ロシア料理
ロシア料理は、昔から広く世界に知られている。それは次のことからうかがわれる、もともとロシアの食品であったもの(イクラ、クラスヌィ・ルイベ、スメタナ、そばの挽き割り、ライ麦粉など)やよく知られた幾つかのロシアの民族料理(ストゥーデェニ、シチー、ウハー、ブリヌィ、ピローク)が世界のレストランの調理場に直接入っていることや、ロシアの調理技術が他の民族の料理に間接的に影響を与えていることである。ロシア料理の種類は19世紀と20世紀の境目に、極めて多くなり、ヨーロッパでのその影響は、非常に人気があって、その当時有名なフランス料理と同じ様な敬意をもって、ロシア料理について語られはじめたほどであった。
ロシアの民族料理は、極めて長い発達の道をたどってきたが、そこには、それぞれ消せない跡を残している大きな節目がいくつか見られる。
9 −10世紀から発展をはじめ、15−16世紀に最大の花を開いた古ロシア料理は、確立に長い時間がかかったが、今も多く残っている一般的な特徴をもっていた。
この時期の初めに、酸味のある(酵母をつかった)ライ麦生地でつくるロシア・パン(われわれの食卓の無冠の帝王、これなしでは今もロシア料理は考えられない)が姿を現し、またその他の重要な種類のロシアのパン、穀粉製品(よく知られているサーイカ、バラーノク、ソーチェニ、ピーシュカ、ブリヌィ、オラージィヤ、ピロークなど)が生まれている。これらの製品は、ロシア料理発達の全時期にわたって特徴となった醗酵させた生地だけをベースとして作られたものであった。酸味やクワス味にたいする強い愛着は、 えん麦、小麦、ライ麦で作るロシアの本物のキショーリが作られたことにも見られるが、それは現代風のとくに木の実のキショーリよりもはるか昔に姿を見せていた。
メニューの中で、さまざまなカーシーツァ、カーシャが大きな場所を占めている。これらはもともと儀式や祭りの食べ物と考えられていた。
これらのパン、穀粉食品は、多くの場合魚、きのこ、木の実、野菜ごくまれに肉によって変化がつけられていた。
ロシアの代表的な飲み物(各種の蜂蜜、クワス、蜜湯)の出現もこの時期である。
すでにロシア料理発達の初期に、精進料理(植物・魚・きのこ)と非精進料理(牛乳・卵・肉)に食卓を厳しく分けることがはじまったが、それが19世紀の末まで料理の発達に大きな影響を与えた。精進と非精進との間に人工の垣根をつくり、材料を分け、それを混ぜるのを許さなかったことで、結局ほんのわずかな新しい料理しか生まれなかった。メニューは全体として貧しく、より単調で簡単なものになっていった。
精進料理は、うまくいったといえるが、それは一年のうちの大部分の日(年によって違うが192
日から216 日)が精進日とされ、しかもきびしく守られたからである。当然、精進料理の種類を増やそうとする気持ちが強かったからである。ロシア料理に、きのこや魚料理かが多く、各種の植物素材、穀物(カーシャ)、野菜、木いちご、野草(いらくさ、よろいぐさ,あかざ等)を利用しようという傾向のあることは、このようなことに由来する。さらに10世紀から知られていた、キャベツ、かぶ、二年生大根、えんどう豆、きゅうりのような野菜は、生でも塩漬けでも、ゆでたり煮たり焼いたりしても、それぞれ別々に調理され食べられていた。それで、たとえばサラダとくに野菜とたまご、肉を混ぜたサラダ(ビネグリョート)は、ロシア固有の料理としては決して生まれず、19世紀になって、やっと西欧からの借り物としてロシアに姿を見せたのである。しかも、それは、はじめは主に一種類の野菜で作られ、それに応じてきゅうりサラダ、ビート・サラダ、じゃがいもサラダなどという名がつけられていた。きのこも種類別に{グールズディ(はらたけ)、リージク、オピャータ、ベールィ・スモルチョーク、ペチェリーツァ(シャンピニオン)など}全く別々に塩漬けされたり、煮たりされていた
が、今でもそうされている。魚も全く同じで、煮たり、乾したり、塩漬けにしたり、焼いたり、まれに揚げたりして使われていた。本で、「汁の多い」(ソチュヌィエ)とか「おいしい」(フクスヌィエ)という語のついた魚料理の名を見かけるが、シゴビーナ、タイメニナ、シチューチナ、パールトゥシナ、サモービナ、ラソーシナ、アショトリナ、セブリュージナ、ベルージナなどについている。ウハーにも、オークニエバヤ、ヨルシォバャ、ナリーミエ、スチェールリャジェなどがある。
このように料理の名前は多いが、それらの中身はあまり違わない。味の違いは、次の二つの方法で出されていた、第一に熱処理の有無、使用する油(とくに植物油−大麻油、くるみ油、けし油、オリーブ油、時代が新しくなってからは、ひまわり油)の違いによって、第二はスパイスを使うことである。スパイスでよく使われていたのは、ねぎ、にんにく、わさび、ウクロープ(ディル)で、しかも大量に使われていた。またパセリ、ういきょう(アニス)、コリアンダー、月桂樹の葉、黒こしょう、ちょうじ(クローブ)が使われたがこれらはすでに10−11世紀ロシアに見られた。そのあと15−16世紀の初めに、しょうが、しょうずく(カルダモン)、肉桂(シナモン)、しょうぶ(根)、サフランが加わった。
ロシア料理発達の初期にはまた、熱い汁物を好む傾向が作りだされた、その汁物は、当時ひっくるめて「フリョーボフ」とよばれていた。植物をベースとするシチー、パフリョーフカのようなフリョーポフとさまざまなザチルーハ、ザバリーハ、バルトゥーシュカ、サロマートなどの穀粉スープのバリエーションが広くゆきわたっていた。
肉や牛乳については、加工品はあまり使われず、その加工も簡単なものだった。肉は、普通シチーかカーシーツァに入れて煮られ、牛乳は生か、タムレーノエかまたは酸乳として使われた。牛乳からトゥバロークとスメタナが作られたが、生クリームとバターの製造は、長い間ほとんど知られていなかった、すくなくとも15−16世紀以前は生クリームとバターは、ごくまれに、偶然にしか見られなかった。
ロシア料理発達の次の段階は、16世紀の中頃から17世紀の末までである。この時代には、精進、非精進のバリエーションの一層の発達が続いただけでなく、階級や階層の料理の違いがとくにはっきり見られるようになる。平民の料理はこの時からますます簡単になりはじめ、領主や貴族とくに上流階級の料理は、ますますこったものになっている。ロシアの調理法の分野の長年にわたる経験があつめられ、まとめられ、一般化され、それを基礎にして、古い料理の新しい、もっとこみいったバリエーションが作られている。また主に東方に起源がある幾つかの外国料理や調理法が、はじめて借用されたり、ロシア料理に公然ととりいれられている。
とくに当時の非精進のお祝い料理が注目される。すでに習慣になっていた塩漬けや煮た肉と並んで、ベルチェノエ(すなわちベールチェル(焼き串)を使って調理したもの)や家禽、野鳥の焼き肉が、上流階級の食卓で名誉ある場所を占めている。肉を加工する形も、さらに分化した。たとえば牛肉は、主に塩漬け肉の製造とうま煮にあてられ、豚肉からは、長期保存用のハムが作られたり、焼くか蒸し煮の形で子豚か生肉が使われている、しかもロシアでは、脂身がなく肉の多い豚肉が値打ちのあるものとされていた。羊の肉や家禽、野鳥は、主に焼き肉にされ、ほんの一部(羊肉)が蒸し煮に使われている。17世紀にロシアの基本型全部が最終的に作りだされた。このとき、中世のロシアにはなかったカリャー、パフメルカ、サリャーンカ、ラッソールニクが生まれている。
上流階級の精進料理も、豊かになっている。そこではバリーク(ちょうざめの背の肉)、黒イクラが重要な場所を占めはじめているが、それらは塩漬けだけでなく、酢やけし油で煮て、食べられている。
17世紀の調理法に強い影響を与えたのは、東方、第一にタタール料理だが、それは16世紀後半に、アトラハン汗国とカザン汗国、バシキールとシベリアがロシア国家と合併したことと関連がある。丁度この時期に、醗酵させない生地で作った料理(ラプシャ、ペリメニ)や乾し葡萄、乾しあんず、いちじく(乾いちじく)のような材料や、この時以後ロシアで伝統として使われるようになるレモンや茶が、ロシアの台所に入っている。これによって、デザート料理が大きく補充された。ロシアではキリスト教が入る前に知られていたプリヤーニク(糖蜜菓子)とならんで、さまざまなカブリーシュカ(生姜入り菓子パン)、スラドキー・ピローク(甘いピローク)、ドロップ、ツカートそれに木いちごからだけでなく、二三の野菜(蜂蜜に漬けたにんじんや糖蜜漬けの生姜、二年大根)から作った多くのジャムが見られるようになった。17世紀後半にロシアで甘庶糖の生産が始まり*
それを原料として、香料を加えて、ドロップス、ザヨードキ、スラスチ、ラーコムストバがつくられ、果物などが調理された。しかしこれらのデザート料理はすべて、主に上流階級の特権であった**。
* 最初の角砂糖工場は、18世紀の初めにモスクワで商人のベストフによって作ら
れた。彼には、甘庶糖の無関税輸入が許可された。ビートを原料とする砂糖工場は、18世紀の末から19世紀の初めにやっと作られた(最初の工場が、トゥーラ県のアリャビエフ村にある)。
**1671年の総主教の正餐のメニューには、すでに砂糖とドロップスがあげられている。
大貴族の食卓の特徴は、料理種目が多いことで、それは50種にも達し、皇帝の食卓では、150
から200 にまで増えている。この料理の大きさも大きく、そのために最大の白鳥、がちょう、七面鳥やときには三四人でかかえるほどのアショートルやベルーガ(いずれもちょうざめの種類)が選びだされるのが普通だった。一方では、料理を飾りたてようとする傾向が現れている。食品を材料にして、宮殿や幻想的な大きな動物が作られている。宮廷の食事は、華やかで贅沢な儀式となり、昼の2
時から晩の10時まで6 時間から8 時間も続いたが、その間に約10回料理が変わり、そのたびごとに、例えば10種類の焼いた野鳥または塩漬けの魚、10種類のブリヌィまたはピロークのように、同じ名のついた一連の料理(時には20種類に及ぶ)が出されている*
。
* 6 〜8 回料理が変わる金持ちのお祝い料理で、料理を出す順序は、
18世紀後半に最終的に確立した。しかし一度変わるとき一品が出されて
いる。このようなきまりは19世紀の60〜70年代まで残っていた。
1. 熱いもの(シチー、パフリョフカ、ウハー)
2. 冷たいもの(オクロシュカ、バトビニヤ、ストウデェニ、ザリブナー
ヤ・ルイバ、サーロニナ)
3. 焼いたもの(肉、鳥)
4.骨抜き魚料理(煮または焼いた熱い魚)
5. ピローク(甘くないもの)、クレーブヤーカ
6. カーシャ(場合によってはシチーと一緒に出す)
7. ピローシェノエ(甘いピローク、ピロシキ)
8. ザヨードキ(干菓子)
こうして、17世紀には、ロシア料理は、料理の種類では、すでにきわめて多彩なものになっていた(言うまでもなく、支配階級の料理についてである)。一方材料を組み合わせ、その味を出す能力という意味の調理技術のレベルはまだ低かった。これまでのように、材料の混合や、材料をきざむことや、粉に挽いたり、砕くことが許されなかったことを言えば十分であろう。何よりも、肉料理がそうだった。それでロシア料理はフランスやドイツ料理と逆に、長いあいだ各種の挽き肉、ルリョート(きざみ肉料理)、パシュチョート(肉・野菜をきざんだ料理
)、カツレツを知らず、受け入れようとしなかった。古いロシア料理には、ザペカーンカ(香料入りの果実酒)やプディングは縁のないものだった。大きな塊で、理想的には、動物や植物をまるごと料理しようという傾向は、18世紀まで残っていた。例外は、ピロークや一匹の動物や鳥、その一部(ソーセージ用の胃、腸)に入れるつめ物である。しかし、そのつめ物も大部分は自然によって砕かれた、いわばできあいのつめ物{穀粒(カーシャ)、木いちご、きのこ(これはきざまれなかった)}であった。つめ物にする魚だけは、おろされたが挽かれていない。すこし後になって、18世紀の終わりとくに19世紀にやっと、西欧料理の影響をうけて、若干のつめ物がとくに挽かれるようになった。
ロシア料理発達の次の段階は、17世紀と18世紀の境目に始まり、百年とちょっと、19世紀の10年代まで続いている。この時代に、支配階級の料理と庶民の料理の極端な区別が進行する。17世紀には、支配階級の料理は、まだ民族的な特徴をもっており、庶民料理との違いは、材料と料理の質、種類の点でずばぬけていたという点だけに見られたが、18世紀には、支配階級の料理は、次第にロシアの民族的な性格を失うようになった。ピョートル時代以後、ロシアの上流階級や貴族は、西欧の料理の伝統を借りたり、とりいれたりしている。西欧を訪れた富裕な貴族は、外国のコックをつれて帰った。はじめは、その多くがオランダ、ドイツとくにサクソニアとオーストリア系で、その後はスエーデンと、とくにフランス人が多かった。18世紀の中頃以後外国のコックが、定期的に呼びよせられ、最高貴族の料理女や料理奴隷がほとんど完全に追放されるほどであった。
独立した料理としてザクースカ(前菜)が使われるようになったことが、この時代に現れた新しい慣習の一つと考えられる。西から入りその時までロシアの食卓で知られていなかったドイツのサンドウィッチ、フランスやオランダのチーズが、古いロシア料理である冷たい塩漬け肉、ストゥデェニ(煮こごり)、ハム、プジェニーナヤ(焼き豚)、イクラ、バリークその他塩漬けの白身の魚と一つの皿に混ぜられたり、特別な食事(朝食)の中で混ぜられたりさへした。新しいアルコール飲料のラターフィヤ、エロフェーイチも姿を見せた。茶がますます重要になってきた18世紀の70年代に、社会の最上層では、甘いピローク、ピロシキ、砂糖菓子で正餐のきりをつけたが、それらは茶と一緒に別に出され、午後5
時に合わされていた。19世紀の前半、1812年の祖国戦争のあとに、国内における愛国心の全般的な高まりと、先進的な貴族の外国かぶれに対するスラブ狂信者集団の闘いに関連して、ロシアの民族料理に対する関心が復活しはじめた。しかし、1816年に、トゥーラの地主ベ・ア・リョフシンがロシアで最初の料理書を作ろうとした時、彼は次のように書かねばならなかった、「ロシア料理に関する資料は、ほとんど完全に散逸している」ので「今では、ロシアの調理法について書かれたものを完全な形で提示できず、記憶に残っているものからまだ集められるもので我慢しなければならない、というのはロシアの調理法の歴史は、書かれたものでは決して伝えられなかったからである」と言うのである*
その結果、記憶によってベ・ア・リョフシンが集めたロシア料理の料理目録は、その作り方が詳しくないばかりでなく、種類の点でも、ロシア民族料理の真の豊かさを反映するものではなかった。*
リョフシン・В.А.ロシア調理法 モスクワ 1815年。
支配階級の料理は、19世紀の前半のあいだ、フランス料理の大きな影響のもとで、庶民料理とは別に発達を続けている。だが、この影響の性格自体大きく変わっていた。カツレツ、ウィンナー・ソーセージ、オムレツ、ムース、コンポートなどの外国料理の直接の借用や昔からのロシア料理の追放が行われた18世紀と違って、19世紀前半には、別の過程が見られる、それはロシアの調理法遺産の研究であり、19世紀後半には、ロシア民族料理の復活が始まるが、もちろんそれにもフランス風のアレンジが加えられている。
ロシアでは、この時代支配階級のロシア料理を根本的に改革した多くのフランス人コックが働いていた。ロシア料理の改革に足跡を残している最初のフランス人コックは、マリー・アントゥワン・カレムである。彼は、最初の数少ない研究者コックの一人である。ペ・イ・パグラチオン公爵の招待でロシアにくるまで、カレムは、イギリスの皇太子(後のジョージ四世)や、ビュルテンベルグ公、ロスチャイルド家、タレーラン家のコックをしていた。彼は、様々な民族の料理に深い関心を持っていた。短期間のロシア滞在中に、カレムは、ロシア料理を詳しく知り、その価値を評価し、それから借り物をとり除く方法を考えた。ロシアのカレムの後継者は、カレムがはじめた改革を続けた。この改革は、まず食卓に料理を出すきまりに関するものだった。18世紀にとられていた「フランス」式の出し方(全部の料理を同時にテーブルにならべる)にかわって、一品ごとに取り替える古いロシア式の出し方がとられた。それとともに料理の変わる回数が4
〜5 回までとすくなくされ、軽い、食欲を起こさせる料理に続いて重い料理が出されるという配膳の順序が定着した。その他、丸のままで料理された肉や鳥が食卓に出されず、その前に一人分づつに切られるようになった。このようなシステムのもとでは、料理の飾りは、それだけのものとして、意味がなくなった。改革者たちはまた、18世紀から19世紀の初めに支配階級の料理で大きな場所を占めていた、すったり、こしたりした材料で作る料理を、自然のままの、ロシア料理本来の材料で作る料理と置き換えることを支持した。こうして骨付の大きな肉の塊で作る、ありとあらゆるアトビブニー(羊肉、豚肉)や、ビフテキ、クローブス、ランギョート、アントレコート、エスカロープが現れた。同時に、料理人の努力は、若干の料理の重苦しさと消化の悪さをなくす方向に向けられた。たとえば、シチーの調理で、彼らは、常識からでなくただ伝統だけから続けられていた、おいしくない穀粉のまぜ物でそれを作ることを止め、18世紀の70年代にロシアに出現したジャガイモのつけあわせを広く使うようにした。ロシアのピロークについて、彼らは酸味のあるライ麦粉のかわりに、小麦粉でつくるまろやか
なパイ型生地を使うように提案した。彼らはまた、今われわれが使っているような圧搾酵母で生地を作る中だねを使わない方法を導入した。そのおかげで作るのに10〜12時間かかっていた醗酵させた生地が、2
時間で出来るようになった。フランス人コックはロシア料理の特徴の一つとなっていたザクースカ(前菜)にも注目した。18世紀には、ドイツ流にザクースカをサンドウィッチと一緒に出す方法が主流だったが、19世紀には、ザクースカは、それぞれ別な皿に、一定の形をつけて、特別なテーブルに並べられるようになった。こうして、ザクースカのなかに、肉や魚料理だけでなく、きのこや野菜のクワス料理のような多くの古いロシア料理がとりいれられ、種類が多くなったが、その多さとバラエティーの豊富さは、今でもたえず外国人の驚きの的になっている。最後に、フランス学派は、それまでロシア料理に採用されていなかった材料の組み合わせ(ビネグリョート、サラダ、ガルニール)と、調理法での正確な計量を導入し、ロシア料理に、それが知らなかった西欧の調理技術を知らせた。19世紀の末に、ロシアの竈、とくにその火加減に適していた土鍋や鋳物鍋に代わって、オーブン、金属製のシチュー鍋、ソテー鍋等がついた料理用竈が出現した。古い焼き鍋に代わって、こし器、玉しゃくし、肉挽き器などが使われはじめた。ロシア料理の発達に対するフランス人コックの大きな貢献は、ロシア料
理人の輝かしい巨匠群を育成したことである。ミハイルとゲラシム・ステパーノフ兄弟、ゲ・ドブロボリスキー、ベ・ベストゥージェフ、イ・ラデッキー、ペ・グリゴリエフ、イ・アントノフ、ゼ・エレメーエフ、エヌ・ホジーエフ、ペ・ビンケンチェフ等がその教え子であり、彼らは19世紀全体にわたってロシア料理のよい伝統を維持し広めたのである。そのうち、ゲ・ステパーノフとイ・デラデッキーはすぐれた実践者であったばかりでなく、ロシア料理について膨大な手引きを残している。
いわば「上から」行われ、ペトログラートやモスクワの貴族のクラブやレストランに集中していた支配階級のこの料理改革の過程と平行して、もう一つの過程も進んでいた、それは19世紀の70年代まで田舎や地主の屋敷で勝手に作られていたが忘れ去られた古いロシア料理の作り方の収集、復活、研究である。この収集の源となったのは、庶民料理だが、その発達には、膨大な数の名もなく、有名でもないが腕のよい料理農奴が加わっていた。
19世紀の終わりの三分の一の時期までに、支配階級のロシア料理はまたとないほどの料理の種類と洗練された、デリケートな味によって、フランス料理と並んでヨーロッパで主要な地位の一つを占めるようになった。それとともに次のことに注意しておかねばならない。それはあらゆる変化や付加や外国の影響にもかかわらず、ロシア料理の重要な特徴が保たれた庶民料理で粘り強く維持されたので、固有のものを今まで残しているということである。そのロシア料理とロシア民族料理の主な特徴は次のようなものである。食事の回数が多いこと、ザクースカ料理の多様性、パン、ブリヌィ、ピローク、カーシャを使うのを好むこと、初め
の冷、熱汁もの料理の特殊性、きこ、魚料理の多様性、塩漬けの野菜やきのこをよく使うこと、お祝い料理、ワリョーニェ、ペチニェ、プリヤーニク、クリチーをそえたデザート料理の豊富さなどである。
ロシア料理の特徴のいくつかについて、もっと詳しく述べよう。すでに18世紀末に、ロシアの歴史学者イ・ボルチンは、金持ちばかりではないロシア料理の特色をあげている。農村では、四回食事がとられており,農繁期の夏には五回(朝食またはペレフバトカ、昼食、早正餐または正12時、正餐、夕食、夜食)の
食事がされた。中部と北部ロシアで行われていたこの習慣は、南ロシアでも名を変えて残っていた。そこでは、朝の6
〜7 時に、スネーダを食べ、11〜12時に正餐、14〜15時に昼食、18〜19時に夕食、22〜23時に夜食を食べている。資本主義の発達につれて、都市の労働者は、最初のうちは日に三度、その後は二度食事をするようになった。夜明けに朝食をとり、家に帰って正餐か夕食をとった。仕事場では,おやつすなわち冷たい食物を軽くつまむだけだった。次第に、時間に関係なく、熱い汁物がついたフルコースの食事がアビヨート(正餐)と言われるようになった。
ロシアの食卓にとって、パンは大きな役割を果たしてきた。農村では、シチーまたはその他の初めの汁物のほかに、500
グラムから1 キログラムのライ麦黒パンが食べられた。白の小麦パンは、20世紀の初めまで、ロシアでは広まっていなかった。それを食べるのはまれでしかも主に都市の金持ちが食べ、庶民のなかでそれが見られるのは、お祝いの食事としてであった。それで、多くの地方で「ブールカ」*
とよばれた白パンは、黒パンのように、パン屋で焼かれず特別のパン屋で焼かれ、軽く甘味がつけられていた。白パンの地方種として、モスクワのサーイカ、カラーチ、スモレンスクのクリョンデリ、バルダイのバラーンカなどが
ある。黒パンは作られる場所だけでなく、焼き方と粉の種類だけで区別された、ペクリョバンヌィ(精製)黒パン、ゆで黒パン、パドーブィ(炉底)黒パン、殻なし黒パンなどである。
* 「ブールカ」は、「球のように丸い」という意味のフランス語b
ouleからきている。はじめは白パンはフランス人かドイツ人のパ
ン焼き職人(ブーロチニキ)だけが焼いていた。
20世紀になってから、それまでロシア料理にはなかった白い小麦粉から作った粉製品であるバーミセリ、マカロニが日常生活のなかに入り込み、一方ピローク、ブリヌィ、カーシャの使用が減少した。白パンの普及と関連して、それと一緒に茶を飲んで、朝食や夜食の代わりにされることがあった。
18世紀末からスープと言われるようになった最初の汁物料理は、ロシア料理であいかわらず重要なものであった。スープはロシアの食卓でいつも最上位の役割を果たしてきた。匙が食卓の主な道具であったのも理由あってのことである。匙はわが国ではフォークよりも4
00年前に現れている。「竿で釣ったものはフォークで、網でとったものはスプーンで」と地口は言っている。
ロシアの民族的なスープであるシチー、サチルーハ、パフリョーフカ、ウハー、ラッソーリニク、サリャーンカ、バトビニヤ、オクローシカ、チュリヤーの種類は、ブィヨンやスープ・ピューレやロシア人の熱い汁物料理好きによってうまく根づいた肉や挽き割りを入れた様々な味付けスープのような西欧のスープによって増えつづけた。現代のロシアの食卓ではわが国の諸民族の多くのスープたとえばウクライナのボルシチやクリョーシ、白ロシアのスベコーリニクやクリョーツカ入りスープが全く同じ場所を占めている。多くのスープ特に野菜スープや野菜・挽き割りスープは、うすめたカシーツ・ザスピツ(野菜くず粥)から作られるか、レストランの食堂の産物となっている。しかし、それらは多彩ではあるが、これまでロシア料理の独特さを決定してきたのはそれらではなく、シチーやウハーのような古い、本来のロシア・スープである。
スープには及ばないが、魚料理も、ロシア料理で、その本来の意味を持ちつづけている。テリノーエのような幾つかの古典的なロシアの魚料理は使われていない。しかし、それらは、おいしく、作り方も簡単である。海魚からもその料理の全部を作れる、ついでに言えば、海の魚は、ロシア料理では昔から特に北部ロシアや白海、北氷洋沿岸地方で使われていた。当時穀物のとれなかったこれらの地方の人々は昔から、たら、おひょう、ピークシァ、モーイバ、ナバーガになじんでいた。「魚なしは、パンなしより悪い」と当時の海に面した地方の地口は言っている。
ロシア料理で有名な魚料理は、蒸煮、水煮、骨をとった一切れの魚肉から特別な仕方で作られたテェリャーチナ(骨抜きの)魚、ジャレナーヤ(焼き魚)、(カーシャまたはきのこのつめ物をつめた)ネチナーヤ、トゥショナヤ、ザリーブナヤ、ペチョナヤ・フ・チェシゥエ、スメタナ揚げ、プロソリナヤ(塩漬け)、スーシェナヤ(乾魚)である。ペチョラとペルミ地方では、その他に魚を酸漬けにし、西シベリアではストロガニナ(冷凍の生魚)を食べている。魚の燻製だけは普及していなかったが、この70〜80年すなわち20世紀になってから発展してきた。
古いロシア料理の特徴は、非常に多くの種類のスパイスを広く使うことだった。しかし、魚、きのこ料理や野鳥料理の役割の低下やメニューにドイツ料理が入ったことで、ロシア料理で使われていたスパイスの比重が下がってきた。 のみならず、多くのスパイスは高価だったので、酢や塩と同じように、17世紀以後、庶民のあいだでは、調理の中途には使われず、食卓におかれ、食べるときに好みに応じて使われるようになった。この習慣は、その後ロシア料理はスパイスを使わないかのように言われる理由になった。その際ゲ・カトシヒンの17世紀のロシアに関する有名な著作が引き合いに出される、その著作で彼は次のように書いていた「調味料なしで、胡椒や生姜なしで、塩も少なく、酢も使わずに調理する習慣もあった」。一方、それに続けて同じゲ・カトシヒンは次のように説明している、「わずかな酢、塩、胡椒しか使っていないものを、どのようにして食べたのだろうか、それは食卓で加えられた」*
。ずっと昔から、食事時テーブルに、塩入れに入れた塩、胡椒入れに入れた胡椒、それぞれの壺に入れた芥子や酢を置く習慣が残っていた。それで庶民の料理では、スパイスを入れて料理を作る習慣が作りだされなかったが、一方支配階級の料理では、スパイスは調理の途中で使われつづけた。ロシア料理はスパイスも調味料も、すでにその形成期に知っており、魚、きのこ、野鳥、ピローク、スープ、ブリヤーニク、パースハ、クリチーとうまく組み合わせていた。なお、大切にしながらだが、いつも切れることなく使っていた。このような事情を、ロシア料理の特徴を述べるときに忘れたり,見落としてはならない。
最後にしめくくりとして、ロシア料理独特の調理過程の幾つかに触れねばならない。ロシアの民族料理発達の大部分で、調理過程は、ロシア竈で煮るか焼くかにまとめられる。この時、煮焼きはかならず別々にされていた。煮るものは、始から終わりまで煮られ、焼くものは焼かれるだけだった。こうして、ロシアの民族料理は、熱処理の組み合わせ、さらに異なる熱処理や混合熱処理あるいは二重熱処理とは何かを知らなかった。食物の熱処理は、ロシア竈の熱による加熱だったが、その熱は「パン前」、「パン後」、「余熱」の三段階の強または弱で常に火にふれず、絶えず一定温度に維持するか、次第に温度が下がる状態で加熱される、その時、竈はゆっくりと冷め、板状熱源で調理されるときのように、温度が上がる状態で加熱されることはない。それによって食品は、煮られるよりもむしろ蒸し煮か、半焼、半蒸し煮の状態にいつもおかれることになるが、これがまったく特別な味をつけるのである。古いロシア料理の多くが、別の温度条件で作られた場合、期待される効果を生みださないのも理由あってのことである。
これは、現代の条件のもとで、本物のロシア料理を作るためには、ロシア竈を復活すべきだ、ということを意味するのだろうか。決してそうではない。そのかわりに、ロシア竈で作られる徐々に温度が下がる状態を真似ればよい。それは現在でも可能である。
だがロシア竈がロシア料理に作用したのは、プラスだけでなく、ある程度マイナスもあったことを忘れてはならない。それは、合理的な調理法の開発を刺激しなかったのである。板状熱源による調理の導入は、幾つかの新しい調理法と、西ヨーロッパ料理の借用および古いロシア料理の改革、その洗練と発展、新しい調理法への適応を必要なものにした。この傾向は、成果の多いものであった。それは多くのロシア料理を忘却から救うのを助けている。ロシア料理について、私はこれまでその特質と特徴を強調し、その発達と内容全般を見てきた。しかし、その中にあるはっきりした地域による違いを見落としてはならない。その違いは主として、地域の自然が多様であり、それと関連して植物や動物の材料に類似性がないこと、周辺民族の様々な影響、過去の住民の社会構造の多彩さによって説明される。それで、モスクワッ子と北海沿岸住民、ドンのコザックとシベリアッ子の料理が著しく違うのである。北部では、鹿や新鮮な海魚や塩魚、ライ麦のピローク、トゥバロークや多くのきのこを入れたデシュノを食べている一方では、ドンで、ステップの野鳥が焼かれたり蒸され、多くの果物や野菜が食べら
れ、葡萄酒が飲まれ、鶏肉からピロークが作られている。北海沿岸の食物は、スカンジナビヤ、フィンランド、カレリア、ラップランドの食物に似ているが、ドン・コザックの料理には、トルコやノガイ料理の強い影響が見られる。またウラルやシベリアのロシア人はタタールやウドムルト料理の伝統を継いでいる。
別な面の地域的特質は、昔から中部ロシアの古いロシア諸州の料理にもあった。この特質は、ノブゴロドとプスコフ、トベリとモスクワ、ウラジミルとヤロスラブリ、カルーガとスモレンスク、リャザンとニジニ・ノブゴロド、それぞれの間の中世紀の競争によって生みだされたものである。この場合、その特質は、料理の面では、調理法の違いやシベリアやウラルに見られるような、各州に独自の料理があるというような、共通性がない点ではなく、同じ料理のなかでのはっきりした違い、重要ではないがそれにもかかわらず非常に根強い違いに現れ
ている。そのはっきりした例は、ウハー、ブリヌィ、カーシャ、プリャーニクのような広く普及しているロシア料理であろう。それらはヨーロッパ・ロシア全体で作られているが、各州にそれぞれの料理の好みの型があり、作り方の小さな違い、外形の違い、食卓への出し方の違いなどがある。このいわば「小地域性」のおかげで、例えばトゥーラ、ウィヤジマ、ボロネーシ、ゴロデッキー、モスクワ等様々なプリヤーニクが生まれ、発達し、これまで残ってきたのである。
大小様々な地域の違いがロシア料理をさらに豊かにし、多彩なものにしたことは言うまでもない、にもかかわらず地域による違いは、ロシア料理の基本的な性格を変えなかった。というのは、どの場合にも、すでにこれまで指摘した全般的な特徴に気を配っていたからだが、この特徴が全体として、バルト海から太平洋に至るロシア全土のロシア民族料理を特徴のあるものにしている。
おわり