耳嚢 根岸鎭衞 ≪作業中≫
注記及び現代語訳 copyright 2009 Yabtyan
【最終更新2009年12月5日 10:47】
[やぶちゃん注:底本は三一書房1970年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。カリフォルニア大学バークレー校で発見された完本による1991年刊の岩波文庫版「耳嚢」が最良本であるが、これは新字を採用しているため、原則、読みの参考に止めた(大幅にそちらを採用した場合には、それぞれの箇所で注記するものとする)。底本には殆んどルビがないが、難読語及び読みに迷うと思われるものについては、歴史的仮名遣で読みを附した。割注は【 】で示した。各篇の後に□私のオリジナルな注及び■現代語訳を附した。ルビ・注・現代語訳に際しては、底本の鈴木棠三氏の補注及び1991年刊の岩波文庫版「耳嚢」の長谷川強氏の注を一部参考にさせて頂き、引用した場合はそれぞれ明記してある。現代語訳では自在な面白さのある訳を心懸けたため、敷衍や意訳部分も多い。そうした脱線部分は、なるべく注と比較すれば本線が見えるようにしたつもりである。会話文(直接話法及びそれに準ずる心内語)や一部の語句は読み易さを考えて改行した。また、私の判断で適宜、段落や空行も設けてある。最後に、本作には明白な身分差別や障害差別を示す語句及び表現が現れるが、それを現代語訳では基本的にそのまま用いている。しばしば行われる現代の差別用語言い換え語で処理するようなことはしていない。それは非文学的であり、また「言葉狩り」=差別撤廃という短絡的志向に対して私が批判的立場をとるからである。それについてはここで議論することではない。何よりも読者各自が批判的視点から自律的に読むことが大切である(それが差別語であることの注意を喚起すべきと判断した場合は、注記でそれを示した)。各話の間には底本にはない「* * *」を挟んだ。
筆者である根岸鎮衛(ねぎししずもり 元文2(1737)年~文化12(1815)年)は江戸の旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦8(1758)年22歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い(「耳嚢」にはそうした実働での見聞を覗かせる話柄もある)、浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明4(1784)年に佐渡奉行として現地に在任、天明7(1787)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年12月には従五位下肥後守に叙任、寛政10(1798)年に南町奉行となり、文化12(1815)年まで終身、在職した。
底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」(みみぶくろ)の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、没する前年、文化11(1814)年迄の実に30年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から、
「巻之一」の下限は天明2(1782)年春まで
「巻之二」の下限は天明6(1786)年まで
「巻之三」は前2巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「巻之四」の下限は寛政8(1796)年夏まで(寛政7年の記事の方が多い)
「巻之五」の下限は寛政9(1797)年夏まで(寛政9年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「巻之六」の下限は文化元(1804)年7月まで(但し、「巻之三」のように前2巻の補完的性格が強い)
「巻之七」の下限は文化3(1806)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「巻之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「巻之八」の下限は文化5(1808)年夏まで
「巻之九」の下限は文化6(1809)年夏まで
(ここで900話になったため鎮衛は擱筆としようと考えたが、「十巻千条」の宿願止みがたく、4~5年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「巻之十」の下限は死の前年文化11(1814)年6月まで
といった凡その区分を推定され、全体を、
巻之一~巻之三
巻之四~巻之六
巻之七~巻之九
巻之十
の4期に分けることが出来るとしておられる。
ネット上には「耳嚢」の纏まった原典テクストは現在、存在しない。また現代語訳サイト(原典はなし)としては老舗の画期的な労作「耳袋」があるが、このHPは2003年以降更新されておらず、現代語訳も巻之五の96話目で途絶えたきりである。かつて「耳袋」の定期配信メルマガを親しく購読させて頂いた縁もあり、ライバルながら、半ばまで来ておられる訳業の再復活と完成をお祈りしたい。また、第五巻迄を現代語で平易に読みたい向きには最上のサイトである(語釈はリンク切れしているようである)。但し、この方の現代語訳には分かり易さを主眼にしたやや意訳に過ぎる飛躍部分や、国語教師としての私には看過出来ない誤訳と思われる箇所もあり、ライバル故にこそ、私の訳はこの方の現代語訳を全く参考にしていない。それは数少ない私の公開分を対照して頂ければ、お分かり戴けるものと思う。
なお、本篇全体に亙って、現在の人道上の観点からは問題とされる差別的な言辞がしばしば出現する。私にとって無視出来ない該当部分には私なりの注を附しはするが、本質的にはお読みになる各自が批判的視点を持って向かわれることこそが肝要であるというのが私の立場であり、現代語訳にあっては特に不自然な言い換えを行わないことをここに表明しておく。
本頁は2009年9月22日始動したばかりで、鈍重老弱病躯創痍の私の作業は遅々として進まぬものと御理解頂きたい。しかし、せめて怪奇談蒐集フリーク根岸鎭衛の御跡を拝せんがためにも、全10巻全1000条を成し遂げたいという不遜な望みは、確かに、あるのである――]
耳嚢 卷之一
禪氣狂歌の事
芝邊に柳屋何某(なにがし)といへる打物商せる者有しが、禪學を好み家業の間には專ら修業し侍るよし。或日遍參の僧柳屋が見世に來て、並べ有し打物をあれ是見て、一ツの毛拔を手に取りて、此毛ぬきはくふべきやと尋ければ、柳や憤りけるや又は禪僧故兼て嗜む禪氣にや、答て、其毛拔本來空と有ければ、流石禪僧言下に、
空ならばたゞ紅ゐのはな毛拔柳が見せは見取也けり
と一首の狂歌を詠じ、右毛抜を持立去りけるとなん。
□やぶちゃん注
・禪氣狂歌の事:禅僧が修行者等に対して放つ、独特の鋭い一言や悟達を促すための動作を「禅機」と称し、禅の無我の自在な境地から出る働きを言うが、ここはそれに引っ掛けて、禅機染みた、禅の好事家らしい味な狂歌一首に纏わる一エピソード。何ゆえ、これを「耳嚢」の巻頭に配したか定かではないが、町人と行脚僧の、丁丁発止が、次で実際の丁丁発止の槍試合にモンタージュしてゆく様は快い。また「耳嚢」は決して武辺の講談にあらざるを示さんがための配役とも思われる。
・芝:現在の東京都港区。当時は豊島郡柴村。
・打物商:金属を打ち鍛えたり延ばしたりして作った刃物や金物を商売した店。
・くふ:しっかりと間に挟む。
・本來空:禅家の核心概念で、先の禅機や公案の常套句の一つである。万物の実質・実在等といったものはもともとマテリアルな実態把握の可能ものではない、一切空である、の意。勿論、「空」は毛を「くう」(食う・喰う)に掛けてある。
・空ならばたゞ紅ゐのはな毛拔柳が見せは見取也けり:「花は紅柳は緑」といった語句は、あるがままに存在し、そのために在るといった意味でやはり禅家の公案等で好まれる語である。ここはその「紅の花」に、「ただ(で)くれ」る「はな(毛抜き)」の意を、更に「緑」=「みとり」を、「柳」屋の店先で「見取り」=「自由に品物を見て好きなものを選び取る」の意に掛けてある。
やぶちゃんの解釈:総ては空だと、言うのであらば、タダで呉れりょう、鼻毛抜き。柳は緑、店は見取り――ああら、あらあら、めでたやな!
■やぶちゃん現代語訳
禅臭芬々たる狂歌の事
芝の辺りに柳屋何某といった金物商いを生業(なりわい)とする者があったが、その柳屋何某という主人、これが商人にも似合わず禅を齧ることを甚だ好み、家業の合間には専ら禅の書を読み耽り、実際に座禅なども致しておったようで御座る。
さて、ある日のこと、一人の行脚の禅僧が、この柳屋の店先にやって参り、店頭に並べてあった打ち金物をさんざんぱら見た上、仕舞いには、一本の毛抜きを手に取ると、
「この毛抜きは、ちゃんとくうんかね?」
と訊ねた。柳屋は商売物にさんざん手油を付けられた上に、商品にケチを付けられたと思って怒ったのか、はたまた、相手を傲岸な禅僧と見て取り、兼ねてより嗜んでおる禅の機をそこに見出したのか、すかさず答えて、
「その毛抜き、本来、空!」
とやらかしたところ、流石、禅僧、たちどころに、
空ならばただくれないのはな毛抜き柳がみせは見取りなりけり
という一首の狂歌を吟じると、その毛抜きを手にしたまま悠然と立ち去ってしまった、ということで御座る。
* * *
下風道二齋が事
道二齋は寶藏院の末弟子にて、鎗術修練、大猷院(だいいふゐん)樣の達御聽に、被爲召(めさせられ)於御前に、其此浪人にて素鑓(すやり)の達人一同に試合被仰付候節、御前にての儀故、高股立(たかももだち)并に懸聲等制止の儀御側向より沙汰有之、双方畏候旨にて立合故、勝負に望て、素鎗の浪人は右制止に隨ひ、道二齋は高股立にて懸聲も十分にいたしける故、御近邊より時々制止有之候得共不相用、難なく道二齋勝に成ければ、跡にて右制止を不用譯御尋有しに、道二齋愼で、御尋の趣御尤に奉存候。隨分共相愼み候存心(ぞんしん)には候得共、勝負に望みてはやはり稽古の心にて十分に藝を盡し、御前をも不恐樣に相成、制止を不用には無之、右不屆を以如何樣被仰付侯共是非に及び不申趣御答におよびければ、大猷院樣にも尤に被思召、殊の外御賞美にて、下風は名人の由上意有て御褒美被下けると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:滑稽な前項の禅気を、槍術師下風道二斎の一期一会の試合に臨む意気込みの中に見ている。庶民の「打物」から武辺の「槍」へ。言葉の丁丁発止が槍の丁丁発止へ。
・「下風道二齋」は「おろしだうにさい」と読む。下石(おろし)平右衛門三正。始め山田瀬兵衛と称して宝蔵院流二世胤舜(いんしゅん)に鎌鎗術を学ぶ。松平家に仕えた後、江戸に出て下石道二と称し、無敗の鎗術師として知られた。槍術であってみれば、槍遣いの際のブウンブンという音から「下風」とも名乗ったのであろうか。
・「寶藏院」江戸前期の僧にして武道家であった胤舜(天正17(1589)年~正保5(1648)年)のこと。奈良興福寺の子院宝蔵院の院主であったからこう言う。宝蔵院流槍術の十文字鎌槍の完成者。宮本武蔵との手合せでも知られる。
・「大猷院」三大将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。
・「達御聽に」は「御聽(おきき)に達し」と読む。
・「於御前に」は「御前に於て」と読む。
・「素鑓」槍の穂先が真っ直ぐな通常の槍。穂の形状により十文字槍・鎌槍等の別種がある。
・「高股立」動きやすくするために袴の股立ちを高く取って素足をむき出しにすること。また、その姿を言う。
・「御側向」は「おそばむき」と読む。将軍の側近、近習。
・「勝負に望て」底本では「望」の右に「(臨)」と注している。
・「存心」心中に正しく正に思うところ。考え。
・「是非に及び不申趣」の後半は「申さざる趣(おもむき)」と読み、「異義は御座らぬという趣旨の」という意。
■やぶちゃん現代語訳
下風道二斎のこと
下風道二斎は、かの槍術の祖、宝蔵院胤舜の最後の弟子であって、その槍術の修練の神技が、大猷院家光様のお耳に達して、御前に召され、当時、素槍の達人の呼び名が高かった浪人達なども一同に会し、試合の儀を仰せ付けられた。
さて、御前のこと故、高股立ちや掛け声など下品なる振る舞いは禁ずる旨、事前に御近習からお達しがあって、対戦する双方共に畏まって承知の上、立ち合いの段となった。
ところが、勝負が始まると、相手の浪人は先の禁に従って粛々とにじり寄ったが、道二斎はといえば、ざっと袴の裾を高くからげるや、遠慮会釈ないたっぷりとした大音声(だいおんじょう)を挙げて闘う始末。ために、大猷院様御付の者達が度々制止致いたが、道二斎は何処吹く風、あっという間に、難なく道二斎の勝ちと相い成った。
さて、試合の後、御近習の者を介して大猷院様より、何故に制止に従わざる、とのお尋ねがあった。すると道二斎は、畏まって平伏すると、
「お尋ねの儀、尤も至極と存じ上げ奉りまする。拙者も勿論、随分、お達し従い、慎み致さんとの誠心は御座ったのではありまするが、事、勝負に臨んでは、やはり、平素の稽古の一期一会の心を大切に致し、技芸の力を十全に尽くさんと致せし故に、御前であることをも恐れざるように相い成り申した。――方々の制止は聞き入れなかったのでは御座なく、その声も最早、耳に入らざればこその仕儀。――この度のこの不届き、如何様(よう)の御仕置仰せ付けられ候とも、是非に及ばず。」
との大猷院様へのお答えに及べば、大猷院様は、
「尤もなること。」
と思し召しになられ、殊の外、お褒め遊ばされた上に、
「下風(おろし)は正に名人なり!」
との上意のお言葉と共に褒賞を下賜された、とのことである。
* * *
小野次郎右衛門出身の事 附 伊藤一刀斎齋が事
伊藤一刀齋劍術弘めんと諸國修行せし折柄、淀の夜船にて大坂へ下りける。右船頭は力量勝れたる者にて、一刀齋木刀をたづさへたるを見て、御身は劍術にても修行し給ふや、劍術は人に勝道理なるべければ、我等が力にて普く劍術の達人にても叶ふべしとは思はず。手合致さるべくやといふ。一刀齋樣子を見るに、飽まで強剛に見へければ、如何とは思ひしが、迚(とて)も劍術修行に出、縱令(たとひ)命を果すとも辭退せんも本意(ほい)なしと、互に死を約束し陸にあがりけるが、船頭は械(かい)を片手に持て拜み打に一刀齋を打けるを、身をひらきはづしければ、力の餘りけるにや大地へ械を打込、引拔んとせし處を、木刀を以械を打落し諸手を押ければ、船頭閉口して弟子と成、隨身(ずいじん)し諸國を歩行(あるき)けるが、元來力量勝れし故、國々に於て立合の節も一刀齋は手を下さず、多分は右の者立合、いづれも閉口して門弟と成者も多しとかや。然れ共元來下賤の者にて、其上心ざま直(すぐ)ならざりし故、一刀常に閉口しけるを遺恨に思ひ侯と見へ、立合には叶はねど、夜陰旅泊りにて一刀齋が眠(ねむる)を見得ては付ねらひし事數度(すど)なれ共、一刀齋身の用心透間(すきま)なければ、空敷(むなしく)供して江戸表へ出けるとなり。然るに、將軍家より一刀齋を被召けれ共、同人儀は諸國修行の望(のぞみ)有之由(これあるよし)を以、御斷申上、門弟の内を御尋有ければ、小野次郎右衞門を吹擧(すいきよ)ありて、可被召出(めしいださるべき)に極(きはま)りける時、彼船頭大に恨み、我は最初より一刀齋に隨ひ倶に流儀を弘(ひろむ)る功有、此度、將軍家の御召に末弟の次郎右衞門を吹擧の事心外なり、辿も生て益なし、次郎右衞門と眞劍の試合を以生死を定度(たき)旨申ければ、一刀齋答て曰、其方儀最初より隨身の者なれ共、是迄度々我を付ねらふ事覺へあるべし、今生置(いかしおき)しは甚の恩德也、しかし次郎右衞門と生死を爭んは望に任すべし迚、次郎右衞門を呼て委細の譯(わけ)申談(まうしだんじ)、勝負可致旨申渡、頓(やが)て次郎右衞門へ傳授の太刀を免(ゆる)しければ、則(すなはち)立合の上、次郎右衞門が一刀の下に船頭露と消にけり。扨次郎右衞門は被召出て、尚又牢内に罪有劍術者を撰(えらま)れ、立合被仰付、是又次郎右衞門が妙術を顯しければ、千石にて被召出けるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:武辺名人譚。
・「附」は「つけたり」と読み、合わせてとか追加しての意。以下、多出するが注は省略する。
・「小野次郎右衛門」小野忠明(永禄12(1569)年又は永禄8(1565)年~寛永5(1628))のこと。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後にここに登場する兄弟子善鬼を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄2(1593)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。但し、底本の鈴木氏補注では、この記事の小野次郎右衛門・伊東一刀斎・将軍の人物には齟齬があることを指摘されており、この伊東一刀斎を召し出そうとした将軍が『家光を指すのであれば、家光に仕えたのは忠明の子忠常(寛文五年没)で』あるとし、更に、本文にあるように『小野家が千石を領した事実は、子孫にいたるまで』見られないとする。おまけに『忠常は家光の御前でしばしば剣技をお目にかけたが、その剣術は父から学』んだものであって、小野忠常自身は『一刀斎の門人ではない。』と記された上、『この種の武勇譚では』、話者も読者も話柄の武勇談自体の力学が肝心なのであって、『史実と矛盾する点はあっても看過され不問に付されることが多い。』といった主旨の注釈をしておられる。
・「伊藤一刀齋」(生没年不詳 「伊東」とも)一刀流剣術の祖でもある。底本の鈴木棠三氏の補注によれば、彼は寛永9(1632)年の家光の御前試合に召されたが、既に伊藤一刀斎は90歳を越えていたとする。
・「械」底本では横の「(櫂)」と注する。「械」は確かに音では「カイ」であるが(櫂の「かい」は訓)、全くの誤字。「械」は「かせ」で、刑具の手かせ足かせのことである。
・「今生置しは」岩波文庫版では「今迄生置(いけおき)しは」とある。
■やぶちゃん現代語訳
小野次郎右衛門出世の事 附 伊藤一刀斎の事
伊藤一刀斎が己が剣術の流儀を広めんがために諸国行脚をしていた折、淀の夜船に乗って大阪へ下ったことがあった。この夜船の船頭、相当な腕力の持ち主で、一刀斎が木刀を携えているのを見ると、
「貴殿は剣術でも修行しておられるんか? 剣術とは必ず人に勝つことを道理とするものであろうがほどに、――されど、儂の腕力(うでじから)には、如何なる剣術の達人だろうと、かなわねえと思うねえ。――さても、どうじゃ、一つ、お手合わせなさって見るかね?」
と言う。
それを聞いた一刀斎が男の様子を伺い見るに、いや、言うに劣らぬ強者(つわもの)に見えはし、その傲岸な物言いにも思うところがあったので、市井の者でもあり、如何したものかとも思ったが、
「そも、剣術修行に出でた身にありながら、たとえ命を落とすとも、誰(たれ)彼とて、挑まれた勝負を辞退するは本意にあらず。」
と言上げして、二人して死をも約定(やくじょう)致し、陸(おか)に上がったのであった。
船頭は櫂を片手に持つと、そのままさっと振り上げ、拝み打ちに一刀斎へと打ち込む――が、一刀斎は風のようにひらりと身をかわすと難なくその一太刀を外す――と、船頭は力余ってずぶりと深く櫂を地に打ち込む――と、それを引き抜かんとするころを、一刀斎はぱーんと木刀で櫂を打ち落とすと同時に、返すその木刀にて船頭の両腕をぐいと押さえた――そこで船頭は降参――爾来、この船頭は一刀斎の弟子となって同行二人、諸国を行脚することとった。
さてもこの男、生来、優れた臂力と才能の持ち主であった故に、諸国に於いての立ち合いの際にも、一刀斎は手を下すことなく、概ね、この男が師匠に代わって試合を受け、その勝負、いずれも相手は降参して、そのまま一刀斎門弟となった者も多かったということで御座る。
されど、この男、生来、身分卑しく、加えて、その性根も腐りきった人物であった。
不遜にも、かの大阪で一刀斎に降参したことを内心、ずっと遺恨に思うておったものと見え、流石に一対一の立ち合いではかなわない故、夜陰野宿や旅籠(はたご)に泊った折りなどには、一刀斎が眠るのを覗き見て待ち、隙を突いて狙わんとせしこと、度々であったが、一刀斎の用心には聊かの隙もなかったため、空しく供して江戸表へ出るに至った、ということである。
ところが、この折、将軍家より一刀斎召し抱えの儀、お声がかかったのであったが、一刀斎儀は、諸国修行を続くる望みこれある由を以ってお断り申し上げた。すると、なれば門弟の内には如何とのお訊ねがあったところ、一刀斎は迷わず小野次郎右衛門を推挙し、そのまま小野次郎右衛門の召し抱えが決した。その時、かの船頭は大いに恨んで、
「儂は、いの一番に一刀斎に従って、一緒に一刀流の流儀を広めた功績があるんだ。今回、将軍家召し抱えに、あろうことか末(すえ)の弟子の、あの次郎右衛門なんぞを推挙した事、心外の極みじゃ! とても今日只今、生きておる甲斐もないわ! 次郎右衛門との真剣勝負を以って生死を決せんと望まん!」
と一刀斎に詰め寄ったところ、一刀斎は答えて曰く、
「お主は確かに最初より随行の者なれど、これまで度々我が命をつけ狙ろうてきたこと、覚えがあろうほどに。今生(こんじょう)までお主を生かいておいたは、無上の慈悲じゃて。なれど、次郎右衛門と生死を決せんとするは、その望みに任せよう。」
と、次郎右衛門を呼び、事を談じた上、この兄弟子と勝負致すべき旨申し渡し、その場にて一刀斎秘伝の奥義一太刀の技を伝授した。
さればこそ、二人の立合い――それは一瞬にして終わった。次郎右衛門の一閃の下(もと)に船頭の命は、露と消えた。――
さて、次郎右衛門は召抱えられると、将軍はすぐにまた、当時、牢内に囚われていたあまたの剣術者の中からこれぞという兵(つわもの)をお選びになられ、その者たちとの立合いを仰せつけられたのであったが、これもまた、次郎右衛門は妙技を示して、悉く楽々と勝利を得た故に、何と一千石で召抱えが決まった、ということである。
* * *
小野次郎右衛門遠流の事 附 御免にて被召歸事
世に烏滸(をこ)の者ありて兩國の處に看板を出し、劍術無雙の者なり、誰にても眞劍を以て立向ひ可申、縱令(たとひ)切殺さるゝとも不厭(いとはざる)由を記。都鄙(とひ)の見物夥し。右の者を切得ずして彼が木刀にて仕付られし者は門弟と成て、專ら評判有しを次郎右衞門聞及て、斯るゑせ者を天下の御膝下に置ん事言甲斐なし迚(とて)、門弟を引連見物に行、棧敷にて右ゑせ者のなせる業を見て門弟一同微笑しけるを、彼者聞て大に怒り、何條(なんでう)笑ひ給ふや、既に看板を出し誰にてもあれ眞劍を以試合可致上(いたすべきうへ)は、笑ひ給ふ心あらば是非立合申されよとのゝしりければ、傍輩の者申は、あの棧敷なるは、將軍家の御師範次郎右衞門也と押留けれ共、聊不相用。縱令御師範たり共と申止らざれば、次郎右衞門も右の通嘲られては武備の恥辱、無據(よんどころなく)下へおりて、然る上は立合可遣(つかはすべし)とて鐵扇を以(もつて)被立向(たちむかはるる)時、ゑせ者は淸眼にかまへ唯一討と切付し故、あはやと思ふ内ゑせものが眉間(みけん)は鐵扇を以被打碎、二言となく相果けると也。此趣大猷院樣御聞に入、師範たる行状にあらずとて、遠流被仰付けるとかや。其後、嶋にて畑(はた)ものゝ瓜西瓜を盜喰ふ曲者ありて、右を捕んと嶋中の者集りけれ共、大勢に手を負せ、瓜小屋に籠り右小屋廻りには西瓜瓜の皮を並べ、捕手の者込入る時は、右瓜の皮上に上り身體自由ならざるを以、多人數死傷に及びける故、次郎右衞門方へ嶋の者共罷越、何分捕へ給候樣相歎ければ、次郎右衞門麁忽(そこつ)にも輕々敷(しく)脇差追取(おつとり)駈行しを、瓜の皮にて足場不宜(よろしからざる)由傍より申けれど、耳にも不懸駈行、果して瓜の皮に上り仰向に倒ければ、待設けたる曲者拜み打に打懸しを、小野派にて神妙となせる太刀の通ひ、辷りながら拔拂ひ上へ拂ひけるに、曲者の兩腕ははたと落ちける故、直(ぢき)に付入召捕りけるとかや。此趣江戸表へ入御聽(おききにいり)、被召歸、即時に元の禄を被下けると也。扨も次郎右衞門被召出ける時、大猷院樣思召にも、彼は遠流(をんる)にて暫く劍術の修行可怠、上(うへ)には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき思召にて、毛氈を敷、木刀を組合せ、いざ次郎右衛門可立合との上意也。次郎右衞門は謹て毛氈の端に手を付居たりけるを、上には唯一打と御振上げ御聲を懸られける時、毛氈の端を取、跡へ引ける故、上には後ろへ御ころび被遊ける。仍て、大猷院樣御信仰、一刀流御修行被爲在(あらせられ)けると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:同じく小野次郎右衛門の武辺名人譚。
・「小野次郎右衛門」前項「小野次郎右衛門出世の事」本文及び注参照されたいが、この記事は、少なくとも遠島以降の話は事実に反する。底本の鈴木氏補注では、小野忠常には、このような失策はなかった旨記載があり、但し、父親の『忠明の方は性格的には熱血漢で、とかく問題を起しかねない人物であったらし』く、閉門に処せられて、後に許されたという事蹟を記し、『しかし、遠島はありえないことと考えられるし、また島の名も記さず、あいまいで』『世間話としての正確が』見てとれる、と記されておられる。同感至極である。
・「見物に行、棧敷にて」という描写から、これは道場ではなく、露天の見世物風のものででもあったか。道場を構えていたならば、もう少しそのような描写がなされようという気がする。私は一貫してそのようなシークエンスとして訳してみた。
・「武備」底本には右に「(武家カ)」の注を記す。
・「淸眼」底本には「淸」の右に「正」の注を記す。
・「大猷院樣」三大将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。
・「瓜小屋」瓜畑の農機具を置き、収穫した瓜を保存する小屋であろう。余りに小さいとシーンとして生きてこない。瓜の皮を敷き並べられる程に、内部に瓜や西瓜を保管出来るスペースの小屋と考えるべきであろう。
・「脇差追取」この「追取」は「押つ取り」で「押つ取り刀」=「おっとり刀」の意であろう。危急の際、刀を腰に差さずに手で持って行くことを言う。
・「西瓜瓜」底本には右に「(ママ)」の注を記す。「瓜西瓜」の衍字。
・「小野派」狭義には、小野忠明の子の小野忠常が継承した系統の一刀流剣術の一派を言う。一般的には小野派一刀流と呼称されるが、忠明自身、小野派一刀流なる呼称を用いておらず、後に小野派一刀流又はその傍系と目される流派群の開祖も忠明の師である伊東一刀斎である。
・「大猷院樣思召にも、彼は遠流にて暫く劍術の修行可怠、上には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき思召にて」は、「大猷院樣思し召しにも、『彼は遠流にて暫く劍術の修行怠るべし、上には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき。』てふ思し召しにて」の意で、心内語には自敬表現が多用されている。訳では自敬部分は廃した。また、この心内語の前後に「思召にも……思召にて」と重複するのは、口碑伝承に特徴的なものではあるが、逆に「家光の思いの中には……といった思いようがあったようで」という婉曲表現の現われともとれる。私はそのように訳してみた。
■やぶちゃん現代語訳
小野次郎右衛門遠流の事 附御赦免にて召し帰された事
世間にはとんでもない虚(うつ)け者があるものである。両国辺りで、
――剣術無双の者これに在り。誰なりと真剣にて立ち合ひ申し、たとえ我斬り殺されんとも厭わず――
と記した看板を掲げて他流試合をしていた。江戸はもとより近隣の田舎からも毎日夥しい数の見物人がやってくる。飛び入りで立ち合いをし、この男を斬り得ず、逆に男の持った木刀で打ちのめされた者はその門弟となる、その数もみるみる増えておると、専らの評判となっておった。
さて、将軍家剣術指南役小野次郎右衛門がその噂を聞くに及び、
「かかる似非(えせ)者を天下の御膝元にのさばらせておくこと、言い様もなく忌々(ゆゆ)しきことじゃ。」
と、門弟を引き連れて見物に行き、見物人の多さに設えられた桟敷から、この似非者のなす駄技を見て、門弟一同せせら笑いを浮かべておったところ、かの虚けがそれを聞き知ってひどく憤り、
「なにを以って笑うか! あの通り看板を出(いだ)し、誰(たれ)にてもあれ真剣を以って試合致さんと言うておる上は、お笑いになる心あらば、是非、我と立ち合いせられい!」
と大声を挙げて騒いだ。ところが、周囲にいた彼の門弟の一人が、桟敷を見て、慌てて申し上げる。
「先生、あの桟敷にいるのは、将軍家の御師範、次郎右衛門でげす。」
と押し留めたが、全く以って言うことをきかない。
「たとえ御師範であろうが!」
と、「勝負! 勝負!」の一点張り、罵詈雑言も飛び出(いだ)いて止む気配もない。次郎右衛門も流石に、
「かくの如く嘲られては武門の恥――」
致し方なしとて、桟敷を下りて、
「かくなる上は立ち合い仕ろう――」
と、懐より出いた鉄扇を手に立ち向かうその時、虚けは正眼に構え、ただ一振りにばっと斬りつけた故、会衆、皆、あわや! と思うたその瞬間、既に虚けの眉間は小野が先に突き出いた鉄扇にて美事打ち砕かれており、虚けは、うっ、と言うたままに二言もなく、生き絶えておったということである。
この出来事が大猷院家光様のお耳に入り、
「師範たる者の行いにもあらず。」
とのご勘気を被って遠島仰せ付けられたということであった。
さて、その後(のち)、次郎右衛門が流された島での出来事である。
ある時、畑に植えていた瓜や西瓜を盗む曲者がおって、右の者を捕らえんと島中の百姓どもが集ったが、曲者は大勢の者に手傷を負わせた上、瓜小屋に立て籠もって、更に小屋の周囲には生の西瓜や瓜の皮を多量に並べた。捕り手の者が押し込まんとする時は、この敷き並べた皮で足が滑り、ずるずるぬらぬらとして、体が思うように動かせない中、曲者に襲われて、またしても多数の死傷者が出るというていたらく故に、次郎右衛門方に百姓どもがやって来て、
「何とか曲者をお捕え下さいませ。」
とひどく困窮致し嘆きおるので、次郎右衛門は、己が軽はずみな行いからここに流されたことも忘れ、軽率にも気軽に脇差をひっ摑んでおっとり刀で百姓どもを尻目に真っ先に駆けて行く、百姓の一人が、
「瓜の皮で足場が悪うございますよ!」
の由、お側に駆け寄って言ったものの、次郎右衛門は何を言うやら気にもかけず、逸散に瓜小屋まで駆け行く、と、いや、果たして瓜の皮に滑って仰向けに倒れたところ、小屋内で待ちに待ってしびれをきらしておった曲者は、文字通り、待ってましたとばかり、大上段に振りかぶって余裕の一太刀を振り下ろす――と、ところが、現在も小野派一刀流にあって「神妙」と名付ける伝説的な太刀筋の通り、滑りながら手にした脇差を抜き払うたかと見るや、同時に上へと払う――と、曲者の両腕は、はたりと落ちた――故に、じきに曲者はめし捕えられた、ということであった。
今度は、この出来事が江戸表へ伝わり、再び大猷院様のお耳に入るや、即座に御赦免にてお召し帰しになられ、次郎右衛門帰るや即刻、元のままの禄を下賜された、とかいうことである。
さても、その次郎右衛門が帰参後、初めて大猷院様の御前に召され、まかり出でた折のこと、大猷院様は、
『彼は遠流となり、久しく剣術の修行を怠っておったに違いない。我に於いては日夜修行に励んでおった故に、一つ次郎右衛門と立ち合い、目に物を見せてやるに若くはなし。』
とお思いにでもなられたのであろう、お庭先に毛氈を敷き、その中央には二本の木太刀を組み合わせて配し、
「いざ、次郎右衛門、我に立ち合うべし!」
との御沙汰を下された。
次郎右衛門は登城すると、そのお庭先の毛氈の敷物の、その端に手をついて、毛氈の外に座っていた――のだが、すっと現れた上様は、木刀をお取りになると、ものも言わず、ずずいと次郎右衛門方へと近寄り、ただ一打ちにせんと木刀を振り上げ、気合一声!――その瞬間、次郎右衛門は敷物の端を手に取ると、ぐいと後ろへ引いた――上様は美事、ずでんと後ろへお転び遊ばされたのじゃった――。
これより、大猷院様はいよいよ小野次郎右衛門を尊崇され、一刀流御修行に専心されるようになられた、とのことである。
* * *
有德院樣御射留御格言の事 附 御仁心の事
或年、有德院(いうとくいん)樣御成の節、遙々隔(へだて)候樹の枝に鳶止り居けるを御覺じ、御弓を召寄(めしよせ)られ御意被遊けるが、鳶立けるに、立ける所を極められければ、唯中に當り鳶は川の内へ落ける故、何れも御射術を感心仕りしとかや。然るに同(おなじ)川通りに烏の止り居候を、御小性(おこしやう)の内見受、是はなを/\被遊よく侯半(さふらはん)、御弓差上べき哉(や)と伺ければ、かけ鳥抔(など)射るに都(すべ)て二度はならざるもの也、能心得よと、上意なりしとかや。同(おなじ)御代、御鷹野先にて御小人(おこびと)御筒(つつ)をかつぎ野間(のあひ)を徘徊せる所へ、御側廻り被召連(めしつれられ)被爲入(いらせられ)ける故、御小姓衆しつ/\と聲を懸ければ、右御小人驚(おどろき)、披(ひら)き候とて御筒の端を御顏へあてける故、御叱り被遊候處、御小姓衆立寄候得ば、誠に消入計(ばかり)に平伏し、身命(しんみやう)今に極りしと魂其身に不付、御小姓衆御咎めの儀相伺ければ、四方を御覧被遊、目付共は不居(ゐざる)やとの御尋に付、御近所には不罷在(まかりあらざる)段申し上ければ、然らば咎に不及との上意にて、御構(おかまひ)なきと、安藤霜臺(さうたい)乘興の物語、難有事と爰(ここ)に記(しるす)。
□やぶちゃん注
○前項連関:武辺名人譚から徳川吉宗の武徳へ。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「鳶」タカ目タカ科トビMilvus migrans。
・「御小性」御小姓とも。武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。
・「かけ鳥」は「翔け鳥」で、飛んでいる鳥を射ることを言う。
・「御鷹野先」将軍が鷹狩りに行った先、の意。吉宗は鷹狩りを非常に好んだ。
・「御小人」小者。武家の職名。以下にあるように、将軍家の鉄砲を担いで付き従ったりする、極めて雑駁な仕事に従事した最下級の奉公人。
・「御側廻り被召連被爲入ける故、御小姓衆しつ/\と聲を懸ければ」これは、鷹狩りの際に、火縄銃(勿論、弾丸も込めていなければ着火しているわけでもない)の保守役である御小人が、手持ち無沙汰に辺りの一叢(むら)をぶらぶらしていたところが、まさかこちらに向かって来られるとは思っていなかった吉宗一行が急に鷹狩りで移動してきたのである。目障りであり、獲物も逃げるため、御小性たちが彼を俄かに叱って追い払おうとしたのである。
・「披き」身をかわす。避ける。
・「目付」武家の職名。江戸幕府では若年寄配下で、最高位の御目付はすべての旗本・御家人を監察・糾弾を職務とし、10名置かれた。その下に御徒士目附(おかちめつけ)及び御小人目附が複数配され、旗本よりも下の(お目見(めみえ)以下)者を観察した。ここでは御小人目附のこと。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。なお、底本では「安藤霜臺の物語」とあるだけであるが、話柄に臨場感が出る岩波版の「乗興」を正字で補った。
■やぶちゃん現代語訳
有徳院様の弓術の格言の事 附 有徳院様御仁心の事
ある年、有徳院吉宗様がお出かけになられた際、遙か遠くの木の枝に鳶が止まっているのを目にされ、弓を持てと仰せられると、強く引き絞ってお狙い遊ばされたのだが――その瞬間、鳶は翔び去る――しかしまた、その翔び立った瞬間をお極めになられ――ひょうふつ! と、矢が放たれ――そうして、美事、鳶の体の真ん中に矢は当たって、鳶は川の中へと落ちた――それ故、周囲の誰もが、その神妙なる弓術の御技(みわざ)に感嘆し申し上げた、とか言うことであった。
ところが、更にその折、同じ川の岸辺の木の枝に鴉がとまっておりましたのを、御小姓の内の一人が見つけ、
「これはまた、なおのことよき標的が御座いますれば、殿、再び御弓を差し上げましょうか?」
とお伺いを立てたところ、有徳院様は徐ろに、
「すばやき飛ぶ鳥なんどを射るに、総じて一度はうまくいっても、二度とは当たるものではない。よく心得置くがよいぞ。」
との御言葉であった、とか言うことであった。
さてもまた、同じ頃のこと、有徳院様が鷹狩りにお出かけになられた先で、手持ち無沙汰な小者の者が、役目である上様の鉄砲を担いだまま、有徳院様のいらっしゃるところとは離れた野原辺りをぶらついておった、そこへ、豈図らんや、上様がお側廻りの者を引き連れになられ奔り入ってこられたため、お付の御小姓衆が、
「しっ! しっ!」
と人払いの声をかけた。――眼と鼻の先に上様が御立ちになっている――自分は急なことにただぼうっと鉄砲を持って立ち尽くしている――ここに、この小者は吃驚り仰天、畏れ多い上様の前から消えんがためにあせって身をお返し申そうとしたところが――何と手にした鉄砲の筒先を上様の御顔に当ててしもうた――勿論、上様御自身、この者をお叱り遊ばされたのであったが、御小姓衆は以ての外の一大事と小者の周りに立ち寄り押し合い、激しく責め立てられたので、小者は消え入らんばかりに地べたに這い蹲り、最早、身命この時に極まったと、魂も抜け落ちたようにがっくりしてしている。早速に、御小姓衆が声々にお咎めの儀に付、上様にお伺いをたてられたところ、上様は四方をお見渡し遊ばされ、
「目付どもはおらんか?」
とのお訊ねに付、御小姓の一人が、
「お近くには居りませぬ。」
由申し上げる。すると、
「然らば仕置きに及ばす。」
との鮮やかな御言葉、その場にて一切お構いなしとなったとのこと、これらは友人安藤霜台との談話の際、彼が興に乗って話してくれた物語である。徳院様の深い慈悲に満ち満ちた「仁」のお心の、この上もなく有難きこと故、ここに記しおくものである。
* * *
積聚の事
近き頃の事とかや。在邊に手習の師有ける、常に積聚(しやくじゆ)を愁て、死に至りて其子及び隨身(ずいじん)の弟子近隣の者を賴けるは、我死せば火葬いたし何卒腹中の積聚を打碎(くだき)給るべし、後來の人積を愁ふ助養(じよやう)手段にもならんと呉々(くれぐれ申置身まかりぬれば、遺言に任せその死骸を燒けるに、背中に一塊有。則積塊也とて、子弟其外共集りて、鐵鎚或は石を以打に聯も不碎、千術萬計なす共破れず。折節古老來りて其譯を尋、不審に思ひ、手に持たる杖を以突(つき)ければ、貳ツ三ツに破れける。皆々不審に思ひ、破れたるを集め石鐵鎚等にて打に、始のごとく聊も割れず。杖もてすれば微塵となる故、右杖は何の樹なりと尋るに、いたどりを以て造り候よし。虎杖(いたどり)は積を治する妙藥ならんと爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を認めず。
・「積聚」岩波版では「癪聚」とする。さしこみのこと。漢方で、腹中に出来た腫瘤によって発生するとされた、激しい腹部痛を言う(本来はその腫瘤そのものも呼称であろう)。現在は殆んどの記載が胃痙攣に同定しているが、私は胆管結石や尿道結石及び女性の重度の生理通を含むものではあるまいかと思っている。識者の御教授を乞う。
・「虎杖(いたどり)」痛取とも。双子葉植物綱タデ目タデ科ソバカズラ属イタドリFallopia japonica(シノニム多数有)。タデ科の多年生植物で、別名スカンポ(同じタデ科スイバRumex acetosaもこう呼ぶので注意)。茎は中空で多数の節を持ち、構造的にはやや竹に似て、2~3m迄成長したものを乾燥させると極めて硬くなり、実際に老人の杖とする。漢方では天日乾燥させた根茎を虎杖根(こじょうこん)と呼称し、緩下・利尿薬として使用される。ウィキの「イタドリ」によれば、この「イタドリ(痛取)」とは『若葉を揉んで擦り傷などで出血した個所に当てると多少ながら止血効果があり、痛みも和らぐとされる。これが「イタドリ」という和名の由来』である、と記す。いずれにせよ、「積」=「癪」の効能は見当たらない。なお、このルビは珍しく底本にあるもの。
■やぶちゃん現代語訳
癪聚の事
最近の事とかいうことである。とある鄙(ひな)に手習いの師匠があったが、この男は常に激しい癪聚(しゃくじゅ)の症状に悩んでおり、さて、遂にその病篤くなって死ぬるという間際に、己が子・手習いの弟子及び近隣の者を呼び寄せて、依頼した。
「――私が死んだならば、通例の土葬に従わず火葬と致し、何卒、遺骸から腹中の癪聚を掻き出だいて、その腫瘤を打ち砕き給わらんことを望むもの――それは後代に癪聚に苦しむこととなる人々の介抱や治療の手だての一助ともなろうほどに――」
とくれぐれも申し置くほどによろしく願い奉る、というものであった。そうこうするうちに、男は亡くなったので、遺言に従ってその遺体を焼いたところ、その遺骸の背に相当した辺りに確かな異様な塊が見つかった。
「これぞ、癪塊じゃ!」
と子や弟子その他大勢集まって、鉄槌或いは石を以ってこれを打つも、全くもって少しも砕けぬ。あらゆる方法で打ち挟み押し潰さんとするもこれっぽちも欠けぬ。――そんなこんなで大騒ぎをしている、折柄、そこに土地の古老がやって来て、騒ぎの訳を尋ねた。老人は不審なこと思いつつも、はたと何かに思い当たった様子で、自身が手にしておった杖を以って、とん、とその塊を一突きした――すると、あっという間に塊が二つ三つに砕け散った――人々は手を変え品を変えてさんざんっぱら力を加えておったからではと不審に思い、その破片を集めて、再び石や鉄槌などで打ちすえたところが、始めと同じで、それでは一向に砕けなかった。ところが――杖を以って再び突くと破片は微塵に砕けてしまったので、ある者が、
「この杖は何の樹で出来ておる?」
と尋ねたところ、老人は、徐ろに、
「痛取(いたどり)で以って造ったもんじゃ――」
とのことでった。
一般には知られていないが、虎杖は癪聚を治す妙薬なのであろうと思われる話であるが故に、ここに記しいくものである。
* * *
兩國橋懸替の事
吉宗公御治世の頃、兩國橋懸替有けるに、或は出來不足の處有之、懸(かかり)役人不念(ぶねん)の義度々に及びければ、懸り役人も數度引替に及びし故、巷(ちまた)の説にも此度も又合口(あひくち)行違候抔色々口説(くぜつ)有けるを、御聽被遊けるや、近日御成の刻(とき)御覧可被遊旨被仰出、其節は懸りの者も場所へ相詰候樣被仰渡(おほせわたさらるる)故、何れも如何可被仰出哉(おほせいださるべきや)と心にあやぶみいける。其日限にも成ければ、御船を右場所へ被留、得と御覺の上、宜(よろしく)出來(しゆつたい)いたし候、何れも骨折の段上意有、何れも一同難有存ける。夫よりして彼浮説も忽(たちまち)止りけるとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項とは連関しないが、前々項の徳川吉宗の人徳で連関。
・「兩國橋懸替」隅田川に架かる両国橋の架橋は、万治2(1659)年説と寛文元(1661)年説の二説がある。以下、ウィキの「両国橋」より引用すると、『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に』火除地としての役割も担った、とある。その後も度々火災や洪水により、流失・破損を繰り返した。底本の鈴木氏の補注に『広文庫に引用する耳嚢の本文では「有徳院様御治世の頃、享保十三年九月洪水にて両国橋落つる。同十二月より掛替有りけるに」とある。実紀によれば、同十四年七月六日隅田川に御狩、船中にで昼食をとり、大銃、水泳、烽火を見たとある』ことから、まさにこの享保14(1729)年7月6日こそが、この記事の一件があった日ではないかと推定されている。この後、鈴木氏は吉宗在任中の後の再度の両国橋の洪水による崩落による架け替え(延享元(1744)年)をも記しながら、総合的に考えて本件は享保時の際の出来事と同定されている。堅実にして美事な注である。なお、本橋の名については、ウィキに貞享3(1686)年に『国境が変更されるまでは』武蔵国と『下総国との国境にあったこと』に由来するとある。
・「不念」不注意による過失。
・「合口行違」両岸から伸ばして建造した橋梁が中央で食い違って合わなくなる。
・「口説」お喋り。噂。岩波版は「こうぜつ」とルビするが、不審。
・「あやぶみいける」の「い」はママ。
■やぶちゃん現代語訳
両国橋架け替えの事
吉宗公御治世の折、両国橋の架け替えがあったのであるが、しばしば工事が遅延する場面があり、また、橋普請担当の役人の度重なる過失もあって、何度も担当官の交代があったりした故、世間でも、
――今度も岸から延びた二つの橋が合わねえらしい――
なんどという噂がたっていたのを、上様もお聴き遊ばされるや、急に、近々両国へ御成りになり、その際、親しく橋普請の現場を御覧遊ばされる旨仰せになられ、その時には総ての担当官もその場に控えおるよう、と申し渡されたので、担当官はもとより御家来衆も、一体、どのようなきついお達しがあるのであろうか、と内心、戦々恐々としておった。
御成りのその当日になると、上様は御船を普請場の岸に泊め置かれ、仕上げにかかっていた橋普請の様子を凝っとご覧になった上、一言、
「よく出来ておる。皆の者、何れも御苦労。」
との御意であった。
担当官御家来衆一同、何れも皆、上様の慈悲に満ちたお優しさに、心から打たれたということじゃった。また、それからというもの、かの流言蜚語も忽ちのうちに消え失せたとか聞いておる。
* * *
盲人かたり事いたす事
安永九年の事成りしが、淺草邊とや、年若の武家僕從兩三人召連れ通りしに、壹人の盲人向ふより來り、懷中より封じたる状壹通差出し、丁寧に右武家の側へより、國元より書状到來の處、盲人の儀少々心掛りの儀有之候間、恐入候事ながら讀聞せ給るやう願ひければ、家來抔彼是制しけれども、其主人、盲人尤の儀と、憐の心より何心なく封おし切讀遣しける。其文段に、金子無心の事申越候得共、在所も損毛にて調達いたし兼候間、漸(やうやく)貳百疋差遣候趣の文面也。盲人承り、扱々忝候。在所にても才覺調兼(ととのひかね)候段無據(よんどころなき)事といひて、右金子渡呉侯樣申ける故、彼若き人驚、文面には金子差越候段は有ながら、右金子状中には無之、別段に屆來(とどけき)侯には無之哉(これなくや)と答ければ、盲人聊承知不致、何とやら盲目故掠(かすめ)ける趣に申募る故、品々申なだめけるといへども疑憤候間、無據屋敷へ召連金子差遣侯由。憎き盲人ながら、若きものは右樣の折から心得有べき事なり。
□やぶちゃん注
○前項連関:あまり強い素材的連関は認めないが、あえて言えば、徳川吉宗が絶妙な一言でその場を収め、流言飛語を封じたポジティヴな巧妙な挙止動作に対して、奸計を極めた絶妙の話術と演技でポジティヴに完全犯罪を成し遂げる点で、一種の演劇的要素で共通するように思われる。
・「安永九年」西暦1780年。
・「損毛」損亡とも。広く損失を受けること、利益を失うこと、を意味する。岩波版で長谷川氏は『農作物が被害を受けること。』とする。必ずしも、絶対的に承服出来る語釈とは言い難いが、訳では大変都合がいいので、これを採用した。
・「貳百疋」「疋」は錢を数える数詞。匹とも。古くは10文(後に25文)を1疋とした。ここでは10文とすると2000文=2歩で、丁度1両の半分に相当する。
■やぶちゃん現代語訳
盲人が詐欺を仕組んだ事
安永九年のことであるが、浅草辺りでのことだったという。年若い武家が従僕二人を連れ通りを抜けてゆくと、一人の盲人が向うからやって来る。と、徐に懐中から封をした手紙一通取り出し、慇懃にその武士の傍らに寄ってきて、
「実は……国許より書状が到来致しましたが……御覧の通りの盲人で御座いますれば……実は……少々気に懸かることも御座いますれば……恐れ入りまするが……誠に勝手ながら文面をお読み戴いて拙者にお聞かせ戴きたく……」
としきりに乞う。二人の従僕はあれこれ言って追い払おうとしたのだけれども、この若主人、盲人の儀なれば、尤もなること、と同情心から素直に手紙を受け取ると、ふつっと封を切って、中の手紙をとり出だし声を出して読んでやった。
その消息文は、
『――金を無心したき旨の申し文であったけれども、在所も不作続きでとても望みし全額は調達致し兼ねる故に、何とか工面した金二百疋分を差し遣る――』
といった旨の文面なのであった。
盲人は謹んで聴き終えると、
「さてさて忝(かたじめな)きことで御座いました……在所も不作なれば手元不如意、思うように金を揃えることが出来ぬというも、尤もなこと……」
と独りごちたかと思うと、静かに、
「それでは、その金子(きんす)二百疋、お手数ですが、この手にお渡し下さいませ。」
と言った。かの若主人は驚いて、
「……いや、その確かに……文面には金子を差し遣るという段は、ある……あるが、その金子は状袋の中には入っておらなんだ……いずれ、別送か何かで送って来るのではないかのう……。」
と答えたのだが、盲人はその答えに、いっかな承知致さず、却って、
「盲目(めくら)だからと馬鹿にして! 金子を掠め取るッ!」
と言った、激しい剣幕で喚(おめ)き立てるので、従僕二人も一緒になっていろいろと宥(なだ)めてはみたものの、もうひたすら一方的に憤激するばかり。往来のことで世間体もあり、止むを得ず主人の屋敷へと連れ行き、結局、この盲人に金子二百疋分を渡した、ということで御座った。
誠(まっこと)性悪(しょうわる)の盲人ではあるけれども、若い者たちは、今時、このような新手の詐欺もあるものなのだということは、この話から重々心懸けておく必要があるのである。
* * *
惡敷戲れ致間敷事 附惡事に頓智の事
是も同じ比(ころ)の事とや。神田邊の頓作(とんさく)滑稽をなして人の笑ひを催し家業とする者あり。獨り者にて常々酒を好、飽事なし。同所に相應に暮ける鳶の者友どち申合、伊勢へ參宮するとて路次(ろし)の慰に右獨者を召連んとて誘引(さそひ)ければ、路銀無之由を答ふ。路銀は兩人にて如何にも賄わんと誘ひければ、さらばとて三人打連、品川より神奈川まで、急がぬ旅なれば、爰にては一盃傾けかしこにては一樽を空しくして、神奈川宿に泊ける。翌夜明前に、何れも神奈川を立んと起出けるに、彼獨者は酒の過けるにや草臥(くたぶれ)伏して色々起せ共目不覺。兩人の連、風與(ふと)思ひ付、彼者醉中に出家にせば能(よこ)慰ならんと、密に髮剃(かみそり)を取出し、髮を剃り青同心として、日の出る頃猶又起しければ、漸起出、天窓(あたま)をなでゝ大に驚き、兩人の戲れになしぬらんと恨けれ共、曾て不知よしを答ふ。猶疑ひて品々申けれ共、聊覺なしと陳じける故、今は詮方なし、出家にては箱根御關所も通り難し、伊勢にても出家は禁じ給ふ事なれば、遙々詣ふで益なし。是より江戸へ歸り候半(さふらはん)と暇乞ければ、兩人も詮方なき事と悔けれど、明白(あからさま)に言んやうもなく、路銀抔與へて江戸へ歸しける。彼獨者つらく思ひけるは、斯(かく)我を慰(なぐさみ)、情なくも剃髮させぬる事恨し、此遺恨面白返さんと色々工夫して、芝の邊にて古袈裟衣を調へ誠の出家姿と成り、四五日も過て彼連二人の方へ至りければ、妻子驚き如何なれば斯る姿と成りて早くも歸りけるやと尋ねければ、彼者涙を流し、かくなるうへは推量なし給へ、道中船渡しにて岩へ乘かけけるや破船いたし、三人共浮ぬ沈ぬ流れけるに、我等は運強く岩に流懸りしを、皆々打寄り助(たすけ)船にて引あげられ、貳人の者を尋(たづねけ)れ共死生もしらず、其外の乘合行衞(ゆくへ)なき故、無常を觀じ出家して廻國に出候心得なれ共、友達の家内へ知せざるも便なしと立歸りしと、涙交りに語りければ、妻子どもの歎き、見るも中々痛しき有樣也。兩人妻餘り絶がたさに髮おし切、廻國せんと言けれ共、廻國の事は親類衆と相談し給へ、出家の事は兩人菩提のため可然(しかるべし)と申述、我等は廻國に出(いづる)よし申置、行方なく成りしとや。兩人妻菩提寺を賴、出家染衣(ぜんえ)の身と成、念比(ねんごろ)に菩提を吊(とむらひ)ければ、心有親類は餘りの思ひとり過するならん、まづ彼破船の様子をも聞飛脚をいたし候へかしと、彼是相談の内、二人の男伊勢参宮無滞(とどこほりなく)仕廻(しまひ)歸ければ、両人の女房は新尼と成て夫々(おつとおつと)を見て大に驚、いかなる事とおつと/\も尋ければ、始よりの事共申ける故、よしなきいたづら事なして彼者に謀られける事の浅間しさよと、後悔すれ共甲斐なく、右新尼還俗して、此頃は三四寸も髪の延びたりといひし比、其邊の者來りて語り笑ひぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:巧妙な詐術による詐欺事件として連関。
・「頓作滑稽をなして人の笑ひを催し家業とする者」ウィキの「落語」によれば、現在のような落語の明白な出現は17世紀後半で、『江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄」を始めた。同時期に京都では露の五郎兵衛が四条河原で活躍し、後水尾天皇の皇女の御前で演じることもあった。大坂には米沢彦八が現れて人気を博し、名古屋でも公演をした。また、『寿限無』の元になる話を作ったのが初代の彦八であると言われて』おり、『18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。これが白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれた。上方では1770年代に、江戸では1786年に烏亭焉馬らによって咄の会が始められた。やがて1798年に岡本万作と初代三笑亭可楽がそれぞれ江戸で2軒の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増えた』とある。本件は前記事と同じ頃、安永9(1780)年前後であるから、すでに江戸小咄の形が完成、既に噺家(はなしか)という職業が成立していた、この主人公の「獨り者」も噺家である、と考えてよい。そして、読み進めればお分かりの通り、この話自体、この男が熊五郎となり、二人の鳶も長屋の講中吉兵衛や次郎吉その他大勢となって、御存知、落語の「大山詣(まいり)」へとインスパイアされてゆくのである。但し、このルーツを訪ねれば能狂言の「六人僧」に辿り着く。その梗概を記すと、ある男が後世(ごぜ)の安楽のため、二人の同行を誘って諸国参詣を思い立つが、道々話をしているうちに、仏の本願に従い、決して腹を立てるまいという誓いを立て合う。さる辻堂で一休みした際、同行の二人は寝付けぬままに、悪戯(いたずら)を思いつき、寝入っている同行の頭を剃ってしまう。目覚めた男は、大層腹を立てるも、先の誓いの手前、二人を責めるわけにも行かない。仏参を続けるという二人と別れて帰った男は、他の二人の妻に、二人の夫は高野参りの途中、紀ノ川にて溺れ死んだと言葉巧みに信じ込ませ、妻たちは剃髪して尼になってしまう。さらに今度は戻って来る二人の夫を迎えると、お主らが馴染みの女と上方へ逐電したという噂をお主らの妻が聞き、蛇身となって復讐せんものと、妻同士刺し違えて死んだ、という法螺話を拵え、遺髪を見せてまんまと信じ込ませると、二人の夫をも出家させてしまう。最後は、それが総てばれたところで、なんと尼となった男の妻も現れ、これらも仏の方便と方々悟って、西日を仰ぎつつ、六人打ち揃って行脚に旅立つというストーリーである。しかし、鎮衛の本話を読むと何よりも、この話が当時、『噂話』=『都市伝説(アーバン・レジェンド)』として信じられていたという事実が浮かび上がってきて誠に興味深い。因みに、私は落語の「大山詣」が殊の外お気に入りである。それは熊の一世一代の大芝居の妙味もさることながら、普段は亭主を口汚く罵っている長屋の妻たちがこぞって、あっという間に剃髪するという、その江戸の市井の女たちの誠心と貞節に心から打たれるからである。
・「賄わん」はママ。
・「風與(ふと)」は底本ルビ。
・「明白(あからさま)」は底本ルビ。
・「吊」これは誤植ではなく、「弔」の俗字である。「とむらふ」と読むのである。
・「出家にては箱根御關所も通り難し、伊勢にても出家は禁じ給ふ」既にこの頃、行脚僧の格好をして不逞を働く輩が横行しており、恐らく僧形であることが関所通行に五月蠅かったに違いなく、おまけに僧侶の参詣を許さなかった伊勢神宮への参拝というのでは、関所もお伊勢さんも難しいことになるというのは道理ではある――ではあるものの、これは彼の頓作滑稽復讐システムを発動させるための、方便ととった方がよかろう。
・「いひし比、」の「比」は、「ころ」か「ころおひ」と読むのであろうが、文脈上おかしい。岩波版にはなく、衍字か。岩波版のように「いひし。」とここで文は終始していると判断して訳した。
■やぶちゃん現代語訳
悪い戯れは致すさぬがよい事 附悪事にも頓智のある事
これも「盲人が詐欺を仕組んだ事」と同じ頃の話でったか。
神田辺りで滑稽な話を創作したり、それを演じたりして、人の笑いを取って何がしかの日銭を得ることを生業(なりわい)としている者がおった。独り者で常々酒を好み、これがまた、酒あらばとことん飲んで飲み飽きるということを知らない男でもあった。
さて、ある時、同じ町内に相応に暮らしておった鳶職の者二人、相談し合って、伊勢へ参宮しようということになり、ついては道中徒然の慰みに、この独り者の男を連れて行こうじゃねえかということで誘ったのだが、男は、
「儂にゃ金がねえ――」
と言う。鳶の二人は、即座に、
「路銀なら俺たちが何とでもしてやらあな!」
となおも誘ったので、それならば、ということで仲良く三人うち連れ、途中、早速、未だ品川から神奈川までの間で――急がぬ旅ではあれば――否、急がぬ旅とは言いながら――酒好きが昂じて、ここで一杯傾けては、あそこで一樽空にして、その日はやっと神奈川の宿に泊まった。――
翌朝のこと、流石に鳶の二人は、昨日の分の足を稼ごうと夜明け前に出立しようと起き出したところが、例の独り者は、飲み過ぎたのか、すっかり疲れ果てて死んだように横たわったまま、幾ら起こしても目覚めない。その体たらくに、二人の鳶は、ちょいとした悪戯らを思い付き、この男が前後不覚で酔って寝ている内に、知らぬ間に自分が出家僧になっておったら、さぞかし吃驚り仰天、これまた、面白い見ものと、ひそかに取り出だした剃刀で、男が目覚めぬようにこっそり髪を剃り、美事なつるんつるんの青道心に仕上げたのであった。――
日が昇る頃になっていま一度起こしてみると、男は漸く起き出して来て、ふと頭を撫でてみて大いに驚き、
「お主ら! 悪戯(いたずら)にことかいて、何をした!」
と恨み骨髄、なれど両人は、
「何(なん)も。俺たちゃ知らんぜ。」
と白を切る。勿論、男は納得出来ずに、あれやこれやと詰め寄ったものの、二人とも、
「全く以って知らん、な。」
と美事、口裏合わせ、知らぬ存ぜぬの一点張り。故に、すっかり切れてしまった男は、
「何も、知らんか……そうか……お主らの仕儀ではない……では……最早、是非もない。非僧の僧形にては箱根関所も通るに難く、そもそも伊勢神宮にては古えより出家の参詣を禁じておられることなれば、遙々訪ねみんも無益じゃ……されば、今から儂は、もう江戸へ帰ると致さん……」
とむっとしつつもきっぱりと訣別を告げるので、二人の鳶は、ここに到って、こりゃ馬鹿なことをしたわいと後悔したものの、これだけ白を切ってしまったからには、今更、本当のことを語り、謝って済こととも最早、思えず、とりあえず帰りの路銀を与えて江戸へ帰したのであった。――
しかし、この男、帰りの独りの道中にも、よくよく考えるとまたぞろさっきの憤激がいとど昂じて来るのであった。
「これほどまでに俺を虚仮(こけ)にしやがって! あさましくもかく坊主にさせおったこと、恨んでも恨み切れぬわ! この遺恨、屹度、面白く返報せずにおくべきか!」
と、帰り道すがら、あれやこれやと日頃の頓作滑稽を発動してとんでもない創意工夫を巡らした。――
男は江戸に着くと、まずは芝の辺りで古い袈裟衣など僧侶の姿に必要なものを買い揃えて、本物の出家の姿になると、日を測って、江戸帰着後四、五日ほど過ぎて後(のち)、徐ろに鳶の両人の留守宅へと向かった。屋前に佇む男を見ると、どちらの妻子も吃驚り仰天、
「どうして――まあ、このような姿になって――早くも帰って来なすった?」
と尋ねたので、かの男はしおらしく涙を流しながら、
「……かくなる上は、ご推察なされたい……伊勢への道中、さる川の舟渡しにて、我らの乗り合わせたる舟、俄かに流されて岩に乗りかかりて大破致し、三人共、激流に投げ出され、浮き沈み、浮き沈みしつつ、流れ流され……我は運良く下流の岩に流れ懸かり、咄嗟にしがみ付いたところを、助け船にて引き上げられ申したが……二人は……いや、その後も我は二人をあちらこちら、さんざんに尋ね求め致いたので御座ったのじゃが……それきり……生死も知れず仕舞……いや、それだけではない、その他の乗り合わせた数多の客も尽く行方知れずと相成ったが故……それを目の当たりにした我は……正に、正にこの浮世の無常を痛いほどに観じたれば……かくの如、出家致いて、さても万霊回向の諸国行脚の旅に出で立たんとの決心、なれど……何も知らず、空しく帰りを待つこととなる友どちの家内(いえうち)へ、この事、知らせずにおるも、よからずと思い……かく立ち帰ったので御座る――」
と、堰き合えぬ涙ながらに語ったので、両家の妻子ら歎き、一方ならず、見るも中々に痛ましい限りの有様であった。特に両人の妻は、男の謂いと、その姿も相俟って、夫を失った余りの悲痛の耐え難さに、我らも髪をすっぱりと切り、共に廻国行脚に同道せんと言い出す始末であったが、
「廻国行脚につきては、まずは落ち着いて、親類縁者の方々と相談なされよ。されど勿論、出家の儀は、亡き御二人の御亭主の菩提を弔うに然るべきことで御座れば――」
と申し述べて、
「されば――目的はすっかり果たし申したれば――我はこれより廻国行脚旅に出づればこそ、永の、おさらば――」
と言い残して、何処ともなく立ち去って行った、ということである。――
ほどなく妻二人はそれぞれの菩提寺を頼って出家、墨染めの衣の尼の身となって、懇ろに亡き夫の菩提を弔うことと相成る。分別ある親族の中には、
「余りに思い込み過ぎようというものではあるまいか? まずは、その船渡し難破の儀につき、仔細を尋ねんがための飛脚を飛ばしてみるというのは如何なもので御座ろうか?」
なんどと、あれこれ相談していた、その矢先、二人の夫が滞りなく伊勢参詣を済ませて帰って来た。
二人の鳶の女房は初々しい尼となっていて――それぞれの夫はぴんぴんして血色もいい――夫婦それぞれがそれぞれを互いに見て大いに驚き、
「……一体、これはどういうこと!?」
と夫婦それぞれがそれぞれに問い質す――さればいずれもが始めよりの事の次第を語り出すうち、
「馬鹿げた悪戯をしたばっかりに、あの野郎に謀られたたぁ、情けねえ!」
と後悔すれども、最早致し方なし。
――「勿論、この二人の尼は即座に還俗してね、近頃じゃ、三、四寸も髪が伸びた、と言っておった。」
と、当時、その元尼夫婦の近所に住んでおった者が、私の許に来て、笑いながら話していったのであった。
* * *
觀世新九部修行自然の事
近き頃名人と稱し、公(おほやけ)より紫調(むらさきのらべ)賜はりし新九郎事、權九郎といひし頃、日々鼓を出精(しゆつせい)しけれ共未心に落ざる折から、年久敷召仕ひし老姥(ろうぼ)朝々茶持來りて權九郎へ給仕しけるが、或時申けるは、主人の鼓も甚上達の由申ければ、樺九郎もおかしき事に思ひて、女の事常に鼓は聞けど手馴し事にも非ず、我職分の上達をしる譯を尋笑ければ、老女答て、我亂舞の樣知るべきやうなし。しかし親(したしく)新九郎鼓を數年聞けるに、朝々煎(せんじ)ける茶釜ヘ音(ね)毎(つね)に響き聞へ侍る。是迄權九郎鼓は其事なく、此四五日は鼓の音毎に茶釜へひゞきける故、扨こそ上達を知り侍ると答へけると也。年久敷耳なれば自然と微妙に善惡も分る物と、權九郎も感けると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:庶民の頓智も馬鹿には出来ない才能であればこそ、今度は鼓を聴き分けた市井の老女の才能で連関。
・「觀世新九部」底本で鈴木氏は、観世流小鼓方六世新九郎『豊重。新九郎豊勝(鉄叟宗治)の第四子。十四歳から観世の頭取をした名人。』とする。岩波版で長谷川氏はそれを引用しながらも『ただし豊重と決める根拠を知らぬ』と記す。私はこの豊重であったと考えてよいと思う。勿論、100年前を「近き頃」とは言うかと言われれば、それまでであるが、ウィキの「観世流」の「大鼓方」(注意! 「小鼓方」の項ではない)に天和3(1683)年に『宝生流を好んだ徳川綱吉に小鼓方観世流六世・新九郎豊重が宝生大夫相手の道成寺を断り、追放される事件が起こった。翌年、宝生座付として復帰したが、その際、姓も宝生と改めさせられた』という記載があり、この気骨ある人物こそ、本話に相応しいと考えるからである。また、次の注も参照されたい。
・「自然」仏教、特に禅宗で言うところの、他の力に依拠せず、自身と宇宙が直結した生成・流転・消滅の根本原理に自ずから従うこと。
・「紫調賜はりし」「調」は鼓の両面の革と胴とを固定するための麻紐のこと。鼓を打つときに、締めたり緩めたりして調子を整える。名人の明かしとして、禁色である紫色の調を特に将軍家から賜ったということである。ズバリ、新九郎豊重のそれが法政大学能楽研究所観世新九郎家文庫所に現存する。そしてそこには『これは観世新九郎豊重が1678年[延宝6年]の江戸城の催しに際して許されたもの』というキャプションがついているのである。
・「姥」は、付き添って世話をする女。
・「亂舞」は、能の一節を謡い舞うことを言う。転じて、謡曲能楽の意。
■やぶちゃん現代語訳
観世新九郎修行上達を自ずから知る老女の事
近き頃まで名人と称えられ、将軍家より紫の調べを賜った小鼓方観世六世新九郎が、未だ権九郎と名乗っておった若き頃のこと、日々鼓の修練に精進怠らずあったけれども、いっかな、未だに己れの満足出来る音色を打ち出すことが出来ずにいた、そんな折りのことであった。
観世の家には長年召し使っている老女がおり、毎朝欠かさず煎茶を入れては権九郎に給仕しておったのだが、その老女が、ある朝のこと、権九郎に茶を捧げながら、
「ご主人様の鼓も大層上達なさいました。」
と、しみじみ申し上げる。――権九郎は内心、下賤の老婆の笑止な、と思いつつも、すこし妙に感じた。老女は長年当家に奉公し、確かに日頃鼓の音(ね)は聞き慣れてはおるが、自ら小鼓を手に取ること等、ない。如何なれば、私の小鼓の上達を知ったというのか?――そこで権九郎は軽く笑いながら、その訳を訊ねてみた。
「さても、何故に?」
老女答えて、
「勿論、私めには能楽の良し悪しなど、分かろうはずは御座いません――されど、私めはお父上新九郎様のお鼓の音(ね)を数年の間親しゅう聞いておりましたが――毎朝毎朝、煎じておる茶釜へ、そのお鼓の音が、一打ちごとに美しゅう響いて聞こえまして御座いました――されど、これまで権九郎様のお鼓の音は――悲しいかな、そのようなことが御座いませなんだ――ところが、この四、五日内は、お父様のお鼓の如く、美しゅう茶釜に響きまする――さればこそ、上達なされましたこと、お釜の響きに聴き知ったので御座いまする――」
と答えたのであった。
下賤の者なれども、年久しく鼓を聞いてきた耳なれば、自然、その音(ね)の微妙な違いに良し悪しを聞き分けることが出来るようになるもの、と権九郎も感じ入ったということである。
* * *
萬年石の事
品川東海寺は、公より修理を被加故、予勤仕(ごんし)に付、小普請奉行御目付抔と供に彼寺へ到る事あり。右禪刹は澤庵和尚の草創にて、大猷院樣深く御歸依ありし故、萬年石千年杉等の御舊蹟あり。或時右萬年石の由來を尋侍りしに、役者なる僧、澤庵の記を取出し見せける儘、寫置て後(のちの)慰(なぐさめ)になしぬ。
東海寺萬年石記
今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險挺兮。若由醉号、栗里翁之石乎。或由醒兮、李德裕之石乎、皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎。共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限。凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、比君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、重於九鼎萬年石、鈞命始驚、豈可輕、和氣一團無盡藏、以秋送復以春迎。
現住 澤庵宗彭記之
□やぶちゃん「東海寺萬年石記」白文校訂
[やぶちゃん注:以下は、底本「東海寺萬年石記」部分を、同鈴木氏の注、更に岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所圖會」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本と校訂し、句読点を含め、私の判断で補正したものである。但し、筑摩版(ちくま学芸文庫版)は書き下し文・新字採用であるので、正字白文に読み替えて判断した。また、〔→ 〕は、校合した諸本又は一本が正しいとする表記を示す。何れを取ったかは、続く私の書き下し文で示す。最後の偈は読み易くするため、分かち書きとした。]
東海寺萬年石記
今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險〔→端然〕挺立。若由醉号兮、粟里翁之石乎。或由醒兮、李德裕〔→李悳祐〕之石乎。皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎、共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者〔→而有〕谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限、凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、比君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、
重於九鼎萬年石
鈞命始驚豈可輕
和氣一團無盡藏
以秋送復以春迎
現住 澤庵宗彭記之
□やぶちゃん「東海寺萬年石記」書き下し文
[やぶちゃん注:以下は、前掲校訂の白文を岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本(但し、これは同一親本によるものである。即ち、岩波版は「江戸名所圖會」と校合しているのである。但し、長谷川氏は『「江戸名所図会」三のものにより』とされているが、「二」の誤りであろう)を参考にしながら、私の判断で訓読したものである。基本的には漢文で記されたものであることを重視し、原則、音読を優先した。一部に読み易さを考えて読点を増やした。]
東海寺萬年石の記
今玆(ことし)寛永癸未(きび)三月十四日、左相府(さしやうふ)臺座を此の池沼の上(ほとり)に移さる。池に島有り、島に幽石有り。之を熟見(じゆくけん)するに、奇形怪状無く、端然梃立せず。若し醉ふがごとくんば、栗里翁(りつりをう)の石か。或は醒むるがごとくんば、李德裕の石か。皆然らず。あるいは防風の朽骨か、或は於菟(をと)の白額(びやくがく)か、共に然らず。唯、突兀(とつこつ)として草裡に在り、痴兀(ちこつ)として德容を含む。是、世の奇を求むる者、未だこの石の貴なる所を知らず。偏へに恬淡虚無の趣を得て、谷神不死の體(てい)有り、虚、極に至るごとく、靜、篤を守るに似たり。相君(しやうくん)、侍臣に命じて曰く、「この石は名無かるべからず、各々思ふ所を聞かん。」と。此に於いて諸子思ふ所有りと雖も、懼るる所無きに非ず。斟酌相半ばす。時に小堀遠江守政一(まさかず)、茶爐(ちやろ)の下(もと)に座す。君、旨(むね)有り、政一、即ち起ちて石に向かひ、三たび「萬年石。」と呼び、石、三たび點頭す。君、佳言を下して曰く、「疑はず、是れ、萬年石なり。」と。大度(たいど)の一言、以て天下を定む、況んや石に於いてをや。鳴呼、石なるかな、石なるかな。臺覧(たいらん)に入りて、一旦、光を發し、陟(のぼ)りて其の觀を變改す。蓋し萬の言爲すや、未だ必ずしも十千を以て限るべからず、凡そ數は一に始まりて十に窮まり、十に始まりて百に窮まり、百に始まりて千に窮まり、千に始まりて萬に窮まり、萬を以て算(かぞ)ふれば即ち幾十百千萬億兆年なるを知らず。此の無窮を以て石の壽量と爲す。石の壽量を以て、君の壽山に比すれば、則ち華頂萬八千丈を累(かさ)ぬるとも、猶ほ麓に在るがごとき者か。世を以て計るに、即ち復た其の幾萬々世なるを知らず。村語を以て銘す。曰く、
九鼎(きうてい)より重し 萬年石
鈞命(きんめい) 始めて驚く 豈に輕んずべけんや
和氣一團 無盡藏
秋を以て送り 復た春を以て迎ふ
と。
現住 澤庵宗彭(そうはう)之を記す
□やぶちゃん注
○前項連関:やや離れるが、「鼓の良し悪しを聴き分けた市井の老女の存在は、逆に芸術の持つ奥深さを示す。作庭芸術家小堀遠州が三声にて石を三度低頭させたは芸術家の玄妙と言う他はない。
・「東海寺」萬松山(ばんしょうざん)東海寺。現在の東京都品川区にある臨済宗大徳寺派寺院。寛永16(1639年)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建した。当時、徳川家菩提寺兼別荘相当の格式であった。
・「予勤仕に付」鎮衛の履歴から考えると、出仕始めの勘定所御勘定や、その後の勘定組頭及び勘定吟味役の何れかである。比較的、近過去の体験という感じであるから、勘定組頭か勘定吟味役であった折りの体験であろう。
・「小普請奉行」ウィキの「小普請奉行」によれば、『旗本から任じられ、若年寄に属し』、『江戸城をはじめとして、徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺などの建築・修繕などを掌った。物品を購入する「元方」と、その物品を配分する「払方」が設置され、定員はそれぞれ1名であった』とある。
・「御目付」若年寄に属し、江戸城内外の査察・危機管理業務・殿中礼法指南・評定所業務立合など、何事につけても目を光らせる嫌がられた監察役である。この時期には定員10人となり、十人目付とも呼ばれた。
・「澤庵和尚」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、噂を聞いていた家光の深い帰依を受けて、萬松山東海寺を草創した。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。沢庵漬けの起源には諸説があるが、彼はその発明者とも言われ、ウィキの「沢庵漬け」によれば、本『東海寺では、「初めは名も無い漬物だったが、ある時徳川家光がここを訪れた際に供したところ、たいそう気に入り、『名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべし』と言った」と伝えられている。東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ。』と記す。
・「大猷院」三代将軍徳川家光。
・「千年杉」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には「千歳杉(せんざいすぎ)」の名で載る。それによれば『寛永の頃、大樹命ぜられて千歳杉といふとぞ』とあり、大樹とは徳川家光のことであるから、本話柄と共通する要素を持っている模様である。
○以下「東海寺萬年石記」部分注(以下、この訳注にはかなりの困難を要した。誤注誤訳もあろうと思われる。お気づきの方は御教授願えると幸いである)
・「寛永癸未」訓ずれば「みづのとひつじ」である。岩波版が音でわざわざルビを振っており、漢文脈であることを配慮して「きび」とした。寛永20(1634)年。
・「左相府」左大臣。家光のこと。家光は、先立つ寛永3(1626)年7月に上洛、二条城で後水尾天皇に拝謁し、左大臣となった(左近衛大将を兼任)。
・「熟見之」岩波版は「熟」に「つらつら」のルビを振るが、採らない。
・「端險〔→端然〕梃立」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には、「正しくは、端然」の編者割注があるので、「東海寺萬年石之記」原本自体の誤字かとも思われる。
・「栗里翁」の「栗里」は江西省北部の潯陽(現・九江市)附近の地名で、同所にある出身地柴桑と共に六朝・魏晋南北朝時代の詩人陶淵明(365~427)の故郷(昔馴染みの場所の謂い)の一。
・「李德裕〔→李悳祐〕」李徳裕(787~849)は唐代の政治家。当代屈指の名門李氏の出身で、憲宗の宰相であった李吉甫の子。後世の仏教徒には武宗の宰相として、「会昌の廃仏」で悪名高い人物であるが、太湖石の蒐集等、無類の愛石家としても知られていたらしい。「悳祐」の「悳」は「德」の本字であるが、彼が「悳祐」と名乗ったかどうかは中文サイトでも確認出来なかった。一般的に知られる「德裕」を採用した。
・「防風」防風氏のこと。夏王朝の伝説の聖王禹が治水事業のために諸侯を集めたが、献上品を捧げる者が万を数える中、防風氏は遅れて来たため、禹は不服従なりとして、彼を処刑した。防風の身の丈は三丈もあり、死骸の骨を運ぶに車を用い、載せる為には削らねばならなかったという。池の中の島の石であること、寺のすぐ傍を暴れ川として有名な目黒川が流れていることと関係するか。
・「於菟」虎の別名。春秋時代の楚の方言。この石、白色で虎の頭部の形に似ていたか。また、陰陽道の西の守護神である白虎をも意識した叙述か。但し、「江戸名所図会」等を見ても、如何なるものの位置の西かは不明。江戸城からは殆んど南である。
・「面者〔→而有〕」諸本は「而有」を採り、「而して谷神不死の體有り」と訓じている。恐らく衍字なのであろうが、私は心情的には底本通り「面(おもて)は谷神不死の體(てい)」と読んでも、何ら問題なく感じるものではある。
・「谷神」「こくしん」と読む。谷間の空虚な場所の謂いであるが、通常、老子が人知を超えた宇宙の本体である「道」を喩える言葉として用いられる。
・「小堀遠江守政一」(天正7(1579)年~正保4(1647)年)は江戸前期の近江小室藩藩主。茶人・建築家・作庭家としても知られ、一般にはその任地を別号として小堀遠州の名で知られる。この時、55歳、伏見奉行であった。
・「茶爐」茶を立てるための釜を置く炉のこと。
・「年なるを知らず」この「年」は、一つの区切るべき単位、という意味で解釈した。
・「華頂」浙江省中部の天台県北方にある中国三大霊山の一つである天台山の最高峰である華頂峰のこと。標高1,138m。古来、中国天台宗の開祖天台大師智顗(ちがい)所縁の地として信仰を集めた。南麓に智顗の創建になる国清寺がある。
・「九鼎」先に防風で示した夏の禹が九州(中国全土)から貢上させた青銅を以って鋳造させた巨大な鼎(かなえ)で、中国に於ける王権(天子)の象徴として夏・殷・周三代に伝えられたという神器。
・「鈞」は尊敬を表わす接頭語で、日本語の「御」に相当する。
■やぶちゃん現代語訳
万年石の事
品川東海寺は御公儀より直々に修理を加えられることと相成り、私の職掌柄、小普請奉行及び御目付らと共に、かの寺に何度か御用向きで赴いたことがあった。この禅刹は沢庵和尚が開山され、大猷院家光様が深く御帰依なされた由緒ある寺院である故、万年石・千歳杉といったの御旧跡が多くある。ある時、私、この万年石の由来に付、興味の段これあって、聊か訊ね致いたところ、役僧が、沢庵の記した書を取り出し、見せて呉れた、それをその儘、ここに写し置き、後日(ごにち)の徒然の慰めとなし置く。
東海寺万年石の記
今年、寛永癸未(みずのとひつじ)の年の三月十四日、左大臣家光様がこの池の畔(ほと)りに御来駕あらせられた。池の中に島があり、その島に静謐な深山の趣きを湛えた石がある。
――この石を凝っと観察して見ると、これと言った奇(く)しき形や怪異な状(かた)ちがある訳ではなく、かといって一糸乱れずきちんとしていて、殊更に抜きん出て美事に屹立しておる、という訳でもない。
酔狂に喩うれば、閑適を生きた栗里翁靖節先生陶淵明遺愛の石とでも戯れるか、或いは、殊更に醒めて喩うれば、愛石家たる詩人李徳裕秘蔵の石とでも謂うか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。
或いは、禹が諸侯を集めた折り、遅れたために殺されたという伝説の人、防風の朽ちはてた骨の化石か。或いは、神獣白虎の額が石化したものか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。
ただ、にょっきりと叢に在る。呆(ほう)けたように突っ立っているその様は、何がなしに有り難い、曰く言い難い面影を含んでおる。
さても、奇岩怪石を求めるように、世の中に奇異なるものを求むる者には、凡そこの石の貴い核心を知ることは出来ぬ。
この石はひたすら無欲にして執着なき虚空無限の趣きを湛えて、同時に「谷神死せず」、かの不可知の宇宙の絶対原理の存在を、その体(てい)に現わしておる。虚空一切空の極みに至っているかのように、また絶対の静謐を深く守っているかのように。――
この時、相君家光様は、控えておった家臣にお命じになって言われた。
「この厳かなる石に名がないはずがない。各々、この石の名、その思うところを聞こう。」
そこで並み居る方々におかせられては、それぞれに浮かぶところの名があったのであったが、お上の手前、畏れ多い気持ちが働いた上に、互いに遠慮し譲り合うばかりでその場を沈黙が支配した。その折り、かの名作庭家小堀遠江守政一が、たまたま茶を立てるためにお側の茶炉の近くに控えていた。
「遠江守。如何(いかが)?」
との君命に、政一は、すくっと立つと、即座に中の島の石に向かい、ゆっくりと三度、
「万年石!――万年石!――万年石!――」
と呼ばわった。すると、その石が――何と! その三度の呼びかけに答えて、人の如く、頷いたのであった。
お上は、それをご覧になって、
「間違いない! これ、万年石なり!」
と貴く目出たい御言葉を賜わったのであった。
お上は、その広大無辺なる大御心の一言を以って天下を平定なさっておられる。況や石に於いてをや!
ああ! その石! その石!
お上の御覧(ぎょらん)を得て、その瞬間、石は光を放って、平伏するように畳み重なり合って、その姿を見る間に変えた!
思うに、この「萬」という名を持つ所以は何か? そもそも凡そ、「十」や「千」という数を以って、真意としての「ある限界」を示すことには、ならぬのである。凡そ数は、「一」に始まって「十」に窮まり、しかしそこで留まらずに「十」に始まって「百」に窮まり、しかしそこで留まらずに「百」に始まって「千」に窮まり、しかしそこで留まらずに「千」に始まって「万」に窮まり、そして更に、そこで留まらずに「万」を以って新たな数詞として新たに数え上げられるために、即ち、幾十百千「万」、その数詞が永遠に循環して繰り返されて、遂に「億」「兆」と続いて、区切るべき限界がないのである。この無窮無限の名を以って、石の寿命とするのである。その石の寿命を以って、今、御命名あらせられたお上の大御心の深奥なるに比するならば、即ち、それは一万八千丈を重ねた唐土(もろこし)の天台山頂華頂峰の、未だその麓(ふもと)に在るのと同じことなのである。その大御心の行き渡る時間をこの現世の時間で測てみても、即ち、それはまた、その大御心が幾「萬々」世に渡って続くかということさえも測ることが出来ぬ程の永劫なのである。お畏れながら、田夫野人の拙僧の言葉を以って一偈を成さんとす。
九鼎よりも重い――万年石――されど
貴命あり――永遠の時空の中で始めて驚いた――石とてもこの貴き御言葉を軽んずることは出来ぬ
宇宙を包む穏やかな一体となった気――それはそのまま無一物無尽蔵の絶対の真理の中に在る――
さあ例えば秋を送ろう――そしてまた春を迎えよう――永遠の時を迎え取ろう――
現住職 沢庵宗彭之を記す
* * *
やろかつといふ物の事
蠻國産の由。やろかつといふ物、ちいさき蓮華を押堅たる樣成もののよし。いづれの御時にか有し、御簾中(れんちゆう)樣御産の時安産の呪(まじなひ)たる由。器に水を盛、彼品を入置しに、御産しきりに隨ひ右器の内を廻り、御安産の時に至り開き候よし。又御血治り候に隨ひ元の通りに成ける。奇成ものの由、奧勤(おくづとめ)いたせる老人の物語りゆへ爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:低頭する奇石から奇しき呪物へ。
・「やろかつ」不詳。安産の呪物としてはタカラガイ(コヤスガイ)が有名で、その他、臼や箒、ある種の霊石、猿の手骨等を知るが、このような物体は聞いたことがない。一読、所謂、「ちいさき蓮華を押堅」めたという形状から、腹足類のサザエ等に見られる炭酸カルシウムの蓋を想起したが、これは酢ならまだしも水では運動しないし、開いたり元の形状に戻るというのは当たらない。次に考えたのは中国茶で見かける球状に干し固めた毬花茶(まりはなちゃ)の類で、これは恐らく水分を吸収する際に動くように見えるし、美しく開く。しかし、やはり元には戻らない。識者の御教授を乞うものである。叙述内容からして、鎮衛は実見していない。
・「蓮華」スイレン目ハス科ハス Nelumbo nucifera のこと。マメ目マメ科ゲンゲ Astragalus sinicus をも指すが、わざわざ「ちいさき」と言っている以上、ハスの開花前の花若しくはハスの実を言っていると思われる。形状の特異性から言えば、ハスの実、あの蜂の巣状の花托の謂いであろう。
・「押堅たる」岩波版では「ほしかためたる」とある。
・蠻國産:南蛮渡来。言葉の響きや漢字を全く当てていない点からは、少なくとも名称はポルトガルかオランダ語由来であろう。
・「簾中」一般には貴人の正妻を言う語であるが、岩波版で長谷川氏は特に『将軍後継者の妻をいう』と記しておられる。
・「奧勤」大奥勤め。
■やぶちゃん現代語訳
「ヤロカツ」という呪物の事
南蛮渡来の品です、という。「ヤロカツ」というそれは、小さな蓮花の実を押し固めたようなものです、という。幕府御創成以来、何れの御時からであろうか、判然と致しませぬが、次の御世の将軍家たらんとする御方の、御台所様御出産の折りの、安産のおまじないとして必ず用いられて参りました、という。その呪法はと言えば、まず器に水をたっぷりと入れ、これをその中にそっと入れおくと、お産が進むに従い、この物、自然とその器の中をくるくると気持ちよさそうに泳ぎ廻りまする。さうして無事お子様がお生まれになったその瞬間、ぽんと、花のように開きまする、という。その後、産後に出血が治まりになられるにつれて、再び投入する前の押し固めたような元通りの形となりまする。誠に、奇体なるもので御座いました、という由、奥勤めの経験があった老女が私に物語ったことがある故、ここに記し置く。
* * *
ちかぼしの事
近星出れば大臣の愁ひありと。俗説何による事を知らざりしに、曲淵(まがりぶち)氏の物語りに、何れの書にてやありけん其事を書しを見侍りき。老中抔病氣危急の時は、生干の鱚を御使して被下事定例也。生干は近く干す故、けふは近干の御使出しといふを、いつの此よりか唱へ誤りけんとの物語、面白き故爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:奇しき呪物から凶兆の星へ。
・「近星」月に有意に近く突然出現するように見える星。死・災厄(特に火災や兵乱)といった凶事の前兆とされ、古来、多くの歴史書や日記等にも記載が見られる。
・「曲淵氏」恐らく16条先の「微物奇術ある事」に話者として出る曲淵甲州、曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)のことと思われる。以下、「朝日日本歴史人物事典」の曲淵景漸(享保10(1725)年~寛政12(1800)年)の項によれば、江戸後期の江戸町奉行で、『明和1(1764)年2月目付のとき、大坂での朝鮮通信使従者殺害事件の処理に当たる。同4年12月大坂町奉行のときは、大坂家質奥印差配所設置にかかわる。天明7(1787)年5月江戸町奉行のとき、江戸は米価高騰で市中が不穏な状況に陥ったが、曲淵は適切な対応を取らず、数日にわたり打ちこわしが各所で起きる。以前の飢饉では猫1匹が3匁したが、今回はそれほどでもないといったという風聞も立った。よって翌6月町奉行を罷免されたが、翌8年11月に公事方勘定奉行となる。天明の打ちこわしを惹起した対応を除けば、真に能吏であった』という詳細な記載が載る。鎮衛との、この話での接点は明和1(1764)年前後の目付の折であろう。鎮衛より一回り上の上司である。
・「鱚」スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica 又はアオギス Sillago parvisquamis。漁獲量が減った現在では、淡白な高級干物であるが、当時でも贅沢品であったか。脂の少ない点、病気見舞いにはよいと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
凶星ちかぼしの事
月の近くに星が突如出現すると、当代の大臣にとって不吉なことが起こる、なんどとよく言われる。全くの俗説にして、如何なる謂われがあるのかも知らなかったのだが、曲淵甲斐守殿のお話に、
「どの書物であったか、さて、書名は忘れたが、その謂われを記したのを確かに見た覚えが御座る。それによれば、ほれ、老中など病気危急の際には、お上より、生干しの鱚を御使者に持たせて御見舞下されるのが定例で御座ろう? あの「生干し」というのは、獲ってすぐに干してすぐに降ろす、近日(きんじつ)干し、近日(ちかび)干し、「近(ちか)干し」故、『今日は近干しの御使者が出た』と言うたのを、いつの頃よりか聴き誤ったのであろう、というので御座った――」
と、まあ、何とも意外で面白きこと故、ここに記す。
* * *
仁君御慈愛の事
有德院樣の御人德は、承るごとに恐れながら感涙催しける事のみ也。享保御治世の頃、小出相模守といへる御小姓(おこしやう)ありて、思召にも叶ひ樣子能く勤たりしが、京都辰巳や公事の取持いたし、不義の奢抔なし、不愼の事多く、御仕置被仰付ける事也。右御吟味の初に、相模守不埒の趣も御存有しが、聊御氣色に顯れず、御酒の御相手をも被仰付、相模守は少しも心付ず醉狂常の通り也しに、御次より御側衆罷出、相模守事御表御用有之よし申候故、則相模守は御次へ下りけると也。公は御盃を被差置、最早酒をとり候樣にとの上意にて、不殘御膳を下げ候故、御近所廻りも何か譯も有之事と、一同恐入ていと無興(ぶきよう)なりしに、公は御着座の上、御近侍廻りを御覧被遊、相模守事不便の由にて御落涙被遊けると也。積惡の者をもかく御憐の事、御仁惠の程難有事也と、去る人語ひ給ひけり。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関は認めないが、前に複数出る一連の吉宗の仁徳連関記事。
・「有德院樣」八代将軍徳川吉宗の諡り名。
・「小出相模守」小出広命(ひろのぶ)。底本と岩波版の注を総合すると、「寛政譜」によれば、享保2(1717)年2月9日に吉宗の御小姓となり、石高三百石、その後、『十一年六月三日遺迹を継、十六年十二月二十三日従五位下相模守に叙任』したが、元文5(1740)年3月22日に『つとめに応ぜざるの所行あるのむね聞こえしにより、青山大膳亮幸秀に召預け』となった。延享元(1744)年没。彼の父半太夫は紀州家家臣で、享保元(1716)年に幕臣となった吉宗旧知の間柄であったことから、格別の愛顧を受けたものであろう。
・「京都辰巳や公事の取持いたし」訴訟の過程を、めだか氏のHP内、読書日録の中、松井今朝子「辰巳屋疑獄」の小説梗概の事件の要所部分を引用させて頂く。大阪の炭問屋『辰巳屋は去年三代目久左衛門が還暦を迎えて隠居し、四代目の当主久左衛門が跡を継いだが若干20歳の青年であった。このため隠居した三代目久左衛門改め休貞が、実質的に店を差配し現当主はお飾りに過ぎなかった。休貞には男3人と娘一人の4人の子が有ったが今家にいるのは長男の現当主と三男茂兵衛の二人である。長男は遊び好きで商売に身が入らないのに対し、三男の茂兵衛は10歳の頃から師匠について学問を始め、12歳で師匠に何も教えることが無くなったいわれるほどの神童であった。』『休貞はこの茂兵衛が跡を継いだら辰巳屋はますます発展するだろうと良く口にしたが、長男を差し置いて三男が跡を継ぐのは難しい。18歳で茂兵衛は同業の炭問屋木津屋に養子入りし木津屋吉兵衛を名乗る。』『木津屋はもともと炭問屋であったが吉兵衛の代になってから、質屋に手を広げ担保を取って金を貸すようになる。本業の炭問屋は次第に手薄になる。しかも貸す金の資金源を辰巳屋に求めるようになる。辰巳屋は隠居の休貞が死に四代目の当主が身体をこわしている。跡継ぎは娘が一人しかいない。ここからお家騒動が発生する。辰巳屋、木津屋が大阪の東西両奉行所を巻き込んで訴訟合戦を展開、役人への賄賂も絡んで大疑獄事件に発展する』(一部衍字と思われるものを除去した)。但し、本作は小説であるから、事実との齟齬があるかも知れない。その後のことは、岩波版長谷川氏の注に依ろう。本件訴訟に絡む贈収賄事件の結末は、元文5(1740)年に下され、茂兵衛改め『吉兵衛は遠島、大阪町奉行用人の馬場源四郎は収賄で死罪、町奉行稲垣淡路守も免職、関係者が処罰され、江戸でも獄門・死罪・追放等に処せられた者が出た』とする。内山美樹子氏の論文「辰巳屋一件の虚像と実像――大岡越前守忠相日記・銀の笄・女舞剣紅楓をめぐって――」(ネット上でPDFファイルにより閲覧可能)には「大阪市史」第一巻(大正2(1913)年大阪参箏会・幸田成友等編)から「幕吏の汚行」の例として掲げたものを、以下のように引用している(以下、割注は【 】で示した)。
南組吉野屋町に富商辰巳屋久左衛門なる者あり、家産二百万両手代四百六十人を有す。先代久左衛門の弟木津屋吉兵衛辰巳屋の財産を横領せんと欲し強ひて養子当代久左衛門の後見となれり。久左衛門及手代新六等之に服せず起って抗訴を試みしに吉兵衛豫め東町奉行稲垣種信の用人馬場源四郎を通じて、厚く種信に賄ふ所ありしかぱ、彼等の訴状は一議に及ばず却下せられ、剰へ新六は牢獄に投ぜられたり。是に於て同志の手代江戸に之きて評定所門前の訴状箱に願書を投じ、関係老一同の江戸召喚となり、数回の吟味を経て種信・源四郎・吉兵衛の罪状悉く露顕し、元文五年三月十九目、幕府種信の職を奪ひ、持高を半減し、且つ閉門を命じ、源四郎を死罪に、吉兵衛を遠島【○九月減刑して江戸十里四方及五畿内構となる、】に処し、其他江戸大阪の士人連座して罪を被る者多く、松浦信正【○河内守】新に東町奉行に任じ、又西町奉行佐々成意【○美濃守、元文三年二月松平勘敬に代る、】は吉兵衛与党の言を容れて、手代新六等の訴状を却下したるにより、一時逼塞を命ぜられたり。(六〇五頁)
また、小出相模守についての叙述が論文本文にも現れる。以下、該当箇所前後を引用する。多数の人名が登場するが、詳しくは該当論文をお読み頂きたい。
五年一月中旬以後、入牢となった吉兵衛を宿預けに持ち込み、罪を軽くするために、手代達により、江戸町奉行所関係及び幕臣等への贈賄工作がなされたことが、三月十五日の、知岩、正順逮捕をきっかけに明らかにたり、申渡覚にみる如き、多くの処罰者を出すに至った。小出相模守などは『【自宝永四年至寛延三年】大阪市中風聞録』によれば「紀州より御馴染之御小姓衆……別て御出頭」であったが「御役柄不相応之儀有レ之……青山大膳亮殿へ御預け」を申渡された。父(子?――翁草)が改易になっているので、当人も最終的に御預けで済んだどうか。『銀の笄』では小池相模守という「はきゝの御旗本」が知眼和尚を通じ吉兵術から賄いを受け、切腹を仰付けられている。
南町奉行所の与力福島佐太夫の場合、申渡によれば、吉兵衛の手代から遊所での饗応を受け、金も一両一分受け取ったようである。いずれにせよ主犯の馬場源四郎のように、多額の金品を受けた訳でないが、収賄の額は些少でも、今回の一件の「御詮議に拘り候故、諸事可二相慎一処、背二神文一振舞」とあって死罪の判決を受けている。御番医師丹羽正伯老は小普請入り、さらに当の北町奉行所石河土佐守組の与力が二人、吉宗の側近加納遠江守の家来が一人、御暇となった。北町奉行所の二人の与力などは、忠相の配下にいたこともあろうし、吉兵衛を江戸へ召喚してから僅か二ヶ月の間に、身内の江戸町奉行所、幕臣等に、これほどの汚染が広まったことには幕府関係老も暗然とならざるを得なかったであろう。
と解説されている。引用文中の『銀の笄(かんざし)』は本事件を扱った実録小説で元文4~5(1739~40)年に版行されたもので、辰巳屋騒動は他にも歌舞伎「女剣舞紅楓」等に潤色されている。「はきゝの御旗本」の「はきき」は「幅利き」で、羽振りがよいことを言う。以上、何せ、辰巳屋久左衛門は伝説の豪商でその資産2000石相当、そこから金を吸い上げ、ひいては乗っ取りを画策する木津屋吉兵衛も半端じゃあない。このたかが町屋の商人の争いが、されど幕府要職をも巻き込んだ大泥沼と化し、累々たる死体の山が出来上がる――この事件、想像を絶する展開と相成ったのであった。
・「御側衆」将軍の側近中の側近。将軍の就寝中の宿直役を始めとして、SPとしての警護全般、将軍就寝・御不例時には指揮・決裁を行う権限さえ持っていた。老中とほぼ同等の将軍諮問機関で、特に御小姓の管理監督権は彼等にあった。
■やぶちゃん現代語訳
仁君吉宗公御慈愛の事
有徳院吉宗様の御仁徳は、そのお話を承る度に、お畏れながら、感涙を催すことばかりである。例えば――
享保の御治世の頃、小出相模守広命という御小姓があった。有徳院の思し召しにも叶い、まめにお勤致いておったのだが、公(おおやけ)を巻き込んだ京都辰巳屋の事件で収賄致し、それに関わって、不義と見做されても仕方がない奢り高ぶった行跡など成し、他にも不謹慎なる行い数多く、結局、御公儀決裁の上、御仕置き仰せつけらるることと相成ってしまったという出来事があった。
これに付き、御公儀方の御吟味がまさに始まっておった、その時、有徳院様は一連の相模守不行跡につきても、実は既にご存知であらせられたのであるが、それを聊かもお顔に表わされることもなく、何時もの通り、小出に御酒のお相手を命ぜられたのであった。
その時の相模守は、愚かなことに、自身に裁きのお沙汰が近づいておることに全く気付くことなく、常の通り、如何にも酔うた興に任せての、如何にも楽しいご相伴に与(あず)っておったのだが――突然、控えの間から御側衆が参上致し、相模守に急遽、よんどころなき御公務これあり候に付き、ご退出あられよとの達しこれあり、相模守は御側衆と共に、控えの間へと下がって行ったという。――
――すると有徳院様は御盃をお置きになると、
「……最早……酒を下げよ……」
との仰せにて、うち広げてあった宴席の御膳を一切残らず、お下げさせ遊ばされた。
件の事件に付きては、極々内密に内偵・御吟味がなされており、その時、事情を知らなかった殆んどの御近習・供廻りの者どもは、酒宴のお取り止めの急なことに、何か我らに御不快の本(もと)やあらんかと、一同、畏れ入って、お部屋内、水を打ったように静まり返っておった。
――すると、有徳院様は上座にお戻りになってお座りになられ、ゆっくりと御近習供廻りの者どもを見渡されると、一言、
「……相模守が事……不憫……」
とのみ仰せあって、後は落涙遊ばされた、のであった、と。
「……積悪の業者(ごうじゃ)であっても、かくまでお憐れみになられたこと、その深い御仁徳御慈恵の、なんと有難き事か……。」
と、ある人が、私にお話に下さったことであった。
* * *
淨圓院樣御賢德の事
吉宗公の御母堂樣は、淨圓院殿と稱し奉る。其御出生を承るに、至て卑賤にて、御兄弟等も紀州にて輕き町家の者なりしが、吉宗公御出世に付、淨圓院樣の御甥巨勢(こせ)兩家共五千石の高を賜り、御側御奉公に被遣しとかや。然るに、淨圓院樣至て御篤信にて、所謂婦中の聖賢ともいふべき御行状のよし。吉宗公御孝心にて、日々爲伺(うかがひのため)御容躰に爲入(いらせられ)侯處、御歸の節は、三萬石の節を御忘被遊間敷(まじき)と常々被仰候由。巨勢兩家五千石高に被仰付侯節、將來御當家勤仕(ごんし)の者又紀州より御供の者は如何樣にも御取立可然侯へ共、巨勢兩人は元來町人の儀、御身分の故を以御取立の儀、御國政の道理に當り不申、難有とは不被思召由、御異見有し故、流石、吉宗公にも殊の外(巨勢御取立の節)御困り被遊侯由。尤一旦被仰渡も有之上は、今更御改(あらため)も難成(なりがたき)事に付、此上右兄弟の者御役筋決(けつし)て不被仰付、只今の姿に被差置被下候樣いたし度、倅共の代に至り其器に當り候はゞ如何樣にも被召仕度(めしつかはされたき)段願ひ故、伊豆守兄弟共只奧へ相詰候迄にて、一生御役は不勤(つとめざる)よし。且一位樣よりも度々御對面の儀被仰遣(おほせつかはされ)候得共、輕き身分より結構に成候儀、歴々の御前へ出候身分に無之由、御斷被仰上(ことはりおほせあげられ)、漸々(やうやう)西丸樣より御取持にて一度對顏有しが、始終遙(はるか)の御次にのみ入らせられ、御挨拶等も御近習の女中衆へ御挨拶のみにて、甚敬憚(けいたん)の御事なりしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:吉宗の仁徳からその生母浄円院於由利の方の仁徳へ。
・「淨圓院」於由利の方(明暦元(1655)年~享保11(1726)年)の落飾後の法名。紀州徳川光貞の側室で吉宗の生母。公式な記録では紀州藩士巨勢利清の長女とされるが、本文でも匂わせるように実際には百姓の出であるらしく、紀伊和歌山城に下女奉公に上がっていたところに光貞のお手が付き、貞享元(1684)年に吉宗を出産している。宝永2(1705)年の光貞没後、落飾、吉宗将軍就任の2年後である享保3(1718)年になって和歌山より江戸城二の丸へ移っている。
・「巨勢兩家」浄円院の生家とされる巨勢家の浄円院の兄弟二人。底本の鈴木氏の補注には、浄円院の甥である巨勢至信(ゆきのぶ)、浄円院の弟である由利(よしとし)が享保3(1718)年『幕臣に取り立てられた。各五千石を領』した、とある。
・「三萬石の節を御忘被遊間敷」吉宗は元禄十(1697)年に綱吉より越前葛野藩三万石の藩主に初めて封ぜられた。それから8年後の宝永2(1705)年10月に紀州徳川家5代藩主となり、その2ヵ月後の同年12月1日に江戸幕府将軍職に就いている。
・「將來御當家勤仕の者」岩波版は「將來」を「從來」とする。訳ではそちらを採る。
・「(巨勢御取立の節)」底本ではこの右に補填した版本を示す「(尊經閣本)」という注記がある。文脈から一目瞭然で不要であるから、訳では省略した。
・「伊豆守」前注の巨勢至信のこと。
・「一位樣」吉宗の死後の別称。吉宗は寛延4(1751)年6月20日に逝去するが、その一年後の寛延5年6月10日に朝廷より正一位太政大臣を追贈されていることから。
・「西丸様」吉宗が寵愛した側室於久免(元禄10(1697)年~安永6(1777)年)。紀伊藩士稲葉彦五郎定清の女。芳姫の生母。院号は教樹院。同郷好みで、浄円院とは関係が円満であったか。
■やぶちゃん現代語訳
浄円院様御賢徳の事
吉宗公の御母堂様は浄円院殿と申し上げた。その御出生を承れば、実は至って卑しい身分の出で、その御兄弟等も、かつては紀州の町屋の、如何にも低い町人であったのであるが、吉宗公御出世に伴い、浄円院様の甥ごの巨勢至信(こせのゆきのぶ)・浄円院様弟君由利御両家とも、それぞれ石高五千石を賜り、同時に御側御奉公を仰せつけられたとかいうことである。
しかし、この浄円院様というお方、至って信義に篤い、所謂、「婦中の聖賢」――婦人の中の稀なる聖人にして賢者――とも称せらるべきお行いを貫かれたお方であらせられたという。
例えば、――吉宗公は御孝行に厚く、日々浄円院様の御座所である二の丸へお成りになられ、御母堂の御身体(おからだ)の御調子お伺いのため、お訪ねになられたのだが、その御帰りの際、浄円院様は吉宗公に向かわれて、
「三万石のあの頃の御事、決してお忘れ遊ばされませぬように。」
と、常々仰せられた、ということである。
また、――浄円院様御兄弟の巨勢両家に五千石を仰せ付けられた折りのこと、浄円院様は、
「従来より御当家に勤仕(ごんし)しております者、又、この度、はるばる紀州よりお供して参上致しました旧知の御近衆の者は、如何様にも御取り立てになられて然るべきことと存じまするが、この巨勢両人は、元来、町人にて、あなたさまが上さまとなられた、その御身分故に、この下賤の者両名を格別に御取り立てなさるというは、これ、国政の道理に当たらざること、と申せましょうぞ。そのようななさり方は、決して、上さまご自身、有難き正しいこととは、当然、お思いになられて御座しゃらぬことと存じます。」
と、鮮やかにきっぱりと御意見なさったため、流石に、これには吉宗公も殊の外、御困(ごこう)じ遊ばされたということである。そこですかさず、浄円院様は、
「尤も、ひとたび上さまが仰せられお言い渡しあられた上は、今更、お改めになることも成しがたきこと――なればこの上は、向後右兄弟の者、御役筋への任官は決してなさらず、このまんまの、ただ傍らの武士巨勢至信、巨勢由利として差し置かれ下さいますように――その両名の倅どもの代にでもなり、その倅どもの人品才覚に政(まつりごと)に用いるべき何ものかを、万一、見出され遊ばされるようなことでもあれば――その時には、どうか如何様にも召し使ってやって下さいますように。」
との堅き願い出故、後、巨勢伊豆守至信と巨勢由利の兄弟は、ただただ、奥向きに身を置いているというばかりで、生涯、御役を勤めずに終わった、ということである。
且つまた、――一位吉宗様から、たびたび本丸にての親しき御対面に付き、仰せ遣わされられたので御座ったが、浄円院様は、
「私めは、低き身分の出でありながら、偶々かくありがたい立場に相成りまして御座いますればこそ、貴きお歴々の御前へ参上致すような身分の者にては御座いませねば。」
と、ずっとお断り申し上げておられた。それでもやっと、ご側室の西丸様のお仲立ちにて、一度だけ格式に則った将軍家父母御対面の儀式が執り行われたのであるが、その折も、浄円院様は始終遙か離れた次の間にお入りになられただけで、そこから全くお出になられることなく、御挨拶の折にも、端下の、御近習の女中衆へご挨拶するばかりで、終始、殿中の諸人に敬意を払われ、万事憚って謙虚にお控えになっておられた、ということである。
* * *
和國醫師僧官起立の事
後小松院の御宇、半井(なからゐ)驢庵事和朝の醫師僧官の始のよし。右は最勝王經天女品(ぼん)に、聊沐浴するの藥劑有し、其比は右の經文比叡山の佛庫に封じあるを、閲見の望ありて奏聞ありし故、叡山へ敕命ありしに、俗躰の者拜見を禁じければ、半井驢庵法躰して僧官を給はり、右最勝王經を一覧致しけるとかや。往古はかゝる事もありしやと見ゆ。最勝王經の藥法、強て利益あるものにもあらずと思ふ由、さる老醫の物語なりき。
□やぶちゃん注
○前項連関:強い素材的連関は認めないが、吉宗生母浄円院於由利の方の堅実にして謙虚な威徳に対して、勅命への比叡山の物言いの不遜さは際立って対照的である。
・「起立」は「きりふ(きりゅう)」と読む。事始・創始の意。
・「後小松院」室町時代北朝最後の第6代天皇にして歴代第100代の後小松天皇(永和3・天授3(1377)年~永享5(1433)年)。在位は永徳2・弘和2(1382)年~応永19(1412)年。
・「半井驢庵」諸注・諸記録を参照すると、代々医師の家系であった半井家には「驢庵」を号する習慣があり、澄玄明親(あきちか 生年不詳~天文16(1547)年 初代驢庵)・瑞策光成(あきちか 大永2?(1522)年~慶長元(1596)年 二代驢庵・明親の子)・瑞桂成信(なりのぶ 瑞策の子か。天文10(1582)年に瑞策と並んで名が記録にある)・瑞寿成近(生年未詳~寛永16(1639)年 三代将軍家光侍医にして典薬頭)等、複数存在する。元祖澄玄明親は永世年間(1504~1521)、中国の明の皇帝武宗が病を得て、後柏原天皇の命を受け、渡中、治療を施して、美事治癒させた。帰国の際に、驢馬を贈られたことからかく号したという。しかし、後小松天皇の御代では後柏原天皇の4代も前で、全く合わない。スーパー・ドクターとしての驢庵伝承は各地に偏在するが、その中でも、誤伝に類するものである。
・「僧官」朝廷から僧に与えられる官職。僧正・僧都・律師の僧綱(そうごう)。これに対応する僧位として、それぞれ、僧正に法印大和尚位(法印)・僧都に法眼和上位(法眼)・律師に法橋上人位(法橋)が与えられた。
・「最勝王經天女品」「最勝王經」は大乗経典の一。全10巻。「金光明経」を唐の義浄が漢訳したもの。奈良時代には護国三部経の一として尊ばれた密教系経典。岩波版長谷川氏注に、その「大弁天女品第十五之一」洗浴の香薬三十二味の名がある、とする。
■やぶちゃん現代語訳
本邦最初の僧医事始の事
後小松院の御代、半井驢庵なる人物が、本邦に於ける僧官位を持った医師の最初であるとのことである。「最勝王経」天女品には、少しばかりではあるが、沐浴して効あるとする薬剤の記載があったが、当時、本経は比叡山の仏庫の奥深くに封蔵されておった。後小松院は、この記載あるをお聴き遊ばされて、これを是非とも閲見したいとお望みになられ、叡山へ勅命が発せられたのであるが、叡山側は、俗体の方には拝見を禁じておりますれば、との返答であった。そこで後小松院様は即座に医師僧官職を新たに設ける旨の勅命を発せられた。これによって、医師半井驢庵は法体となって僧官位を賜り、その「最勝王経」を親しく閲覧致した、ということである。古えには、このような意外な事実もあったのであろうかとも思われる。が……
「……無理矢理くりくり坊主になんぞにさせられて、半井殿が有難く拝読なされたという「最勝王経」の薬方、私めもその写しを拝見致いたが、……まあ、大して効き目があるもののようにも、見えませなんだがのう……」
とは、私の知り合いのある老医の話であった。
* * *
南光坊書記を寫せる由の事
予が元へ來りし八十餘の老翁、南光坊書記を爲せる由にて持來りける間、寫記(うつししるし)し。
[やぶちゃん注:以下は、ビジュアルに底本に近いものを示すために、右から左へ縦書きになるように表示してある。]
謂
人 前 後 今
身 \│/
精 善―生―一
気 /│\
不 見 安 知
散
亂 急 越 法
也。 \│/
慎―度―前
/│\
立 無 治
悪 仏 善
\│/
悟―心―一
/│\
起 同 止
□南光坊書記配置補正
[やぶちゃん注:以下は、ビジュアルに底本に近いものを示すために、右から左へ縦書きになるように表示してある。底本の最終行は明らかに配置が悪い。縦一行の字数と意識的に合わせてある以上、綺麗に並べるべきであろう。また最終行末の句点も私には不自然に思われるので排除した。]
謂 前 後 今
\│/
人 善―生―一
/│\
身 見 安 知
精 急 越 法
\│/
氣 愼―度―前
/│\
不 立 無 治
散 惡 佛 善
\│/
亂 悟―心―一
/│\
也 起 同 止
□南光坊書記やぶちゃん解読書き下し文
[やぶちゃん注:これは一種の判じ物で、最初の三行は、それぞれ縦三字横三行の九字を、線に従って右上→左下・左上→右下・中央上→中央下・右中央→左中央へと読み、それを同じように下の二箇所でも行って訓読するようになっている。それに従って書き下す。]
今生見て 前世知る 後生安し 一生善
法度立て 急度治る 越度無し 前度愼
善心起て 惡心止る 佛心同じ 一心悟
人身精氣 散亂せざるを 謂ふものなり
□やぶちゃん注
○前項連関:前項に現れる比叡山延暦寺で一度は天台僧南光坊天海は修行したと考えてよい。
・「南光坊」南光坊天海大僧正(天文5(1536)年?~寛永20(1643)年)のこと。安土桃山から江戸初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。諡り名は慈眼(じげん)大師。徳川家康・秀忠・家光三代に渡って強力なブレーンとして政策参画した。武蔵川越喜多院・日光輪王寺の再興、寛永寺開基、日本初の大蔵経版本を計画した(刊行は死後)。その享年は135歳とも言われ、明智光秀=天海説等、出自共に極めて謎めいた人物である。
・「南光坊書記」本偈(染みたもの)の以下の訳は私の全くの思いつき我儘勝手自在訳である。御信用なさらぬように。また、是非とも誤訳の御指摘をも乞うものである。
■やぶちゃん現代語訳
南光坊天海の書き記したものを寫したものとの事
たまたま私の許へ訪ねてきた八十余りの老翁が、これは南光坊天海の書き記したものを寫したものと称して持ち来ったので、とりあえず面白いものなので、ここに写し記した。
現世 生き様(ざま)親しく見れば
己の前世も確かに知れる
自然 後生も安きは必定
されば 三世一生 須らく善じゃ――
法度 それをば厳しく立ったれば
きっと不正は正さるる
自然 落ち度は悉皆無(しっかいむ)
されば 元より慎みも 元の元から安心(あんじん)じゃ――
心底 善を起(た)ったれば
悪心全て止(と)むるもの
自然 仏の心と同じ
されば 一心 悟達の境(さかい)
これはこれ
人の心の在りようの
自然 散りも乱れぬ様なるを
自(おの)ずから あんたに 謂うた ものなんじゃ――
* * *
妖氣不勝強勇に事
土屋侯の在所、土浦の家士に小室甚五郎といへる者有しが、飽まで強氣(がうき)にて常に鐵砲を好み、山獵(やまれふ)抔を樂けり。土浦の土俗呼んで官妙院と呼狐あり。女狐をお竹と呼。稻荷の祀(やしろ)など造り右兩狐を崇敬するもの有けり。或時甚五郎右雌狐お竹を二ツ玉を以て打留、調味して勸盃の助となしける。土浦城下より程近き他領百姓の妻に右官妙院狐付て、樣々に口ばしり甚五郎を恨罵りける。其夫は勿論村中打寄て、こは道理ならざる狐かな、甚五郎に恨あらば甚五郎に社(こそ)可取付に、ゆかりなき他領の者に付て苦むる事と責問ければ、答ていへるは、我雌を殺し喰へる程の甚五郎にいかで可取付や、土浦領へ入さへ恐ろしきまゝ、汝が妻に取付たり、何卒甚五郎を殺し呉よと申ける故、土浦領に知音ある者申遣ければ、甚五郎此事を聞て、憎き畜生の仕業かなとて頭(かしら)役人へ屆て右村方に立越、不屆成畜生、他領の人を苦む不屆さよ、爾々落ざるに於ては、主人へ申立、百姓等が建置し社(やしろ)をも破却し、縦令(たとひ)日数は延候共、晝夜精心を表し官妙院をも可打殺と大きに罵り、彼社へも行て同じく罵りければ、早速狐落て其後は何のたゝりなしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:天海の護符は強力な呪術的パワーをプンプンさせているが、そんなパワーを人にしたようなのが、この小室甚五郎。
・「強勇」「がうゆう」と読む。剛勇。兵(つわもの)。
・「土屋侯」常陸国土浦土浦城(亀城)城主。城は現在の茨城県土浦市中央1丁目にあったものが復元されている。城主が度々変わったが貞享4(1687)年に土屋氏が再度城主(先々代も同族)となって以降、安定した。
・「二ツ玉」筒に弾丸を二発込めること。一種の散弾と考えてよい。
・「調味して」漢方系サイトを調べると、民間療法の一つとして寒・熱瘧・狐魅を主治するものとして狐の肉を用いるとあり、また広く蠱毒を解くものとして、狐の五臓と腸を通常の肉類と同じように処理して五味を加え「キツネ汁」として食すとか、キツネの肉を焼いて食す、という記載がある。強烈な臭みがあると思われるが、甚五郎ならば焼いて食ったかも知れない。とりあえず訳は穏やかに鍋としておいた。
・「勸盃の助」酒の肴。
・「社(こそ)」底本ルビ。
・「頭役人」上司。
■やぶちゃん現代語訳
妖怪も剛勇には勝てぬという事
土屋侯の御在所、土浦城家臣に小室甚五郎という者がおったが、いたって気が荒く、常日頃から鉄砲撃ちを好み、山野に狩猟などをなすを楽しみとしておった。
時に、その国境辺りには、土浦の土民が官妙院と名付けた狐がおった。その妻の狐もお竹と呼ばれておった。土民の中には稲荷の祠なんどを建てて、この二匹の狐を祀る者もおった。
甚五郎は、ある時その、お竹狐を二つ玉で仕留め、捌いて、鍋で煮込んで、酒の肴にし、何事もなく一匹ぺろりと平らげてしまった。
すると、土浦城下にほど近い、他領の百姓の妻に、殺されたお竹の夫である官妙院狐がとり憑き、様々なことを口走り、甚五郎を恨み罵ったという。その夫は勿論のこと、村中の者どもが集まって、
「貴様は、訳の分からぬ奴じゃな! 甚五郎に恨みがあるなら、甚五郎に憑くべきじゃに、縁も所縁もない他領の者に取り憑いて苦しめるとは!」
この理不尽なる憑きようを責め立てたところ、狐が言うことに、
「……我が妻を殺して食ってしまった程の甚五郎に……どうしてとり憑くことなんぞ、出来ようか!……それどころか、奴のおる土浦領へ脚を踏み入るるさえ恐ろしゅうて……そいでお前の妻にとり憑いたじゃ……どうか……憎っき甚五郎を……殺してくれい!……」
これを聴いていた者が、土浦の知り合いにこれを話したところ、それを甚五郎本人が聴き及んで、
「憎っき畜生の物言いじゃ!」
と怒り心頭に発し、狐成敗の事、頭役人に届へ出、右領外の村方に至り、官妙院狐がとり憑いた女に向かうと、
「不届きなる畜生! 縁も所縁もなき他領の者を苦しめるとは不届き千万! さてもさてもその女から離れずとならば、主君土屋侯に申し上げ奉ってお許しを承り、土民らが建てたる祠を破却致し、たとい日数(ひかず)の如何にかかろうとも、昼夜兼行精神堅固誠心を尽くして、官妙院! 屹度、貴様を撃ち殺す!」
と、散々に罵り、取って返して当の祠の前に馳せ寄り、祠も震えんばかりの勢いで同じように罵ったところ、たちどころに百姓女から狐が落ち、その後も何の祟りもなかった、というである。
* * *
長尾全庵が家起立の事
全庵本來は讚州の産にて、松平讚岐守醫師也。醫術功驗有により、江府(かうふ)、將軍家御臺樣御不豫の節被爲召(めさせられ)候處、大夫人の御事故、帷幕(ゐばく)を隔(へだて)御手計(ばか)り被差出、伺(うかがひ)の事被仰付ければ、都(すべ)て醫は御容貌其外御血色等も不伺候ては難成事に有之、御手脈斗(ばかり)の伺にては醫藥共難施趣御答に及びければ、尋常ならざる不敬に罪し、讚州へ蟄居被仰付しと也。其後、將軍家御不豫の節被爲召候て、御藥差上御平癒被爲在(あらせられ)候故、食禄可給御沙汰ありしが、老衰に及び候由御斷申上、依之(これによりて)御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし。今文哲家に右桑杖并林大學頭より其砌相贈りし桑杖記有之、祕寶とす。いづれの御代に當りしや、當文哲祖父なるべし。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関は認められないが、三項前の「和國醫師僧官起立の事」に続き、医家の事始譚として連関。
・「長尾全庵」岩波版の長谷川氏の注によれば、庄内藩主酒井忠義(寛永21(1644)年~天和元(1681)年)や八代将軍吉宗の父である紀州藩主徳川光貞らの『病を療治、正徳五年(一七一五)将軍家継の病気の時に、薬を献じ、目通りを許された』とあるから、本件の将軍家とは家七代将軍家継(宝永6(1709)年~正徳6(1716 )年)ということになる。しかし、彼は8歳で亡くなっており(但し、聡明な子であったと言われるので本件の「食禄可給御沙汰」や「御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし」を自立的に成したというのは決して不自然ではない)、その「御臺樣」正室となると、八十宮吉子内親王ということになるのだが、その婚約は7歳で、この一連の話としては、やや無理がある気がする。そこを自然にするには、この「御臺樣」を先代六代将軍の正室近衛熙子(ひろこ寛文6(1666)年~寛保元(1741)年 夫死後は落飾して天英院と名乗った)ととる方法か。熙子は延宝元(1679)年に嫁ぎ、宝永6(1709)年、家宣の将軍就任と同時に大奥に入った。長尾家は以後、幕府解体迄、代々奥医師の家系となり、当主は底本の鈴木氏の注によれば『一代毎に全庵と分哲を交互に』名乗った、とある。因みに幕末の嘉永元(1848)年 のこと、13歳の幕府の薬室生(医師見習)の少年が、当時の幕医長であったこの長尾(当代は全庵)の家に食客として入っている。この少年こそ後の郵政の父、前島密の若き日であった。
・「御不豫」天子や貴人の病気。御不例。
・「都(すべ)て」底本のルビ。
・「斗(ばかり)」底本のルビ。
・「桑杖」桑の箸を中風除けのまじないとしたり、桑酒は同病への効能があるとも言われた。……しかし、意地悪く言うなら、桑の木は中心に空隙があり、杖は折れ易いと思うのだが……。
・「文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、長尾全庵の子である長尾分哲伯濬(のりふか)のこと(誤り)とする。彼は享保11(1726)年『西丸奥医。元文五年(一七四〇)没、六十九歳』。
・「林大學頭」は林鳳岡(はやしほうこう 寛永21(1645)年~享保17(1732)年)。延宝8(1680)年に林家を継ぎ、四代将軍徳川家綱以後、綱吉・家宣・家継、八代吉宗までの5代に亙って幕府の文部行政や朝鮮通信使接待などに参与、特に五代綱吉・八代吉宗の信任が厚かったと言われ、官学としての林派の形成に力があった。元禄4(1691)年、それまで上野不忍池の池畔にあった林家の私塾が湯島に移されて昌平坂学問所(湯島聖堂)として竣工、それと同時に大学頭(昌平坂学問所長官:現在の東京大学総長に相当)に任じられ、以後、大学頭は林家が世襲した(以上は主にウィキの「林鳳岡」を参照した)。
・「いづれの御代に當りしや」この将軍を前注通り家継ととれば、この後半の一件は家継が将軍であった正徳3(1713)年4月2日から、逝去の正徳6(1716)年4月30日より遙か前、凡そ3年の間の出来事であるということになる。「耳嚢」のこの記載時から60数年前の出来事となる。
・「當文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、『分哲伯濬の孫分哲保定(やすさだ)』(の誤り)とする。この注が正しいとすれば、祖父ではなく曽祖父ということになる。
■やぶちゃん現代語訳
幕府医官長尾全庵家事始の事
元祖長尾全庵は本来は讃岐国出身で、松平讃岐守附きの医師であった。
ある時、将軍家御台様御不例の折り、この長尾全庵が特に仰せつかって江戸城内に召されたのであったが、将軍家夫人ということで、張り巡らした引き幕を隔てて御手だけをお差し出しになられるばかり、お側の者は、ただ脈取って診察せよ、と仰せつかったので、全庵は、
「総て医術は御顔全体の御様子の外、その御血色などの細部も合わせて診申し上げずには、正確な診断を下すことは難しいことに御座いますれば、御手のお脈だけにてはとても施薬など、成し難きことに存ずる。」
といった旨、お答え申し上げたところが、御台様に対面所望など以ての外、慮外尋常ならざるその物言い、甚だ不敬の罪なり、とされてしまい、故郷讃州にて蟄居仰せつけられた、という。
しかし、後日(ごにち)のこと、今度は将軍家御不例の砌、再び召喚されて江戸城内に召されたのであったが、今度(このたび)は、診察申し上げると直ぐ、御薬を処方し差し上げたところが、即座に平癒なされ、直ちにかつてあった禄を再び与えよ、とのお沙汰があったのだったが、全庵は、老衰なればとて、これをお断り申し上げる旨、申し出た。そこで、将軍家は、全庵が座敷内にての歩行も不如意なる様を実見せられておられたため、特に桑の木で出来た杖を下賜なされ、本人の代わりに息子の文哲に禄を賜わられた。
今、長尾家では、この桑の杖並びに、当時の林大学頭より、杖下賜の砌、添えられた文(ふみ)「桑杖記」が伝えられ、家宝としている。以上の出来事は何れの御代のことであったか、当代の長尾文哲の祖父の逸話と伝えられる。
* * *
貨殖工夫の事
享保の時代に藪(やぶ)主計(かずへの)頭といへる人有り。御側衆を相勤、後隠居して大休と號し候後も登城抔いたせる人也。主計頭至て倹約を専らにして、既に存命の内、子孫へ吹詰(ふきづめ)の金塊を両三丸づゝ、應親疎(しんそにおうじ)分與へしとかや。右貨殖の手法を聞しに、縦令平日にも風雨或は地震抔有ければ、家來を呼、昨夜の風雨に居(ゐ)屋敷下屋敷等破損何程也(なり)と尋けるに、家來も其氣に應じて、聊破壊に不及所をも、是程かれ程の損じ入用凡何十兩可懸と答、則右金子を除置て貯けるとかや。愚成様なれ共、音信贈答祝儀無祝儀朝夕晝夜都(すべ)て右に随ひ規矩を定、段々積財をなし給ふと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:幕府医官一族事始譚から貨殖工夫一族事始譚で連関。
・「藪主計」藪忠通(ただみち)鈴木・長谷川両注によれば、紀州徳川家の家臣藪勝利の次男で、享保元(1716)年に後の第九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦11(1761)年)に従って出仕、小納戸役300石に始まり、新番頭から西丸御側となり、浄円院(吉宗生母)の病気の際、精勤したことにより賞せられ、後、5000石を領した。寛延2(1749)年に職を退き、宝暦4(1754)年に76歳で亡くなった。鈴木氏は最後に職を退いた際、更に『慶米六百俵を賜わり、その後もしばしば登城して御気色をうかがい、吉宗の没後遺物として佩刀を賜わりなどした』と記す。因みに、吉宗の没年は寛延4(1751)年。
■やぶちゃん現代語訳
利殖の工夫の事
享保の年間、藪主計頭という人があった。御側衆を相勤め、後に大休と号して隠居致いて後も、しばしば登城など致いた人である。主計頭は至って質素倹約、節約節用を日々の行いとして、既に存命の内に子孫らへ、精錬して丸めた極上の金塊を三個宛、真に親しき者を勘案して財産分与したとかいうことである。その主計頭に、ある人がその利殖の秘訣を尋ねたところ、
「例えば――そうですな、日常、雨風のちょっと強い日やら軽い地震などがありました日には、家来の者どもを呼びまして、何時も『昨夜の雨風にて屋敷内・下屋敷などの損傷は如何ほどあったか?』と尋ねまする。すると家来も拙者の何時も心配が始まったと、内心、調子に乗りまして、聊かも破損に及ぶところがこれなき時にも、『これかれの損壊これ有り、御修繕のための御費用、凡そ何十両掛かることと存じまする。』と答え、拙者はまた、言われるが儘に、余っております金子からその分を修繕費として確かに除け置いて、貯えておくので御座る。――」
とか、言われたそうな。
一見、ちょっとした、また、何処やら間の抜けた話のようにも聞こえるが、日常の音信伝送・各種贈答・冠婚葬祭のみならず、朝夕昼夜の挙止動作に至るまで、一事が万事この要領と基準を厳しく守り定めて、次第に次第に一財産成された、ということである。
* * *
奇術の事
土浦侯の家士に内野丈左衛門と申者あり。其甥を同家中の名跡(みやうせき)に遣しける、若氣の心得違にて土浦を一旦家出しけるよし、丈左衛門方へ申越ければ、大に恕、所々心懸尋けるに行衛しれず。品川の邊に老婆の右樣の事を占ひなどせる奇術の者ありと聞て尋問ひければ、老婆答て申けるは、我等壇上にて修法(ずはう)の上品々申候内、甥子の身の上に似寄、言語も似て候はば右の所を押て段々聞糺し可被申(まうさるべし)。併(しかしながら)住所知れ侯ても咎(とがむ)る事は遠慮有べしと申しける故、承知の挨拶しける其時、老婆修法なして頻に獨言(ひとりごと)を申ける内、果して似寄の事出し故、いか成譯にて立退けると尋ければ、若氣にて風與(ふと)心得違ひ立出し由を演(のべ)ける故、人の家督を繼(つい)で不埒至極の心底かなと憤り罵りければ、幾重にも免し給へといへる故、少しも早く可立歸、當時は何方に居候(いさふらふや)と尋ければ、いまだ何方にも住所を不極、江戸よりは南の方に居候よしを申故、老婆に一禮を演て立歸り、頻りに南の方を尋けるに、深川の末にてはたと行逢、段々と申宥(まうしなだめ)引戻し、事なく相續をなしけるとかや。其後程過て咄しけるは、家出いたし兩三人連にて道を行、並木の茶やに立寄り、草臥(くたぶれ)しまゝ暫くまどろみし内、丈左衝門に逢て殊の外叱りを受、甚難儀せし夢をみてうなされけるを、連の者に驚(おどろか)され、遅くなりぬれば日も暮侯とて、引立られし事のありし由語りしが、右時日を考合(かんがへあは)すれば、老婆へ行衛を尋貰ひし日時に引合(ひきあひ)ける。不思議の事もあるもの也と丈左衛門物語の由、同家中の者語りけるなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項とは連関を認めないが、三項前の「妖氣不勝強勇に事」の主人公が同じ土屋侯を在所とする点で連関。
・「土屋侯」常陸国土浦土浦城(亀城)城主。城は現在の茨城県土浦市中央1丁目にあったものが復元されている。城主が度々変わったが貞享4(1687)年に土屋氏が再度城主(先々代も同族)となって以降、安定した。
・「名跡」家督相続人。
・「修法」本来は密教で行う加持祈禱の法を言い、壇を設けて本尊を安置、その仏前にて護摩を焚き、印を結び、真言を唱え、各種の祈願調伏を成す。ここではそれを真似た民間呪法の謂いである。古くは「すはう(すほう)」と読んだが、ここでは「しゆはう(しゅほう)」と読んでも構わない。
・「風與(ふと)」底本のルビ。
・「演(のべ)」底本のルビ。
・「並木の茶や」固有名詞。岩波版長谷川氏注その他によれば、浅草寺の雷門から南の駒形へ伸びる道の両側を並木町と言い、料理茶屋や食い物店が並んでいたという。しかし、果たして浅草寺から駒形辺を「江戸よりは南の方」と言ったであろうか? また丈左右衛門が甥を発見した当時の「深川」を「江戸よりは南の方」と言ったであろうか? 当時の深川が現在の江東区より遙かに広い地域を指していた事実をもってしても、私にはそれが「江戸よりは南の方」であるとは思えないのである。「江戸より」の謂いと「南」という謂いのダブルでこの後の事実と反している気がするし、そもそも「江戸よりは南の方」と言われて丈左右衛門が「深川」を探索したこと自体が私には奇異な感じがするのである。識者の御教授を乞うものである。
■やぶちゃん現代語訳
奇術の事
土浦侯の家臣に内野丈左右衛門と申す者が御座った。土浦家では、その内野の甥を養子と致し同家家督相続と致いたのだが、若気の至り、何の心得違いか、あろうことかある時、土浦家を出奔してしまった由、丈左右衛門方にお達しがあった。丈左右衛門、怒り心頭に発し、あちらこちら心当たりを訪ね回っては見たものの、一向に行方が知れぬ。ふと、品川辺に住む老婆で、かような行方知れずやら尋ね人に関わることを美事に占う者があると聞き、藁にも縋る思いで訪ねてみたところ、老婆は丈左右衛門の話を一通り聴いた上で、次のように答えた。
「……われら、これより護摩壇にて修法(ずほう)を執り行(おこの)う……されば、われら、あれこれとそこにて口走る……その話の内に……その甥ごの身の上によく似、また、その語り口も相似た者が現れたとならば……その者の話に応え、その居所(いどころ)その他につきて、徐ろに、問い質さるるがよろしい……じゃが……その居所が知れたからと言うて、直ちに咎め立てなさるは、ご遠慮あられよ……」
と。その申し出に、丈左右衛門が、
「委細承知。」
と応えるや、老婆は即座に加持祈禱を始めた――
――暫くすると、護摩壇の上で老婆は頻りに独り言を言い始め、その様々な声の調子の中に、果たして甥に似た喋り方が現れた。丈左右衛門は信不信半ばながらも、その声に向かって、
「何ゆえに出奔致いた?!」
と訊ねた。
「……若気の至り……ふと、魔がさして……心得違いにより立ち出でました……」
と答えた。
「人の! 主家の家督を継いでおきながら! 不埒千万! 何の心底か!!」
と、丈左右衛門は激しく憤り、罵った。すると声は、
「……幾重にもお詫び申し上げまする……どうかお許し下さいませ……」
と、頻りに恐縮するのであった。丈左右衛門は老婆との約束を思い出し、怒気をぐっとこらえると、
「さればこそ一刻も早く立ち帰るべし。そも、只今は何処(いずく)にか在る?」
と訊ねた。
「……未だ何処(いずこ)とも居所(きょしょ)を定めておりませぬ……江戸よりは……南の方におりまする……」
とのみ答えて、声は消えて行った――
――丈左右衛門はやはり半信半疑ながらも、求めたところの居所(いどころ)はとり敢えず聞き出せたわけで、この老婆に礼を述べて一度立ち帰り、改めてとり敢えず南の方へ、南の方へと尋ね求めてみたところが、何と深川の外れで甥本人とばったり行き逢わせたのであった。かねて声に対して憤怒していた分、ここでは見つかった安堵が勝ち、よくよく言い宥めた上、主家へと連れ戻し、何とか事なく、正式に土浦家相続を果たさせることと相成ったということであった。――
――その後、目出度く相続も終わり、程経たある日、土浦姓となったその甥が丈左右衛門に次のように告白した――
「――あの折り、家出致しまして、連れ立った友人と三人であてどなく道を行くうち、並木町の、とある茶屋に立ち寄りましたところで、何だかすっかりくたびれ果ててしまいまして、そこで暫くうたた寝致いたので御座いますが――その時見た夢の中で、おじ上に行き逢い、そこで殊の外のお叱りを受け、引くも成らぬ退くも成らぬほどの難儀を受けました――いや、そんな夢を見まして、うなされておりましたところを、連れの二人に揺り起こされた上、刻限も最早遅し、日も暮れて御座ると、急き立てられて茶屋を出たことが御座いました――」
丈左右衛門が、更に詳しく聞き質してみると、何と、その日限は、彼があの老婆に甥の行方を占って貰ったあの日限と、完全に一致したのであった。――
「不思議なことも、この世にはあるものである。」
と丈左右衛門が物語った由、土浦家御家中の者が語った、とのことである。
* * *
人の精力しるしある事
當時本所に中條道喜といへる者あり。町醫ながら相應に暮しけるが、其身の上を尋ぬれば、元來官醫のもとに若黨(わかたう)いたし、夫より所々中小姓(ちゆうごしやう)奉公抔なしけるに、身持不埒にて或は窮し又は困(こう)じけるが、中年にて剃髮し醫師に成、予が親友與住(よずみ)抔を便りて藥劑を聞合けるに、頻に青雲を得て今は相應に暮しける。右の者に可笑しき咄しあり。近き頃本所多田の藥師境内へ鐘を奉納せし故、與住事右の者に逢て、鑄鐘の事醫師の職業にも非ず、又小金にて出來ぬべき品にもあらず、佛法歸依の御身とも思われず、其意を尋ければ、さればとよ、道喜醫師に成候はじめ、甚の困窮にて一錢の貯もなく、度々多田の藥師の前を通りしに、堂塔修理侯へども鐘のなきぞ莊嚴(しやうごん)の欠たる也、其砌道喜事吉原其外按摩を渡世致しけるが、二錢三錢づゝも日々除置(のけおき)て鐘を建立すべし、若(もし)不幸にして志を不得ば其沙汰に及間敷、志を少しだに得るならば何卒生涯に建立可成と風與(ふと)誓ひし故、造立せしと申けると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関は認められないが、三項前の「長尾全庵が家起立の事」という幕府医官一族事始譚から医家事始譚で連関。
・「中條道喜」訓読みなら「みちよし」「みちのぶ」が考えられるが、医師なので「だうき(どうき)」と音読みしておけばよいと思われる。
・「若黨」江戸時代、武家にあって足軽よりは上位の小身の従者を言った。
・「中小姓」江戸時代、武家にあって侍と足軽の中間に位置する下級武士を言った。侍階級の最下層。
・「與住」底本の鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。』とある。「耳嚢」には他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や、「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する。
・「本所多田の藥師」玉嶋山明星院東江寺が正式な寺名(天台宗比叡山延暦寺派)。当時は、本所(現在の墨田区の南部分)の隅田川の岸(現在の駒形橋附近)にあった。天正11(1583)年開山、本尊の薬師瑠璃光如来像は「往生要集」の作者恵心僧都源信作と伝えられるが、この薬師如来が多田満仲(912~997:源満仲。清和天皇六孫王源経基長男、多田源氏の祖とされる武将。子に大江山酒呑童子退治で知られる源頼光がいる。)の念持仏(身長約18㎝)であったため、通称多田薬師と呼ばれる。上野の東叡山寛永寺末寺として江戸時代を通じて庶民の信仰を集めた。関東大震災により本堂が消失、後の帝都復興計画で駒形橋新設決定に伴い、葛飾区東金町に移転して現在に至る。現在でも、この移転した東金町近辺を「多田の薬師」と呼称している模様。
・「佛法歸依」底本では「佛法寄依」とあり、「寄」の右に鈴木氏によって「(歸)」とある。補正した。
・「吉原」当時、浅草寺裏手の日本堤にあった吉原遊廓のこと。新吉原。
■やぶちゃん現代語訳
人の誠心の祈請には必ずその験(しるし)が現れるという事
今、本所に中條道喜(どうき)という者がおる。町医者ながら相応に良い暮らし振りの者であるが、彼自身にその身の上を聴いたところでは、元々は幕府お抱えの奥医の下で若党など致し、その後は幾つものお武家の家中に入り込んでは、中小姓奉公など致いておったのだが、ふとしたことから身を持ち崩し、時によっては、貧困のどん底に落ちたりもした。しかし、中年になってから剃髪、若党時代の手習いで医師となり、私の親友の医師与住玄卓などを頼って薬剤調合法についての知見を学ぶうちに、町医者の商売繁盛、今のこの相応な暮らしに至ったという。
さても、その道喜に面白い話がある。
この道喜、最近、本所は多田の薬師の境内へ鐘を奉納した。そこで与住が彼に逢った折り、
「鐘を鋳造し奉納するなんど、医者たる職分にも相応しくなく、そもそも実物を見たところが、僅かな金で成せるような代物でもない……また、仏法帰依の御身とは、憚りながら、お見受け致さぬが……。」
と、その鋳鐘奉納の真意を訊ねた。すると道喜は、
「ご尤もなことに御座る……私めは医者になりましたその始めは、甚だ困窮の極みに在り、一銭の蓄えだに御座いませなんだ……その頃のこと、たびたび多田の薬師の前を通りました……折りからの堂塔の大改修、それはほぼ完成にこぎつけておりました……けれども、この由緒正しき名刹に、鐘がない、というのが、どうしても荘厳さに欠けておるな、と、この貧者ながら、心の内に思っておったので御座います……その頃……私めは吉原やその辺りの土地を歩いては按摩をして食っておったので御座います……そんな私で御座いましたが、ある時、多田の薬師を過ぎた折り、心に薬師を念じて『多田のお薬師さま! 二銭でも三銭でも毎日毎日僅かながら取り除けて貯え貯え、きっとこちらへ梵鐘を奉納致しまする。もし、不幸にして志しを立てることが出来ませねば、その誓願を実行することも出来ませぬが、万一、志しを少しだけでも立てることが出来ますれば、生涯のうちに、必ずや、奉納致しまする!』と、ふと、と誓いを立てたので御座った……さればこそ、かくて、かくの如く……鋳鐘奉納、致いた次第で御座る……。」
と申した、ということである。
* * *
御力量の事
恐多き御事ながら、當時將軍家の御力量拔群にあらせられ侯由。然共聊常にその御沙汰もなく、其程を伺(うかがひ)候者もなきが、或時品川筋、御成の折柄、御馬にて御殿山邊、通御(つうぎよ)の處、右山の樹枝に烏一羽泊り居しを御覧の上、錢砲を被召(めされ)、御馬上にて御覗ひありて、仰ぎ打に被遊ける所、矢頃遙に隔りけるが、礑(はた)と中りて鳥は止りぬ梢より遙に飛上りくる/\と廻りて落ける時、將軍家御片手に御筒を被爲持(もたせられ)、通途の者杖を廻す如く御廻し被遊、譽候樣御高聲に御自讚有しを、御近邊を勤(つとめ)御供に候(さぶらひ)し候(さふらふ)者咄されけるが、右御筒の儀は普通より遙に重き處、御片手に輕々と取廻し給ふ有樣、御力量の程何(いづれ)も驚入、又御火術をも稱歎せしと咄しける折ふし、有德院樣、惇信院(じゆんしんゐん)樣御兩代の御側廻り相勤候仁(じん)其席にありて、御當家は御代々御力量は勝れさせ給ひけるや、有德院樣は餘程に勝れさせ給ふをまのあたり見奉る。惇信院樣は御病身に被爲在(あらせられ)侯得共、御力量は餘程に勝れ給ふと存候事、度々有りしと語り給ひける。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関は認められないが(以前の将軍家の御事についての記載であり、民間人を扱った前項との連関は意図的に排除そうとしたとも思われる)、前出の吉宗の武徳仁徳讃嘆に続く歴代将軍武辺譚で連関。
・「當時將軍家」十一代将軍家斉(安永2(1773)年~天保12(1841)年)。在位は、天明7(1787)年~天保8(1837)年。しかし、そうすると底本の鈴木氏の解題にある執筆時期分類にある、「耳嚢」「巻之一」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃で、下限は天明2(1782)年春までという期間から完全に逸脱してしまう。執筆開始時にもその下限時に於いても、家斉はまだ将軍になっていない。この期間に入れるとすると、これを将軍職着任以前の出来事とるしかないが、彼の将軍職着任時の年齢は15歳である。このエピソードはやや考えにくい。また着任していない人物を「將軍家」とは言うまい。少なくともこの記事は、その謂いからしても、鈴木氏の言う次期よりも遙か後に書かれたものと私は考える。
・「御殿山」現在の東京都品川区北品川、高輪台地の最南端に位置する高台。現在の品川駅南方に当たる。徳川家康が建立したとされる品川御殿があったためこう呼ばれる。歴代将軍家御鷹狩休息所及び幕臣を招いての茶会場等に用いられたが、元禄15(1702)年火災により焼失、廃された。先立つ寛文年間(1661~73)の頃からこの一体には桜が植えられ、桜の名所として知られるようになった。
・「矢頃」は「やごろ」と読み、通常は矢を射るに格好の射程距離に対象があることを言う。ここではそれを鉄砲に援用した言いで、且つ、有効射程の遥か圏外に烏がいたことを示す。
・「礑」音は「タウ(トウ)」で、国訓で、物に何かがぶつかる音。はったと。
・「輕々と取廻し給ふ」は、底本では「輕々と取なやみ給ふ」とあり、右に「(取廻しカ)」と注する。注を採用し、補正した。岩波版では「御廻し」とある。
・「候(さぶらひ)し候(さふらふ)者」岩波版では「候(こう)し候者」とルビを振るが、私は音読した際のリズムから表記を採りたい。
・「何(いづれ)」は底本のルビ。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡り名。
・「惇信院」九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦11(1761)年)の諡り名。
・「仁」このご仁、最低でも65歳を下らない長老である。
■やぶちゃん現代語訳
将軍家代々御臂力抜群の事
恐れ多いこと乍ら、当代の将軍家の御臂力は抜群であらせられます由。然れども御日常にあらせられては聊かもそのような御振舞いもお見せにはなられることなく、その御臂力の如何に群を抜くものであるかを存じ上げておる者もなかった。さればこそ、ここに記しおくものである。
ある時、品川辺にお成りの折り、御馬にて御殿山辺りをお通りになられたところ、木の枝に鴉が一羽とまっているのをご覧になり、
「鉄砲を。」
と仰せられると、馬上にあらせられたままに狙いを定め、その高めの標的を仰ぐようにお撃ちになったところ――その鴉の位置は鉄砲の有効射程距離を遙かに越えていたのだが――トウ! と鴉のど真ん中に当たって、鴉はとまっていた梢から遙か上に吹き飛んで、くるくる回って、美事、落下した。
その時、上様は片手にお持ちになった鉄砲を、まるで普通の者が杖を回すかのように、くるくるとお回しになり、
「さても褒めんか!」
と、御声高らかに御自讃なさったとのこと、その折り、御側衆をしておった者がお話しになったのだが――何でも、その鉄砲の仕様は、将軍家特注のもので、通常のものよりも、遙かに重いものであったにも関わらず、上様は御片手で軽々と取り回されたそのありさまに、その場に伺候しておった者どもは皆、上様の御臂力は、一体どれほどおありになられるのか、と驚き入って、加えて、その砲術の御神技にも賞嘆致いた――と、上様御臂力に附き、話を続けておった折り、その場に偶々、有徳院吉宗様と惇信院家重様御二代に亙って御側廻りとしてお仕えした御方が居合わせており、
「御当家は代々御臂力に勝れてあらせられると拝察致すが、如何か。有徳院吉宗様が人間技とは思えぬ並外れた御臂力の持ち主であられたのは、しっかと目の当たりに見申し上げて御座る。惇信院家重様はご病気がちであらせられたものの、やはりその御臂力は余程に優れてあらせられると、感じさせらるること、いや、度々御座った。」
と、語って下さった、とのことである。
* * *
石谷淡州狂歌の事
石谷初(はじめ)備後守后(のち)淡路守は和歌をも好みてありしが、御留守居に成て依田豊前守と同役たり。豊前守は剛毅朴訥の人にて、老て後は筆頭故我儘もありし、関所手形等の事にて兎角利窟つよくこまりし事多きゆへ、密に口ずさみけると微笑して予に咄されけるが、至極其時宜に當り面白き故、爰(ここ)に戲書(たはぶれかく)のみ。
治れる代にも關路のむつかしはあけてぞ通す横車かな
□やぶちゃん注
○前項連関:歴代将軍家の臂力という内輪の話から公務へ連関。
・「石谷淡州」石谷清昌(いしがやきよまさ 正徳3(1713)年~天明2(1782)年)。「淡州」は「たんしふ(たんしゅう)」と読み、淡路守のこと。以下、個人ブログ『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」』に相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』に収載する児玉信雄氏の当該人物の記載から孫引きする。『宝暦六(一七五六)年から同九年までの佐渡奉行。宝暦六年四月、宝暦大飢饉の最中に就任し、年貢減免・御救米・夫食米の給付など、飢民の救済に尽力した。翌年老中に、佐渡の仕法改革について意見書を提出、鉱山・民政・奉行所機構など、多方面にわたる大改革を断行した。寛延一揆後、奉行の隔年交代の弊害と、農民支配の強化をめざして採用した代官制が、かえって圧政の一因であるとして、二代官のうち一代官を廃止し、全廃に向かう糸口を作った。また、奉行隔年交代の弊を補うため、江戸より常駐の組頭二人を来任させたり、広間役を一○人から六人に減らし、内二人を江戸から派遣するなど、奉行所の機構改革を断行した。このほか役人の待遇改善、鉱山施設の集中的経営、軍事力の強化、殖産興業と国産の他国移出策など、多方面の改革を行った。田畑からの年貢増徴に限界があれば、年貢増徴によらない民生安定の方策は何かというのが、石谷奉行の発想の原点であった。その方策を提供したのが、広間役高田久左衛門備寛であった。石谷は高田備寛に命じて、佐渡の治政と社会の問題点を、歴史的観点から報告させ、また、殖産興業と国産他国移出の立場から、郷村の実情を調査報告させた。これが『佐渡四民風俗』である。これを基礎に据えて、石谷の佐渡支配が行われた。宝暦九年勘定奉行になり、田沼意次の商業重視の幕政をすすめた背景には、石谷の佐渡での施策が、少なからず影響していると考えられる。』。『佐渡四民風俗』の作者高田備寛は「たかだびかん」と読む。石谷清昌というこの人物、大変有能な行政改革者である。
・「后(のち)」は底本のルビ。
・「御留守居」江戸幕府の職名。老中支配に属し、大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城の保守に当たった。旗本の最高の職であったが、将軍の江戸城外への外遊の減少と幕府機構内整備による権限委譲によって有名無実となり、元禄年間以後には長勤を尽くした旗本に対する名誉職となっていた(以上はフレッシュ・アイペディアの「留守居」を参照した)。
・「依田豊前守」依田政次(よだまさつぐ 元禄14(1701)年~天明3(1783)年)。以下、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の「依田政次」から引用する。『旗本。将軍徳川吉宗の食事を試食する膳奉行となる。医師が問題なしとした献上品の鶴を、新鮮ではないといって食膳にださなかったところ、この話に感心した吉宗に重用された。宝暦3年(1753)江戸町奉行、明和6年大目付、留守居とすすんだ。通称は平次郎。』。
・「利窟」理屈。
・「爰(ここ)に戲書(たはぶれかく)のみ」底本は「咄に載事のみ」とあるが、如何にもそっけなく、ダブった言い方である。岩波版に「爰(ここ)に戯書のみ」とあるのを採り、「戯書」の訓は私が振った。
・「治まれる代にも関路のむつかしはあけてぞ通す横車かな」「横車」は、前後にしか動かない車を横に押すように、道理に合わないことを無理に押し通そうとすることを言う。最早、名誉職でしかない留守居役で、殊更に注文をつけるまでもない関所手形関連業務等について、依田政次が杓子定規なことをぐだぐだ言うのを「横車」に譬えた。更に、棒・長刀などの扱い方の一つで、横に振り回すことをも「横車」と言う。ここでは関所役人が、持った棒を横に振って旅客を押し止めている「横車」の様子にも引っ掛けたのではないか、と私は解釈している。
やぶちゃん通釈:
太平楽のこの代でも
関所を通るは難しや
横車した棒 開けては通す 開けては通す
押し通す 押し通す横車を 通さずば成らぬとは
■やぶちゃん現代語訳
石谷淡州の狂歌の事
石谷備後守――後の淡路守――清昌殿は和歌を好む方であったが、御留守居役となって依田豊前守政次殿と同役になった。ある時、石谷殿が、
「豊前守殿は剛毅木訥なお方であったが、老いて後の筆頭の御留守居役就任故に、我儘もよく言われ、関所手形などにつきても、とかく理屈を弁じ立てては、大いに困らせられたことも多く御座った。――そんな折り、秘かに口ずさんだもので御座る……。」
と、微笑まれて私に教えて呉れた歌。至って当世にぴったりとしており、如何にも面白いので、書き記すまで。
治まれる代にも関路のむつかしはあけてぞ通す横車かな
* * *
大陰の人因果の事
信州の百姓成由、夫婦に一兩僕召過ひ相應に暮しけるが、近郷より用事ありて、二里計も脇へ至り、急雨にて甚難儀せし故、其邊にありし一ツ屋へ立寄、晴間を待けるに、奇麗成住居にて馬も繋ぎ置、年比二十斗成男たば粉呑(のみ)ながら、雨の難儀など念此に訪(と)ひいたりしが、着座しながら衣類しどけなかりしに、兩膝の間より男根の見へけるが、膝とひとしき迄に見へて驚きければ、亭主も其氣色(けしき)を悟り甚困りける樣子故、扱々珍ら敷一物かな、人事は如何いたしけるやと尋ければ、何か隱し可申(まうすべき)とて、右陽具を見せしに、最初ほの見しに増(まさ)りてあやしき迄に思ひければ、彼人答て、我等此一物故に、哀成身の上也、元來某(それがし)は此一二町脇に、見もし給ん酒商ひする者の倅也、身上も相應に暮しける故、妻妾をも貯(たくはへ)ん事なれど、いか成事にや、此陰莖人並ならざるの品故、生れて人事をしらず、金銀を費し所々配偶を求さがせども可有樣(あるべきやう)なければ、空敷(むなしく)月日を過し、責(せめ)ては煩惱を晴さんと、あれに繋ぎ置(おく)馬を我妻妾と心得、淫事の起るごとに右馬を犯し思ひを晴し、生ながら畜生道に落(おち)しと、何ぼう悲しき身の上と語りければ、百姓もあきれ果、雨も止ぬれば暇乞して歸りけるが、妻に向ひて今日かくなる所に至り、不思儀の陽物を見し事かな、汝が常に我を拙(つたな)しといひしが、かく大物も又捨(すた)り物と戲れ語りしに妻の云けるは、かゝる不思儀の片輪ある物哉、物にたとへたらんにはいかやうなりと尋しに、床に掛有し花生(はないけ)をさして、凡あの通也と語りければ、いかでさる物あらんと笑ひぬ。其日もくれ翌日も立(たち)て翌朝に成て、其妻いづちへ行けん行衞不知故、心當りの所尋けれど一向相知れざるゆへ、召仕ひの丁稚に常に代り狂氣ばししたる樣子もありやと尋ければ、外に心當りも無し、若(もし)亂心もしたまひしや、きのふ晝頃床に餝(かざ)りし花生をとりて持(もち)なやみ、膝の上へ當て拜し給ふをほのみしと語りければ、彼(かの)夫始て心付、一昨日大陰の人の物語したる折から、花生にたとへしを、婬婦の心より好ましく立出るならん、語るも恥しと、強て尋るに及ず、某心當りありと晝頃より出て、彼の大陰の人の許に至り音信(おとづれ)ければ、最初と違物靜成るが、彼の男立出て、これは此程雨舍りの人なるか、いか成用事にて參られしと尋ければ、此間雨舍(やどり)の禮に寄たり迚(とて)、四方山の咄しの上、主(あるじ)は色もあしく何か物思ひの姿成るが、何ぞかわりし事もあるやと尋ければ、さればとよ、無慘にも哀れ成る事ありて自然と面(おもて)に顯(あらはれ)しならん、先に足下(そこもと)歸り給ひし後、一兩日の後にも有けん、夜四ツ時此と思ふ頃、表を音信るゝ者あり、扉を開き見侍れば、年此四十斗成女の、旅の者なるが頻りに腹痛いたしなやみけるが一夜の宿を借し給へと申ゆへ、獨身の譯など斷りけれど頻に腹痛の由を申、達(たつ)て願ひける故、此一間に置て湯など與へ介抱いたしければ、右女聲をひそめ、其が陽物拔群のよし聞侍る、一目見せよと乞ける間、埒もなき事を申さるゝ物哉、如何して我が身の上の事知りたるやといなみければ、御身の陽物尋常ならざる事は往還の馬士(まご)又は荷持(にもち)迄もしりたる事、何か隠し給はんといへるゆへ、何となくこわけ立て、若(もし)や魔障のなす所ならんかと、暫くいなみしが、曾てあやしき者にはなし、旅の者ながら此近隣に暫し彳(たたず)みし身也と語り、其樣化生(けしやう)の者とも見へざるゆへ、いなみ難く出し見せければ、しきりに手を以て撫廻し、或は驚き或は悦び狂亂の如くなる故、頻に我も婬心を生じ、夫なき身ならば我と雲雨の交りをなさんやと尋しに、斯る陽物を受んとも思はれねど其業(わざ)なしみ給へと終に高唐夢裡(かうたうむり)の歡をなしけるに、いかなる大海にや、事なく芙蓉の影を移し何卒妻として旦夕(たんせき)契りをなさんと右女のいゝ願ひけるゆへ、我も生れて人道をしらず、始て此德人を得しと悦びけるが、朝も速(はやく)に起出てまめ/\しく働き、飼置る馬にも秣(まぐさ)などかはんといいけるを、我等かはんと申せしをも不用、厩に至り秣をかひけるが、馬に妬氣(とき)や有けん、只一はねに右女を押へ喰殺しける。我も生涯の不具因果を感じ出家せんと思ひけるなり、此事人に語(かたら)んも面(おもて)ぶせ故、裏なる空地へ右女の死骸を埋(うめ)けると、涙と共に語りしを彼百姓聞て、さながら我妻也といわんも面目なければ、哀れなる咄承る物かなと云て立別れけると也。
□やぶちゃん注
○前項:関門を「開けて通す」話から巨大な陽物を「開けて通す」話へ連関。「耳嚢」初の赤裸々な性民俗譚である。
・「訪ひいたりしが」ママ。
・「不思儀」ママ。
・「舍(やどり)」は底本のルビ。
・「足下(そこもと)」岩波版では「そつか」とルビするが、採らない。
・「夜四ツ時」午後10時頃。
・「彳みし」底本では右に「(專經關本「かかり居し」)」とある。どちらも、以前長く住んでいた、の意である。
・「化生」底本は「化粧」で、右に「(化生)」と注。補正した。
・「雲雨の交り」男女の情交(楚の懐王が、朝は雲となり夕べには雨となると称する女に夢の中で出逢い契りを結んだという宋玉の「高唐賦」に基づく)。
・「高唐夢裡」前注参照。
・「いかなる大海にや」底本は「大海」が「大開」となっているが、如何にも直接的でお洒落じゃない。何より続く「芙蓉の影」との繋がりが悪い。その観点から岩波版の「大海」を採用した。また、本件の題名の「大陰」とは私は暗にこの女の謂いも含むものでもあろうと推理している。
■やぶちゃん現代語訳
巨根の人の因果の事
信州のある百姓の話の由。
ある百姓夫婦、下僕二人を召し使って、相応に豊かな暮しをしておった。
ある時、夫は近くの村に用足しがあって出掛けたのだが、帰りがて、家からは未だ二里ばかりも離れた辺りまでやって来たところ、急な大雨に見舞われ、ひどく行き悩んだため、その附近にあった一軒家へ立ち寄り、晴れ間を待つことにしたのだが、そこは小奇麗な住居で、屋敷内には馬も繋がれており、年の頃三十ばかりの男が煙草をのみながら、百姓が受けた、この雨の難儀を頻りに慰藉など致しておったのだが、その胡坐をかいて座っている、その衣類の裾が乱れて、その両膝の間から、その男の一物が見えた。それが何と――太さも長さも膝と同じほどに見えて驚いたのだった。また、亭主の表情には、百姓が己が一物を覗き見て、驚いているらしいことに気づき、甚だ困惑している様子も見てとれた。そこで百姓は思い切って、
「……さてもさても、珍しい一物をお持ちじゃ……されど……夜の交わりの方は如何(いかが)なさっておられる?」
と訊ねたところ、
「……お気づきになられては、何の隠しようも御座らねば……」
と言いつつ、亭主は服をめくると一物を見せた――
――その巨大にして長大なること、先程、ちらと見た時にも増して、不気味なものとまで感じられる「もの」であった。呆然とした百姓に向かって、男は徐に語り始める――
「……私は、この一物故に、哀れなる身の上に御座る……元来、私めはこの先一、二町のところで――ここにいらしゃる途中、御覧になられませなんだか――酒商いをしておる者の息子で御座る。商いも捗り、相応の暮らし向きで、何不自由ない身の上で御座った……さて、そこで妻や妾の一つや二つと思い立ちましたが……如何なる因果か……この陰茎が人並み外れたものであります故に、未だ生まれてこの方、女との交わりというものを知りませぬ……金品を費やし、あちこちに連れ合いとなれる女を探し求めましたが、この一物に見合う女など見つかるはずもこれなく、空しく月日を過ごしておりました……が、かくなる上は、この日々募る色欲の煩悩を何としても晴らしてやる!……と、あれに繋いでおります馬を……私めの妻だ妾だと心得……淫らなる気持ちが沸き起こるごとに、あの馬を犯しては思いを晴らし……正に生きながらにして畜生道に落ちておりまする……どれだけ悲しき身の上か、お察しあれかし……」
と。
さすがの百姓もこの話には呆れ果てた。気がつけば、雨もとっくに止んでいた。百姓は亭主へ早々に暇乞いをして家へと帰った。
その夜、百姓は、妻に向かうと、
「今日、これこれの場所に雨宿りしたが、そこで不思議な巨根を見たんじゃ。お前は常に儂の一物を小さいと馬鹿にしよるが、あのような大物も、これまた、役立たずの不用品じゃて。」
と冗談半分に語った。すると妻は、
「そんな不思議な片輪もんなんぞ、あるもんですか。……でも、因みに物に譬えてご覧になるなら……それって……どれ位の、「もの」……でしたの?」
と訊ねたので、夫は、丁度、床の間に掛けてあった花瓶を指さし、
「そうさな。あれと太さも長さも同(おんな)じだ。」
と言ったので、妻は、
「どうして! そんなもの、あるわけ、ないわ!」
と笑った――
――その日も暮れ、翌日も経ち、翌々日のの朝となった。
と、その妻、一体何処へ行ったものやら、行方知れずになったため、夫は心当りを訪ね回ったものの、一向に所在が知れぬ。困り果てた夫は、召使っていた丁稚に、
「この数日、普段と変わって、何か気が違ったかのような素振りなどなかったか?」
と訊ねたところ、丁稚は、
「……これといったことは特にありませぬ、と申し上げたいところですが……そう言えば、もしや、少しご乱心なさったのでは、と思うたことが一つ、御座いまして……昨日の昼頃のことで御座います……床の間に掛けてある花瓶を取り外し、頻りに苦しそうな御様子で……その……その花瓶を、ぎゅっと膝の上に押し当てなさっているさまを……垣間見まして御座います……。」
と語った。
夫はそこで初めて、妻の失踪の意味を了解した。
『一昨日、巨根の男の物語した折りから、それをかの花瓶に譬えたが……あの女、淫らなる心からそれを求めて出奔致いたのであろう……いや、これは丁稚に語るも恥かしいことじゃ!』
と思い、落ち着いた風を装って、丁稚には、
「強いて探すには及ばぬ。今、思いついたが、別に、儂に心当たりがあるでの。」
と言い置き、昼頃になって家を出でて、例の巨根の男の家に至り、満を持して、戸を叩いた。
先日、雨宿りをした時に比べると、家の内が何だかやけに森(しん)としていたが、暫くしてあの亭男が家から出て来た。
「……これは……先だっての雨宿りなさった御人(おひと)で御座ったか……さても……如何なる御用で参られた?……」
と丁重に、しかし如何にも沈んだ声で応えたので、
「いや、先日の雨宿りの御礼に立ち寄って迄で御座る。」
と、何気なく、とりとめもない話などした後、思い切って、
「……ご亭主には如何にもお顔も色が悪く……何かご心痛の体(てい)なるが……何ぞ変わったことでも御座ったか?」
と切り出した。
「……さればこそ……無惨にも哀れなる出来事が御座いました……それが、自然、面(おもて)に表われたので御座ろう……」
と、亭主は語り出す――
……先だって、あなた様がお帰りになってから、さても二日程たってからのことでしたか――余りの悲しさに時の移ろいも忘れ果ててしまいました――いえ、そう、昨日の夜の四つ時頃のことでしたか、家の表戸を頻りに叩く音が致しました。扉を開けて見てみますると、年の頃四十ばかりの女が、
「……旅の者なれど、頻りに腹痛致し、苦しゅう御座いますれば、どうか、一夜の宿をお貸し下さいませ……」
と申します故、私が独身(ひとりみ)であることなど申して断わったので御座るが、頻りに腹痛の向き申し訴え、たっての願いと縋る故に、この一間に寝かせ、白湯(さゆ)など与えて介抱してやりました――
――ところが――暫くして、腹痛などなかったようにけろりとした女は、やおら声を潜めると、あろうことか、
「……あなたさまの一物、抜群の由、聞き及びまして御座います……一目……お見せ下さいませ……」
と乞うてきたのです。勿論、私は、
「埒もないことを申される! そもそも私の身の上の、一事に附き、何故にそのようなものと思ったか!?」
と断わり質しましたところ、女は、
「……御身の一物の尋常ならざること……街道を往き来する博労や荷持ちといった下餞の者に至るまで知らぬ者とて、ない……何を今更、お隠しなさるのか!……」
と、逆に激しい口調で迫って参りました――
――私には、何とも言えぬ、恐ろしさが湧き上がって参りました――これは、もしや魔性のもののなす仕儀にてはあるまいかと感じ、ただひたすらに断わり続けておったのです――が――
「……私は決して怪しい者では御座いませぬ……旅の者では御座いますが……この近辺に暫く住んだことのある者に御座いまする……」
と、少し落ち着いて、優し気に語り出すその様子は、化生のものとも思われず――
――つい――断り切れずに一物を出して見せました――すると女は頻りに手で撫で回しては、或いは驚き、或いは喜悦の声を洩らして、狂ったようになり――その中、私めも頻りに欲の渇きが昂じて参りまして――己が一物のことも忘れ、つい――
「……あなたも夫なき身であるならば……私と……雲雨の交わりをなしては……下さらぬか……」
と申しました。女は、
「……このような一物を私が受け入れらるるものとも思はれませぬが……どうか、その雲雨の交わりを、お試みあられよ……」――
――そうして――終に高唐夢裡の歓びを――成しました――美事、成したのです――どのような広大無辺なありがたい海であったことか――私の、この大輪の芙蓉の花は、その姿を少しも欠くこともなく、その水面に映し出すことが出来たのです――
「……どうかあなたさまの妻としてお迎え戴き……日々の契りを致しましょう……」
とこの女が願い出ました故、私めも生れてこの方、人の女を、高唐夢裡の歓びを知らず、初めてこの美人を得た、と心より喜びました――
――夜が明けた――今朝のことで御座いました――
女は、朝も早くから起き出だし、何やかやとまめまめしく働いてくれ、飼っている馬に秣(まぐさ)をやりましょう、と言うので、
「秣は私がやるよ。」
と申したのも聞き入れず、女は厩に行き、あの馬に秣をやろうとしました――
――馬にも――妬心というものがあるのでしょうか――
――ただ一跳ねに、女を床に押さえつけ――私が駆けつけた時には、既に――女を、喰い殺しておりました……
……私めも、持って生まれたこの不具……私めを巡る、この忌まわしい因果の法に感じ……出家を遂げる覚悟にて……このような話、人に語らんも恥なれば……哀れとは思えど、今し方……女の骸(むくろ)を……裏の空き地に埋めまして、御座る……」
と、亭主が涙ながらに語るのを聞いて、しかしながら、その女は私の妻だ、とも言えず、余りの恥かしさに、
「……哀れなる、話を、承った……」
と言ったまま、立ち別れた、ということである。
* * *
羽蟻を止る呪の事
羽蟻出て止ざる時、
双六の後(おく)れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり
右の歌を書て、フルベフルヘト、フルヘフルヘト唱、張置けば極(きはめ)て止と、與住(よずみ)氏の物語なり。
□やぶちゃん注
○前項:連関を認めない。岩波版カリフォルニア大学バークレー校本では巻之一の巻末に次の「燒床呪の事」と一緒に配されている。その場合は直前に「怪僧墨蹟の事」という呪的話柄が配されているので連関が生まれる。
・「呪」は「まじなひ(まじない)」と読む。
・「双六の後れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり」この双六は盤双六のことと思われ、そこで用いられる賭博用語や特殊なルールに掛けられた意味と類推するが、幾つか調べてみたものの、賭博やゲームと縁が薄い私には和歌の意味は全くの不詳、お手上げである。識者の御教授を乞う。
・「フルベフルヘト、フルヘフルヘト」底本では後者の三文字目には濁点がない。岩波版では「フルベフルヘト、フルベフルヘト」となっているが、訳では底本を尊重した(但し、御承知の通り、古語に於いては濁音の欠落は本質的な相違ではない)。底本・岩波版共に本記事には注を附していない。当初は、骸子を「振る」と関係があるかとか、カタカナ表記に引かれて梵語かポルトガル語かスペイン語か等とも考えたのであるが、その後、現役の高校三年生の教え子から「ふるべゆらゆら」という呪文を聞いたことがありますとの報告を受け、調べたところ解決した。これは日本語であり、それも、とびきり古い呪言であった。これは「先代旧事本紀」の「天孫本紀」で、神道に深く関わった物部氏のルーツ邇藝速日命(にぎはやひのみこと=饒速日命)が伝えたとされる「十種神宝」(とくさのかんだから/じっしゅしんぽう=天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ))に関連した呪文として示され、現在でも「十種大祓」(とくさおおはらい=布留部祓(ふるべのはらい))という名の祝詞として現存している。まず、「十種の神宝」は、
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)
の10 のアイテムを指す。以下、ウィキの「十種神宝」によれば、それに関わって「布瑠の言」(ふるのこと=ひふみ祓詞=ひふみ神言=十種大祓)という呪言が伝承されており、それを用いると死者を蘇生させることが出来るというのである。「先代旧事本紀」の記載には『「一二三四五六七八九十、布留部由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮する』とあるという。更に語義を示して『この「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと』であり、また『「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す』とし、本呪言の起源として「先代旧事本紀」に饒速日命の子の宇摩志麻治命(うましまちのみこと)が十種神宝を用いて神武天皇・皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源である、と記載する。「十種大祓」の全文を以下のページ(http://www.geocities.jp/sizen_junnosuke/tokusaooharai.html:特定宗教団体に関わるHP内であり、私は勿論、無関係であるので、団体名を示さず、また、当該ページもアドレス表示にしてリンクは張らないこととした。参照させて頂くことについては深く感謝する)に見つけた。これを参照に正字に直して、一部を推定で補正そたその祝詞全文を以下に示す(引用元を参照して直ぐ下に読みを平仮名で示したが、読みの一部や配置に私の恣意的な変更補正を加えてあるので、呪言としてお使いになる場合は、相応な識者に「正しい読み」をお聞きになることをお薦めする。私の読みでは健康のまじない――今は、そうであるらしい――の効果は、ないことは請け合う)。
高天原に神留り坐す 皇神等鑄顯給ふ
たかあまのはらにかみづまります すめかみたちいあらはしたまふ
十種瑞津の寶を以て
とくさみつのたからをもちて
天照國照彦 天火明櫛玉饒速日尊に
あまてるひこ あめほあかりくしたまにぎはやひのみことに
授給事誨て曰
さづけたまふことおしへてのたまはく
汝此瑞津寶を以て 中津國に天降り
いましこのみづのたからをもちて なかつくににあまくだり
蒼生を鎭納よ
あをひとぐさをしづめおさめよ
蒼生及萬物の病疾辭阿羅婆 神寶を以て
あをひとぐさおよびよろづのもののやまひのことあらば かみたからをもちて
御倉板に鎭置て 魂魄鎭祭を爲て
みくらいたにしづめおきて みたましづめまつりをなして
瑞津寶を布留部其の神祝の詞に曰
みづのたからをふるへそのかみほぎのことばにいはく
甲乙 丙丁 戊己 庚辛 壬癸
きのえきのと ひのえひのと つちのえつちのと かのえかのと みづのえみづのと
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 瓊音
ひ ふ み よ い む な や こ と にのおと
布瑠部由良由良
ふるへゆらゆら
如此祈所爲婆
かくいのりせば
死共更に蘇生なんと誨へ給ふ
まかるともさらにいきなんとおしへたまふ
天神御祖御詔を稟給て
あまのかみのみおやみことのりをかけたまひて
天磐船に乘りて
あまのいはふねにのりて
河内國河上の哮峯に天降座して
かはちのくにかはかみのいかるがみねにあまくだりましまして
大和國排尾の山の麓
やまとのくにひきのやまのふもと
白庭の高庭に遷座て 鎭齋奉り給ふ
しろにはのたかにはにうつしましまして いつきまつりたまふ
號て石神大神と申奉り 代代神寶を以て
なづけていそのかみおおかみとまうしたてまつり よよかんたからをもちて
萬物の爲に布留部の神辭を以て
よろづのもののためにふるへのかんことをもちて
司と爲し給ふ故に布留御魂神と尊敬奉
つかさとなしたまふゆえにふるみたまのかみとたつとみうやまひたてまつり
皇子大連大臣其神武を以て
すめみことおおむらじおとどそのかみたけきをもつて
齋に仕奉給ふ物部の神社
いつきにつかへたてまつりたまふもののべのかみやしろ
天下萬物聚類化出大元の神寶は
あめがしたよろづのもののたぐひなりいでむおほもとのかんたからは
所謂 瀛都鏡 邊都鏡 八握生劍
いはゆる おきつかがみ へつかがみ やつかのつるぎ
生玉 死反玉 足玉 道反玉
いくたま まかるがへしのたま たるたま みちかへしのたま
蛇比禮 蜂禮 品品物比禮
おろちのひれ はちのひれ くさぐさもののひれ
更に十種神
さらにとくさのかみ
甲乙 丙丁 戊己 庚辛 壬癸
きのえきのと ひのえひのと つちのえつちのと かのえかのと みづのえみづのと
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 瓊音
ひ ふ み よ い む な や こ と にのおと
布瑠部由良由良 と由良加之奉る事の由縁を以て
ふるへゆらゆら とゆらかしたてまつることのよしをもちて
平けく聞食せと
たひらけくきこしめせと
命長遠子孫繁榮と
いのちながくしそんしげくさかへよと
常磐堅磐に護り給ひ幸し給ひ
ときはかきはにまもりたまひさきはひしたまひ
加持奉る
かぢたてまつる
神通神妙神力加持
じんづうじんみやうしんりきかぢ
ここに現れた「布瑠部由良由良」(ふるへゆらゆら)が「フルヘフルヘト」のルーツと考えてよいであろう。……それにしても、古代の死者蘇生の秘文が、羽蟻を止めるまじないに成り下がったのは、ちょっと哀しい、ね……
・「與住」先の「人の精力しるしある事」にも登場した与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。「耳嚢」には他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や、「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する。
■やぶちゃん現代語訳
羽蟻を止めるまじないの事
羽蟻が出て止まない時、
双六の後れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり
という歌を紙に書いて、「フルベフルヘト、フルヘフルヘト」と唱えつつ、壁に張っておけば、一発で止む、とは与住氏の談である。
* * *
燒床呪の事
大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず
右の通唱へて水をかけあらへば、極めて痛をさまると、人の物語なり。
□やぶちゃん注
・「燒床呪」「やけどこまじなひ」と読む。「燒床」は火傷のこと。「やけど」とは「焼け処(やけどころ)」の略であるから、それが訛って「やけどこ」となったものか。
・「大澤に大蛇がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず」の上の句は大蛇が丸焼けになって死んでいるのではあるまい。「大きな沼沢の中でオロチが負った火傷を癒していらしゃいます」であろう。その邪神の致命傷にさえ効くとする神聖なる水の霊力を、言上げによって眼前の現実の水に呼び込むものであろう。この大沢中の大蛇というヤマタノオロチ的シチュエーションには興味がある(ヤマタノオロチは洪水の象徴ともされる反面、噴火した溶岩流とする説もあり)が、不学な私にはこれ以上の分析は不能である。識者の御教授を乞う。なお、狛江市公式HPの歴史のページの「火傷の薬」に、火傷に効くまじないとして真言密教系由来もの二つを掲載している。
猿沢の池の大蛇が火傷して水なきときはアビラウンケンソワカ
いじゃらが池の大蛇が火にすべりそのともらいはタコの入道アビラウンケンソワカ
「アビラウンケンソワカ」は大日如来の真言である。
また、ネット上のQ&Aで回答者が愛知県額田郡本宿村(現在の岡崎市本宿町)に伝わるものとして、
「猿沢の池の大蛇が火傷をして、伊勢・熊野へ参詣する」と三唱して火傷の跡を吹けば痛みが去る。
というジンクスを揚げている。なお、本件は軽度の火傷には効果的である、まじないを唱えるだけの一定時間、火傷部位を清浄冷水で洗浄する有効性に加えて(二次感染の予防にもなる)、まじないの下句のプラシーボ効果も期待出来よう。
■やぶちゃん現代語訳
火傷のまじないの事
大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず
右の通りのまじないを唱えて、火傷の箇所に水をかけて洗浄すると、ぴたりと痛が治まるとは、ある人の話である。
* * *
蠟燭の流れを留る事
風に當る所、蠟燭片口出來て流候節、小刀の先にて叶(かなふ)といへる文字を左字に三遍書き候得ば、流れ止るとある人の語り侍る。
□やぶちゃん注
○前項:呪文で連関。前項注冒頭参照のこと。
・「叶といへる文字」叶姉妹のグロテスクな巨乳と共に本字が「かのう」と読むことは人口に膾炙しても、この「叶」という字が「協」と同字、その古字であることは、余り知られているとは思われない。即ち、本字は「合う。一致する。和合する。調和する。馴れ親しむ。」の意として存在した。国訓の中でこれに「希望通りになる。実行可能である。匹敵する。及ぶ。」という意味が付与された。本件は「偏頗しない」「望みがかなう」という本字の意味を用いた類感呪術の一種である。
・「左字」左右を反転させた文字のことを言うのであろう。「叶」は他の字に比して容易に書け、同時に反転させた字は存在しない文字であるため、呪言としての結界を手っ取り早く誰にでも形成出来るという訳であろう。
■やぶちゃん現代語訳
蠟燭の流れを留めるまじないの事
外気の当たる所に置かれている蠟燭は、しばしば片方に口が出来て蠟が早々流れてしまい、原型を保てずに直ぐ溶け崩れてしまうことがあるが、このような際には、蠟燭の本体の小刀の先で「叶」という文字を反転させて三遍彫り込みますれば、きっと一度起こった流れもぴたりと止まりまする、とある人が語って御座った。
* * *
金春太夫が事
今の金春より曾祖父にも當りけるや、名人の聞へありしと也。安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之。此金春壯年の頃は至て任俠を好み、職分をば等閑にして常に朱鞘(しゆざや)の大小を帶し、上京の折からは嶋原の傾城町(まち)へ日々入込み、人も目を付(つけ)しくらひなるが、或時嶋原にて口論を仕出し、相手を切殺し逃歸りけるが、右の折節朱鞘を取落し歸りし故、正(まさ)しく金春が仕業と專ら評判いたしけるを聞及びて、肝太き生質(たち)なれば、朱鞘の同じ差替を差て又嶋原の曲輪(くるわ)へ立入し故、扨は切害人は金春にては無しと風説して危難を遁れしとかや。右樣の者故、職分とする所の能は三四番の外覺へざりしに、或時奧に御能有之、來る幾日は御好の能其節に至り被仰付との御沙汰故、金春大きに驚歎、鎭守の稻荷へ祈願をこめ、明日我等覺へざる御能の御沙汰有とも、曲て我覺し御能へ被仰付候樣、斷食をなして一心に祈りければ、不思議の感應にありけるや、我覺へし御能被仰出、無滯(とどこほりなく)勤けると也。夫より武藝を止て職分に精を入しかば、古今の名人と人も稱しけると也。
□やぶちゃん注
○前項:連関を認めない。ずっと19項前にある「觀世新九部修行自然の事」の芸能者伝説で連関する。
・「金春太夫」底本の注で鈴木氏はこの本文冒頭の「今の金春」を十次郎信尹(のぶただ 天明4(1784)没)であろう、とされ、本文の主人公は、その信尹の曽祖父であった八郎元信(元禄16(1703)年没)であるとする。元信は『徳川初期の禅曲安照につぐ同流の上手といわれた』とある。しかし、これは直後の「安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之」という叙述と矛盾する。元信は安藤の生まれる11年も前に没しているからである。岩波版の長谷川氏も注でその矛盾を指摘され、安藤が実際の演技を『見得るのは信尹前代の八郎休良(元文四年没、三十四歳)までである』と記されている。因みに休良(やすよし?)の没年元文4年は西暦1739年、安藤が20歳の1734年前後ならば、休良は29歳であり、話柄としては自然な印象ではある。もしそうだとすれば、後半に登場する将軍家は第八代将軍吉宗ということになる。しかし、金春流のサイトにもこうした過去の太夫の細かな事蹟は示されておらず、「今の金春」を「十次郎信尹」と同定し、本話主人公をその先代太夫「八郎休良」としてよいかどうかは不分明である。私は「古今の名人」と呼ばれたとある以上、この逸話自身は十次郎信尹のものであったように感じられる(八郎休良であるとするには34歳の夭折が「此金春壯年の頃は」とあるのと聊か齟齬を私は覚えるからである)。言わばそうした「金春太夫伝説」なるものが、代々同名の金春太夫を名乗る者に付随して(時系列を無視して)都市伝説化していったもののではあるまいか。なお、能楽の金春流自体は、江戸開幕後は家康が愛好した観世流に次いで第二位の地位を受けたものの、旧豊臣家との親縁関係が災いして不遇をかこった。因みに「太夫」という称号は、本来は、神道にあって主に芸能によって神事に奉仕する者に与えられたものである。後に猿楽座の座長の言いとなり、江戸時代以降は、観世・金春・宝生・金剛四座の家元を指すようになった(それが敷衍されたのが芸妓の太夫である)。古くは能のシテ役の名人に与えられる称号であった。序でに言うと、多少なりとも演劇に関わってきた私の人生の中で、かつて金春流襲名披露で見た「道成寺」――その乱拍子から斜入(しゃにゅう:体を捻って飛び込む鐘入り。)の間、私は窒息する程にずっと息をこらえずにはいられなかった――程の素晴らしい感動は、洋の東西を問わず、今後も、二度とない、と思っている。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。先行する「有德院樣御射留御格言の事 附 御仁心の事」に既出。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。
・「嶋原の傾城町」とは現在の京都市下京区に位置する花街。「島原」とも書く。正式名は西新屋敷。室町時代に足利義満によって官許された日本最初の公娼地をルーツとする。ウィキの「嶋原」によれば、『能太夫、舞太夫をルーツに持つとされる嶋原の太夫にとって「舞踊」(ここでは「歌舞伎舞踊」または「上方舞」をさす)は』最重要必須芸であったとあるから、能役者との繋がりは非常に深いと言える。
■やぶちゃん現代語訳
金春太夫の事
今の金春の、曾祖父にでも当たる金春であったか、世間で、ともかく名人の呼び名高い者があったという。安藤霜台殿などは、その金春の芸を実見したことがあるとのことであるから、それ程、古い話ではない。
この金春、若い頃は専ら任侠気質(かたぎ)の荒っぽさを好み、継ぐべき金春の芸道なんぞ何処吹く風と、能楽修行も等閑(なおざり)のまま、常に真っ赤な鞘の大小を差して町を闊歩し、京へ上った折などは必ず、嶋原の遊郭街に日々入り浸り、京雀の噂にならぬ日がない位の、如何にも派手な暮らしぶりであった――
――が、ある時のこと、この金春、その嶋原でちょっとした口論が元で相手と大喧嘩となり、果てはその者を斬り殺し、周りに人無きを幸い、こっそりと宿へと逐電してしまった。
ところが、現場から遁走する際、例のド派手な朱色の鞘を落としておったがため、もう、その日のうちに、
……「この下手人、もうほんまに金春はんの仕業やて」……
と専らの評判になってしもうた。
ところが、それを聞き及んだ金春は――元来、肝っ玉が恐ろしくぶっとい性質(たち)なれば――何と全く同じ朱鞘を秘かに素早く仕立てさせ、それを腰に差して、これ又、一両日中(うち)に、平然と再び島原の廓(くるわ)へと繰り出した。すると、
……「さてもあの下手人、金春はんとは、ちゃいますやろ」……
との噂が立ち、辛くも危難を脱した、とかいうことである。
まあ、若き日はこういったとんでもない者であったから、継ぐところの金春の能など、実は二、三番ほどしか知らぬのであった。――
ところがある時、上様がお城にて金春の能をご上覧遊ばされることとなり、
「上様は、当日、その場にて、お好みになられる能をそちに申しつけらるれば、そう心得、用意怠りなく致すべし。」
とのお沙汰であった。
日頃は肚の座った金春も、これには天地がひっくり返って肚も吐き出す程に吃驚仰天、普段は屁にも掛けない金春代々の鎮守の稲荷へと駆けつけ、願掛けをするに、
「……明日、私めの知りませぬお能の沙汰が下されることと、既に決しておりましたと致しましても……そこのところを、稲荷大明神様……どうか、曲げに曲げて……私の知っておりまする能を仰せつけ下さいまするよう……相願い奉りまする……」
と、何と断食までして一心に祈ったのであった。
――さても、これを摩訶不思議の感応なんどというのであろうか――当日、上様は、金春が僅かに覚えておった二三の内の、その一つのお能をお申し付けになられ、首尾よく舞いを勤め上げ申し上げた、とのことである。
これより後、かぶいた武芸への執心をやめ、只管、芸道に精進したため、今に古今の名人と称せらるるようになった、ということである。
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鼻金剛の事
金剛太夫の家に鼻金剛といへる面(おもて)あり。いつの事にやありけん、金剛太夫身持不埒にて、先租より傳はりし面をも失ひ、御能有之時急に面にこまりけるが、或る寺の門にありし仁王の顏をうちかき、右を面に拵へ御能相勤、其業を出(でか)しけるが、佛罰にや、金剛太夫鼻を損じけると也。右面は永く金剛家に寶としたりしが、俗家に難差置、京都何れの寺社とやらへ納置、代替りに一度づゝ右面を拜し候事の由。二度拜し候へば罪を蒙ると、彼家に申傳ふると也。
□やぶちゃん注
○前項:能楽伝説で直連関。
・「鼻金剛」ウィキの「金剛流」には、『法隆寺に仕えた猿楽座である坂戸座を源流とする流派で、坂戸孫太郎氏勝を流祖とする。六世の三郎正明から金剛を名乗る。華麗・優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」とも呼ばれ』、『豪快な芸風で知られた七世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖とされる。しかし、室町から江戸期においては他流に押されて振るわず、五流の中で唯一独自の謡本を刊行することがなかった』と記す(シテ方「五流」は観世・宝生・金春・金剛・喜多)。金剛氏正(永正4(1507)年~天正4(1576)年)について、岩波版の長谷川氏の注では、『瘴気で鼻がふくれ鼻声であったのでこのように呼んだ。また『隣忠見聞禄』には、奈良の寺の不動尊の木造を打割って盗み、面に打って「調伏曾我」を演じたが鼻に腫物が出来て先が腐れ落ちたという。』とある。「瘴気」とは、熱病を起こす山川の毒気、「隣忠見聞禄」は「りんちゅうけんもんしゅう」と読み、紀州藩の能役者であった徳田隣忠(延宝7(1679)年~?)が記した随筆集、「調伏曾我」は曾我兄弟の仇討ちを材としたもので、河津三郎の子箱王丸(曾我十郎祐成の弟曾我五郎時致)の不動明王に纏わる霊験譚である。前シテは兄弟の敵工藤祐経であるが、後シテが、ここで問題となっている面を用いた箱根権現の不動明王となる(箱王丸は子方)。なお、長谷川氏は「瘴気」、発熱性疾患による鼻部の腫瘍及び鼻炎とするが、私は、彼が「身持不埒」であった(故にこそ「豪快な芸風」でもあったのであろう)ことから考えると、極めて高い確率で、潜伏期を経て晩年に発症した梅毒の第3期のゴム腫による鼻梁脱落であろうと考えられる。
・「仁王の顏」の「顏」は、底本では(「白」(上部)+「ハ」(下部))の字体であるが、通用字に改めた。
■やぶちゃん現代語訳
能面鼻金剛の事
金剛太夫の家には鼻金剛という面が伝えられている。何れの代の出来事であったか、ある金剛太夫、身持ちが大層悪く、先祖伝来の面をも失ない、よりによってそんな折り、貴人より急なお能の申し付けこれあり、舞おうにも面がなく、困り果てていたところが、あろうことか、通りかかったとある寺の門に立っておった仁王の、その頭をたたき折って、これを急ぎ面に拵え上げると、それを以って命ぜられたお能を相勤め、美事妙技を披露致いた。じゃが――仏罰にてもあろうか――その直後に、その金剛太夫は、鼻が欠け落ちた、とか言うことである。
さてもこの面は永く金剛家家宝として伝わっておったのじゃが、その曰因縁から、俗家(ぞっけ)にさし置くは相応しからずということと相成り、京都のとあるの寺に納め置き、その後は、代々、金剛流太夫代替わりの折りにのみ唯一度だけ、その面を拝顔致す慣わしとなっておる、との由。万一、二度拝顔致いたならば、かの金剛太夫同様、必ずや仏罰を被る、と言い伝えておる、とのことである。
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藝は智鈍に寄らざる事
今の鷺仁右衞門祖父の仁右衞門は、甚病身にて愚に相見へ、常は人と應對は物言(ものいひ)はしたなき程に有しを、其比上手と人のもてはやしける七太夫又は金春太夫抔は、唯今亂舞の職たりし内、名人と申は仁右衞門也と語りし故、心を付て見たりしが、不斷は物もろく/\不申男也。狂言に懸り御舞臺へ出れば、格別の氣取に見へしと、安藤霜臺の物がたりき。
□やぶちゃん注
○前項:能狂言で直連関。この三本は完全な一貫した意識で記載しているのが分かる。
・「鷺仁右衞門」「鷺」家は、鷲仁右衞門を宗家とする狂言三大流派(大蔵流・和泉流・鷲流)の一派。江戸時代、狂言は能と共に「式楽」(幕府の公式行事で演じられる芸能)であった。大蔵流と鷲流は幕府お抱えとして、また和泉流は京都・尾張・加賀を中心に勢力を保持した。但し、現在、大蔵流と和泉流は家元制度の中で維持されているが、鷲流狂言の正統は明治中期には廃絶、僅かに山口県と新潟県佐渡ヶ島、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区で素人の狂言師集団によって伝承されているのみである。岩波版の長谷川氏の注によれば、この『今の鷲仁右衞門は仁右衞門定賢(文政七年(一八二四)年没、六十四歳)、祖父は仁右衞門政之(宝暦六年(一七五六)没、五十四歳)か。』と記す。「定賢」は「さだまさ」と読むか。
・「七太夫」能役者喜多七太夫。能の喜多流は江戸初期に興った、金剛流の流れを汲む新興流派。ウィキの「喜多流」によれば、『流派の祖は徳川秀忠に愛好された喜多七太夫。七太夫は金剛太夫(金剛流の家元)弥一の養子となり金剛太夫を継承したが、弥一の実子・右京勝吉の成人後に太夫の地位を譲った。その後、徳川秀忠、徳川家光の後援を受けて元和年間に喜多流の創設を認められ、喜多流は四座の次に位置する立場となった』とある。岩波版で長谷川氏は喜多七太夫、『あるいは十太夫親能か』と注す。「栗谷能の会」HPの「『喜界島』を演じて」他幾つかの頁を読むと、ここで長谷川氏が挙げる最初の七太夫は七太夫長義(おさよし)で、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能との間で八世を継承する人物であったが、部屋住みのまま早生した人物で、九世喜多七太夫古能(健忘斎)の父親であると記す。同じく長谷川氏が『あるいは』とする十太夫親能は、今見た通り、喜多流八世である。因みに、ここで登場している九代目古能健忘斎は喜多流中興の祖と称せられる人物で、文政12(1829)年頃に没している。
・「金春太夫」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。
・「亂舞」中世の猿楽法師の演じた舞。近世には能の演技の間に行われる仕舞に変化し、それが狂言となった。「らっぷ」とも読む。
・「氣取」そのものの気持ちになってみること、他の者の様子を真似ることを言う語。
・「安藤霜臺」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。
■やぶちゃん現代語訳
芸事の達者は必ずしも知的能力に関わる訳