富士登山顛末記録 

緑のザック この山行記録は今から五年ほど前に「富士山」を登頂した時の記録です。
それまでぽつりぽつりと近在の山をハイキング程度に登ってはいたのですが3000m級の 山は初めてのことでした。私が初めて認めた山行記録ともいうべきものになります。 本来であれば、もっと精緻なデータをメモしておかねばならなかったのですが、 その時はそういう余裕などありませんでした。
行った!登った!下山した! の躍動感が多少とも伝わればと思います。

【日 付】 1996年08月14日〜17日


今年こそ富士に登らねばならぬ!
富士登山は昨年も企画し、準備万端整えていたのだが台風13号のおかげでオジャンになった経緯がある。 今年こそはと!願っていた。富士山、、その名前の由来、歴史について改めて語るまでもない。海抜3776M、 これより高い山はこのこの国にはない。

8/14午後7時に自宅を出る。直前まで天気予報をチェック。多分、台風は登山時刻にはあっちの方へ去る、風の影響は残っているだろうが次第に良くなる!との確信を持つ。山小屋へ電話。気候の専門家の意見を仰ぐ。[多分、大丈夫]との嬉しい返事。14日は登山全面禁止になっていた。京都の友人へ連絡したところ、既に京都を発ち名古屋付近を北上していた。気の早いやっちゃで。台風通過の最中にあるらしく半端ではない様子だった。三保の松原で仮眠を取るとのこと。ワゴンタイプの車なので布団持ち込みが出来るからまだ良い。こちらは高級乗用車?なのでシートを倒しての仮眠ということになる。私は富士宮駅まで今夜中にたどり着けばいい。いずれにしても15日早朝には現地で再会できる。

練馬ICで渋滞に巻き込まれる。いつもここはこうなのだ。環状8号は快調に流れていた。
荻窪の開かずの踏切も解消していた。東名高速に乗ったのが9時近く。ここから100キロで富士IC.。御殿場あたりから台風の影響を受ける。バケツで水を浴びせかけられるような雨の襲来に出会う。PAに避難して様子を見ることにした。おしっこと、水分の補給を行う。治まったのを見計らって出発する。鈴木雅之のCDを聴きながら快調に御殿場を抜ける。道が右、左に分岐しているので[なんじゃこれは?]と一瞬首を捻る。渋滞解消の苦肉の策らしい。そういえば、ここもいつも込む。11時、富士ICに到着する。そこから富士宮まで30分。11時半、富士宮駅に到着する。雨、風の勢いは一向に衰える気配を見せなかったが、明日の事を考え早々に寝ることにした。後部座席へ移動し、シーツカバーを頭から被り、、、、足を九の字に曲げ、、。

気がついたら朝の8時だった。曇天の空、やはり予想は的中し天候回復の傾向にあった。
8時半、友人が月光仮面みたいに颯爽と現れた。5年ぶりの再会。全体に頭髪が薄くなり、前頭葉の髪が風にたなびいていた。五木寛之[風にふかれて]を思い出した。[内容はちっとも思い出せなかったが。]
15日10時、洗面食事、食料、水の補給を済ませ、富士山麓にある西臼塚駐車場まで移動する。交通規制が敷かれていて新5合目までは自動車通行不可との事。往復1700円を支払ってシャトルバス[超満員]に乗る事40分、新5合目に到着する。標高2400M。ここから3776Mの頂上を目指す。標高差1373Mを一歩一歩踏みしめなくては頂上へは辿りついけない。雲たなびく富士山麓を仰ぎ見て思わず歓声をあげた。[ぎゃあ、あれを登るんかあ?]45度もあるかと思われる傾斜が眼前に迫り、私としては溜息を一斗もつきたくなる心境だった。止めるなら今の内だと、悪魔の囁きが聞こえた。

 ◆  ◆  ◆

いよいよ登り始めるの事
高度計と気圧計をリセット、最後の調整を終えて、ようやく一歩を踏み出した[10:45]今日は9合目まで登坂予定。時間はたっぷりある。予想はしていたが小砂利の登山道の連続。どこの山にも見られる植物群がまったくといっていいほど見あたらない。地球規模の時間単位の長さの中では火山活動の余韻がなまなましく残っているという事だろう。[西暦1707年噴火から300年しか経過していない]登山道としてはおよそ情緒というものが感じられない。ただひたすら赤茶けた小砂利群の傾斜を登るだけという単調なもの。富士山が一般の山と大きく異なる点は、まず登山客の多彩さにある。老若男女を問わず、登山する姿に圧倒された。犬もいた。その多くはピクニックの格好の域を出ない人ばかり。登山道には数珠で繋いだように人が並び、これまた数珠で繋いだように下山する人々が並んでいた。そのほとんどが金剛杖を持参し、焼印の刻印が棒には刻まれていた。南北アルプスとかその他の山ではこうはいかない。出会えば[こんにちは]の会話がまったくないのだ。あまりに人が多すぎて。登り優先などというマナーはあってないようなもの。我々もその人並みにあっという間に埋もれてしまっていた。昨日からの移動で充分に睡眠が取れていなかったのか、3776Mという高さのせいか、足どりがやけに重たい。
[山]という概念を越えて、選れて国民的な[山]なのだと納得した。富士山は眺める山であって登る山ではないのだという事に最初の数分で気がついた。砂利道だらけの傾斜をただ登るだけの登山がどれほど味気ないものか。

 ◆  ◆  ◆

6合目到着
新6合目[2490M]到着11時。賑やかな茶屋が在り自動販売機が整然と並んでいた。いつもなら110円のモノが250円とある。[ちなみに頂上では350円]カキ氷まであった。いやはや商魂逞しい。ザックと靴の調製をして6合目[2600M]を目指す。所要時間は20分とあるが40分を想定した。一歩一歩周りの景色を楽しみながら登る。赤茶けた宝永山の噴火跡を右に見ながら牛歩ではなく、まさしく亀に近い歩きをした。曇天の雲の切れ間に、東に伊豆半島の全貌を見、遠くに駿河湾を望むことができた。台風の余波で強風が稜線づたいに吹き荒れていた。細かな砂塵が舞い、口中に入ってくる。ここが標高2500Mの高さにあることを実感した。それもそのはず、既に尾瀬・至仏山は2228Mを越えているのだった。風の冷たさも半端ではない。標高を稼ぐ度に周囲の景色も変貌してくる。流石に高い。既に雲は眼下にあった。

6合目到着。ここで食事を取る。みそ汁1杯350円取られた。[山ではすべてが高いのだ。しかも高さに比例して?]金剛杖に焼印をして貰う人が並んである。一焼[200円]もするのには驚いた。 13時に出発。新7合目-7合目-8合目と亀の歩みを続けた。強風を避けて岩場でビバークする事、2度に及ぶ。

8合目で今日の日程の目処がついたのでバーナーを出して水を沸かす。冷えた体に熱いコーヒーを流し込む。16時だった。ひとりのおばさんがうらやましそうに私たちを見る視線に気がついたので[コーヒーさしあげましょうか]と申し出たらモノ凄く喜んでくれた。おとうさん、息子まで現れた。このおばさんと夜、山小屋でしかも同じ部屋で同衾[どうきん]することになろうとは夢思わなかった。

 ◆  ◆  ◆

9合目山小屋に到着のこと
9合目到着は5時。今日の日程つつがなく完了。ザックをほどき靴を脱ぎ、カメラを出して外に出た。既に日暮れの様相を帯びていた。記念写真を取り周囲の風景をカメラに納めた。[PENTAX MX/16年間使っている代物。]小屋に戻って見ると、さきほどコーヒーを進呈した家族が部屋でがちゃがちゃやっている。我々の姿を認めると[歓声]をあげてくれた。袖ふれあうも多少の縁というところ。枕を5人並べてゴザ寝する空間だけ。昔ながらの便所の10wくらいの明るさの中でザックをひもとき、着替えを行う。布団は湿っており黴びくさく、快適とはとても言えない。カレーライスの夕食を済ませ、おばさん家族と談笑する。息子さんは大学院生で数学の研究をしているとか。講師の口がなく苦慮しているとのこと。おとうさんはどうやら社長さんらしく、このしっかりしたおばさんは金庫番らしいことが判った。

9時の消灯前に完全防備の格好で外に出る。
満天の星々が夜空を埋め尽くしていた。標高3400Mから眺める夜景、星空パノラマ空間のすばらしさは圧巻だった。流れ星がひとすじふたすじ流れる時間、寒さに震えながら夜空を仰いだ。あれが天の河、あれが白鳥座、、、、、、等。首が痛くなるまで、、。

今日の登山、名も知らぬ星々を仰ぐだけで充分に満たされたと思った。明日は[ご来光]3時の起床。わずかに寝返りを打てる空間で眠りに就いた。否応なしに寝なくてはならない。友人が体の変調を訴え始めた。頭が痛いというのだ。予想していたのだが、どうやら高山病らしい。そういえば私も体の調子がおかしい。高度3400M、私も彼も初めて経験する高さだった。脈拍が早くなり体温も高くなっている。眠りたくとも眠れない。いったいどうなることかと不安になった。

為す術もなく、まんじりともせずに夜明けを迎えた。4時の時を告げる小屋番の声。「天気いいよお!」あらかじめ準備していたものを全部着込み、友人を励まし[ご来光]を見に外に出る。本来なら頂上で見るものを9合目で見ることになる。高山病のお陰である。
3時に起床した連中は既に頂上を目指し到達している頃。我々は小屋から10分ほど歩いた稜線に出て、寒さに震えながら日の出を待つことになった。
4時43分、何と雲海の間の一点が赤々と光り始めた。 太陽である。雲の上から顔を出すものとばかり思っていたので、いささか意表を突かれた。僅かに赤い明滅を放って雲の間に姿を隠した。1.2分後になると今度は雲海の上辺あたりが金色に輝きだした。本当の[ご来光]である。金色の帯が燦然と輝きを放つと同時に先ほどの赤い輝きとは違う太陽が、まばゆい光を装って登場した。[わー]とあがる歓声の渦。記念写真を取る人、合掌する人、私はというと写真を取ることを忘れて、ただ太陽が登る姿を見ていた。この目にしっかり焼き付けておけば充分と思ったのだろう。台風一過の空に、太陽が輝いた姿を記憶すればそれでいい。

[ご来光] を見、小屋に戻ってみると既に朝食の配布が始まっていた。盛りきりの冷えた焼きめし弁当である。体調が悪いので食欲はなかったが無理をして食べる。固いご飯だった。バーナーで湯を沸かしスープ併用でようやく食事を終える。依然として頭は痛いし体温も高い。友人の目も半ば死んでいた。頂上を目指す準備をしたが[こりゃ、あかん]というので再び布団を被る。再び目覚めたのは8時。相変わらず調子は良くない。私、友人が頂上アタックを断念する言葉をそれぞれに吐いた。そういいながら、それなら何の為にここまできたのかという思いが交錯する。
[一歩、一歩行くしかないよ、行こうや!] 身支度を整えて小屋を出るまで迷いが続いた。小屋を出てすぐそこに見える頂上を仰いだ時にようやく[よし、行こう!]と決めたのだった。決めれば何事も安易に動く。足は思いのほかに上がり確実に標高を刻むではないか。友人も顔面蒼白になりながらも先頭を歩んでいる。何度か休みながらも1時間後、我々は頂上に立った。[1996/8/16/AM10"15]小学生にシャッターを切って貰い[富士は日本一の山]の看板の前で記念写真を撮った。思わず握手したことはいうまでもない。
頂上で郵便はがきを購入し、スタンプを押した。日付を入れてくれるよう頼んだが[投函日付]しかいれる事ができないという。やむなく[スタンプ]で対処。富士山頂の測候所が本当の頂上なので、そこまで行く。バーナーを炊き、コーヒーで乾杯した。 何を語ることがあるだろうか。

 ◆  ◆  ◆

下山の事
11時下山開始。それぞれの合目の小屋では短い休息で済ませ、矢のように下山した。直下1300Mの標高差を一気に詰める。8合目から植物の姿が目に入る。高山病が嘘のように回復してゆく。7合目に診療所があり医者が常駐しているとの事。してみると7合目から8合目あたりが[標高3100から3400あたりが高山病にかかるかどうかの境目ということ]ヤマだった?
7合目からは頭は回復してきたのだが、それにつれて膝が笑うようになった。ひたすらの下山は、足にくる!新5合目到着2時10分だった。最後は登山してくる人たちの速度より遅くなっていた。登り初めの速度と終わりの速度が一緒というのは、いかにこの富士山がきつかったかを証明しているとはいえまいか。疲労困憊の余り、自宅に下山の電話をしようと思ったのだが、肝心の電話番号を思い出せなかった事を付記して、この短い顛末記録を終わりとしたい。

 ◆  ◆  ◆

後記、2001.05.26
これ以降、いろんな山に登るようになりました。 この友人と連れ立って、その年の秋に北アルプス島々谷を遡り徳本峠を越えました。 どうやらその前後から「登山」を本格的に指向する生活を始めたようです。
文責: 青島原人


山の手帖のリストに戻る