立ち尽くす少年――諸星大二郎「感情のある風景」小論
やぶちゃん(copyright 2005 Yabtyan)
前言
僕は、唐代伝奇の「杜子春傳」を授業で扱う時には、全文を授業した上で、芥川龍之介の「杜子春」を朗読し、その差異を生徒に分析させている。加えて、諸星大二郎の漫画、「感情のある風景」をも読ませ、これが「杜子春」(あるいは「杜子春傳」と言うべきかも知れぬ)を換骨奪胎した卓抜な作品であることに気づかせるのを常としている(私は間違いなくそうだと思い込んでいる)。今回、国語表現で、三作の提示による自由小論文を書かせたが、その回答例として僕が生徒に提示したものを小論として公開する。但し、あくまで高校生向けの小論回答例として書き散らしたものであり、入試対策用のキザな粉飾や、結論の説教染みた凡庸さは寛恕されたい。なお、文中の数字は、解説のために当該作品全コマに僕が打った通し番号である。授業では、1984年集英社刊のジャンプ・コミックス・デラックス「子供の王国」所収の当該作を用いた。
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四四から四九及び五五から六一コマに表れる少年の体験は、杜子春が受けた如何なる苦痛よりも強い。それは杜子春が、数々の災厄を、試練を受けているという自覚の中で体験しているという事実に比して、少年はナチスの収容所に酷似した場所で、現実に、生きながら受けた地獄だったからだ。当の芥川が「侏儒の言葉」で述べたように、「人生は地獄よりも地獄的」なのであり、また、アドルノの「アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だ」という語を持ち出すまでもないことだ。私なら、迷うことなく、師であるグノに、あの装置による処置を懇請するに違いない。
しかし、ここで注意しなくてはならないのは、本話の感情を「外化」させるという下りである。杜子春は両作とも自己の感情を抑制し過ぎたのであって、その究極のストレスが最後の、母としての愛/母への愛でほとばしり出たのだという解釈も可能である(事実はそうではないが。*やぶちゃん補注参照)。そうして、この二作に共通するのは、現実からの脱出を試みながら、仙人になり損ねて、『失敗した杜子春の物語』であるという点だ。
ところが、「感情のある風景」の世界は、あり得べからざる(SFなのだから当然ではあるが)究極の二元論的構造にあることに気づく。たとえば、八八コマの少年は師グノによって、「母の死の悲しみ」という、自分の失いたくなかった感情をも、外化させられてしまい(当然予測され、事実そうなるところの、それ以外の大切な感情の喪失の予感という確信も加わってであろう)、グノに「憎悪」の感情を抱く。しかし、その憎悪を抱いた瞬間に、「憎悪」は形象として外化されてしまうのだ。八九コマの師グノの「後悔」の感情も、同様である。そこで、八八から九三コマまでの、二人の能面のような無表情に着目しなくてはならない。このシークエンスの諸星の描出力は映画にさえ勝つと言える。それは、感情という、不完全な人間の属性を、失ったものの顔なのである。
こここそが、この漫画作品がベースとしたところの二作品と、決定的な違いを示している部分なのである。彼の内在する苦痛は、永遠に外化され続け、その点において煩悩は、理性の単なる論理的帰結の記号へと無化されてしまう。即ち、この「感情のある風景」とは、実に現実の離脱に『成功した杜子春の物語』なのである。
それはまさに、人間の持つ、不完全で、律することの困難な、やっかいなものとしての「感情」を、幾何学的に、鮮やかに美しく、外化することに成功した、言わば羽化登仙した少年の物語なのである。そもそも仙術とは、元来、このように感情を外化して仕舞い込んでしまえるような類のものであると、私は理解してもいる(実際に似たような話が中国の志怪小説にはある)。
だが、どうであろう、振り返ってみれば、私達は「悲しみ」や「絶望」を繰り返しながら、そこに「ささやかな」「喜び」や「希望」を見出して、それらを丸抱えで生きてゆくことで、かろうじて「生きている」という実感を得られている存在なのではないのか。一一六及び一一七の少年のモノローグがそれを如実に示している。惨めな生き物としての「人間」の実感は、外界=他者との絶え間ない軋轢によって生まれる、「心の痛み」によってのみ、感じられるものなのだ。
ラストシーン、ブラックユーモアと言うには余りに悲惨な、文字通り、「悲しみと絶望を背負った」少年は、正に、感情という生身の人間の現実性を逃避したが故に、永遠の孤独地獄の荒野に立ち尽くすしかなかったのである。
*やぶちゃん補注:
「杜子春傳」に限っては、そのような解釈の可能性は実際にはないことを付記しておく。「杜子春傳」は実際には、道教と仏教の強い影響下に書かれた作品である。仏教においては「徒然草」の「あだし野の露」を示すまでもなく、母が子を慕い愛する愛欲こそが最も断ち難い煩悩であると考えている。即ち、親子の情愛としての愛欲を断てない限り、解脱者にも真人(道家思想における根源的な「道(タオ)」の体得者を言う)にもなれないのであり、「杜子春傳」はそういう意味における失敗者、杜子春の非力不徹底を批判する物語、羽化登仙、解脱的境地の困難さを教えることを主題としているのである。但し、ここでは「杜子春傳」を文学・思想的に語るつもりはないので、その点には言及しない。