論語の中に登場してくる子路という、弟子の素晴らしい人生のものがたり

「子路」⇔孔子の高弟のおはなし
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
                 「子路」の頁を作った動機はこちらをクリックしてください。

   
作者紹介
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「李陵・山月記」(弟子・名人伝)の作者は、中島敦といって、1909-1942 享年34歳東京帝国大学国文科卒「横浜高女」で教壇に立った。幼少より漢学の教養と広範な読書からえた゜独自な近代的憂愁を加えて、知識人の宿命、孤独を唱えた作家である。「弟子」は死後発表されたもので、後に、この「弟子」に関して、論評している人は数えるほどしかいない。そのような人が書いた「弟子」は貴重なものであるとともに、近年になって私が安岡師(元長野銀行頭取・安岡正篤長男)から、「子路」を人生後半の仕事と示唆とされたのも何かの因縁かもしれない。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

   
この頁の構成
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
この頁は「弟子」という本をパソコンに入れて、一章節、あるいは区切りの良いところまで、記載し、次にその本文を簡単に独断と偏見で解説します。そして、自分の銀行員としての過去とどのようにリンクしていたかを検討するものです。また、そのときの孔子と子路の問答集もその直下に表示し、将来はさらに、その場所の原文をも乗せてみたいという願望があります。さて、どこまでできますでしょうか?

※ 漢字の読み方等を間違えるといけませんので、一部、[リンク用バナー]を利用させていただきました。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

改定日20.8.14(当初作成日2002/3/25)     初めて登場

「弟子」より、転記①   

 魯《ろ》の卞《べん》の游侠《ゆうきょう》の徒、仲由《ちゅうゆう》、字《あざな》は子路という者が、近頃《ちかごろ》賢者《けんじゃ》の噂《うわさ》も高い学匠《がくしょう》・陬人《すうひと》孔丘《こうきゅう》を辱《はずか》しめてくれようものと思い立った。似而非《えせ》賢者|何程《なにほど》のことやあらんと、蓬頭突鬢《ほうとうとつびん》・垂冠《すいかん》・短後《たんこう》の衣という服装《いでたち》で、左手に雄雞《おんどり》、右手に牡豚《おすぶた》を引提げ、勢《いきおい》猛《もう》に、孔丘が家を指して出掛《でか》ける。雄雞《おんどり》を揺《ゆ》り豚を奮《ふる》い、嗷《かまびす》しい脣吻《しんぷん》の音をもって、儒家《じゅか》の絃歌講誦《げんかこうしょう》の声を擾《みだ》そうというのである。
 けたたましい動物の叫《さけ》びと共に眼《め》を瞋《いか》らして跳《と》び込《こ》んで来た青年と、圜冠句履《えんかんこうり》緩《ゆる》く、玦《けつ》を帯びて几《き》に凭《よ》った温顔の孔子との間に、問答が始まる。
「汝《なんじ》、何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣《ちょうけん》を好む。」と青年は昂然《こうぜん》として言い放つ。
 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気《ちき》満々たる誇負《こふ》を見たからである。血色のいい・眉《まゆ》の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍《せいかん》そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。再び孔子が聞く。
「学はすなわちいかん?」
「学、豈《あに》、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴《どな》るように答える。

 


その1 説 明
魯という国に遊んで暮らしている人がいた。名前は「子路」といって、結構、新進気鋭の人であったが、最近、うわさが高い「孔子」を何ほどと思い、よし、ひとつ、俺が懲らしめてやるワイと思って、実行に移した。そして、鶏と豚を両手に持って、「孔子」の家に行き、大声を出したり、大騒ぎして、乱れさせようと無理やりやった。
そして、「孔子」と「子路」の初めての問答が始まった。「孔子」が「子路」に、あなたは何を望みますかというと「子路」は俺は剣を好むと、でかい顔をしていった。
「孔子」は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、あまりにも幼さを見、血色のいい・眉の太い・眼のはっきりした、見るからに精悍そうな青年の顔には、しかし、どこか愛すべき素直さが自ずと現われているように思われた。「孔子」は「子路」に好意をもったのである。
そして、「孔子」が学問・勉強はどうですか・・・と聞くと「子路」は、勉強は何の役にもたたんと勢いよく言った。もともとこれを言うのが目的だったのだから、「子路」は意気込んで、大声で、怒鳴《どな》るように答えた。

私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。

私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。「子路」はこのとき、何歳だったろうか、きっと独身で、若いころのことであっただろう。私も「子路」と敢えて、重ねようと思うので、若き自分の銀行員時代と比較してみよう。
初めて、お得意先係りを担当し、ワタクシは元気で仕事をしていた。そして、うわさが高い上司の直下で、上司の仕事を良く、見つめ、その先輩の指示することを理解し、指示どおりに行うと、仕事が上手くいくことを感じた。
当時の銀行員などといっても外回り専門の単なる集金屋さんであり、そのころは、新規取引先を自分で開拓するなんてことは、夢の夢のことだと考えていた。しかし、よき上司に恵まれて、5年間という長期間、外回りをやっているうちに、お客様と親しくなり、今考えてみれば、昭和42年頃、既に「地区別のオピニオンリーダー」が自然に出来上がっていた。また、28歳頃になると私も有名な地元企業で取引のない先に対して、いつか、取引してみたいという、願望が強くなっていた。
この頃になると仕事が順調になってきており、子路の剣と同様、意気軒昂であったと思う。因みに、当時の次長が、こういった「君、少しばかり仕事ができたって、たいしたことじゃない。そんなことより、「できることはできるし、できないことはできない。」よと諭された。私は、この人は、自分が仕事ができないので、私の理解できない言葉で私にけちをつけているのだと思っていた。ずっと後で、この次長は、県下の碁界において一・二を争う、大先生であったことを知り、また、私の転入により、自分の菩提寺の下宿先を探してくれた方であると聞いて、つくづく、自分の教養のなさに、恥かしい思いをした経験が有りました。
「子路」も、「孔子」に対して、剣を好むといったのは、若いころから、剣の道に修行していて、剣には、相当な自信があったのだろう。

そのためには、「鶏と豚を両手に持って」という、「子路」のようなことはしなかったが、手を変え、品を代えて、新規先の取引化に切り込んでいけるようになっていた。学問については、下宿先がお寺だったので、「住職さんと{末通る}という言葉の重みに対しての議論を重ね続けたこと」「自分の教養のなさに、恥かしい思いをした経験が有る」などのことから、一念発起して、勉強し、地元に帰してもらえるかもしれないという、不安を持ちつつ、受験して、結果として、短期大学の第二部に籍を置くことができた。このあたりまでは、「自分の教養のなさに、恥かしい思いをした経験が有る」という、受験理由の私と「孔子」に対しての所業は、まったく同じであったのではなかったかと思う。それは、時代と遊侠の人と銀行員の職業の相違があっても、真理はひとつしかないと思うので、この後、「子路」は、わからないままに、「孔子」の弟子になるのである。   
参考として、当時の遊侠の人とは、日本の、清水港の次郎長さんではないが、人のために、義憤を覚えたら、それを一直線に対応するという人を指している。前文中の「近頃《ちかごろ》賢者《けんじゃ》の噂《うわさ》も高い学匠《がくしょう》・陬人《すうひと》孔丘《こうきゅう》を辱《はずか》しめてくれようものと思い立った。」 


************************************************************************************

2002/4/6                2002/3/25のつづき

「弟子」より、転記②
   
学の権威について云々されては微笑ってばかりもいられない。孔子は諄々(じゅんじゅん)として学の必要を説き始める。人君にして諫臣(いさしん)がなければ正を失い、士にして教友がなければ聴を失う。樹も縄を受けてはじめて直くなるのではないか。馬に策が、弓にケイが必要なように、人にも、その放恣な性情を矯める教学が、どうして必要でなかろうぞ。匡(ただし)し理め磨いて、はじめてものは有用の材となるのだ。
後世に残された語録の字面などからはとうてい想像もできぬ・きわめて説得的な弁舌を、孔子は有っていた。言葉の内容ばかりでなく、その穏やかな音声・抑揚の中にも、それを語る時のきわめて確信にみちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。青年の態度からはしだいに反抗の色が消えて、ようやく謹聴のようすに変わってくる。「しかし」と、それでも子路はなお逆襲する気力を失わない。南山の竹は揉めずして自ら直く、斬ってこれを用うれば犀革(さいかわ)の厚きをも通すと聞いている。してみれば、天性優れたる者にとって、なんの学ぶ必要があろうか?
孔子にとって、こんな幼稚な譬喩(たとえたとえ)を打破るほどたやすいことはない。汝がいうその南山のに矢の羽をつけ鏃(やじり)をつけてこれを礪(れ)いたならば、タダに犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮した。顔をアカらめ、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何か考えているようすだったが、急に鶏と豚とをほうり出し、頭をたれて、「謹んで教を受けん。」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容を見、その最初の一言を聞いた時、ただちに鶏豚の場違いであることを感じ、己とあまりにも懸絶(けんぜつ)した相手の大きさに圧倒されていたのである。
即日、子路は師弟の礼を執って孔子の門に入った。


説 明


私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。その2

学問の権威について、色々といわれては孔子もだまっていられなくなって、孔子は順々に色々と話し始めた。例えば、国王ならば、本当に忠告してくれる部下がいなくては、政治の正しさを失ってしまう。親友がいていろいろといってくれなければ、聴くことができない。遊侠のやからという生活を直させるために勉強が必要だぞ。玉は磨かなくては光らないのだというようなことをいった。そうしなければ有能な人材にならないのだ。といった。孔子がこのようなことを言ったことは、のちに孔子がいった事とは比較にならぬほど、説得力があった。爽やかな弁舌と聞いた人が、「はい!わかりました。と言わなければならない」ほど説得力があった。「子路」も段段とトーンがさがっていった。それでも「しかし…・」といって、再度、かかっていったが、結局、最後は、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何か考えているようすだったが、急に鶏と豚とをほうり出し、頭をたれて、「謹んで教を受けん。」と降参した。即日、子路は師弟の礼を執って孔子の門に入った。
私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。その21歳のとき、突然、信州中野へ単身赴任で転勤した。今思い返せば、この転勤で、私の人生が決定したといって過言でない。何も知らない自分が、この地において、皆様の暖かいご支援により、人生の方向づけの第一歩を踏み出すことができたからである。
決して私は、「子路」みたいに孔子に歯向かっていったのではなかったが、中野で、今でいう、切磋琢磨、人間とは何かの基本、数々の指導者がそばにいて、何くれと世話をやいてくれたからである。例えば、下宿先のお寺の住職とその家族、下宿仲間の警察官、何より、指導していただいた同じ地区出身の支店長、そうそう、今でも覚えているが、次長がある時、「君、人間は何でも出来るとは限らないのだよ、出来ることは出来るが、出来ないことは出来ないのだよ」と静かに諭された。ワタシャ、いま、ぶんぶんと仕事をしており、何をこの男言っているのだと見下げていた。この辺が「子路」と似ているところかなと思う。この次長はある時、長野県を代表する「囲碁」の大家で、他の弟子たちには、大先生と呼ばれていたということを知った。いつか機会を捕らえてお詫びしようと思ったころには、その方はなくなっていた。今でも「あなたの言っていることやっと分かりました…」といいたいですね。
その1でも書いておいたように、短期大学二部へ行こうと思ったのは、次のことどもがあったからである。余りにも面白く、嬉しく、仕事をしすぎて、もう、なんでも仕事のことは俺に任せろという気持ちになってしまっていた。その反面、このままではいけない。何か勉強をしなければ、もう一人の自分が囁いていた。そして、もう一度、高校の本を本を取り出して、勉強しなおし、短大を受験したというわけである。「子路」が勉強するというきっかけとちょっと違うかもしれないが、「子路」だって、孔子の高弟になってもいつも孔子に批判的で孔子が困れば嬉しい様子が書かれており、いい意味で、孔子がどうするのかを下からではなく、横から見ていたのではないかと思っている。         

***************************************************************************

 2002年6月28日     2002/6/28のつづき

2002/5/10 「弟子」より、転記③
   
  このような人間を、子路は見たことがない。力、千斤の鼎をあげる勇者を彼は見たことがある。明千里の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし、孔子にあるものは、決して、そんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成にすぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達したみごとさである。
一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及なく均衡のとれた豊かさは、子路にとって正しくはじめて見るところのものであった。闊達自在、いささかの道学者臭もないのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。おかしいことに、子路の誇る武芸や膂力においてさえ孔子のほうが上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度胆を抜かれた。放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われるくらい、あらゆる人間への鋭い、心理的洞察がある。そういう一面から、また一方、きわめて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底からうならずに弟はいられない。とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味からいっても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中にあった。これこれの役に立つから偉いというにすぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するだけで充分なのだ。少なとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔してしまった。門にはいってまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱から離れ得ない自分を感じていた。

説 明


「子路」は、このような人間を見たことがない。力持ちの勇者ではないし、智者でもない。孔子はそんな言葉で現わせられない。異常人格の人ではないのだ。実に変凡な人に見える。この人は、苦労人だなと「子路」は感じたと…。武力なども「子路」の力が霞むほど上の人であつた。
「子路」が今まで見たこともない人だった。そして、あらゆる人間に対する鋭い心理的洞察力がある。「子路」はこれまであった人は「利用価値のあるなし」で、仲良しの度合いが違っていたが、孔子は活きているだけで十分であった。
単純で明快を好む「子路」は孔子から、離れなくなってしまった自分を感じてしまった。私が思う「子路」は、決して、愚弄な人間ではないと思う。激しいがゆえに、その道を知らずというところであろう。しかし、1ヶ月経たずして、これだけ心服できる「子路」も素晴らしいというよう。

私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。その3

勉強をし直そうと思いたって、信州中野から、短大のある中堅都市に転勤した。ここは、地元であり、比較的、楽勝という雰囲気でいた。短大の二部に入学した年に結婚をした。結婚初夜に、本日、結婚式に出てもらった友達の喫茶店へ行って、夕食をしたなどの思い出がある。
ところが、人生とは計算できないもので、楽勝という気を銀行の上司に今となって考えれば、見破られてしまった。その上司にはことごとく、いじめられ、夜など毎日、上司が宴会に出かけ、帰宅するまでの運転手をやらされた。もちろん、学校には、行くことが出来ず、一時的には苦悩した。
ところが私、根が単純で、お人よしのためか、余り、苦痛に感じなかった。
これらのことは、「子路」が一番最初に孔子のところに豚などを持ち込んだ情景に似てきてしまった。
信州中野では、いっぱしの銀行員と鼻が高かったこともあって、「よおし、なんとかしてみよう」と思い立った。
さあ、それから、ありとあらゆる手を使い、これでもか、これでもかと抵抗に抵抗を重ねた。同僚ももう、上司に対抗するのはやめたほうがいいぞ、と何回も注意されたが、向こうが負けるか、こちらが負けるか、やったるわいという心境になってしまった。仕事と勉学の両立、今考えれば、卒業できたのは、意地とスタミナだけで来てしまったと言える。戴いた卒業証書を女房と一緒にその上司の家に行き、いろいろとお世話になりましたといって、証書を見せたときには、相手は驚き、私は相手が阿呆に見えてしまった。この辺のくだりは、現在もミスター「子路」といわれるところかもしれない。
あとで考えてみるとこのとき、この時に徹底的に仕事や人生に突入したことから、実力の下地が出来上がったのではないかと考える。
この上司とは、後々、一生のお付合いになるのであるが、全ては、この時にこの上司にたてをついてしまったことは、自分の人生の反面教師とも言えるかもしれないし、たてつかなかったら、今日はなかったかもしれない。
いずれにしろ、「子路」は1ヶ月で、孔子に心服したが、私は、まだ、全然、心服する人は現れなかった。

************************************************************************************

2002/10/29    2002/6/28のつづき

原本より転記④


彼が孔子に心服するのは一つのこと。彼が孔子の感化をただちに受けつけたかどうかは、また別のことに属する。上智と下愚は移りがたいと言ったとき、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子は、この剽悍な弟子の無類の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の入々の間にあってはあまりにもまれなので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るにすぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけはよく知っていた。
 師の言に従って己を抑え、とにもかくにも形につこうとしたのは、親に対する態度においてであった。孔子の門にはいって以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚中の評判である。褒められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘ばかりついているような気がしてしかたがないからである。わがままをいって親をてこずらせていたころのほうが、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親たちが少々情けなくも思われる。こまかい心理分析家ではないけれども、きわめて正直な人間だったので、こんなことにも気がつ
くのである。ずっと後年になって、ある時突然、親の老いたことに気がつぎ、己の幼かったころの両親の元気な姿を思い出したら、急にナミダが出てきた。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄か孝行はこんなぐあいであった。

説 明

子路が孔子に心から従うのは、1つのことで心服したのではない。孔子が凄いから、感化されたのではない。「子路」が受け入れたのは、別の観点からである。
あるとき孔子が上智と下愚は、感化を受け付けないのではと言ったとき、孔子は「子路」のことを考えに入れていなかった。欠点だらけの「子路」だが、無類の美点を孔子はたかく評価しているのだ。それは、この男の純粋性と利害がないということに対して、一般の人とは全く相違しているからだ。この時代には、このような男は絶対に受けいられない。つまり、「子路」はその世代の営利を目的としている人々とは全く一線を画しており、その点を孔子は、高く評価していた。
だから、己を抑え、ともかくも形だけでも普通の人たちと同じようにしたのは、孔子の教えに感化したのではなく、親に対する親を困らせないためにやむなくやったことであった。だから、あの乱暴者の「子路」が孔子の教えを受け入れて、親孝行をするようになったという評判になってしまった。誉められた「子路」は変な気がした。自分の偽りの行動に騙されている世の中の人々を・・・・・・・
親孝行の原点はこんな形から始まった。

**********************************************************************************

私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。その5

前にも書いたが、私は、銀行に入って、なにをすればよいか全然わからなかった。だた、私の場合は、孔子がいた訳ではない、銀行の仕事は、不特定多数のお客様から、そのニーズを聞くことにより、自然に仕事を会得してきた。また、他方では、お寺に下宿したので、その奥様が、うるさくて、今考えるとその人は茶道、書道の先生であり、素晴らしい教養人であった人のの感化があったに違いない。例えば、20歳のころだつたが、ご飯の食べ方、箸の持ち方など、極め付きは、廊下を歩く歩き方まで、指導して頂いた。丁度、「子路」が孔子の顔を立てる意味で、形だけを整えたように、私も仕方が無いので、そのような指導を受けていた。でも、今でもよく思い出せないけれども、このことだけを抽出すると私の場合には、お袋はどうゆう育て方をしていたのかなどと考えることがある。
でも、「子路」のように体が大きくなく、いつもチビで前から、2番目だった。だから、今で言う、どちらかといえば「いじめ」の対象であり、乱暴ものではなかった。しかし、育てられた中で今でも感じていることがある。それは、精神的には、相当の乱暴者に育てられたといえるかもしれない。
それは、相当なパワーの前向きの姿勢であり、進取の精神を培(つちかう)ってくれたのだと思っている。もともとから、強靭な体を戴いたことである。今も48歳くらいの友達との交遊が頻繁にあるがその方たちが、「俺達負ける」といってくれている。
その点で、「子路」も精神的に肉体的にも大破天候の人間であり、まず、形から入ったのであるが、私の場合もあらゆることにチャレンジして行くということを省みて、まあまあ、大破天候の人間であったかなあと思います。
私の場合には、銀行に入社してから、育つたといって差し支えないことと思います。育ったというか、親から、「相当なパワーと前向きの姿勢、進取の精神」をもらっていたので、その気持ちを発揮できる環境を戴いたのだなどと考えております。

*
************************************************************************************

2003/1/9    2002/10/29のつづき

      原本より転記 ⑤         

 ある日子路が街を歩いて行くと、かつての友人の二、三に出会った。無頼とはいえぬまでも放縦にしてこだわるところのないユウ侠の徒である。子路は立ち止ってしばらく話した。そのうちに彼らの一人が子路の服装をじろじろ見まわし、やあ、これが儒服というやつか ? ずいぶんみすぼらしいなりだな、と言った。長剣が恋しくはないかい、とも言った。
子路が相手にしないでいると、今度は聞き捨てのならぬことを言い出した。どうだい、あの孔丘という先生はなかなかのくわせものだっていうじやないか。しかつめらしい顔をして心にもないことをまことしやかに説いていると、えらく甘い汁が吸えるものと見えるなあ。別に悪意があるわけではなく、心安立てからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉をかみ、右手の拳をしたたか横面に飛ばした。二つ三つ続けざまにクラわしてから、手を離すと、相手は意気地なく倒れた。呆気に捕らえている連中に向かっても、子路は挑戦的な目を向けたが、子路の剛勇を知る彼らは向かって来ようともしない。殴られた男を左右からタスけ起こし、捨て台詞一つ残さずにこそこそと立ち去った。
いつかこのことが孔子の耳にはいったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行ったとき、直接には触れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。古い君子は忠をもって質となし仁をもって衛とした。
不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力の必要を見ぬ所以である。とかく小人は不遜をもって勇とみなしがちだが、君子の勇とは義を立つることの謂である云々。
神妙に子路は聞いていた。


説 明

ある日「子路」が町を歩いているとかつての友人の二・三人に会った。類の無いくらいの遊び人達で、デタラメの人達である。「子路」は立ち止まつてしばらく話をした。そのうちに彼らの一人が、「子路」の服装をじろじろ見て、やあ、これが儒教を学んでいる人が着ている服というやつか、随分、みすぼらしいなりだな。とケチをつけた。
長剣、つまり、今までのように刀を振り回すようなことをしたくないかという意味で,刀が恋しくないかな。ともいった。それでも「子路」が相手にしていないと今度は聞き捨てならない事を言い出した。どうだい、あの「孔子」という先生はくわわせ者だというじゃないか。しかめっ面をして,心にもないことをまことしやかに説いているとえらく,甘い汁が吸えるものと見えるなぁ。と昔の仲間が言った。昔の仲間は、別に悪意があったわけではなかったが,いつものような毒舌・軽る口で言ったのに,「子路」は顔色を変えて,拳骨で,その男のよこずらを二・三回殴った。そうしたら、「子路」の腕力は絶大のため,あいて意気地なく倒れてしまった。何でそんなことをするのかわからない仲間はアッケニとられていたが,殴られた男を抱えながら,台詞一つ残さず,こそこそと立ち去った。いつかこのことが、「孔子」の耳に入ったものと見える。「子路」が呼ばれて,「孔子」の前にいくとなぐった件のことは触れずに次のことを聞かされてしまった。古いトップは忠義を以って、よしとして、仁を以って守ることとした。正しくないときには,忠義であったかどうかでこれを質(ただ)し,侵略や横暴があつたときには、仁、筋がとおっているかどうかで,判断した。このようにすれば、腕力は必要ないのではないかと説いた。通常は,わからない人たちは,謙虚でないことをしがちで,それを偉い行為のように考えがちだが,トップの決断とは,正義・義・・・・筋を立てることが大切なのだなどとこんこんといわれてしまい、「子路」は神妙に聞いていた。

私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。その6

子供の頃から、親しくしてきた人は、いつも無遠慮なこという傾向がある。特にわたくしめはその傾向が強い。
妻に言わせると自分勝手流であり、とても知識人とは思えないと言われたことがある。この場合の「子路」も今までは、無頼の人・・・今で言えば、「遊んでいる人」とも言うべき人間だ・・・・・・だつたのが、孔子の弟子になったので、それなりのこころくばりと孔子を知る努力をしてきたと思われる。つまり、一つのことに身をおいたわけである。いまでも宗教などの勧誘が激しいが、丁度、「子路」のようにタイミングが良ければ、1つの宗教に見を置くのもありうることで、これらのことは、他人に発表せずに行われることが多い。「子路」も昔の無頼の時代の遊侠の人に孔子の門下として、冷やかされたわけだが、直情気味の「子路」のことだから、すぐ、頭に来て、殴ってしまったわけである。これらのことは、自分が、1つのところに見を置いたから、いろいろと精神変化が起こっており、よい意味の差別化が図られていたので、頭に来て、殴ってしまつた。
いつもいつも他人とは違う自分を見出したとき、私自身は少しさびしいが、自分の考えが全てではないので、静かに引き下がることにしている。

***************************************************************************     
 
*************************************************************************************
2003/8/9    2003/1/9のつづき

    
原本より転記 ⑥        

数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭で閑人たちの盛んに弁じている声が耳にはいった。
それがどうやら孔子の噂のようである。――昔、昔、となんでも古を担ぎ出して今を貶す。誰も昔を見たことがないのたからなんとでも言えるわけさ。しかし昔の道を杓子定規にそのまま履んで、それでうまく世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。俺たちにとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎様のほうが偉いということになるのさ。下克上の世であった。政治の実権が魯侯からその大夫たる季孫氏の手に移り、それが今やさらに季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かもしれない。
-ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎えを出されたのに、なんと、孔丘のほうからそれを避けているというじゃないか。口では大層なことを言っても、実際の生きた政治にはまるで自信がないのだろうよ。あの手合いはね。
子路は背後から人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒であることをすぐに認めた。今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味もなく子路の前に頭を下げてから人垣の背後に身を隠した。眦を決した子路の形相があまりにすさまじかったのであろう。


説 明

数日後、子路が。また、街を歩いていると、なにやら、道のわきの木陰で、暇な人たちが、盛んにしゃ
べっている声が耳に入った。それが、どうやら、孔子の噂のようである。
今の孔子は、昔、むかしと何でも古来のこと、いにしえのことを例にとって、現在と比較して、やってはいけないことを追求するようになっている。
その噂をしている人たちは、「誰も昔を見たことはないんだよ、だから、何とでもいえるんだよ、」「昔の道徳
・道」を定規のように当てはめて見て、それで旨く世が治まるくらいなら、誰も苦労しないよ、俺たちにとつては、
死んでいる周公よりも今生きている陽虎さまのほうが、偉いということになるのさとしゃべっていた。
今は下克上の世の中であった。政治の実権が、魯公という、一番上の人から、幹部である季孫氏に渡り、それが、現在、さらにその下の陽虎という国を獲ろうという野心家の手に移ろうとしている状態である。
しゃべっているその人間は、あまりにも陽虎の型を持っているので、あるいは陽虎の身内かもしれない。
-ところで、このような今、鳥を落とすというくらいの実力者の陽虎様が、この間から、孔子を抜擢しようとして、
何度も迎えを出されたのに、なんと孔子のほうから、それを避けているというのではないか、口では、えらそうな
ことを言っても、実際の生きた政治には、まるで、自信がないようだろう。
あのような人は、子路は後ろのほうから、回りに集まっていたひとびとの押しのけながら、つかつかと大声で、しゃべっている人のまえに進んでいった。聞いていた人々は、進み出た人が、孔子の門人であることを認めた。
いままで、調子よく、かっこよく、しゃべっていた当の老人は、すぐ、顔色を失い、あわてて、意味もなく、子路の
前に頭を下げてから、人垣の後ろのほうへとこそこそと歩いて逃げた。
それは、まなじりを決した-目をらんらんとして、怒っている顔かたちが、あまりにもすさまじかったからであろう。

私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。その7

永い銀行員生活の中で、私の場合には、どのような対応をしてきたか、思い出してみよう。私の場合には、人の悪口については、比較的、鈍感であり、むしろ、その悪口をその集団の中でにいて、よく聴き、機会があったときに、本人に直接、そのあたりのことを聞くという方法が多かった。
子路みたいには、すぐ行動を起こさない場合が多かった。子路は、孔子の門人になってから、まだ、日が浅かったし、また、子路の性格からして、人間性としては、直情型であったため、すぐ、行動に起こしてしまうという、良い点といえば、よい、点であるが、逆にすぐ、頭に来るようなところは、欠点といえる。子路の行動は、これかも随所にこのような場面が登場してくるのだ。
わたしは、どちらかといえば、今、ここで、起きていることに対して、どうすればいいかという、対応に追われていて、自分が人の噂に参加できなかったということが多かった。でも、何かのとき、おい、いつまでそんなことを言っているんだ。という、チェック機能は強く持っていた。
むしろ、子路はそのくらい、孔子に信奉していたという証と考えれば、子路の行動は、かわいいと思える。
    ***********************************************************************************     
2004/8/14    2003/8/9のつづき

原本より転記 ⑦

その後しばらく、同じようなことが処々で起こった。肩を怒らせ炯々と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を刺る口をつぐむようになった。 子路はこのことでたびたび師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに、心の中では言い分がないでもない。いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒を感じてなおかつそれを抑えうるのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少なくとも、抑えうる程度に弱くしか感じていないのだ。きっと・・・・・。 一年ほどたってから孔子が苦笑とともに嘆じた。由が門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。

説 明

その後、しばらく、同じようなことが、いろいろなところで、怒っていた。子路は孔子の悪口をいう人が許せなくて、許せなくて、仕方がないのだ。遊侠の輩のときと同様に肩を怒らせた子路を見ると人々は、おっかないので、黙るようになってしまった。孔子はそのような子路について、もう少し、レベルを上げなさいとしかられるが、子路はそんなことをいわれてもどうしようもない程の興奮状態であった。それは、孔子が、自分と同じ強さの怒りを感じていて、しかもそれを乗り越えているのだなら、許せるが、自分があんなに悪く言われているのに孔子自身が、そんなに感じていないのだから、子路はあきれかえって孔子の分も含めて怒っているのだ。
一年ほどたってから、孔子が苦笑しながら、あぁーあ、子路が自分の門人になってから、子路が孔子の悪口を言わせないようにしたので、孔子の悪口を聞かなくなった。本当にこれでいいのだろうか。と、孔子は、子路にこのようなことを投げかけているのである。つまり、本当に実力がある人は、悪口を言われようが、何をされようが、大きな意味で、生き抜くことが出来るのだか・・・・・ということを子路にいいたかったに違いない。

私はこれに対して、自分の経験を思い出してみよう。その8

自分が、かつて、勤務していた頃、子路のように誰かを守るために、激怒していることがあっただろうか、記憶には、あまりない。ただ部下のことになると結構、かばっていて、口角泡を飛ばすシーンが、たくさんあったと思う。
どちらかといえば、子路のように、人が、集まったところで、上司の悪口を言っていても案外、私の場合には、そのグループにいても反応せず、入らなかったということが多々ある。だが、しかし、自分が、ひとたび、何かをやり遂げようとしているときには、つばきもとぶし、大きな声も出る。しかし、目的遂行のためには、達成するための戦略を立てたり、いろいろな戦術を使ってきた。その中の出来事であると考えている。子路と私の共通点は、ともに、まず、「行動」であり、「義憤」であり、それが「正義」であると錯覚しているところであろうか。
本来、正しいことをしていれば、必ずや、その人は、立派な人生を成し遂げられるかというとそうでもないらしい。
生きるための必要悪、通うらなければならない、踏み絵など人生はさまざまである。そんなときに思い出すのは、「孫子の兵法」ではないだろうか、何といってもこのような戦略書が、現代の今でも充分、活用されているのだから、にちにち、自分が快く感じる理想のために戦略を、戦術を、行動を考えていかねばならない。
その面では、分からないままではあるが、子路は孔子を侮辱するのをやめさせるという、理想を立てたのだから、まぁ、よしとするのか・・・・・・・・・