.

2002 セネガル研修(高校教師海外研修)ミニ報告
                  

人口200万の大都市ダカール〜すごい大都会〜

 セネガルはアフリカ大陸の中で一番西に位置する。1人あたりの国民所得は500ドル(日本は32,030ドル)。年間の国家予算は1780億円で東京の世田谷区の予算とほぼ同規模である。
首都ダカールはベルデ岬の上に位置する人口約200万の港湾都市で1902年にフランス領西アフリカの首都となってから中心地として発展してきた。
日本を出て約30時間、約1万8千キロの旅。
2002年8月1日夜、薄暗い空港にやっとたどり着いた。時差ぼけと疲れとハマダラ蚊の恐怖でホテルに着くなり、ベッドに直行してしまった。
翌朝、窓から街を見るとびっくり。街並みはフランスのマルセイユを思わせ美しく、人と車がなんと多いこと。すごい大都会ではないか。アフリカと聞いて砂漠、草原などという勝手な思い込みで想像していた自分が恥ずかしい。そう言えば日本でも関西に行って北海道から来たと言うとそこら中に熊がいると信じている人がいるくらいだから、情報が少なければ勝手な思い込みでイメージを作ってしまうものである。
初日、JICAの小西所長が「ここでは頭の中を空っぽにして、あるがままを受け入れることが大切です。」と挨拶の中で話していた。なるほど、忘れていた。この言葉は相手を理解することの出発点である。自分の価値観でものごとを見るのではなく、相手を受け入れることから始めなければ真の理解はできないのである。
もともと空っぽに近い頭だが、完全に空にしてセネガルの1日目が始まった。


ダカール市街

アフリカ音楽を満喫

.

生命の樹 バオバブ

 サン・テグジュベリが書いた童話「星の王子さま」に登場するバオバブの木。8月4日ダカールから南のサリーへ移動した。移動の途中、車窓から見えるバオバブの木々がアフリカに来たということを実感させる。8月5日ゲホ村を訪問した。そこで乾燥した大地の中でバオバブの木がいかに貴重な存在であるかがわかった。村人にとってバオバブの木は霊が宿る神聖な存在である。子どもたちは午後2時と7時頃、上から霊が下りてくるのでこの木の下で遊んではいけない。また、神聖なものであるゆえ、専門の者でなければ、この木を切ることはできない。樹皮はロープや篭に編まれ、牛の首輪などに使い、樹液は糊として利用されている。枝は燃料に、灰は肥料に使う。葉は食用となり、料理にも使われている。植物が育たない乾季にはこの葉は、牛のえさになる。12月から1月につく実はジュースにもなる。このバオバブジュースを飲むと底から力がみなぎってくるような気がするまさに万能の樹である。村人にとって命の源である樹なのである。


バオバブの木

バオバブジュース

.

心の垣根を乗りこえて〜同じ目線からの出発〜

 セネガルの主な種族は、全人口の40%がウォロフ族で北部や都市部に住んでいる。次に多いのは18%のセレ−ル族で中西部に住んで農業や漁業に従事している。その他はセネガル川流域に住むトゥクルール族や全土に広く分布するプール族などである。プール族は牛などの放牧を行う遊牧民である。
ゲホ村はセレ−ル族とプール族が住む20家族100人ほどの村である。
昼食後、木陰に村人が集まってきた。この地では木陰でおしゃべりをしたり、昼寝をしたりする光景を見かけるがその理由がよくわかった。昼間の日差しは強く、動くと汗がたらたらと落ちてくる。このような強い日差しの中では、木陰で休むのが一番なのである。同じ木の下で休んでいるのだが、村の人とはどことなく距離感があった。
そんな中、2人の子どもを持つ17歳のアイサさんが、周りの手拍子の中、踊り始めた。そして、私たちに向かって一緒に踊ろうと手招きしてくれた。ここで立ち上がったのが渡辺さんである。身体が大きい上に踊りがダイナミックである。村の人たちは大喜び。続いて我らが3班の班長アミーゴ小林さんも踊り始めた。結局、全員が何回も踊ることになった。僕は自分ではキューバリズムのつもりでいたのだが、加藤茶のヒゲダンスのようだったらしい。この踊りの後、急速に村人と僕たちとの距離が縮ま

った。終わった後の親近感が全然違うのである。同じ目線に立てた気がするのである。いつの間にか子どもたちも絵の上手な関根さんや空手の真似をする小野さんのまわりにどっと群がっている。アミーゴ小林班長やダンスNo1の渡辺さんの周りにも人の群れ。
セネガルの女性はとにかくおしゃれである。そして、よく、歯
ブラシのような木を仕事場や歩きながらと至るところでくわえている。この木で歯を磨くのである。この木もさまざまな種類があるらしい。このおしゃれは都会や地方に関係なくセネガルの女性の特徴であるらしい。
村の女性たちから僕は質問を浴びせられた。僕の歯についている器具は何なのか。何でそんなものをつけているのか。ということである。僕
は20年前に出会った歯医者が悪く、右の奥歯を3本も抜かれてしまい、その後義歯を入れることもせず、ほったらかしにしていたのでアゴがずれてしまい、そのことが原因で腰痛や肩こりとなってしまったのである。思い余って昨年から歯の矯正をし始めた。このことを細かく説明した。すっかり村の女性から同情されてしまった。美容で矯正する女性もいることを話したが、歯のきれいなセネガル女性には関係のない話である。
この日のことは、一人ひとりの心の中にしっかりと刻まれたに違いないと思う。

.

輝いている人ってどんな人〜協力隊員からエネルギーをもらう〜

 8月6日ファティックに行き、海外青年協力隊員の活動を見る日である。セネガルでは協力隊員が46名、このファティック州では現在16名が配置されている。今回、会って話を聞けたのは稲作の跡部里香さん、野菜づくりの田中佐知子さん、このファティック州に配置されている隊員の調整をしている近藤直さんの3人であった。協力隊員については今回のセネガル研修に同行された塩谷さんから詳しく話を聞いていたので仕事の内容についてはある程度理解していた。


稲の苗を育てる跡部さん
彼らと出会って思ったことは、皆、目がとても輝いているということ。どうしてこう輝いているのだろうか。彼らは自分では何かの見返りを期待して働いているのではなく、むしろ自分の成長のため、変われる自分のために打ち込んでいるのではないだろうか。自分のしたことで相手が喜んでくれる、その感動を共有できることが幸せにつながり、生きている実感を抱いていることが輝きにつながっていると思う。跡部さんが協力隊の活動に興味を持つようになったのは、高校時代に色んな国で働いている医者の講演を聞いたのがきっかけであったと話していた。その時のことが大学4年になってふっと蘇ってきて協力隊に応募したとのことである。
授業であるいは学級の場でもっと多くの人に来てもらい、子どもたちに学校外の多くの人たちとつながれるよう教師は手助けしてあげる存在なのだということをこの話から再認識した。また、そうするエネルギーを彼女からもらった。
JICAの小西所長から協力隊などに参加したい人に対する3つのアドバイスをもらった。1つ目は自己管理ができること。2つ目は人を大切にすること。異文化に触れたときいかに相手を尊重できるかである。気持ちのゆとりがなければできない。3つ目は人と接することが好きだということ。そういう人はどんどん輪が広がり、良い仕事ができる。

.

旅行の目的は達成されたか

  研修旅行の目的は2つある。
1つ目の目的は研修の成果を授業にすることである。地理でアフリカのサヘルにおける農業についての授業を行おうと思っている。フランスが換金作物として落花生を持ちこんだ。以前、落花生は油として大変儲かった。この落花生畑が自給していたミレットの畑をつぶしてく。そこでミレットに変わる主食を支えるものとしてインドシナからくず米を輸入することになる。落花生畑の拡大は牛ややぎの放牧地の面積を縮めることに。その結果、以前より狭い土地で過耕作、過放牧がおこなわれ、そのことが土地の荒廃につながっていく。この関係を気候と農業とからめ環境問題は人為的問題が大きいことを授業として構築したい。また、アフリカの自給的農業について乾季と雨季にどのような作物を育てているのかについても取り上げたい。


ミレットの畑

ベトナムからの輸入米


2つ目は1991年から北海道旭川市で「私たちの身のまわりの環境地図作品展」を行っている。募集対象の地域限定はないので毎年、世界の国々からも応募が寄せられている。今回、セネガルとのつながりが持てればと思っていた。幸いにも教育省教育計画・改革局で教育関係者との懇談会が開かれた。会終了後、担当者の1人と協力要請した所、快諾を得た。また、通訳で同行してくれたマダム・ゲイさんも協力してくれることになった。これからが始まりである。来年あたりに作品が出品され、セネガルとの交流が始まれば、今回の旅行は大きな意義があったと言えよう。


地図展のポスターで説明

.

ハマダラカの恐怖

 日本での事前説明会で初めてセネガルが、マラリア感染のリスクが高い地域であることを知った。特に7月から10月の雨季が最も危ないとされる。僕らが行くのはまさに危険な時期。とにかく日頃から蚊に刺されやすい体質なのでこのことを知ってから不安でいっぱい。事前の注意では、蚊取線香や防虫スプレーを使うこと、長袖の着用をすすめられただけ。
現地に到着してからさっそくJICAセネガル事務所で医療調整員からマラリアについての説明があった。予防薬を買おうかと迷ったのだが、副作用がありそうだし、帰国後4週間も飲みつづけなければならないのでやめた。それから帰国までは細心の注意をはらい、防虫スプレーや蚊よけキーホルダーをたえず携帯し、お酒を飲んだら刺されやすくなるのでできるだけ飲まないように我慢した。それなのに最終日、ダカール空港で一瞬の隙に首を刺されてしまった。どうもハマダラ蚊に似ている。やばい!成田に着いて、いつもなら何も申告せず、通過していた検疫で「ハマダラ蚊に刺されたかもしれないので検査して下さい。」と若い医者に言った。「何も症状でていないのなら大丈夫」と言われた。ここでわからなかったら地元では絶対にマラリアなんてわからないし、ワクチンだってないぞ。と思いながらそのまま自宅に戻った。
それにしても今年の北海道之夏は涼しい。3日後、突然の熱。やばい。そうマラリアかも。風邪の症状がでたらマラリアと思えと何度も言われた。ビール飲まずに良い子でいたのに、海水パンツわざわざ持っていったのに泳ぐのを我慢したのは何だったのか。さっそく、札幌の専門医に電話。症状を言ったら風邪と言われ、安心。

■マラリア原虫を持ったハマダラ蚊に刺されるとマラリア原虫が体内に侵入し、5日〜1週間後に発熱、頭痛、寒気、腹痛、吐き気、筋肉痛などが始まります。24時間以上の発熱が続いたら、マラリアを疑うこと。予防対策はハマダラ蚊に刺されないこと、予防薬(サバリン)を服用することも1つの方法。帰国後、症状が風邪のような時はマラリアを疑い、病院受診時は「マラリアかも知れない」と医師に伝えること。


ハマダラ蚊

イエカ・ヤブカ


予防薬のサバリン

.

ゴレ島から大西洋に向かって

 アフリカの奴隷たちの悲惨な運命を描写したアレックス・ヘイリー著「ルーツ」がベストセラーになったが、僕はテレビでこの映画を見た。ガンビアで白人に捕らえられ、背中に焼印を捺された奴隷としてアメリカ大陸の土を踏むクンタ・キンテと子孫の物語である。同じ世代のほとんどの人はクンタ・キンテを知っていると思う。
ダカールの東方4kmの海上にゴレ島がある。現在、ユネスコの世界文化遺産となっている。この島は1444年にポルトガル人の手により調査され、イギリス、オランダの支配を経て、1677年フランス領となった。フランスにおいて奴隷売買が中止になったのは1815年、奴隷制度廃止になったのは1848年。それまでに多数の奴隷が、この島の収容所を経由した。奴隷運搬船にとって、ここは大西洋航海の最後の停泊地だったのである。1780年に建てられ、奴隷集積所として使われた「奴隷の家」を見学した。多くの人たちの悲鳴が聞こえるような気がした。奴隷商人によって捕らえられた人々は、ここから新大陸への長い航海に旅立っていった。ここから家族バラバラになって運ばれていく人たちは、どんな思いでこの海を見ていたのだろうか。


ゴレ島

この扉から大西洋へ

■奴隷商人はヨーロッパの安価な製品を積んで、アフリカ西海岸、特にギニア湾岸の地域にかけて奴隷を買い付けに行き、部族の首長を介して商品と交換する。奴隷船で大西洋をこえて、奴隷達は西インド諸島、ブラジル、現在のアメリカ合衆国の南部地方に売られ、奴隷商人は砂糖やコーヒーなどの熱帯産物をたくさん買って ヨーロッパに持って帰った。これが三角貿易。15〜19世紀にかけてアフリカから新大陸に運ばれた黒人奴隷の数は4000万人前後と推定されている。


黒人奴隷は
西アフリカから新大陸へ

.

イスラム教と落花生

 19世紀アフリカは人狩り場から、ヨーロッパの食糧、原料供給地として植民地化が始まる。アフリカの領土分割は1884年からのベルリン会議で確立した。この分割によって、それまでの共同体をつなぐ王国、言語、宗教、部族を無視した枠組みが出来上がった。産業革命による工業化で油が必要になったヨーロッパは、西アフリカでは乾燥した気候に適した落花生を栽培した。自給自足と物々交換を中心に生きてきた農民たちの世界に換金作物が入り、貧富の差が生まれ、社会は混乱が生じた。このような中、人々はイスラムに救いを求めた。これ以後、イスラム教が人々に浸透していくのである。現在、セネガルの人口の92%がイスラム教徒である。イスラム教徒は4つの信徒団に分かれている。こういった教団はマラブーとよばれる宗教的リーダーのもとにまとまっている。教団は落花生の生産をおこない、国からの規制も受けず、大きな力を持っている。
8月8日、ダカールの森林局の訪問で専門家の野田直人さんと島田早苗さんに出会った。野田さんは、専門家としての経験が豊富で、築地書館「開発フィールドワーカー」などの著書も多い。今回、野田さんとの話で一番印象に残ったのは、サヘル地域の砂漠化に関してだ。サヘル地域は砂漠化防止のため緑化への挑戦が行われている。セネガルでは日本の無償資金協力により、苗木育成に取り組んでいる。しかし、単純に砂漠化防止のため植林すればいいと言えない状況がある。イスラム教団の存在である。教団は、落花生の栽培のため、政府に圧力をかけ、遊牧民の土地をもらう。一方、土地を失った遊牧民は狭い所に住むため、家畜は草木を食べつくし、人はわずかばかりの樹木を薪として伐採する。また、もともと質の悪い土壌を酷使するため土壌を不毛化してしまう。このことにより砂漠化に拍車がかけられる。現実的な社会問題まで見据えた上でどのような協力をすればいいのかを考えていかなければならないということがわかった。
 島田さんは、ODAの現場では、人的資源が不足している。言葉が堪能で、シリアスでおだやかな交渉ができる人が少ない。これからの教育では国際協力で何かできる人的資源を育てることが大切である。と話してくれた。

■砂漠化とは最終的に土地が砂漠のような状態になってしまうこと。アラビア語でサヘルは「岸辺」、サハラは「荒れ果てた土地」を意味する。サハラが砂と岩の海のようにみなされ、その海に面して人が住むことができる「岸辺」のようにみなされているからである。サヘルの年間降水量は少ない所で2〜300ミリ、多いところで7〜800ミリ。砂漠化は自然的と人為的原因から生じる。人為的原因として過放牧、過伐採、過耕作があげられる。

.

旅を終えて・・・

 今回の研修はたくさんのことを発見できた旅であった。同行のJICA職員が経験豊富な2人であったことがラッキーだった。二本松青年海外協力隊訓練所の塩谷正毅さんと緊急援助隊の笹館孝一さんである。塩谷さんとは事前研修の時から農業に関していろいろと教えていただいたのでより深い研修ができた。笹館さんからは、アフリカの抱える問題や現地で自分たちがどのような行動をとればいいのかなど教えていただいた。また、現地のJICAスタッフである内島光孝さんには研修の目的が達成できるよう配慮していただいた。内島さんは、僕が勤務する高校の同僚の大学でのクラブの後輩に当たる。事前に聞いていたのだが、すっかり忘れてしまい、ゴレ島の食堂で向いに座った時に急に思い出した。また、保健人材開発促進計画プロジェクトで専門家の長堀智香子さんは、僕の勤務する滝川高校の卒業生だった。遠い地で関わりのある人に出会うのはうれしいものだ。
今回の経験は、自分のこれからの生き方を考える上でとても貴重であった。本当に行って良かったと思っている。このような機会を与えてくれたJICAに感謝するし、多くの人にぜひ、ODAモニターや教師派遣に参加し、多くの発見や出会いをしてほしい。


ゲホ村で子ども達と一緒に

-------------------------------------------------------------

JICAのホームページでもレポートの報告が見られます

帰国後レポート(セネガル)

北海道から一緒に行った先生の報告です

北海道国際センター(セネガル)
 

-------------------------------------------------------------

■参考

「アフリカ21世紀 内戦・越境・隔離の果てに」NHK出版
「開発フィールドワーカー」野田直人著 築地書館
「地球を旅する地理の本・西アジア・アフリカ」岩淵孝著 大月書店
「地球再発見2 北アフリカ・アラビア半島」同朋社
「Green Map 世界編」 東京書籍

国際協力事業団セネガル
Developing World 国際協力・地域開発のメーリングリスト
ママドゥ・ローのページ
星の王子さまホームページ
マラリア情報
セネガルの音楽

■セネガルの地図が見られる海外のサイト
http://www.medteams.com/Maps/Africa_Maps.HTMLs/Senegal.html
http://www.allafricatravel.com/Images/atlas/senegal.htm
http://users.mildura.net.au/users/mjackson/Maps.htm
http://www.worldatlas.com/webimage/countrys/africa/sn.htm
http://www.infoplease.com/atlas/country/senegal.html

Home

.

.

.

.

.