やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ
 

上海游記   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:「上海游記」(シヤンハイいうき/シャンハイゆうき)は大正101921)年8月17日~9月21日の期間の中で、21回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊及び『東京日日新聞』に連載され、後に『支那游記』(「自序」の後、本作を巻頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」で構成)に所収された。第十五回~第十七回の「南國の美人」は、これのみ単独で『沙羅の花』にも再録している。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビ(但し、引用漢詩などの一部はルビなし)であるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「道樂(ホツビイ)」「三國志」「コロムブス」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「上海游記」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。
 なお、本テクストでは「九 戲臺(上)」及び「十 戲臺(下)」に出現する花旦の芸名「緑牡丹」を誤りと断定し、総てを正しい「白牡丹」に直してテクスト化した。その底本の誤りに関わる重大な経緯と推理については、「九 戲臺(上)」注冒頭及び「十 戲臺(下)」注掉尾に詳述してあるので、必ずお読み戴きたい。
 最後に。本紀行群には多くの差別的言辞や視点が見受けられる。明白に芥川は当時の中国を見下している。「六 城内」では『支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから』といった言い方さえしている。最も眼に触るのは「支那」という呼称であるが、当時は正に見下した呼称として一般なものであり、時には芥川はそこにある種の敬愛する文化的な香気をも込めている部分もあるように思われはする。としても不快な響きである(どこかの知事が平然と「支那を支那と呼んで何が悪い!」と言い放ったのには反吐が出た)。職業差別も顕著に現れる。芥川及び当時の一般的日本人の限界に対して、各人の批判的視点を失わずにお読み頂きたい(なお、私のこの差別言辞注記への反論は一切受け付けない。「支那」は差別言辞でない、というのであれば、ここから立ち去られるがよい)。
 本篇テクスト及び注釈は、2009年5月17日から6月16日にかけて、私自身のブログに連載したものであるが、本頁で一括掲載するに際し、注を全体にブラッシュ・アップしてあるので、公開時の内容とは一部異なっている。引用(必ず本ページからのものであることを明記)・リンクされる場合は、こちらを基本にされた方がよいと思う。【2009年6月17
 新知見により「波多博君」の注を書き換えた。
2009年7月11
 私が本紀行群を初めて読んだ21歳の時の稚拙な感想をブログにアップしてある。参考までにお読み頂ければ幸いである。【
2009年7月23
 「九 戲臺(上)」の注に「★★二伸」という表示で、本当の緑牡丹黄玉麟についての事蹟を、加藤徹氏の記載をもとに追加した。
2009年8月
 更に製作した以下の関連ページをリンクさせる。
芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈
芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊) 【2009年8月
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 上海在住の未知の方F様の御教授により、「二十 徐家※」[「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]の「十字聖架萬世瞻依」の注を追加補正し、F様の撮影された現在の徐光啓記念館の写真5葉もご好意を得て掲載した。【2010年2月7日】]

 

上海游記

 

      一 海上

 

 愈(いよいよ)東京を立つと云ふ日に、長野草風氏が話しに來た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算ださうである。その時長野氏は深切にも船醉ひの妙藥を教へてくれた。が、門司から船に乘れば、二晝夜經つか經たない内に、すぐもう上海(シヤンハイ)へ着いてしまふ。高が二晝夜ばかりの航海に、船醉ひの藥なぞを携帶するやうぢや、長野氏の臆病も知るべしである。――かう思つた私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯(げんてい)に登る時にも、雨風に浪立つた港内を見ながら、再びわが長野草風畫伯の海に怯(けふ)なる事を氣の毒に思つた。

 處が故人を輕蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に當つた馬杉(ますぎ)君と、上甲板の籐椅子に腰をかけてゐると、舷側にぶつかる浪の水沫(しぶき)が、時時頭の上へも降りかかつて來る。海は勿論まつ白になつて、底が轟轟煮え返つてゐる。その向うに何處かの島の影が、ぼんやり浮んで來たと思つたら、それは九州の本土だつた。が、舶に慣れてゐる馬杉君は、卷煙草の煙を吐き出しながら、一向弱つたらしい氣色も見せない。私は外套の襟を立てて、ポケツトヘ兩手を突つこんで、時時仁丹を口に含んで、――要するに長野草風氏が船醉ひの藥を用意したのは、賢明な處置だと感服してゐた。

 その内に隣の馬杉君は、バアか何處かへ行つてしまつた。私はやはり悠悠と、籐椅子に腰を下してゐる。はた眼には悠悠と構へてゐても、頭の中の不安はそんなものぢやない。少しでも體を動かしたが最後、すぐに目まひがしさうになる。その上どうやら胃袋の中も、穩かならない氣がし出した。私の前には一人の水夫が、絶えず甲板を往來してゐる。(これは後に發見した事だが、彼も亦實は憐れむべき船醉ひ患者の一人だつたのである。)その目まぐるしい往來も、私には妙に不愉快だつた。それから又向うの浪の中には、細い煙を擧げたトロオル船が、殆(ほとんど)船體も沒しないばかりに、際どい行進を續けてゐる。一體何の必要があつて、あんなに大浪をかぶつて行くのだか、その船も當時の私には、業腹で仕方がなかつたものである。

 だから私は一心に、現在の苦しさを忘れるやうな、愉快な事許り考へようとした。子供、草花、渦福(うずふく)の鉢、日本アルプス、初代ぽんた、後は何だつたか覺えてゐない。いや、まだある。何でもワグネルは若い時に、英吉利へ渡る航海中、ひどい暴風雨に過つたさうである。さうしてその時の經驗が、後年フリイゲンデ・ホルレンデルを書くのに大役(たいやく)を勤めたさうである。そんな事もいろいろ考へて見たが、頭は益(ますます)ふらついて來る。胸のむかつくのも癒りさうぢやない。とうとうしまひにはワグネルなぞは、犬にでも食はれろと云ふ氣になつた。

 十分ばかり經つた後、寢床(バアス)に横になつた私の耳には、食卓の皿やナイフなぞが一度に床へ落ちる音が聞えた。しかし私は強情に、胃の中の物が出さうになるのを抑へつけるのに苦心してゐた。この際これだけの勇氣が出たのは、事によると船醉ひに羅つたのは、私一人ぢやないかと云ふ懸念があつたおかげである。虚榮心なぞと云ふものも、かう云ふ時には思ひの外、武士道の代用を勤めるらしい。

 處(ところ)が翌朝になつて見ると、少くとも一等船客だけは、いづれも船に醉つた結果、唯一人の亞米利加人の外は、食堂へも出ずにしまつたさうである。が、その非凡なる亞米利加人だけは、食後も獨り船のサロンに、タイプライタアを叩いてゐたさうである。私はその話を聞かされると、急に心もちが陽氣になつた。同時にその又亞米利加人が、怪物のやうな氣がし出した。實際あんなしけに遇つても、泰然自若としてゐるなぞは、人間以上の離れ業である。或はあの亞米利加人も、體格檢査をやつて見たら、齒が三十九枚あるとか、小さな尻尾が生えてゐるとか、意外な事實が見つかるかも知れない。――私は不相變(あひかはらず)馬杉君と、甲板の籐椅子に腰をかけながら、そんな空想を逞しくした。海は昨日荒れた事も、もうけろりと忘れたやうに、蒼蒼(あをあを)と和んだ右舷の向うへ、濟州島の影を横へてゐる。

 

[やぶちゃん注:横須賀海軍機関学校英語教授嘱託に嫌気がさしていた芥川龍之介は、現職のまま、結婚による経済的安定を図るために小説家として大阪毎日新聞社社友となっていた(大正7(1918)年2月)が、その後、正式な社員として採用を依頼、大正8(1919)年2月内定、3月3日に同時採用を依頼していた菊池寛と共に正社員として採用された(同月31日に機関学校を退職)。その後、既に文壇の寵児となっていた芥川は、各種団体からの依頼が相次ぎ、国内を講演旅行することが多くなった。また芥川自身、大正7年頃の段階で、友人に手紙で中国上海での生活費等を問い合わせるなど、自律的にも中国行への希望があったため、大阪毎日はそうした芥川に、大正101921)年2月21日、大阪本社に招聘、正式な海外視察員として、3月下旬から3~4箇月の中国特派の提案をする。勿論、芥川は二つ返事でこれを承諾した(そこには大正8(1919)年9月に出会い、肉体関係にも及びながら、既に生理的に嫌悪の対象とさえなっていた不倫相手秀しげ子からの逃避という理由も隠れていたものと思われる)。国際化の新時代の中国像を芥川の巧妙な冴えたペンでアップ・トゥ・デイトに描き出させようというのが大阪毎日の目論見であったが、芥川は旅行中、病気等もあって新聞への逐次連載を全く果たせず、帰国後のこれらの文学者としての芥川らしい鋭い視線を持った紀行文も、列強を凌駕せんとするアジアの領袖たる日本人の冷徹な視線を期待した新聞社の意に沿うものとはならなかった。芥川自身にとっても、この旅に纏わる肉体的・精神的疲弊が自死の遠因の一つであったとも言えるかも知れない。本紀行群は後世の芥川研究の中でもその評価は全体に低いが(私も大学二年の時に手に入れた旧全集を通読して、当時の日記にこれらの中国紀行を指して「芥川は唯一拭い難い汚点を残してしまっている」と記している)、近年、これらの紀行の再評価の機運は著しく、必ずしも好意的な内容とはいえない現代中国にあっても、本作が読み直されている事実は注目に値する。私もそうした新しい視点から本作を、再度、読み直してみたいと思う。

・「東京を立つと云ふ日」大正101921)年3月19日、東京発午後5時半の列車で門司に向かった。この時は21日出航の「熊野丸」への乗船を予定していたのだが、実際には車中で出発前に罹患していた風邪が悪化し発熱、急遽、翌日、大阪で下車、大阪毎日の学芸部長であった薄田泣菫の世話で27日まで一週間、旅館で療養した。この旅行には、病気が終始付き纏うこととなる。

・「長野草風」明治181885)~昭和241949)年。日本画家。川合玉堂に師事、安田靫彦・今村紫紅らと紅児会に加わった。日本美術院同人。この後、大正121923)年と大正141925)年の二度に亙って中国に遊学している。

・「上海(シヤンハイ)」本篇全篇を通じて芥川は上海(Shànghăi シャンハイ)と読んでいる。


・「三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも……」これは「東京を立つと云ふ日」の注と合わせればお分かりのように、既に彼の仮構が働いている。これは当初の予定の期日であり、実際に筑後丸に乗船したのは3月28日であった。なお、27日に大阪を出発した芥川は、門司で再び感冒をぶり返している。後年、彼は「侏儒の言葉――病牀雜記――」の「三」で、以下のようにこの時の情けなさを記す。

 三、旅に病めることは珍らしからず。(今度も輕井澤の寐冷えを持ち越せるなり。)但し最も苦しかりしは丁度支那へ渡らんとせる前、下の關の宿屋に倒れし時ならん。この時も高が風邪なれど、東京、大阪、下の關と三度目のぶり返しなれば、存外熱も容易には下らず、おまけに手足にはピリン疹を生じたれば、女中などは少くとも梅毒患者位には思ひしなるべし。彼等の一人、僕を憐んで曰、「注射でもなすつたら、よろしうございませうに。」

   東雲(しののめ)の煤ふる中や下の關

ここで芥川は冗談で仲居の言った「梅毒」のエピソードを挙げている。しかし、これもこの中国行の後に「恐れ」として芥川の精神に暗い影を落とすこととなる病名なのである(「十二 西洋」注参照)。「筑後丸」は日本郵船会社所属(但し、国産ではなくイギリスからの輸入船)。三輪祐児氏のHP「■近代化遺産ルネッサンス■戦時下に喪われた日本の商船」「筑後丸」のページには、写真とデータに加えて、何と本「上海游記」の記載があり、この大正10(1921)年からこの筑後丸が昭和17(1942)年11月3日に潜水艦の雷撃によって撃沈するまでの約20年が走馬灯のように印象的に綴られている。必読の一篇である。「舷梯」はタラップ、ボーデイング・ブリッジのこと。

・「馬杉君」不詳。その後にも登場しないことから、同行した大阪毎日関係者ではないと思われる。正に本文にある通り、「同じ船室に當つた」に過ぎない日本人旅行者かビジネスマンであろう。

・「仁丹」森下仁丹の口中清涼剤である仁丹は、明治381905)年に懐中薬として発売されている。甘草・桂皮(シナモン)・薄荷脳(メントール)等16種の生薬を配合して丸めたもので、当時はベンガラでコーティングされていた。適応症として「乗り物酔い」が挙げられている。

・「渦福の鉢」は陶器の銘の一つで、渦を巻いた印の中に草書体の「福」の字を配したもの。古伊万里の柿右衛門様式にしばしば現れるため、名品の証しとされる。この連想は旅行直前の出来事と関係がある。実は、出発直前の3月16日のこと、芥川家に突如「渦福の鉢」が贈られてきたのであった。これは彼が『新潮』の同3月号に掲載した「點心」の「托氏宗教小説」(「トルストイ宗教小説」の中国語訳)の冒頭で、

 今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。價を尋ねれば十五錢だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福(うづふく)の鉢を買はうと思つたら、十八圓五十錢と云ふのに辟易した。が、十五錢の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。[やぶちゃん補注:以下略。上記の僕の電子テクストを参照されたい。]

と書いたのを読んだ、先輩作家田村松魚(たむらしょうぎょ)が「渦福」の茶碗を贈ってよこしたであった。芥川は松魚とは逢ったことがなく、恐縮して同日礼状を認めている。田村松魚(明治101877)年~和231948)年)は幸田露伴の高弟として活躍した作家である。作家田村俊子は彼の元妻である(大正7(1918)年に愛人を追って逃避行)。

・「日本アルプス」は、前年大正9(1920)年7月の『改造』に発表した「槍ケ岳紀行」の連想であろう。研究者や登山家の間には、芥川がこの頃、槍ヶ岳に登山していると思い込んでいる方もいるようであるが(そういう論文やエッセイを読んだことがある)、これは明治421909)年、東京府立第三中学(現・両国高校)5年の17歳の時、同級生ら5人で登攀した際の記録をインスパイアした確信犯的偽作である。

・「初代ぽんた」は、新橋玉の家の名妓初代ぽん太のことで、本名を鹿島ゑ津子といった。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に貞女ぽんたと称されたという。森鷗外の「百物語」はこの御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。恐らく、芥川のここでの連想は、尊崇した歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に所収する、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

辺りを受けるものではなかろうかと思われる。

・「フリイゲンデ・ホルレンデル」“Der fliegende Holländer”は、Wilhelm Richard Wagnerリヒャルト・ワーグナー(18131883)作の歌劇「さまよえるオランダ人」のこと。天罰により呪われ、現世と煉獄の間を行き来し、永遠に死ぬことが出来ずに七つの海を彷徨うオランダ人の幽霊船の北欧神話をモチーフとしたChristian Johann Heinrich Heineハインリッヒ・ハイネ(17971856)の“Aus den Memoiren des Herren von Schnabelewopski”「フォン・シュナーベレヴォプスキイ氏の回想記」という詩にワーグナーがヒントを得て作曲したオペラ。

・「寢床(バアス)」“berth”で、海事用語としては本来は操船余地・停泊位置又は高級船員階級や高級船員室を指すが、ここでは船内の高級船室の1人用の寝台を言う。海軍機関学校の教師であった彼には親しい語であった。

・「齒が三十九枚ある」標準的現代人の歯は上下合わせて28本(第三大臼歯=親知らずを含めると32本)。余分な奇数が悪魔の尻尾である。]

 

 

 

       二 第一瞥(上)

 

 埠頭の外へ出たと思ふと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我我を包圍した。我我とは社の村田君、友住(ともすみ)君、國際通信社のジヨオンズ君並に私の四人である。抑(そもそも)車屋なる言葉が、日本人に與へる映像は、決して薄ぎたないものぢやない。寧ろその勢の好い所は、何處か江戸前な心もちを起させる位なものである。處が支那の車屋となると、不潔それ自身と云つても誇張ぢやない。その上ざつと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしてゐる。それが前後左右べた一面に、いろいろな首をさし伸しては、大聲に何か喚き立てるのだから、上陸したての日本婦人なぞは、少からず不氣味に感ずるらしい。現に私なぞも彼等の一人に、外套の袖を引つ張られた時には、思はず背の高いジヨオンズ君の後へ、退却しかかつた位である。

 我我はこの車屋の包圍を切り拔けてから、やつと馬車の上の客になつた。が、その馬車も動き出したと思ふと、忽ち馬が無鐵砲に、町角の煉瓦塀と衝突してしまつた。若い支那人の駁者は腹立たしさうに、ぴしぴし馬を毆りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり躍らせてゐる。馬車は無論轉覆しさうになる。往來にはすぐに人だかりが出來る。どうも上海では死を決しないと、うつかり馬車へも乘れないらしい。

 その内に又馬車が動き出すと、鐵橋の架つた川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群つてゐる。川の縁には緑色の電車が、滑らかに動いてゐる。建物(たてもの)はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階(がい)か四階である。アスフアルトの大道(だいだう)には、西洋人や支那人が氣忙(きぜは)しさうに歩いてゐる。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相圖をすると、ちやんと馬車の路を讓つてくれる。交通整理の行き屆いてゐる事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都合の及ぶ所ぢやない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊(いささか)恐れをなしてゐた私は、かう云ふ晴れ晴れした景色を見てゐる内に、だんだん愉快な心もちになつた。

 やがて馬車が止まつたのは、昔金玉均が暗殺された、東亞洋行と云ふホテルの前である。さきに下りた村田君が、馭者に何文だか錢(ぜに)をやつた。が、馭者はそれでは不足だと見えて、容易に出した手を引つこめない。のみならず口角泡を飛ばして、頻(しきり)に何かまくし立ててゐる。しかし村田君は知らん顏をして、ずんずん玄關へ上つて行く。ジヨオンズ友住の兩君も、やはり馭者の雄辯なぞは、一向問題にもしてゐないらしい。私はちよいとこの支那人に、氣の毒なやうな心もちがした。が、多分これが上海では、流行なのだらうと思つたから、さつさと跡について戸の中へはいつた。その時もう一度振返つて見ると、馭者はもう何事なかつたやうに、恬然と馭者臺に坐つてゐる。その位なら、あんなに騷がなければ好(よ)いのに。

 我我はすぐに薄暗い、その癖裝飾はけばけばしい、妙な應接室へ案内された。成程これぢや金玉均でなくても、いつ何時どんな窓の外から、ビストルの丸(たま)位は食はされるかも知れない。――そんな事を内内考へてゐると、其處へ勇ましい洋服着の主人が、スリツパアを鳴らしながら、氣忙しさうにはいつて來た。何でも村田君の話によると、このホテルを私の宿にしたのは、大阪の社の澤村君の考案によつたものださうである。處がこの精悍な主人は、芥川龍之介には宿を貸しても、萬一暗殺された所が、得にはならないとでも思つたものか、玄關の前の部屋の外には、生憎明き間はごわせんと云ふ。それからその部屋へ行つて見ると、ベツドだけは何故か二つもあるが、壁が煤けてゐて、窓掛(まどかけ)が古びてゐて、椅子さへ滿足なのは一つもなくて、――要するに金玉均の幽靈でなければ、安住出來る樣な明き間ぢやない。そこで私はやむを得ず、澤村君の厚意は無になるが、外の三君とも相談の上、此處から餘り遠くない萬歳館へ移る事にした。

 

[やぶちゃん注:芥川は3月30日の午後、上海に到着している。以降、上海を拠点に、杭州(5月5日~5月8日)や、蘇州から鎮江・揚州を経て南京への旅(5月8日~5月14日)をし、5月17日に上海に別れを告げ、長江を遡り、漢口へと向かっている。上海は延べ一箇月強の滞在であるが、実は「五」で語るように、その殆んどが(4月1日~4月23日迄の約三週間)乾性肋膜炎による入院生活であった。但し、入院の後半にはカフェや本屋への外出は許されていたようである。

・「村田君」は村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。

・「友住君」は、筑摩書房全集類聚版脚注によれば、村田孜郎と同じく大阪毎日新聞社記者。やはり中国在留社員である。次の「ジョオンズ」も含め、彼ら三名は皆、芥川龍之介を出迎えた人々であって、日本からの同行者ではない。

・「國際通信社のジヨオンズ」は、Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、次の「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい。

・「金玉均」はキム・オッキュン(김옥균18511894)。ウィキの「金玉均」の記載に依ると、朝鮮李朝時代後期の開明派の政治家。1882年に半年間日本に遊学、福澤諭吉の薫陶を受ける。朝鮮の清朝からの独立を目指し、18844月に帰国、12月に支配拡大を意図した日本の協力のもとに閔(ミン)氏政権打倒クーデターである甲申事変を起こすが失敗、日本に亡命後、上海に渡る。1894年3月、閔妃(ミンビ)の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで銃撃され死去した。遺体は清政府により朝鮮に搬送、そこで身体を切り刻む凌遅刑に処された上、胴は川に捨てられ、寸断された首・片手及片足・手足がそれぞれ各地に見せしめとして晒されたという。

・「東亞洋行と云ふホテル」筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『上海北四川路にあった日本人経営の旅館。』とある。

・「大阪の社の澤村君」は、澤村幸夫。大阪毎日新聞社本社社員。戦前の中国・上海関連の民俗学的な複数の著作に同名の作者が居り、同一人物と思われる。彼はまたゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかった。更に芥川龍之介の遺稿「人を殺したかしら?――或畫家の話――」のエピソード(左記の私の電子テクスト冒頭注参照)に現れる「沢村幸夫」なる大阪毎日新聞社記者とも同一人物と思われ、実は、なかなかに謎めいた人物ではある。

・「萬歳館」筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『上海西華徳路にあった日本人むけの旅館。』とある。]

 

 

 

     三 第一瞥(中)

 

 その晩私はジヨオンズ君と一しよに、シエツフアアドといふ料理屋へ飯を食ひに行つた。此處は壁でも食卓でも、一と通り愉快に出來上つてゐる。給仕は悉(ことごとく)支那人だが、隣近所の客の中には黄色い顏は見えない。料理も郵船會社の船に比べると、三割方は確に上等である。私は多少ジヨオンズ君を相手に、イエスとかノオとか英語をしやべるのが、愉快なやうな心もちになつた。

 ジョオンズ君は悠悠と、南京米(なんきんまい)のカリイを平げながら、いろいろ別後の話をした。その中の一にこんな話がある。何でも或晩ジヨオンズ君が、――やつぱり君(くん)附(づ)けにしてゐたのぢや、何だか友だちらしい心もちがしない。彼は前後五年間、日本に住んでゐた英吉利人である。私はその五年間、(一度喧嘩をした事はあるが)始終彼と親しくしてゐた。一しよに歌舞伎座の立ち見をした事もある。鎌倉の海を泳いだ事もある。殆夜中(よぢゆう)上野の茶屋に、盃盤狼藉をしてゐた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其處の池へ飛込んだりした。その彼を君などと奉つてゐちや、誰よりも彼にすまないかも知れない。次手(ついで)にもう一つ斷つて置くが、私が彼と親しいのは、彼の日本語が達者だからである。私の英語がうまいからぢやない。――何でも或晩そのジヨオンズが、何處かのカツフエへ酒を飮みに行つたら、日本の給仕女がたつた一人、ぼんやり椅子に腰をかけてゐた。彼は日頃口癖のやうに支那は彼の道樂(ホツビイ)だが日本は彼の情熱(パツシヨン)だと呼號(こがう)してゐる男である。殊に當時は上海へ引越し立てだつたさうだから、餘計日本の思ひ出が懷しかつたのに違びない。彼は日本語を使ひながら、すぐにその給仕へ話しかけた。「何時上海へ來ましたか?」「昨日來たばかりでございます。」「ぢや日本へ歸りたくはありませんか?」給仕は彼にかう云はれると、急に涙ぐんだ聲を出した。「歸りたいわ。」ジヨオンズは英語をしやべる合ひ間に、この「歸りたいわ」を繰返した。さうしてにやにや笑ひ出した。「僕もさう云はれた時には、Awfully sentimentになつたつけ。」

 我我は食事をすませた後(のち)、賑かな四馬路(まろ)を散歩した。それからカツフエ・パリジアンヘ、ちよいと舞蹈を覗きに行つた。

 舞蹈場は可也廣い。が、管絃樂(オオケストラ)の音と一しよに、電燈の光が青くなつたり赤くなつたりする工合は如何にも淺草によく似てゐる。唯その管絃樂(オオケストラ)の巧拙になると、到底淺草は問題にならない。其處だけはいくら上海でも、さすがに西洋人の舞蹈場である。

 我我は隅の卓子(テエブル)に、アニセツトの盃を舐めながら、眞赤な着物を着たフイリツビンの少女や、背廣を一着(いつちやく)した亞米利加の青年が、愉快さうに踊るのを見物した。ホイツトマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとつた男女の美しさは、又格別だとか云ふのがある。私はどちらも同じやうに、肥つた英吉利の老人夫婦が、私の前へ踊つて來た時、成程とこの詩を思ひ浮べた。が、ジヨオンズにさう云つたら、折角の私の詠嘆も、ふふんと一笑に付せられてしまつた。彼は老夫婦の舞踏を見ると、その肥れると瘦せたるとを問はず、吹き出したい誘惑を感ずるのださうである。

 

[やぶちゃん注:最初にここで「やつぱり君附けにしてゐたのぢや、何だか友だちらしい心もちがしない。……」以下に語られているThomas Jones と芥川の交流について、少し辿ってみたい。

 Thomas Jones18901923。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大学)で英語を教えた。

 まず、彼等の最初の出逢いであるが、これはジョーンズをモデルとした「彼 第二」の「一」の初対面のシーンで「それは二人とも數へ年にすれば、二十五になつた冬のことだつた。」とあるので、大正5(1916)年の冬と考えられる(当時の芥川は大学を7月に卒業、12月1日に海軍機関学校教授嘱託となって、同時に塚本文と婚約している)。

 大正8(1919)年3月15日に、既にロイター記者となっていた彼と築地の待合に芸者を揚げて十時頃まで夕宴を開いている。これが現在の種々の芥川龍之介年譜上の彼の初出である。因みに、この日の細かなデータが分るのは芥川の「點鬼簿」の「三」にそのシーンが描かれているからである(芥川は、この夕宴の直後に実父新原敏三の危篤の報を受け、病院に向かう。死に目に逢え、翌16日に敏三は息を引き取っている)。

 その後、芥川龍之介は海軍機関学校を退職、純粋な作家生活に入った。その直後大正8(1919)年の芥川の日記である「我鬼窟日録」には、ジョーンズ関連の記載が以下のように現れる(以下は私が纏めたもので記載そのものではない)。

5月29

ロイター通信社にジョーンズを訪ねるも不在。

6月11

ジョーンズと東洋軒にて夕食(推定)をとる。

9月21

久保田万太郎・南部修太郎・佐佐木茂索・ジョーンズらが我鬼窟に来訪。その後に皆でそばを食いに出た。その店「更科」で燗酒を注文したところ、徳利から蚊が浮いて出た。『ジヨオンズ洒落て曰、この酒を蚊帳で漉して來て下さい』と言った。

9月24

久米正雄を訪問し、その夜のジョーンズのロイター社上海特派員転任送別の会の打ち合わせをする。夜、久米・成瀬正一と三人で鶯谷の茶屋「伊香保」にジョーンズ送別の宴を開いた。

因みに、その送別会の折の写真はよく知られるものである。

 「彼 第二」「我鬼窟日録」以外にも、芥川龍之介の作品では、松岡譲の洋行を見送る「出帆」、「江南游記」「北京日記抄」にもジョーンズは本名で登場している。

 彼の日本語力は驚異的で、山田氏によれば、『來日一年間で日本の小學校教科書十二册を讀破し、後には古事記まで讀もようになっていた。障子一つ隔てて聞くと日本の友人と話しているのが、まるで日本人同士の會話のようで、隨分しゃれを連發して、日本人を面食らわせたらしい』とある。

 ジョーンズは歌や絵の素養もあった(歌については後注「オペラ役者にでもなつてゐれば」を参照)。風景のスケッチをよくし、北斎や芳年の浮世絵を蒐集した。長岡擴氏が独自に編集していたクラウン・リーダーの編纂を手伝った折も、表紙や挿絵を彼が担当した(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)。後年、彼の妹メーベル(次注参照)の娘あやめが、沖繩の壷屋焼きを修行していた頃に出会った陶芸家濱田庄司が、彼女の伯父ジョーンズのことを「絵の上手な新聞記者がいた」と語ったという逸話がそれを物語る(山田清一郎「古きよき時代のこと」)。

 しかしジョーンズは33歳の若さで天然痘に罹患し、上海で客死、同所の静安寺路にある外人墓地に埋葬された(山田「古きよき時代のこと」)。ジョーンズ一家は種痘をしない主義であったそうである(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)。

・「殆夜中上野の茶屋に、盃盤狼藉をしてゐた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其處の池へ飛込んだりした」については、岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、『ジョーンズさんは音楽にもすぐれた才能のある人で、とても聲がよく、スコットランドやアイルランドの古い民謠とか、ギルバート・サリバンの「ミカド」や「軍艦ピナフォア」などオペラの有名なメロディを唄ってきかせてくれた。私たち兄妹が西洋音樂好きになったのは、全く彼のお蔭であるといってよい。その頃在留外人素人劇團が、帝劇で歌劇「キスメット」の公演をした時も、ジョーンズさんは、そのよい聲で人々を祈禱に誘う歌を唄う役で出演されたことを覚えている』に続けて、『芥川さんやその仲間との交遊も急速に進んでいた樣子で、私が後年芥川の上海紀行か何かで讀んだジョーンズさんが、久米正雄の一張羅の仙臺平の袴をはいて上野料亭の泉水に飛び込んだのもこの頃のことではないかと思われる』とある。長岡氏はこの前の部分でこの時期を、ジョーンズが下宿していた自宅が転居した大正6(1917)年~大正7(1918)年頃と推定しておられるようである。ここで気になるのは、その根拠を、大正8(1919)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移り、慶應で教えていたヒュウエルさんと一緒に住んでいたが、間もなくロイテル通信社に入社し、上海支局に行かれた』からと記しておられる点である。この記載だと、ジョーンズは、来日後、上海に行くまで、日本を離れていないかのように読めるのである。しかし、芥川龍之介の「彼 第二」では、「彼」は一度、イギリスへ戻っている(「二三年ぶりに日本に住むこととなつた」)し、ここでも芥川は『彼は前後五年間、日本に住んでゐた英吉利人である』(下線部やぶちゃん)としている。だが、長岡氏は大正4(1915)年の来日は、『新橋驛まで出迎え』『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』としており、そうすると上海へ渡航したと思われる大正8(1919)年9月中下旬までは、4年強にしかならない。識者の御教授を乞うものである。

 

・「シエツフアアド」は“shepherd”でシェパードのこと。名詞としては羊飼い、保護者・牧師・教師、牧羊犬、ここではとりあえず“sheep dog”の意味であろう。しかし店名で“S”が大文字になっていれば、それは“The  (Good)  Shepherd”で、イエス・キリストをも匂わせる名前である。芥川の意識はそこまで働いているのではあるまいか。所在地不明。現存しないと思われる。ここに限らず、旧上海の案内図でもあれば芥川が、その時いた、その場所を机上で確認できるのだが……。そのうち古本屋で探してみたいと思っている。

・「郵船會社の船」芥川が渡中に用いた日本郵船会社所属の筑後丸のこと(但し、国産ではなくイギリスからの輸入船)。三輪祐児氏のHP「■近代化遺産ルネッサンス■戦時下に喪われた日本の商船」「筑後丸」のページには、写真とデータに加えて、何と本「上海游記」の記載があり、この大正101921)年からこの筑後丸が昭和171942)年11月3日に潜水艦の雷撃によって撃沈するまでの約20年が走馬灯のように印象的に綴られている。必読の一篇である。

・「南京米」は、インドシナ・タイ・ベトナム・中国等から輸入するインディカ米を、嘗てはこう呼称した。

・「Awfully sentiment」は、「とっても感傷的」の意。

・「四馬路」の「馬路」は北京語で「マールー」、上海語で「モル」、現代中国語で「道路」という意であるが、現在の上海人民公園は旧上海租界の競馬場であったため、この周辺の道は日々馬の調教のための散歩に使用された。そのためこの界隈の比較的大きな道を「馬路」と呼ばれるようになったとも言われる。「四」はこの競馬場の北に位側にある南京東路・九江路・漢口路・福州路の4本の通りが、当時は最北から順に「大馬路(タモル)」「二馬路(ニモル)」「三馬路(セモル)」「四馬路(スモル)」と上海語で呼ばれたことによるとする。現在、福州路は書店・文房具店・ギャラリーが立ち並ぶが、租界の頃は遊郭域であったらしい。因みに、「二馬路」の発音が「リャンモル」でなく「ニモル」なのは、上海語の古語では日本語と同じく「二」が「ニ」の発音であったからで、今でもたまに使われるそうである(以上は、個人サイト「私の上海遊歩人」の「四馬路(スマル)って、なあに?」を参照にさせて頂いた)。なお、この「租界」という語は中国独特のものであるので、ここで説明しておく。「租界」とは中国の開港都市部に於いて居留する外国人がその居留地区の警察権や行政権を掌握した治外法権の組織及び地域を呼ぶ。1842年にアヘン戦争で清が敗れるとイギリスは江寧(南京)条約によって上海を租界として借り上げたアロー号事件に端を発するアロー戦争(18571860)での英仏連合軍の勝利とその後の北京条約によって清の半植民地化は決定的となったが、その象徴が上海租界である。当初は南京条約により開港した上海に1845年、イギリスが置いたのが始まりで、その後、上海にはアメリカ合衆国・フランスが各租界を定めた。後に英米列強の租界を合わせた共同租界とフランス租界の二つに再編された。最多時は8ヶ国27ヶ所に及んだ。

・「カツフエ・パリジアン」“Café Parisien”。所在地不明。現存しないと思われる。

・「アニセツト」は、“anisette”アニゼット酒で、リキュールの一種。スピリッツにアニス・コリアンダー・シナモン等のハーブやスパイスを配合し、オレンジピールなどを加えて蒸留後、スピリッツとシロップ・水などを加えたもの。カクテルの素材ともなる。無色透明・甘口で香りが強い。酒精度25%前後。1755年にボルドーでマリー・ブリザール社によって売り出された。

・「ホイツトマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとつた男女の美しさは、又格別だとか云ふのがある」は、恐らくWalt Whitman18191892の“LEAVES OF GRASS”の以下の詩を言う。

 

  BEAUTIFUL WOMEN.

 

Women sit, or move to and fro — some old,

      some young.

The young are beautiful; but the old are more

      beautiful than the young.

 

○やぶちゃん訳

 

 美しき女性

 

女は今に在りながら、同時に時間(とき)を越えて行き交いつつ、生きる――

時に年老いた彼方へと、時に若き日のあの時間(とき)へと。

 

若いことは美しい――しかし、年老いていることは

若くあることよりも、もっと、美しい。

 

なお、別の英文サイトでは、

 

 77. Beautiful Women

 

WOMEN sit, or move to and fro—some old, some young;

The young are beautiful—but the old are more beautiful than the young.

 

とあるが、詩としての視覚上の印象は、前者が好ましいように思われる。]

 

 

 

       四 第一瞥(下)

 

 カツフエ・パリジアンを引き上げたら、もう廣い往來にも、人通りが稀になつてゐた。その癖時計を出して見ると、十一時がいくらも廻つてゐない。存外上海の町は早寢である。

 但しあの恐るべき車屋だけは、未に何人もうろついてゐる。さうして我我の姿を見ると、必何とか言葉をかける。私は晝間村田君に、不要(プヤオ)と云ふ支那語を教はつてゐた。不要(プヤオ)は勿論いらんの意である。だから私は車屋さへ見れば、忽惡魔拂ひの呪文のやうに、不要(プヤオ)不要(プヤオ)を連發した。これが私の口から出た、記念すべき最初の支那語である。如何に私が欣欣然と、この言葉を車屋へ抛(はふ)りつけたか、その間の消息がわからない讀者は、きつと一度も外國語を習つた經驗がないに違ひない。

 我我は靴音を響かせながら、靜かな往來を歩いて行つた。その往來の右左には、三階四階の煉瓦建(れんがだて)が、星だらけの空を塞ぐ事がある。さうかと思ふと街燈の光が、筆太に大きな「當(たう)」の字を書いた質屋の白壁を見せる事もある。或時は又歩道の丁度眞上に、女醫生何とかの招牌(せうはい)がぶら下つてゐる所も通れば、漆喰の剥げた塀か何かに、南洋煙草の廣告びらが貼りつけてある所も通つた。が、いくら歩いて行つても、容易に私の旅館へ來ない。その内に私はアニセツトの崇りか、喉が渇いてたまらなくなつた。

 「おい、何か飮む所はないかな。僕は莫迦に喉が渇くんだが。」

 「すぐ其處にカツフエが一軒ある。もう少しの辛抱だ。」

 五分の後我我兩人は、冷たい曹達(ソオダ)を飮みながら、小さな卓子に坐つてゐた。

 このカツフエはパリジアンなぞより、餘程下等な所らしい。桃色に塗つた壁の側には、髮を分けた支那の少年が、大きなピアノを叩いてゐる。それからカツフエのまん中には、英吉利の水兵が三四人、頰紅の濃い女たちを相手に、だらしのない舞蹈を續けてゐる。最後に入口の硝子戸の側には、薔薇の花を賣る支那の婆さんが、私に不要(プヤオ)を食(く)はされた後、ぼんやり舞蹈を眺めてゐる。私は何だか畫入(ゑいり)新聞の插畫(さしゑ)でも見るやうな心もちになつた。畫(ゑ)の題は勿論「上海」である。

 其處へ外から五六人、同じやうな水兵仲間が、一時(じ)にどやどやはいつて來た。この時一番莫迦を見たのは、戸口に立つてゐた婆さんである。婆さんは醉ぱらひの水兵連が、亂暴に戸を押し開ける途端、腕にかけた籠を落してしまつた。しかも當の水兵連は、そんな事にかまふ所ぢやない。もう踊つてゐた連中と一しよの氣違ひのやうにとち狂つてゐる。婆さんはぶつぶつ云ひながら、床に落ちた薔薇を拾ひ出した。が、それさへ拾つてゐる内には、水兵たちの靴に踏みにじられる。

 「行かうか?」

 ジヨオンズは辟易したやうに、ぬつと大きな體を起した。

 「行かう。」

 私もすぐに立ち上つた。が、我我の足もとには、點點と薔薇が散亂してゐる。私は戸口へ足を向けながら、ドオミエの繪を思ひ出した。

 「おい、人生はね。」

 ジヨオンズは婆さんの籠の中へ、銀貨を一つ抛りこんでから、私の方へ振返つた。

 「人生は、――何だい?」

 「人生は薔薇を撒き散らした路であるさ。」

 我我はカツフエの外へ出た。其處には不相變黄包車(ワンパオツオ)が何臺か客を待つてゐる。それが我我の姿を見ると、我勝ちに四方から駈けつけて來た。車屋はもとより不要(プヤオ)である。が、この時私は彼等の外にも、もう一人別な厄介者がついて來たのを發見した。我我の側には、何時の間にか、あの花賣りの婆さんが、くどくどと何かしやべりながら、乞食のやうに手を出してゐる。婆さんは銀貨を貰つた上にも、また我我の財布の口を開けさせる心算(つもり)でゐるらしい。私はこんな欲張りに賣られる、美しい薔薇が氣の毒になつた。この圖圖しい婆さんと、晝間乘つた馬車の馭者と、――これは何も上海の第一瞥に限つた事ぢやない。殘念ながら同時に又、確に支那の第一瞥であつた。

 

[やぶちゃん注:

・「不要(プヤオ)」“búyào”。私が中国で最初に見ず知らずの人に発した最初の中国語も、この語であった。

・「欣欣然と」(形容動詞・タリ活用・連用形)如何にも嬉しそうなさま。

・「當」は“dàng”(通常、我々が使用する「当」の意味の場合は本来は“dāng”)で、日本で言う「質」「質種(ぐさ)」「質の代(かた)」「質に入れる」「質ぐさにする」「抵当」の意。

・「招牌」店屋の看板。

・「南洋煙草」当時、中国国産煙草会社の一つ、南洋煙草公司を指すものと思われる。但し、この会社は香港に本拠を置いており、二重国籍の会社であった。当時、中国全体の煙草のシェアのほとんどは英米トラスト煙草会社によって占められていた。

・「畫入新聞の插畫」上海では19世紀末発行されていた絵入り新聞『点石斎画報』が面白く有名だが、ここで芥川が言うのは、現在の日本の新聞のルーツである、明治初期の、絵入りで実話や奇談を載せた大衆向け新聞を指している。だから、この想像の絵のタッチは月岡芳年や河鍋暁斎辺りをイメージすべきであろう。

・「ドオミエ」Honoré-Victorin Daumierオノレ・ドーミエ(18081879)。フランスの風刺画家。ウィキの「オノレ・ドーミエ」によれば当時の『フランスはジャーナリズムの勃興期にあり、新聞・雑誌などが多数創刊されたが、識字率のさほど高くなかった当時、挿絵入り新聞の需要は大きかった。この頃、挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊したシャルル・フィリポンという人物がいた。彼は版画家としてのドーミエの才能を見抜き、1831年、23歳のドーミエを採用した。当時のフランスは7月革命(1830年)で即位した国王ルイ・フィリップの治世下にあったが、ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡した』とある。

・「黄包車」“huáng bāo chē”。黄色い覆いをかけたことから言う。因みに、戦前に来日したアインシュタインが憤慨した、この『非人道的な』(私は必ずしもそうは思わない。そうした職業的非人道性を言葉にした時、その人の中に問題のある職業差別のイメージが形成されていはしまいかという疑義があるからである)人力車なるものは明治初期の日本がルーツで、中国には1919年頃に入って爆発的に流行した。1949年以降、中国共産党の指示により廃止されている。]

 

 

 

       五 病院

 

 私はその翌日から床に就いた。さうしてその又翌日から、里見さんの病院に入院した。病名は何でも乾性の肋膜炎とか云ふ事だつた。假にも肋膜炎になつた以上、折角企てた支那旅行も、一先づ見合せなければならないかも知れない。さう思ふと大いに心細かつた。私は早速大阪の社へ、入院したと云ふ電報を打つた。すると社の薄田氏から、「ユツクリレウヨウセヨ」と云ふ返電があつた。しかし一月なり二月なり、病院にはいつたぎりだつたら、社でも困るのには違ひない。私は薄田氏の返電にほつと一先(ひとまづ)安心しながら、しかも紀行の筆を執るべき私の義務を考へると、愈心細がらずにはゐられなかつた。

 しかし幸ひ上海には、社の村田君や友住君の外にも、ジヨオンズや西村貞吉のやうな、學生時代の友人があつた。さうしてこれらの友人知己は、忙しい體にも關らず、始終私を見舞つてくれた。しかも作家とか何とか云ふ、多少の虚名を負つてゐたおかげに、時時未知の御客からも、花だの果物だのを頂戴した。現に一度なぞはビスケットの罐が、聊か處分にも苦しむ位、ずらりと枕頭に並んだりした。(この窮境を救つてくれたのは、やはりわが敬愛する友人知己諸君である。諸君は病人の私から見ると、いづれも不思議な程健啖だつた。)いや、さう云ふ御見舞物を辱(かたじけな)くしたばかりぢやない始は未知の御客だつた中にも、何時か互に遠慮のない友達づき合ひをする諸君が、二人も三人も出來るやうになつた。俳人四十起(き)君もその一人である。石黑政吉君もその一人である。上海東方通信社の波多博君もその一人である。

 それでも七度五分程の熱が、容易にとれないとなつて見ると、不安は依然として不安だつた。どうかすると眞つ晝間でも、ぢつと横になつてはゐられない程、急に死ぬ事が怖くなりなぞした。私はかう云ふ神經作用に、祟られたくない一心から、晝は滿鐵の井川氏やジヨオンズが親切に貸してくれた、二十冊あまりの横文字の本を手當り次第讀破した。ラ・モツトの短篇を讀んだのも、テイツチエンズの詩を讀んだのも、ジャイルズの議論を讀んだのも、悉この間の事である。夜は、――これは里見さんには内證だつたが、萬一の不眠を氣づかふ餘り、毎晩缺かさずカルモチンを呑んだ。それでさへ時時は夜明け前に、眠がさめてしまふのには辟易した。確か王次囘(わうじくわい)の疑雨(ぎう)集の中に、「藥餌無徴怪夢頻」とか云ふ句がある。これは詩人が病氣なのぢやない。細君の重病を歎いた詩だが、當時の私を詠じたとしても、この句は文字通り痛切だつた。「藥餌無徴怪夢頻」私は何度床の上に、この句を口にしたかわからない。

 その内に春は遠慮なしに、ずんずん深くなつて行つた。西村が龍華(ロンホア)の桃の話をする。蒙古風(かぜ)が太陽も見えない程、黄塵を空へ運んで來る。誰かがマンゴオを御見舞にくれる。もう蘇州や杭州を見るには、持つて來いの氣候になつたらしい。私は隔日に里見さんに、ドイヨヂカルの注射をして貰ひながら、このベッドに寢なくなるのは、何時の事だらうと思ひ思ひした。

 附記 入院中の事を書いてゐれば、まだいくらでも書けるかも知れない。が、格別上海なるものに大關係もなささうだから、これだけにして置かうと思ふ。唯事き加へて置きたいのは、里見さんが新傾向の俳人だつた事である。次手(ついで)に近什(きんぢふ)を一つ擧げると、

     炭をつぎつつ胎動のあるを語る

 

[やぶちゃん注:上陸翌日の3月31日は、治りきっていなかった感冒がまたぞろ悪化し、萬歳館で床に就いたままとなる。翌4月1日上海の里見病院に入院、乾性肋膜炎の診断を受ける。入院はおよそ3週間に及び、4月23日に退院した。但し、入院の後半にはカフェや本屋への外出は許されていたようである。

・「里見さんの病院」里見医院。神田由美子氏の岩波版新全集注解によると、院長は内科医里見義彦で、『密勒路A六号(当時この一帯は日本人街。現、上海氏虹口区峨嵋路十八号)にあった赤煉瓦四階建の左半分が里見病院。芥川の病室は二階の細い通路に面したベランダつきの一室』とある。現在はアパートになっているが、建物そのものは現存しているらしい。芥川の渡中の出迎えにも出た大阪毎日新聞社上海支局長村田孜郎が、院長の俳句の仲間(後述)であった縁故での入院。

・「乾性の肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。

・「薄田氏」大阪毎日新聞社学芸部部長の薄田淳介(じゅんすけ)、詩人薄田泣菫(すすきだ きゅうきん 明治101877)年~昭和201945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。この大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正121923)年末には新聞社を休職している。

・「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。

・「ジヨオンズや西村貞吉のやうな、學生時代の友人があつた。……」ここにきわめて類似した文句が、退院した翌日の父芥川道章に宛てた書簡に現れる(旧全集書簡番号八八二)。発病と病名と今後も身体の具合が悪くなるようであれば、北京行きは見合わせて揚子江南岸のみ見物して帰朝するつもりであること、今日まで手紙を書かなかったのはかえって心配をかけることを憚ってのことであったことを告げ、

一時は上海にて死ぬ事かと大に心細く相成候幸西村貞吉やジヨオンズなど居り候爲何かと都合よろしくその外知らざる人もいろいろ、見舞に來てくれ、病室なぞは花だらけになり候且又上海の新聞などは事件少なき小生の病氣のことを毎日のやうに掲載致し候爲井川君の兄さんには「まるで天皇陛下の御病氣のやうですな」とひやかされ候今後は一週間程上海に滯留の上杭州南京蘇州等を見物しそれより漢口へ參るつもりに候 以上

として日付「四月二十四日」と「上海萬歳館内 芥川龍之介」の署名が入る(二伸があるが省略)。なお、「井川君」は後の注の「滿鐵の井川氏」を参照。

 

・「四十起君」島津四十起(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和231948)年)。俳人・歌人。明治331900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が病床で開いた句会での芥川の作が岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。

 

街の敷石耗り春雨流るゝ

 

吾子が自由畫の目白うららか

 

星空暖かに屋根々々の傾き

 

春雨が暖かい支那人顏の汚れ

 

大正151926)年1111日上海で刊行された島津四十起の句集『荒彫』に、表記の題で四十起の句六句と併せて「我鬼」の署名で掲載され、末尾には「一九二一年四月一六日」「(我鬼は芥川氏の俳号)」という注記がなされているとする(岩波版新全集後記)。「耗り」は「耗(すりへ)り」と読ませているものと思われる。

 

・「石黑政吉君」筑摩版脚注は「不詳」とし、神田由美子氏の岩波版注解では注さえ挙げていない。私は、これは「石黑定一」の誤りではないかと思う。石黒定一(明治291896)年~昭和611986)年)は当時、三菱銀行上海支店に勤務しており、上海で知り合った人物である。直前の友人「西村貞吉」の「さだきち」又は「てい」(という読みであるとすれば)と「石黑定一」の「さだかず」又は「てい」(という読みであるとすれば)、これらは音が混同し易い気がする。芥川の石黒定一への思いが半端なものでないことは、廬山からの5月22日附石黒定一宛書簡(旧全集書簡番号九〇二)に明白である。

 

上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ

     留別

   夏山に虹立ち消ゆる別れかな

 

更に、芥川龍之介の「侏儒の言葉」には、実に彼に捧げられた次の有名な一節さえあるのである。

 

       人生

        ――石黑定一君に――

 もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。

 我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。

 成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでおり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 

       又

 

 人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危險である。

 

       又

 

 人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。

 

芥川のテクストへの注記をするようになって強く感じるのだが、実は芥川は人名を誤って表記することが案外、多いのである。「石黑政吉」→「石黑定一」説、識者の御意見を伺いたいものである。

 

・「波多博君」筑摩版脚注・岩波版注解共に注を挙げていない。「上海ウォーカーライン」の陳祖恩氏の上海の新聞人であった「井手三郎」についての記載に、『1929年11月、年老いた井手は日本円五万円で《上海日報》を波多博に売り、故郷熊本に隠居した。《上海日報》は《上海日日新聞》《上海毎日新聞》と並び、上海3大日本語新聞としてその名を馳せた。』という文脈で登場する。井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年)は熊本出身の新聞人で、芥川の「江南游記」の「十三 蘇州城内(上)」にも登場する島田太堂(本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊、その後に『上海日報』を創刊した。この記載から、この当時は上海東方通信社の責任者(主筆や経営陣の一人)であった可能性が強いように思われる。ちなみに上海東方通信社は宗方小太郎(文久3・元治元(1864)年~大正13(1924)年):所謂、大陸浪人の一人。肥後の細川の支藩藩士の長男として現在の熊本県宇土市に生まれた。日清戦役に従軍後、中国に凡そ40年滞在、孫文らと親交を結び、当時の政治・改革運動の内奥にも精通した。上海通信社の創業、上海日清貿易研究所設立及び東亜同文会とその教育機関である東亜同文書院の創立に関わる等、日本の大陸政策を陰で支えた策士である。)の創立になるもので、波多は彼の弟子で、敗戦間際には彼の伝記の執筆も計画していたことが神奈川大学外国語学部大里浩秋氏の論文「上海歴史研究所所蔵宗方小太郎資料について」により判明した。

・「滿鐵の井川氏」は、井川亮。当時、南満州鉄道株式会社に勤務していた、芥川の一高時代の無二の親友井川恭の兄である。この頃、上海に滞在していた。

・「ラ・モツト」Friedrich Heinrich Karl de la Motteフリードリヒ・ハインリヒ・カール・ド・ラ・モッテ(17771843)は、ドイツの初期ロマン主義詩人。現在は男爵名のFriedrich de la Motte Fouquéフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケーの末尾「フーケー」で呼ばれることが多い。始めは軍人であったが、後に作家に転身した。代表作『ウンディーネ』(1811)はよく知られる幻想の悲恋物語である。

 

・「テイツチエンズ」Eunice Tietjensユニス・テッチエンズ(18841944)はアメリカの女流詩人。1916年に渡中、漢詩に強い影響を受けたとされる。芥川龍之介の「パステルの龍」の中に以下の芥川による訳詩が所収する(岩波版旧全集から引用)。

 

     夕明り

      ――Eunice Tietjens――

 

 乾いた秋の木の葉の上に、雨がぱらぱら落ちるやうだ。美しい狐の娘さんたちが、小さな足音をさせて行くのは。

 

     洒落者

      ――同上――

 

 彼は緑の絹の服を着ながら、さもえらさうに歩いてゐる。彼の二枚の上着には、毛皮の縁がとつてある。彼の天鵞絨の靴の上には、褲子(くうづ)の裾を卷きつけた、意氣な蹠(くるぶし)が動いてゐる。ちらちらと愉快さうに。

 彼の爪は非常に長い。

 朱君は全然流行の鏡とも云ふべき姿である!

 その華奢な片手には、――これが最後の御定りだが、――竹の鳥籠がぶらついてゐる。その中には小さい茶色の鳥が、何時でも驚いたやうな顏をしてゐる。

 朱君は寛濶な微笑を浮べる。流行と優しい心、と、この二つを二つながら、滿足させた人の微笑である。鳥も外出が必要ではないか?

 

     作詩術

      ――同上――

 

 二人(ふたり)の宮人は彼の前に、石竹の花の色に似た、絹の屏風を開いてゐる。一人の嬪妃は跪きながら、彼の硯を守つてゐる。その時泥醉した李太白は、天上一片の月に寄せる、激越な詩を屏風に書いた。

 

「洒落者」の詩中の「褲子(くうづ)」は“kùz”でズボンのような下袴のこと。

 

・「ジャイルズ」Herbert Allen Giles18451933)ハーバード・アレン・ジャイルズはイギリスの外交官・中国学者。平凡社「世界大百科事典」の竺沙(ちくさ)雅章氏の解説によれば『1880年(光緒6)以来、中国各地の領事を務めて93年に引退し、97年ケンブリッジ大学の中国語教授に招かれた。1932年に引退するまで、イギリス東洋学界の権威として数々の栄誉を受けた。学風は穏健で,中国人の思想や生活を深く理解しており、とくに中国詩文の翻訳にすぐれていた。「中英辞典」(1892)、「古今姓氏族譜」(1897)ほか、数百編の著書、論文がある。四男のライオネル・ジャイルズ Lionel Giles18751958)は大英博物館東洋部長となり、スタイン収集の敦煌漢文文献の整理に従事し、1957年その分類目録を出版した』(読点・記号の一部を変更した)とある。芥川が好きな「聊斎志異」の選訳もある。また、ウェード式ローマ字を英語で“Wade-Giles”と綴るのは、彼が改良したからである。

・「カルモチン」“Calmotin”は、催眠鎮静剤であるbromvalerylureaブロムワレリル尿素(ブロムワール)の武田薬品工業商品名(既に販売中止)。芥川の日記や文章に、また旧来の薬物自殺や心中事件にしばしば挙がってくる名であるが、致死性は低い。

・「王次囘」明代末の詩人。本名王彦泓(びんおう 生没年探索し得ず)。次回は字。「疑雨集」は彼の四巻からなる詩集。永井荷風は随筆「初硯」で彼を中国のボードレールと呼び、『感情の病的なる』「疑雨集」を「悪の華」に比肩するものとしている。

・「藥餌無徴怪夢頻」は「藥餌徴無くして怪夢頻り」で、「薬が全く効かず、怪しい夢ばかりを見る」の意。

・「龍華の桃の話」の「龍華」“lónghuā”は龍華鎮という村名。現在の上海市中心区の西南部に位置する徐匯(じょわい)区にある。そこにある禅宗の寺院龍華寺は上海地区でも最も古く、三国時代創建の1700年の歴史を持ち、規模の点でも最大。この寺は現在も桃の花の名所である。

・「蒙古風」モンゴル及び中国東北部の黄土地帯で吹く春の季節風が、黄土の細かな砂塵を大量に巻き上げて、中国東方や日本にまで吹き寄せてくるものを言う。日本では春の季語である。

・「ドイヨヂカル」不詳。沃化カリウム(ドイツ語Jodkalium)のことか。カリウムと沃素の化合物で医薬品としてバセドウ氏病や、被爆時の甲状腺異常の抑止剤として用いられるが、果たして筑摩版脚注や岩波版新全集注解の言うような「ヨード化カリウム」(このような言い方はないと思う)という「強壮剤」として、それをこのように頻繁に肋膜炎の患者に打ってよいものかどうか、私は知らない。医師の方の御意見を乞いたいものである。

・「里見さんが新傾向の俳人だつた事」里見医院院長里見義彦は河東碧梧桐門下の俳人でもあった。

・「炭をつぎつつ胎動のあるを語る」について、神田由美子氏の新全集注解には『里見澄子「父の句碑」(「太白」三六五号)に「外地に住み、心細い若い夫婦がお互いにいたわり合って冬の或る日に語り合っている姿が忍ばれます。胎動とあるのは、義妹美代子さんのこと」と解釈されている』とある。この注のは、恐らく筑摩版脚注で「胎動」を『中国での民主化運動をさす』という、中国風に言えば載道的な解釈をしているのを意識して、敢えて言志的解釈を示したというべきか。因みに、岩波新全集の第2次月報12の末木文美士氏の「芥川龍之介の中国」では、これを中国の「胎動」として論じており、芥川のみならず里見義彦氏自身もそのような政治的季節としての謂いで用いていると考えて語っておられる。しかし、医師という里見氏の職業柄から考えれば、私はやはり実際の胎児の胎動でなくては句にならない気がする(私はかつて若い頃、荻原井泉水の「層雲」に拠って自由律俳句を作っていたことがある)。但し、勿論、それを芥川が『新しき中国』の胎動と掛詞にしたであろうことは、疑う余地はない、と言っておかねばならない。]

 

 

 

      六 域内(上)

 

 上海の城内を一見したのは、俳人四十起氏の案内だつた。

 薄暗い雨もよひの午後である。二人を乘せた馬車は一散に、賑かな通りを走つて行つた。朱泥のやうな丸燒きの鷄が、べた一面に下つた店がある。種種雜多の吊洋燈(つりラムプ)が、無氣味な程並んだ店がある。精巧な銀器が鮮かに光つた、裕福さうな銀樓もあれば、太白の遺風の招牌(せうはい)が古びた、貧乏らしい酒樓もある。――そんな支那の店構へを面白がつて見てゐる内に、馬車は廣い往來へ出ると、急に速力を緩めながら、その向うに見える横町へはいつた。何でも四十起氏の話によると、以前はこの廣い往來に、城壁が聳えてゐたのださうである。

 馬車を下りた我我は、すぐに又細い横町へ曲つた。これは横町と云ふよりも、露路と云つた方が適當かも知れない。その狹い路の兩側には、麻雀の道具を賣る店だの、紫檀の道具を賣る店だのが、ぎつしり軒を並べてゐる。その又せせこましい軒先には、無暗に招牌がぶら下つてゐるから、空の色を見るのも困難である。其處へ人通りが非常に多い。うつかり店先に並べ立てた安物の印材でも覗いてゐると、忽ち誰かにぶつかつてしまふ。しかもその目まぐるしい通行人は、大抵支那の平民である。私は四十起氏の跡につきながら、滅多に側眼(わきめ)もふらない程、恐る恐る敷石を踏んで行つた。

 その露路を向うへつき當ると、時に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云へば立派らしいが、實は今にも壞れ兼ねない、荒廢を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まつ蒼な水どろが浮んでゐるから、水の色などは殆見えない。池のまはりには石を疊んだ、これも怪しげな欄干がある。我我が丁度其虞へ來た時、淺葱木綿の服を着た、辮子(ベンツ)の長い支那人が一人、――ちよいとこの間に書き添へるが、菊池寛の説によると、私は度度小説の中に、後架とか何とか云ふやうな、下等な言葉を使ふさうである。さうしてこれは句作なぞするから、自然と蕪村の馬の糞や芭蕉の馬の尿(しと)の感化を受けてしまつたのださうである。私は勿論菊池の説に、耳を傾けない心算(つもり)ぢやない。しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時時は禮節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし嘘だと思つたら、試みに誰でも書いて見るが好い。――そこで又元へ立ち戻ると、その一人の支那人は、悠悠と池へ小便をしてゐた。陳樹藩(ちんじゆはん)が叛旗を飜さうが、白話詩の流行が下火にならうが、日英同盟が持ち上らうが、そんな事は全然この男には、問題にならないのに相違ない。少くともこの男の態度や顏には、さうとしか思はれない長閑(のどか)さがあつた。曇天にそば立つた支那風の亭と、病的な緑色を擴げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆隆たる一條の小便と、――これは憂鬱愛すべき風景畫たるばかりぢやない。同時に又わが老大國の、辛辣恐るべき象徴である。私はこの支那人の姿に、しみじみと少時(しばらく)眺め入つた。が、生恰四十起氏には、これも感慨に價する程、珍しい景色ぢやなかつたと見える。

 「御覽なさい。この敷石に流れてゐるのも、こいつはみんな小便ですぜ。」

 四十起氏は苦笑を洩した儘、さつさと池の縁を曲つて行つた。さう云へば成程客氣の中にも、重苦しい尿臭が漂つてゐる。この尿臭を感ずるが早いか、魔術は忽ちに破れてしまつた。湖心亭は畢に湖心亭であり、小便は畢(つひ)に小便である。私は靴を爪立(つまだ)てながら、匆匆(そうそう)四十起氏の跡を追つた。出たらめな詠歎なぞに耽るものぢやない。

 

[やぶちゃん注:現在の中華路と光啓南路の交差点から北が、旧上海城内に当たる。長い歴史の中で戦乱の多かった中国では城郭都市が多いが、特に海辺部にあった上海は倭寇の襲撃に悩まされた。1533年にこの現在の市街の東北部に周囲5㎞弱、高さ約8mの城壁が築かれた。この城壁は1912年に取り壊され、その跡が今の人民路・中華路になっている。神田由美子氏の岩波版新全集注解によると、この地は上海に租界が置かれたその後の時代にあっても中国人だけの街であったとある。

・「銀樓」金銀のアクセサリーを扱う店舗。商店は一般に二・三階建てであったので「楼」がつく。

・「太白」李太白。詩仙李白の字。大の酒好きであった。

・「湖心亭」現在、上海随一の伝統的中国式庭園豫園(よえん)の荷花池の上、屈曲した九曲橋の中ほどに建つ、150年の歴史を持つ茶館。但し、明代をルーツとするその庭園と共に清末には荒廃甚だしく、芥川が訪れた際のその普請も本文に示される通りである。現在の豫園ものは新中国成立後に改修されたもので、芥川が見たものは、荒れ果てていながらも屋根の先が大きく反った江南風の特徴を持った清朝建築様式であったはずである。ちなみに、私は八年前の夏、夕暮れの人気のないそこを一度訪ねただけで、すっかり気に入ってしまったものである。

・「辮子(ベンツ)」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。即ち、この芥川の目の前で荷花池に尿(すばり)する中国人は、時空間を超越して現代から見放されている中国総体であると同時に、そうした旧時代の忌まわしい臭気を放つ、動きつつある中国の「今」に取り残されてゆくであろう人物(それに類した人々を芥川は悲観的にして差別的に数多多く数えてはいる)としても点描されていると見るべきであろう。そうして私は、実はここにこそ、芥川龍之介は当時の富国強兵から急速に近代化を叫び、アジアの宗主たらんとする帝国主義の「日本」を、その先にダブらせてもいるのだと思うのである。

・「蕪村の馬の糞」は与謝蕪村の「蕪村句集」春の部にある天明3(1783)年68歳の折の、

紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞(ふん)

を指す。これは春の温もりを感じさせる陽光指す道、ひられたばかりの丸々とした湯気立つような馬糞に、鮮やかな紅梅を配して美事な句である。

・「芭蕉の馬の尿」は松雄芭蕉「奥の細道」は尿前(しとまえ)の関での、元禄2年5月17日、46歳の折の体験に基づく、

蚤虱馬の尿(しと)する枕もと

を指す(決定稿は3~4年後か)。辺鄙な山家に旅寝する芭蕉。曲屋の人馬一緒の宿り、一晩中、蚤・虱に責めたてられ、枕元では勢いよく馬が小便する音。その旅愁を、勿論、芭蕉は風流として侘ぶのである。尿を「ばり」と読むのが正当とするテクストが多いが、どうも私はこの濁音が気に入らぬ。その音は無論「ばり」であって、「しと」ではあるまい。しかし、それを確信犯として、尿前の関の鄙びた郷愁の音「しと」の向こうにリアルな「ばり」の音を聴くことが何故誤りなのか、私には実はよく分らないのである。

 

・「陳樹藩」Chén Shùfān(チェン シューファン 18851949)は清末民国の軍人・政治家。袁世凱亡き後の軍閥の抗争では段祺瑞(Duàn Qíruì ドゥアン リールイ だんきずい 18651936)を中心とする安徽派に属し、1916年には陝西督軍となり、実質的な陝西省の支配権を掌握した。しかし、北京政府の主導権を巡って華北地方で段祺瑞と直隷派の曹錕(Cáo Kūn ツァオ クン そうこん 18621938)が19207月14日に会戦したが、わずか5日間で安徽派の敗北に終わり、段祺瑞は失脚した(安直戦争)。これによって陳樹藩軍は孤立、芥川の本節の体験の数十日後の19215月、直隷派によって陝西督軍の地位が剥奪され、陳の軍隊はただの流浪不逞集団とされてしまう。同年12月に四川軍により撃破されると、陳は天津へ逃亡、以後、表舞台を去った。

 実は筑摩版も岩波新全集版も、この「陳樹藩」を陳炯明(Chén Jiŏngmíng チェン ジョンミン ちんけいめい 18781933)とするのである(筑摩版は推定、新全集版は断言)。

 陳炯明は中華民国広東派の指導者。192011月に軍閥を放逐して広東省を掌握、中華革命党には所属していないが、結果として孫文の広東での勢力基盤を軍事的に援助した。

 芥川が本文で「叛旗を飜」すの意味を両注はこの広東軍政府の組織化を指すとするのであろうが(因みに両注が附す、後の孫文へのクーデターによる裏切りは立派な「叛旗」であるが、それは1922年6月のことで、芥川が預言者でもない限り、到底ここの「叛旗」とは言えないのである)、どうもアップ・トゥ・デイトでない。そもそも、両注は何故、その冒頭で、これは芥川龍之介の人名の誤り、と明確に記さないのか? 私は陳樹藩その人の北洋軍閥内抗争での「叛旗」の意味で何ら問題ないと思うのであるが。中国近代史の御専門の方の御意見を乞う(本注は主にウィキのそれぞれの人物の該当記事を参考にした。煩瑣になるのでリンクを示さない)。

 

・「白話詩の流行」の「白話詩」は中国の口語詩のこと。当時の民主主義革命をリードした胡適(Hú Shì ホゥシ こせき又はこてき 18911962)や陳独秀(Chén Dúxiù チェン ドゥーシュウ 18791942)は、文学面にあっては難解な伝統的文語文を廃し、口語文による自由な表現と内実の吐露を可能とする白話文学を提唱、独秀の薦めで胡適が論文「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)を1917年に雑誌『新青年』に発表すると同時に白話詩がもてはやされた。但し、その頃の実験的なものは文学的な香気に乏しい嫌いがあり、芥川が訪れた1921年頃にはやや下火になっていたものらしい。因みに芥川は北京で胡適と会見している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。

・「日英同盟が持ち上らうが」は、日英同盟の継続問題の議論を言う。日英同盟は、明治351902)年1月に締結された主にロシアの南進の防御とインド・中国での利権維持を主目的とした日本とイギリスとの軍事同盟。継続した明治381905)年の第二次日英同盟では、イギリスのインドに対する特権及び日本の朝鮮に対する支配権の相互承認に加えて、両国の清に対する機会均等(実際には利権を握っていたイギリスの思惑と日本側の大陸での覇権獲得への思惑の妥協的産物)等が盛り込まれている。第三次の期限が終了する前年の大正9(1920)年より、継続更新を望む日本政府の意向で外交交渉が行われたが、1921年のワシントン会議の席上、国際連盟規約への抵触、日本との利害の対立から廃止を望むアメリカの思惑(アメリカも中国進出を狙っていた)により、日本・イギリス・アメリカ・フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の破棄が決定、1923817日に日英同盟は失効した(本注は主にウィキの「日英同盟」の記載を参考にした)。]

 

 

 

       七 城内(中)

 

 それから少し先へ行くと、盲目(めくら)の老乞食が坐つてゐた。――一體乞食と云ふものは、ロマンテイツクなものである。ロマンテイシズムとは何ぞやとは、議論の干(ひ)ない問題だが、少くともその一特色は、中世紀とか幽靈とか、アフリカとか夢とか女の理窟とか、何時も不可知な何物かに憧れる所が身上(しんしやう)らしい。して見れば乞食が會社員より、ロマンテイツクなのは當然である。處が支那の乞食となると、一通りや二通りの不可知ぢやない。雨の降る往來に寢ころんでゐたり、新聞紙の反古(ほご)しか着てゐなかつたり、石榴(ざくろ)のやうに肉の腐つた膝頭をべろべろ舐めてゐたり、要するに少少恐縮する程、ロマンテイツクに出來上つてゐる。支那の小説を讀んで見ると、如何なる道樂か神仙が、乞食に化けてゐる話が多い。あれは支那の乞食から、自然に發達したロマンテイシズムである。日本の乞食では支那のやうに、超自然な不潔さを具へてゐないから、ああ云ふ話は生まれて來ない。まづ精精(せいぜい)將軍家の駕籠へ、種ケ島を打ちかけるとか、山中の茶の湯を御馳走しに、柳里恭(りうりきよう)を招待するとか、その位の所が關の山である。――あまり横道へ反れすぎたが、この盲目の老乞食も、赤脚仙人か鐵拐仙人が、化けてでもゐさうな恰好だつた。殊に前の敷石を見ると、悲慘な彼の一生が、綺麗に白墨で書き立ててある。字も私に比べるとどうやら多少うまいらしい。私はこんな乞食の代書は、誰がするのだらうと考へた。

 その先の露路へさしかゝると、今度は骨董屋が澤山あつた。此處はどの店を覗いて見ても、銅の香爐だの、埴輪の馬だの、七寶(しつぽう)の鉢だの、龍頭瓶(りうとうへい)だの、玉(ぎよく)の文鎭だの、青貝の戸棚だの、大理石の硯屏(けんびやう)だの、剥製の雉だの、恐るべき仇英(きうえい)だのが雜然とあたりを塞いだ中に、水煙管(みづぎせる)を啣へた支那服の主人が、氣樂さうに客を待ち受けてゐる。次手にちよいとひやかして見たが、五割方は懸値であるとしても、値段は格別安さうぢやない。これは日本へ歸つた後、香取秀眞(ほづま)氏にひやかされた事だが、骨董を買ふには支那へ行くより、東京日本橋仲通りを徘徊した方が好ささうである。

 骨董屋の間を通り拔けたら、大きな廟のある所へ出た。これが畫端書でも御馴染の、名高い城内の城隍廟(じやうくわうべう)である。廟の中には參詣人が、入れ交り立ち交り叩頭(こうとう)に來る。勿論線香を獻じたり、紙錢を焚いたりするものも、想像以上に大勢ある。その煙に燻ぶるせゐか、簗間(れうかん)の額や柱上の聯(れん)は悉(ことごとく)妙に油ぎつてゐる。事によると煤けてゐないものは、天井から幾つも吊り下げた、金銀二色の紙錢だの、螺旋状の線香だのばかりかも知れない。これだけでも既に私は、さつきの乞食と同じやうに、昔讀んだ支那の小説を想起させるのに十分である。まして左右に居流(ゐなが)れた、判官(はんぐわん)らしい像になると、――或は正面に端坐した城隍らしい像になると、殆(ほとんど)聊齋志異だとか、新齊諧(しんさいかい)だとかと云ふ書物の插畫を見るのと變りはない。私は大いに敬服しながら、四十起氏の迷惑などはそつち除けに、何時までも其處離れなかつた。

 

[やぶちゃん注:

・「將軍家の駕籠へ、種ケ島を打ちかける」乞食の体をなした者が江戸幕府将軍の籠に銃を撃ったと言う事実が何かに書かれているのであろうか、不学にして私は知らない。識者の御教授を乞う。

・「柳里恭」柳沢淇園(やなぎさわきえん 宝永元(1704)年~宝暦8(1758)年)の元服後の本名。江戸中期の文人画家。大和郡山藩柳沢家(父曽根保格は大老柳沢吉保に仕え、信任篤く、柳沢姓を許された)の重臣。朱子学を中心にして仏典・本草・書画等、多芸多才であった。諸方から教えを乞う者多く、そうした人物を常に数十人食客として置いて養い、自宅では頻繁に宴席を設けた。将棋を好み、奇行に事欠かない人物であった。本件のような事蹟が何かに書かれているのであろうが、不学にして知らない。識者の御教授を乞う。

・「赤脚仙人」井上哲次郎編「哲學字彙」に「赤脚仙人」として『按、昔者印度有一種之學派、裸体而漫遊、故時人呼曰赤脚仙人、恐是佛家所謂裸形外道』の割注を記す。筑摩版では、芥川龍之介のヴォルテール(, 16941121 - 1778530日)はヴォルテールの翻訳「ババベツクと婆羅門行者」(1750年の作品 BABABEC ET LES FAKIRS”)に登場する「赤脚仙」と同じとし、“gymunosofiste (これはヴォルテールの原文からの引用であろう)、裸体で瞑想に耽った古代インドの行者、裸形外道論師、と記す。この“gymunosofiste”という単語は普通にフランス語辞書に「裸行者」として載る。“gymuno-”は「裸の」を意味する接頭辞。“sofiste”は恐らく“sofi”の行者の意味。“sofi”は本来は回教の一派であるスーフィ教を言うが、スーフィ教が多分に禁欲的神秘主義的傾向を有していたことから、広義に超越的変奇的修行を行う者の謂いとなったものか(但し、仏文サイトのVoltaireのテクストでは“gymnosophistes”となっており(第二段落二行目)、これならソフィストですんなりくる)。神田由美子氏の岩波版新全集注解では、同様に、裸足=赤脚かつ裸体で各地を漫遊した古代インドの仙人、とする。

 しかし、私はどうも納得いかない。そもそも並列する「鐵拐仙人」は中国の神仙である。私はこれは、芥川が幼少より親しんだ「西遊記」に登場する「赤脚大羅仙」のことではないかと思うのである。西王母主催の蟠桃会(ばんとうえ:3月3日の西王母の誕生日を言う。)に招待されるが、途中で悟空に騙されて待ちぼうけをくらう裸足の仙人である。また「水滸伝」には宋の仁宗が赤脚仙人の生まれ変わりと記されているとある(「赤脚大羅仙」については「太雲道~仙人への道~」「西遊記的神仙紹介」を参考にさせて頂いた)。わざわざ古代インドの行者を出すまでもないのではあるまいか。疑義のある方は反論されたい。

 

・「鐵拐仙人」は「列仙全伝」に載る中国八仙の一人、李鉄拐のこと。医術を司る。やはり中国八仙の一人である呂洞賓(りょどうひん)の弟子とされる。名はアイテムとして鉄の拐=杖を持つことから。本邦では蝦蟇仙人とペアで描かれることが多い。魂だけを離脱させて自在に往き来出来たとする。ある中文サイトに(うっかりして引用元を失念した。ただ同じの文章は中文サイトやブログに多数ある)、

 

稱其爲呂洞賓的弟子。傳稱李凝陽應太上老君與宛丘先生之約、魂游華山。臨行、囑咐其守魄(軀殼) 七日。無奈其徒之母突然急病而欲速歸、遂於第六日化師之魄。李凝陽游魂於第七日回歸時、無魄可依、即附於一餓殍之屍而起、故其形醜陋而跛右脚。

 

という記載があった(本記載が「列仙全伝」の所載する内容かどうかは不明。現代中国語に書き換えてあることは明白である)。荒っぽく訳して見るなら、

 

……ある時、鐵拐は仙界へと呼ばれ、立つに先立って、弟子に「七日間、私の魄(はく:魂が空の肉体。)を見守っておれ。」と命じた。ところが、鐵拐の魂のその留守中、命ぜられた弟子は母が急病となり、ためにすぐに帰郷したくなった。遂に弟子は六日目に鉄拐の魄を別なところに移して出発してしまった。七日目に鉄拐の魂が戻ってきた時、魄がもとの所になく、探しても見つからないため、仕方なく、近くにころがっていた行路死病人の遺体に入った。それ故にその容貌は醜く、右足は跛(びっこ)を引いている。……

 

といった感じか。「化師之魄」は上記のように解釈したが、一部の鉄拐仙人を紹介する邦文サイト等には「焼いた」とある。しかし、「化」にそのような意味はなく、弟子がそのように処置すること自体がおかしい気がする。識者の御教授を乞う。

 

・「龍頭瓶」恐らく瓶口に対になった突起状の龍の飾りを付けたものを言うのであろう。

・「仇英」明代の画家(生没年不詳)。特に人物画に於いて写実性に富んだ様式美を大成、美人風俗画に於いては独特の画風を完成させた。後の美人画は殆んどが彼のものに追従するものとなったという。形容の「恐るべき」は、あまりの下手さ加減に恐れ入るほどの贋作の、という意味で、恐らくはここに並んでいるものも美人画の安っぽいフェイクなのであろう。

・「香取秀眞」鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和291954)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。

・「城隍廟」中国の民間信仰である道教の土地神たる城隍神を祀るための廟所。上海城隍廟(俗に老城隍廟)は現在の黄浦区南部の豫園及びその商店街に隣接した地に建つ。

・「叩頭」中国式拝礼の一つ。跪いて両手を地につけ、頭を地面につくまで下げておじぎをすること。

・「簗間」梁(はり)の間。

・「紙錢」冥界の紙幣。紙を現行の銭の形や紙幣に似せて切ったもの。十王思想(後の「判官」の注参照)の中から生れたものと考えられ、副葬品としたり、法事の際に燃やして死者の冥福や、自身の来世での来福を願うために燃やして用いた。近現代では実際の紙幣と類似した印刷物も用いられるが、近年、中国や台湾共に旧弊(及び山火事の原因)として禁じたというニュースを目にした(が、爆竹と同じでそう簡単に中国人はやめない。また、やめるべきではないと私は思うのである)。

・「聯」は対聯(ついれん)のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらには痛烈な社会批判が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。

・「判官」は、ここでは主に地獄の裁判官の副官を言う。中国で形成された仏教の地獄思想である十王思想では、初七日から四十九日までの7日目ごと及び百ヶ日・一周忌・三回忌には生前の所業を精査されて十人の裁判官の裁きを受けることになっている。そこで生前から十王を祭り、死して後も遺族によって罪障を軽減が可能とされた(それが遺族の功徳になって自身に返ってくるのである。勿論、ここでは道教寺院であるのだが、十王思想は道教に逆輸入されていると考えていよい)。十王は秦広王・初江王・ 宋帝王・五官王・閻魔王・変成(へんじょう)王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王で、その副官として道教系から出向している副裁判官がおり、芥川がここで描写しているのは、そうした像である可能性が高い。そうすると、泰山父君(閻羅庁の閻魔王の脇で補佐する絵をよく見る)を筆頭に、地獄法廷の書記官・補佐官たる、司命・司録等の冥府の事務官を代表する者(罪人の氏名や罪状を読み上げたり記録したりする)、亡者の個別な検察側証人とも言うべき、倶生神(ぐしょうしん 同名天・同生天と呼ぶ二神で、人の誕生から死に至るまでその人の左右の肩にあってその人の全所業を全て記録する)、更には、牛頭(ごず)・馬頭(めず)・青鬼・赤鬼といった鬼卒(現在の刑務官相当)といった者達をイメージすればよかろう。

・「城隍らしい像」一般には勇猛な武将、高僧等で造形される。

・「聊齋志異」清の蒲松齢(16401715)が蒐集した怪異譚を編纂・翻案した志怪小説集。芥川は幼少期より親しみ、彼の創作に多くのインスピレーションを与えた。芥川龍之介「酒虫」は完全に本作を種本とする。日本の後代の多くの作家たちを魅了した作品でもある。私も高校時代から愛読する作品である。訳は圧倒的に柴田天馬の角川文庫版である!

・「新齊諧」清の袁枚(えんばい 1716-1797)の志怪小説集。本来は「子不語」であったが、同題の書があったために、作者が改題した。現在は、本来の「子不語」で呼ばれる。芥川は大学時代から親しんだ。これも私の愛読する作品である。]

 

 

 

       八 城内(下)

 

 今更云ふまでもない事だが、鬼狐の談に富んだ支那の小説では、城隍を始め下(した)廻りの判官や鬼隷(きれい)も暇ぢやない。城隍が廡下(ぶか)に一夜を明かした書生の運勢を開いてやると、判官は町中を荒し廻つた泥坊を驚死(きやうし)させてしまふ。――と云ふと好(よ)い事ばかりのやうだが、狗(いぬ)の肉さへ供物にすれば、惡人の味方もすると云ふ、賊城隍がある位だから、人間の女房を追ひ廻した報いに、肘を折られたり頭を落されたり、天下に赤恥を廣告する判官や鬼隷も少くない。それが本だけ讀んだのでは、何だか得心の出來ない所がある。つまり筋だけは呑みこめても、その割に感じがぴつたり來ない。其處が齒痒い氣がしたものだが、今この城隍廟を目のあたりに見ると、如何に支那の小説が、荒唐無稽に出來上がつてゐても、その想像の生れた因縁は、一一成程と頷かれる。いやあんな赤つ面の判官では、惡少(あくせう)の眞似位はするかも知れない。あんな美髯の城隍なら、堂堂たる儀衛(ぎゑい)に圍まれた儘、夜空に昇るのも似合ひさうである。

 こんな事を考へた後、私は又四十起氏と一しよに、廟の前へ店を出した、いろいろな露店を見物した。靴足袋、玩具(おもちや)、甘庶の莖(くき)、貝釦(かひボタン)、手巾(ハンカチ)、南京豆、――その外まだ薄穢い食物店が澤山ある。勿論此處の人の出は、日本の縁日と變りはない。向うには派手な縞の背廣に、紫水晶(むらさきすゐしやう)のネクタイ・ビンをした、支那人のハイカラが歩いてゐる。と思ふと又こちらには、手首に銀の環を嵌めた、纏足(てんそく)の靴が二三寸しかない、舊式なお上さんも歩いてゐる。金瓶梅の陳敬濟(ちんけいせい)、品花寶鑑(ひんくわはうかん)の谿十一(けいじふいち)、――これだけ人の多い中には、さう云ふ豪傑もゐさうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、藥にしたくもゐさうぢやない。言ひ換へれば現代の支那なるものは、詩文にあるやうな支那ぢやない。猥褻な、殘酷な、食意地の張つた、小説にあるやうな支那である。瀬戸物の亭(ちん)だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有難がつた、安物のモツク・オリエンタリズムは、西洋でも追ひ追ひ流行らなくなつた。文章軌範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢學趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い。

 それから我我は引き返して、さつきの池の側にある、大きな茶館を通り拔けた。伽藍のやうな茶館の中には、思ひの外客が立て込んでゐない。が、其處へはいるや否や、雲雀、目白、文鳥、鸚哥(いんこ)、――ありとあらゆる小鳥の聲が、目に見えない驟雨(しうう)か何かのやうに、一度に私の耳を襲つた。見れば薄暗い天井の梁には、一面に鳥籠がぶら下つてゐる。支那人が小鳥を愛する事は、今になつて知つた次第ぢやない。が、こんなに鳥籠を並べて、こんなに鳥の聲を鬪はせようとは、夢にも考へなかつた事實である。これでは鳥の聲を愛する所か、まづ鼓膜が破れないように、匆匆兩耳を塞がざるを得ない。私は殆(ほとんど)逃げるやうに、四十起氏を促し立てながら、この金切聲に充滿した、恐るべき茶館を飛び出した。

 しかし小鳥の啼き聲は、茶館の中にばかりある訣(わけ)ぢやない。やつとその外へ脱出しても、狹い往來の右左に、ずらりと懸け並べた鳥籠からは、しつきりない囀りが降りかかつて來る。尤もこれは閑人(ひまじん)どもが、道樂に啼かせてゐるのぢやない。いづれも専門の小鳥屋が、(實を云ふと小鳥屋か、それとも又鳥籠屋だか、どちらだか未だに判然しない。)店を連ねてゐるのである。

 「少し待つて下さい。鳥を一つ買つて來ますから。」

 四十起氏は私にさう云つてから、その店の一つにはいつて行つた。其處をちよいと通りすぎた所に、ペンキ塗りの寫眞屋が一軒ある。私は四十起氏を待つ問、その飾り窓の正面にある、梅蘭芳(メイランフアン)の寫眞を眺めてゐた。四十起氏の歸りを待つてゐる子供たちの事なぞを考へながら。

 

[やぶちゃん注:

・「鬼隷」は、冥界に於ける下僕の鬼神の意。

・「廡下」の「廡」は家屋の庇・軒の意。軒下(のきした)。

・「惡少」不良少年。

・「儀衛」儀杖を持った近衛兵。

・「金瓶梅の陳敬濟」「金瓶梅」は中国四大奇書の一、明代万暦年間(15731620)に成立したと思われる長編ポルノ小説。著者は蘭陵笑笑生(生没年・人物徒ともに不詳)。芥川は一高時代から愛読した。「陳敬濟」は「金瓶梅」の主人公西門慶の娘婿(養子)。お坊ちゃんの道楽者で、ヒロイン潘金蓮の女中龐春梅(ほうしゅんばい)と不倫関係を持つが、最後には落魄れて殺されてしまう。

・「品花寶鑑の谿十一」「品花寶鑑」は清代の陳森の手になる男色小説。士大夫階級の青年怜旦(京劇の女形を演じる男優を言う語)や相公(男娼)の交流を描き、男色の哲学を讃美する体のもの。狭邪小説(妓楼・妓女・芸能者を主人公とするもの)のはしりとされる。「谿十一」はその京劇『俳優の裏面をモデルとして書いた』『そのモデルの一人』(以上両引用は筑摩版脚注)であり、『財力と権力によって少年役者を買いあさる遊蕩』(新全集注解)の少年、と記す。

・「瀬戸物の亭」陶器で出来た四阿(あずまや)のミニチュア。飾りにする。

・「モツク・オリエンタリズム」“mock”は模造品・まがいものの意(語源は中世フランス語の“mocquer”で原義は「鼻をかむ」、比喩化して「あざける」から「嘲笑」「笑いもの」へと発展)であるから、「まがいものの東洋主義」。

・「梅蘭芳(メイランフアン)」(méi lánfāng メイ ランファン 18941961)は、本名梅瀾(méi lán メイ ラン)、清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋、尚小雲、そして「白牡丹」こと荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年である。芥川の「侏儒の言葉」には、

 

      「虹霓關」を見て

 

 男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。

 「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?

 

とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。

○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。山田俊治氏の注では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。

○「虹霓關」は「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるという悲惨なストーリーらしい(私は管見したことがないので、以上は複数のネット記載を参考に纏めてみたもの)。山田俊治氏の注によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、今一つ『わかる』の意味が分らない。どなたか分かる方は御教授を乞う。

○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武(生没年未詳)は兵法書「孫子」の著者で、紀元前5世紀頃、春秋時代に活躍した兵家。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。

○『「戲考」』「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯(おうだいさく)の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915年から1925年の長期に亙る刊行)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

○「兵機」は戦略・戦術の意。

○「董家山」山田俊治氏の注によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリーである。

○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、山田俊治氏の注では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の記す平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。

○「雙鎖山」山田俊治氏の注によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。

○「馬上縁」明治大学法学部の加藤徹氏のHP「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。山田俊治氏の注によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。

○「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 18911962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの中国旅行の途次、北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。

○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。山田俊治氏の注によると、『明代の物語で、柳素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。]

 

 

 

       九 戲臺(上)

 

 上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた。私が速成の劇通になつたのは、北京へ行つた後の事である。しかし上海で見た役者の中にも、武生(ウウシヨン)では名高い蓋叫天(がいきうてん)とか、花旦(ホアタン)では白牡丹とか小翠花(せうすいくわ)とか、兎に角當代の名伶(めいれい)があつた。が、役者を談ずる前に、芝居小屋の光景を紹介しないと、支那の芝居とはどんなものだか、はつきり讀者には通じないかも知れない。

 私の行つた劇場の一つは、天蟾舞臺(てんせんぶたい)と號するものだつた。此處は白い漆喰塗りの、まだ眞新らしい三階建である。その又二階だの三階だのが、ぐるりと眞鍮の欄干をつけた、半圓形になつてゐるのは、勿論當世流行の西洋の眞似に違ひない。天井には大きな電燈が、煌煌と三つぶら下つてゐる。客席には煉瓦の床の上に、ずつと籐椅子が並べてある。が、苛(いやしく)も支那たる以上、籐椅子と雖も油斷は出來ない。何時か私は村田君と、この籐椅子に坐つてゐたら、兼ね兼ね恐れてゐた南京蟲に、手頸を二三箇所やられた事がある。しかしまづ芝居の中は、大體不快を感じない程度に、綺麗だと云つて差支ない。

 舞臺の兩側には大きな時計が一つづつちやんと懸けてある。(尤も一つは止まつてゐた。)その下には煙草の廣告が、あくどい色彩を並べてゐる。舞臺の上の欄間には、漆喰の薔薇やアツカンサスの中に、天聲人語と云ふ大文字(だいもんじ)がある。舞臺は有樂座より廣いかも知れない。此處にももう西洋式に、フツト・ライトの裝置がある。幕は、――さあ、その幕だが、一場一場を區別する爲には、全然幕を使用しない。が、背景を換へる爲には――と云ふよりも背景それ自身としては、蘇州銀行と三砲臺香烟(ほうだいかうえん)即ちスリイ・キヤツスルズの下等な廣告幕を引く事がある。幕は何處でもまん中から、兩方へ引く事になつてゐるらしい。その幕を引かない時には、背景が後を塞いでゐる。背景はまづ油繪風に、室内や室外の景色を描(か)いた、新舊いろいろの幕である。それも種類は二三種しかないから、姜維(きやうゐ)が馬を走らせるのも、武松(ぶしやう)が人殺しを演ずるのも、背景には一向變化がない。その舞臺の左の端に、胡弓、月琴、銅鑼などを持つた、支那の御囃しが控へてゐる。この連中の中には一人二人、鳥打帽をかぶつた先生も見える。

 序に芝居を見る順序を云へば、一等だらうが二等だらうが、ずんずん何處へでもはいつてしまへば好い。支那では席を取つた後、場代を拂ふのが慣例だから、その邊は甚輕便(けいべん)である。さて席が定まると、熱湯を通したタオルが來る。活版刷りの番附が來る。茶は勿論大(おほ)土瓶が來る。その外西瓜の種だとか一文菓子だとか云ふ物は、不要不要(プヤオプヤオ)をきめてしまへば好い。タオルも一度隣にゐた、風貌堂堂たる支那人が、さんざん顏を拭いた擧句鼻をかんだのを目撃して以來、當分不要(プヤオ)をきめた事がある。勘定は出方(でかた)の祝儀とも、一等では大抵二圓から一圓五十錢の間かと思ふ。かと思ふと云ふ理由は、何時でも私に拂はせずに、村田君が拂つてしまつたからである。

 支那の芝居の特色は、まづ鳴物の騷騷しさが想像以上な所にある。殊に武劇――になると、何しろ何人かの大の男が、眞劍勝負でもしてゐるやうに舞臺の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天聲人語所ぢやない。實際私も慣れない内は、兩手に耳を押へない限り、とても坐つてはゐられなかつた。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穩かな時は物足りない氣持がするさうである。のみならず芝居の外にゐても、この鳴物の音さへ聞けば、何の芝居をやつてゐるか、大抵見當がつくさうである。「あの騷騷しい所がよかもんなあ。」――私は君(きみ)がさう云ふ度に、一體君は正氣かどうか、それさへ怪しいやうな心もちがした。

 

[やぶちゃん注:本篇の注では、この注作業中に出逢えた「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」(PDFファイルでダウンロード可能)の北京日本学研究センターの秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(p.134-135)に有益な新知見を得たことを、ここに謝す。表題の「戲臺」は中国語で舞台のこと。

・「武生(ウウシヨン)」“wŭshēng”京劇で立ち回りの多い荒事に相当する武人や英雄を演じる俳優を言う。一般に台詞は少ない。

・「蓋叫天」(gài jiàotiān ガイ チャオティエン 本名張英傑 18881971)「江南第一武生」と呼ばれる名優にして京劇界の至宝。清末に10歳でデビューし、上海を活躍の舞台とした。

・「花旦(ホアタン)」“huādàn”若く瑞々しい溌溂とした女性を演じる俳優。

 

・「白牡丹」底本ではここは「緑牡丹」となっている。本テクストでは、それを誤りと断定し、正しい「白牡丹」に正してテクスト化した。以下、その経緯を述べる(本注は特に長くなるので改行を施し、更にパートごとに「*」を挿入してある)。次の「十 戲臺(下)」にも及ぶ内容であるが、底本の誤りに関わる重大な事柄なので、ここで纏めて語っておく。

   *

「緑牡丹」なる役者については、京劇の花旦(女形)で、大正141925)年7月に来日、帝劇と宝塚劇場で公演を行った記録が日本の複数のサイトに記されている。それらの記事を見ると、前年に再来日して熱狂的に迎えられた梅蘭芳の二匹目の泥鰌を狙ったものであったが、興行的には不入りで失敗であったらしい。

   *

 しかし、この芸名、極めて類似した芸名に「白牡丹」があり、これは正に芥川が当代の名女形と呼ぶに相応しい、四大名旦の一人である荀慧生(xún huìshēng シュンフイシャン 19001968)その人のものなのである。

   *

 そして、資料を調べる内に、私は興味深いある事実に遭遇することとなった。

 底本とした岩波旧全集の後記にはその記載がないのだが、岩波版新全集第八巻の後記(旧全集と同じく底本には『支那游記』所収のものを用い、初出と校合した旨が記されている)の初出との校異の中に、この「緑牡丹」について、

 

二五14  緑牡丹  [初]白牡丹  三一4以下も同じ。

 

とあるのである(数字は新全集頁と行)。

 初出では以下「上海游記」の中の総ての「緑牡丹」は「白牡丹」であったというのである!

 これによって私は当初から感じていた「緑牡丹」は「白牡丹」荀慧生の別芸名であろうかとも思ったのである。

   *

 しかし……緑と白じゃあ大違いだし、芸人としては普通はこんな別名のつけ方はしないだろう……逆に「緑牡丹」てえのは、地方周りのやくざな旅芸人が素朴な人々を騙す際の「白牡丹」の似非(えせ)芸名にこそ相応しいんじゃあるまいか……などという不埒な気もしていた……。

 そのような意地悪い想像を重ねるうちに、不審が膨らんでゆく。

 冒頭に記した来日時の「緑牡丹」の不評の事実である。

 如何に梅蘭芳が素晴らしかったからといって、四大名旦に並ぶ「白牡丹」荀慧生が不評というのは、また如何にも解せないのである(その当時の写真を見る限り、梅蘭芳よりもっと華奢な感じさえする、私さえ「そそられる」スタイルと面貌である)。

 芥川が次の「十 戲臺(下)」で直接、「白牡丹」にその演技を褒めたのだって、同行した「白牡丹」贔屓の村田烏江の手前とはとても思えない。そもそも、芥川が魅了された妖艶な演技で美しい女形だったからこそ、「十 戲臺(下)」のコーダの部分は無類に面白い、と言えるのである。

   *

 ――そんな袋小路の中、ネット検索で偶々巡り逢ったのが、最初に示した秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」収載)なのであった。

 さてもそこには、

 

『緑牡丹(19071968)本名黄玉麟、字瑞生。貴州生まれ。南方俳優として上海で活躍する。』『村松梢風の斡旋で、1925年6月から8月にかけて帝国劇場の招聘を受け、東京帝国劇場、宝塚大劇場などで33回も公演した(村松梢風『上海』)。』

 

という芸名「緑牡丹」という「白牡丹」とは違う花旦の詳細なプロフィルが掲げられており(たまたま「白牡丹」荀慧生と没年は一緒だが、生年に注意。荀慧生は1900年である。「白牡丹」の方が色彩的には劣る「緑」よりも7歳年上である)、更に、芥川が上海を訪問した際には、この「緑牡丹」は、

 

『上海の大世界内乾坤大劇場で公演していた』

 

という事実が提示されていたのである(劇場名に注意。「天蟾舞台」では、ない)。

 これによって緑牡丹と白牡丹は別人であることがはっきりした。

   *

 ここで秦氏は私が「五 病院」の「波多野博君」の注で少し出した「波多野乾一」の記載を資料提示している。この人物は岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引では『波多野乾一(18901963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した。(東亜同文書院については「十九 日本人」注参照))である。ネット検索でも中国の芸能関連著作が挙がってくる人物である。

 さて、その引用は新作社1925年3月刊行の波多野乾一「支那劇と其名優」の白牡丹荀慧生についての下りで、

 

『後援者は白社を作つて彼(白牡丹)と提携したが、村田孜郎、古澤憲介はその中堅であつた

 

というものである。すると「十 戲臺(下)」の『その夜も一しよだつた村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧さうな女形と、互に久潤を敍し合つたりした。聞けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だつた頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのださうである』という記載も「白牡丹」に換えれば、至極しっくりくるではないか。

 ここで秦氏は村田孜郎(烏江)は「緑牡丹」黄玉麟ではなく、「白牡丹」荀慧生のタニマチであったことを立証しているのである。

   *

 以上の事実から、秦剛氏は『【結論】全集底本における「緑牡丹」は「白牡丹」の間違い』(下線部やぶちゃん)であるとする。――目から鱗、緑のぼんやりしていた牡丹が純な白に変わった。

 これで、次の「十 戲臺(下)」の最後に登場する「緑牡丹」改め「白牡丹」の映像も鮮烈になってくるのではないか。私は文句なしにこれに賛成する。

 今後の芥川龍之介全集では本作の「緑牡丹」は「白牡丹」と訂正されなければならない

   *

 しかし、まだまだ。秦氏の検証はここで終わらない。

 芥川龍之介は「十 戲臺(下)」の「緑牡丹」改め「白牡丹」の楽屋話に持ち込む直前で「亦舞臺とかに上演してゐた、賣身投靠」ここで示された天蟾舞台とは違う亦舞台(えきぶたい)という劇場の話をしている。秦氏は鋭くここに白牡丹荀慧生とこの演目の連関を嗅ぎ出すのである。

   *

 ここにこの論文の真骨頂が現れる。

 即ち、実際の当時の上演広告の写真版による芥川の観劇の日時の特定と、本文の検証という作業である。

   *

 秦氏は1921年4月26日の「申報」(上海の日刊新聞であろう)の亦舞台の広告の当日番付に着目した。

 その広告番付表には、出演俳優として中央に大きく、

白牡丹

(勿論、荀慧生のこと)の文字が記され、演目の中には、

「雙珠鳳」

と、

「新玉堂春」

という外題が見出せるのである。

 「白牡丹」の名は、この「新玉堂春」の直上にある(もう一本の別な芝居にも出演欄に名前がある)。

 「十 戲臺(下)」で芥川は『私は彼に、玉堂春は面白かつたと云ふ意味を傳へた』とある。「彼」とは「緑牡丹」ではない「白牡丹」である。そうして、これは京劇に詳しくなければ分らないことなのであるが、この、

   「雙珠鳳」

なる作品は、

   「賣身投靠」

の別名であると、秦氏は記すのである。

   *

 芥川が1921年4月26日の亦舞台でこの二つの芝居を観劇したかどうかは分らない。当時の京劇の上演がどのように組まれていたかまでは(日替わりであるとか数日数週に渡って公演されたのか、更に言えば上演の時間帯・上演時間等について)、秦氏は記しておられないからである。

 しかし、この4月26日という特定日は、それなりの説得力を持つように思われるのである。

 芥川は既に注したように4月23日に里見病院を退院している。

 該当の4月26日の年譜的知見によれば、芥川は、後述される学者にして革命派に属した章柄麟(しょうへいりん)、更には詩人・政治家であった後の満州国総理となる鄭孝胥(ていこうしょ)とダブルで会談しているように読める(同日会見が事実なら、その天候の描写から章柄麟に先に逢い、次に鄭孝胥であったと推定出来る)。

 「十三 鄭孝胥」の会談後、庭での描写は晴れた青空を覗かせている。

 時刻は午後もそう遅くはあるまい。

 碩学の二人に会見した芥川が、どこがで肩の力を抜いてほっと一息つきながら、夕刻からの亦舞台の客席で、華奢愛嬌に満ち満ちた美しい「白牡丹」荀慧生演ずる玉堂春に笑みを洩らす――。

 如何にもあるべき映像ではあるまいか!?

   *

 実は、この検証はここに留まらない。

 本篇や以下の「十 戲臺(下)」の記述から、秦氏は芥川龍之介はこの天蟾舞台で、

   小翠花

が演じた、

   「梅龍鎭」

及び

蓋叫天が演じた、

   「武松」

――(やぶちゃん補注:これは正しくは武松の登場する「水滸伝」を素材とした

   「全本武十回」

の内の、

   「醉奪快活林」

(写真版の広告を見ると「林」を「嶺」とある。ネットで調べると一般には「林」のようだが、「嶺」とするものもある。因みにこの演目の内容については「十 戲臺(下)」の注で詳述するが、この「快活林」というのは、宿屋に酒家を兼ねた店の名前である)及び、

   「血濺鴛鴦樓(けっせんえんおうろう)」

   「大閙蜈蚣嶺(だいどうごしょうれい)」

の三場)――

を観劇したのではないかと推定するのである。私もその可能性を肯んずるものである。

   *

 そこで秦氏はこの両演目を1921年当時の新聞広告に依って再び調べるのである。

 すると、

   5月16

の「申報」の天蟾舞台の広告の当日番付に両演目が一緒に載っているのが見出されるのである。

 芥川龍之介は本篇の冒頭で『上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機會がなかつた』と言っている以上、本演目が組み合わされている日を秦氏が選ぶのは極めて至当と言える。そうでなくても入院と途中の杭州・蘇州・南京行と、上海での実動時間は限られていたのである。

 そうして――現在の知見によれば、芥川は、

   5月14

には蘇州・南京への小旅行から上海に戻っている。そうして翌、

   5月15

に、この小旅行中に体調の不良を覚えて肋膜炎の再発を危ぶんだ彼は、里見病院を受診している。そこでは全く問題ないと里美医師から太鼓判を押されて、大いにほっとしているのである(「江南游記」の掉尾「二十九 南京(下)」の終わりにそのシーンが描写される)。そうして、

   5月17

の夜には、漢口・北京に向けて芥川は上海を永遠に去っているのである。即ちこの5月16日は芥川龍之介にとって上海滞在最終日という特別な日であったのである。私が劇通の村田烏江であったなら、この別れに際して、京劇に深い関心を示した芥川にとびっきりの京劇の名演鑑賞をセットしない方がおかしいというものではなかろうか!?

   *

 ――この推理は、今、私の中では完璧な確信に満ちたものとなっている。

 ――この「上海游記」を総てお読みになった時、それは分かる。

 ――最後の「二十一 最後の一瞥」の掉尾を――。

 ――『私は煙草の箱を出しに、間着(あひぎ)のポケツトヘ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及(エジプト)の箱ではない、先夜其處に入れ忘れた、支那の芝居の戲單(シイタン)である。』……

   *

 私はこの秦剛氏をシャーロック・ホームズに擬えたい気がするほど、芥川の本篇とこの論文との付き合いが極めてスリリングで楽しいものとなった。「謝謝、秦剛先生!」

   *

追伸:しかし乍ら、これによって一つだけ、不明な点が生じることとなった。芥川龍之介が「白牡丹」を「はくぼたん」と読んでいるか、「しろぼたん」と読んでいるか、である。「りよく」と音読みであるからして、「はく」であるとも言い難い。私は音読するなら断然「しろぼたん」である。いつか初出誌を管見してみたいと思う。従って、本文には読みは附さなかった。

   *

★★二伸:緑牡丹の影が消えてみると、緑牡丹のことが、今度は気になった。加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「芥川が見た京劇・崑曲俳優たち」に、晩年を含む記載があった。ここでは加藤氏は勿論、芥川の「緑牡丹」の表記を正しいものとして――黄玉麟として読まれた上での記載となっているので、一部を中略した。
[引用開始]
京劇の青衣兼花旦。清朝の官僚の家柄の出身で、父親が一九一三年の「第二革命」のとき袁世凱討伐軍に参加して敗北したため、一家は上海に逃げ、困窮。一六年、黄玉麟は家族の生活のため、勉学を中断して京劇の道に入り、(中略)二一年には、数え十五歳の若さで大スターになっていた。(中略)四年後の二五年には来日公演を果たすが、彼がスターの座を保った時期は短かった。三〇年代に入ると、アヘン吸引のため身体をこわし、容色と喉も衰え、ドサ周りなどもした。日中戦争終結後の一時期は、役者業をやめ商売に転向したが、経営破綻し、京劇を教え口を糊する苦しい日を送った。新中国成立後は、短期公演で舞台に立ったり、上海市戯曲学校の教師をつとめた。六六年に文化大革命が始まると激しい暴力と迫害を受けた。六八年十一月、胃癌のために死去。
[引用終了]
緑牡丹……可哀想になってきた。――

 

・「小翠花」は名花旦として知られた于連泉(Yú Liánquán ユィ リェンチュィアン うれんせん 本名桂森 19001967)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花(しょうすいか)である。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる。)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした(以上の事蹟はこちらの個人の京劇サイト「歴代の主な京劇俳優一覧」を参照させてもらった。筑摩版脚注は「于連泉」を「干」と誤記し、神田由美子氏の岩波版新全集注解では筑摩版を踏襲して生年を1901年、没年不詳としている)。

・「名伶」中国語で名優の意。

・「天蟾舞臺」現在も京劇が上演される上海人民広場近くにある逸夫舞台の旧名。1912 年に建てられた歴史ある劇場で、当時は舞台という名前でした。中国京劇界の名優の多くが、この舞台を踏んでおり、「天蟾の舞台を踏まなければ、有名にはなれぬ」といわれている名門劇場である。天蟾とは月光のこと。

・「村田君」既に「二 第一瞥(上)」で注したが、再掲しておくと、村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。

・「アツカンサス」本来は双子葉植物綱ゴマノハグサ目キツネノマゴ科Acanthaceaeハアザミ属 Acanthusに属する植物の総称であるが、通常は観賞用に栽培されたAcanthus mollisを指す。ここは勿論、装飾文様とされたそれで、アザミに似た独特の葉形が古くギリシア以来、建築物や内装の装飾モチーフとされてきた。

・「天聲人語」これは、「天の声と人の言葉」という意味である。一般に、朝日新聞の有名なコラム「天声人語」は「天に声あり、人をして語らしむ」(命名者は東京朝日新聞の記者杉村楚人冠又は大阪朝日新聞記者西村天囚とする)と読み下され、中国の古典に由来する「民の声、庶民の声こそ天の声」の意であるとする。但し、ここで言う中国古典の典拠は不明とあるとされている。思うにこの語が劇場に貼られるのは、恐らく古代の芸能が祭祀であったからであろう。演じるということは神憑りすることであり、そこで発せられる俳優の人語は、同時に神の託宣であった。そのような芸能本来の神聖さを示すためのもの、芝居と観客の神人共感を招来するための護符と言ってもよいと思われる。

・「有樂座」明治411908)年に、現在の東京数寄屋橋付近にあった西洋風(初の全席椅子席)の高等演芸場有楽座のことで、当時の日本の新劇運動のメッカであった。因みにここは旧南町奉行所跡で、明治になって裁判所、次に陸軍練兵場となった、その跡地でもある。大正9(1920)年に帝劇に合併されたが、大正12年の関東大震災で焼失するまで、この地にあった。

・「蘇州銀行」神田由美子氏の岩波版新全集注解によると、芥川が来中する前年の1920年蘇州で創設された蘇州儲蓄銀行のことで、同年九月には上海支店が置かれた。しかしその後、1924年には『資本金が軍閥に流用されたため倒産』した、とある。

・「三砲臺香烟即ちスリイ・キヤツスルズ」ヴァージニア種を代表する英国製煙草“Three Castles”の中国語の商標名。「香烟」は中国語で巻き煙草のこと。上海では高級煙草はこれと英国王室御用達の“Westminster”に占められていた。

・「姜維」(きょうい 202264)は漢末から三国時代の武将。魏の出身であるが、後に蜀漢の軍師となった。「三国志演義」では馬遵(ばじゅん)配下の将として登場し、蜀漢の名軍師諸葛亮と丁々発止の戦略を交わし、勇猛な敵将趙雲と一騎打ちをして互角に戦う智将にして猛将、その美男から「天水の美将」と呼ばれた。その軍才を見込んだ諸葛亮は自身の後継者とするために、第一次北伐の際、奇計を用いて姜維を投降させた。諸葛亮の死後は蜀の最高軍事責任者に登りつめた。「三国志演義」では諸葛亮の後継者という印象を強く押し出しおり、仁義に厚い智将として描かれ、京劇でも一番人気のキャラクターの一人である。

・「武松」は「水滸伝」や「金瓶梅」に登場する一種の侠客。「金瓶梅」では人食い虎を退治し都督となり、最後のシーンでは兄を殺した主人公ら西門慶・潘金蓮を小気味よく惨殺する。「水滸伝」では、その後に自首した彼が、巡り巡って憤怒から再び大量殺人を犯して逃亡する内に、魯智深ら梁山泊の仲間となっている。京劇では豪傑にして義人として描かれ、その立ち回りが人気のキャラクターでもある。

・「出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。

・「武劇」京劇の二分類で、大立ち回りを見せ場とするものを言う。一般に歌と台詞は少ない。対して、歌としなやかな舞いや台詞を中心としたものを文劇と言う。]

 

 

 

       十 戲臺(下)

 

 その代り支那の芝居にゐれば、客席では話をしてゐようが、子供がわあわあ泣いてゐようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。或は支那の事だから、たとひ見物が靜かでなくとも、聽戲(ちやうぎ)には差支へが起らないやうに、こんな鳴物が出來たのかも知れない。現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教はつてゐたが、向う三軒南隣りの君子は、一度もうるささうな顏をしなかつた。

 支那の芝居の第二の特色は、極端に道具を使はない事である。背景の如きも此處にはあるが、これは近頃の發明に過ぎない。支那本來の舞臺の道具は、椅子と机と幕とだけである。山嶽、海洋、宮殿、道途(だうと)――如何なる光景を現すのでも、結局これらを配置する外は、一本の立木も便つたことはない。役者がさも重さうに、閂(かんぬき)を外すらしい眞似をしたら、見物はいやでもその空間に、扉の存在を認めなければならぬ。又役者が意氣揚揚と、房のついた撻(むち)を振りまはしてゐたら、その役者の股ぐらの下には、驕つて行かざる紫騮(しりう)か何かが、嘶いてゐるなと思ふべきである。しかしこれは日本人だと、能と云ふ物を知つてゐるから、すぐにそのこつを呑みこんでしまふ。椅子や机を積上げたのも、山だと思へと云はれれば、咄嗟によろしいと引き受けられる。役者がちよいと片足上げたら、其處に内外を分つべき閾(しきゐ)があるのだと云はれても、これ亦想像に難くはない。のみならずその寫實主義から、一歩を隔てた約束の世界に、意外な美しささへ見る事がある。さう云へば今でも忘れないが、小翠花(せうすゐくわ)が梅龍鎭(ばいりゆうちん)を演じた時、旗亭(きてい)の娘に扮した彼はこの閾を越える度に、必ず鶸色(ひわいろ)の褲子(クウヅ)の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底の如きは、架空の閾でなかつたとしたら、あんなに可憐な心もちは起させなかつたに相違ない。

 この道具を使はない所は、上(かみ)に述べたやうな次第だから、一向我我には苦にならない。寧ろ私が辟易したのは、盆とか皿とか手燭とか、普通に使はれる小道具類が如何にも出たらめなことである。たとへば今の梅龍鎭にしても、つらつら戲考を按ずると、當世に起つた出來事ぢやない。明の武宗が微行の途次、梅龍鎭の旗亭の娘、鳳姐(ほうそ)を見染めると云ふ筋である。處がその娘の持つてゐる盆は、薔薇の花を描(か)いた陶器の底に、銀鍍金(めっき)の線なぞがついてゐる。あれは何處かのデイパアトメント・ストアに、並んでゐたものに違ひない。もし梅若萬三郎が、大口(おほくち)にサアベルをぶら下げて出たら、――そんな事の莫迦莫迦しいのはの細い多言を要せずとも明かである。

 支那の芝居の第三の特色は、隈取りの變化が多い事である。何でも辻聽花翁(つじちやうくわをう)によると、曹操一人の隈取りが、六十何種もあるさうだから、到底市川流(いちかはりう)所の騷ぎぢやない。その又隈取りも甚しいのは、赤だの藍だの代赭だのが、一面に皮膚を蔽つてゐる。まづ最初の感じから云ふと、どうしても化粧とは思はれない。私なぞは武松(ぶしよう)の芝居へ、蔣門神(しやうもんじん)がのそのそ出て來た時には、いくら村田君の説明を聽いても、やはり假面だとしか思はれなかつた。一見あの所謂花瞼(ホアレン)も、假面ではない事が看破出來れば、その人は確かに幾分かは千里眼に近いのに相違ない。

 支那の芝居の第四の特色は、立廻りが猛烈を極める事である。殊に下廻りの活動になると、これを役者と称するのは、輕業師とするの称するの當れるに若かない。彼等は舞臺の端から端へ、續けさまに二度宙返りを打つたり、正面に積上げた机の上から、眞つ倒(さかさま)に跳ね下りたりする。それが大抵は赤いズボンに、半身は裸の役者だから、愈曲馬か玉乘りの親類らしい氣がしてしまふ。勿論上等な武劇の役者も、言葉通り風を生ずる程、青龍刀や何かを振り廻して見せる。武劇の役者は昔から、腕力が強いと云ふ事だが、これでは腕力がなかつた日には、肝腎の商賣が勤まりつこはない。しかし武劇の名人となると、やはりかう云ふ離れ業以外に、何處か獨得な氣品がある。その證據には蓋叫天が、宛然(さながら)日本の車屋のやうな、パツチばきの武松に扮するのを見ても、無暗に刀を揮ふ時より、何かの拍子に無言の儘、じろりと相手を見る時の方が、どの位行者(ぎやうじや)武松らしい、凄味に富んでゐるかわからない。

 勿論かう云ふ特色は、支那の舊劇の特色である。新劇では隈取りもしなければ、とんぼ返りもやらないらしい。では何處までも新しいかと云ふと、亦舞臺(えきぶだい)とかに上演してゐた、賣身投靠(ばいしんたうかう)と云ふのなぞは、火のない蠟燭を持つて出てもやはり見物はその蠟燭が、ともつてゐる事と想像する。――つまり舊劇の象徴主義は依然として舞臺に殘つてゐた。新劇は上海以外でも、その後二三度見物したが、此點ではどれも遺憾ながら、五十歩百歩だつたと云ふ外はない。少くとも雨とか妻とか夜になつたとか云ふ事は、全然見物の想像に依賴するものばかりだつた。

 最後に役者の事を述べると、――蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合ひに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、樂屋にゐる時の白牡丹である。私が彼を訪問したのは、亦舞臺の樂屋だつた。いや、樂屋と云ふよりも、舞臺裏と云つた方が、或は實際に近いかも知れない。兎に角其處は舞臺の後の、壁が剥げた、蒜(にんにく)臭い、如何にも慘澹たる處だつた。何でも村田君の話によると、梅蘭芳(メイランフアン)が日本へ來た時、最も彼を驚かしたものは、樂屋の綺麗な事だつたと云ふが、かう云ふ樂屋に比べると、成程帝劇の樂屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞臺裏には、なりの薄ぎたない役者たちが、顏だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いてゐる。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往つたり來たりしてゐる容子は殆百鬼夜行(きやかう)の圖だつた。さう云ふ連中の通り路から、ちよいと陰になつた所に、支那鞄や何かが抛り出してある。白牡丹はその支那鞄の一つに、鬘(かづら)だけは脱いでゐたが、妓女蘇三(そさん)に扮した儘、丁度茶を飮んで居る所だつた。舞臺では細面(ほそおもて)に見えた顏も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシユアルな感じの強い、立派に發育した青年である。背も私に此べると、確に五分は高いらしい。その夜も一しよだつた村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧さうな女形と、互に久潤を敍し合つたりした。聞けば君は白牡丹が、まだ無名の子役だつた頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのださうである。私は彼に、玉堂春は面白かつたと云ふ意味を傳へた。すると彼は意外にも、「アリガト」と云ふ日本語を使つた。さうして――さうして彼が何をしたか。私は彼れ自身の爲にも又わが村田烏江君の爲にも、こんな事は公然書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ眞を逸してしまふ。それでは讀者に對しても、甚濟まない次第である。その爲に敢然正筆を使ふと、彼は横を向くが早いか、眞紅に銀輪の繡(ぬひ)をした、美しい袖を飜して、見事に床の上へ手洟(てばな)をかんだ。

 

[やぶちゃん注:前章の注冒頭で詳述した通り、底本本文の「緑牡丹」は「白牡丹」の誤りである。従って今回の私のテクストでは「緑牡丹」は、総て、「白牡丹」と正すこととした。その論証については「九 戲臺(上)」の「緑牡丹」の注を必ず参照されたい。また、本注の最後にも、これに関連した補注を置いたので、ご覧置き戴きたい。

・「聽戲」は、中国語で観劇の意。

・「道途」は、道。

・「紫騮」は、黒栗毛(暗褐色)の馬。

・「小翠花」は「九 戲臺(上)」同注参照。

・「梅龍鎭」は、明代の物語。芥川が梗概する通り、色好みの第14代正徳帝(せいとくてい)が自ら軍人に変相、上海の梅龍鎮の街にある梅龍鎮酒家に泊り、そこの娘鳳姐を見初めて、皇后にするまでの恋愛譚。芥川龍之介は1921年5月16日に天蟾舞台で小翠花が演じた「梅龍鎭」を観劇したと推定される。その根拠は「九 戲臺(上)」の「白牡丹」の考証注を参照されたい。

・「旗亭」は、料理屋や酒楼。

・「鶸色」黄緑色。スズメ目アトリ科カワラヒワ属マヒワ(真鶸)Carduelis spinusの羽の色の連想から名づけられた色名。

・「褲子(クウヅ)」“kùz”で、ズボンのような下袴のこと。

・「戲考」書名。王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(19151925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

・「明の武宗」明の第11代皇帝正徳帝(14911521)。本名、朱厚照。武宗は廟号で、中国ではこちらで呼称するが、本邦では使用された元号によって呼ぶことが多い。ラマ教に傾倒したが、実生活では酒色に耽り、好きだった軍事演習に飽きると遠征を行い、行軍先で美女を誘拐しては陣中で淫楽に耽った。明滅亡の主因となったとされる。ちなみに彼の実際の皇后は孝静毅皇后夏(?~1535)と称し、上元の出身(これが現在の上元県とすれば江蘇省南京近辺)、1506年に皇后となっている。少なくとも上海の娘では、ない。

・「微行」お忍びの意。

・「梅若萬三郎」初世梅若万三郎(明治2(1869)年~昭和211946)年)のこと。観世流の能楽師。明治の三名人といわれた初世梅若実の長男で、梅若一門を開いた。

・「大口」能で用いる衣装である大口袴(おおくちばかま)の略。衣服としては裾の口が大きい下袴で、平安以降、公家の束帯で表袴(うえのはかま)の下に用いられ、鎌倉以降は武士が直垂(ひたたれ)・狩衣等の下に穿いた。能では特に限定された役の衣装ではないが、賤しい役所は穿かない。

・「辻聽花翁」中国文学者の辻武雄(慶応4・明治元(1868)年~昭和6(1931)年)の号。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方がすこぶる多い。

・「市川流」江戸歌舞伎の荒事とその隈取りは主に初代市川團十郎を中心とした市川家によって完成されたため、このように言った。そのような流派が存在する謂いではない。

・「蔣門神がのそのそ出て來た時」芥川が見たと思しい京劇「醉奪快活林」のクライマックスである。西門慶と潘金蓮を仇討ちした武松は孟州に流罪となるが、そこでは典獄(刑務官)とその息子の金眼彪施恩(ひょうしおん)に、その魁偉を気に入られて囚人ながら厚遇される。折しも施恩はごろつきの蒋門神に快活林という交易所(酒店を兼ねる)を奪われ怪我を負わされていた。施恩が武松に仇討ちを頼み込むと、武松はさんざんに酒をあおり、所謂、酔拳で蒋門神と戦ってこれを懲らしめる、という痛快大立ち回りのストーリー(以上は「水滸聚義」というHPの「天傷星 行者 武松」の頁を主に参考にした)。

・「花瞼(ホアレン)」“huāliăn”で、隈取りの意。

・「行者」武芸の修行者。

・「舊劇」中国の伝統演劇京劇の呼称。元曲・南曲・昆劇・越劇・川劇等の地方演劇の発展の中で京劇が旧劇の頂点となった。

・「新劇」話劇とも言う。20世紀の初頭に国外の現代演劇の思潮を取り入れた中国の演劇を指す。特に1919年の五・四運動以降のリアリズムと表現主義を主張とする戯曲群を指す。

・「亦舞臺」上海にあった劇場の名。

・「賣身投靠」は話劇「雙珠鳳」の別名(新劇化された話劇「雙珠鳳」の外題というべきか)。そのストーリーはhungmei さんのブログの「越劇・黄梅戯・紅楼夢」によれば、洛陽の秀才文必正は南陽に向かう途次、法華庵という寺院の庭で焼香に来ていた才女の霍定金(かくていきん)を見初め、彼女の落としていった珠鳳(髪飾りか耳飾りであろう。当時の女性が耳飾りをしていたかどうかは不学にして知らない。識者の御教授を乞う)を拾う。文は自ら奴隷に身をやつして霍家へ入り込む。二人っきりになるチャンスを伺い、機を得て珠鳳を蓮の花に入れて定金に差し出しながら、自分があの時の文必正であることを告白、二人は将来を誓い合うというハッピー・エンドである。この「賣身投靠」というのは、ある目的のために自分自身を売り渡すという意味で、文が定金を得んがために奴隷に身を売って霍家へ入り込んだことを指すのであろう。

・「帝劇」東京都千代田区丸の内三丁目にある東宝直営の帝国劇場のこと。明治441911)年渋沢栄一を発起人として本邦初の西洋式演劇劇場として設立された。

・「妓女蘇三」後述する京劇「玉堂春」の主人公玉堂春の妓名。

・「センシユアル」は“sensual”で、肉体的な・官能的な・肉欲をそそる、という意。

・「玉堂春」は明代の物語で、「警世通言」の「玉堂春落難逢夫」を元にした京劇の主人公。名妓蘇三(玉堂春)は公子で吏部尚書の王金龍と誓い合った仲であったが、金龍は金銭を使い果たして、妓楼を追い出されてしまう。それを聞いた蘇三は金龍に銀を送って故郷南京へと帰郷させる。残った蘇三は以後、客を取るのを拒んだため、山西の豪商沈燕林に妾として売られてしまう。ところが沈の妻には間男がおり、邪魔な夫を毒殺した上、妾の蘇三を夫殺しの犯人として告発、沈の妻から賄賂を受けていた県令は蘇三を死罪に処して太原に護送する。一方、金龍は科挙に登第、山西巡按史となって折りしも蘇三の一件を審議する立場となるが、変わらぬ信愛によって二人は再会、冤罪を雪ぎ、晴れて結ばれるというストーリー(以上の梗概は千田大介氏のWebサーバ「電脳瓦崗寨」にある「中国伝統劇解説/京劇『玉堂春』」の記載を参照した)。但し、芥川が観劇した白牡丹のものは前篇の注での秦剛氏の考証により「新玉堂春」とあり、これも新劇化された「玉堂春」と言うべきものなのかも知れない。

・「正筆」は、ぼかすことなくはっきりと正しいことを書くこと、の意。

 

 以上、冒頭に示した通り、芥川龍之介の単行本『支那游記』の「上海游記」中に出現する京劇俳優「緑牡丹」は、別人の「白牡丹」であることが判明した。「上海游記」初出には正しく「白牡丹」となっているのである。

 芥川龍之介が『支那游記』に「上海游記」を所収するに当り、何故、名花旦「白牡丹」荀慧生の名が別な花旦「緑牡丹」黄玉麟となってしまったのか――分らない。ただ、奇妙な附合がある。

 単行本『支那游記』の刊行は大正141925)年の11月3日であり(その校正は9月下旬から始まっている)、「緑牡丹」黄玉麟の来日公演が同年の7月であることである。

――だから、何だ、と言われそうである。偶然ではある。偶然ではあるが、何だか気になる。しかし、よく分らない――

 ただ言えることがある。芥川はこの「緑牡丹」の来日公演を見ていないものと思われること。見ていれば、失礼ながら恐らくはその「緑牡丹」の「白牡丹」に及ばない姿に失望し、その印象の中で、このような「校正」の誤りが生じようはずはなかったこと。

――だから何だ。いや、よく分らない――

 しかし、校正が始まったすぐ後の1015日頃には三男の也寸志が発熱し、月末まで癒えず、看病やら心配やらで芥川は落ち着かない。同じ頃、敬愛する滝田樗陰の病篤くなり、1027日に逝去、弔問に出掛けている。この頃には、また翌年新年号の原稿依頼が舞い込み始め、その構想にもかからねばならなかった。

――よく分らない――

 が、年譜に拠れば芥川がこの前後に、多忙を極めていたことだけは伺える(彼はあんまり暇なときがないのだが)。

――よく分らない――さて、以下は私の授業によくある脱線のようなものである――

……僕は、昔、ある学校新聞の顧問を引き受けていた。社会科の教師が当時の中国問題について寄稿した記事を生徒と校正に行ったら、印刷所の担当者が「首相」を「主席」に勝手に書き換えていた(当時、事実、その直前に主席の地位は空白になっていた)。指摘すると、中国は主席だ、首相じゃない、とその担当者に一蹴された。執筆した教師とその担当者(その頃は活版印刷でその人はその学校新聞の総ての植字も担当していた)との間に挟まれ、すったもんだの末、「首相」で落ち着いたが、その印刷所の担当者は、「こんな間違い、笑われるよ」と如何にも不満げに譲らなかったのが、思い出される。……

――話を戻す。以上の話はあくまで脱線である。脱線であるが、もしかすると引込み線で繋がっていないとは言えないかも知れぬ。よく分らない――

 一つの推理であるが、誰か、筆者芥川以外の誰か編集者が、これを「緑牡丹」の間違いだと勘違いし、書き直したのではなかろうか? 作家の書いたものを、そうおいそれと書き換えるなんてことがあり得たのかとお思いになる向きもあろう。

――さあ、よく分らない――

 しかし、「蜘蛛の糸」の初出が、鈴木三重吉によって表現や句読点に至る細部まで完膚無きまでに改変されて「赤い鳥」に載ったことは、僕の『傀儡師』版「蜘蛛の糸」のテクスト注でも述べた。

――よく分らない。今や、藪の中、ではある……

 しかし乍ら、これだけははっきりと再度、言っておかなくてはならぬ! 向後、「上海游記」のテクストの該当部分は総て初出通り、「白牡丹」に訂正されねばならない! 芥川と麗人「白牡丹」荀慧生の名誉にかけて!――

――さても花旦の話を檄文で終わるのは、如何にもお洒落じゃない。「北京大学京劇昆曲愛好者協会」の「旦角老照片(一)」の頁をご覧あれ! 至宝梅蘭芳! 白牡丹荀慧生!]

 

 

 

       十一 章炳麟氏

 

 章炳麟氏の書齋には、如何なる趣味か知らないが、大きな鰐の剥製が一匹、腹這ひに壁に引つ付いてゐる。が、この書物に埋まつた書齋は、その鰐が皮肉に感じられる程、言葉通り肌に沁みるやうに寒い。尤も當日の天候は、發句の季題を借用すると、正に冴え返る雨天だつた。其處へ瓦を張つた部屋には、敷物もなければ、ストオヴもない。坐るのは勿論蒲團のない、角張つた紫檀の肘掛椅子である。おまけに私の着てゐたのは、薄いセルの間着(あひぎ)だつた。私は今でもあの書齋に、坐つてゐた事を考へると、幸にも風を引かなかつたのは、全然奇跡としか思はれない。

 しかし章太炎先生は、鼠色の大掛兒(タアクワル)に、厚い毛皮の裏のついた、黑い馬掛兒(マアクワル)を一着してゐる。だから無論寒くはない。その上氏の坐つてゐるのは、毛皮を掛けた籐椅子である。私は氏の雄辯に、煙草を吸ふ事も忘れながら、しかも氏が暖さうに、悠然と足を伸ばしてゐるのには、大いに健羨(けんせん)に堪へなかつた。

 風説によれば章炳麟氏は、自ら王者の師を以て任じてゐると云ふことである。さうして一時(じ)その弟子に、黎元洪(れいげんかう)を選んだと云ふ事である。さう云へば机の横手の壁には、あの鰐の剥製の下に、「東南撲學、章太炎先生、元洪」と書いた、横卷(よこまき)の軸が懸つてゐる。しかし遠慮のない所を云ふと、氏の顏は決して立派ぢやない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顋髯は氣の毒な程薄い。突兀(とつこつ)と聳えた額なども、瘤ではないかと思ふ位である。が、その絲のやうに細い眼だけは、――上品な縁無しの眼鏡の後(うしろ)に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確に出來合ひの代物ぢやない。この眼の爲に袁世凱は、先生を囹圄(れいご)に苦しませたのである。同時に又この眼の爲に、一旦は先生を監禁しても、とうとう殺害(せつがい)は出來なかつたのである。

 氏の話題は徹頭徹尾、現代の支那を中心とした政治や社會の問題だつた。勿論不要(プヤオ)とか「等(タン)一等(タン)」とか、車屋相手の熟語以外は、一言(ごん)も支那語を知らない私に議論なぞのわかる理由はない。それが氏の論旨を知つたり、時時は氏に生意氣な質問なぞも發したりしたのは、悉週報「上海」の主筆西本省三氏のおかげである。西本氏は私の隣りの椅子に、ちやんと胸を反らせた儘、どんな面倒な議論になつても、親切に通辭を勤めてくれた。(殊に當時は週報「上海」の締切り日が迫つてゐたのだから、私は愈氏の御苦勞に感謝せざるを得ないのである。)

 「現代の支那は遺憾ながら、政治的には墮落してゐる。不正が公行(こうかう)してゐる事も、或は清朝の末年よりも、一層夥しいと云へるかも知れない。學問藝術の方面になれば、猶更沈滯は甚しいやうである。しかし支那の國民は、元來極端に趨(はし)る事をしない。この特性が存する限り、支那の赤化は不可能である。成程一部の學生は、勞農主義を歡迎した。が、學生は即ち國民ではない。彼等さへ一度は赤化しても必ず何時かはその主張を抛つ時が來るであらう。何故と云へば國民性は、――中庸を愛する國民性は、一感激よりも強いからである。」

 章柄麟氏はしつきりなしに、爪の長い手を振りながら、滔滔と獨得な説を述べた。私は――唯寒かつた。

 「では支那を復興するには、どう云ふ手段に出るが好いか? この間題の解決は、具體的にはどうするにもせよ、机上の學説からは生まれる筈がない。古人も時務(じむ)を知るものは俊傑(しゆんけつ)なりと道破した。一つの主張から演繹せずに、無數の事實から歸納する、それが時務を知るのである。時務を知つた後に、計畫を定める、――時に循(しかが)つて、宜しきを制すとは、結局この意味に外ならない。……」

 私は耳を傾けながら、時時壁上(へきじやう)の鰐を眺めた。さうして支那問題とは歿交渉に、こんな事をふと考へたりした。――あの鰐はきつと睡蓮の匂と太陽の光と暖な水とを承知してゐるのに相藩ない。して見れば現在の私の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剥製のお前は仕合せだつた。どうか私を憐んでくれ。まだこの通り生きてゐる私を。……

 

[やぶちゃん注:章炳麟(Zhāng Bĭnglín ヂャン ビンリン 18691936)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは本文で本人が直接話法で語るように、彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅(Lǔ Xùn ルー シュン 本名周樹人 18811936)は生涯に渡って一貫して師としての深い敬愛の情を示し続けた(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。

・「セルの間着」の「セル」はオランダ語“serge ”の略で、布地のセルジのこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。「間着」は「合い服」のこと。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。前注参照。

・「健羨」非常に羨ましく思うこと。

・「黎元洪」(Lí Yuánhúng リン ユエンホン 18641928)は清末から中華民国初期の軍人・政治家。第2代(19161917)及び第4代(19221923)中華民国大総統を勤めた。清の軍人であったが、辛亥革命時の際には高度な政治的判断の中で反乱軍の大将に推挙され、自身も革命に積極的になり、また、その後の袁世凱死後の北洋軍閥混乱期にあっては対立した安徽派・直隷派双方から、今度は傀儡として大総統に推されることとなったが、最後は政界から追われた。章炳麟とは中華民国初期の統一党が発展した1912年5月の共和党結党辺りで大きな接点がある。

・「東南撲學」この場合の「撲」は、尽す、悉く、総てといった意味合いであろう。従って、中国の東南(上海)にあって、学問を学び尽した、尽さんとする人、の意であろう。

・「章太炎」章炳麟の号。

・「袁世凱」(Yuán Shìkǎi ユアン シーカイ 18591916)中華民国大総統。ここでの章炳麟の逮捕・軟禁は注の冒頭章炳麟の事蹟を参照。

・「囹圄」「れいぎょ」とも。「囹」「圄」共に牢屋・牢獄の意。

・『「等(タン)一等(タン)」』底本は総ルビであるが大正期の総ルビでは数字にルビを振らないのが一般的で、ここでも「一」にルビがないのであるが、ここは読みとしては中国語“děng yī děng”なので「タンイタン」と読むべきである。中国語で、「ちょっと! ちょっと!」「ちょっと待って!」の意。

・『週報「上海」』神戸大学大学院人文学研究科海港都市圏旧センター資料情報に『雑誌『上海』は、1913年から1945年まで、上海で発行された日本語雑誌である。1928年から1933年の時期は『上海週報』と誌名が変更された』とあり、更にこの頃の「上海」の論調について『中国進出をめぐる列強間の競争が激しかった時代を背景に、日本以外の列強諸国が、経済面や文化面、政治面で中国へのさらなる進出を図る事への警戒心が垣間見える』とし、対中国社会については『軍閥間の争いに失望し、辛亥革命以前の王朝統治に理想を求める復古的な論調を打ち出していた』と記し、その後に本雑誌の『こうした論調の背景には、雑誌の主催者であった西本省三が、日本のアジア主義団体「東亜同文会」と密接な関係を持っていた事がある』という目が醒めるような解説が載る。ここに現れた「東亜同文会」とは日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(後に教育機関ともなる)のこと。日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。なお、神田由美子氏の岩波版新全集注解では本雑誌について、『中国政治文化評論誌という副題された総合誌』で、西本白川(次注の西川の号)主筆の『春申社から「週報上海」として創刊、後に「上海通報」「上海」となり、上海雑誌社刊となる。山田純三郎編』と記している。

・「西本省三」(明治111878)年~昭和31928)年)号は白川。中国研究家。日露戦争に通訳として従軍、後に母校であった東亜同文書院(前注参照)の教員となった。辛亥革命に反発、春申社を創立して週刊「上海」(前注参照)を刊行、孫文とその新体制を批判した。著作に「支那思想と現代」(1921)・「康煕大帝」(1925)など(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus等を参照した)。

・「公行」公に行われること。

・「勞農主義」社会主義革命の達成のために、労働者階級が農民層と協同して権力に対して組織的に闘争すること。1920年にペトログラード及びモスクワで開かれた第2回コミンテルン大会に於いて、ロシアに革命以前からあった「労農同盟」を、植民地化された国々のプロレタリアートと農民の間で形成されるべき統一戦線として発展的に提示したもので、汎世界的な革命闘争として決議されたもの。

・「時務」その時代に応じた務めのこと。この今の時代のなすべき務め。「蜀書五 三国志三十五 諸葛亮傳第五」に「襄陽記」から引いて、

 

劉備訪世事於司馬德操.德操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑.此閒自有伏龍・鳳雛.」備問為誰,曰:「諸葛孔明・龐士元也.」

 

とある(以上の引用は、規定の引用規則に従い、原著作者【むじん書院】の「蜀書五 三国志三十五 諸葛亮傳第五」のページから改変せずコピー・ペーストした)。以下に、私のオリジナルな書き下しと訳を示す。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 劉備、司馬德操に世事につきて訪ふ。德操曰く、「儒生・俗士、豈に時務を識らんや。時務を識る者は俊傑に在り。此の閒、自ら伏龍と鳳雛(ほうすう)有り。」と。備、問ひて、「誰とか為す。」と。曰く、「諸葛孔明・龐士元(はうしげん)なり。」と。

 

○やぶちゃんの現代語訳

 ある時、劉備は時世の要所について徳操にたずねた。 徳操は答えて言った。

「私のような学生の俗物に、どうして時務――この今の時代のなすべき務めが分かりましょうや? いえ、とても分かったものではありませぬ。時務を知るということは、人よりも遙かに抜きん出た人物の才能の中にこそ在るのです。この辺りでは、自然、『伏龍』と『鳳雛』とが居りまする。」

そこで、劉備は問い質した。

「それは一体誰のことじゃ?」

徳操が答える。

「諸葛孔明と龐士元です。」

 

「德操」は司馬徽(しばき 生没年不詳)。字は徳操、中国後漢末期の人物鑑定家として、特に上記のエピソードで知られる人物。「龐士元」は龐統(ほうとう 178213 生没年は異説あり)。士元は字。有名な軍略家諸葛亮(181234 孔明は字)共に賢臣として劉備を助け、蜀漢を揺ぎないものとした。諸葛孔明の「臥龍」「伏龍」に対して、龐士元は「鳳雛(ほうすう)」(鳳(おおとり)のひな)と呼ばれた。]

 

 

       十二 西洋

 

 問(とひ)。上海は單なる支那ぢやない。同時に又一面では西洋なのだから、その邊も十分見て行つてくれ給へ。公園だけでも日本よりは、餘程進歩してゐると思ふが、――

 答。公園も一通りは見物したよ。佛蘭西公園やジエスフイルド公園は、散歩するに、持つて來いだ。殊に佛蘭西公園では、若葉を出した篠懸(すゞかけ)の間に、西洋人のお袋だの乳母だのが子供を遊ばせてゐる、それが大變綺麗だつたつけ。――だが格別日本よりも、進歩してゐるとは思はないね。唯此處の公園は、西洋式だと云ふだけぢやないか? 何も西洋式になりさへすれば、進歩したと云ふ訣でもあるまいし。

 問。新公園にも待つたかい?

 答。行つたとも。しかしあれは運動場だらう。僕は公園だとは思はなかつた。

 問。パブリツク・ガアドンは?

 答。あの公園は面白かつた。外國人ははいつても好いが、支那人は一人もはいる事が出來ない。しかもパブリツクと號するのだから、命名の妙を極めてゐるよ。

 問。しかし往來を歩いてゐても、西洋人の多い所なぞは、何だか感じが好いぢやないか? 此も日本ぢや見られない事だが、――

 答。さう云へば僕はこの間、鼻のない異人を見かけたつけ。あんな異人に遇ふ事は、ちよいと日本ぢやむづかしいかも知れない。

 問。あれか? あれは流感の時、まつさきにマスクをかけた男だ。――しかし往來を歩いてゐても、やはり異人に比べると、日本人は皆貧弱だね。

 答。洋服を着た日本人はね。

 問。和服を着たのは猶困るぢやないか? 何しろ日本人と云ふやつは、肌が人に見える事は、何とも思つてゐないんだから、――

 答。もし何とか思ふとすれば、それは思ふものが猥褻なのさ。久米の仙人と云ふ人は、その爲に雲から落ちたぢやないか?

 問。ぢや西洋人は猥褻かい?

 答。勿論その點では猥褻だね。唯風俗と云ふやつは、殘念ながら多數決のものだ。だから今に日本人も、素足で外へ出かけるのは、卑しい事のやうに思ふだらう。つまりだんだん以前よりも、猥褻になつて行くのだね。

 問。しかし日本の藝者なぞが、白晝往來を歩いてゐるのは、西洋人の手前も恥入るからね。

 答。何、そんな事は安心し給へ。西洋人の藝者も歩いてゐるのだから、――唯君には見分けられないのさ。

 問。これはちと手嚴しいな。佛蘭西租界なぞへも行つたかい?

 答。あの住宅地は愉快だつた。柳がもう煙つてゐたり、鳩がかすかに啼いてゐたり、桃がまだ咲いてゐたり、支那の民家が殘つてゐたり、――

 問。あの邊は殆西洋だね。赤瓦だの、白煉瓦だの、西洋人の家も好いぢやないか?

 答。西洋人の家は大抵駄目だね。少くとも僕の見た家は、悉下等なものばかりだつた。

 問。君がそんな西洋嫌ひとは、夢にも僕は思はなかつたが、――

 答。僕は西洋が嫌ひなのぢやない。俗惡なものが嫌ひなのだ。

 問。それは僕も勿論さうさ。

 答。譃をつき給へ。君は和服を着るよりも、洋服を着たいと思つてゐる。門構への家に住むよりバンガロオに住みたいと思つてゐる。釜揚うどんを食ふよりも、マカロニを食ひたいと思つてゐる。山本山を飮むよりも、ブラジル伽排を飮み――

 問。もうわかつたよ。しかし墓地は惡くはあるまい、あの靜安寺路の西洋人の墓地は?

 答。墓地とは亦窮(きう)したね。成程あの墓地は氣が利いてゐた。しかし僕はどちらかと云へば、大理石の十字架の下より、土饅頭の下に横になつてゐたい。況や怪しげな天使なぞの彫刻の下は眞平御免だ。

 問。すると君は上海の西洋には、全然興味を感じないのかい?

 答。いや、大いに感じてゐるのだ。上海は君の云ふ通り、兎に角一面では西洋だからね。善かれ惡かれ西洋を見るのは、面白い事に違ひないぢやないか? 唯此處の西洋は本場を見ない僕の眼にも、やはり場違ひのやうな氣がするのだ。

 

[やぶちゃん注:十数年後の嘱目であるが、豊島与志雄の「上海の渋面」の中に以下の記載がある。芥川の感懐と合わせて読むと興味深い。

『上海ほど自然の美に恵まれない都会も少い。また上海ほど、事変による廃墟や戦場を除いて、名所古跡に乏しい都会も少い。僅か百年ばかりの間に急激に発展した海港だけに、人口が増すにつれて必要な、建築物だけが立ち並んだに過ぎない。街路が狭くて並木を植える余地もなく、並木らしい並木はジョッフル街に見られるくらいなものである。支那家屋にしても、街路からはただ、薄暗い室房の重畳が見られるだけで、その白壁や屋根の景観を得ようとすれば、百貨店などの屋上に登らなければならない。』

『古い歴史と伝説とを持ってるものとしては、呉の時代からのものとされてる静安寺があるきりで、支那第六泉の称があったと伝えられてるその井戸も、今では、街路の中央に跡形だけを止めてるに過ぎないし、他に旧跡の見るべきものも殆んどない。北部の新公園は極東オリンピックの跡とて、運動競技場にふさわしいだけであり、西部のジェスフィールド公園はただ老人の散歩場所にふさわしく、学生などがここを歩いてるのも他に逍遙の場所がないからのことである。』

(河出書房昭和141939)年刊「文学母胎」初出。引用は青空文庫の豊島与志雄「上海の渋面」より)。「静安寺」は後の注を参照。ここで豊島が言う「極東オリンピック」とは「極東選手権競技大会」のことと思われる。1913年以降、フィリピン・中国・日本を主な参加国として、1934年まで10回開催された。豊島の言いのもとは第1回の「東洋オリンピック」という名称からであろう(第2回以降上記に変更)。第2回(1915年)と第5回(1921年)の2回、上海で開催されている。豊島が言うのは第5回のことであろうが、「新公園は極東オリンピックの跡とて、運動競技場にふさわしいだけであり」という認識は事実誤認である(もっと古い。後の「新公園」注参照)。

・「佛蘭西公園」現在の復興公園。上海西方のフランス租界内にあった。霞飛路(現・淮海中路)と環龍路“Route Vallon”(現・南昌路)及び辣斐徳路“Route Lafayette”(現・復興中路)の間、南北高架路の西に位置する。解放前は、もとあった顧家宅花園が1900年の義和団事件の際にフランス軍の駐屯地に使われたため、1909年に回顧家宅公園、別称で“Jardin de France”フランス公園と呼ばれた。南京国民政府の国民革命軍が北伐を開始し、全国を統一した1928年まで、中国人は立入禁止であった。

・「ジエスフイルド公園」“Jesfield Garden”は現在の中山公園。上海の西の郊外にある。当時の上海地図を見ると「堪旬非而公園」と漢字表記されている。1914年に外国人にのみ開放され、広大な敷地内には欧風・中国風・日本風庭園を備えていた。以下は18年後の記事であるが、注の冒頭に示した豊島与志雄の「上海の渋面」の時代の雰囲気を伝え、管理システムも分かる内容である。『工部局に対する報告によれば、ジェスフィールド公園の入場者は一九三八年以来二倍以上となり、その結果公園は非常に損傷されたとのことである。一日の入園者数四〇〇〇〇人に及び、非常に混み合うために窃盗者の発見が困難となり、樹木等の損傷が増加した。』『臨時入園料二十仙は変わらないが、各園共通のシーズン・チケットは三元に、ジェスフィールド公園以外の各園のシーズン・チケットは一元に値上げされた。各園共通のシーズン・チケットは一九三九年六月一日より値上げされ、同時に園内の取締を強化し、入園者が自発的に公園の規則を守るような教化運動が行なわれた。工部局の要求によって膠州公園への交通が改善された。その楽園により多くの入園者が惹かんがためである。』(以上は個人の頁箱庭的アジア植民地資料中心南満州鉄道株式会社調査部上海事務所調査室訳「上海共同租界工部局年報(1939年版)」「一九三九年の概観」の頁の中の「入場料」の項から引用させて頂いた)。

・「新公園」現在の上海市北方の虹口(こうこう)区東江湾道にある魯迅公園とほぼ同位置にあった公園。今は専ら魯迅の墓とその記念館によって知られる。清代の1896年に上海共同租界工部局(現在の市役所に相当する機関)が租界の外にあった農地を取得して造営され、当初は「虹口娯楽場」と呼ばれた。イギリス人の園芸家によって設計されたために様式は西洋式で、中に賭博場も設置されていた。1922年に「虹口公園」と改名。後の1932429日、この公園で上海天長節爆弾事件――朝鮮人尹奉吉(윤봉길 ユン ポンギル 190819321219日)を実行犯とする中朝政府共同による抗日テロ――が起こっている(以上の事蹟は主にウィキの「魯迅公園」及び「上海天長節爆弾事件」等を参照した)。

・「パブリツク・ガアドン」現在、上海随一の観光スポットである外灘(“Wàitān”ワイタン。中国語で『外国人の河岸』の意。英語名“The Bund”バンド)にある黄浦公園が相当するが、大きさは往時とは全く異なる。外灘は黄浦江岸の中山路(旧・中山東路)に沿ってあるが、その東側にこの“Public Garden”パブリック・ガーデンが広がっていた。1868年にイギリスが領事館前の浅瀬を埋め立てて造成した公園。現在は中山路の拡張に伴い、細い帯のようにしか公園は残っていない。

・「支那人は一人もはいる事が出來ない」“Public Garden”には入口に「華人與狗不得入内」という看板が立っていたことで有名であるが、「佛蘭西公園」の注で示したように、租界内の公園はどこも同様で、やはり1928年までこの立入禁止は続いた。

・「鼻のない異人」梅毒の感染後2年以降の第3期になると、堅いしこりやゴム腫が出現する。このゴム腫が鼻骨に生じると、最後には鼻全体が腐り落ちる。そうした患者のことを指していよう。芥川は晩年、友人宇野浩ニが梅毒による麻痺性痴呆によって発狂するに至るを含め、梅毒への感染恐怖を持ち続けた。この中国旅行で女を買った芥川が、それで梅毒に感染したのではないかという強迫神経症を持つに至った可能性も否定は出来ないと私は考えている。

・「租界」芥川は「上海游記」の中で、ここで初めて「租界」という語を用いている。「租界」とは中国の開港都市部に於いて居留する外国人がその居留地区の警察権や行政権を掌握した治外法権の組織及び地域を呼ぶ。1842年にアヘン戦争で清が敗れるとイギリスは江寧(南京)条約によって上海を租界として借り上げたアロー号事件に端を発するアロー戦争(18571860)での英仏連合軍の勝利とその後の北京条約によって清の半植民地化は決定的となったが、その象徴が上海租界である。当初は南京条約により開港した上海に1845年、イギリスが置いたのが始まりで、その後、上海にはアメリカ合衆国・フランスが各租界を定めた。後に英米列強の租界を合わせた共同租界とフランス租界の二つに再編された。最多時は8ヶ国27ヶ所に及んだ。

・「靜安寺路の西洋人の墓地」の「靜安寺」は静安区南京西路に現存するする仏教寺院。呉の孫権(229252:呉の初代皇帝。)の247年の建立と伝える、江南の真言密教の名刹の一つ。1862年、租界の競馬場から静安寺に通じる静安寺路(現・南京西路)が造られて、静安寺は上海西地区の交通の中心となり、1899年には租界全体が西に拡張され、静安寺もその範囲内に組み入れられた。「西洋人の墓地」というのは南京西路を挟んで静安寺と反対の南側にあった。現在は静安寺公園となっている。1898年に租界工部局衛生処が開設した外人墓地(ネット・サーフィンしてみると現在、墓群は虹橋の万国公墓に移されているらしい)。因みに「二 第一瞥(上)」に登場し、芥川が「彼 第二」で印象的なオードを書いたトーマス・ジョーンズは、1923年天然痘に罹患し、上海で客死、ここに葬られた(もし虹橋の万国公墓にジョーンズの墓があるならば、いつかお参りして上げたい気がする)。]

 

 

 

       十三 鄭孝胥氏

 

 坊間(ぼうかん)に傳ふる所によれば、鄭孝胥(ていかうしよ)氏は悠悠と、淸貧に處してゐるさうである。處が或曇天の午前、村田君や波多君と一しよに、門前へ自動車を乘りつけて見ると、その清貧に處してゐる家は、私の豫想よりもずつと立派な、鼠色に塗つた三階建だつた。門の内には庭續きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬(せつきう)の花なぞが匂つてゐる。私もかう云ふ淸貧ならば、何時身を處しても差支へない。

 五分の後我我三人は、應接室に通されてゐた。此處は壁に懸けた軸の外に殆何も裝飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一對の燒き物の花瓶に、小さな黄龍旗が尾を垂れてゐる。鄭蘇戡(ていそかん)先生は中華民國の政治家ぢやない、大淸帝國の遺臣である。私はこの旗を眺めながら、誰かが氏を批評した「他人之退而不隱者殆不可同日論」とか云ふ、うろ覺えの一句を思ひ出した。

 其處へ小肥りの青年が一人、足音もさせずにはいつて來た。これが日本に留學してゐた、氏の令息鄭垂(ていすゐ)氏である。氏と懇意な波多君は、すぐに私を紹介した。鄭垂氏は日本語に堪能だから、氏と話をする場合は、波多村田兩先生の通辭を煩はす必要はない。

 鄭孝胥氏が我我の前に、背の高い姿を現はしたのは、それから間もなくの事だつた。氏は一見した所、老人に似合はず血色が好い。眼も殆青年のやうに、朗(ほがらか)な光を帶びてゐる。殊に胸を反らせた態度や、盛な手眞似(ジエスチユア)を交へる工合は、鄭垂氏よりも反つて若若しい。それが黑い馬掛兒(マアクワル)に、心もち藍の調子が勝つた、薄鼠(うすねずみ)の大掛兄(タアクワル)を着てゐる所は、さすがは昔年の才人だけに、如何にも氣が利いた風采である。いや、閑日月(かんじつげつ)に富んだ今さへ、かう潑溂としてゐるやうぢや、康有爲(かういうゐ)氏を中心とした、芝居のやうな戊戌(ぼじゆつ)の變に、花花しい役割を演じた頃には、どの位才氣煥發だつたか、想像する事も難くはない。

 氏を加へた我我は、少時(しばらく)支那問題を談じ合つた。勿論私も臆面なしに、新借款團の成立以後、日本に對する支那の輿論はとか何とか、柄にもない事を辯じ立てた。――と云ふと甚不眞面目らしいが、その時は何も出たらめに、そんな事を饒舌(しやべ)つてゐたのではない。私自身では大眞面目に、自説を披露しゐゐたのである。が、今になつて考へて見ると、どうもその當時の私は、多少正氣ではなかつたらしい。尤もこの逆上の原因は、私の輕薄な根性の外にも、確に現代の支那その物が、一半の責を負ふべきものである。もし譃だと思つたら、誰でも支那へ行つて見るが好い。必一月とゐる内には、妙に政治を論じたい氣がして來る。あれは現代の支那の空氣が、二十年來の政治問題を孕んでゐるからに相違ない。私の如きは御丁寧にも、江南一帶を經めぐる間、容易にこの熱がさめなかつた。さうして誰も賴まないのに、藝術なぞよりは數段下等な政治の事ばかり考へてゐた。

 鄭孝胥氏は政治的には、現代の支那に絶望してゐた。支那は共和に執(しふ)する限り、永久に混亂は免れ得ない。が、王政を行ふとしても、當面の難局を切り拔けるには、英雄の出現を待つばかりである。その英雄も現代では、同時に又利害の錯綜した國際關係に處さなければならぬ。して見れば英雄の出現を待つのは、奇跡の出現を待つものである。

 そんな話をしてゐる内に、私が卷煙草を啣(くは)へると、氏はすぐに立上つて、燐寸(マツチ)の火をそれへ移してくれた。私は大いに恐縮しながら、どうも客を遇する事は、隣國の君子に比べると、日本人が一番拙(せつ)らしいと思つた。

 紅茶の御馳走になつた後、我我は氏に案内されて、家の後にある廣庭(ひろには)へ出て見た。庭は綺麗な芝原のまはりに、氏が日本から取り寄せた櫻や、幹の白い松が植わつてゐる。その向うにもう一つ、同じやうな鼠色の三階建があると思つたら、それは近頃建てたとか云ふ、鄭垂氏一家の住居だつた。私はこの庭を歩きながら、一むらの竹の秋の上に、やつと雲切れのした青空を眺めた。さうしてもう一度、これならば私も淸貧に處したいと思つた。

 此原稿を書いて居る時、丁度表具屋から私の所へ、一本の軸が屆いて來た。軸は二度目に訪問した時、氏が私に書いてくれた七言絶句を仕立てたのである。「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」さう云ふ字が飛舞(ひぶ)するやうに墨痕を走らせてゐるのを見ると、氏と相對(あひたい)してゐた何分かは、やはり未に懷しい氣がする。私はその何分かの間(あひだ)、獨り前朝(ぜんてう)の遺臣たる名士と相對してゐたのみではない。又實に支那近代の詩宗(しそう)、海藏樓(かいざうろう)詩集の著者の謦咳に接してゐたのである。

 

[やぶちゃん注:鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū ヂョン シアオシュー 18601938)は清末の1924年総理内務府大臣就任(最早、清滅亡を眼前にして有名無実の職であったが、失意の溥儀によく尽くし、後、満州国にあってもその誠心を貫いた)、後、満州国国務院総理(首相)となった。詩人・書家としても知られる。ウィキの「鄭孝胥」によれば、1932年の『満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし』、1934年、初代国務院総理となったが、『「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから』1935年辞任に追い込まれた。

・「坊間」巷間。世間。ちまた。

・「雪毬」バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリSpiraea cantoniensisのこと。本邦の北国では「雪毬花」と呼称する。

・「黄龍旗」清朝の国旗。黄色の地に竜を描いたもので、中国史にあって最初の「国旗」である。

・「鄭蘇戡」鄭孝胥の号。

・『「他人之退而不隱者殆不可同日論」』書き下すと、「他人の退きて隱れざる者、殆ど同日に論ずべからず」で、意味は、「清帝国の遺臣でありながら、中華民国の時代になっても、隠棲もせず、政治の表舞台に厚顔無恥に残っている輩は、清貧の鄭孝胥氏と同列に論ずること自体が不可能である」の意。

・「鄭垂」満州国へと向かった溥儀に従ったのは、鄭孝胥とその長男であった彼だけであったと伝える。後、1932年、初の日満合弁事業として計画された満洲航空会社の社長となった。彼は当時の岡本天津総領事に最初に満蒙独立の構想を持ち掛けた人物ともされる。

・「波多君」は「五 病院」に登場する「上海東方通信社の波多博」のこと。同注参照。

・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。前注参照。

・「閑日月」ひまな時、用事のない月日の意であるが、それに、あくせくしない心、余裕に満ちた心の意も利かせている。

・「康有爲」(Kāng Yŏuwéi カン ヨウウェイ 18581927)は清末から中華民国初期の思想家・政治家・書家。イギリス・フランス・日本の列強に敗れた清の再建に向けて、西洋的な政治機構への改革と経済の近代資本主義化を目指した変法自強運動を梁啓超(Liáng Qícháo リャン チーチャオ りょうけいちょう 18731929)や譚嗣同(Tán Sìtóng タン ストゥォン たんしどう 18651898928日)らと共に急速に推し進めたが、1898年6月、西太后を中心とする保守派によるクーデター「戊戌(ぼじゅつ)の政変」が起き、光緒帝は紫禁城内に幽閉され、彼と梁啓超は日本へ亡命、譚嗣同らは処刑されてしまう。1911年の辛亥革命により帰国して立憲君主制による清朝再興を訴えたが、既に時代遅れのその発想は急速に支持を失い、この芥川の鄭孝胥との会見時には既に過去の人となっていた。

・「戊戌の變」は「戊戌の政変」又は「百日維新」とも。1898年の新暦611日からの凡そ100日間、西太后が栄禄・袁世凱らとともに起した反変法クーデタ。前注参照。

・「花花しい役割を演じた」1898年、変法自強運動を鼓吹した旬刊雑誌『時務報』主筆を梁啓超が辞任した後、鄭孝胥が引き受けており、中国人に近代知識と日本語を教授する目的で創立された私立学校東文学社等との関係もその日記から伺える(樽本照雄「鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館(3)」等による)。

・「新借款團の成立」日本は1915年の対華二十一箇条要求や1億7700万円に登った西原借款等で中国への経済進出を図ったが、これを阻止しようとアメリカはイギリス・フランス・日本の四国の銀行による新借款団の設置を訴え、1920年に新四国借款団が成立した(1910年に組織された英米仏独の四国借款団に対する呼称)。因みにこれによって日本は独占的な利益獲得の好機を逸したものの、逆に欧米との良好な経済関係を作り、結果として外国資本の対日投資を促進させることに成功した。

・「二十年來の政治問題」清末から中華民国初期にかけての政変が齎した混乱と思潮の分立を言う。中国の近代化と立憲君主制を目指した変法自強運動の急激な変革、戊戌のクーデタによる反動、そこに端を発した辛亥革命と清の滅亡、三民主義を掲げた孫文の民主主義革命と袁世凱の北洋軍閥によるその挫折、革命指導者宋教仁(Sòng Jiàorén ソン ジャオレン18821913322日)暗殺に始まる第二革命の鎮圧を経て、1917年から1918年にかけての孫文・広東軍政府による北京政府への護法運動の内戦(一連の事件を含めて第三革命とも言う)といった有為転変激しかった当時の政治シーンを指す。

・「幹の白い松」恐らく裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属シロマツPinus bungeanaと思われる。「白松(はくしょう)」「白皮松」とも言い、中国中部から北西部原産。針葉が三本で一組。成長が遅く、現在は希少種。

 

・『「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平劒合誇神異。合浦珠還好祕藏」』句点を省いて書き下せば、

 

○やぶちゃんの書き下し文

夢奠(むてん) 何如(いかん)ぞ史事の強

呉興の題識 元章に遜(ゆづ)らん

延平の劒(けん) 合して神異を誇らんとし

合浦(がつぽ)の珠(しゆ) 還りて祕藏するに好からん

 

非力ながらオリジナルに訳して見ると、

 

○やぶちゃんの現代語訳

私が夢のように思い描いている理想――清朝の再興――それは、歴史の上の事実とは容易には成り得ないものであろうか……

宋の世、呉に住んだかの大家米元章は、古き栄誉に満ちた呉の復興を願う書を記している――勿論、小生は元章の足もとにも及ぶものではないが……

福建延平に纏わるエピソード、二つで一つの干将と莫邪の名剣は必ず一緒になってその計り知れぬ神異を誇るもの――皇帝と家臣とは、遂に正しくそのようなものであるはずである……

名立たる広東合浦産の上品な真珠、それはそれは美しい宝、それはまた大事に大事に秘かに暖めておくのがいい――その真珠のような私の内なる清朝復興の秘かな思い、それもまた胸の内にそっと大切にしまっておくのがいい……

 

といった感じか。訳に誤りがあるとなれば、御教授を乞う。簡単な語釈を附す。

○「呉」は現在の上海を含む江南地方。

○「米元章」(10511107 生没年異説あり)本名米芾(べいふつ)。北宋末の文人。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに「宋四大家」の一人。名書家で、骨董・奇岩怪石蒐集でも有名であったから、書画を愛した鄭孝胥は同様な趣味人・文士としてもここに彼の名を挙げたものであろう。

○「延平の劒」の延平は福建省南市延平であるが、ここは「晉書」の「巻三十六 列傳第六」の張華の伝に載る以下の話を元としていると思われる。以下、非常に長くなるが、この注の後に原文・書き下し文・現代語訳を附した(★「特別補注」以下)。因みに福建省は古来から現在に至るまで、優れた思想家を輩出した地であった。この芥川の記した後のことながら、中華人民共和国以降の著名人もまた、多い地である。なお筑摩版全集類聚脚注の訳は明らかに「延平の劒」の部分を誤訳している。更に――神田由美子氏の岩波新全集注解では一言、『未詳。』とあるだけ――一体、こんな注解なら、「注」の項目として挙げぬがよかろう。そうは思わぬか?

 

★「特別補注」《開始》

 では、満を持して、「延平の劒」に因む「晉書」に現れる干将と莫邪の名剣のエピソードの原典を読もう。原文は中文の歴史傳記 「中華文化網」[繁體中文版] 呉恆昇編校「晉書 卷三一至四十 列傳第一至十」のテクストを使用したが、意味をとりやすいように一部の漢字及び記号を変更・削除した。

 

之未滅也、斗牛之間常有紫氣、道術者皆以方強盛、未可圖也。惟華以爲不然。及呉平之後、紫氣愈明。華聞豫章人雷煥妙達緯象、乃要煥宿、屏人曰「可共尋天文、知將來吉凶。」因登樓仰觀。煥曰、「僕察之久矣。惟斗牛之間頗有異氣。」華曰、「是何祥也。」煥曰、「寶劍之精、上徹於天耳。」華曰、「君言得之。吾少時有相者言、吾年出六十、位登三事、當得寶劍佩之。斯言豈效與。」因問曰、「在何郡。」煥曰、「在豫章豐城。」華曰、「欲掘君爲宰、密共尋之。可乎。」煥許之。華大喜、即補煥爲豐城令。煥到縣、掘獄屋基、入地四丈餘、得一石函。光氣非常、中有雙劍、並刻題、一曰龍泉、一曰太阿。其夕、斗牛間氣不復見焉。煥以南昌西山北巖下土以拭劍、光芒艷發。大盆盛水、置劍其上、視之者精芒炫目。遣使送一劍并土與華、留一自佩。或謂煥曰、「得兩送一、張公豈可欺乎。」煥曰、「本朝將亂、張公當受其禍。此劍當繫徐君墓樹耳。靈異之物、終當化去、不永爲人服也。」華得劍、寶愛之、常置坐側。華以南昌土不如華陰赤土、報煥書曰、「詳觀劍文、乃干將也、莫邪何復不至。雖然、天生神物、終當合耳。」因以華陰土一斤致煥。煥更以拭劍、倍益精明。華誅、失劍所在。煥卒、子華爲州從事、持劍行經延平津、劍忽於腰間躍出墮水。使人沒水取之、不見劍、但見兩龍各長數丈、蟠縈有文章、沒者懼而反。須臾光彩照水、波浪驚沸、於是失劍。華歎曰、「先君化去之言、張公終合之論、此其驗乎。」華之博物多此類、不可詳載焉。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 の未だ滅びざるや、斗牛の間、常に紫氣有りて、道術者、皆、呉を以て方に強盛とし、未だ圖るべからざるなり、と。惟だ華のみ以爲らく、然らず、と。呉、平げられし後に及ぶも、紫氣、愈々明なり。

 華、豫章人雷煥、緯象に妙達せるを聞き、乃ち煥を要(もと)めて宿せしめ、人を屏(しりぞ)けて曰く、

「共に天文を尋ぬべし、吉凶の將來を知らん。」

と。因りて樓に登り仰ぎ觀る。煥曰く、

「僕、之の久しきを察す。惟だ斗牛の間、頗る異氣有るのみ。」

と。華曰く、

「是れ何の祥や。」

と。煥曰く、

「寶劍の精、上りて天に徹すのみ。」

と。華曰く、

「君の言、之を得たり。吾少(わか)き時、相者の言有り、吾、年六十出づれば、位、三事に登り、當に寶劍を得て之を佩くべし、と。斯(か)の言、豈に效(いた)すや。」

と。因りて問ひて曰く、

「何くの郡にか在る。」

と。煥曰く、

「豫章の豐城に在り。」

と。華曰く、

「君、宰の爲に、密かに共(むか)ひて之を尋ね掘せんことを欲す。可ならんか。」

と。煥、之を許す。華、大いに喜び、即ち煥を補して豐城の令と爲す。

 煥、縣に到り、獄屋の基を掘るに、地に入ること四丈餘、一石函を得。光氣、常に非ずして、中に雙劍有り、並びに題を刻むに、一に曰く「龍泉」、一に曰く「太阿」たり。

 其の夕べ、斗牛の間、氣、復た見ず。

 煥、南昌の西山が北巖の下の土を以て劍を拭ふを以ってせば、光芒艷發たり。大盆の水を盛りたるに、其の上に劍を置けば、之を視る者、精芒、目を炫(くら)ませり。

 使を遣はして一劍并にび土與(とも)に華に送りて、一を留めて自ら佩く。

 或ひと煥に謂ひて曰く、

「兩を得て一を送る、張公豈に欺くべけんや。」

と。煥曰く、

「本朝將に亂れ、張公當に其の禍を受くべし。此の劍、當に徐君が墓の樹に繫がんとするのみ。靈異の物、終に當に化して去るべし、人の、爲に服すること、永からざるなり。」

と。

 華、劍を得、寶として之を愛し、常に坐の側に置けり。華、南昌の土を以て華陰の赤土に如かずとし、煥に報じて書して曰く、

『詳しく劍文を觀るに、乃ち「干將」なり、「莫邪(ばくや)」何ぞ復た至らざる。然ると雖も、天生の神物、終に當に合すべきのみなるに。』

と。因りて華は陰土一斤を以て煥に致す。煥、更に劍を拭ふに以てせば、精明、倍益す。

 華、誅せられて、劍が所在を失す。

 煥、卒して、子、華、州從事と爲り、劍を持して行き、延平の津を經るに、劍忽ち腰間より躍り出でて水に墮つ。人をして水に沒せしめて之を取らしむるに、劍見えず、但だ、兩龍の各々長さ數丈なる、蟠縈(ばんえい)して有る文章(もんしやう)を見れば、沒せる者、懼れて反(かへ)る。須臾(しゆゆ)にして、光彩、水を照らし、波浪、驚沸して、是に於いて劍を失せり。華、歎じて曰く、

「先君の『化して去る』の言、張公が終合の論、此れ其の驗なるか。」

と。

 華の博物に多なること此の類なるも、詳載すべからざるなり。

 

○やぶちゃんの現代語訳(推測して大きく補った部分を丸括弧で示し、一部の間接話法を直接話法に翻案してある)

未だ呉が滅亡する前の話である。夜、空を見上げると、南斗と牽牛の星の間に、常に紫の雲気が漂っている。晉の道士達はこれを占うに皆、呉は正に強く盛んな運気の中にあり、攻略するには相応しくないでしょうと武帝司馬炎に進言した。ところが(博物学者であり司空であった)張華だけは、(星間の異常現象は呉の運勢とは無関係であるとして)そうではない、ときっぱりと述べて、呉攻略に何の心配もないことを力説した。

 (時に晋の武帝は呉を攻め、見事、三国は統一されたが、)その呉が平定されてから後に至っても、張華の言った通り、星間の紫の雲気は愈々明るくなるばかりであった。そこで、この現象に興味を持った張華は、予章の人であった雷煥が天体現象とその意味に精通していると聞いて、雷煥を自分の屋敷に招待し、一夜泊まらせると、人払いをした後、

「これから共に天文現象を観察して、未来のあらゆる吉凶を知ろうではないか。」

と持ち掛けて、楼台に登って夜空を仰ぎ見た。(張華は黙っていたが、その真意を察した)雷煥は、

「私めは、この現象は以前からずっと存じておりました。これはただ南斗と牽牛の星間に極めて特異的な雲気があるという事実に過ぎません。」

と言う。張華はすかさず、

「(私は、この現象は呉の運勢とは無縁であると推察出来はしたものの、その実、真意が分らぬのだ。)これは如何なる兆しであろうか?」

と訊ねた。しかし雷煥は、あっさりと述べた。

「(未来の吉凶とは無縁なのです。)ただ名宝たる剣の精気がこの地上から立ち上って天空に到達している、というだけのことなのです。」

それを聞いた張華は、

「君の今の言葉で、私は大いに納得した! 実は、私が幼少の折、ある人相見が占うに、私が六十歳を越えれば、その地位は三公に登り、世にも稀な名剣を手に入れて、腰に佩くに違いない、といわれたのだ。(私は既に三公の司空となっている。)これこそ、あの予言が正しかったことの現われだ!」

と喜んだ。そして、即座に雷煥に訊ねた。

「その剣は一体、どこの地にあるのか?」

「(この雲気の方位から計測すると、)予章郡の豊城県に存在します。」

張華は間髪を入れず、雷煥に言った。

「君、私のために、どうか秘かにその宝剣を探し、恐らく何処かの地に埋もれているそれを発掘して来て欲しいのだ、よろしいか?」

雷煥はこれを請け合った。張華は大層喜び、(司空の地位を利用して)直ちに雷煥を豊城の県令に任命した。

 雷煥は豊城県に到着すると、(そこで細かな実測を始め、そこで得られた事実から遂に埋蔵箇所を同定した。そこは実に県令所有の獄舎の下であった。そこでその)獄舎をすべて取り壊し、その基礎部分を掘ってみたところ、地下四丈(:当時の度量衡で約9.6m。)程のところで、一基の石棺を得た。その石棺自体が光を放っており、その光も尋常のものではない。恐る恐る蓋を開けてみると、中には二振りの剣があって、双方にはそれぞれ銘が刻まれており、一つには「龍泉」、一には「太阿」とあった。

 その出土した日の暮れ方、雷煥が空を見上げると、既に南斗と牽牛の星の間の紫の雲気はもう見えなくなくなっていたのであった。

 雷煥が、(事前に取り寄せていた)湖南の南昌にある西山北麓の岩盤の下から産した土で剣を拭ってみたところが、触れずとも切れんばかりの鋭い光芒を発するようになった。(真っ暗にした部屋で)大きな盆に水を張り、その盆の上に静かに抜き身の剣を置くと、その輝きたるや、見る者の眼を一瞬にして眩ませてしまう。

 雷煥は使者を送って、一振りを南昌の土と一緒に張華に送り、一振りは自分で佩いた。ある人が、

「二振りを得たのに一振りだけを送ったのでは、張華様を欺いたことになりませぬか?」

と進言した。ところが雷煥は、

「――晋朝は今にも乱れんとしている。――思うに張華様は、残念ながら、その禍いを受けぬわけには行かぬであろう。――この剣を私が持つ所以は、丁度、あの呉の季札(きさつ)が、後に徐君(じょくん)の墓の樹に自分の剣を結びつけた故事に擬えんとするためだけのものである。――霊異なる存在というものは、畢竟、姿を化して去ってしまうものであり、永く人の手に従うものでは、ないのじゃ――」

と答えたのであった。

 さて、張華は一振りの剣を得、名宝としてこれを愛し、常に傍らに置いていた。張華は、剣を磨くには、雷煥が添えた南昌の土では華陰の赤土の良さに及ばぬことを経験から知っており、そのことを雷煥に手紙で知らせたが、その書信の中には、

『詳らかに剣に刻印された銘を調べてみると、これは正にかの伝説で名刀「干将」と呼ばれる剣そのものである。だとすれば妻の化身たるもう一振りの名刀「莫邪」に相当するものは、どうしてまた、私の元へとやって来ないのであろう? この二物は一時的に分かれていたとしても、天が生み出した神聖なる存在は、究極に於いては必ずや合体する以外にはないはずであるのに――』

という疑義を記していた。――

 その後すぐに張華は華陰の土一斤(:当時の度量衡で約200g強。)を雷煥に送って寄越したのであった。――(即ち、張華は雷煥が二振りの剣を発掘し、一方の剣を所持していることを見抜いていたのであった。そうしてそれが決して雷煥のさもしい物欲に発したものでないことも恐らく見抜いていたのであった。――)

 雷煥がその張華の送ってくれた華陰の土をもって「莫邪」の剣を拭ってみたところ、剣の輝きはそれこそ、増して倍以上になったのであった。――

 (後、張華は八王の乱(:西暦300年の晋滅亡の端緒となった皇族間の内乱。)に巻き込まれて捕らえられて一族皆殺しにされてしまった。一説には、司馬倫の起こした謀反に加わることを拒んだためとも言われる。)

 張華が誅殺されると同時に、名剣「干将」の所在は不明となった。

 後、雷煥が亡くなったが、その子の雷華は更に州従事に任命されて、父の遺品である剣を佩き、州府へと向かっていた。丁度、延平の渡しを渡っている時であった。剣が生き物のように忽然と抜き身となって腰から躍り出てかと思うと、水中に落ちた。慌てた雷華は人を水中に潜らせて取り戻そうとしたのであるが、(すっかり疲れ切って戻ったその者は、荒い息の中で)次のように雷華に告げた。

「剣は遂に見つかりませなんだ――ただ――川底に――各々、長さ凡そ数丈(:当時の度量衡から推測して十数メートルから二十メートル。)に亙る二匹の龍、その龍が互いに絡まりあっている紋様が――その川底に、あったので御座います!――それを見て儂は、すっかり恐くなって慌てた拍子に息も呑んでしまい、命からがら引き返して参りました!……」

――やがてすぐに、水面の下からまばゆい色とりどりの光彩が目くるめく照射され出し、あたかも水が沸騰するかのように激しい波浪が沸き起こった――こうして剣は失われたのであった――雷華は深く感じて言った。

「聞いていた二本の剣に纏わる話――昔、父上がいつかこの剣は『化して去ってしまう』であろうとおっしゃったという話、また、張華様がこの二本の剣が、畢竟、合体しないではおらぬと書信で論ぜられたという、あの話、ああ! それこそがこのことの予言であったのか!」

 張華の博物について図抜けた智を持っていたことは、例えばこのような話からもその一端は分かるであろうが、その広大無辺な知識について総てを詳述することは不可能と言うべきである。

 

以下、簡単な語注を附す。なお、訳に誤りがあるとなれば、御教授を乞うものである。

○「張華」(232300)は「博物志」の著者として知られる晉の武帝司馬炎に仕えた政治家にして学者である。

○「干将」/「莫邪」は剣の名として出てくるが、本来は「干将」は呉の伝説的刀匠の名で、「莫邪」の方はその妻の名である。「捜神記」によれば、干将は楚王の命で二振りの剣を鍛え上げるが、完成が遅かったことを理由に二人は楚王に殺されてしまう。その遺児の赤(通称眉間尺)は父母の復讐のために姦計を巡らして、自らの首を断つ。最後にはその首が楚王の首と一緒になって、煮えたぎる鍋の中でグツグツと煮える――という、なかなかクる話がある。これまた私の大好きな話しなのであるが、これ以上やると「上海游記」の注が大脱線しまくりの飴のように延びたものになってしまうので、涙を呑んで読者の御探求の宿題と致そう――

○「徐君が墓の樹に繫がんとする」この雷煥の話に出てくる話は「季札挂剣」として知られる故事。「史記」等に載る話である。呉王の子季札が父親の命により、有力な他国へと使者として赴く途中、北の地で同年輩の徐君(徐国の王)に逢った。親しくなった二人であったが、徐君は李札の佩く剣が殊の外気に入った。しかし、それを口にすることはなく、また李札もその意を汲みながらも、使者としての公務に佩刀は必須、公務の終えた帰路徐君に譲らんとして、その折がやってきた。ところが訪ねた時、徐君は既に帰らぬ人なっていた。――季札乃ち其の宝剣を解き、徐君の冢(つか)の樹に懸けて去る。従者曰く「徐君已に死す、尚ほ誰(たれ)にか予(あた)ふるや。」と。季子曰く、「然らず。始め吾、心に已に之を許す。豈に死を以て吾が心に倍(そむ)かんや」と。――従者に向かって季子は答えて言った。「そうではない。よいか? 人と人との『信』というものは、そういうものではないのだ。最初から私は心のなかで、任務さえ終えたなら、この宝剣を徐君に差し上げようと決めていた。どうして死如きを以って、私のこの『信』の心に背くことが出来ようか、いや出来ぬ。」――。

★「特別補注」《終了》

 

・「詩宗」すぐれた詩人の敬称。

・「海藏樓詩集」鄭孝胥の詩集。131043首。「海藏樓」は彼の室名。]

 

 

       十四 罪

 

 拜啓。上海は支那第一の「惡の都會」だとか云ふ事です。何しろ各國の人間が、寄り集まつてゐる所ですから、自然さうもなり易いのでせう。私が見聞しただけでも、風儀は確かに惡いやうです。たとへば支那の人力車夫が、追剥ぎに早變りをする事なぞは、始終新聞に載つてゐます。又人の話によれば、人力車を走らせてゐる間に、後から帽子を盜まれる事も、此處では家常(かじよう)茶飯事ださうです。その最もひどいのになると、女の耳環を盜む爲に、耳を切るのさへあると云ひます。これは或は泥坊と云ふより、Psychopathia sexualisの一種が手傳ふのかも知れません。さう云ふ罪惡では數月前から、蓮英(れんえい)殺しと云ふ事件が、芝居にも小説にも仕組まれてゐます。これは此虞では拆白黨(せきはくたう)と云ふ、つまり無賴の少年團の一人が、金剛石(ダイヤモンド)の指環を奪ふ爲に、蓮英と云ふ藝者を殺したのです。その又殺し方が、自動車へ乘せて徐家※(じよかわい)近傍へ連れ出した擧句、絞(くび)り殺したと云ふのですから、支那では兎に角前例のない、新機軸を出した犯罪なのでせう。何でも世間の評判では、日本でも度度耳にする通り、探偵物なぞの活動寫眞が、惡影響を與へたのだと云ふ事でした。尤も蓮英と云ふ藝者は、私の見た寫眞によると、義理にも美人とは評されません。

[やぶちゃん字注:「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]

 勿論賣婬(ばいいん)も盛です。青蓮閣なぞと云ふ茶館へ行けば、彼是薄暮に近い頃から、無數の賣笑婦が集まつてゐます。これを野雉(イエチイ)と號しますが、ざつとどれも見た所は、二十歳以上とは思はれません。それが日本人なぞの姿を見ると、「アナタ、アナタ」と云ひながら、一度に周圍へ集まつて來ます。「アナタ」の外にもかう云ふ連中は、「サイゴ、サイゴ」と云ふ事を云ひます。「サイゴ」とは何の意味かと思ふと、これは日本の軍人たちが、日露戰爭に出征中、支那の女をつかまへては、近所の高梁(カオリヤン)の畑か何かへ、「さあ行かう」と云つたのが、濫觴だらうと云ふ事です。語原を聞けば落語のやうですが、何にせよ我我日本人には、餘り名著譽のある話ではなささうです。それから夜は四馬路あたりに、人力車へ乘つた野雉(イエチイ)たちが、必何人もうろついてゐます。この連中は客があると、その客は自分の車に乘せ、自分は歩いて彼等の家へつれこむと云ふのが習慣ださうです。彼等はどう云ふ料簡か、大抵眼鏡をかけてゐます。事によると今の支那では、女が眼鏡をかける事は、新流行の一つかも知れません。

 鴉片(アヘン)も半ばは公然と、何處でも吸つてゐるやうです。私の見に行つた鴉片窟なぞでは、かすかな豆ラムプを中にしながら、賣笑婦も一人、客と一しよに、柄の長い煙管を啣へてゐました。その外(ほか)人の話では、磨鏡黨(まきやうたう)とか男堂子(だんだうし)とか云ふ、大へんな物もあるやうです。男堂子とは女の爲に、男が媚を要るのであり、磨鏡黨とは客の爲に、女が婬戲(いんぎ)を見せるのださうです。そんな事を聞かされると、往來を通る支那人の中にも、辮髮(べんぱつ)を下げたMarquis de Sadeなぞは何人もゐさうな氣がして來ます。又實際ゐるのでせう。或(ある)丁抹人(デンマアクじん)が話したのでは、四川や廣東には六年ゐても、屍姦の噂は聞かなかつたのが、上海では近近(きんきん)三週間の内に、二つも實例が見當つたさうです。

 その上この頃ではシベリア邊から、男女とも怪しい西洋人が、大勢此處へ來てゐるやうです。私もー度友だちと一しよに、パブリツク・ガアドンを歩いてゐた時、身なりの惡い露西亞人に、しつこく金をねだられました。あれなぞは唯の乞食でせうが、餘り氣味の好いものぢやありません。尤も工部局がやかましい爲、上海もまづ大體としては、おひおひ風紀が改まるやうです。現に西洋人の方面でも、エル・ドラドオとかパレルモとか云ふ、如何はしいカツフエはなくなりました。しかしずつと郊外に近い、デル・モンテと云ふ所には、まだ商賣人が大勢來ます。

 “Green satin, a dance, white wine and gleaming laughter, with two nodding ear-rings――these are Lotus.

 これはユニイス・テイツチエンズが、上海の妓ロオタスを歌つた詩の一節です。「白葡萄酒と輝かしい笑ひと」――それは一ロオタスばかりぢやない、デル・モンテの卓に倚りながら、印度人(インドじん)を交へたオオケストラの音(ね)に、耳を貸してゐる女たちは、畢竟この外(ほか)に出ないのです。以上。

 

[やぶちゃん注:冒頭から芥川は上海の当時の風聞的通称を「惡の都會」とする。租界が出来て以降、いつからか魔都上海という語を耳にするようになるのだが、芥川が好みそうな「魔都」という語を使っていないところを見ると、この頃、未だ「魔都」は市民権を得ていなかったと見える。

・「女の耳環を盜む爲に、耳を切るのさへある」これは如何にもな都市伝説(アーバン・レジェンド)で、芥川がこれを信じていたとすれば、少々微笑ましい。そういう事実があったかどうかは問題ではない。そのようなものとして上海が恣意的にイメージされてゆくこと自体が最早古い「上海」でなく、都市伝説を生み出す新しい「上海」であることを、意味していたのだと、私は思うのである。

・「Psychopathia sexualis」芥川はこのラテン語を「変態性欲」という意味で用いている。芥川は恐らく「サディズム」という用語を知らしめたオーストリアの精神医学者であるRichard Freiherr von Krafft-Ebingリヒャルト・フォン・クラフト=エビング(18401902)の1886年刊行になる性的倒錯研究の嚆矢たる“Psychopathia Sexualis”「性的精神病理」が念頭にあったものと思われる。

・「蓮英殺しと云ふ事件が、芝居にも小説にも仕組まれてゐます」とあるが、私の乏しい力では、そのような芝居や小説は調べ得なかった。識者の御教授を乞うものである。

・「拆白黨」“chāibáidǎng”(チァンパイタン)。19201940年代の上海に於いて暗躍したアンダー・ラウンドな犯罪組織、又はその主な構成員であった不良青少年、そのグループを指す語。主に裕福な女性をターゲットとし、時間をかけて巧妙にその家庭に入り込み信頼を得、時期を得て誘い出して強迫或いは殺害し、金品を奪い取るという手法を用いた。「拆」を芥川は「せき」と訓じているが、「拆」には「セキ」の音はない。「たくはくたう」又は「ちやくぱくたう」等と読むのが正しいと思う。「拆白」という語は上海方言で、よく分からないが、悪巧みや穢れた正体を隠す、と言った意味か? 識者の御教授を願う。

・「徐家※」[「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]これは「徐家匯」でよいであろう。現・上海市徐匯区のこと。その主な部分は旧徐光啓(後述○)邸宅跡である。19世紀にはフランスのイエズス会の天主堂が置かれ(1911年再建され現存)、中国でのカトリック教会布教本部となった。日本が設置した私立学校同文書院(後に大学に昇格)もここにあった。現在は市区と郊外とを結ぶ交通の中心で、上海を代表する商業エリアでもある。

○徐光啓(じょこうけい 15621633)は明代末の暦数学者。1599年、イタリア人イエズス会司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci 中国名 利瑪竇 りまとう Lì Mǎdòu 15521610)の名声を聞き、南京に行って教えを受け、1603年に受洗した。その後、進士に登第して翰林院庶吉士となったが、リッチとの交流の中で、天文学・地理・物理・数学等についてのリッチの知見をもとに西洋の自然科学書等を翻訳、多くの書籍として公刊した。特に最初の刊行になるユークリッド幾何学の翻訳「幾何原本」が知られる。その博識は当時の崇禎帝からも尊敬され、枢機・太子太保を歴任した。「農政全書」「崇禎暦書」等、著書多数。以上の徐光啓の事蹟はウィキの「徐光啓」の記載を参照したが、その最後には彼は『カトリックの教えは儒教を補うものと考えており、そのため迫害を蒙らずに、高位に昇ることができた』と説明されている。

・「日本でも度度耳にする通り、探偵物なぞの活動寫眞が、惡影響を與へたのだ」これは明治末年の映画“Zigomar”「ジゴマ」の上映に端を発する出来事を念頭に置いて書いている。「ジゴマ」はフランス人作家Leon Sazieレオン・サージイ(18621939)が書いた“Zigomar, roi des voleurs”(「ジゴマ、怪盗の王」)(1909)に始まるピカレスク・ロマン・シリーズ。1911年にVictorin Jassetヴィクトラン・ジャッセ(18821913)監督・脚色で映画化され、日本でも「探偵奇譚ジゴマ」の題名で、その年明治441911)年11月に封切られたが、当初から大評判となる。劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げる程であったといい、日本最初の洋画のヒット作と言える。以上、主にウィキの「ジゴマ」を参照したが、肝心の上映禁止の美事な解説はそのまま引用させて頂く。『ジゴマブームの中、少年層に犯罪を誘発するという説や、ジゴマの影響を受けたという犯罪の報道、泥棒を真似たジゴマごっこの流行などがあり、東京朝日新聞では191210月4~14日にブームの分析や影響が8回の連載で取り上げられた。こういった世論の高まりの中、10月9日に警視庁により、犯罪を誘致助成する、公安風俗を害するとして、ジゴマ映画及び類似映画の上映禁止処分がなされた。これは内務省警保局も決定に関わっており、続いて各府県に対しても警保局から同様の通牒が送られ、上映禁止は次第に全国に広まっていった。この件を機に、それまで各警察署が行っていた映画等の興行の検閲が、制度的に整えられていくこととなった。』『しかしジゴマブームによって、1912年の映画を含めた東京市内の観物場入場者数は前年の3倍の1200万人に達し(そのうち映画は851万人)、活動写真界の大きな成長をもたらした。また探偵小説についても禁止処分を訴える論調が新聞などに出たが、これには処分は下されなかった。』『その後は、ジゴマの名を隠したジゴマ映画が散発的に上映されることはあったが、ブームは下火になり、1913年にはジゴマ探偵小説の出版も無くなる。類似書としては、ジゴマの残党が登場する、1914年押川春浪「恐怖塔」、江見水蔭「三怪人」などがあった。また当時出版された探偵小説は、貸本屋、古本屋などを通じて読まれ続けた。上映禁止は1924年に解禁となったと、吉山旭光「日本映画史年表」には記載されている。』『江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズにも、ジゴマの影響があると言われている』(記号の一部を変更した)。

・「青蓮閣」四馬路にあった上海有数の茶館兼遊芸場。現在、外文書店。

・「野雉(イエチイ)」“yĕzhì”は街娼のこと。路をうろついて客をひくさまを野の雉に喩えた。

・「高梁(カオリヤン)」“gāoliáng”はイネ目イネ科モロコシ属モロコシSorghum bicolor。穀類として食すほか、強い蒸留酒である白酒(パイチュウ)の原料とされる。

・「語原」ママ。

・「磨鏡黨」“mójngdǎng”(モチンタン)。これについて芥川は、客の男に、女が猥褻な行為を見せる若しくは施すようなことを書いており、そうした特殊風俗店かSMクラブのようなものを推測させるのであるが、中文のサイトを分からぬ乍らに眺めてみると、これはどうやら女性の同性愛者組織の名であるらしい。知人の中文サイトの読解によれば、この「魔鏡」という語には、女が美しい同性の容姿を撫でてみることで性的欲求を満足させるところを、鏡に映った姿と見立てて、この文字を当てたのではないかと教えてくれた。どうも宮中に仕える女性達が同性を相手に寂しさを埋めるものとして始まったように解説されているという。内容なだけに容易に人に聞けぬ。識者の御教授を願う。

・「男堂子」“nántángzĭ”(ナンタンツ)。「堂子」は「相公」とも言い、京劇等の少年俳優や花旦(女形)の男優が、生計やパトロンを得るために行った男色行為のことを指すようである。知人の中文サイトの読解によれば、「相公」には「指男技」という指を使った男色行為という意味深長な意味もあるとし、また男娼が集まっている巣窟を「相公堂子」とも言うらしい。しかし、そこから考えるとわざわざ「男」を冠する以上、芥川が言うような有閑マダムへの男の売春行為を指すものとも思われる。内容が内容なだけに容易に人に聞けぬ。識者の御教授を願う。

・「Marquis de Sade」フランス革命期の侯爵にして作家のマルキ・ド・サド(17401814)。本名はDonatien Alphonse Francois de Sadeドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サド。因みに“Marquis”は「侯爵」の意。プロシア語“marques”が中世にフランス語化した。原義は「辺境地をまもる人」。現在は英語としても通用し、“duke”の下、“earl”の上に位置する。

・「丁抹人(デンマアクじん)」このデンマーク人は、「長江游記」の「二 溯江」に登場する、二十数年中国に居るという変人Roose「ルウズ」なる人物と同一人であろう。彼は日本への理解を示すところなど、芥川が親しんだ、かのトーマス・ジョーンズに相通ずる雰囲気を持った好人物として描かれている。

・「工部局」上海・天津などの租界の自治行政組織。1854年に成立した直後は土木建設事業権のみであったが、後に行政権や警察権をも司る機関となった。

・「エル・ドラドオ」“El Dorado”(スペイン語。本来は16世紀頃まで南米アンデス地方の原住民の言葉で「黄金の人」を意味するという)は16世紀の探検家達がアマゾン上流の奥地にあると想像した黄金郷。転じて理想郷の意にも用いる。筑摩書房版脚注は『アメリカのアーカンソー州の街の名。映画の題名でもあった』とするのだが、如何? アメリカの「エル・ドラド」は確かに西部劇にはよく登場するし、また、確かに1921年公開のフランス映画にはMarcel L'Herbier マルセル・レルビエ監督作品“Sibilla the Dancer El Dorado”があるが、この映画の「エル・ドラド」とは、アメリカの「エル・ドラド」とは無縁で、スペインはグラナダにあるフラメンコを見せる小屋の名である。ここは素直にアブナい特殊飲食店の中国語名としても「黄金郷」でいいんでないの? 時に、この筑摩の注釈者は、実はかなりの洋画ファンだったことが伺われて面白い!

・「パレルモ」“Palermo”は、イタリアの南部シチリア島北西部に位置する都市。シチリア州の州都で、中世シチリア王国の都でもあった。19世紀から20世紀にかけて、ここはヨーロッパの王侯貴族・大富豪・芸術家が集まる国際的保養地であったから、特飲店の名としてはお洒落な部類の命名と言える。

・「デル・モンテ」は恐らく“Castel del monte”であろう。カステル・デル・モンテはイタリア南部プーリア州アンドリアのサンタ・マリア・デル・モンテの近くに立つ城状の建造物。“Castel ”はイタリア語の城、“monte”は山であるから「山の城」。ウィキの「カステル・デル・モンテ」によれば、『この城は軍事上でも居城でもなく別荘または客をもてなすために使用されたと考えられている』とある。1996年にユネスコ世界遺産に指定され、また1ユーロセントの硬貨の裏面のデザインともなっている。中国名なら「山城」「山砦」「山塞」「山寨」等が考えられるが、日本語ならもう「山城」なんだろうが、中国の特飲店の中国名として招牌に書かれた字面の印象は、梁山泊みたようで、「山寨」がいいな!

・「商賣人」この場合の商売とは、売春斡旋業の意。

 

・「“Green satin, a dance, white wine and gleaming laughter, with two nodding ear-rings――these are Lotus.”」訳すならば、

 

緑のサテン――舞い――白酒(パイチュウ)、そして輝ける笑(え)みと――揺れ揺れる耳飾り――これぞ! 名にし負はばの「蓮の花」!

 

○“satin”はオランダ語の“satijn”由来で、繻子(しゅす。「朱子」とも)のこと。絹を繻子織り(縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方)にした豪華な生地で、強い光沢がある。高級チャイナドレスの素材として有名。

○最後の“Lotus”は、「白蓮」「金蓮」「紅蓮」等、中国人女性の名によくある「蓮」であるから、実際に「□○蓮」といったその名妓の名を意識したであろう。固有名詞にありがちな字体の変更からもそう考えてよい。私はそのように「ハスの花のように美麗な、文字通り、蓮という名を持った娘」という意味で訳したつもりである。

 

・「ユニイス・テイツチエンズ」Eunice Tietjensユニス・テッチエンズ(18841944)はアメリカの女流詩人。1916年に渡中、漢詩に強い影響を受けたとされる。芥川龍之介の「パステルの龍」の中に芥川による訳詩が所収する。そちらは「五 病院」注に既出済み。

・「妓ロオタス」前々注参照。]

 

 

 

       十五 南國の美人(上)

 

 上海では美人を大勢見た。見たのは如何なる因縁か、何時も小有天と云ふ酒樓だつた。此處は近年物故した淸道人(せいだうじん)李瑞淸が、贔屓にしてゐた家ださうである。「道道非常道、天天小有天」さう云ふ洒落さへあると云ふ事だから、その贔屓も一方ならず、御念が入つてゐるのに違ひない。尤もこの有名な文人は、一度に蟹を七十匹、ぺろりと平げてしまふ位、非凡な胃袋を持つてゐたさうである。

 一體上海の料理屋は、餘り居心(ゐごころ)の好(よ)いものぢやない。部屋毎の境は小有天でも無風流を極めた板壁である。その上卓子(テエブル)に並ぶ器物は、綺麗事が看板の一品香(ピンシヤン)でも、日本の洋食屋と選ぶ所はない。その外雅叙園(がじよゑん)でも、杏花樓(きようくわろう)でも、乃至(ないし)興華川菜館(こうくわせんさいくわん)でも、味覺以外の感覺は、まあ滿足させられるよりも、シヨツクを受けるやうな所ばかりである。殊に一度波多君が、雅叙園を御馳走してくれた時には、給仕に便所は何處だと訊いたら、料理場の流しへしろと云ふ。實際又其處には私よりも先に、油じみた庖丁(コツク)が一人、ちやんと先例を示してゐる。あれには少からず辟易した。

 その代り料理は日本よりも旨い。聊か通らしい顏をすれば、私の行つた上海の御茶屋は、たとへば瑞記(ずゐき)とか厚德福(こうとくふく)とか云ふ、北京の御茶屋より劣つてゐる。が、それにも關らず、東京の支那料理に此べれば、小有天なぞでも確に旨い。しかも値段の安い事は、ざつと日本の五分の一である。

 大分話が横道に外れたが、私が大勢美人を見たのは神州日報の社長余洵(よじゆん)氏と、食事を共にした時に勝るものはない。此も前に云つた通り、小有天の樓上にゐた時である。小有天は何しろ上海でも、夜は殊に賑やかな三馬路の往來に面しているから、欄干の外の車馬の響は、殆一分(ぷん)も止む事はない。樓上では勿論談笑の聲や、唄に合せる胡弓の音(おと)が、しつきりなしに湧き返つてゐる。私はさう云ふ騒ぎの中に玫瑰(まいくわい)の茶を啜りながら、余君穀民が局票(きよくへう)の上へ健筆を振ふのを眺めた時は、何だ御茶屋に來てゐると云ふより、郵便局の腰掛に上にでも、待たされてゐるやうな忙(いそがは)しさを感じた。

 局票は洋紙にうねうねと、「叫―速至三馬路大舞臺東首小有天閩菜館―座侍酒勿延」と赤刷の文字をうねらせてゐる。確か雅叙園の局票には隅に毋忘國恥と、排日の氣焰(きえん)を擧げてゐたが、此處のには幸ひそんな句は見えない。(局票とは大阪の逢ひ状のやうに、校書を呼びにやる用箋である。)余氏はその一枚の上に、私の姓を書いてから、梅逢春(ばいほうしゆん)と云ふ三字を加へた。

「これがあの林黛玉(りんたいぎよく)です。もう行年(ぎやうねん)五十八ですがね。最近二十年間の政局の祕密を知つてゐるのは、大總統の徐世昌(じよせいしよう)を除けば、この人一人とか云ふ事です。あなたが呼ぶ事にして置きますから、參考の爲に御覺なさい。」

 余氏はにやにや笑ひながら、次の局票を書き始めた。氏の日本語の達者な事は、嘗て日支兩國語の卓上演説か何かやつて、お客がの徳富蘇峰氏を感激させたとか云ふ位である。

 その内に我々――余氏と波多君と村田君と私とが食卓のまはりへ坐ると、まつさきに愛春と云ふ美人が來た。これは如何にも利巧さうな、多少日本の女學生めいた、品の好(よ)い丸顏の藝者である。なりは白い織紋(おりもん)のある、薄紫の衣裳(イイシヤン)に、やはり何か模樣の出た、青磁色(いろ)の褲子(クウヅ)だつた。髮は日本の御下げのやうに、根もとを青い紐に括つたきり、長長と後に垂らしてゐる。額に劉海(リウヘイ)(前髮(まへがみ))が下つてゐる所も、日本の少女と違はないらしい。その外(ほか)胸には翡翠(ひすゐ)の蝶、が、いづれもきらきら光つてゐる。耳には金と眞珠との耳環、手頸には金の腕時計が、いづれもきらきら光つてゐる。

 

[やぶちゃん注:

・「小有天」漢口路にあった料理店の名。同名の施設が複数、現在の漢口路にあるが、残念ながら、この料亭と直接関係があるかどうかは確認出来なかった。

・「淸道人李瑞淸」(18671920)は名書家。号して梅菴、他に黄龍硯齋、清道人(民国後の署名)。江西省臨川の出身、28歳で進士に登第し、南京両江優級師範監督及び江寧提学使の教育職を兼職、芸術教育を提唱し、多くの人材を育成した。行・草書では黄山谷の風を能くし、金石文から木簡に至るまであらゆる文字・書、更に詩画にも秀でた。辛亥革命後は上海を中心として書で生計を立てて、当代の大書家と称せられた(以上の事蹟は主に好古齋氏のHP「李瑞清」を参照した)。筑摩版脚注は未詳とし、岩波版新全集は注にさえ挙げていない。

・『「道道非常道、天天小有天」』は、「道の道、常の道に非ず、天の天、小有天」で、『人が歩むべき道の中でもまことの仁の道というものは、普通の道ではない!――天国の中のまことの天国というものは、酒楼「小有天」!』といった感じか。試みに、単純に辞書を引き引き中国音に直して見ると、“dàodào fēichángdào, tiāntiān xiăoyŏtiān”(タオタオ フェイチォアンタオ、ティエンティエン シィアオヨティエン)中国語の分からぬ私でも発音してみたくなる小気味良い響きではないか。

・「一品香(イイピンシヤン)」“yīpĭnxiāng”。これは恐らく福州路にあった料理店であろう。ここは清末に出来た中国初の西洋料理レストランであった。

・「波多君」は「五 病院」に登場する「上海東方通信社の波多博」のこと。同注参照。

・「雅叙園」上海にあった料理店の名。少なくとも後の日本の雅叙園とは全く関係がない。ある中文の記載から1909年には既にあったものと思われる。

・「杏花樓」現在も上海市黄浦区福州路(旧四馬路)にある1851年創業の上海・広東料理の老舗。

・「興華川菜館」現存しない料理店と思われる。ネット検索では引っ掛かってこない。

・「瑞記」これは北京であるが、現存しない料理店と思われる。やはり、ネット検索では引っ掛かってこない。

・「厚德福」現在も北京市西城区徳勝門内大街、所謂、かつての遊廓域であった大柵欄の西側に「厚德福酒樓」として現存する、清末の1902年開店になる河南料理の老舗である。

・「神州日報」1907年に上海で于右任(次注参照)が創設した日刊新聞社。間違ってはいけないのはこの「神州」で、これは中国の別称なのである。

・「余洵」は「右任」(ゆうじん)の誤りではなかろうか。于右任 Yú Yòurèn ユー ヨウレン 18791964 和訓では「うゆうじん」又は「うゆうにん」)は清末から中華民国にかけての文士・書家にして政治家・軍人・実業家。中国同盟会以来の古参の革命派であり、国民政府の監察院院長として知られる。「神州日報」を創刊し社長となった。若き日には日本に留学しており、後述される「徳富蘇峰氏を感激させた」話とも合致する。「穀民」という号など一致する資料を見出せないが、「右任」の音「ゆうじん」は「ゆじゅん」と極めて発音が近くはないか? 但し、ウィキの「于右任」の記載には、『1912年(民国元年)1月、南京で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、宋教仁が暗殺されると、袁世凱打倒のために、二次革命(第二革命)などに参与した。護法運動開始後の1918年(民国7年)、故郷に戻り、胡景翼と共に陝西靖国軍を組織して、于右任が総司令となった』とし、直後に『1922年(民国11年)5月、上海に遷り、葉楚傖と共に国立上海大学を創設し、于右任が校長となった』という記載がある。この文脈から言うと、1921年当時、于右任は上海ではなく、出身地の陝西省三原県にいたことになる。しかし、「神州日報」の社長で在り続けたとすれば、芥川の上海滞在時に、彼と上海で逢ったとしても、決して不自然ではない。識者の御教授を乞うものである。

・「玫瑰」諸注は本邦にも分布するバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaとするが、誤りである。Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。ハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば(実際に「江南游記」の「五 杭州の一夜(下)」では、「玫瑰(メイクイ)」とルビを振る)、これは一般的な中国語としてバラを総称する語である。従って、ここに注するとすれば「ハマナス」ではなく「バラ」とすべきである。但し、それは芥川が「玫瑰」と記して不自然に感じない程度には、ハマナスRosa rugosaに似ていたということではあろう。

・「余君穀民」「余洵」なる人物の号である(前注参照)。于右任の号、神州旧主・騒心・大風・剥果・太平老人などには近似したものはない。

・「局票」当時の中国で、妓を呼び出すために妓楼に差し出す名札。

・『「叫―速至三馬路大舞臺東首小有天閩菜館―座侍酒勿延」』は敢えて訓ずるなら、

□○○(:ここに妓の名を記す。)を叫(よ)ぶ。速やかに三馬路大舞臺東首小有天閩菜館「(びんさいくわん)××(:ここに茶屋の室名・番号を記す。)座に至り、酒に侍せ。延すること勿かれ。」

で、訳せば、

「妓「□○○」を呼ぶ。直ちに三馬路・大舞臺の東端の「小有天閩菜館」の「××」座に参り、その酒席に侍せ。遅れるな!」

という感じか(「閩」は福建地方の古称であるから、「閩菜館」で福建料理店の意である)で、これが局票のお定まりの書式なのであろう。

・「毋忘國恥」は、「國恥忘るること毋(なか)れ」。

・「大阪の逢ひ状」「差し紙」とも言う。京阪の遊郭で、他の客席に出ている芸妓に対して馴染み客が「その席をはずして自分の方へ来い」招くための札。一般には半紙の四つ切りにしたものの上部を紅く染め(「天紅」と言う)、「誰々様ゆへ千代(ちよい)とにてもおこしの程待入り参らせ候かしく」等と記し、差出人の客の居る茶屋と妓の名を記したもの。以下の辞典頁の「逢い状」の項の記載を参照したが、そこには『これはわが国だけでなく、大正年間に上海でも見たことがある』とある。現在でも、芸者衆が見番から受ける「お出先」へのシフトを記した伝票を「逢い状」と呼んでいるらしい(「花柳界豆事典」の「逢い状」の項による)。

・「校書」 芸妓のこと。本来は典籍の蒐集や校勘を行うこと、その役職(校書郎)を指す語であるが、中唐の詩人元稹(げんしん 779831)が、蜀に使者として赴いた際に接待をした妓女薛濤(せっとう 768831)の文才を認めて校書郎に任じたとする「唐才子伝」に載るの故事から、芸妓の呼称となった。この薛濤は中国・唐代の伎女・詩人。晩唐の魚玄機(843868 生没年異説多し)とともに名妓・女流詩人の双璧とされる。

・「梅逢春」/「林黛玉」は、本名「梅逢春」、芸名を「林黛玉」と言った清末の女優(生没年探索し得ず)。この当時は、以下の本文意にある通り、別格の芸妓として生計を立てていたらしい。筑摩版全集類聚脚注によれば、『清末、女性だけの一座が上海群仙茶園によった時の名優』とあり、新全集の神田由美子氏の注解では、更に補足して『「拾玉鐲」「紡棉花」「遺翠花」等の演目を得意とし、長江一帯に名声が高かった』と記す。この「茶園」というのは茶畑ではない。客同士が会話や軽食も可能なテーブルや椅子を配置した中国様式の劇場のことである。また外題の「拾玉鐲」は「しゅうぎょくたく」と読むかと思われる。「鐲」は腕輪のこと。孫玉姣という美少女を主人公とした恋愛喜劇である。因みにこの「林黛玉」という芸名は、本来は清朝中期に書かれた女性を中心に据えた恋愛白話小説である曹雪芹の「紅楼夢」の登場人物の名で、主人公賈宝玉に次ぐ第二ヒロインでもある。作品中の十二人美少女、金陵十二釵の一人で、感受性豊かな薄幸の才女として描かれる細腰の美人である。加藤徹氏の「芥川龍之介が見た京劇」の中の「芥川を驚嘆させた京劇女優――林黛玉(三)」では、この後、彼女は『積年のアヘン吸引がたたり、翌二二年冬、寝たきりの状態となった。そして二四年五月、苦痛にのたうちまわりながら死んだ。』と記し、現代中国では『清末民初の京劇女優については、その「妓戯兼営」という性格上、京劇史研究における扱いも冷淡である』という一代の名女優の悲劇を語っておられる。

・「大總統の徐世昌」徐世昌(Xú Shìchāng ション シーリン 18551939)は清末から中華民国初期の政治家・学者・実業家で、中華民国第4代総統。清朝では1911