エストニア料理 補遺2

料理書目録8の抜粋。

「歴史への散策」

祝祭日と家族の祝い事の料理

メニュー例

歴史への散策

民族料理には、歴史的に作り上げられてきた庶民の生活様式が常に反映している。エストニアの厳しい自然、痩せた石まじりの土壌とフートル(小農家 farmstead)的営農システムがエストニア農民の食事の性格に影響を与えずにはおかなかつた。農民の生活様式は単純で、しっかりしたもので、食事も単純なものだった。

((ここでのフートルは、地主所有の家(小屋)つきの小作制?)) 

エストニア料理のレシピーは、洗練さや種類の多さでは劣るが、食べ物は美味しく、栄養の専門家が言うように、身体によいものだった。
19世紀半ばまでのエストニア人の平日や祝日の料理について今までに残っていることは、きわめて少ない。農民の生活水準は非常に低く、日常の食事も貧弱だった。例えば、人々の言い伝えには、当時のエストニア人は、主に荒糠(あらぬか)で作ったパンを魚の塩汁にひたして食事にしていた、ということが残っている。泥炭のように黒く、細かく刻まれたパンは、よく風に飛ばされただろう。荒糠さへ足りないような不作の年には、パンにネコヤナギ、苔、どんぐり、ヒース、羊歯(しだ)が加えられた。春にはこのようなパンも珍しいものになった。いらくさ、ぎしぎし(スカンポ)、せり、あざみでスープを作らねばならなかった。
パンのザクースカ(口なおし)が、水を入れたプロストクワシャ(酸乳 発酵乳)、ライ麦粉、にしん、かぶのシチーかスープだった。生の牛乳や肉をエストニア人が食事に使うのは非常に少なかった。
エストニア農村の経済的発展を賦役制(バルシチーナ)が妨げた。1849年と1856年の農業改革に関連して、やっと19世紀の半ばから、状況が幾分よくなった。金納地代への漸次的移行とフートルの買い取りが、農民の金銭への欲求を高めたが、それは営農システムを変えさせることになった。農業では、多圃制への移行が進み、畜産も発展した。20世紀のはじめまでには、自分のフートル(農場)でとれたものから食事を作れるようになった。魚は穀物と交換で、この取引が利益になる漁師から手に入れた、エストニアの海沿いの地域や島の土壌は痩せていたからである。
食事は極めて単調なもので、(農作業が)季節に左右されることと確立した1週間の決まりがその単調さを助長した。19世紀の終わりまで、まともに食事をするのは日に1度夕食時だけで、そのときカーシャかパフリョーフカ(野菜スープ)が出された。
最も普及していた料理が、大麦の挽き割りで作るパフリョーフカだった。それは少しの牛乳を入れた水で煮られたが、それも主婦の気前次第だった。時には、わずかな脂やバターが入れられた。パン、塩漬けにしんと一緒にパフリョーフカを食べた。また えんどう、豆のパフリョーフカ、きゃべつ、魚、肉のパフリョーフカも作られていた。
エストニアの北部や西部では、水曜日と土曜日毎に夕食に添えてカーシャが出された。この日を首を長くして待っていた、カーシャは美味しい料理の一つと考えられていた。肉はエストニアの農民にとって珍味だった。肉のパフリョーフカを木曜日と日曜日に作っていた。最も普及していたのは、酸味シチーだった。またクリョーツカ(つみれ)入りのスープ、じゃがいも、豆、えんどうスープも作られていた。肉のない夏には、スープに脂やバターが加えられた。月曜、火曜、金曜日は牛乳スープか汁の多い粉カーシャと決まっていた。
主婦はまともな昼食を決して作ることがなかった、それで昼食はパン、にしん、プロストクワシャだけのことが多かった。朝食には前の日の夕食の残りを温め、パン、塩漬けにしんを加え、粉のパフリョーフカを作った。
19世紀後半以降、ユリーエフの日(旧暦11月26日)からライ麦の収穫まで、さらに早朝食が入った。ユリエフの日が過ぎてからは、すきっ腹で小鳥の鳴き声、特にカッコウの鳴き声を聞くと、聞いた者の家に不幸が起こるので、前もって物を食べないで家から出てはならないという迷信があった。
パンが主要な食べ物だった。パンを大切にしなければならなかった、パン屑を全部丁寧に集め、古いひからびたパンも捨ててはならなかった、それからパンスープが作られていた。時間を節約するため、主婦はパンを一度に沢山焼いていた。パンを非常な敬意をもって取り扱い、神聖なものと見ていた。それは「パンを敬いなさい、パンは目上だ」という古い俚言からもうかがえる。だから パンを投げたり、パンのかけらを踏みつけることが禁じられていた。幼児がパンのかけらを手などにひっかけて落とすようなことがあると、その子はパンを拾って、唇をあてねばならなかった。テーブルの上のカラバーイ(大型の丸いパン)は、「家から出ていく」かもしれないので、その切り口をドアの方に向けてはならなかった。「ゆうべのパンは減り、朝は増える」ということから、カラバーイを夜切ることはなかった。食事に家族が集まったら、パンの両端の部分は、立派な乳房が育つよう、若い娘に与えられた。パンを片方の手だけでちぎったり、パンのふくらんだ面を横にしてテーブルに置くのも禁ぜられていた、それは主婦が死ぬかもしれないからというのだった。焼きあがったパンにあちこちひびが入っていると、一家離散が待っている。パンにかかわる慣習にそむくことはすべて、当時の考えでは、好ましくない結果を引き起こすことがあるものだった。
パンを焼き始める前に、主婦は丁寧に手を洗い、頭にプラトーク(スカーフ)を巻いた。窯は、早く、明るく燃えるのでトウヒの薪で焚きつけられた。パンは長い柄のついた木製のパン用シャベルで窯に入れられた。その前に、石炭が竈にかき集められ、竈の周りは特別の箒で丁寧に掃除された。生地を仕上げる前に、手を水で湿した。パンの塊が全部竈に入れられると、仕込み口がトタンの蓋でふさがれた。こね桶に残った生地から試焼きのレピヨーシカが作られた。子供用に小さいパンが作られたが、真ん中に生卵が載せられた。夏と秋、パンは竈の中の大きなキャベツの葉の上に置かれた、そうすると きれいにこんがり焼け、非常に美味しいパンができた。パンは2時間から2時間半かけて焼かれた。その後パンを窯から取りだして、下の皮をたたいた、パンの焼け具合を音で判断していた。出来たパンはこね桶の蓋の上か、霧吹きしたテーブルの上に置かれ、きれいな布巾がかけられた。
祝いの食卓では、パンの厚切りが皿のかわりに置かれ、皿には煮こごり、肉などの料理をよそうこともあった。エストニアで一番普及していたのは、発酵した生地で作るライ麦パンだった。血を入れるか、入れない雑穀ソーセージがよく作られていた。中に詰める雑穀は、同じだが、血入りでは、カーシャに血を入れるだけの違いである。ただのカーシャとソーセージ用のカーシャは、汁気とスパイスを入れるか、入れないかで区別される。小さい塊に切った豚の脂身と細かく刻んだ玉葱を水煮いれ、それがよく煮えてから雑穀を入れる、雑穀は煮くずれてはならない。白い(血を入れない)ソーセージ用のカーシャはわずかに粘る程度に、血入り用のカーシャは粘るように煮る、血を入れるとカーシャは汁気が多くなるからである。出来上がったカーシャにマヨラナかキャラウェイを加える。
昔エストニア人は肉を主に秋か冬、雑穀料理や豆、野菜料理と一緒に食べていた。その肉は主として塩漬けか燻製のものだった。普通豚肉と羊肉が燻製にされた。生の肉を食べるのは、収穫の後だけだった。
古い慣習では、家畜の屠殺はミフケレフの日(9月29日)に始まり、この日に羊を、マルトフの日にがちょう、カドリの日に鶏、元日に豚、春の祝い日に仔牛を殺した。雌牛はマルトフかミフケレフの日に殺された。屠殺された動物はすべての部分が食用になった。臓物でスープを作った。豚の足はマースレニツァ(春を迎える祭日)のために塩漬けにされ、豚の尻尾は春まで保存され、それで作ったスープは、大麦がよく育つようにそれを播く人に出された。豚の鼻は、読み書きを早く覚えるように、子供に与えられた。言い伝えでは、心臓は力を与えるものだった。腎臓はスープで煮られ、仲良く暮らすようにいつも誰かと半分分けで食べられた。脾臓を食べた者には機織りの才能が与えられる、(と考えられていた)。肉は普通スープの中で煮られた。
食べ物の中で、魚が重要な場所を占めていた。主に塩漬けの魚で、海沿いや大きな湖に近い所では、生の魚を食べていた。イクラ(魚の卵)特にカワカマスとブリーム(こい科)の卵は御馳走だった。卵でスープが作られ、オラーディが焼かれ、つみれが作られた。
プロストクワシャ(発酵乳)が生乳より多く使われていた。バターはわずか、クリームはそれよりさらに少なく食されていた。19世紀末には、豊かなフートルでさえ、食べ物にクリームやサワー・クリームを入れるのは極めて稀だった。
農夫が畑から帰ってくるとゆで卵が出された、それが幸いをもたらし、よい収穫の助けになると考えられていた。家畜を放牧する最初の日、慣習によって水をかけられたとき、その牧童にもゆで卵と卵を入れて焼いたレピヨーシカが与えられた。幾つかの地域では、この日家畜の群れを横切るように卵を投げることになっていた。
玉子焼きは何かの仕事、作業が終わったということで作られ、新生児の母親が持ってきたカーシャをゆで卵で飾った。娘たちは婚約者のために玉子焼きを作って、家族の祝いの日や日曜日に出した。
パンと肉の使用は、しばしば制限されることがあったが、そのかわり穀物で作る料理を好きなだけ食べることができた。水をベースにした粉のパフリヨーフカはゆきわたっている料理だった。
カーシャは非常に堅く煮られ、塊でとれるほどだつた。エストニアで一番普及していたのは、大麦の粉で作るカーシャだった。それを作る二つの方法が知られている、粉を指の間を通してゆっくり篩うようにして熱湯に入れるか、同じようにして、粉を少し塩をきかせた熱湯に入れ、かきまぜずに、出来上がるまで煮る という方法である。玉麦のカーシャも水で煮られた。挽き割りと水を1対3の割合でとる。大麦のカーシャを、牛乳を入れた水で作っていた。玉麦のスープで、細長い形の掌ほどの大きさのヤチニキ(大麦のだんご)が煮られた。ヤチニキには溶かした塩味バターがかけられた。
南と東エストニアでは、タラクノー(複数の雑穀の粉)が、普段の食べ物、特に祝いの食べ物を多様なものにした。それは1種か数種の雑穀と豆から作られ、割合や種類も様々である(蒸し煮かゆでた雑穀や豆をペチカで乾燥したものを材料にする)。タラクノーから食事を作るのに多くの時間はかからないが、栄養のある、美味しい料理ができあがる。一番普及していたのは、豆と雑穀を混ぜたもので作る いわゆるタラクノー「ムリギ」だった。夏中とくに乾し草刈りの時期、また秋には時々、タラクノーで栄養をとっていた。タラクノーのレピヨーシカはパンの代わりになり、甘い料理として出された。
南と東エストニアではまた大麻の料理も普及していた。麻のカーシャをパンに載せたり、ゆでじゃがと一緒に食べていた。麻入りの牛乳はスープやカーシャに入れられた。麻の詰め物をしたライ麦粉のピロークも焼かれていたが、牧童向けだった。しかし19世紀の末には大麻の作付けが減り、徐々にエストニア農民の食卓から姿を消した。 昔は、カーシャと雑穀の料理は完全にパンの代わりで、それとは別にパンは出されなかった。
最も普及していた野菜は かぶ で、ついでスウェーデンかぶと きゃべつ だった。かぶとスウェーデンかぶは煮たり、オーブンで蒸し煮にして食べられたり、他の料理に入れられ、キャベツは発酵させて酸味をつけた。焼いたスウェーデンかぶは非常に美味しいものと見られていた。
19世紀に広く普及したじゃがいもは、最初エストニアの人々には大きな不満をもって迎えられたが、間もなく欠かせない料理になった。農場では、灰の中でじゃがいもが焼かれた。焼けたじゃがいもの灰を落として、塩漬けにしんと一緒に食べるか、魚の塩汁にひたされた。あらかじめ牛乳か水でのばしたトゥバロークをつけたじゃがいもは、とくに美味しいと考えられていた。豊かなフートルでは、トゥバロークにサワー・クリームを添えたりバターをつけてじゃがいもを食べていた。じゃかいもはまたプロストクワシャや少し塩を入れた牛乳にひたされた。たまにじやがいもに肉の厚切りのつくことがあった。きれいに灰を落としたじゃがいもを食べるのも稀だった、ごみを落とすときじゃがいもの一部がなくなるからだった。皮つきじゃがいもは人気があった。それには塩漬けにしんが付けられた。にしんを入れた鉢が食卓の真ん中に置かれた、にしんの尻尾をつかんで取り、皿の縁に塩を払い落として、食べた。時には、塩漬けにしんがじゃがいもと一緒に煮られたり、熱いじやがいもの上に載せられたりされた、そうすると にしんは湯気で軟らかくなるのだった。
南エストニアの豊かな森の液果(ベリー類)のなかで、最も多いのがチェルニーカ(コケモモ)で、乾したり、ジャムにして瓶に入れ保存されていた。冬のためにツルコケモモとコケモモ(ブルスニーカ)が蜂蜜につけて貯蔵された。これらの液果からジャムが作られ、冬 蜂蜜や牛乳と一緒に食べられた。いちごは生のままで牛乳や蜂蜜と一緒に食べられた。液果は通常生で食べられた。昔の冗談に次のようなことがある、「ヒューマ島の一人の若い男が、都会で暮らし、チェルニーカのキセーリを食べた。夏家に帰ったこの男は、姉さんにキセーリの作り方を教えた。キセーリが出来て、食卓についたとき、お母さんがキセーリの味見をして「まったく塩がきいてないもんだ、娘よ お前は塩を入れ忘れたんじゃないか」と言った。(訳者蛇足 思うに これが冗談だということは、キセーリは塩を全く入れないで作る濃度のある甘い飲み物だということと、ヒューマ島はエストニア北部のバルト海にある島だということを 頭においておかねばならないだろう)
甘味料理をエストニアの主婦は20世紀のはじめに作るようになった。それまでは、甘味料理は大きな祭日か家族の祝い事の時だけしか出されなかった、それもビールのスープか蜂蜜を入れたトゥバロークで作るカーシャだった。薬としても使われていた蜂蜜が食べる物に甘味を加えた。19世紀の末から20世紀のはじめにかけてエストニアの農村で、それまでは都会や農民屋敷だけに広まっていた新しい料理が作られるようになった。より広い読者層を対象とした最初の料理の本が出版された。家事に関する講習会が作られはじめ、農村にも様々な祝い事のために料理を作る腕のよい料理人が現れた。店で売られる調味料や食品の数も増えた。古い民族料理は新しい、都会の料理に席を譲った、この過程はまず裕福な農民のところで見られた。ベーキング製品、ブーロチカやピロシキがますます広がり、セモリーナや米のカーシャが作られるようになった、食卓ににしんの燻製(セリヨートカ)が登場した。料理の名称も変わった。パフリョーフカをスープと言うようになった。ムーフ島では、これについて「かまどで煮ているあいだはパフリョーフカ、こんろで煮始めたらスープになった」と言われていた。
コーヒー(を飲むこと)も広まった。20世紀のはじめまでこの飲み物はほとんど知られていなかった。コーヒーをうまくいれることができる人も少なかった、それは次のような笑い話が証明している。イギリスの商船が暗礁に乗り上げ、男たちがそこからコーヒーを持ってきた。女たちは、その使い方を知らず、物知りの隣人の所に立ち寄った。そこではコーヒーをいれて、食卓に出した。女たちは、悪意と不満をもって家に帰った、そこで言うことには、こんちくしよう 鬼ばばぁーめ、自分は澱(おり)を食べて、おいらには上澄みだけを飲ませやがった。
コーヒーは客用にとっておかれ、自分が飲むのはごくまれで日曜日ぐらいだった。豊かな主婦の所では、食卓にコーヒー沸かしが置かれていたが、それをピカピカに磨きあげねばならなかった。家族のためのコーヒーは、小鍋で沸かしていた。コーヒー豆半ポンドのために普通1ポンドかそれ以上のチコリを採っていた。チコリはどの家でも栽培していた。コーヒー豆は使う前に、煎られた。大麦、小麦、ライ麦の穀粒も、全く同じように扱われた。非常にすばらしいライ麦コーヒーを作れる主婦がいた。どの主婦にも自分のレシピーがあった。チコリか雑穀を加えたカシワの実(どんぐり)からもコーヒーが作られた。卵コーヒーガ、泡を立てた卵にライ麦粉をいれ、煮て、それでだんごを作って、オーブンで乾かし、レンジで煎って、挽いて作られた。コーヒーは牛乳を入れて飲まれていた、砂糖を入れるのはごく稀だった。エストニア人の間で最も普及していた飲み物はクワスだった。
昔は「どのフートルにも、そこのクワスがある」と言われていた。大麦かライ麦の麦芽からクワスは作られ、ビャクシンの実を加えることか多かった。ビャクシンの実から茶が作られ、蜂蜜、水、酵母から飲み物のミドー(別名 ミドーボーエ ビール)が作られる。春は、白樺ジュースを飲んでいた。草刈り時には、パンが粉を混ぜたプロストクワシャで 流し込まれた。祭日の食卓のためにビールが作られた。ビールを作る方法は、地域と季節で違っていた。木製のジョッキでビールを飲んでいた。エストニアの民族料理の作り方は簡単だが、それでも非常に美味しいものである。地域によって、味の質が違っていた。ロシア竈で作られた料理には独特の美味しさがあり、どんな調味料でもその美味しさは決して出せない。配膳も非常に簡単だった、スープは木の皿で出され、肉は一つの塊で皿にのせ、それらに添えて香りのよいライ麦パンが、バターは木の壺で、冷たい牛乳をかけた熱いレピヨーシカ、ペチカで焼いた血ソーセージ、豚肉を添えたキャベツのムリギーなどが出された。食器は主に木製のものだった。大きい皿にはパフリョーフカやカーシャ、小さい皿には塩漬けにしん、バター、肉、ソース が載っていた。カーシャをバターと同じ皿に入れていた。家族が多いと、食卓には誰でも自分のスプーンでよそえるようにカーシャを入れた皿が数枚置かれていた。食卓には牛乳を入れた桶があった。時代がさがると、木製の食器は丸い粘土製のものに代わり、さらに陶器の皿になつた。家族は皆それぞれ柄に彫った印のある自分のスプーンを持っていた、食後にスプーンは小さい棒に吊るされた。ゆでたじゃがいも、パン、バターミルクが出たときは、ポケット・ナイフだけが使われた。みんな食卓では自分の決まった場所をもっていた。食卓の頭に主人が座った。古い慣習では、カラバーイ(大型の円形のパン)は、主人のそばに置かれ、必要な場合彼が切り分けた。食卓では無駄話をしないで、礼儀正しく振る舞わねばならなかった。多くの慣習があり、それに従わないと一定の報いがあると考えられていた。例えば、食卓にしずくをこぼしてはならなかった、それは主人か妻がのんだくれになることを意味していた、また食事中にものを読んではならなかったが、それは腸捻転を起こす、というようなものだった。
食後は、食卓から全部片付け、食卓を白いリンネルの布だけで拭かねばならなかった。もしも食卓を手や紙またはウールで拭くと、それは仲たがい、飢え、貧乏その他の災いを招く。若い女の子がパン屑を食卓から床に払いのけると、オールド・ミスになるおそれがある。食事を終わったら食べ物にお礼を言う。食事中に客が来ると、いつもパンをご馳走する、というようなことが、慣習とその違反について言われていた。
暦の上の祭日や家族の祝い事の食事は、普段のものにいくらかのバラエティーを加えたものだった。この時は、混ざり物のないライ麦パン、大麦のレピヨーシカ、セピーク(?)、儀式用の料理が出された。これらの料理は肉さえも好きなだけ食べられた。いつもビールでの酒盛りだった。

以上

祝祭日と家族の祝い事の料理

新年の祝い。年が変わる祝いは、フォームの日(12月21日)に始まり、1月6日に終わる。この祝日には、煮たり焼いたりした肉を沢山食べた、それにそえてじゃがいもときゃべつの発酵漬けが出された。エストニアの若干の地域では、豚の頭からすっぱいシチー、スウェーデンかぶとじゃがいもをつけた肉が作られ、子供のためにゆでたいんげん豆とえんどうが作られた。海沿いの地域や島では、肉は生、干物、塩漬けの魚と代えられた。挽き割ソーセージが必ず作られた。挽き割ソーセージのない新年の祝いなど考えられなかった、そういうことがあると、豚に災難が起こるかもしれなかった。ソーセージは家に幸いをもたらすと考えられていた。ソーセージは普通自分の家族と隣人、親戚、牧童、貧しい人に配るのに十分な量が作られた。ソーセージは常に、通常夕方熱いものが出された。それは熱い石の上か、炉のフライパンで温められた。

祝いのカラバーイは、形が平生のものと違っていた。飾りをつけたり、いろんな形例えば円錐形(直径が30センチまでの)や豚の形などが作られた。こういうパンで、新年の夜しばらく占いをすることができた。パンにフートルにいる家畜の数だけの塩の小さい結晶をふりかけ、塩が溶けたら、家畜に災難がふりかかるというのだった。 

新年のパンは、祭りの間ずっと食卓に置いておかねばならず、最後の日に食べるか、春までとっておかれた。このパンのかけらは、家族全員と家で飼っている動物に与えられた。

食卓は、新年の夜の間は、カバーをかけておかねばならなかったが、それは一年中食べ物が十分にあるということからだった。7回から12回食事をとった。

トゥイニソフの日(1月17日)は、冬の真ん中と考えられていた。この日は食卓に、キャベツの発酵漬け、いんげん、えんどう豆をつけた豚の頭か耳が出されることになっていた。

マースレニッア、「家から家へ転々とする」祭日、はほぼ1カ月(2月8日から3月7日まで)祝われた。伝統的な料理は豚の足を入れたいんげんかえんどうのスープだった。豚の足は働き手をすばしこくし、豆類は野菜の成長を促すと考えられていた。若干の地域では、肉か豚の頭の半分を入れた挽き割スープが作られた。種を蒔く人は、この日食卓に9回つかねばならなかった、そうすると穀物の実りが期待できたのである。その後、マースレニッアにはカーシァと泡立てたクリームをつけたブーロチカ(小型の白パン)「パストラ」(エストニア語のマースレニッア)が作られるようになった。

カーシァ「バストラ」は、挽き割から、時には肉の小さい塊を入れた粉から作られた。朝食にカーシァを出し、昼食と夕食に豚の足、頭、尻尾、羊肉と牛の胸肉が出された。この時までに肉の貯えが通常底をつくので、最後の日には牛乳、卵、粉物料理が多かった。マースレニッアが終わった次の日には、大麦のレピヨーシカとブーロチカが食され、またオラーディが焼かれた。伝統的な料理は、大麦粉のカーシァだった。ヒャエデメエステ地区では、麻の実カーシァが作られ、海沿いの地区では、この日魚料理に変わった。

マディソフの日(2月24日)には、ピローグを焼き、挽き割から料理を作ることができた。しかし、きゃべつ、えんどう、いんげん(それらに虫がつかないように)、じゃがいもと肉をたべることは禁じられていた。

春の祭日までの1週間、通常大麦がよくできるように、大麦粉(ネコヤナギー聖枝)カーシァが作られた。色を塗った卵が、春の祭日(小鳥の日)また一部は聖神降臨祭と結びつけられていた。卵は普通球根の皮や葉で色がつけられた。色が雑多であればあるほど幸いをもたらすと考えられていた。

この祭日には、目玉焼き、たまごバター、自家製トゥバローク、牛乳スープ、煮こごり料理、仔牛の焼き肉が食された。

家畜群の放牧と種蒔きの日 は4月14日とされていた。1頭ずつパンのかけらが与えられ、牧童と最初に種を蒔く者に水がかけられた。水をかけられた者には「褒美」にゆで卵が与えられた。

聖神降臨祭の第一日目は、種蒔きの終った日とされていた。部屋の中に、白樺とエゾノウワミズザクラの枝が置かれ、娘たちはスイレンの花の冠を編んだ。青年たちはぶらんこに乗って、白樺の葉で飾った卵を交換した。この祭日には、牛乳スープ、自家製トゥバローク、たまごバターが作られ、鮮魚が料理された、

ヤーノフの日(6月24日) は、庶民の間では、夏の昼夜の長さが同じになる日と結びついていた。

この日には、自家製トゥバローク、たまごバターなどの他に、チーズのレピヨーシカとバトルーシカが作られた、それは焚き火をしたとき、自分でとった。

ムリギマアー(南エストニアのある地域の歴史的名称)では、この日蜂蜜を入れた特殊なビール(ブラーガ)が作られていた。

庶民の言い伝えでは、魔術によって、作物の出来を左右できるということだった。パンは生命と同じとみなされていて、その力は人間の健康だけでなく、家畜や将来の収穫にも必ず影響すると思われていた。それで新しく収穫したものから作ったカラバーイ・パンは長く保存して、その厚切りを古い力がさらに伝わるように、冬は家畜に、春は種を蒔く人に与えられた。

ミフケレフの日 とりいれた収穫物に対する感謝のため、9月29日が秋の畑作業の終わりの日とされていた。どの家も大盤振る舞いだった。古い慣習によれば、この日「いけにえの羊」が殺された。その血からソーセージが作られた。

伝統的な料理は、かぶ入りの羊肉で、時代が下がるとじゃがいもとスウェーデンかぶ入りになった。羊肉から大麦のつみれ入りのスープまたはシチーが作られた。ミフケレフの日には、レピヨーシカが焼かれたが、その一つは牧童に与えねばならなかった。牧童はまた羊肉のスープで煮た尻尾を受け取った。コダベレ(チュード湖岸の村)では、この日カーシァが作られた。ミフケレフの日には焚き火がたかれ、その中でじゃがいも、スウェーデンかぶが焼かれた。

マルトフの日 11月10日で、男の祭日だった。この日スウェーデンかぶとじゃがいもを入れて、豚の頭が煮られた。豚の頭の半分に飾りがつけられ、時代が下がるとマルトフノの日のために、がちょうか鶏を殺すようになった。豊作の年には、飾りをつけた小さいソーセージが作られたが、このことは古い歌に歌われている。

カドリの日(11月25日)は、マルトフの日と違って、女性の祭日と考えられていた。その日の行事は色々だったが、時代がかなり下がった時期には、この祭日はかなり混乱していた。マルトフの日にはがちょうが殺されたが、カドリの日には鶏が殺された。ソーセージは特に収穫の多い年にだけ作られた。フライパンで焼いたレピヨーシカ、パン、肉とじゃがいも入りのきゃべつ「ムリギー」も食べられた。

結婚式 ソーセージは家族の祝いの日、結婚式、洗礼の日にも作られた。

結婚式の歌では、客に出された料理が称賛された。結婚式の参加者には、ソーセージが振る舞われた。結婚式のために、特別の式用パンが焼かれたが、どこにもそれぞれの作り方があった。カラバーイは円形だった。ルフヌ島では、一つは新郎用、もう一つは新婦用に二つのカラバーイを作る慣習があった。平べったい式用のパンは、牛乳でこねたそば粉または小麦粉で作られた。

西エストニアでは、新婦のために特別のパンが焼かれた、それは新婦の衣装を入れた衣装箱に納められ、持参金と一緒に新郎の家に運ばれた。そこでは、このパンで、酒飲みのためのサンドイッチを作った。このザクースカには、金を出さねばならなかった。新郎の方は、教会から家への道で食べる舅パンを新婦に持って行った。結婚式の食卓には、結婚ピロークが置かれた、フライパンで焼いた肉の塊に牛乳と卵で作ったペーストがかけられ、粉はヘーチカで焼かれた。新婦が頭に頭巾風の帽子をかぶると、客にトゥバロークのカーシァが振る舞われた。

ムリギマーでは、結婚式のために必ずバトルーシカを焼いた。結婚式の食卓に、多くの燻製ハム、炒めたり、煮た肉、煮こごり、挽き割ソーセージ、つみれ入りの肉スープ、魚、じゃがいも、きゃべつ、玉麦カーシァ、トゥバローク、バターが出された。デザートにセピーク(?)またはそばか小麦のレピヨーシカ入りのビール・スープが出された。その他に、豚の頭で作った酸味シチーが作られたが、それは食卓にまるごと置かれた。その後で、煮た鶏が出された。ヒーウマー島で基本的な結婚式料理と考えられていたのは、じゃがいもと大麦粉を入れた燻製の結婚式スープだった。

結婚式のお客があまり夢中にならないように、また家に帰る時を忘れないように、「おしまいの料理」が出された。地域によって違いがあったが、つみれ入りのスープ、肉か魚をつけた皮つきのじゃがいも、玉麦カーシァ、えんどうかじゃがいものスープ、きゃべつかシチーのこともあった。この料理を出すときは、この後おひらきです、と宣言された。少なくとも3日、富裕な家族ではまるまる1週間結婚披露で飲み騒いだ。それでお客は、パン、ハム、魚、バター、トゥバロークなどを入れたいわゆる結婚式用バッグをたえず持っていた。時によると、客の手元には、主婦が式の後で歌姫に与えるほどの食べ物しかないことがあった。結婚式がすんでも、桶の中の肉は減ることがなかった。

出産見舞い。出産見舞いに行くかどうかは、子を持っている既婚の女性だけが決めた。昔は 客は特別に焼いたパンと玉麦カーシァを持って行った。水で作る普通のカーシァと違い、それは牛乳で作られ、時には牛乳で挽き割を湿すこともあった。カーシァにはバターがのせられ、また半分に割ったゆでたまごで飾られることもあった。富裕な家族では、カーシァの真ん中に焼いた鶏一匹、周りにゆでたまごを載せていた。ムリギマーでは、男が生まれたときは雄鶏、女の時は雌鶏を贈る習慣があった。カーシァの代わりか、それとあわせて卵、玉子焼き、つみれ入りスープ、炒めた卵をつけた豚肉を持って行った。時代が下がると、皿に大麦粉で作ったオラーディが加えられるようになった。19世紀の末には、玉麦カーシァは、米やセモリーナ、小麦粉のカーシァに徐々に代えられた。

食べ物は、家族全員と、幼い子がいる客にあげても十分な量だけとられた。食べ物は特別の桶で運ばれたが、19世紀末には粘土製の皿または更紗のハンカチで包んだ陶器や磁器の大皿で運ばれるようになった。さらに時代が大きく下がると、生まれた子にタルト(女の子)を、クレンデリ(8の字ビスケット 男の子)を贈る習慣が入ってきた。

葬式。洗礼後の宴と葬式用の料理は結婚式とあまり違わない。ただいわゆる「おしまいの料理」だけがなかった。葬式の日の朝は、牛乳を入れた玉麦カーシァが出され、葬式後は肉かつみれ入りのスープが出された。南と東エストニアでは、エンバク粉の汁けの多い重湯が、島では魚が出された。死者の周りにつきっきりでいる人のために、塩を入れたえんどう豆が煮られた、それは死者も食事に加わるという迷信があったからである。その作られたものは、葬式のためにも使われた。

こうしてわれわれの先祖は栄養をとってきた。今は時代も変わったが、古いレシピーには何らかの興味をひかれるものが見られる。現在のエストニアの家で、婆さんの紡ぎ車をよく見かけるし、また古い燭台と並んで、古い時代を想起させる大皿が見られる。昔の結婚の儀式を復活させ、結婚式の食卓を整えることができたら特に面白いだろう。ありふれたタルトやクレンデリの代わりに、卵で飾ったカーシァを木の皿によそうと、若い母親はきっと喜ぶだろう。ついでに焚き火でじゅがいもだけでなく、スウェーデンかぶ、かぶ、ビートを焼くとよい。まさに多様性(バラエティー)こそ、常に楽しさをもたらすものだということを検証しよう。

メニュー例

☆朝食 ☆二皿の正餐
1)小麦粉のカーシァ、パン、バター、塩漬け魚、牛乳。 1)野菜スープ、肉入りピロシキ。
大麦カーシァ、牛乳。
2)焼いたじゃがいも、トゥバローク、大麦レピヨーシカ、バター、牛乳。 2)じゃがいもピューレ、ラード入りソース、きのこ サラダ。
ビールスープ。
3)冷たい煮た肉と青ねぎを入れたサンドイッチ、ミルク・コーヒー。 3)煮た野菜。
えんどうピユーレつき豚肉
4)ハムエッグ、パン、コーヒー 4)青(葉)物シチー。
焼き肉、ブルスニーカ・サラダ。
5)魚スープ。
にんじん(かぷ又はビーツ)ピューレ、牛乳。
☆三皿の正餐 ☆ 夕食
1)酸味シチー。

いんげん(えんどう)ピユーレつき豚足。

オラーディ、牛乳。
1)じゃがいもつき大麦粉のパフリョーフカ、小魚 バター、パン。
2) 大麦粉のつみれ入り牛乳スープ、パン
焼いたにしん
2)じゃがいもスープ。

ゆでた塩漬け肉(牛)、焼いたスウェーデンかぶ。

大麦レピヨーシカ、牛乳。
3)そば入りスープ。じゃがいもつきたまごバター。
 パン。
4)エンバク粉の重湯、バター、牛乳、たまご焼き
パン。
☆ おやつ
1)プロストクワシァつき(エンバク粉)
2)塩水でゆでたえんどう豆
3)タラクノーで作ったレピヨーシカ。牛乳

☆ 新年
1)じゃかいも、スウェーデンかぶをつけた、ペチカで焼いた豚の横腹(肉は別の皿で出される)
挽き割ソーセージ。小麦粉のパン、バター、紅茶。
2)ペチカで焼いた豚のもも肉(食卓には赤いリンゴかえんどう豆で飾られ、そのままの塊で出される)。血ソー セージ)
発酵漬けきゃべつ。大麦粉の新年パン、ブールカ、バター、ミルク コーヒー。
3)豚の頭で作った煮こごり。ゆでたじゃがいも。血ソーセージ。ブルスニーカ サラダ。セピーク、バター、キイチ ゴの葉柄で作った茶。
4)豚の頭で作った酸味シチー。血ソーセージ、炒めたじゃがいも。ビール スープ。

☆マースレニッア
1)豚の頭で作ったいんげんスープ。レピヨーシカ(真ん中に穴があり、そこにツルコケモモの実か少量の砂糖を つめ、釜の底で焼いたもの)、バター。
2)豚足をそえたえんどう豆のスープ。大麦粉オラーディ。 ミルク コーヒー。
3)酸味シチー。豚足をそえた玉麦カーシアァ。セピーク、牛乳。

☆ ヤーノフの日
1) ゆでたまご。焼き魚。セモリーナ粉のバトルーシカ。ミルク コーヒー。
2) たまごスープ。ライ麦パン。トゥバローク チーズ。バター。

☆ ミフケレフの日
1) 羊肉をつけた新鮮なスープ。炒めた血ソーセージ。牛乳。小麦パン。
2) スウェーデンかぶをそえた蒸し羊肉。牛乳。レピヨーシカ。
3) もつスープ。ライ麦粉のムース。牛乳。

☆ マルトフの日
1) 発酵漬けきゃべつをそえた がちょうまたは鶏の焼き肉、ゆでたし゚ゃがいも、セピーク。キャラウェイ茶。
2) ゆでた肉とじゃかいもをそえたきゃべつ「ムリギ」。パン。ミント茶。
3) つみれ入りスープ。ライ麦粉の肉入りピロシキ 。リンデン茶。

☆ 結婚式

にしんをそえたじゃがいもサラダ 肉料理
トゥバロークをそえた きのこサラダ 玉麦をそえた煮こごり
ビートサラダ 薄切りの燻製ハム
塩漬けきゅうりのサラダ えんどう豆をそえた胸肉の燻製
発酵漬けきゃべつのサラダ 薄切りの焼き肉
ゆでた肉とブイヨンで煮たつみれ
魚料理 ゆでた豚の頭
塩漬けシロザケ がちょうの焼き肉
魚の干物
焼き魚 その他
オーブンで焼いた魚 結婚式スープ
にしんのリング トロクナーノのつみれ
キリカ(小魚)バター サーロ(豚の脂身の塩漬け)をそえたピローク
かますの卵 じゃがいもグラタン
バトルーシカ「ムリギ」
おしまいの料理 ピロシキ
肉をそえた酸味シチー たまごバター
つみれ入りスープ
玉麦の挽き割カーシァ
えんどう豆スープ
ソースつきじゃがいも

ティー テーブル
塩漬け(燻製)魚、ハムつきサンドイッチ。
自家製トゥバローク。
きゃべつをそえたピロシキ。
キャラウェイをそえたブーロチカ。
バトルーシカ。
紅茶または液果実の飲み物。

誕生日
にんじんをそえたピローク、つぶしたじゃがいもつきレピヨーシカ、セモリーナ粉のバトルーシカ、蜂蜜生地の8の字ビスケット。
パン クワス、たまご またはミルク コーヒー。

出産見舞い
1) 大麦カーシァ(バターと半分に割ったゆでたまごで飾る)。
2) 玉麦カーシァ(バターと半分に割ったゆでたまごで飾る)。
3) 目玉焼き(刻んだ青ねぎで飾る)。
4) セモリーナのカーシァ(ジャムをそえる)。
5) えんばく粉カーシァ(バターとゆでたまごをそえる)。
6)オープンで焼いた鶏(ゆでたまごで飾る)。
7) オラーディ。
8) 大麦粉のつみれ。
9) 干した小麦粉だんご。

コールド テーブル

キリカのリング、調味料つきのイクラ、煮こごり、煮た豚のもも肉、ビート サラダ、にしんをそえたじゃがいもサラダ、じゃがいもグラタン、トロクナーのつみれ、蜂蜜またはビャクシンの飲み物。

以上