2006 ライブ日記(2)
 

 
 
5月29日(月)定例 20 「ダニエル物語」
 聴衆1。晴れ。はじめる前、グレゴリオ聖歌を歌い終わるころから、あたまがくらくらして目が廻りそう。気付けに口にふくんだカリン酒が気管に入ってちょっとむせて咳き込んだが、カリン酒が効いたのかむせ込んだのがよかったのか、めまいは取れて、多少おさえ気味だが最後まで歌いきることが出来た。このごろよく思う。ああ今日もまた、一回歌い過ごすことができたと。
 きょうのお客さんはインターネットで知りましたと仰るご婦人。ホームページの料理日記を見て、この間、しめじの炊き込みご飯を作りました。と仰った。精神の充実する時間をありがとうとの言葉を残して帰られた。
 
 “精神が充実する”良いことばだなあ。この頃はメディアも芸能も先ず精神が悦ぶことを目標にしているようだ。かつてはそうではなかった。精神が悦ぶのは目的ではなく結果だったのだ。ギリシャ悲劇において然り。能楽において然り。ダニエル劇においても然り。
 
5月22日(月)定例 19 「モンセラートの朱い本」
 聴衆1。晴れ。河野さんとわたし。船越さんは休み。すこし暑いぐらい、眼鏡がくもって何度も拭いた。
 きょうのお客さんは、たまたま北野教会を訪れたという美しい黒人の女の人。お国は?と訊くと、フランスと答えられた。Nigra sumという言葉が浮かんだ。
 ひらがなだったら読めるとおっしゃるので、つぎのようなメールをお送りした。
 
    きょうは、「モンセラート コデックス」を
    きいていただき、ありがとうございました。
 
    いかがでしたか?
    700ねんまえの ふるい スペインのうたですが、
    こんな おんがく は おすきでしょうか?
    たのしんで いただけましたか?
 
    わたしたちは、あなたに きいていただいて、
    とても うれしく おもいました。
 
    また、どうぞ、きてください。
 
5月15日(月)定例 18 「ダニエル物語」
 聴衆2。晴れ。開演5分前一人のご婦人が来られ、ちらしと台本を手に取って席に着かれた。ああこの人はダニエルを聴くために来られたのだなと思い、その気になって安心してはじめられた。終わってから訊くと、ホームページでこのライブを知ったと話された。
 うたいはじめてふと思った。あまり自分の気持ちを聴いている人に押しつけてはいけないのではないか、聴く人の気持ちに委ねる部分を残さねばならないのではなかろうか。そしてお客さんなりの音楽の気持ちを受け止めてあげればいいのではないか。だれも居ないときはいいけれど、だれかが聴いてくださるということはもう自分ひとりではないのだ。そこに交流が起こるのではなかろうか。そのあと、もう一人男の人がおられるのに気がついた。
 
 きのう、久しぶりに虚血性貧血が起こった。一瞬(どれぐらいの時間か自分では分からない)意識がなくなるのだ。この前は天王寺教会の頃だったからほぼ3年ぶりである。これは医者に訊いても精密検査をうけても原因は判らない。だが自分では、お腹の調子がよくないときに腸に血液が集まって頭から血が引くのだと断じている。しばらく横になっていると、嘘のようにもとに戻る。
 
5月8日(月)定例 17 「モンセラートの朱い本」
 聴衆1。晴れ。始める前今年はじめて10分ほどクーラーを入れる。演者=うたの船越さん、ギターの河野さん、と私。
 いつも開演前30分ほどうたうグレゴリオ聖歌、どうしたことか楽譜がない。それで、先日作った対訳を使ってうたってみた。歌詞の気持ちがよく分かるように思う。うたにとって、楽譜はじゃま、ない方が良いのだ。ネウマ譜といえども。 ちなみに、モンセラートの朱い本は、歌詞の量が多くてむずかしいということもあって、対訳を見ながら、うたっている。
 
5月1日(月)定例 16 「ダニエル物語」
 聴衆3。晴れ、暑いぐらい。今日はかつてのORCメンバー、今は八王子に住む厚東さんが奥さんと二人で聴きに来てくれた。
 昨夜から、残りわずかの自前の歯が猛烈に痛む。朝から歯医者へ行くと、麻酔を打って神経をとるという。「先生、それで痛みはとれますか?きょうはひるから歌をうたうのですがそれまでに麻酔は醒めますか?」「麻酔がきれるのは2時間ぐらい。痛みが残るかどうかはそれからでないと分かりません。」
 2時ごろ教会に着いてグレゴリオ聖歌を歌い出す。くちびるに麻酔のしびれもなく歯の痛みもしずまっていた。それどころか、このところずっと調子の悪かった喉が快調で、声がよく伸びるように思えた。喉に麻酔が効いたのでは、などと思う。きょうのダニエルは、まちがいもなく、気持ちもよくこもって、今年1番の出来であったのではなかろうか。
 
 厚東さんの奥さんに楽器の説明をする。「アイヌの竹琴はむかし小樽で、太鼓とタンバリンは万博民俗学博物館で買いました。タイのケーン、中国のドラ、大正琴はネットオークションで買いました。ケーンは800円、ドラは4000円、大正琴はケースつきで2400円でした。」
 東京でいまグレゴリオ聖歌を歌っているという厚東さんに、わたしのCD「グレゴリオ聖歌」と出来たての対訳を差し上げる。
 
4月24日(月)定例 15 「モンセラートの朱い本」
 聴衆0。晴れ。始めるとき3人の人がいた。2,3曲目ぐらいでみんな帰られた。通りすがりの人たちであろう。きょうは船越さんもわたしも声の調子が悪い。
 
 昨年秋、東京カテドラルでモンセラートの朱い本をやったところがある。濱田芳通氏指揮 La VOCE ORFICA である。そのときのDVDが送られてきた。スゴイと思う。日本でもこんなことをする人たちがいる。映像は訴える力が大きい。
 
 久々に出前演奏の依頼がきた。「モンセラートの朱い本」6月18日 京都 精華教会。受けることにする。
 
4月17日(月)定例 14 「ダニエル物語」
 聴衆0。晴れ。今日ははじめからおわりまで出入りする人もなく、全くのひとり。声を出しているのに矛盾した言い方だが、黙々と、無念無想で歌った。
 
 家に帰って新聞を見ているとこんな言葉が目についた。“言葉はロゴス、すなわち論理であり、言語化された思考こそを人間精神の高みとみなしてきた。” さて、ダニエル物語は日本語に直してうたっているが、そうした深い感性を表現できているかどうか? ダニエルの日本語翻案は我ながら良く出来ていると思うが、約800年前の旋律(音楽)に負うところが大きい。いかに丁寧に正確に訳しても言葉だけでは不完全なのである。「吾輩は猫である」を「I am a Cat」としたところで、外国語、とりわけ英語にうとい私だが、それが正しい訳とは言えまいと思う。
 
4月10日(月)定例 13 「モンセラートの朱い本」
 聴衆0。雨。今日はことしはじめてお客さんがなかった。聖週間と復活祭を迎えるために祭壇と会衆席が並べ替えられて今日の聖堂は横向きであった。
 2と3のリズムの混交。これは、言葉が活かされるグレゴリオ聖歌の基本的な形だが、中世の歌もそうして成り立っている。この自由リズムを身に着けないと中世の歌はうたえない。3あるいは4で割り切れる音楽にどっぷり浸かった当世音楽人にはむずかしい。自由リズムといっても、勝手気ままのことではない。キチっとしたリズム感に支えられていなければならないのだが。
 
4月3日(月)定例 12 「ダニエル物語」
 聴衆2。晴れ。北野教会の桜が満開。紅、淡紅、白、3本の梅の老木も同時に豊かな花を咲かせている。
 きょうはいささか体調不良、喉の調子が良くない。大正琴も間違えた。「歌、舞、踊り、音楽など様々な芸能は祭りから生まれた。祭りの芸能はなるべく完全な技法で行われなければならなかった。」新聞のコラムでそんな記事を読んだ。(城西国際大学教授 ヘルベルト・プルチョウさん)
  “完全な技法”を望むのは、人に良く思われるためでも世間の風評のためでもない。それは祭りの意義のためなのだろう。体調不良ではいけないのだ。間違ってはいけないのだ。
 調子の悪い分、いつもに増して一生懸命歌った。それでも、きょうはじめての方は感心してくださった。長いことうたっておられるから、うたが自分のものになってますね。と言ってくださった。
 
 昭和14年、小学校1年生のはじめての国語読本は、
           「サイタ サイタ サクラガサイタ」 で始まる。いまでもそのときの気持ちを思い出す。
                               (たしかその翌年から小学校は国民学校に変わった。)
 
3月27日(月)定例 11 「モンセラートの朱い本」
 聴衆1。晴れ。1月16日からはじめて今日から春。開演前ご婦人がひとりこられる。知らずに来たけれど時間があるので聴いて帰るとおっしゃる。すこし説明してから演奏をはじめる。うたのピッチがうわずる。ギターが低いのではない、一箇所鳴るオルガンに対しても高い。すこし高いところでうたが鳴っているようだ。一旦鳴り出すと修正はむずかしい。意識して下げると気持ちが悪くて乗れない。最初の曲で注意が肝要。そこで決まる。
 今日も来てくれた歌の船越さん、声ののびがいい。快調。しっかり見てきてくれていることが分かる。終わったときお客のご婦人が訊ねられる。「拍手してもいいですか?」「いや、拍手は要りません」「素晴らしいソプラノですね。良かったです。ありがとうございました」。CDを5枚も買ってくださった。
 
 おとつい、きのうと、秋吉台へ行って来た。秋芳洞と、その上の広いカルスト台地を歩いた。
 
 
3月20日(月)定例 10 「ダニエル物語」
 聴衆2。晴れ。5日ほど前から久しぶりに風邪を引いた。今朝からすこしましなので、ちゃんと歌えるかどうか案じられたが、とにかく出かけた。グレゴリオ聖歌を歌い出す。いつもと声の感じがちょっと違うが、まあなんとか大丈夫だろう。ということで本番をはじめる。
 はじめてすぐにだれか来られたようだが、意に介せず集中してうたい進める。わたしのうたが、うしろにおられる人に入っていくのを感じた。ちょうど中ごろ、ダリウス王の行進のところで、足に力がないのかすこしよろけた。お客さんが二人おられることが分かった。大正琴をかなり間違えたが平然と弾き流して、終曲のTe Deumに行きついた。咳やくしゃみも出ず、お客さんと心を通わせ、高揚してうたい終えることができた。多少しんどくてもやってよかった。
 きょうの聴衆の一人は、前に聖堂に立ち寄ったとき少しだけダニエルを聴いて、今日は全部聴こうと思って来てくださったそうだ。うれしいことだ。
 
3月13日(月)定例 9 「モンセラートの朱い本」
 聴衆1。寒くて雪がちらつく。はじめる前から若い男の人がひとりいた。第1曲が終わったところで一旦聖堂を出られまた入ってこられた。どこかへ携帯をかけて時間の都合を訊かれたのではないか。わたしの推理である。中程まで聴いて帰られた。モンセラートは対面なのでよく見えてしまう。
 今日も船越さんが参加。終わってからところどころ手直しする。ギターのピッチが低かった。チューナーよりもわたしを信じて欲しい。
 
3月6日(月)定例 8 「ダニエル物語」
 聴衆2。小雨、今年はじめて暖房を入れなかった。歌だけではなく、今日は朗読の抑揚についても変化を試みた。今日のお客さんは2人とも偶然教会を通りがかった人。もともと興味をもっている人はいいけれど、そうではない人のこころをつなぎとめるのは容易でない。さて今日のお客さんはどうだったろう。一人は途中で、もう一人は最後まで聴いて帰られた。
 己を無にする。これが極意であろう。
 
2月27日(月)定例 7 「モンセラートの朱い本」
 聴衆7。晴れ、暖かい。今日はアーレンのピッチがおかしかった。はじめのチャイムのピッチが高すぎる。この電子オルガンは半音づつKeyをずらすことができるのだ。第1曲が終わったところで修正してやりなおす。いろんなことが起こるものだ。
 うたの船越さんが来た。とても良くうたってくれた。終わってからお客さんに褒められていた。
 
2月20日(月)定例 6 「ダニエル物語」
 聴衆2。雨。大正琴と太鼓などの入ったボストンバッグを提げて傘を持つのはつらい。歩く距離はたいしたことはないのだが。
 今日は雨だしだれもこないだろうと思っていたが、はじめての人と東南アジア系の外人さんが来てくださった。途中、しずかなダニエル悲嘆の場面の前で救急車が通り、10秒ほど待ったのだが、この人たちは気がつかなかったそうだ。集中して聴いてくださっていたのだろう。このごろ喉の調子悪いのだが、はじめて聴くダニエルを「聴く前は想像できませんでした。すごい、びっくりした」と言ってくださった。この日本女性は、来週もモンセラートを聴きにきますと言って帰られた。
 
 15年ほど前だろうか、わたしの知人にフランスへ留学していた人がいて、ソルボンヌでダニエル劇を観たという。この人がつぎのように書いている。
 
 「中庭には、大きな樽が据えられ、中世風の衣裳をつけた数人がぐい呑みに似た小さなコップを片手に、観客猫にぶどう酒を勧めている。子猫も一杯。不謹慎にも尻尾の先をほんのりピンクに染めて、聖史劇が上演される大学の礼拝堂に入った。
 子猫が少女たちと見た“ダニエルの劇”は、バビロンに捕らわれたユダヤの予言者が、異教の王の迫害にあって燃える火に焼かれても、ライオンの檻に投げ込まれても、無事であったという旧約の故事を伝え、一座の歌う[テ・デウム(感謝唱)]で終わる。
 大がかりな装置や豪華な衣裳が調えられていたわけでもないのに、舞台とひとつになって歌う感謝の調べに、ジーンズ姿の観光客も、ぬいぐるみのライオンさんや古代の神官たちも、子猫までもが、いつのまにか中世の村人と化して、時空のかなたに遊んでいた。」

(芥川眸著 [マドモアゼル・シャトンのふらんす日記] NHK出版)  

 
2月13日(月)定例 5 「モンセラートの朱い本」
 聴衆1。晴れ、陽射しに春のきざし。うたの船越さんが来た。彼女の好きな第8曲Mariam、まだもう少しできていないので、よく知った一人だけのお客さんにおことわりして何度か反復、練り直す。良い曲だ。この曲は女声が似合う。
 
 明日はバレンタインデー。きょうのお客さんからギターの河野さんとわたしに、チョコレートならぬシャンパンのプレゼント。
 
2月6日(月)定例 4 「ダニエル物語」
 聴衆2。はじめるころから降っていた雨は終わったときにはやんでいた。今日は気が散って集中できなかった。たとえなにがあっても、うたを歌うときには集中したい。そんなことを思いながらうたっていた。
 登山家の田部井淳子さんがつぎのように書いている。山に登る前どうぞ登らしてください、と心の中で念じる。歩いている時の精神状態は「無」。うたを歌うときもそうでありたい。
 
1月30日(月)定例 3 「ダニエル物語」
 聴衆1。曇り。寒気ゆるんでときどき小糠雨。ギターの井川さんが来てくれた。約3年ぶりである。ダニエルを聴いてくれた後、3曲弾いてくれた。前からのナンバーと新しい曲を2曲。最後の曲はグラナダの夕日にイメージを得て作った自分の曲だそうだ。わたしの感想。「テーマの旋律が浮かび上がりませんね。もっとシンプルにしたら」。わたしはこのところシンプル好きなのだ。
 
1月23日(月)定例 2 「モンセラートの朱い本」
 聴衆1。晴れ、寒い。先週のつかの間の暖かさはどこかへ行ってしまった。でも、東京は雪だが大阪は降らない。
 今日は、きれいな歌ではなく、巡礼の民衆を表現できないかと、リフレインの部分の声の使い方を変えてみた。何度か聴いてくれた今日の聴衆はそれを気づいたようだ。あと、パーカッションのリズムを変えたいのだが、うたいながらでは難しい。最後に、第1曲O Virgo splendensをもう一度うたった。モンセラートの山陰に夕日が沈むように。
 
 ライブドアの破綻。一言でいって、資本主義経済のゆがみ。虚業は駄目だなあ。にんげんの基本は、資本主義でも社会主義でもなく「もの作り」なのだ。さて、音楽は何なんだろう。虚業か実業か。あえて言えば「心業」かも知れぬ。
 
1月16日(月)定例 1 「ダニエル物語」
 聴衆1。晴れ。今年第一回目のライブ。この間までの寒気はなく比較的あたたかい。開演前、聖堂内にはだれもいなくて、今日はお客さん0かなと思っていたら、直前になって一人来られた。よかった。おかげで良いうたが歌えた。約一ヶ月ぶりに聖堂にうたが充ちる感触を味わった。
 今日のお客さんは、かつて大阪ルネッサンス合唱団のころ合宿でお世話になった橋本教会と、家内の知人のお墓のある御所教会ゆかりの方、終演後、話がはずんだ。
 
 さあ今年も良い一年を過ごせますように。一人でも多くの方に聴いていただけますように。
 

 
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