大村の歴史 - HISTORY OF OMURA

大村市在住、今里さんの大村の歴史です。


(株)今里産業エスディホーム

    

大村の歴史は、別館2に掲載中です。



はじめに

日本の西の端にある長崎県のへその位置にあると言われる大村市

海あり 山あり 川あり 歴史も古く

長崎弁は 実は 大村弁なのです

なぜ?

この大村市の歴史をひもとき

新しく大村に暮らす方にも

もっと大村のことを知ってもらいたい

生まれも育ちも大村の私たちも ディスカバー大村

大村公園 野岳 岳の木場公園 萱瀬ダム 琴平公園 etc

暮らしを もっと楽しく 面白く 快適にするための 情報をお届けしていきます



大村市の歴史


■大村にはいつ頃から人が住み始めたのでしょうか?

現在の野岳湖の湖底になってしまったところで細石器が発見れています。

これは、1万3000年前の旧石器時代のものとされてます。

旧石器時代は土器の使用がなく 狩猟、採集生活で

木の実や獲物を追って転々として暮らしていたと言われています。

こういう生活ですから、現在の大村市の山間部 一定の高度を持ったところの山中が生活の場だったのです。

大多武(おおたぶ)から琴平、野岳に広がるイチイガシ原生林が旧石器時代から縄文人の生活の場だったのです。

戦後、植林事業で杉や檜の山に変わっていますが、

琴平のスカイパーク公園の近くには今でもイチイガシ原生林が見られます。

結構見晴しはいいですから、大村湾の静かな輝きを見ながら、大昔の人は生活していたのでしょうね。

4〜5人の家族が生活するための木の実や狩猟の対象の動物を確保するための広さが

15〜20・四方とどこかで読んだことがありましたので、

今の大村の広さでは旧石器時代はほんとに数えるほどしか人は住んでなかったのでしょうね。



■稲作のはじまり

エジプトはナイルの賜物という言葉は聞いたことがありますが、

大村も農耕生活の発祥の地とされているのは、郡川流域です。

郡川は、多良岳の土砂を押し流して扇状地をつくりました。

空港から大村の市街地を見るとその形状がよくわかります。

これが今私たちの住んでいる大村平野です。

大上戸川(大村の中心を流れる川)から佐世保側は、土を50センチも掘ると丸い石が出てきます。

最近は少なくなりましたが、以前は諏訪や池田町、竹松までの地区で丸石を積み上げた塀が多く見られました。

今でも、乾馬場近辺で、ごくわずかですが見かけます。

畑を作ると丸石が出てきますのでそれを積み上げて造ってあったというわけですね。


さて 郡川は、古代人には大きな役目を担った川でした。

弥生時代(紀元前三,二〜三世紀)になると大陸から稲作の技術が伝わり新しい生活が始まりました。

有名なのが魏志倭人伝に出てくる卑弥呼でしょう。

その時代の遺跡は富の原遺跡有名です。

現在は経済連ジュース工場、ニチレイ食品工業一帯に広がっています。



■古墳時代

歴史の教科書通り、稲作が始まると力を持つ人間が出てきて

三〜四世紀には土を高く盛り上げて埋葬する古墳時代が始まります。

大村地方を代表する古墳は竹松駅裏にある鬼の穴古墳だそうです。


この地域には相当力のあった豪族が住んでいたのでしょう。


五世紀後半のものとしては福重の黄金山古墳(こがねやま)があります。

他にも野田古墳、弥勒寺古墳、八龍大権現古墳などいずれも郡川の右岸の丘陵地に位置している。

偉い人のお墓でしょうから、その村を眺めることのできるところだったのでしょうね。

このように郡川の流域は肥沃な平野部に多数の集落が形成され水稲栽培が盛んに行われていたのです。



■律令時代(奈良時代)

大化改新(六四六年)以降 日本は中央集権国家を形成し始める。

その詔が班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)小学校を思い出しますね。

国が六歳以上になった男女に一定の土地を貸し与えるという制度です。

大村には 二つの条里の跡があるそうです。

一つは郡地区に広がる沖田条里、もう一つが大上戸川両岸にある水田条里。

向陽高校の裏手から水田二区へ伸びていたそうです。

この沖田・水田地区が奈良時代の人口の集中していたところでしょう。

以降大村の二地域が大村の文化圏の核になっていきます。


水田の地域は戦前工員宿舎になったため条里の跡はわからなくなってますが、

沖田はその面影を残してます。

今でいう黒丸の地域です。

郡地区は当時 大村地方最大の穀倉地帯であり、数多くの古寺院群があったそうです。

町名にも残ってますよね。



■平安時代

六世紀半ばに伝わった仏教は次第に盛んになり、全国に国分寺と国分尼寺ができました。

大村でもこの郡地区には郡七山十坊とよばれる多くの寺院が造られたといわれています。


竹松、福重、松原の郡地区にあった十の寺院の名前と宗派を上げてみます。

現在では一つも残っていません。



村名 寺院 宗派

竹松村 極楽寺 真言宗

本来寺 真言宗

浄宮寺(じょうぐうじ) 禅宗

福重村 弥勒寺 禅宗

立福寺(りゅうふくじ) 禅宗

冷泉寺 真言宗

白水寺 禅宗

松原村 延命寺 真言宗

妙光寺 真言宗


造られたのは奈良時代と言われているそうですが宗派はすべて鎌倉以降にできた宗派ですね。

平安時代の終わりには十寺の内6寺はあったと書き記されているそうですから、

歴史の流れの中で宗派が変わったと考えるのが妥当なのでしょうね。

これ以外にも多くのお寺が建っていたそうです。

室町時代には、二十二寺にもなっていたそうです。

その後1366年に寺院群に火災が発生して寺の本堂、方丈、僧坊に至るすべてが灰になってしまったと

「延命寺縁起」という歴史書に書かれてあるそうですが、

この時代に郡地区に何らかの重大事件があったのでしょう。

これは領主大村氏の勢力拡大のための焼き討ち事件だという説があります。



■大村氏の先祖

大村藩の記録類によれば、藤原鎌足の子孫である純友の孫の直純を初代としています。

藤原純友は瀬戸内海の海賊を率いて朝廷に背いたため941年朝廷により滅ぼされました。

988年に純友の罪が朝廷より許され、孫の直純(その時伊予ー愛媛県にいた)は、

肥前の国(佐賀・長崎)の藤津、彼杵、高木の三群を賜ったという説。

994年直純は家臣を連れ、現在の寺島に

(大村公園を海沿いに諫早よりに行くと、小さな島が海に突き出すようにある)上陸したとされています。


もう一つの説は鹿島市古枝大村方一帯を本拠地とした

大村直が南北朝期の度重なる敗北により彼杵群大村に移住し定住したという説。


更に 少年使節団に出てくる原マルチノの先祖が藤津郡金剛勝院の荘官より中央から下向した。

という説。


朝廷に背いた子孫を許すということも不自然なので、藤原一門説でなければ、平一門説になる。



「私のコラム」

私は藤原説しか知らなかったので藤原一門だと思っていたのですが、どうも本当のところはどうなのでしょう。

藤原という名は日本の古来より名門の名前の一つ、

何しろ藤原鎌足の息子の不比等が日本の天皇制を作り 日本書紀 古事記を編纂した中心人物です。

その子孫が簡単に名前を変えるかな。

大村という名前に。

藤原一族は、300年という長きにわたっての隆盛が続き、

京都の嵐山一帯も藤原氏の別荘だったというくらいの名門です。

日本の政治のすべてを握り続けた藤原一門。

京より離れて西の端の長崎に とりあえず許されて左遷されたというのでしょうけど。

あの菅原道真でさえ福岡の太宰府に流されたときのショックは大きく

京で雷が起きると 桑原 桑原と(くわばら くわばら)と唱え 道真の祟りを畏れたそうですから。

(太宰府一帯を桑原といった)藤原説は今ひとつのように思えます。

だいたい 昔も家系を平家か源氏に持っていきたかったそうですから、

藤原一門の出にしたかったということもあるかもしれない。

しかし 田舎町で大きな村の集まりだから大村というのだと思っていた私も少しは 賢くなったかもしれない。



■大村の地名

文献上への登場は「和名類聚抄」(わみょうるいじゅうしょう)930年頃の書物に出ているそうです。



■鎌倉時代

資料が少ないそうです。

鎌倉時代は、京都東福寺の荘園であったとされています。

鎌倉時代の武士団は、小村一帯に 大村氏、武松氏、今富氏、秋月氏、日宇氏などがありました。


西彼杵半島には、時津氏、長与氏、馬場氏、福田氏がいたとされます。

ほとんど今の地名になっていますね。


市内上諏訪にある山田の滝から始まり、水田、杭出津を通って大村湾に注ぐ川を大上戸川といいますが

この川の中で諏訪から水田までを特に本堂川といいますよね。

こう呼んだのは、やはりこの川辺に700mの範囲の両岸に九つのお寺があったからだそうです。

郡川の寺院群と同じで 大上戸川流域にもお寺があったわけです。

お寺の名前を参考までに


左岸 右岸

通昭寺 浄土寺

宝生寺 万乗院

連福寺(山田の滝付近) 千乗院

円満寺 円長寺

阿弥陀寺


奈良時代には条里制がしかれた地域だったのでこれだけのお寺ができたのでしょう。


この時代に六〇〇巻もの大写経が行われたそうです。

それを富松神社に奉納をして神前で読経、経文の奉納をしたそうです。

当時の神仏習合の時代にあってはなんら不思議ではなかったそうです。



「私のコラム」

今でも、大村ではお葬式が終って、お寺さんが帰られ、

火葬に家族が行っている間に神主さんが自宅をお祓いに見えますよね。

この慣習は、大村だけのように思うのですが、いかがですか。

他の地域は聞いたことがないとみなさん言われます。

昔から大村はお寺さんと神社は仲がよかったのだと単純に思ってました。

神仏習合という考え方も、日本の独特の宗教観ですよね。

江戸時代にはいるとキリシタンの文化を持つ大村が

実は 長崎地方の一大仏教の地域であったことが面白いですね。

今は、日蓮宗の地域なのに。キリシタン以前は、禅宗と真言宗が中心の地域だったのですね。

嬉野の温泉は空海さんも湯浴みしたといわれています。

峠のところに川棚よりですが虚空蔵山(こくんぞさん)という山があります。

空海は虚空蔵菩薩の呪文を唱えながらを日本中の山々を回ったそうです。


「能満諸願 虚空蔵菩薩 最勝真陀羅尼」

(のうまんしょがんこうくぞうぼさつさいしょうしんだらに)


これは 100万編唱えると あらゆる経文を暗記ができるという呪文です。

空海は修行中この呪文を唱えながら山々を歩いたそうです。

その空海が 登った山だから虚空蔵山(こくんぞさん)と呼んでいるのだと思うのですがいかがでしょう。

川棚に 虚空蔵饅頭というのがあるそうです。

空海は日本に戻ってから、数年 福岡で足止めされていますから、

その足止めの時期に彼杵地区まで足を運んだのではないのでしょうか。

そして 大村の郡地区と水田地区の寺院群を見て

きっと高野山を開いてから大村の寺院群に力を入れたと考えられないでしょうか。

面白い説でしょう。

実際、鎌倉幕府は、最澄(比叡山)と空海(高野山)に力を入れ、

その後、武士集団の宗教は臨済宗(禅宗)になりますから大村の寺院群が当時、

鎌倉幕府からの支援があったことは間違いないと思います。

いくら肥沃な土地でも沖田も水田を合わせて30近くの寺院を養う経済力があったとは思えません。

南北朝の時代に大村は南朝についたそうですが、

ここのところの歴史がよくわからないので今後の研究材料にします。


この説は、全く 歴史的に根拠はありません。

大村に空海のゆかりの地を探せないので何とも言えません。

日本中、空海さんが訪れたところは、何らかの足跡がありますが、

残念ながら大村には、こなかったのかもしれません。

しかし、郡地区の真言宗のお寺群が、

かつては勢を競っていたことを考えると私の考えに少しは信憑性が出てきませんか?



■中世の古寺 富松神社

名前の由来は 宮寺久田松氏の説にようと 富松坊という坊からとった。

あるいは、兵庫県尼崎市に富松神社(こちらは とまつ)があり、九条家荘園との縁がある。

大村も九条家領であった。その九条家との係わりから富松神社が創始された。とされます。


あとの説の方がもっともですね。歴史書には1364年に鎮座の記録があるそうです。



■室町時代

1467年応仁の乱以降 下克上の時代になり、

島原半島の有馬氏が力を付けてきて、大村を攻めるようになってきました。

ここから 大村が平和な町から戦乱に巻き込まれていきます。


毎年 有馬は大村を攻めてくるようになり、16代純伊(すみこれ)の代に萱瀬の中岳で敗北。

6年余りの流浪の末、大村領を取り戻しましとされます。



■戦国時代

キリシタン大名が日本に登場するのも18代大村純忠からですが、

その前の16代純伊(すみこれ)から大村の激動が始まります。


大村寿司の由来 16代純伊の時代 島原半島の有馬氏から毎年攻撃を受け、

一度は1474年萱瀬の中岳での合戦に負け、流浪します。

6年後 再び大村を取り戻した純伊主従は、1480年に西肥前の豪族の助けを借り、大村を取り戻しました。

その時、凱旋した純伊を領民が喜び迎えたときに披露したのが、黒丸踊り、寿古踊り、沖田踊りです。

また、空腹の侍に喜ばれたのが、もろぶたの上に炊き立てのご飯をしき、

その上に、魚の切り身、野菜などをまき散らして押さえた料理でした。

侍たちは、脇差でそれを四角に切って食べました。これが大村寿司の始まりといわれています。

その後 有馬家とは和睦し大村・有馬氏は協力しながら戦国時代を乗り切ります。

養子 大村純忠 第18代大村領主で、キリシタン大名の大村純忠は、

実は島原半島の有馬家から大村家へ養子として迎えられた人です。

男が生まれなかった17代純前(すみあき)の養子として入りまいしたが、

その後男の子が産まれ その嫡男貴明(たかあき)は 武雄の後藤家に養子に出されました。

恨みの貴明は、純忠への攻撃に明け暮れることになります。



「私のコラム」

歴史にもしもということはないのかもしれませんが、男の子がすぐに産まれ

純忠が養子に入らなければ貴明との戦いもなく、

長崎を貿易港にして資金を捻出し、キリシタン大名などにもならなかったかもしれない。

でも、この時代、貴明だけではなく、諌早の西郷氏も攻めてきてますし、

平戸勢も攻めてきていますから、貴明がいなくても戦国時代は大変だったでしょうね。

国を守るのは。なぜ、大村をみなして狙っていたのか。

長崎県の地図を見ると平野がほとんどありません。

諫早も干拓で広がったのであって、当時は平野がありません。

長崎県で唯一平野があり、穀倉地帯であった大村の地が、やはり一番いいところだったのでしょう。

肥沃な土地で、歴史上、飢饉で死者が出たことのない地域だと聞いてます。

この大村人気質という緩やかな性格は、豊かな自然に恵まれ、

飢えることを知らなかった地域性から来ているのかもしれませんね。

南蛮貿易で栄えたために結局、長崎を天領として豊臣秀吉に取り上げられてしまいました。

私が残念に思うのは、それまで大村に郡地区と水田地区の寺院が純忠がキリシタン大名になったために

焼き討ちしすべてを灰になってしまったことです。

(領民をキリシタンにすることと鉄砲との交換条件で領民何人で 鉄砲1丁との交換だったそうです。

とにかくキリシタンにならなければ追放だったそうですから、すごいですよね)

それまでの大村の文化をすべて焼き尽くし、それからの長崎の発展は

すばらしいものがあるのですが、つくづくも残念でなりません。方や大村は宝物を失ってしまいました。

大村湾一帯の大村藩内の寺院は焼き尽くされたのです。



■南蛮貿易

平戸で南蛮貿易を始めたポルトガルは、

キリスト教の布教も条件でしたので、なにかとトラブルがありました。

貿易港に向く、西海橋の先の横瀬浦に目を付けた修道士アルメイダは 大村藩との交渉を始めました。

大村純忠は布教を認めるだけなく、教会を建てること、

港の半分をイエズス会に譲ることなど破格の条件で横瀬浦の開港を約束しました。


開港1年目に 養子に出された後藤貴明に横瀬浦はすべて焼き払われてしまいました。

しかし、その間 純忠を始め、家臣 領民の多くが洗礼を受け、

キリスト教の根をしっかりと大村領内に植え付けました。


その後1571年純忠により100戸余りの寒村であった長崎が開港され、

その後日本でただ一つの外国への窓口として発展したのは周知の通りです。


「私のコラム」

長崎弁は 大村弁だ。という根拠はここにあります。

もともと大村藩の中にあった100戸くらいの漁村の長崎に町ができたのです。

繁栄しながらもそそこで使われた言葉は、大村弁だったのです。

長崎の言葉の中に当然ポルトガルやオランダの言葉が入っていますが、

その根本は、九州のそれも大村の言葉と思うと、うれしいじゃありませんか。



■なぜ 大村純忠はキリシタン大名になったか。

有馬家から養子で入った純忠の当時の直轄領は、池田、久原、福重、大串、形上の5ヶ村に過ぎず、

(石高では5000石)たびたびの後藤貴明の攻撃など、

戦国時代の荒波を乗り切るにはあまりりに弱小であった。

(もっと持っているのかと思ったら、大村氏も貧乏だったのです。)


更に養子として入った純忠に対して、家臣の忠誠、領民の帰属が難しかった。

領内すべてをキリシタンにすることで自分への忠誠を計れると計算してのことだと歴史家はいいます。


南蛮貿易はキリスト教の布教と貿易のセットであるため、実は厳しい財政と立場の純とり、

これほど好都合の話はなかったことになります。


バテレンの宣教師より、偶像崇拝の礼拝施設・神社仏閣を破壊してしまおうとする意図は、

純忠に幾度となく進言され、純忠もついに着手してしまうのです。

フロイスの日本史にもこの社寺破壊を「今まで日本にいた間のもっとも大いなる楽しみを味わった」

と記しているそうです。

(なにか悔しいですね。いまその時代のお宝が残っていたら、ホントに大村は観光の町になれたかもしれない。

しかし、長崎の町の文化もなければ、今時で言うと、オランダ村もハウステンボスも無かったですね。)


領民を全員キリシタンに改宗させるため、入信しないものは領外へ出ていくことを強要したそうです。

その大改宗政策は徹底したものだったと思われます。


その間、後藤貴明や諫早の西郷氏の攻撃もあり、

戦国時代とはいえ、激しい時を送っていたことがわかります。

基本的に大村市が藤津郡からの落人であった流れから、

領土を拡大していくに当たっての戦いは激しいものだったと想像されるのです。


大村純忠は、本当に心の底からキリスト教を信じていたのでしょうか。

それは戦国時代のいつも死との隣り合わせで生きていた純忠の本当の心だったのでしょうか。

しかし、北から南から常に攻め続けられた貧乏な純忠の唯一の手段だったことはわかりますね。

背に腹は代えられないというのはきっとこのことです。



■西洋との出会い

純忠が日本の歴史上に名を残すのは、我が国最初のキリシタン大名であったこと。

そして西洋に少年使節団を送ったことでした。

2年半の航海、戻ってくるまで8年5ヶ月にも及ぶ使節派遣でありました。

西洋に初めて日本人を紹介したのは、彼らが最初であったわけです。

しかし、帰国したときは、純忠も死に 豊臣秀吉が禁教令を発布されて、

時代はキリシタン禁教という方向に向かっていました。



■バテレン追放令

1587年 純忠の死の2ヶ月後、豊臣秀吉によりバテレン追放令が出される。

南蛮貿易の流れで教会領となっていた長崎を秀吉が没収してしまいました。

17年間最大の収入源の長崎が大村氏の手から離れていくことになったのです。



■大村藩の確立

貿易利潤を完全に失ったあと、純忠の次の当主喜前(よしあき)の苦労は大変だったろうと思います。

朝鮮出兵を期に出兵しなかった家臣の領地をすべて没収し、家臣団の統一整理を断行した。

出兵後 大村城の築城を始めた。

海に面した城を攻めあぐねた経験で 三城に対し、現在の新城に城を作り始めたといわれますが、

あまりに平坦であるため、現在の大村公園を含む玖島の地に築城することになりました。

その後徳川幕府の成立時においても大村藩はその領地も安堵されたが、

秀吉に没収された長崎は戻ってこなかった。

大村湾沿岸を含む48ヶ町の藩となる。

2万7千9百石の領地。大村城は熊本の加藤清正に教えを受けたそうです。

築城の時は清正は亡くなっていたそうですから、図面でも指導を受けたのでしょう。

今のジャスコのところは、海でした。

私たちの小さいときは 海水浴場でした。

今の大村城のあるところは小さな島だったそうです。

日蓮宗を大村に持ってきて、キリシタンから足を洗ったことを幕府に示すようにすすめたのも

加藤清正だと言われています。


その後 隠れキリシタン発覚の郡崩れなどの大事件を経て、

大村領内からはキリシタンの姿は全く消えてしまった。

郡崩れでの逮捕者は608名にものぼったその処刑あとは、大村の虎放原に連行され処刑されました。

(大村の史跡があまりにも この処刑にまつわるものが多いのが、私は好きではない。

確かに歴史だけど、そんなに日本史の中で珍しいことだけを取り上げて、強調することはないと思う。

それより大村を守った喜前をもっと顕彰するべきだ

しかし、殺人は、いつの時代でも許されないでしょうね)


純忠のあとの領主 喜前(よしあき)が時代を読むのに長けていたといわれます。

3歳でキリスト教に入信していたがバテレン禁教令の7年前には改心して、

徳川次第になってからは大村藩の一村ごとに寺院仏閣を造っている。

純忠の焼き討ち前との宗派の違いはっきりと出ている。

日蓮宗、浄土真宗、天台宗、浄土宗、真言宗など

当時の大村藩の人口は、11万6000人といわれ

その内4万5000人が日蓮宗、6万人が浄土真宗であったと書かれています。



■江戸時代

玖島に築城した大村藩は、次には家臣群の住居を造っていった。

上小路、本小路、など歴史のある名前が武家屋敷跡には感じられ、

1区画500坪から600坪で区画割りされています。

江戸末期には164軒を越えたといわれています。


当時 大村藩の人口は約11万人。

大村湾を囲む長崎市内を除くほとんどです。

佐世保は入っていません。

(ちなみに江戸時代の日本の人口は2700万人だったそうです。)


長崎街道を通って日本は唯一外国の文化を取り入れていきました。

長崎という異国情緒はこの時代の財産ですね。

しかし これからの時代に もう異国情緒というロマンが通用しないのかも知れませんね。

観光が落ちている長崎市内の経済の活性化を新しいものを生みだすことで補わねばならないでしょう。



■明治時代

廃藩置県により職を失った武士は、2800人ほどが失業したそうです。

それまで大村の経済、文化の中心は玖島近辺だったわけですが

その後は明治30年に軍隊が置かれるまでは見る影もないほど活気を失っていたそうです。

(城下町の大村の物資を供給していた地域が鶴亀橋近辺の内田川沿いだったそうです)


明治30年に陸軍が現在の大村部隊の地に設置され、活気を取り戻し始めました。


大正12年竹松の今津に大村海軍航空隊が設置。



■昭和時代

昭和16年には古賀島に第21海軍航空廠が設置。

飛行機の部品など東洋一の工場といわれ、ゼロ戦や紫電改もつくられました。


戦後 自衛隊が大村にできるまで本当に寂れていたと聞いています。


その後は海上空港や高速道路などの交通の要所として

長崎県で一番人口の増加している元気な町としてそして穏やかな暮らしやすい町として発展しています。



■人口の推移(現在の大村市の地域)

江戸時代末期に2万1600人

明治17年 1万9900人

大正 3年 2万7100人

昭和15年 3万3300人

昭和18年 6万7700人

昭和19年 6万2900人

昭和20年 4万4200人

昭和21年 5万2400人

昭和22年 5万6800人

大村市立図書館 郷土の歴史資料コーナーより



■現在 平成13年

大村市のデータ


人口 86,464 人 (+ 402)

 男 41,596 人 (+ 201)

 女 44,868 人 (+ 201)

世帯 32,957 世帯(+ 264)

平成13年4月末現在、( )内は前月比 (住基法、外登法に基づく)


毎年1000人ほど増え続けている。

しかしながら郊外に大型店が進出。

アーケードのさびれかたは、残念だ。

いろいろな店舗の出店により、

市役所横の幸町周辺と高速道路から空港までの古賀島近辺に大型店が軒を並べ、

生活する上では快適な街になってきたと思います。


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