| 布施弁天の元旦の獅子舞(1月1日) 元旦の獅子舞は定例になっています。このあと、小さい子供が、獅子に頭をかんでもらって無病息災を祈るのですが、泣き出す子もいます。かってマークンも泣きました。ノブチャンも最初は良かったのですが・・・。 |
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| 布施弁天東海寺は、お正月三が日は、かなりの賑わいである。日曜にはちらほら人影があるが普段はひっそりしている。 | |||
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布施弁天の本堂。江戸中期における下総地方の名建築といわれているそうで、総朱塗りで大変きれいである。 柏市文化財めぐり 紅竜山東海寺(布施弁天)本堂(昭和四十三年六月一日柏市指定文化財) 柏市の北東、利根川を眼下に望む島状の高台にあり、浅草弁天山・江の島と共に、関東三井天の一つに数えられています。 布施弁天縁起によると、大同二年(八〇七)七月七日の夜「紅竜が現われ島を築き」とありま。現在の亀甲状の丘が、一帯の湖沼の中に一夜にしてでき、その奇瑞から信仰の場となりました。 弘仁十四年(ハニ三)三月、嵯峨天皇の時に紅竜山東海寺として、伽藍を建立し、勅願所に指定されたといわれています。 現在の本堂は、亨保二年(一七一七)の創建で、正面五間、側面六間の総朱塗、三方破風入母屋造りです。向拝に四柱を配して三区分してあるのは、正副勅使の上堂通路を区分するためてす。内部、外陣の天井の鏡板には狩野探舟の筆による竜が描かれています。また内陣の天井には、本堂建設に協力した八十四名の大名の紋章が描かれています。 現在の屋根は、昭和四十六年から四十七年にかけて、厚萱から銅板へ葺き替えられたものです。 昭和六十三年二月 柏市教育委員会 柏市文化財保護委員会 |
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ユニークな竜宮づくりの山門。 柏市文化財めぐり 紅竜山東海寺(布施弁天)楼門(昭和四十三年六月一日柏市指定文化財) 楼門は文化七年(一八一O)の創建で、総欅入母屋造り、桟瓦葺き、三間三戸の山門で す。二階の内部中央には須弥壇を設け、釈迦 如来をまつってあります。 この楼門は、従来のアーチ形無柱の伝統を破って、二柱を立て、通用部分を三区分してあります。これは当寺が勅願所であったことから、本堂の四柱向拝にならい、中央部を正使ガ通り、両脇部を副使が通るようにしたためです。 建築の中心的役割を果したのは、布施の藤十郎という大工棟梁でした。この人は、おそらく寺大工であったと思われますが、当時、このような重厚な建築のできる大工が、この地域にいたということは注目に価します。 昭和六十三年二月 柏市教育委員会 柏市文化財保護委員会 |
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柏市文化財めぐり 紅竜山東海寺(布施弁天)鐘楼 (昭和四十三年六月一日柏市指定文化財) 鐘楼は文化十五年(一八一八)の創建で総欅入母屋造り、銅板葺き、全容は多宝塔型です。八角形の石積基壇の上に、円形に十ニ柱を立てた塔身があります。この十二本の柱上部に十二支の彫刻を配し 方位を示しています。内部の天井は格組みにし、中央には昭和三十三年鋳造の梵鐘が吊られています。 鐘楼の設計は、茨城県筑波郡谷田部の名主飯塚屋伊賀七があたりました。伊賀七は「からくり伊賀」といわれ、木製大時計、互角堂の他、微々の発明品を作ったと伝えられています。この鐘楼の設計図も飯塚家に現存しています。 多宝塔の建築法を鐘楼に応用したもので、全国的仁もきわめて珍しい建築様式とされています。 昭和六十三年二月 柏市教育委員会 柏市文化財保護委員会 |
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かっては利根川の渡しのあった所に新大利根橋(有料)が掛かっている。柏市のサイクリングコースになっている堤防の上から、河原を見るとすずかけの木がそびえている。その下に水神様が祀られているが、そこが七里ヶ渡しといわれ渡船場があった所である。ただ、その跡といっても、これといったものは何もない。 今は、河原では休日ともなると、マウンテンバイクを乗り回す人あるいは、橋の向こう、下流側の広場では、キャッチボールやら、ハングライダーを楽しむ人たちを見受ける。 |
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柏市文化財めぐり 七里ケ渡と布施河岸 江戸時代の元和二年(一六一六)に幕府は、七里ヶ渡を定船場に定めました。 このころは「藺沼」という沼でしたが、承応三年(一六五四)になって利根川が完成しました。 幕府が江戸防衛の意昧から、利根川に橋をかけなかったこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝として、この七里ヶ渡は栄え、布施村には五軒の旅籠があって、宿場町的な繁栄も見られました。また、亨保十五年(一七三○)に、土浦−小張−戸頭の水戸街道の脇往還が完成すると、それを利用する者が多くなり、七里ヶ渡の往来も一段と多くなったと思われます。 ここにある水神様は、亨保四年(一七一九)三月に起こった、渡船中に事故の犠牲者の霊をなぐさめるため、また、再びこのような事故が超きないことを願って、建てられたものです。 布施河岸は、七里ヶ渡と同じ場所にあり、江戸時代の中ごろに全盛期を迎えたようです。東北地方・利根川下流・霞ケ浦沿岸の荷物は、利根川をさかのぼり関宿を迂回して、江戸へ向かうのが通常でした。それが上流に〃できたため、布施河岸で荷を降ろし、陸路江戸川側の流山加村河岸へ荷物を運ぶことが多くなりました。主な荷物は、海産物や米・炭・酒・タバコなどでした。 明治二十三年(一八九〇)に運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は、運河を通って江戸川へ出るようになり、布施河岸の役目は終わりました。 平成四年一月 柏市教育委員会 柏市文化財保護委員会 |
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