町から:柏の風景


布施弁天
 利根川を見下ろす高台に、真言宗豊山派(ぶざんは)のお寺である紅竜山東海寺こと布施弁天がある。江ノ島、浅草と並んで関東3弁天の一つと称されている。
 布施弁天は、柏市の名所の一つであるが、あけぼの山公園、あけぼの山農業公園の北側、利根川寄りにある。
   布施弁天周辺
   あけぼの山公園、あけぼの山農業公園、布施弁天の周辺全体図を示しています。
   あけぼの山・布施弁天周辺図 (PDFファイル)
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布施弁天

 柏からの布施行きバス終点の目の前が布施弁天、東海寺の石段である。また、その前に弁天茶屋なる店がある。
 布施弁天はさして広くもないので、石段を登り、楼門をくぐり右奥の鐘楼を見ながら正面の本堂にお参りするとよい。楼門、鐘楼、本堂は柏市の指定文化財になっている。
 山を下りて後ろに回れば利根川の堤防(外側)が見える。利根川まで足をのばせば、川岸に七里ケ渡し跡がある。七里ヶ渡し跡は、柏市と茨城県取手市戸頭を結ぶ新大利根橋の下にあり、大きなスズカケの木が見える。その下に、渡し船が沈没したときの犠牲者の供養の石塔がある。


布施弁天
布施弁天の元旦の獅子舞(1月1日)
元旦の獅子舞は定例になっています。このあと、小さい子供が、獅子に頭をかんでもらって無病息災を祈るのですが、泣き出す子もいます。かってマークンも泣きました。ノブチャンも最初は良かったのですが・・・。

 布施弁天東海寺は、お正月三が日は、かなりの賑わいである。日曜にはちらほら人影があるが普段はひっそりしている。

布施弁天の本堂。江戸中期における下総地方の名建築といわれているそうで、総朱塗りで大変きれいである。

柏市文化財めぐり
紅竜山東海寺(布施弁天)本堂(昭和四十三年六月一日柏市指定文化財)
 柏市の北東、利根川を眼下に望む島状の高台にあり、浅草弁天山・江の島と共に、関東三井天の一つに数えられています。
 布施弁天縁起によると、大同二年(八〇七)七月七日の夜「紅竜が現われ島を築き」とありま。現在の亀甲状の丘が、一帯の湖沼の中に一夜にしてでき、その奇瑞から信仰の場となりました。
 弘仁十四年(ハニ三)三月、嵯峨天皇の時に紅竜山東海寺として、伽藍を建立し、勅願所に指定されたといわれています。
 現在の本堂は、亨保二年(一七一七)の創建で、正面五間、側面六間の総朱塗、三方破風入母屋造りです。向拝に四柱を配して三区分してあるのは、正副勅使の上堂通路を区分するためてす。内部、外陣の天井の鏡板には狩野探舟の筆による竜が描かれています。また内陣の天井には、本堂建設に協力した八十四名の大名の紋章が描かれています。 現在の屋根は、昭和四十六年から四十七年にかけて、厚萱から銅板へ葺き替えられたものです。
昭和六十三年二月
    柏市教育委員会
    柏市文化財保護委員会

ユニークな竜宮づくりの山門。

柏市文化財めぐり
紅竜山東海寺(布施弁天)楼門(昭和四十三年六月一日柏市指定文化財)
 楼門は文化七年(一八一O)の創建で、総欅入母屋造り、桟瓦葺き、三間三戸の山門で す。二階の内部中央には須弥壇を設け、釈迦 如来をまつってあります。
 この楼門は、従来のアーチ形無柱の伝統を破って、二柱を立て、通用部分を三区分してあります。これは当寺が勅願所であったことから、本堂の四柱向拝にならい、中央部を正使ガ通り、両脇部を副使が通るようにしたためです。
 建築の中心的役割を果したのは、布施の藤十郎という大工棟梁でした。この人は、おそらく寺大工であったと思われますが、当時、このような重厚な建築のできる大工が、この地域にいたということは注目に価します。
昭和六十三年二月
   柏市教育委員会
   柏市文化財保護委員会

柏市文化財めぐり
紅竜山東海寺(布施弁天)鐘楼
(昭和四十三年六月一日柏市指定文化財)
 鐘楼は文化十五年(一八一八)の創建で総欅入母屋造り、銅板葺き、全容は多宝塔型です。八角形の石積基壇の上に、円形に十ニ柱を立てた塔身があります。この十二本の柱上部に十二支の彫刻を配し 方位を示しています。内部の天井は格組みにし、中央には昭和三十三年鋳造の梵鐘が吊られています。
 鐘楼の設計は、茨城県筑波郡谷田部の名主飯塚屋伊賀七があたりました。伊賀七は「からくり伊賀」といわれ、木製大時計、互角堂の他、微々の発明品を作ったと伝えられています。この鐘楼の設計図も飯塚家に現存しています。
多宝塔の建築法を鐘楼に応用したもので、全国的仁もきわめて珍しい建築様式とされています。
昭和六十三年二月
   柏市教育委員会
   柏市文化財保護委員会

 かっては利根川の渡しのあった所に新大利根橋(有料)が掛かっている。柏市のサイクリングコースになっている堤防の上から、河原を見るとすずかけの木がそびえている。その下に水神様が祀られているが、そこが七里ヶ渡しといわれ渡船場があった所である。ただ、その跡といっても、これといったものは何もない。
 今は、河原では休日ともなると、マウンテンバイクを乗り回す人あるいは、橋の向こう、下流側の広場では、キャッチボールやら、ハングライダーを楽しむ人たちを見受ける。

柏市文化財めぐり
七里ケ渡と布施河岸
江戸時代の元和二年(一六一六)に幕府は、七里ヶ渡を定船場に定めました。
このころは「藺沼」という沼でしたが、承応三年(一六五四)になって利根川が完成しました。
幕府が江戸防衛の意昧から、利根川に橋をかけなかったこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝として、この七里ヶ渡は栄え、布施村には五軒の旅籠があって、宿場町的な繁栄も見られました。また、亨保十五年(一七三○)に、土浦−小張−戸頭の水戸街道の脇往還が完成すると、それを利用する者が多くなり、七里ヶ渡の往来も一段と多くなったと思われます。
ここにある水神様は、亨保四年(一七一九)三月に起こった、渡船中に事故の犠牲者の霊をなぐさめるため、また、再びこのような事故が超きないことを願って、建てられたものです。
布施河岸は、七里ヶ渡と同じ場所にあり、江戸時代の中ごろに全盛期を迎えたようです。東北地方・利根川下流・霞ケ浦沿岸の荷物は、利根川をさかのぼり関宿を迂回して、江戸へ向かうのが通常でした。それが上流に〃できたため、布施河岸で荷を降ろし、陸路江戸川側の流山加村河岸へ荷物を運ぶことが多くなりました。主な荷物は、海産物や米・炭・酒・タバコなどでした。
明治二十三年(一八九〇)に運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は、運河を通って江戸川へ出るようになり、布施河岸の役目は終わりました。
平成四年一月
柏市教育委員会
柏市文化財保護委員会