもの。それを専門に商う者がいた。江戸時代には放し亀・放し鰻・放し鳥等、極めて一般的風俗としてあった。現在でもタイ等の東南アジアの仏教国では極普通の商売である。私も雀と蝶のそれをタイの寺院参道で見かけた。鳥類のそれは餌付けしてあり、放たれた後、再び業者の元に戻って来るという話をガイドから聴いた。
・「花屋敷」は現在の東京都台東区浅草二丁目にある遊園地の名。現表記は「浅草花やしき」。嘉永6(1853)年開園になる日本最古の遊園地。以下、ウィキの「浅草花やしき」より、芥川自死前後迄のパートを引用する。『1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約80000㎡だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、唯一の遊具はブランコであった。』『明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。』『この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。』『大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した』。
・「十二階」明治から大正末まで浅草にあった12階建ての塔で、正式名称は凌雲閣(りょううんかく)という。通称「浅草十二階」と呼ばれた。以下、ウィキの「凌雲閣」より引用する。『凌雲閣は、東京における高層建築物の先駆けであり、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。完成当時は、12階建ての建築物は珍しくモダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿は登場する。
』『建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治後期には客足が減り、経営難に陥った。明治の末に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。なお設計者のウィリアム・K・バルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると猛烈に反対したと言う。関東大震災時の崩落はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった惨劇と言える。』『凌雲閣はその高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木や北原白秋、金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の代表的短編『押絵と旅する男』など、数多くの文学作品にその姿は登場する。しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。経営難から復旧が困難であったため、同年に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている』。なお、同ウィキには「明治末期、大池越しに見た凌雲閣(手彩色絵はがき)」の画像があるが、この位置からもう少し後方(手前)から見上げたものが、本文で芥川が描写している雰囲気と合致するものと思われる。
・「池田氏の著した本」前出の池田桃川著「江南の名勝史蹟」のこと。「六 西湖(一)」及び同書の注参照。]
十一 西湖(六)
その案内記Hangchow Itinerariesによると、今を距(さ)る三百七十年餘りの昔、この西湖のほとりには、屢(しばしば)倭寇が攻めこんで來た。處が彼等海賊には、雷峰塔が邪魔になつて仕方がない。何故かと云ふと支那の官憲は、塔上に物見を立たせてある。だから倭冠の一進一退は、杭州城へ近(ちかづ)かない内に、ちやんと支那側に知られてしまふ。そこで或時日本の海賊は、雷峰塔のまはりに火を放つて、三日三晩焼き打ちを續けた。かかるが故に雷峰塔は、赤煉瓦の製造が始まらない以前、早くも赤煉瓦の塔に變つたのである。――ざつとかう云ふ次第だが、眞僞は勿論保證しない。
雷峰塔を少時(しばらく)仰いだ後(のち)、我我は新新旅館の方へ、――今日は昨日よりも熱が低い。喉も燒いたのが利いたやうである。この分ならば二三日中に、机の前へ坐れるかも知れない。しかし紀行を續ける事は依然として厄介な心もちがする。その心もちを押して書くのだから、どうせ碌な物は出來さうもない。まあ、一日に一囘だけ、纏りがつけば本望である。そこでもう一軒度繰り返すが、――雷峰塔を少時仰いだ後、我我は新新旅館の方に、徐(おもむろ)に畫舫をめぐらせた。
西湖は今我我の前に、東岸一體を開いてゐる。向うに、――新新旅館の上に、緑をなすつた石山は、葛洪(かつこう)煉丹の地だとか云ふ、評判の高い葛嶺であらう。葛嶺の頂には廟が一つ、丁度飛び立たうとする小鳥のやうに、軒先の甍を反らせてゐる。その右に續ゐた山、――西湖全圖によると寶石山には、華奢な保俶塔(ほしゆくたふ)の姿も見える。この塔が細細と突き立つた容子は、老衲(ろうのう)の如き雷峰塔に比すると、正に古人の云つた通り、美人の如きものがあるかも知れない。しかも葛嶺は曇つてゐるが、寶石山の山頂の草には、鮮やか日の光が流れてゐる。これらの山山の裾あたりには、我我の泊つたホテルを始め、赤煉瓦の建物(たてもの)もないではない。が、いづれも遠いせいか、格別目に立やないのは幸福である。唯(ただ)山山のなだれた所に、白い一線の連つてゐるのは、今朝過つた白堤に違ひない。白堤が左に盡きた所には、樓外樓の旗こそ見えないにせよ、新緑の孤山が横はつてゐる。かう云ふ景色は何と云つても、美しい事だけは否み難い。殊に今は點點と菱の葉を浮べた水の面(おもて)も、底の淺いのを瞞着すべく、鈍い銀色に輝いてゐる。
「今度は何處に行くのです?」
「放鶴亭に行つて見ませう。林和靖(りんわせい)のゐた所だから。」
「放鶴亭と云ふと?」
「孤山ですよ。新新旅館のすぐ前の所――、」
その放鶴亭に上陸したのは、二十分餘り後の事だつた。畫舫は今度も其處へ來るのには、錦帶橋をくぐつた上、ずつと圍はれた、所謂裡湖(りこ)を横(よこぎ)つたのである。我我は梅の青葉の中に、放鶴亭を見物したり、もう一つ上に側立つた、これも林逋(りんぽ)の巣居閣へ行つたり、その又後(うしろ)に立てられた、やはり大きな土饅頭の「宋林處士墓」なるものを見たり、いろいろその邊をうろつき廻つた。林逋は高人(かうじん)だつたに違ひない。が、日本の小説家程、貧乏もしてゐなかつたのに違ひない。林逋七世の孫(そん)、洪(こう)の著した「山家淸事」(さんかせいじ)によると、洪の隠遁生活は「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」だつたと云ふ。和靖先生も似たやうなものだとすれば、月五十圓の借家にゐるより、餘程豐だつたと云はなければならぬ。私にしても箱根あたりへ、母屋が一軒に物置が一軒――書齋、寢室、女中部屋等、すつかり揃つたのを建てて貰つた上、書生一人、女中一人、下男二人を使つて好ければ、林處士の眞似などはむづかしくもない。水邊(すゐへん)の梅花に鶴を舞はせるのも、鶴さへ承知すれば訣無しである。しかし私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。――私は放鶴亭一見をすませた後、岸の畫舫へ歸りながら、こんな理屈を發表した。岸には柳絮(りうぢよ)の飛び交ふ間(あいだ)に、白の着物へ黑のスカアトをはいた、支那の女學生が二三十人、ぞろぞろ西冷橋の方へ歩いてゐる。
[やぶちゃん字注:「※」=「广」+(中)に「甾」。]
[やぶちゃん注:5月3日。
・「Hangchow Itineraries」“Hangchow ”は杭州“Hángzhōu”、“Itinerary”は旅行案内書。「杭州旅行案内」の意。
・「今日は昨日よりも熱が低い。……」前段「十 西湖(五)」を受ける。同段の「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」及び続く「友だちは壯だなぞと冷かしもする」の注を参照されたい。以下、「……我我は新新旅館の方に」迄、実に175字。私が大阪毎日の薄田泣菫なら確実に苦虫を潰すね。
・「葛洪煉丹」葛洪(283~343)は、西晋・東晋期の道士・仙人。遊仙思想と煉丹術の書「抱朴子」の著者として有名。他にも「神仙伝」「隠逸伝」等、神仙関連の著書多数。尸解仙の呪法(自身の死体から抜け出て仙人となること。登仙の方法としては下位の呪法)を修得していたとされ、最後にはそれで登仙したとされる。「錬丹」は煉丹とも書き、中国の道士の呪法の一つで、不老不死となれる霊薬「丹」を製造する技術を言う。古来、辰砂などを原材料とした硫化水銀(HgS)を原料として製造出来るとされ、盛んに服用もされた。漢方では精神安定効果を認められており、不眠・眩暈・癲癇などに用いるとある。主に用いられた硫化第二水銀(HgS(Ⅱ))は急性毒性はないとされるが、多量の長期服用による水銀中毒で多くの犠牲者や障害者をも生み出すこととなった。
・「葛嶺」現在の杭州市の西部西湖北岸、白堤に対峙して見下ろす位置にある標高166mの山。葛洪を開祖として祀る道教寺院抱朴道院が山腹にある。
・「寶石山」葛嶺の東に位置する山。標高約78m(約100mという記載もあるが、神田由美子氏の岩波新全集注解の200mは何かの間違いであろう)。西湖や杭州市街を見下ろす景勝地である。山名の由来は、山の鉱物組成が凝灰岩と流紋岩を主としているため、陽光が射すと宝玉の如く輝くことからという。
・「保俶塔」宝石山にある杭州のシンボルとも言える層塔。北宋の開宝年間、970年(異説あり)の創建といわれる。神田由美子氏の岩波新全集注解では、986年、都へ登った越王銭弘俶の無事を祈って宰相呉延爽が建てられたと記し、芥川が訪れた『当時は九層の塔』とあるが、ネット上には中文サイトも含め、呉越王銭弘俶により銭塘江の水害を鎮めるために建てられたという記載も多く見受けられる。現在は六面七層で、高さ45.3m(邦人のブログにはには59.89mとの記載も見られる)。日中多くのサイトを見るに、芥川の華奢で女性的な優美な塔という保俶塔のイメージは、現代中国でも一般的な印象であるようだ。
・「老衲」年老いた僧のこと。
・「放鶴亭」林逋の旧居。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、『孤山の北麓の大樹の茂みの中にあ』り、林逋が舟で遊行に出かけた最中に来客があった際には、留守居の童子が籠に伏せてあった鶴を放って林逋に合図させたことからこの名が付いたという。如何にも人界仙境の趣きではないか。
・「林和靖」林逋(967~1028)。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第4代皇帝仁宗(1010~1063:この縁は父第3代皇帝真宗の時から)が諡(いみな)として与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ』とし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。』『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。ここに三野豊氏の美事な訳がある。
・「錦帶橋」は白堤のやや孤山寄りの中央付近に架橋している橋。日本の岩国の錦帯橋はこれがモデル(であるが、遥かに岩国の方が美しい)。
・「裡湖」裏湖。西湖では堤の内(陸側)の湖を言う。ここは白堤に仕切られた西湖の北側の細長い湖の名。現在は北里湖と呼ぶ。
・「林逋の巣居閣」筑摩全集類聚版脚注には、『放鶴亭の右にある』とする。元代には西湖十景とは別に「銭塘十景」が選ばれているが、その中に「巣居雪閣」とある。ここの雪景色のことを指すか。
・『「宋林處士墓」』「處士」は在野にあって若しくは隠棲して仕官しない人のこと。これは林逋の墓であるが、彼は生前に墓を作り、「茂陵他日求遺稿 猶喜曾無封禪書」(茂陵他日遺稿を求むとも 猶ほ喜ぶ曾て封禪(ほうぜん)の書無きを)と詠んだと言う。散文翻案をすると「武帝の使者が、茂陵に隠居していた司馬相如を尋ねた時には相如は既にあの世行き、優れた遺稿を救わんとするもとっくに散逸、しかし卓文君が差し出したのは遺言の秘書「封禅の文」だったんだと――いや! 嬉しいね! 私は彼のように公(おおやけ)に気を使って封禅の書なんぞを遺書として用意をしなくってよいからね」といった感じか。これは国政に飽くまで無関心であることをあの世まで嘯く林逋の痛快な一言と言えよう。本詩は前漢の文人政治家司馬相如(B.C.179~B.C.117) の故事のパロディである。司馬相如を高く評価していた武帝(B.C.156~B.C.87)は絶えていた封禅の儀(帝王が天地に王の即位を闡明し、また天下太平を感謝祈念する秘儀)をB.C.110年に初めて泰山行っているが、それには司馬相如が晩年隠棲した茂陵で、武帝への忠心から記したところの遺書封禅の書一巻が役立ったのであった。因みに茂陵(現・陝西省咸陽市)は後に武帝自身の墳墓の地ともなった地で、因縁に満ちている。
・「高人」「かうにん(こうにん)」とも。身分の高い人という意味ではなく、ここでは人品ともに高潔な志しの高い人、更に、世俗に汚されていない人という意味も付与されている。
・『洪の著した「山家淸事」』ネット上のいろいろな記載を勘案すると、南宋末の文人にして林逋の子孫であった林洪が記した、山林隠士の生活マニュアル本のようなものらしい。
・『「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」』[「※」=「广」+(中)に「甾」。]書き下そう。「舍三、寢一(いつ)、讀書一治(いちぢ)、藥一(いつ)。後舍二、一は酒穀を儲(たくは)へ、農具・山具を列し、一(いつ)は僕役を安んじ、庖※(はうし)是れに稱(かな)ふ。童一、婢一、園丁二、犬十二足、驢四蹄、牛四角。」か。訳せば「主な棟は3棟で、寝室1室・書斎1室・療治に用いる特別室1室。更に主屋の後ろに2棟あって、1棟には酒や穀物を貯蔵し、更に農機具や山仕事の道具の置き場所とし、もう1棟には下僕を住まわせて、そこをまた私の家の厨房として仮称している。ボーイ1名・女中1名・園丁2名・犬12匹・驢馬4頭・牛四頭。」か。とんでもないゼイタクな隠棲ではある。
・『私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。』とあるが、驢馬と牛なら我慢出来ようが、特に芥川は犬が大の苦手であったことを申し添えておこう。
・「柳絮」白い綿毛のついた柳の種子を言うが、一般に漢詩では、それが春の風に飛び漂うことを言うことが多い。]
十二 靈隠寺
私は薄汚い新新旅館の二階に、何枚かの畫(ゑ)はがきを認めてゐる。村田君はもう寢てしまつた。暗い窓硝子(まどがらす)の一角には、不思議な位鮮かに、一匹の守宮(やもり)がひつ附いてゐる。それを見るのが嫌だから、私は全然わき見をしずに、ずんずん萬年筆を走らせ續ける。………
豐島與志雄に。
今日靈隱寺(れいいんじ)に出かける途中、淸漣寺と云ふ寺を覗いたら、大きい長方形の池の中に、眞鯉、緋鯉が澤山ゐた。此處は玉泉魚躍とか號して、五色の鯉に名高い寺だと云ふ。尤も五色と云つた所が、實際は精精三色しかない。池に臨んだ亭の中には、籐椅子や卓子(テエブル)が並べてある。其處に腰をかけてゐると、坊主が茶や菓子を持つて來てくれる。くれると云つても唯ぢやない。つまり坊主は鯉を養つてゐるやうだが、實は鯉に養はれてゐるのだらう。君は染井の釣堀に、夜通し絲を垂れる豪傑だから、この寺の鯉を見さへすれば、釣りたくなるのに違ひない。
小穴隆一に。
靈隱寺に詣(いた)る。途中小石橋(せうせきけう)あり。橋下(けうか)の水(みず)佩環(はいくわん)を鳴らすが如し。兩岸皆幽竹。雨を帶ぶるの翠色、殆(ほとんど)人に媚ぶるに似たり。石谷(せきこく)の畫境に近きもの乎(か)。僕大いに詩興を催す。然れども旅嚢(りよのう)「圓機活法」なし。畢(つひ)に一詩なき所以(ゆゑん)。ない方が仕合せかも知れない。
香取秀眞(かとりほづま)氏に。
靈隱寺は中中大きい寺です。總門をはいつて少し行つた所に、天竺の靈鷲山(りやうじゆせん)が飛んで來たと云ふ、來峯と號する山があります。(實は山と云ふよりも、大岩と云ふ方が好(よ)いのですが。)其處の石窟(せきくつ)にある佛は、宋元の佛だと云ふ事です。が、僕にはどの佛も、好いのだか惡いのだかわかりません。難有いと思つたのはたつた一つです。尤も石窟の一部分は、連日の雨に水が出てゐましたから、中へはいらずにしまひました。今日も時時雨が來ます。高い杉檜、苔の蒸した石橋(せきけう)、――まあ、この寺の大體の感じは、支那の高野山と思へばよろしい。
小杉未醒氏に。
靈隱寺を見ました。杉の幹に栗鼠の駈け上(のぼ)る所なぞは、如何にも山寺らしい閑寂なものです。雨天だつたせゐか、赭(そほ)塗りの大雄寶殿なぞも、甚(はなはだ)落着いた氣がしました。駱賓王(らくひんわう)がゐたと云ふのは、傳説かも知れないが、一應尤らしい氣がします。此處の空氣には何となく、駱賓王じみた所がある。あなたはさう思ひませんか? もう一つ次手に申し上げたいのは、この寺の五百羅漢です。これも勿論御覧だつた事と思ひますが、少くとも二百位は、殆あなたと瓜二つです。冗談でも何でもない、實際あなたにそつくりです。聞けばこの五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像があるさうですが、まさかあなたの遠つ祖(おや)はマルコ・ポオロだつた次第でもないでせう。が、僕は萬里の異域に、あなたと相見(しようけん)する事が出來たやうな、愉快な心もちになりました。
佐佐木茂索に。
靈隱寺に詣りし歸途、鳳林寺一名喜鵲寺(きじやくじ)を訪(と)ふ。烏窼(うさう)禪師のゐた寺なり。寺は殆(ほとんど)見るに足らず。唯(ただ)葬ひか何かありしならん、鼠色の袈裟に海老茶の袈裟かけし坊主、何人も經を讀みながら、歩みゐたり。白樂天、烏窼に問ふ。如何か是(これ)佛法の大意(たいい)。烏窼答へて曰、諸惡莫作(まくさ)、衆善奉行。樂天又云ふ。三尺の童子も之を知れり。烏窼笑つて曰、三尺の童子も之を知れど、八十の老翁も行ひ難し。樂天即ち服すと。かう手輕く服された日には、烏窼禪師も氣味が惡かつたらう。寺門の前に支那の子供大勢あり。前綵(ぜんさい)の花を持ちて遊ぶ。雨後夕陽愛すべし。
手紙を書いてしまつたら、幸ひ守宮も見えなくなつてゐた。明日は杭州を去る豫定である。湧金門(ゆうきんもん)、囘囘堂(くわいくわいだう)、――そんな物を見る暇はないかも知れない。私は多少の寂しさを感じながら、シヤツ一枚になつた後(のち)、ベツドの毛布へもぐりこもうとした。が、思はず飛びのきながら、「こん畜生」と大きい聲を出した。白いべツドの枕の上には、碁石程の蜘蛛がぢつとしてゐる! これだけでも西湖は碌な處ぢやない。
[やぶちゃん注:「靈隠寺」は雲林寺とも呼ばれ、杭州市街及び西湖の西にある霊隠山の麓に位置する、杭州一の名刹にして中国禅宗十大古刹の一つ。臨済宗。東晋時代、インドから来朝した僧慧理によって開山された(326年)。慧理が杭州の連山を見て「ここは仙霊が宿り隠れている場所である」と言ったことから霊隠寺と名づけられたとする。五代十国時代、杭州が呉越国(907~978)の中心であった当時は3000人を越える学僧が修行していたとされ、他に類を見ない大規模な伽藍を誇ったが、相次ぐ火災や戦災、特に太平天国の乱の折に大部分が崩壊し、芥川が当時見たものは清末に再建されたものであった。南側にある石灰岩でできた岩山には沢山の洞窟が掘られ、芥川が「飛来峰の磨崖仏」と呼んでいる五代十国から元代にかけて彫られた338体の石仏が安置されている。特に五代十国の末期の951年に造立された青林洞西岩壁上座像が著名である。但し、私の感触ではここで芥川が「難有いと思つたのはたつた一つ」と言うのは、これではないように思われる。なお、本篇は複数の手紙文を組み合わせた書簡体形式であるが、実際には類似した各人宛の手紙は現在残されておらず、これは書簡体を意識した創作と思われる。芥川は5月4日に霊隠寺を訪れている。その日の晩という設定である。5日の夕方には上海に戻っている。
・「豐島與志雄」仏文学者・作家(明治23(1890)年~昭和30(1955)年)。東京帝国大学仏文科在学中の大正3(1914)年2月に芥川龍之介らと第3次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女小説「湖水と彼等」を寄稿している。ユーゴーの「レ・ミゼラブル」(1918~19年新潮社刊)やヘッセ「ジャン・クリストフ」(1921年新潮社刊)等の翻訳で知られる。芥川より2歳年上。
・「淸漣寺」神田由美子氏の岩波版新全集注解では『現在の玉泉寺』とあるが、ネット上の記載を見ると、現在は寺としては機能していない模様で、杭州植物園の一角として単に「玉泉」と呼ばれているようであり、池のある庭園施設のように紹介されている。玉泉は西湖三大名泉の一つで、今は現地名産の茶をこの玉泉で淹れたものが人気であるとある。
・「玉泉魚躍」「チャイナネット」2002年7月1日の記事『中国でよく知られた魚を観る観光スポット(2) 杭州の「玉泉魚躍」』を以下に全文引用する。『玉泉は西湖の三大名泉の1つであり、いままでずっと魚の観賞で有名になり、玉泉は泉の水が緑の玉のようであり、一年中涸れず、四角形の池に集まり、池の中の百尾はいると思われるアオウオが、すぐ後に続いて泳いでおり、群れをなして東へ泳いだり西へ泳いだりし、沈んだり浮かんだりし、和らいだ気持ちで悠々自適であるように見える。池のほとりのあずまやの廊下には明代の著名な書家董其昌の題字である「魚楽図」が掲げられており、池のほとりにホールがあり、大理石の欄干で囲まれている。観光客はお茶をたしなみながら、手すりによりかかって魚を観、「魚が楽しくて人も楽しく、泉が清らかで心がさらに清らかである」という面白みを深く体得するのである。』。文中の「アオウオ」は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ソウギョ亜科アオウオMylopharyngodon piceus。中国原産の淡水魚で中国四大家魚(アオウオ・ソウギョ・コクレン・ハクレン及びこれらの魚を同一の池で飼うことによる理想的食物連鎖養魚システムの名称でもある)の一。成魚は2mに及ぶ。コイに似た形態を有するが、ヒゲはない。口はやや下方に伸びており、ベントス食に適す。体色がコイに比べて青みがかっていることからの名称であるが、実際には黒い印象である(以上は主にウィキの「アオウオ」の記載によった)。また、「董其昌」(とうきしょう 1555~1636)は明末の文人画家・書家。その書を後の第4代皇帝康煕帝(1654~1722)が敬愛したため、清朝正統の書ともされた。南宗画を興隆させ、後世、芸林百世の師と呼称されるに至った(以上は主にウィキの「董其昌」の記載によった)。
・「染井」は本郷区染井、現在の東京都豊島区駒込。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、豊島与志雄は大正6(1917)年9月より『本郷区駒込千駄木町に住んでいた』とある。彼の釣好きは彼の諸作品によく現れ、小品「鯉」では夜間に帝大の池に鯉をこっそり釣りに行くさまが描かれている(青空文庫「鯉」)。因みにこの染井にある染井霊園を抜けたすぐの豊島区巣鴨にある慈眼寺(日蓮宗)は、芥川龍之介の墓所でもある。
・「小穴隆一」(おあな りゅういち 明治24(1894)年~昭和41(1966)年)洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川より2歳年下。
・「橋下の水佩環を鳴らすが如し」「佩環」は佩玉で、帯び玉、貴人が腰に帯びる飾りの玉の輪を言う。水の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。私はここを「橋下の水珮と爲す」として李賀の「蘇小小墓」を思い出してはくれなかった芥川龍之介を深く恨むものである(「七 西湖(二)」注参照)。唐の柳宗元の「至小丘西小石潭記」に「如鳴佩環」とあり、田山花袋の「山水小記」(大正7(1918)年富田文陽堂刊)の「日光」の中の鬼怒川を描写する一節にも「水の鳴ること佩環の如く」とある。
・「石谷」王翬(おうき 1632~1717)清初の画家。石谷は字。南宋・北宋の画風を統一して清の新たな正統的様式を完成、世に画聖と称された。
・『「圓機活法」』王世貞校正・楊淙(ようそう)参閲になる明代の作詩用辞書。24巻。天文・時令・節序・地理などの44門を更に細目化し、それぞれについて叙事・事実・品題・大意等を解説、その下に故事成句等を配す。「円機詩韻活法全書」等、異名多し。神田由美子氏の岩波版新全集注解に芥川の蔵書の中には1884年刊本があるとする。これは明治17年山中出版舎刊行になる石川鴻斎訂正版の和本であろう。和訳本には「詩学筌蹄」「和語円機活法」等がある。
・「香取秀眞」鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和29(1954)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。芥川より18歳年上。
・「靈鷲山」インドのビハール州の中央部に位置する山。釈迦在世時はマガダ国の首都王舎城の東北、尼連禅河(にれんぜんが)の側であった。釈迦はここで8年の間、無量寿経や法華経を説いたとされる。一説にその頂上が平らになっており、それがハゲワシの形をしているからという(ウィキの「霊鷲山」による)。
・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん 明治14(1881)年~昭和39(1964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。同じ田端に住んでいた。芥川より11歳年上。
・「赭塗り」赤の顔料を塗った壁の意。「赭」は本来は「赭土」(そおに)で、赤色の土・赤土を指し、上代には顔料等に用いた。
・「大雄寶殿」霊隠寺の本殿。ここで芥川が見たのは民国初年に再建されたもの。後、解放直後に倒壊し、内部の仏像も壊れた。現在のものは1956年に再建されたもの。
・「駱賓王」(640?~684?)は初唐の著名な詩人。「初唐四傑」の一人。性格は傲慢にして剛直。官僚となって武則天(則天武后 623?~705)に対し、数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷された。出世の望みを失い、官職を棄てて去った後、684年に名将李勣(りせき)の孫であった李敬業が武則天に謀叛を起こすと、その一味として武則天を誹謗する檄文を起草、その罪を天下に伝えんとした。武則天はその檄を手に入れると、部下に読ませた。「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」の辺りまでは笑っていたが、「一抔土未乾、六尺孤安在」(一抔の土いまだ乾かざるに、六尺の孤いずくにか在る:武則天に殺された王族の墓の土は未だに血の湿りをもって乾かない――ああその遺児たちはいったいどこでどうしているのだろう。)の句に至って、愕然としてその作者の名を問い、かの駱賓王であることを知ると、逆に「このような才人を流謫不遇の徒としたのは宰相の過ちである」と言ったという。敬業の乱平定後は、行方不明となったが(一説には誅殺されたとする)、ここ霊隠寺に隠れ住んでいたという伝説もある。宋子問に「靈隠寺」と題する詩があるが、これはその駱賓王隠棲伝承に因む曰く附きの詩である。石九鼎氏の「千秋詩話 16 駱賓王」をお読みあれかし。
・「この五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像がある」本邦の盛岡にある報恩寺の五百羅漢にはマルコ・ポーロやフビライ・ハンの像が入っているらしいというので調べてみると、第百番善注尊者と第百一番法蔵永劫尊者の像が中国で1840年頃からマルコ・ポーロ像、ジンギスカンの孫フビライ像といわれるようになったという記事を発見した(「盛岡歴史探究館」の「羅漢曼荼羅」内)因みにMarco Poloマルコ・ポーロ(1254~1324)は杭州を「世界で最も美しく華やかな土地」と讃美している。
・「佐佐木茂索」(明治27(1894)年~昭和41(1966)年)は小説家・出版人。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。後、「文芸春秋」編集長を経て、昭和21(1946)年、文芸春秋社社長(当時の名称は文芸春秋新社)となった。芥川より2歳年下。
・「烏窼禪師」は鳥窠道林(ちょうかどうりん 741~824)のこと。中唐の禅僧。円修禅師と諡(おくりな)された。径山道欽(どうきん)の法灯を受く。後、杭州の秦望山に隠棲し、鳥の巣のように松の枝葉が茂った庵に住んだことから鳥窠禅師・鵲巣(じやくそう)和尚と呼ばれた。白居易との交流は極めて著名で、ここで芥川が綴るエピソードは人口に膾炙する禅問答・公案である。大意を示すと、ある時、杭州太守であった白居易が鳥窠禅師に仏法の真意とはと尋ねたところ、禅師は「諸惡作(な)すこと莫(な)かれ、衆善(しゆぜん)奉行」(ぶぎやう)せよ」(悪いことはするな、ただひたすらに良いことをせよ)という「七仏通誡偈」(しちぶつつうかいげ)の一節をもって答えた。それを聞いた白居易がうっかり「それは三つの童子も知るところですね」と答えたところが、禅師は笑って、「三つの童子でも知っているが、八十の老人であってもそれをまことに行なうことは難しい」と言った。それを聞いた白居易は即座に悟って、西湖孤山に竹閣(「六 西湖(一)」の「孤山寺、今の広化寺」の注参照。現在の広化寺)を建て、そこに鳥窠禅師を招いて朝夕に参禅したという。
・「剪綵」綾絹を花鳥形に切りぬいたもの。又は色糸で作った造花。「綵」は繊維や布が彩られたさま。人形(ひとがた)た花鳥に切り抜いたものは古来からあり、玩具や飾り、天井装飾などに用いられた。
・「湧金門」西湖の四水門の一。西湖東岸にあるが、芥川がこの地名を出したのは「水滸伝」絡みと推測する。その第四一話「魂帰湧金門」で、南軍への使者に立った水軍の頭、張順が兄弟たちの見守る中、身をもって矢襖(やぶすま)となった場所が、ここである。
・「回回堂」筑摩全種類聚は未詳、神田由美子氏の岩波版新全集注解では注に挙げてさえいないが、これは杭州中山中路に現存する武林真教寺、通称で鳳凰寺と呼ばれるイスラム教のモスクの別称である。唐代に建立され、元初期にペルシア人によって再建された。建物の外観が羽を広げた鳳凰の姿に似ていることから鳳鳳寺と呼ばれることが多い。礼拝堂である無梁架はメッカに向かって建てられており、中央の壁には1451年に刻まれたアラビア文字のコーラン(中国語「古蘭經」)が嵌め込まれている。中国東南沿海域の4大イスラム寺院の一つ(以上は複数の中文サイトを参照にした)。
・「これだけでも西湖は碌な處ぢやない」最後に、西湖に禍々しい守宮と蜘蛛を配して、生理的な嫌悪の対象と化した西湖に唾棄する。]
十三 蘇州城内(上)
驢馬は私を乘せるが早いか、一目散に駈け出した。場所は蘇州の城内である。狹い往來の南側には、例の通り招牌(せうはい)が下つてゐる。それだけでも好い加減せせこましい所へ、驢馬も通る、轎子(けうし)も通る、人通りも勿論少くはない、――と云ふ次第だつたから、私は手綱を引張つたなり、一時は思はず眼をつぶつた。これは臆病で何でもない。あの驢馬に跨つた儘、支那の敷石道を駈けて行くのは、容易ならない冒險である。その危なさを經驗したい讀者は、罰金をとられるのを覺悟の上、東京ならば淺草の仲店、大阪ならば心齋橋通りへ全速力の自轉車を驅つて見るが好(よ)い。
私は島津四十起氏と、今し方(がた)蘇州へ來たばかりである。本來ならば午前中に、上海を立つつもりだつたが、つい朝寢坊をしたものだから、晝の汽車に間に合はなかつた。――それも一汽車乘り遅れたのぢやない。都合三列車乘り遅れたのである。其處へ島田太堂先生なぞは、その度に停車場(ていしやじゃう)へ來られたと云ふのだから、今思ひ出して恥ぢ入らざるを得ない。しかも私を送る爲に、七絶を一首頂いた事は、愈(いよいよ)恐縮すべき思い出である。………
私の前には意氣揚揚と、島津氏が驢馬を走らせてゐる。尤も島津氏は私のやうに、始めて驢馬に乘つたのぢやない。だから腰の据り方が違ふ。私は島津氏を御手本に、内心は何度も冷や冷やしながら、いろいろ馬術の工夫をした。但しその後落馬したのは、正に御弟子の私ぢやない。御師匠番の島津氏自身ある。
狹い往來の左右には、――實は最初の何分かは、何があるのか見えなかつた。が、その何分かが過ぎた後には、經師屋(きやうじや)と寶石屋とが何軒(なんげん)もあつた。經師屋の店には山水だの花鳥だの、表装中の畫(ゑ)が並べてある。寶石屋の店には、翡翠や玉(ぎよく)が銀の飾りなぞときらめいている。それがどちらも姑蘇城らしい、優美な心もちを起させた。しかし、あの優美な心もちも驢馬の背中に躍つてゐないと、もつと嬉しかつたのに相違ない。實際一度なぞは縫箔屋(ぬひはくや)の店に、牡丹だの麒麟だのを縫ひとつた、紅い布が壁に吊してある、――それを見ようと思つたら、もう少しで目くらの胡弓彈きと、衝突してしまふ所だつた。
しかし驢馬を走らせるのも、平な敷石の上ならば、まだしも我慢が出來ない事はない。それが橋を渡るとなると、いづれも例の反り橋だから、上りは尻餠をつきさうになるし、下りも運が惡ければ、驢馬の頭越しにずり落ちかねない。おまけに橋の多い事は、姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋の語が、文字通りほんたうでないにもせよ、満更譃ばかりではなささうである。私はやむを得ず橋へかかると、手綱なぞを控へる代りに、驢馬の鞍へしがみついた。それでも橋を渡る時は、汚い白壁の並んだ間に、細細と蒼い運河の水が、光つてゐるのだけ眼にはいつた。
そんな道中を續けた後(のち)、やつと我我の辿りついたのは、北寺(ほくじ)の塔の前である。聞けば蘇州七塔の中、登覧する事の出來るのは、僅にこの塔ばかりだと云ふ。塔の前の草原(くさはら)には、籃(かご)を携へた婆さんたちが、二三人摘草に耽つてゐる。この草原は案内記によると、昔の死刑場だと云ふ事だから、草も人血に肥えてゐるのかも知れない。しかし白堊(はくあ)に日の光を浴びた、九層の塔の聳える前に、青服(あをふく)の婆さんが三三五五、静かに草を摘んでゐるのは、頗(すこぶる)悠悠とした眺めである。
我我は驢馬を飛び下りると、塔の最下層の入り口ヘ行つた。其處には支那の寺男が一人、格子戸の中に控へてゐる。それが二十鏡の銀貨を貰つたら、大きい錠を外した上、おはいりなさいと云ふ手眞似をした。塔の二階へ上る所には、埃臭い暗闇の中に、カンテラが一つともつてゐる。が、梯子を上(のぼ)りかけると、もうその光はさして來ない。その上手(うへて)すりへつかまつたら、この塔へ詣でた善男善女何萬人かの手垢の名殘が、ぺとり冷たいのには辟易した。しかし二階へ登つてしまへば、四方に口もついてゐるし、もう暗いのに困る事なぞはない。塔の内部は九層とも、皆桃色の壁の間に、金色の佛が安置してある。桃色と金と――かう云ふ色の配合は、妙に肉感的な所があるだけ、如何にも現代の南國らしい。私は何だかこの塔の上には、支那料理でもありさうな心もちがした。
十分の後、我我は塔の頂上から、蘇州の市街を見下してゐた。市街は黑い瓦屋根の間に、鮮かな白壁を組みこんだなり、思つたより廣廣と擴がつてゐる。その向うに霞を帶びた、高い塔があると思つたら、それは孫權が建てたとか云ふ、名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)町の外はどちらを向いても、水光(みづひか)りと緑との見えない所はない。私は欄干によりかかりながら、塔の下に草を食つてゐる、小さい二頭の驢馬を見下した。驢馬の側には驢馬引きの子供も、二人ながら石に腰かけてゐる。
「おおうい。」
私は大きい聲を出した。が、彼等はふり向きもしない。高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである。
[やぶちゃん注:蘇州行は西湖から帰った3日後の5月8日。本文にあるような次第のために蘇州到着は夕方となった。芥川は「今し方蘇州へ來たばかり」と言っているが、それでは嘱目は夕景となる。しかし、本描写にはそのような印象は全くない。それどころか次の「十四」では続いて玄妙観に回っている。これは実は翌日の5月9日の午前中の体験と思われる。蘇州滞在は5月10日迄で、同日深夜12時頃、蘇州駅から次の目的地鎮江へと向かった。
・「招牌」看板。
・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。
・「島津四十起」(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和23(1948)年)。俳人・歌人。明治33(1900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が上海の里見病院入院中の芥川の病床で開いた句会での芥川の作が、岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。
・「島田太堂」本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)新聞人。太堂は号。当時の日本語新聞『上海日報』の主筆。二松学舎(現・二松学舎大学)卒業後、郷里熊本の済々黌(せいせいこう:現・熊本県立済々黌高等学校)で教員(総監)となる。明治33(1900)年頃、渡中して井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年:熊本出身の新聞人。)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊した。後、井手が創刊した『上海日報』主筆となり、凡そ30年に亙って編集業務に従事した。『上海日報』》は『上海日日新聞』『上海毎日新聞』と並ぶ、上海3大日本語新聞の一つ。
・「姑蘇城」蘇州の別名。春秋時代の呉の都。南西にある姑蘇山から附いた。当時の都の位置は現在の江蘇省呉県、蘇州市の南に当たる。
・「縫箔屋」刺繍と摺箔(すりはく:布に糊や膠(にかわ)等を用いて模様を描いてそれに金箔・銀箔を押しつけたもの。)を組み合わせて布地に装飾模様を施す店屋。
・「姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋」姑蘇の城内には3,600橋(きょう)の橋があり、その周縁部(姑蘇城内を除いた)である呉江蘇省呉県の範囲には更に390橋の橋がある、という意味。
・「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に造立(247~250頃)された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように報恩寺と名づけられた(筑摩全集類聚版の「報講寺」は誤りと思われる)。諸注が孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(502~557年頃)のものらしいが、芥川が言うように損壊と再建が繰り返され、ここで芥川が登った現在の八角形九層塔は、南宋時代の1153年の再建になるものである(七層から上は明代、廂と欄干は清代の再建・補修になるもので、正にこれもまた「瑞光寺の古塔」以上に「重修に重修を重ねた」増殖した塔である)。高さ76m、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。
・「蘇州七塔」友人が中文サイトを調べてくれたところによると、六朝時代に始まった「七塔」の名数は時代や数え方で何種類もあるらしい。現在の観光名所としての名数では北寺塔・大同塔・瑞光塔・白塔・双塔(×2)・石塔を指すが、芥川が訪れた時代の名数が同じとは必ずしも言い難い。友人は古跡を含めた白塔・孟子堂の東にある塔・虹塔・司獄司署内にある塔・雄塔・雌塔と、それに妙湛寺にあった塔(現存せず)という記載がそれに近いのではないかと教えてくれた。これだと7つを数えることが出来るのだが、しかし、芥川の謂いの北寺塔が含まれない。とりあえず、前者現代の観光版と同じととっておく。
・「孫權」呉の太祖(182~252)。後漢末から三国時代にかけて活躍した「三国志」で知られる武将。赤壁の戦いで劉備と同盟し曹操の軍を破り、江東六郡の呉を建国して初代皇帝に即位した。
・「瑞光寺の古塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。自分が登っている北寺塔の造立者孫権を芥川はこの塔の造立者と誤認している。
・「高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである」私はこのヴィジュアルなエンディングが如何にも印象的で好きである。パースペクティヴに富んだ彼の視線の映像と声が鮮やかに聞こえてくる。そうしてその最後の言葉は芥川龍之介版「第三の男」の哲学である。]
十四 蘇州城内(中)
我我は北寺(ほくじ)の塔を見てから、玄妙觀を見物に行つた。玄妙觀はさつき通つた、寶石屋の多い往來から、ちよいと横町をはいつた所にある。觀前(かんぜん)の廣場に露店の多い事は、上海の城隍廟(じやうくわうべう)と違ひはない。うどん、饅頭、甘蔗(かんしよ)の莖、地栗(デリイ)! さう云ふ食物店(くひものみせ)の間には、玩具屋や雜貨屋も店を出してゐる。人出も勿論非常に多い。が、上海と違ふ事は、これ程ぞろぞろ練(ね)つてゐる中に、殆(ほとんど)洋服の見えない事である。のみならず場所も廣いせゐか、何だか上海のやうに陽氣でない。華やかな靴下が並べてあつても、韮(にら)臭い湯氣が立つてゐても、いや、漆のやうに髮が光つた、若い女が二三人、鶸色(ひわいろ)や薄紫の着物の尻をわざと振るやうに歩いてゐても、何處か鄙びた寂しさがある。私は昔ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時も、こんな氣がしたのに違ひないと思つた。
その群集の中を歩いて行つたら、突きあたりに大きい御堂(おだう)があつた。これも大きい事は大きいが、柱の赤塗りも剥げてゐれば、白壁も埃にまみれてゐる。その上參詣人もこの堂へは、たまに上つて來るばかりだから、一層荒廢した感じが強い。中へはいるとべた一面に、石版だの木版だの肉筆だの、いづれも安物の懸け軸が、惡どい色彩を連ねてゐる。と云つても書畫の奉納ぢやない。皆新しい賣物である。店番は何處にゐるのかと思つたら、薄暗い堂の片隅に、小さい爺さんが坐つてゐた。しかしこの懸け物の外には、香花は勿論尊像も見えない。
堂を後へ通り拔けると、今度は其處の人だかりの中に、兩肌脱ぎの男が二人、兩刀と槍との試合をしてゐた。まさか刄(は)はついてもゐるまいが、赤い房のついた槍や、鉤(かぎ)なりに先の曲つた刀が、きらきら日の光を反射しながら、火花を散らして切り結ぶ所は、頗(すこぶる)見事なものである。その内に辮子(ベンツ)のある大男は、相手に槍を打ち落されると、隙間もない太刀先を躱(かは)し躱し、咄嗟に相手の脾腹を蹴上げた。相手は兩刀を握つた儘、仰向けざまにひつくり返る、――と、まはりの見物は、嬉しさうにどつと笑ひ聲をあげた。何でも病大蟲薛永(びやうだいちうせつえい)とか、打虎將李忠(だこしやうりちゆう)とか云ふ豪傑は、こんな連中だつたのに相違ない。石段の上に、彼等の立ち廻りを眺めながら、大いに水滸傳らしい心もちになつた。
水滸傳らしい――と云つただけでは、十分に意味が通じないかも知れない。一體水滸傳と云ふ小説は、日本(にほん)にも馬琴の八犬傳を始め、神稻水滸傳(しんとうすゐこでん)とか本朝水滸傳とか、いろいろ類作が現れてゐる。が、水滸傳らしい心もちは、そのいづれにも寫されてゐない。ぢや「水滸傳らしい」とは何かと云へば、或支那思想の閃きである。天罡地煞(てんこうちさつ)百八人の豪傑は、馬琴などの考へてゐたやうに、忠臣義士の一團ぢやない。寧(むしろ)數の上から云へば、無賴漢の結社である。しかし彼等を糾合(きうがふ)した力は、惡を愛する心ぢやない。確(たしか)武松(ぶしよう)の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは嚴密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、區區たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善惡を脚下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れてゐる。模範的軍人たる林冲(りんちゆう)も、專門的博徒たる白勝(はくしよう)も、この心を持つてゐる限り、正に兄弟だつたと云つても好(よ)い。この心――云はば一種の超道德思想は、獨り彼等の心ばかりぢやない。古往今來(こわうこんらい)支那人の胸には、少くとも日本人に比べると、遙に深い根を張つた、等閑に出來ない心である。天下は一人(にん)の天下にあらずと云ふが、さう云ふ事を云ふ連中は、唯(ただ)昏君(こんくん)一人(にん)の天下にあらずと云ふのに過ぎない。實は皆肚(はら)の中では、昏君一人の天下の代りに彼等即ち豪傑一人(にん)の天下にしようと云ふのである。もう一つその證據を擧げれば、英雄頭(かうべ)を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある。神仙は勿論惡人でもなければ、同時に又善人でもない。善惡の彼岸に棚引いた、霞ばかり食ふ人間である。放火殺人を意としない豪傑は、確にこの點では一囘頭(くわいとう)すると、神仙の仲間にはいつてしまふ。もし譃だと思ふ人は、試みにニイチエを開いて見るが好い。毒藥を用ゐるツアラトストラは、即ちシイザア・ボルヂアである。水滸傳は武松が虎を殺したり、李逵(りき)が鉞(まさかり)を振廻したり、燕青(えんせい)が相撲をとつたりするから、常人に愛讀されるんぢやない。あの中に磅礴(ほうはく)した、圖太い豪傑の心もちが、直に讀む者を醉はしめるのである。………………
私は又武器の音に目を見張つた。あの二人の豪傑は、私が水滸傳を考へてゐる内に、何時か一人は青龍刀を、一人は幅の廣い刀をふり上げながら、二度目の切り合ひを始めてゐる。――
[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。私は「江南游記」の中でも、本篇が殊の外、気に入っている。それはここで語られる芥川の「善悪の彼岸」、豪傑の哲学に魅せられるからである。私は今の中国や中国人の中に、連綿と続くこの「力」を感じるし、それに一種の羨望さえ抱いていると言ってもよいのである。なお、本篇には沢山の「水滸伝」中の人物が登場するが、私はまともに「水滸伝」を読んだことがなく、ドラマ等も完全に通して見たことはない。そのため、それらの登場人物の事蹟については、大々的にウィキの「水滸伝」関連の記載を参照させて頂いた(その際、一部の難解な漢字に私が振ったことが分かるように《 》で読みを補った箇所がある)。なるべく芥川の叙述と関わる内容を心掛けたため、恣意的な一部の引用になっていることをお断りし、また、ここで美事な解説をなさっているウィキの執筆者の方々に心から敬意を表するものである。
・「玄妙觀」西晋の咸寧年間(275~280)に創建された道教寺院。但し、玄妙観という呼称は元代以降のもの(それまでは真慶道院)。明の1371年に道教の聖地として興隆し、盛時は建物三十数棟、敷地面積4haに達したと言われる。太平天国の乱等により、多くの建物・文物の損壊と修復を繰り返したが、宋から清にかけての道教文化を伝えるものとして、また長江以南に現存する最大の建築群として、現在、全国重点文物に指定されている(以上と以下の「大きい御堂」の注は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「玄妙観」の記載を参照した)。
・「上海の城隍廟」中国の民間信仰である道教の土地神たる城隍神を祀るための廟所。上海城隍廟(俗に老城隍廟)は現在の黄浦区南部の豫園及びその商店街に隣接した地に建つ。芥川龍之介「上海游記」の「七 城内(中)」を参照。
・「甘蔗」イネ目イネ科サトウキビSaccharum officinarumのこと。
・「地栗(デリイ)」“dìlì”は水生多年草の単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属クワイ(慈姑)Sagittaria trifolia。「地栗」は上海での呼び名で、中日辞書ではクワイはやはり「慈姑」で、拼音(ピンイン)は“cígū”、「ツク」である。
・「鶸色」黄緑色。スズメ目アトリ科カワラヒワ属マヒワ(真鶸)Carduelis spinusの羽の色の連想から名づけられた色名。
・「ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時」Pierre Lotiピエール・ロティはフランスの海軍士官にして作家であったLouis Marie-Julien Viaudルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(1850~1923)のペンネーム。艦隊勤務の中、彼は明治18(1885)年と明治33(1900)年の二度の来日しているが、ここで言う彼の浅草観音来訪の様子は、明治18(1885)年の体験を元にした1889年刊の“Japoneries d'automne”「秋の日本的なるもの」の「江戸」の章にある。
・「大きい御堂」玄妙観の主殿である三清殿。南宋の1179年の造立、設計は著名な北宋の画家趙伯駒(ちょうはくく)。神田由美子氏の岩波版新全集注解では、『中国最古最大の御堂』であるとする。
・「辮子(ベンツ)」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。
・「病大蟲薛永」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「薛永」によれば、渾名の「病大蟲」とは「病」が『顔色が薄黄色い事、またはそれに『~匹敵する』という意味。大虫とは虎の事である。没落武官の孫で、槍棒の使い手』であったが、その演武を見世物にした膏薬売りに身を落としていたところを、宋江に見出される。
・「打虎將李忠」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李忠」によれば、渾名の打虎将とは虎殺しの意で、棒術の使い手であった。薛永同様、『膏薬売りなどをしつつ、各地を放浪していた』が、魯智深との縁で入山する。
・「神稻水滸傳」文政12(1829)年より明治14(1881)年頃まで刊行され続けた読本。28編140冊。岳亭定岡(がくていさだおか:五編迄)・知足館松旭(ちそくかんしょうきょく:五編以降)作、岳亭定岡他画。「水滸伝」を室町時代の結城合戦(ゆうきがっせん:永享12(1440)に関東で勃発した室町幕府に対して結城氏を中心とした豪族が起こした反乱)に翻案したもの。正しくは「俊傑神稲水滸伝」。
・「本朝水滸傳」安永2(1773)年に建部綾足(享保4(1719)年~安永3(1774)年)が死の前年に発表した、「水滸伝」を換骨奪胎するとともに日本史をも改変した伝奇小説の先駆的作品。
・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。
・「武松」行者武松(ぎょうじゃぶしょう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人であり、また「金瓶梅」等にもスター・システムのように登場する一種の侠客である(渾名は修行者の格好をしていることから)。「金瓶梅」では人食い虎を退治し都督となり、最後のシーンでは兄を殺した主人公ら西門慶・潘金蓮を小気味よく惨殺する。「水滸伝」では、その後に自首した彼が、巡り巡って憤怒から再び大量殺人を犯して逃亡する内に、魯智深ら梁山泊の仲間となっている。京劇では豪傑にして義人として描かれ、その立ち回りが人気のキャラクターである。なお、「水滸伝」では林冲の死を見取り、80歳で天寿を全うしたことになっているが、浙江工商大学日本文化研究所のHP「中国の日本研究」の王勇氏の「《水滸伝の文化誌》 第十六回 武松の墓を再訪して」に、筆者の幼少の頃に聴いた話として、『湧金門の水城を攻めるとき、両腕を失った武松は杭州を放浪中、宿敵に遭遇して両足を切り取られ、「瓢箪人間」となり、西湖に身を投げて命を絶ったそうである。また一説では、四肢を失った武松は魯智深の手を借りて、惨めな生涯を閉じたとも言われる。『水滸伝』とは逆に、武松は魯智深より先に逝ったことになる』という興味深い伝承を伝えている(「湧金門」は「十二 靈隠寺」の同注参照)。
・「區區たる」小さくてつまらないさま。
・「糾合」ある目的のために人々を寄せ集め、纏めること。
・「林冲」豹子頭林冲(ひょうしとうりんちゅう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。渾名はヒョウのように鋭く勇猛な顏の意。梁山泊中、武芸はトップクラス、槍棒を得意技とする。ウィキの「林冲」によれば、『首都開封で禁軍の教頭として妻と暮らしていたが、その妻を上司である高俅《こうきゅう》の養子、高衙内《こうがない》に横恋慕されてしまう。林冲の親しい友人であった陸謙らの協力を得て高衙内は夫人に迫るが、間一髪の所で林冲に見破られ未遂に終った。しかし、それを知った高俅により罠に嵌められ、滄州へ流罪となった。護送中に命を狙われるが魯智深により助けられる。流刑先では柴進《さいしん》の世話になり、まじめに刑に服していたが、開封から陸謙らに命を狙われ、彼らを返り討ちにして逃亡する』という生涯の前段を見ても、芥川の言うように高潔な軍人である。妻との悲恋のエピソード等、日本人にはその悲劇性故に人気が高い人物である。
・「白勝」白日鼠白勝は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「白勝」によれば、「白日鼠」という名は『昼間からこそこそつまらない悪さばかりしていたのでこの渾名がついた。この威厳の無い渾名通り非力で、これと言った特技も』ない上に、官憲に捕縛されて同賊の名前を自白する等、芥川が言うところの「専門的博徒」=『博打好きのチンピラ』として『席次は梁山泊でも最下位に近い人物だが』、芥川が「九 西湖(四)」で取り上げた『「智取生辰綱」《ちしゅせいしんこう》という、有名な場面で重要な役回りを演じた男であり、また使い走りとしては非常に良く働き、時たま思わぬ手柄を立てる事もあるので意外と出番は多く読者認知度もかなり高い』(「智取生辰綱」の内容については「九 西湖(四)」の「阮小二」の私の注を参照されたい)。そのウィキに記された演技力や奇策を見るに、決してただの『博打好きのチンピラ』とは思われない。
・「昏君」道理に暗い主君。愚かな君主。
・「英雄頭を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある」筑摩全集類聚版は出典未詳とし、神田由美子氏の岩波版新全集注解は注としてさえ挙げていないが、これは北宋の詩人・書家として「詩書画三絶」と讃えられた黄庭堅の「絶句」の結句である。
絶句
半竿春水一蓑煙
抱月懐中枕斗眠
説與時人休問我
英雄囘首即神仙
○やぶちゃんの書き下し文
半竿(はんかん)の春水 一簑(りふ)の煙(えん)
月を懐中に抱きて 斗に枕して眠る
説與(せつよ)す 時人(じじん) 我に問ふを休せよ
英雄 首(かうべ)を囘らせば 即ち神仙
○やぶちゃんの現代語訳
竿(さお)半分 春まだ浅き川流れ 粗末な蓑の一つきり 霞の中の小舟の上(へ)
さても月を 懐に抱きしめて 北斗を枕に 一眠り
言っておきたいことがある――世の者たちよ この儂(わし)に 訊いてくれるな
英雄の そっ首 ぐるりと回したら あらら 見る間に 即 神仙――
黄庭堅(1045~1105)は、字は魯直、号は山谷。23歳で進士に登第、地方官を経て国史編修官となったが、王安石(1021~1086)ら新法派(財政・軍事・農業・教育行政に及ぶ改革派)と対立し、四川の辺境に流謫されて没した。蘇門四学士(張耒(ちょうらい 1054~1114)・晁補之(ちょうほし 1053~1110)・秦観(1049〜1100))中の第一、蘇軾は弟子としてではなく友人として接したという。因みに、宋の釈恵洪(しゃくえこう 1071~1128)はその著「冷斎夜話」(見聞雑記であるが多くは詩話)で黄庭堅の言葉として「然不易其意、而造其語、謂之換骨法。窺入其意、而形容之、謂之奪胎法。」(然るに其の意を易へずして、而して其の語を造る、之れ、換骨法と謂ふ。其の意を窺ひ入れて、而して之を形容す、之れ、奪胎法と謂ふ。)を引く。これこそが、芥川文学の核心を成すところでもある、「換骨奪胎」の語源である。
・「シイザア・ボルヂア」Cesare Borgiaチェーザレ・ボルジア(1475~1507)はイタリアルネサンス期の専制君主。枢機卿からロマーニャ公となり、権謀術数をもって支配領域を拡大したが、父であった教皇Alexander VIアレクサンドロ6世(1431~1503 Rodrigo Borgiaロドリーゴ・ボルジア)の死とともに失脚した。弟妹の暗殺疑惑やボルジア家秘伝の毒と呼ばれた“Cantalera”「カンタレラ」(かつて屍毒とされたが、現在は一種の細菌毒と考えられている)による政敵の毒殺等、私には芥川の言わんとするようなピカレスクなロマン性よりは、異常なサディスト・殺人嗜好症の変質者の印象が強い。
・「李逵」黒旋風李逵は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李逵」によれば、『二挺の板斧(手斧)を得意と』し、そのすばしっこさと荒々しい強さに加えて、『色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ば』れた。『怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。』『一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない』ため、なついて尊崇する宋江等からも『叱責を買うことも多い』。ある意味、『破茶滅茶で失敗も多いが憎めない部分もあるトリックスター的存在で、この手の破壊的快男子が喝采を浴びる中国では群を抜く人気を誇っている。しかし日本ではあまりに行動が短絡的で、無節操に人を殺すせいか辟易する読者も多く、好き嫌いがはっきり分かれる人物のようである』とある。その宋江との意外な別れは魅力的であり、『死後も徽宗《きそう》の夢の中に現れ奸臣にいいように騙された事を罵って斬りかかったり』するなど、如何にも芥川好みのプエル・エテルヌス・ピカレスクではある。
・「燕青」浪子燕青(ろうしえんせい)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「燕青」によれば、渾名の浪子は『伊達者を意味』し、『年齢は登場時で22歳と、時期的に考えて梁山泊でも最年少の部類に入る。体格は小柄で細身、色白で絹のような肌を持った絶世の美青年。全身に見事な刺青を入れている。多芸多才な人物で弩《いしゆみ》の腕は百発百中、小柄ながらも相撲(拳法)の達人であり肉弾戦も強い。また遊びや音楽、舞踊等の芸事、商売人の隠語や各地の方言にまで精通している。頭の回転も非常に速く、ここぞというときに機転を利かせることができる。また、粗暴なことで知られる李逵を制御する事ができ「天才」といっても過言ではない人物である。故に人気は非常に高い』。『梁山泊の朝廷への帰順の最大の功労者となった』が、最後には不思議な蒸発をする。この若衆も、その消え方といい、芥川はしびれたに違いない。
・「磅礴」は「旁礴」「旁魄」とも書く。混ぜて一つとすること、の意と、広く満ちて限りないさま、の意があるが、ここは渾然一体となって、水滸伝世界に遍く広がっている、というダブルの意を示していよう。]
十五 蘇州城内(下)
孔子廟へ來たのは日暮れ方だつた。疲れた驢馬に跨りながら、敷石の間に草の生えた、廟前の路へさしかかると、寂しい路(みち)ばたの桑畑の上に、薄白い瑞光寺の癈塔が見える。塔の一層一層に、蔦蘿(つたかつら)や草の茂つたのも見える。その空に點點と飛び違ふ、この邊(へん)に多い鵲(かささぎ)も見える。私は實際この瞬間、蒼茫萬古(さうばうばんこ)の意とでも形容したい、哀れにも嬉しい心もちになつた。
この蒼茫萬古の意は、幸ひにずつと裏切られなかつた。門外に驢馬を乘り捨てた後(のち)、路も覺束ない草の中を行けば、暗い柏や杉の間に、南京藻の浮んだ池がある。と思ふと池の縁(ふち)には、赤い筋の帽子の兵卒が一人、蘆や蒲を押し分けながら、叉手網(さであみ)に魚(うを)を掬つてゐる。此處は明治七年に再建(さいこん)されたとは云ふものの、宋の名臣范仲淹(はんちゆうえん)が創(はじ)めた、江南第一の文廟である。それを思へばこの荒廢は、直に支那の荒廢ではないか? しかし少くとも遠來の私には、この荒廢があればこそ、懷古の詩興も生ずるのである。私は一體歎けば好(よ)いのか、それとも又喜べば好いのか?――さう云ふ矛盾を感じながら、苔蒸した石橋(いしばし)を渡つた時、私の口には何時の間にか、こんな句がかすかに謳はれてゐた。「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」但しこの句の作者は私ぢやない。北京にゐる今關天彭(いまぜきてんぽう)氏である。
黒い禮門を通り過ぎてから、石獅(せきし)の間を少し歩むと、何とか云ふ小さい通用門がある。その門を開けて貰ふ爲には、青服(あをふく)の門番の上(かみ)さんに、二十錢銀貨をやらなければならない。が、その貧しさうな上さんが、痘痕(あばた)のある十ばかりの女の子と一しよに、案内に立つ所は哀れである。我我は彼等の後から、毒だみの花だけ仄白(ほのしろ)い、夕濕りの敷石を踏んで行つた。敷石の盡きる所には、戟門(げきもん)と云ふのだらう、大きい門が聳えてゐる。名高い天文圖や支那全圖の石に刻まれたのも此處にあるが、あたりに濡つた薄明りでは、碑面もはつきりとは見る事が出來ない。唯その門をはいつた所に、太鼓や鐘が並んでゐる。甚しいかな、禮樂の衰へたるや。今考へると滑稽だが、私はこの埃だらけの、古風な樂器を眺めた時、何だかそんな感慨があつた。
戟門の中の石疊みにも、勿論茫茫と草が伸びてゐる。石疊みの南側には、昔の文官試驗場だつたと云ふ、廊下同樣の屋根續きの前に、何本も太い銀杏がある。我我は門番の親子と一しよに、その石疊みのつきあたりにある、大成殿(たいせいでん)の石段を登つた。大成殿は廟の成殿だから、規模も中中雄大である。石段の龍、黄色(きいろ)の壁、群青に白く殿名を書いた、御筆(ぎよひつ)らしい正面の額――私は殿外を眺めまはした後、薄暗い殿内を覗いて見た。すると高い天井に、雨でも降るのかと思ふ位、颯颯(さつさつ)たる音(おと)が渡つてゐる。同時に何か異樣の臭ひが、ぷんと私の鼻を打つた。
「何です、あれは?」
私は早速退却しながら、島津四十起氏をふり返つた。
「蝙蝠(かうもり)ですよ、この天井に巣を食つてゐる。――」
島津氏はにやにや笑つてゐた。見れば成程敷き瓦の上にも、一面に黑い糞が落ちてゐる。あの羽音を聞いた上、この夥しい糞を見れば、如何に澤山の蝙蝠が、梁間の暗闇に飛んでゐるか、想ふだに餘り好(よ)い氣味はしない。私は懷古の詩境からゴヤの畫境へつき落された。かうなつては蒼茫どころぢやない。宛然(ゑんぜん)たる怪談の世界である。
「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」
「何、蝠(ふく)と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶものです。」
驢背(ろはい)の客となつた後、我我はもう夕靄の下りた、暗い小道を通りながら、こんな事を話し合つた。蝙蝠は日本でも江戸時代には、氣味が惡いと云ふよりも、意氣な物だと思はれたらしい。蝙蝠安(かうもりやす)の刺青(ほりもの)の如きは、確にその證據である。しかし西洋の影響は、何時の間にか鹽酸のやうに、地金(ぢがね)の江戸を腐らせてしまつた。して見れば今後二十年もすると、「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」の唄には、ボオドレエルの感化があるなぞと、述べ立てる批評家が出るかも知れない。――驢馬はその間も小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新緑の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる。
[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。ここまで入れ込んで注を附していると、不思議なことが起こるものだ。私は西湖に行ったことがないのに、眼をつぶってもその略図が書けるようになり、その半ば淀んだアオコの水の生臭い匂いがし、擦れ違う中国人の鮮やかな服が思い出せる。そうして遂には「小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新緑の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる」驢馬に跨った華奢な芥川をドキュメンタリーで撮影しているカメラマンである自分が実感されるのである。
・「孔子廟」蘇州文廟とも。宋の1035年に教育行政の一環として蘇州知事范仲掩によって創建された江南最大の孔子廟である。現在は廟内にある蘇州碑刻博物館としての肩書の方が知られ、儒学・経済・孔廟重修記碑等多数が展示されている。芥川が見えないことを嘆いたのはその目玉である「平江図碑」(1229)・「天文図碑」(1247)・「地理図碑」(1247)・「帝王紹運図碑」(1247)の四大宋碑である(主に松倉大輔氏の「旅で出会った文物たち 第六回 蘇州をゆく」の記載を参照した)。
・「瑞光寺の癈塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。ここで芥川が「癈塔」と表現している(「十三 蘇州城内(上)」では『名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)』とあったのだが)のは、芥川が見た時は、「重修に重修を重ねた」ものが以下に描出されるように、羅生門の如く相当に荒廃していたということを指している。
・「蔦蘿」「蘿」も、つた・かずらの意。
・「鵲」スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラスとも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島では極一般的な鳥である。
・「蒼茫萬古」。目に見えない何ものかが無限の彼方まで広がっているさまが、永遠に続く時の中にあること。限定を超越した永遠無限の時空間認識、その感懐を言う語。
・「南京藻」他の作品でもそうだが芥川がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目Chroococcales・プレウロカプサ目Pleurocapsales・ユレモ目Oscillatoriales・ネンジュモ目Nostocales・スティゴネマ目Stigonematales・グロエオバクター目Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属 Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属Anabaenaや同目のアナベノプシス属Anabaenopsisであるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属Chlamydomonas等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。
・「叉手網」2本の竹木を交差させて袋状に網を張り、魚を掬い採る漁具。
・「明治七年」1874年。清の同治13年。
・「范仲淹」(989~1052)は北宋屈指の名臣。蘇州出身で、辺境をよく守備して西夏の侵入を防いだ。名文「岳陽楼記」中、理想的な為政者の在り方を示した「先憂後楽」は特に知られる故事成句である。1104年にこの孔子廟(蘇州文廟)を建立している。
・「文廟」一般名詞としての孔子廟のこと。
・『「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」』は、
○やぶちゃんの書き下し文
言ふを休めよや 竟(つひ)に是れ 人の家國(か