病気:病気・医療 情報
ブックレビュー
「心臓病棟の60日」
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「心臓病棟の60日」 は、胸部大動脈瘤の手術を受ける際、その体験談を探したが見あたらず、心臓に関わる手術の体験記をやっと図書館で見つけた。ルポライターの著者がご自身の心臓の僧帽弁を人工弁へ置換する手術を受けたときの体験を、医師への取材も行いながらまとめたもので、心臓の手術に関しては非常に詳しい。私の胸部大動脈瘤の手術は脳への動脈のつなぎ換えも含むのでさらに別の危険も含むのだが人工心肺を使う点では同じであったので関心を持って読んだ。
読み直してみても心臓を停止させて行う手術を受ける人には大いに参考になると思ったので、主要なところを抜き書きし、私の感想を付記した。 |
プロローグ
一九八二年十一月十六日。わが心臓に、ついにメスがはいる日である。
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「心臓病棟の60日」は、プロローグ から始まり 1軽い発作 2再検査 3不安な時間 4手術 5集中治療室 6生還 7五一八号室の人々 8患者の立場から 9六年目の夏 を経て 次の あとがき で終わる。 |
あとがき
ガンの患者が書いた体験記は枚挙にいとまがないほど、世に出ている。心臓病のほうは、皆無に近いのではないか。どちらがより恐しくて、ドラマチックかなどと、我田引水の比較論をしてみてもはじまるまい。ただし、厚生省の人口動態統計によれば、心臓病の死亡者数は、一九八五年に脳卒中を抜き、ガンについで第二位を占めている。心臓病の患者が書いた本が、少しは出てもよいのではないか。というようなわけで、この本が生まれた。
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一九八七年七月二七日 平澤正夫
1 軽い発作
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<心臓カテーテル検査>
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1.軽い発作 は、病気の診断がつくまでの松戸市立病院に入院し検査したときのレポートである。カテーテル検査を受けるのだが、それについて不安を交えて、詳しく説明がある。 |
心臓カテーテル検査とは、大腿部または腕の太い血管から、人工の細い管、つまりカテーテルを送りこんで、心臓の内部にまで到達させる。その管をとおして造影剤を心臓に注入し、外から高速でまわるフィルムに撮影する。これによって、心臓のなかの血液の動きや、心臓の表面近くを走る冠状動脈がつまっているかいないかなどの状況が、シネフィルムをとおして肉眼的に手にとるようにわかる。また、いろいろな計測器を使えば、心臓の各部での各時点における血圧とか血流量とかを、数量的に記録することもできる。現代の心臓医学にとって、診断上不可欠の武器にはちがいない。
『ザ・ドクターズ』は、アメリカの医者がこの検査を乱用し、患者を死傷させるばかりか、高額の検査費を荒かせぎしていることをも警告していた。書物で読んだ海の向うの不幸な例が、突如としてわが身にふりかかろうとしている。この日ばかりは、消灯後の病室で、深夜までまんじりともしなかった。 鈴木さんの”事前通告”があった翌日、山下道隆医師がベッドサイドにやってきた。
「検査の内容をいちいち口頭でお話しするよりも、このほうがいいと思うのでプリントにしてあります」と、説明書を手渡された。
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ふと思い出して、手もとの説明書を読みはじめる。「心臓カテーテル検査について」というタイトルで、まず冒頭に、「心臓カテーテル検査とは、心臓の機能及び形態を明らかにする目的で行う、心臓疾患の精密検査です」とある。そして、つぎに、検査の方法と意義がのべられている。
「局所麻酔により、ソケイ部又は肘部の動脈或は静脈を穿刺し、カテーテル (細いクダ)を挿入、その先端を大血管及び心臓内に送り、心臓の内圧(心臓各部位の負担の程度を知る)を測定したり、造影剤を注入して、心臓の収縮カ、心臓内部の形態、心臓の血管(冠動脈)、血流の方向を撮影します。これによって、心臓の機能及び形態の異常の有無を検査し、より正確に診断、治療方針を決定することが出来ます」
医者の側は、ふつうの患者にわかるようにと、かみくだいた表現で説明しているつもりなのであろう。けれども、これではやっぱりピンとこない。「まあ、心臓のことがいろ心ろわかる検査なんだな」ぐらいの理解にとどまる。
そのあと、説明はいよいよ検査の危険性にはいるが、以下のようにかなりていねいに書いてある。
「この検査は、注意深く行われれば、現在安全に施行出来るものです。しかし血管を通して心臓にまでカテーテルを挿入しますので、合併症が皆無であるとは云えません。時に嘔気、嘔吐、造影剤注入時の熱感、脈の乱れ、軽度の血圧の低下等が起りますが、これらは、全て一過性のものです。また、カテーテル挿入部の動脈硬化、またそれによる動脈の蛇行が著しい場合、検査後、穿刺部より出血したり、カテーテ〜の先端で、血管を傷つけたりする結果、血液のかたまりが発生し、動脈を閉塞させたりする事が稀には見られます。これらは早く発見し、処置する事により、何ら後遺症を残すことはありません0更に非常に稀ではありますが、心筋梗塞や心臓穿孔を生じさせたという報告もあります」
「非常に稀」に起る「心筋梗塞や心臓穿孔」の発生率は、具体的にどのくらいなのか。百回に一回、あるいは千回に一回ぐらいなのか。
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説明書は、ここで段落を変え、検査の危険がじゅうぶん回避できることを訴える。
「これらの合併症の発生する危険性は常に潜在しておりますが、注意深い配慮と、患者さんの協力により、避けられるものと考え、努力しております。
検査終了後は、穿刺部位を圧迫、止血しますので、翌朝までは、安静にしていただきます。感染予防のため、点滴及び経口的に、抗生物質が投与されます。
食事は嘔気がなければ、摂取して下さい。体内に注入された造影剤は、尿中に排泄されますので、むしろ水分を充分に摂って早く体外に排泄するようにして下さい。
検査後一週間位は、穿刺部位の圧痛、しこり、皮下出血のため皮フが暗紫色になることがありますが、経過と共に消失いたします」
以上が、説明書の全文である。読み終えた私は、なお半信半疑であった。 危険性は、ほんとうにこの程度のものなのだろうか。 なんども読みかえしたが、気持は変らない。不安と焦燥が首をもたげてきた。
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カテーテル検査がおこなわれたのは、入院三週日にはいった四月二十日であった。無事終了したけれど、これはやはり、私がそれまでにもっていた検査というものに対するイメージを根本的にくつがえした。一口にいって、すごいものだった。
前日に下半身の剃毛をされ、当日は下着を脱いで、T字帯で股間をおおい、和風の寝間着をつけた。病室でストレッチヤーにのせられて、カテーテル検査室に向かう。とにかく、手術なみのものものしさである。山下医師のほか数人のスタッフが、ベッドに寝かされた私を取り囲むようにして、検査がはじまる。モニタービデオの画面に、心電図が継続的に映しだされている。カテーテルは大脇のつけ根から挿入されたが、麻酔がかかっているため、挿入個所を切開するときの痛みはない。もう一台のビデオスクリーンに、体内に送りこまれたカテーテルの模様が出ているのだが、視野の関係で、私のほうからは余りよく見えない。
途中で、血圧をはかったスタッフが、八〇台と五〇台の数値を口にした。血圧低下の″副作用”の出現である。ドクターは少しあわてたようで、点滴がはじまった。たぶん、昇圧剤を入れたのであろう。
やがて、造影剤が注入された。その瞬間、一種名状しがたい熱感が胸部を下へ走り、猛烈な勢いで肛門から吹きぬけていった。不快な快感とでもいうべきなのか。音をたてて、体内をかけおりていったかのような錯覚にとらえられた。
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カテーテル検査は私も経験したが、心筋梗塞の際、いやもおうもなくカテーテルで冠状動脈の検査と治療を行っているので、不安を感じようもなかったし、検査入院で2度ほどカテーテル検査しているが頼りになる医療だと思っていた。ただ、危険を含むことは間違いなくこの本ではふれていないがCCUのある医療施設でやるべきだろう。
著者は検査の結果、手術を薦められ、著者は結局手術の方向へ意志を固めるようになるのだが・・・。 |
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偶然のタイミングとはいえ、入院した翌々日、松戸市立病院が極小未熟児の心臓手術に成功したとの記事が各紙に出た。鈴木さんがそれにふれないはずはない。
「このあいだの新聞記事でもおわかりのように、うちの技術はたしかですからね」
香西さんの前に出たときは、手術をするかしないかの意思表示をしなければならないだろうな。 いささか思いつめた気持になりながら、私は問いかえす。
「カテーテル検査の結果は、そのときくわしく聞かせてもらえますか」
「フィルムを画面に映して、説明すると思いますよ」
鈴木さんは、さも当然のことといわんばかりの口調であった。
「手術だ」なんて・・・・。そうは問屋がおろしませんよ、といいたいところだ。
一難去ってまた一難、というような心境になる。いや、カテーテル検査よりも手術のほうが、はるかに高くて大きい山である。これが越えられるかどうか。その時点では、心臓手術についての私の知識はあまりにもとぽしかった。手術を受けてもよいという自信のわいてくるはずもない。
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検査の結果、手術要と判断され著者は結局手術の方向へ進んでゆくが、どこで手術をするか悩む。結論として、今まで検査を受けてきた松戸市立病院を変え、心臓専門の病院である榊原記念病院に病院を変え再検査を受け、手術することになる。
これらの病院は、私にとって身近なだけに関心を持って読んだ。松戸市立病院は隣町の病院である。昔息子が入院して助けられたこともあり、また心臓手術に関しては今でも評判が高く、私の場合の入院先候補の一つであった。 |
2 再検査
3 不安な時間
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2.再検査 で榊原記念病院に移り再検査を受け、3.不安な時間 のこの章では、まず、手術を待つ間、輸血の問題、生血の調達の問題で悩むさまが記録されている。しかし、今日では、ほとんどの病院は自己血の輸血ではなかろうか。手術日当日に輸血のために、人に来て貰うことはないだろう。
続いて術前の説明、−病状、術後の合併症、−がレポートされている。 |
カテーテル検査入院を終えて退院するとき、看護婦から、「輸血についてのごあんない」というリーフレットを渡された。
「当病院で手術を受ける患者さんの新鮮血液、保存血液は原則として日赤血液センターから提供していただいており、通常の手術はすべてそれを使って行われておりますが、これ以外に新鮮血液提供者を集めていただき、当病院で手術当日採血するいわゆる生血(当日の新鮮血液)を使用する場合がありますので、下記の事項をよくお読みになってご協力をお願いいたします」 この冒頭の部分を読んで、私は心配になってきた。″生血″と、日赤の新鮮血液とはどうちがうのだろうか。日赤の新鮮血液は術後肝炎のおそれが絶対にないしろものなのか。それよりも、”生血”だけを集めて手術にのぞんだほうが安全なのではないか。術後肝炎はいわば人災のような病気で、しかも、なかなか治らないという一般的認識だけでなく、入院中に同室だった阿部さんの実例も頭をかすめて、不安がつのる。
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私の血液型はO型である。ところが、妻の満代、娘の望、息子の憲、三人ともA型なのだ。ほかにもうひとり、日露戦争が終った一九〇五年に生まれた母がいるけれど、血液型はわからない。
わかっていたとしても、この老母は対象外とすべきだろう。とにかく、家族のなかに供血できるものがひとりもいない。他人に全面的にたよらなければならないとなると、かなりの精神的な負担になる。
どうしたら、他人から″生血″を集められるか。
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かりにどたん場になって、「二十八人分では足りない」といわれたら、おそらく手の打ちようがあるまい。「いったい、どうしたらいいんですか」と、妻は私に焦りと不満をぶつけてきた…。
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<心臓弁膜症>
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つづいて心臓の手術の説明を受けている。 心臓の働きから始まって、病気のメカニズム、手術の方法、術後の合併症の詳しい説明がある。心臓弁膜症の手術、すなわち僧帽弁の人工弁置換術は基本的には今でも変わらないのではなかろうか。 |
もはや、あとの祭りだ。日赤の新鮮血を使わずにという願望をあきらめざるをえなかった。
「手術が午前九時から始まるとして、人工心肺をはずすのは午後二時ごろでしょう。それまでに供血者の方にきてもらい、待機してもらっててください」
川瀬さんの声は、私の耳に事務的にひびいた。 この日の説明は、予定より少しおそく午後二時半からだった。輸血のことは全体のごく一部であり、手術全般について、二階の院長室のとなり払ある応接室できいた。窓を左手に見て、私と妻と娘、向い側に執刀者の川瀬医師など四人のドクターがソファにすわった。私の真正面、つまり、ドクターたちの頭上の壁には、小さな額がかかっている。「ジ・オース・オプ・ヒポクラテス」(ヒポクラテスの普い)というタイトルが見える。その下に書かれている英文は、文字がこまかくて読めない。
川瀬さんから、スタッフの紹介を受ける。万納寺栄一、森川利昭、山田泉の三医師。執刀者は川瀬さんで、万納寺さんと森川さんはアシスタント、山田さんは麻酔のほうのアシスタントとのこと。榊原記念病院では、手術をおこなう外科医が三つのチームにわかれている。弁膜症の手術は、川滴医師以下の四人で取り組む。もうひとつのチームは、冠状動脈のバイパス手術をおこない、榊原高之医師がキャップである。三番目は先天性の心臓奇形をもつ子どもたちの手術を担当している。 外科医、なかでも心臓外科医は、いわば荒業に挑むプロフェッショナルである。かなり攻撃的な性格でないとつとまらない職業だろうと思われる。川瀬さんは、その割りにはとてももの静かに話す人である。外見もまた優男だ。
「僧帽弁がこわれて、閉鎖不全なので、左室(左心室)の血液が左房(左心房) へ逆流します。しかも、平澤さんの場合、からだのほうへ流れるよりも、逆流するほうが多いんです。左室は少しでもたくさんの血液をからだに送りこもうと、けんめいのポンプ活動をつづけます。その結果、筋肉が厚くなる。左房は、左室からの逆流を受けて、たくさん血液がたまるので大きく腫れてきます。そうすると、肺からの血が流れにくくなります。左室のほうからずうっと血を押してきますからね。肺のなかで、血が押しくらまんじゅうの状態になる。それで、肺にむくみができてきます」
川瀬医師の話は、病気のメカニズム、手術の方法、術後の合併症の順にすすめられた。そのうちの大部分は、決して耳新しいことではなかった。心臓病についての啓蒙書を何冊か読んでいたし、こんどの入院に先立って心臓カテーテル検査を受けたときにも、内科の林医師から聞かされたことがあったからである。それでもいざ手術の直前となると、一言も聞きもらすまいといつもの取材帳を出してメモをとった。こうなると、取材人間としての私の職業意識が頭をもたげ、つぎつぎと質問をせずにはいられない。
「時間は気にしないでください。納得のいくまでご説明します」と、川瀬さんは大様にかまえていたが、他の患者にくらべて、ずいぶん時間をとらせたのではなかったかと思う.川瀬さん以外の三人は、ポケットベルによって頻繁に呼び出され、部屋を出たりはいったりする。話はもっぱら川瀬医師がしてくれたので、コミュニケーションに支障はなかったものの、その場の雰囲気は落ちつきを欠いた。
健康なおとなの心臓は、だいたい握りこぶし大。榊原仟さんの著書「心臓を語る」によると、目方は年齢によって多少ことなる。加齢とともに重くなり、その平均値は、二十歳代で二百二十八グラムだが、五十一歳以上では二百七十六グラムあるとのこと。そして、心臓は全体がひとつの、きわめて性能のよいポンプの働きをする。
反対側のくびれたほうが心底である。ところが、心臓の位置方向は、心尖が斜め左下を向いていて、心底のほうが上になっている。心尖から心底まで、縦方向の隔壁で左右にわかれ、それぞれが上下二つにわかれる。つまり、上下左右四つの部屋からなっているわけだ。左側の上の部屋が左心房、下の部屋が左心室、おなじく右側の上が右心房、下が右心室である。左右をわける縦の隔壁はぴたりと閉ざされているが、左心房と左心室、右心房と右心室のあいだには、おのおの開口部があって、血液の通路となる。
血液は肺で新鮮な酸素を補給し、心臓のポンプ作用で全身におくられ、からだのすみずみの細胞にまで酸素と栄養物をはこび、炭酸ガスと老廃物を受け取る。その炭酸ガスを肺にもってきて、酸素と交換する。心臓を中心に血液の循環をみると、からだの細胞から炭酸ガスを受け取った静脈血は、まず右心房にはいっていく。右心房の血液は、心臓の収縮と拡張に応じて開閉する三尖弁をへて右心室に流れこみ、肺動脈弁をくぐつて、肺にいたる。肺で酸素を取りこんだ血液は、左心房に達する。つぎに、僧帽弁をとおって左心室にいく。そのあと、大動脈弁を通過して、からだじゅうをまわる。私の心臓は、このようなシステムのうち、僧帽弁が故障して、血液がまともに循環しなくなったのである。
それでも、はじめのうちは、症状が表面化しない。健康な心臓は、松戸市立病院の鈴木ドクターもいったように、ふだん持てる能力の三、四〇パーセントぐらいしか出さない。それでこと足りている。階段をかけあがったりすると、このパーセンテージはぐんと増す。だから、ふつうの生活をするかぎり、病気で能率が落ちてきても、かなりの程度まではカバーできる。これを、心臓が代償すると専門家はいう。
川瀬さんの説明がつづく。「しかし、無理がかかるので、心臓はつかれてくる。やがて、肝臓の腫れや手足のむくみが出てきます。心臓の代償不全、心不全の状態になる。薬、つまり強心剤で心臓をむちうって動かすことはできますが、そのうちにもう薬が効かなくなる。内科的にはこれでおしまいです。このときに手術しょうとしても、心臓は手術の負担に耐えきれないから、助かりません。内科的にも外科的にもタメということです。平澤さんの場合、数年先にはこうなるであろう。つまり、先が見えてきた。手術をするかしないか、どつちがトクか。天秤にかけると、今後、心臓の筋肉のいたみがひどくなります。すると、手術をしても危険だし、回復もよくない。年齢だとか、人工弁の耐久性だとかを考えて、手術をおすすめしたわけですよね」 以上、川瀬さんが話したことは、私の心臓手術にいたる医学的シナリオの概略である。それから、話は手術そのものへとすすんだ。私の心臓は極端にひどくへばっているわけではない。ドクターがきわめて初歩的なミスをしたり、突発事故が起ったりしないかぎり、手術で生命をおとすことはあるまいと思い、手術の術式とか手順については、くわしい質問を避けた。話があまりにも専門的になれば、理解できないだろうとも思った。
<手術の合併症>
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手術後の合併症(危険)の詳しい説明がある。
私の胸部大動脈瘤の場合は、出血の問題が前面に出ていた。私の場合実際に出血のために午前10時から午後9時の手術予定が午後10時までかかったし出血を止める成分輸血も行っている。また脳梗塞の危険も大きかった。 |
むしろ、術後の合併症のほうが、現実的なテーマではないか。私の関心は、そちらに集中した。
「危険事態のほとんどは、心不全なんです。手術には人工心肺を使いますが、使える限度は六時聞から八時間です。心臓そのものの手術は二、三時間ですみます。しかし、手術中はもった心臓が、術後の回復までもたないというケースもあります」
人工心肺は、その名のごとく、一時的に心臓と肺の役割をはたす機械である。からだの血液は、人工心肺から酸素を受けて炭酸ガスを渡し、ポンプのカによって体内を循環する。その結果、心臓は搏動せず血液もとおらないので、医者はたいへん手術がしやすい。手術が終ると、人工心肺をはずし、元どおりの血液循環にもどさなければならない。手術でダメージを受けた心臓が、期待にこたえて搏動を再開し、ポンプ役をとりもどすかどうか。これは、心臓手術を受けた患者がまずクリアすべき重大な開門である。
「つぎに手術のあとで、心臓の傷から出てきた血が胸のなかにたまると、心臓を圧迫するのでこわい。それで、胸のなかの血を管で外へ抜くんですが、出血がいつまでもつづくと命とりになるので、再開胸ということになります」
そのほか、比較的まれにしか起らないが、生命にかかわる後遺症がある。
私のような僧帽弁閉鎖不全の患者は、開胸するとたいてい、左心房に血のかたまりが見られる。左心室から血液が逆流して、左心房にはいつも血液が充満しているからであろう。手術の際、左心房の血のかたまりはできるだけ全部とってしまう。ところが、目に見えない小さいかたまりとか空気のあわつぶとかが残っていることがある。手術のあと、この小さいかたまりやあわつぶが血管のなかを浮遊して、からだじゅうをかけめぐつて、どこかにひっかからないとはかぎらない。血がとぶとか空気がとぶとかいう現象である。かりに脳にとんで、脳の血管がつまると、どうなるか。脳細胞は、血液の供給が四分間とだえると、働きを失ってしまう。そして、意識不明、けいれん、半身不随などが起る。
「腎臓の細胞がタメになることもあります。おしっこが出なくなって、からだに毒がたまって中毒症状を起し、死んでしまう。急性腎不全ですね」
これは、大量の抗生物質の使用とも関係がある。胸をあけ、心臓を目で見ながらの大手術には、細菌感染の可能性がたいへん大きい。それを防ぐため、抗生物質を投与しなければならない。抗生物質など薬の副作用で、腎臓がやられることがあるのだ。
川瀬さんは、手術の後遺症が肺にも起りうるといった。
「僧帽弁をやられている人に起りやすいんです。だいたい、肺はいままでにすでに機能が落ちてます。術後少しずつしか元にもどりません。手術のあと、咳をじゅうぶんしないと疾がたまって、肺の一部がつぶれてしまう。すると、酸素が不足して心臓がとまったりする。こういう状態が長くつづくようだと、のどを切って、機械で呼吸を維持しなければなりません」
<人工弁>
「先生、人工弁の寿命はどうなんでしょうか」
満代が質問を発した。この質問は、松戸市立病院の香西医師にもしたことがある。 川瀬医師が答える。
「スウェーデンの医者のビジョルグが開発した弁を入れます。この弁は臨床経験では十三年もっています。しかし、弁のすりへり方の計算からいくと、百年以上大丈夫といわれている。ただし、これは設計上の数字ですからね、よくわかりません」
人工弁の寿命こそは、弁置換術を受ける患者にとって、いちばん気になるポイントである。ペースメーカーのように、ときどき取り替えなければならないのかどうか。
ペースメーカーは、心臓の外側に埋められている。だが、人工弁を取り替えるには、心臓そのものにメスを入れなければならない。ペースメーカーの取り替えよりも、はるかにたいへんな手術を必要とするのだから、人工弁の寿命には、決して無関心でいられない。
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私の病室がある五階の病棟だけで、ベッドは三十七床ある。手術の説明があったのは入院して四日目であり、もうすでに五階の患者の全貌をロコミでほぽ把握していた。そのかぎりでは、弁膜症とバイパスを問わず、胸をひらく心臓手術、つまり開心術はだいたい六十五歳以下の患者にほどこされている。アメリカでは、八十歳以上の患者にも平気でおこなうが、日本では無理という話も聞いた。
一九二九年十二月生まれの私は、いま五十二歳で手術を受けようとしている。装着した人工弁の寿命が十数年とすれば、年齢的に、再手術はどうやら可能である。しかし、三度日の手術は、八十歳前後で迎えることになる。それは技術的に不可能なのではないか。ということはつまり、私の生命は、二つ日の人工弁の寿命がつきたときに終ることを意味する。日本人男子の平均寿命はおよそ七十五年である。心臓に人工弁をつけた分際で、八十歳近くまで生きられたらじゅうぶんではないかという気は大いにする。人生がそんなにすばらしいものとも思えないし、あまり強い執着は感じない。ただし、人工弁という外的存在に寿命を制約されることに、なんともいえない無力感をおぼえる。どうもやっぱり、人工弁と入れ歯とでは、ひとしく体内にとりつけられた異物であっても、本質的にちがうような気がする。
入院する前、榊原記念病院の外来を受診していたとき、「将来の医学の進歩がありますよ。うんと年をとっても手術ができるし、もっと寿命の長い、優秀な人工弁が開発されると思います」と、担当の清水医師に元気づけられたことがある。
たぶん、そうだろう。けれども、なるべく二度日の手術はしたくない。いちどの手術だけで天寿を全うしたい。
「人工弁はからだにとって異物ですから、まわりに血がかたまりやすい。それを防ぐ薬を一生飲まなければならないんですが、それでも、血のかたまりで弁が動かなくなると、再手術ということになります。平澤さんの場合、年齢からいって、弁はたぶん一生いけますよ。それから、手術後も当分は心筋の傷みがあります。強心剤も飲みつづけないといけない」 川瀬さんのいう血のかたまりを防ぐ薬とは、抗凝血剤ワーファリンのことである。血液は体内の異物のまわりでかたまりをつくりやすい。これは、からだを異物からまもるため、自然にそなわった自衛措置である。人工弁を入れた場合、それが裏目に働く。血のかたまりがとんで血管を塞げば、血栓症で生命にかかわる。それで、ワーファリンを毎日飲んで、血液の凝固能力をつねに下げておかなければならない。
ドクターたちとのやりとり、といっても、ほとんどが川瀬医師への質問であったが、もうかれこれ一時間半ちかくになる。最後の質問のつもりで、問いかけた。
「それにしても、私の僧帽弁の支持腱索は、なぜ切れたんでしょうか」「原因はよくわかりませんね」と、川瀬さん。
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「最後にお聞きしますが、手術のリスク(危険率)は、どのくらいでしょうか」
川瀬ドクターは、私の問いに「合併症も含めて二、三パーセント、せいぜい五パーセントでしょう」と答えた。
それをしおに、私たちは切りあげることにした〇五六号室に帰ると、病友が口ぐちにたずねかけてきた。
「どうだった」「いよいよ、覚悟はきまったの」
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<手術の準備>
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手術後の肺の機能回復のための訓練をしている。私も入院してすぐ看護婦さんの説明を受けたのだができることがわかれば、腹式呼吸や咳払いなど訓練のしようもない。ここでいう水吹きに相当するトリフローというプラスチックボールを深呼吸して吐く息で浮き上がらせる道具のことも説明書に書いてあったのだが売店で購入して練習するところまではしなかった(ICUから戻ってからやらされたが・・・)。 |
私のほうは、この日から、手術に向けての準備態勢にはいり、腹式呼吸、仰臥位での就眠、咳ばらいによる去痰、水吹きなどの訓練をいいつけられた。腹式呼吸、つまり深呼吸は、人工心肺をつけての手術中にとまっていた肺の機能を元にもどすために必要であり、仰臥位での就眠は、術中および術後しばらくのあいだ、この姿勢でずっと寝ていなければならないためにトレーニングする。また、咳ばらいによる去痰は、術後、肺のなかにたまっている痰を出し、うまく呼吸ができるようにするためにおこなうことなので、やはり練習しておく。水吹きというのは、術中にしぽんだ肺を元どおりにするためにすることなのだが、生理食塩水などのはいっていたびんに水を入れ、ビニールの管を力いっぱい吹いて、水をあわだてる。肺にカがこもって、肺がふくらむというわけだ。
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4 手術
<開心術>
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4.手術 では、著者が医師から聞いた手術の模様が記されている。 |
手術室にはいった直後、すでに病室で打たれた基礎麻酔がきいて、私は意識を失った。手術のスタッフは、執刀者の川瀬さん、第一助手の万納寺さん、第二助手の森川さん。麻酔医は東京女子医大から応援のドクター。そして、山田さんがアシスタントになった。ほかに看護婦が二人。人工心肺をまわす技師が一人。もろもろの医療機器を管理する技師が一人。ただし、人工心肺の担当は医薬品を使用するので、技師といっても医者がつとめる。
いよいよ、手術の開始である。もっとも、私は意識を失っているから、以下の記述は執刀医の川瀬医師などから開いたことにもとづいている。
人づてに聞くかぎりでは、手術場のムードは寒々としている。そのムードにふれると、患者は緊張して、脈が早くなったり、血圧が上がったり、不整脈や吐きけが見られたりする.それを防ぐために基礎麻酔が打たれる。合成麻薬のオピスタン、傾眠作用をもつウインタミン、交感神経と副交感神経を遮断するピレチア、頻脈をおさえるためのスコプラミン、以上の四種類の薬を一本づつ注射されたのである。この時点で、血圧は一一〇と八〇、脈搏は八〇であった。モルヒネによる麻酔がおこなわれた。さらに少量のフローセンが補助的に用いられた。このときの血圧は一三〇と八〇、脈搏は九〇。
筋弛緩剤で声帯を弛緩させてから、気管挿管にかかる。声帯を弛緩させておかないと、気管挿管のさいにいためつけるからである。気管に挿入される管(チューブ)の太さは八・五ミリもある。挿管がなされたのが九時七分。このときは、まだ完全に眠ってはいない。刺激に対して若干の反射が残っているので、血圧は一四〇と九〇。脈搏は一一二とやや高めの数値を示す。
笑気ガスと酸素を半々にまぜた気体が気管に送られる。笑気ガスには痛覚をとる働きがあり、このような方法をガス麻酔という。やがて、私の状態は落ちつき、血圧一〇〇と六四、脈持九〇で安定する。
気管挿管のあと、ナースが患者の体を手術台に固定し、尿道にカテーテルを挿入して導尿の態勢をとる。胸の消毒とブラッシングをしてから、大腿部に電気メスの対極板をはりつける。その間、ドクターは手をよく洗い、手術用のガウンをつけ、みずからを清潔状態におくなど、準備態勢をととのえる。
そのあと、さらにもういちど、ドクターが患者の消毒をおこなってから術野だけを露出させ、からだを布でおおう。電気メスのコードをつないだりしているうちに、九時四十分になった。手術にさいしては、血液のPH(ペーハ)が重要なのである。PHが酸性、つまりアチドーシスに傾くと、働くべき酵素が働かなくなって生体のメカニズムが狂うので、血液はつねに若干アルカリ性に保っておかなくてはならない。この時点で、私の血液PHは七・四五三。血中酸素濃度および炭酸ガス濃度も異常のないことが確認された。九時四十分、川瀬医師が私の胸にメスをつきたてた。専門用語でいう胸骨正中切開である。胸の真んなかの骨をまっすぐ切る。いまでも胸に傷痕が残っているが、長さ約二十五センチある。
切り口に開胸器をセットして、肋骨をぐつと押しひらく。胸骨の下に縦隔と呼ばれるところがあ り、その左に心臓が姿をあらわす。
心臓のいちばん外側は心嚢であるが、ここには液体がたまっている。心嚢には、壁側と臓側と に心外膜があり、水はそのあいだにたまっているわけだ。心裏の下に、心筋におおわれた心臓の 本体があるが、この心筋も外側に外膜、内側に内膜がある。
ひきつづいてすぐ、心臓そのものにメスを入れることはまだできない。執刀医の眼下の私の心 臓は、規則的に波打っている。この鼓動をとめないと、安心して手術にうちこめないのである。 現在の心臓外科では、手術は無血視野のもとでの開心術が常識となっている。心臓に出入する 血流をとめ、したがって、心臓の動きをとめ、押しひらかれた肋骨の下の心臓を肉眼で直視しな がら、故障個所を修理する。それには、人工心肺の使用が不可欠である。人工心肺は、一時的に 心臓と肺の働きを代行し、心臓をとめておくことができる。川瀬医師らは、いそいそと私を人工 心肺につなぐ作業にとりかかった。
すでに川瀬さんが胸骨を切り裂いていたとき、他の医師は、同時並行的に、私の腿のつけ根を 切開して、外腸骨動脈を露出させた。人工心肺からのパイプが、この動脈につながれ、ここから 動脈血が全身に送られる。人工心肺は心臓と肺の働きをするのだから、私のからだの動脈に血液 を送りこむだけでなく、静脈から血液を抜き取らなければならない。静脈血は、心臓のすぐそば の上大静脈と下大静脈から抜き取られる。この二本の大静脈へのパイプの接合作業も、胸を切り ひらいてから直ちにおこなわれた。静脈血は人工心肺で酸素を補給され、動脈血となってからだ 心臓にもどるわけだ。 川瀬さんは、「心臓外科の進歩は、一面からいうと、人工心肺の進歩でもあるんですよね」と、しみじみした口調で語る。
一九五〇年代にデビューしたときのそれは、図体がバカでかく、能率が悪く、血液成分を破壊 ガする度合いも大きかった。その後改良に改良が加んられたとはいえ、原理そのものは昔と変らず、機械は洗濯機くらいの大きさである。もって生まれた心臓や肺にくらべて、機械の容積は大きいのだから、人工心肺の回路に流すために、相当量の血液が要る。
手術の説明を私や家族にしたとき、川瀬医師は、日赤の三日保存血を四〇〇〇CC用意したといったが、そのうちのかなりの部分が人工心肺を動かすのに使われるわけだ。
私の場合、人工心肺の回路に二二〇〇CCが注入された。とはいっても」それは血液と水の合計である。二二〇〇CCのうち、血液は六〇〇CCであった。回路に血液を一〇〇パーセントつめると、赤血球同士がくっついたりして、かえってよくない結果を生むのである。なお、人工心肺を動かすときは、血液の凝固を防ぐため、ヘパリンを血液に加えなければならない。
人工心肺のなかにはいった血液は、機械の内部で薄い膜をとおして酸素を吸収し、かわりに炭酸ガスを吐き出す。とはいえ、この機械の能力には限度がある。そこで低体温法がとられる。人工心肺にとりつけた熱交換器のなかに血液を流し、冷水で血液を冷やし、それによって、患者の体温を二八度ぐらいにまで下げる。体温を下げると、からだの組織の細胞の酸素消費量が減るので、人工心肺からの血液循環でなんとかカバーできることになる。私自身の体温は、手術終了時、直腸温で二七・九度まで下げていた。
人工心肺への接続は、一気におこなうわけにいかない。はじめのうちは部分体外循環といって、血液の一部分がまだ心臓を流れている。そのあと、人工心肺へのパイプの接合した上大静脈と下大静脈をしだいにテープでしめあげ、心臓への血流を減らし、ついには完全体外循環へもっていく。私が人工心肺につながれ、部分体外循環にはいったのは十時三十六分。九分後の十時四十五分には完全体外循環で、心臓はピタリと止まってしまった。
その十一分後、十時五十六分に大動脈遮断がおこなわれ、さらにまた重要な処置もほどこされた。血液の循環がとまった心臓の筋肉は、放置しておくと、酸素の供給がないままに酸素を消費するので、どんどん弱ってくる。それを防ぐために心筋保護法なるものをほどこすのである。心筋保護法について、東京女子医大の須磨幸蔵さんが『驚異の進歩・心臓外科』という著書で、つぎのように説明している。
「最近では、心臓に切開を加える前に大動脈を遮断し、カリウム濃度の高い心停止液を大動脈の 起始部に注入し、心停止液を冠状動脈を通して心筋に濯流して心臓拍動を停止させ、同時に心臓 を冷却水で局所冷却を行う方法も用いられる。心拍動がなく、かつ心臓は十度位に冷却されるの で、心筋の代謝は著しく減少し、冠血行の二時間以↓の連続遮断が可能となる。また、完全な無 血視野がえられ、心筋は弛緩して手術操作が容易となる」 この処置について、川瀬さんはつぎのように解説する。
「心停止液はGIK液ともいうんです。グリコースとインスリンとカリウムがはいってる。これ を心臓側、つまり冠動脈に押しこむと、筋肉が弛緩して、拡張性の心停止になる。代謝はおさえ られますが、心臓の温度はまだ高い。それで、心臓のまわりに氷を入れます。心嚢の部分にです ね。氷片(アイスフラツベ)といって、かき氷みたいなのです。筋肉が弛緩したままですから、これで一気に冷えて、代謝が落ち、酸素の消費量がものすごく減ります」
高度な技術の駆使によって、手術中の心臓筋肉は、少なくとも二時間ぐらい、鮮度を維持できるようになった。
静止した私の心臓は、スタッフの前にさらけだされた。いよいよこれからが手術の正念場であ る。
川瀬さんのメスは、まず右心房を切った。心房中隔を切り、それから、左心房を切った。めざす僧帽弁は左心房と左心室の間にあるのだが、左心房は背中側に位置するため、よほど大きくなっていないかぎり、右心房から切りすすむものらしい。
メスで切りひらかれた心臓は、カテーテル検査や超音波診断の結果を裏づけた。僧帽弁の後尖の支持腱索が断裂していた。ひもの切れたパラシュート、あるいは逆風を受けてチューリップ型になった傘のようであった。周縁部ならともかく、弁の中央部が大きく破損していた。弁の破揖個所を修復する弁形成術では追っつかない。というわけで、弁を切り取って、人工弁が取り付けられた。弁形成術ではなく、弁置換術がなされたのである。
人工弁はビジョルグ・シャイリーの傾斜開放型ディスク弁であった。ビジョルグとは考案者のスウェーデンの医者の名、シャイリーはアメリカのメーカーの名である。術者の川瀬さんは、一九六七年に、東京女子医大の榊原教授の医局にはいって、心臓外科の腕をみがきはじめて十五年。約四百例の手術を経験したベテランだ。
「弁の外側はテフロンでできてるんですが、平澤さんに取り付けたのは、縫いしろが下側にあるタイブのもので、弁の上のほうを左房の側に出して縫いつけるんです。術後の成績はどうもこのほうがいいようです。縫いつけ方はね、外から見たって、レントゲンとったってわからないんだけど、ていねいにやったのと、雑にやったのとでは、将来の弁のぐあいに差が出るんですね。以前は、とにかく縫いつけたらいいだったけど、いまはね、手術の実績があがってきて、遠隔成績(退院後の予後の成績) が問題にされるようになってきました」 川瀬さんが人工弁を私の心臓に縫いつけはじめたのは午前十一時ごろ。約三十分で作業は終了した。
「糸は、商品名をバイオテックスといって、ポリエステル製の人工弁糸です。やわらかくて縫いやすいんですよ。縫い方は、縫いしろと心臓の組織とのあいだを三、四ミリ角で、四角にきちっ と縫いつけます。一個所縫うごとに、糸をいったん切って、またとなりを縫う。弁の周囲全体で 十五、六個所縫いました。アメリカでは、ざ−つと連続的に縫ってしまう人もよくいるんだけど、 こういうことは医者のモラルに関係しますよね」 弁が取り付けられたあと、そのままで約三十分待たなければならなかった。低体温法で冷えたからだをあたためる必要がある。冷やすときとは逆に、熱交換器の温水で、血液の温度を上げるわけだ。心尭の氷片が除去されたのはいうまでもない。 「人工心肺を取りはずすときがたいへんなんですよ」と、川瀬さんはいう。 十一時四十五分、大動脈遮断を解除した。遮断したのが十時五十八分だったから四十七分ぶりに、心臓へ血が流れはじめた。冠動脈への血流停止がこの程度の時間であれば、心筋へのダメージはあまり大きくないはずである。次第にあたたかい血液の供給を受けることによって、弛緩した心筋が収縮カを回復し、やがて搏動をはじめるであろう。 経過は順調だった。十二時四分、私の心臓は搏動を再開。十時四十五分に完全体外循環にはいる。心臓をとめてから七十九分ぶりのことであった。
手 人工心肺をはずすときに、しておかなけれぼならないことがある。手術のとき、血液にヘパリンをまぜて、凝固しにくくした。これをそのままにしておくと、心臓にできた手術の傷痕からの出血がとまらず、命とりになりかねないというわけで、硫酸プロタミンを加えて中和させる。しかし、この薬がじゅうぶん効かない場合がある。末梢血管が収縮したままでいると、薬がうまく血液にまざらない。ここで生血を輸血すると、中和が促進されて、出血を減らすのに役だつ。けれども、生血は絶対不可欠なものではなさそうである。止血剤を投入して、出血を防ぐ方法もあるからだ。だが、そうなると、「日赤からの血液の使用量が増えるでしょうね」と、川瀬さんはいう。
人工心肺が完全体外循環から部分体外循環に切りかえられたのは、十二時二十七分。そして、十二時四十一分、私は人工心肺から離脱できた。心臓はふたたぴ力強い動きをとりもどした。生血の輸血は、その直後におこなわれ、息子の憲の友人三人から二〇〇CCずつ、六〇〇CCの血液が、私の体内に入れられた。
心臓の内部は、まだ手術室の照明下におかれたままである。縫合がはじまった。大動脈の空気を抜いてから、心房の壁を縫う。それから開胸器をはずし、胸骨の切断面に骨蝋をぬりつけ、二分されていた胸骨をあわせ、針金で数カ所ゆわえつけた。胸部の縫合は埋没式で、マットレス縫合と連続縫合で二重におこなった。
「埋没式の縫合は、患者さんの生命に余裕があるときにおこなうんです」
川瀬さんの話を聞くかぎり、私の手術は、危い橋を渡るようなものではなかったらしい。 ちょっと前後するけれど、胸を閉じる前に、ドレーンやペースメーカーの導子が埋めこまれた。ドレーンは二本、一本は心嚢に、もう一本は胸骨に達している。手術後の出血を体外へ吸いとるための管である。導子のほうは、先端が心臓の洞結節に接している。ここは心臓の持動をつかさどる電気的刺激を出す場所である。手術後、心臓が弱り、搏動数が落ちて心筋梗塞状態になったり、不整脈の一種である房室ブロックにおちいったりしたとき、導子の先をペースメーカーにつ なげば、緊急事態を脱することができる。いわば、転ばぬ先の杖なのである。 すべての作業が終ったのは午後二時。ストレッチャーに乗せられて、私はゆるゆると、手術室のとなりのICUに向かった。
満代と望が、病室の前のエレベーターで手術室へ下りる私を見送ったのが午前八時四十五分。 手術の終了を看護婦から知らされたのは、午後二時十六分。ちょうど五時間半である。妻と娘は、その間ずっと、五階病棟の廊下わきのデイルームで待機していた。
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デイルームにいた二人にとって、いちばんの気がかりは、やはり当日の輸血であった。日赤の 新鮮血か”生血”かの問題はいやおうなしに解決させられたとはいえ、人工心肺をはずしたとき の”生血”の輸血がどうなるか、とくに供血者が予定の時間どおりにきてくれるかどうかが不安 であった。
「輸血は午後一時ごろになると思います。間に合うようにきてもらってくださいね」
看護婦は事前にこういった。ところが、Dベッドの岡田さんが、貴重な体験を聞かせてくれた。 「あかんよ、看護婦の言うとおりにしちゃあ。うちもそうじゃったけど、いつも一時間はやく血が要るようになる。一時といわれたら、十二時にこさせにゃあ。そのときになってあわてたって、もうどうにもならん」 いわれたとおり、「十二時にお願いします」と、供血者にたのみこんでおいた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、手術当日だが、案の定、十二時少し前、看護婦がデイルームヘあたふたと上がってきた。
「輸血の方、お願いします。きてください!」
「ハイッ、わかりました」
満代は、そばで編みものをしていた望をうながした。
「憲の友だち、まだかしら。すぐ下へ行ってみて・・・」
望は、病院の玄関までいそいだ。一階でエレベーターから出るのと、憲が友人たちを連れて玄関の自動扉をはいってくるのとが同時だった。かろうじて間に合った。
供血者は病室のある階ではなく、二階へいくことになっている。そこで、手術室の医者が必要とするのに応じて、看護婦が採血をおこなった。
「みんな、朝ごはん食べてるでしょうね。じや、まず二人、お願いします」
やがてまた、もう一人・・・。けっきょく、私への”生き血”の輸血は三人。一人二〇〇CCだから、六〇〇CCですんだ。
それからまた、重い時間がデイルームに流れた−。
「平澤さん、手術おわりました。いらしてください」
待機中の妻と娘は、主任看護婦に呼ばれて、三階の手術室のとなりのICUへ連れていかれた。
そして、手術室から出てきたばかりの、まだ全身麻酔のもとで眠りつづける私に対面した。
そのときの私の様子は、「バスタオルが首の下のところまでかけてあって、口のなかから、お 腹から、首やら手やら、足やらから、ドレーンや管が十本以上も出ていて、なんだかこわかった。 見ていたのは三十秒間ぐらいだったかしら。「顔色、そんなに悪くないですね」と聞くと、先生 は「輸血してますからJといってた」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やがて、妻と娘は、ICUのすぐ外で、 川瀬医師から手術の模様を聞かされた。
「万納寺先生もいっしょだった。二人とも手術着のままだったわ」 川瀬さんは、切り取ったばかりの、シャーレにはいった私の僧帽弁をもって、妻と娘の前にあらわれた。
「これが切り取った僧帽弁なんです。こちら側が前のほう、前尖というんですけどね。前のほうの膜です。こちらが後のほう、この後尖のどまんなかについているパラシュートのひもですけど、これがちょん切れてる。それで後尖がぐ−つと左房(左心房) のほうへめくれてしまって、ちゃんとしまらない。弁の辺縁がものすごく厚くなって、後尖のほうが十センチ以上も左房のほうへとびだして、ぜんぜん合わないという感じなんです」
川瀬医師によると、弁がひじょうにぶよぶよと浮腫状に膨化している。どこか組織的に弱いところがあって、パラシュートのひもが自然に切れてしまったのだ。どまんなかが切れているため、 弁を一部つぶして血流のもれをとめることがむつかしい。また、自然に切れてきたものは、やがて同じような断裂を起す。弁を切り取らずに治療はできないとみて、人工弁を入れた。
「これで、血の流れのほうは、ふつうの人と同じようにまったく正常にもどりました。楽になったと思いますが、このあと、いろんな合併症の可能性があります。いまのところ、手術が終ったばかりで、なんともいえないんですけど・・・。お小水もよく出てるし、へんなけいれんの発作もないし、たぶん頭のほうも大丈夫だと思います」 そういいながら、川瀬さんは、二人に一枚のレントゲンフィルムを示した。「いま、手術室から出てきてすぐ撮った写真なんですが、これが入れた人工弁です」 説明が終ったところで、満代は、同席していた万納寺医師にたずねた。「輸血の方がた、もう帰っていただいていいでしょうか」 看護婦がかわって答えた。「半分ぐらい、残ってもらってください」 輸血をしてくれた三人を含め、八人の供血者は、まだ全員が二階の廊下のベンチに待機していたのである。
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5 集中治療室
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5.集中治療室では、手術が終わって集中治療室(ICU)で目覚めるところからレポートが始まる。 |
いま、自分はlCUにいるんだ。麻酔からさめたのだとわかった。手術が成功して、命が助かつた、よかったという気持は、予想していたほど強くはない。一九八二年十一月十七日午前五時なのだなという時間の認識がまっさきによみがえってきた。これで、時間と場所の意識をもつことができた。現実の世界にもどれたとの実感がわいた。
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口から気管に向かって、管がはいっている。ゴム管なのか、プラスチック管なのか。黒くて手の指ぐらいの太い管である。この管は、枕もとの呼吸器につながれている。呼吸器は、ベッドの 左横で動いていた。ガラスの簡にいれこになっていて、モーターのカで蛇腹式の円筒が伸縮する。
そのたびに、酸素が私の肺に送りこまれているのだろう。
ちょっと目を移すと、点滴液のびんをぶらさげたポールが数本。林立という感じである。どの点滴のパイプがからだのどの部分にさしこまれ、固定されているのやら見当がつかない。管や点滴のパイプが何本もはいっていて、無意識のうちにからだを動かしてはならないので、手足はベッドに軽くしばりつけられている.
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病院の規定で、ICUにおける患者と家族の面会は一日一回、九時十分から五分間とされている。定刻だったのだと思う。景雲荘に泊りこんでいる満代と望がきてくれた。左側には点滴のポ−ルや呼吸器のポンプがあるので、人びとはみんなベッドの右側から話しかけてくる。
「わかりますか。手術は成功よ。経過もいいって、先生がいってる」「大丈夫ですか。顔色もいいし……」
問いかけられても、うなずくだけで返事のしようがない。口からパイプがはいっているためである。
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「経過がいいようですから」と、川瀬さんがいって、口からの管が抜かれた。手足の束縛もとか
れた。私の意識がほぽもどったことを意味する。とにかく、これでずいぶん楽になったが、まだ、完全にふつうの状態になったわけではない。管が抜けても、酸素テントに入れられていた。
私の記憶では、満代と望の面会が終ってまもなく、気管に入れられていた管が抜かれたように思う。だが、看護記録によると、それは十二時五十分となっている。三時間以上も後のことだったのである。おそらく、私の意識はまだ正常でなくて、うつらうつらとしていたにちがいあるまい。
呼吸器による酸素の供給が減らされていく。ICUでは、スタッフが患者の血液中の酸素と炭酸ガスの濃度などを測定しながら、調節をはかる。私の場合、ICUにはいったとき、呼吸器が一分に十六回、一回の換気量六〇〇CCで、濃度四〇ないし五〇パーセントの酸素を送っていた。自発呼吸ができるにつれて回数は減り、夜中には十三回になった。朝九時からさらに、濃度四〇パーセントの酸素を毎分五回供給するというふうになっていった。そして、十一時三十分には、チューブを口に挿管したまま、マイクロネプライザー(超音波噴霧加湿器)経由の酸素吸入に切りかえられた。鼻と口にマスクをつけて、吸入器から酸素を送るようにしたのである。この時点では、自分の呼吸力の回復が不十分で、また人工呼吸器に逆もどりするかも知れないので、しばらくチューブ挿管のままにされていたわけだ。
けっきょく、十二時五十分に、人工呼吸器から離脱できたが、マイクロネブライザーは、鼻や口もとに圧迫感があって、あまり結構なものではない。酸素テントのほうがまだしも快適なので、マイクロネプライザーと酸素テントとのあいだを行ったりきたりして、酸素不足をおぎなっていた。
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<ICUにて>
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ICUでは、痰を切ることが患者の主な仕事であることは、私の場合もICUで目覚めてすぐに医師から言われた。手術前に看護婦さんから言われていたことであり、またティッシュペーパー1箱用意させられていたことでもある。ただ、私はされなかったが著者はタッピングと称する背中たたきが行われ、辛かったと言っている。 |
「手術のあとで、肺に痰がたまっていますから出してください。咳をしてください。咳ばらいできますか」
口からの挿管がとれるとすぐ、看護婦がベッドサイドにあらわれて、こういった。 術後の去痰の意義は、術前にICU担当の看護婦から聞かされている。肺にたまった痰をそのままにしておくと、その部分の肺は、痰に妨げられて、血液に酸素を与える機能がはたせなくなる。すると当然、心臓にも悪影響が出る。だから、痰をとらなければならないのである。
もともと、痰は、手術の直接的産物ではない。人工呼吸器につながる気管内挿管が原因なのだ。ふだんでも、痰は発生しているけれど、言葉をしゃべったりするのにつれて、気管から排出され、食道をへて胃にはいっている。挿管されていると、そうはいかないので、肺にたまってしまう。
看護婦にすすめられて、軽い気持で咳をこころみた。しかし、ことはそう簡単ではなかった。 咳ばらいをしようとしたのに、どうもうまくできない。このときはじめて、咳と咳ばらいをするには、思いのほか体力が要るものだと痛感させられた。いくらがんばっても、術後まる一日もたたない私には不可能だった。ぜんぜん胸に力がはいらないのである。
咳ばらいができなかったら、つぎになにがおこなわれるかは、病室のとなりのベッドの岡田さんから聞かされていた。タッピングである。看護婦が患者の上半身を起し、背中を強く、どんどんとたたく。こうすると、肺の内面の肺胞をおおっていた疾が、肺胞からはがれて上部へ移動するらしい。そうしておいて、細い管を鼻や口から気管にさしこむ。そうすると、苦しまぎれに咳や咳ばらいをせざるをえない。それとともに出てきた痰を、管をつうじて、吸引器で吸い取る。
これは、患者にとってかなりの苦行だ。岡田さんは、「あのときばかりは、美人の看護婦でも鬼のように見えたなあ」といっていたけれど、あながち誇張とはいいきれない。
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lCUは、集中治療室の名のとおり、濃密な看護態勢をしいている。手術直後の患者には、看護婦が一対一でつく0症状が落ちついてきても、患者二人に看護婦一人である。タッピングと水吹きを、たびたぴくりかえさせられる。術後の回復に必要な処置だとわかっていても、苦しいし、わずらわしい。手術後の疲労もあって、なによりも眠いのだ。しかし、看護婦は眠らせないで、タッピングと水吹きにかりたてる。
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面会が終ってしばらくたった。いよいよである。「お水のんでもいいですよ」
看護婦が吸い呑みで、氷水をくれた。まさに甘露の水。飲み終っても、吸い呑みの底に氷片が残っている。それを看護婦がそのまま持ち去ったのが、うらめしかった。
看護をする側からいえば、うまく飲めるかどうか、かなり警戒しながら水を与えるはずである。
あらかじめ聴珍器を患者の腹にあてる。麻酔からさめ、腸の感動運動が回復したのをたしかめてから、踏み切るのだ。また、不用意に多量土の水を与えると、患者が水をのどにつまらせ、その水を吐き出すさい、うっかり肺に入れてしう。そうすると、術後肺炎を併発する危険があるとのことだ。
「また、ほしいときにはおっしゃってください」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
手術の翌日の水分が一日四〇〇CCというのは、ふつうの数量であるらしい。尿量に不相応な水分を与えると、体内に水分がたまりすぎて心不全になりかねない。患者の水分は不足気味にコントロールされている。それでいっそう渇きをおぼえる。
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十七日の夜から十八日の朝にかけて、私は、ICUのベッドでしょっちゅうゆさぶり起こされ、タッピング、咳ばらい、水吹きの定期便に見舞われて苦闘していた。看護用語でいえば、これは呼吸管理なのである。定期便の合間は、医者や看護婦の話し声、どたばたとあわただしい足音が耳について、ひと晩じゅう不眠をかこった。しかも、目をこらしても、眼鏡がないので、事態が把握できない。
夜が明けて、時がたつ。騒々しさは変らない。少しでも早く出たい気持になる。
ともかく、私自身の経過は順調なので、十八日の朝から食事が可能になった。といっても、運ばれてきた朝食は三つの小さなボウルにはいっていた。見ると、うすい重湯、ミルク、お茶。それぞれ五〇CCぐらいしかはいっていない。看護婦が吸い呑みに入れて、順次飲ませてくれる。
食後の薬を飲まなければならないが、薬を飲みくだすときの水を別計算にすることはできないといわれて、いささか緊張する。ミルク、重湯の順にちぴちぴと、口のなかに流しこんだ。
つぎはお茶。これは食後の薬用にとっておくことにして、朝食を終えた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
午後だったと思うが、川瀬さんが、切り取った僧帽弁を持ってきて、見せてくれた。「もうホルマリンにつけてしまってたんですが」とのことである。僧帽弁は白くて、貝のむき身みたいな形をしていた。支持腱索をつなぎとめている乳頭筋は茶色であった。しかし、支持腱索は、ものの見事に、乳頭筋から切断されているのが私にもわかった。リューマチ性の場合は、病変部が黒くなっているものらしいが、私の僧帽弁はたいへんきれいであった。
「こんな症例は、うちの病院では、まだ十数例しかありません」
「なぜ、支持腱索が切れたんでしょうか」
「わかりませんね。十数例のうち、一人は、牛小屋のなかで牛に強く壁ぎわに押しっけられたのが原因だろうと見られますが、ほかの人たちは原因がわからないんです」
川瀬医師との問答をつうじて、自分の症状がかなり珍しいケースであるらしいと感じた。
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十九日の朝がきた。午前十時半に病棟にもどることになった。意識がもどつてからもときどき使用していた酸素テン寸とは、完全におさらばである。導尿カテーテルが抜去された。これがついていると、ベッドの上での寝がえりを慎重にやらざるをえないし、それ以外の動作もかなり制約される。さらに排尿の実感がないというのは、えもいわれぬ奇異な感じである。人間の基本的ないとなみである排尿行為が欠落していると、なんだか一人前でないような気持になる。感染症にかかりやすいから、できるだけ早く取り除くという医学的理由もさることながら、とにかくありがたかった。
看護婦の手によって、何本も林立していた点滴用のポール、床で錯綜するモニター機器のコードの取り片づけがはじまった。彼女たちの動きを横目で追いながら、私は、五一八号室に帰還したとき、病友たちにどんな挨拶をすべきかと頭のなかで言葉をさがしもとめた。そして、つぶやいた。
「「おかげさまで、無事生還しました」がいいんじゃないかな」
もうこの日の朝、妻の満代は、定刻九時十分からの面会時間に、ICUをおとずれることもなかった。病室で、私を待っていればよかった。
lCUにいたのは、十一月十六日午後二時十八分から十九日午前十時半まで、約六十八時間であった。
6 生還
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<一般病棟にて>
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一般病棟からのレポートである。ここでも肺の機能の回復が主要目標であり著者は咳払いと水吹きをさせられている。
私はといえば深呼吸をしてトリフローを吹いており、肺の機能の回復の程度は朝晩指先の爪を挟んではかる酸素計で血液中の酸素濃度を測っていた。このクリップメーターの数値が90弱が100に近づくと酸素補給も必要なくなるのである。これは心筋梗塞の時CCUでも測定されチェックされた覚えがある。 |
五一八号室にもどつてからも、痰との戦いはつづく。看護婦が背中をたたくタッピングがなくなったかわりに、ネプライザーの使用と咳ばらいと水吹きを、自分で精力的におこなわなければならない。看護婦が聴診器を使って、患者の肺の疾のたまりぐあいを診断する。他の患者と比較してどうなのか、それはわからなかったけれど、「もっと水吹きしてください」と、看護婦からたびたびハッパをかけられた。
ネプライザーとは吸入器であって、これで気管支拡張剤を含んだ空気を吸いこんで、気管を拡張させる。ところが、うまくやるにはコツがある。たぶん、タバコをすう人ならわけないのであろうが、タバコをすったことのない私にはいささかむつかしかった。とにかく、こうして気管を拡張させたあと、咳ばらいをして疾を出す。といつても、術後の日数が浅いので、咳ばらいをすると、手術の傷痕にひびいて痛い。
そのほかに、ICUでもやっていた水吹きがある。これ自体は苦痛をともなわないけれども、一日に何十回、あるいはそれ以上しなければならないとなると、なかなか面倒である。ついつい、「水吹きやってらっしゃいますか」と注意を受ける。
「いったい、水吹きにはどういう効果があるんですか」 たまたま病室にはいってきた看護婦に質問したことがある。「吹くことで肺がひろがります。そのあと空気をいっぱい吸うでしょう。それで、空気が肺の奥まではいります」
さらに、咳ばらいをすると、肺にたまっていた痰は、ネブライザーでひらかれた気管から外へ出ていくというわけだ。
術後二週間あまり、十二月のはじめまでは、「痰がたまっている」、「肺のひろがりが悪い」といわれたけれど、水吹きのかいがあったのだろう。どうやらクリアした。
体力は順調に回復した。病室に帰って二日日の十一月二十日、看護婦につけてもらった力ひもをひっぱって、自力で上半身を起せるようになった。筋肉を使うので、手術の傷に差しつかえるかと思ったが、まったくの杷憂であった。
翌二十一日には、経鼻カニューレから解放された。二十二日からは、熱が下がって、氷枕は不要になった。ドレーンもこの日にはずされた。ドレーンは直径数ミリの管で、一本は胸骨の上に、もう一本は心嚢にはいっている。胸骨のほうのは短くて二、三センチだが、心嚢にはいっていたほうは十センチ近くもある。万納寺医師が無造作に引き抜いた。べつに、痛くもかゆくもなかった。こんなものがからだのなかに突っこまれていて、もう麻酔はとっくに切れてしまっているのに、なんの自覚もなかったとは、人間も意外に鈍感にできているものだなと感心した。それでも、長いほうのドレーンの体内にはいっていた部分に、まるではらわたみたいなぬるぬるした感じの、長さ数センチの赤いものがぶら下がっていたのにはおどろいた。
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7 五一八号室の人々
8 患者の立場から
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7 五一八号室の人々 で心臓病棟の人々を描いた後、この 8 患者の立場から は、著者の退院後にまとめた 心臓病の医療、僧帽弁の人工弁への弁置換術、に関する総括的解説を述べている。 |
我が家に帰り普通の生活にもどつてから、気づいたことがある。夜中、ときに目をさましてトイレに立つ。静けさにつつまれていると、耳を澄ますまでもなく、心臓に装着した人工弁の音がカチカチと鳴るのが聞える。手術以前でも、寝ながら枕に耳を押しっけると、心臓の音がわかったが、それは生きているしるしのようなもの。人工弁の音は、時計が時をきざむように金属的で機械的なのである。
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音の主である私の人工弁は、ビジョルグ=シャイリー弁二七といい、一個七十六万円のしろものである。この弁は、テフロン製の外輪と、外輪にはめこんだパイロリティック・カーボンという炭素樹脂製の内輪と円盤とからなり、左心室と左心房とのあいだの開口部に取り付けられている。ビジョルグ‖シャイリー弁二七というのは、外輪の外径が二十七ミリであることを意味し、内径は二十二ミリである。円盤は外輪に対して約六十度の角度で、内輪に取り付けてある。左心室が収縮して血液が大動脈へ送り出されるとき、円盤の角度は外輪に対してゼロとなり、ピタッと外輪を閉ざす。それで、血液が左心房へ逆流するのを防ぎ、一左心室が拡張して左心房が収縮したときは、円盤が血流とほぼ同じ方向に開き、血液を流入させる。
弁の性能は、凝血を起さないこと、こわれないこと、血流を阻害しないことの三点につきる。
テフロンもパイロリティック・カーボンもともに、血栓が付着しにくく、丈夫で磨耗しにくい。
また、外輪と円盤が角度六十度、つまり斜めに接合されているので、血液がだいたいスムーズに左心房から左心室へと流れこむ。
世界で最初の弁置換術がおこなわれたのは一九六〇年であった。そして、私が手術を受けたころまでに、世界じゅうで使用された人工弁は約三十五万個に達したといわれる。一九六〇年といえば、五一八号室のBベッドにいた竹原さんが最初に手術を体験した年だが、それは当然、僧帽弁の形成術であり、人工弁との交換ではなかった。私自身が生まれてはじめて心臓弁膜症という病名を耳にしたのは、小学校にあがるかあがらないかのころだった。親戚に先天性の弁膜症の子どもがいて、両親があらゆる手をつくしたのに亡くなってしまった。たぶん、これは一九三〇年代後半のことであり、当時の医学水準ではどうにもならなかったのだ。
ところで、人工弁の構造は、二十年余りのあいだに、目まぐるしいほどの進歩をとげた。六〇年代にもっともよく使用されたのはスター・エドワード弁で、これはボール型である。弁口の真中にボールがあり、それが上下に動いて弁口を開閉する仕組みだが、弁口がひらいたときでも、ボールがあるために、血液の中心流が阻害された。また、ボールが割れる事故が発生したため、材質をシリコンから金属にかえたところ、ポールをはめこむ金属枠とのあいだで、溶血を起して赤血球が破壊される。それを防ぐために金属枠を布でつつむと、その布が裂けた。ぐあいが悪いというので、ボールをふたたび金属からシリコンにかえる。使用しているうちに、シリコンは、十年もたつと膨化してくることがわかった。
ほかにもいろいろな人工弁が用いられたが、現在は、傾斜開放型のディスク弁が主流というところに落ちついた。この型にも何種類かあるけれど、私の心臓には、先にも述べたようにビジョルグ=シャイリー弁が装着されている。ビジョルグの弁にも、円盤に凹面と凸面をつけたコンベックス・コンケープ型という改良型があるが、川瀬さんはまだ実用化して日が浅いからと慎重を期し、従前のスフェリカルタイプを選択した。
七〇年代のはじめまでは、弁膜症の弁置換術はかなりの危険をともなった。死亡率にして三〇パーセントを超えることがあった。そのため、よほど重症になってから、最後の手段として手術をおこなった。もちろん、重症患者の手術だから、歩どまりがいっそう悪いという悪循環も見られた。
女子病室である五一七号室に、寺田花枝さんという中年の患者がいた。私が退院する一週間ほど前に、僧帽弁と大動脈弁をとりかえる手術をしたが、六日目になってもICUから上がってこない。デイルームで待機中のご亭主の話では、「元気にはなってるが、まだ強心剤をうちつづけていて、いつ病室に帰れるかわからない」。寺田さんは、十三、四歳のときにリューマチ性の高熱におかされて、僧帽弁をいためた。自覚症状が出たのは十七、八年前からだったが、調子が悪くなっても、一日寝ればよくなる程度なので放置していた。そのうち、大動脈弁までいたんできた。ついに肉体的に耐えきれなくて、手術に踏み切った。
強心剤をうちつづけているのは、心筋が弱りはてていて、手術のあと、収縮カがじゅうぶんにつかない。血液の持出が弱いので、薬でもって心臓をむちうっているのだろう。もっと早く手術をしていたら、回復も容易だったと思いたいが、かならずしもそうとはいえない。森岡さん、橋本さん、海野さんなど、私が付き合った病友たちのケースも、単なる手おくれなのではなく、心臓外科の技術的な壁にはばまれていたとも見られる。
私が受けた手術は、心臓への血液循環を止めておこなうものなので、「無血視野における弁置換術」という。技術にはすべて実験段階と実用段階とがあるが、この手術はすでに実用段階には
いった技術である。それを可能にしたのは、優秀な人工弁の開発だけではない。もうひとつ、手術中の心筋を保護する方法の進歩があげられる。
心筋保護法と呼ばれるもので、氷片を心臓のまわりにつめこみ、カリウム液を冠動脈に注入して、心臓の筋肉をひやし、細胞の酸素消費量、つまり代謝のテンポを落すことによって、冠動脈の血流を遮断しても心筋が損傷を受けないようにする技術だ。この方法が導入されたのは、一九七五年ごろからである。
私の手術では、完全体外循環で心臓へいく血液を止めたのは、七十九分間であった。心筋保護法をとれない時代には、せいぜい三十分しか血流を止めることができなかった。手術がそれ以上に長くかかるときは、途中で短時間、冠動脈に血液を入れる、つまり、酸素を与えてやる必要があった。しかし、こういうことのくりかえし自体も、心臓の筋肉をいためるので、手術は成功したが患者は死んだという悲劇も珍しくなかった。
もしも、私の僧帽弁の故障が十年早かったなら、治療法、つまり無血視野での弁置換術も心筋保護法もまだ開発されておらず、手術もせずに内科的な薬物療法を選んだか、手術をしても、術後の心臓筋肉や体力の回復があまりはかばかしくなかったのではないか、ことによれば生命を失っていたかも知れない。運がよかったといわなければなるまい。
狭心症とか心筋梗塞などの虚血性心疾患の外科療法も、歴史は決して長くない。五一八号室の佐々木さん、吉村さん、また五一五号室の北川さんらが受けたACバイパス手術は、一九六七年にエフエラーとファバロロが創始したものである。この新技術は、とくにアメリカで急速に普及し、私が榊原記念病院に入院したころは、年間十万件を超えていたであろう。いっぽう、日本では、年間二千件にも達しないといわれていた。そして、手術の死亡率は四パーセントぐらいであった。アメリカでは、技術がよりすぐれていたからであろうか、死亡率は一・三パーセントとのことであった。
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PTCAすなわち経皮的冠状動脈形成術に関する解説である。 |
患者同士で「風船」(バルーン)と呼び合っていた治療法がある。「風船」は、この病院で鋭意開発中の治療法だとの認識があり、なにかにつけ病室の話題になった。五一八号室では、Fベッドの堀川さんが、この「風船」の患者だった。郵便配達員の堀川さんは、胸に灼熱感と息苦しさをおぽえて、関東逓信病院に入院。三本ある冠動脈の一本が約九〇パーセントつまっていた。それを「風船」で治せるかどうかで、私よりも三日遅れて、榊原記念病院にはいってきた。
「風船」というのは、もちろん俗称である。正式の名称はPTCA。またの名は、経皮的冠状動脈形成術と長ったらしい。具体的に説明すると、細い管を狭窄や梗塞を起している冠動脈にまで送りこむ。その管はカテーテル検査のときのものよりも細い。はじめにガイドワイヤーを送りこみ、そのあとから、先に小さな風船のついたカテーテルをガイドワイヤーに沿ってすすめ、風船を狭窄部に位置づけ、つぎに造影剤を風船に送りこんで風船をふくらませると、狭窄部にもりあがったコレステロールなどの脂質が内側からおしっぶされ、血管がひろがり血行がよくなって、病状が改善される。
PTCAには、多少の危険がともなう。中途で患者が発作を起したりして緊急手術をおこなう場合が、全体の五ないし八パーセント、急性心筋梗塞を起すのが二ないし四パーセントといわれる。そして、一パーセントの死亡を覚悟しなければならないという・・・。カテーテル検査よりもかなりリスクが大きいわけで、PTCAをおこなうときは、万一にそなえて、バイパス手術のチームがいつでも緊急手術に応じられるように、手術室で待機する。
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PTCAは、内科の領域でとばした久しぶりのヒットなのである。だから、いっそうブームの火がつきやすい。循環器内科と循環器外科との競争意識ぬきには考えられない現象であろう。
その結果、勇み足がないわけではない。一定の危険をともなうPTCAは、心臓外科医のスタンパイなしに実施すべきではないのに、実際には、外科医のいない病院が平然とおこなっていたりする。
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